イ・ヨンフン教授特別講義 7(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/03 21:00 投稿番号: [234 / 1474]
建国の文明史的意味
<解放前後史の再認識 特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳3)
植民地期においても農村社会では、特に両班勢力が強い班村では、奴婢の身分が存続しました。私が読んだ1920年代のある両班家の日記は、正月一日、家の奴婢たちが尋ねて来て奥に座った主人に向けて三拝を奉る光景を描いています。その日、主人は日記に、「例え世の中が変わっても、主・奴間の上下義理は変わらない」と感想を書きました。そのように、年が変われば主人を捜して庭先で犬のように伏せて三拝を捧げなければならなかった奴婢という身分が、農地改革で消えることになったのです。
農地の分配を受けた彼らは、多くの場合、土地を売って、自分の元の身分が分からない他の地方に引っ越しました。そこで独立営農者として熱心に働いて、息子を小学校の教師までさせた事例が報告されています。そのように、まさに四民平等の時代が到来しました。貧農の子でも頭さえ良ければ大学に通って、判事、検事にもなれる、そんな時代が開かれたのですね。さっき朗読した制憲憲法の宣布のとおり、どんな形態の差別も特殊階級の存在も認めない建国の理念が、農地改革を通じて実現したのです。
以後、制憲憲法は何回かの改訂を経ます。そういう憲政史の試練について、私たちはよく分かっています。大統領の選出を巡って、直選とするか間選とするかが主要な争点でした。しかし、憲法の基礎理念が否定されたことはないです。裁判を通さずに人身を拘禁する事は有り得ず、いくつかの特殊な政治的事件を除けば実際にありませんでした。
憲政史の試練があったとしても、このような建国の基本理念にまで試練があったと言うなら、それは間違いです。まだ、そういうデマのような建国史批判がたまに聞こえたりしますが、慎む必要があります。大韓民国は、建国の基礎理念において近代国家でした。そのような近代文明国家としての出発を知らせるのが、1948年8月15日その日にあった大韓民国の建国なのです。
そういう視点から、私は、最近一部から提起されている「光復節」を「建国記念日」に変えなければならないという主張に共感します。先に申し上げたように1945年8月15日に我が民族は日帝から解放されたのですが、我が民族の国際法上の地位にはなんらの変化がなかったのです。その日を記念して「光復」というのは語弊がある言葉です。
また「光復」と言う言葉は、1905年に大韓帝国が滅びる以前に何かの光明があったということですが、実際のところ、常民や奴婢の身分の人々に何の光明があったでしょうか? だから、真正な光は、これら下層身分が最終的に解放された1948年8月15日、大韓民国の建国と共にやって来たと言えます。
だから本当に記念しなければならない国民的慶祝は、当然、大韓民国の建国であるべきなのです。私たちも、アメリカ人たちがするように、その日になれば通りに出てダンスをして歌を歌って楽しく騒ぐ「建国記念日」を作ろうではありませんか。
(続く)
<解放前後史の再認識 特別講義>(7)自由民主主義、近代文明国家としての出発
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-26
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1730
(翻訳3)
植民地期においても農村社会では、特に両班勢力が強い班村では、奴婢の身分が存続しました。私が読んだ1920年代のある両班家の日記は、正月一日、家の奴婢たちが尋ねて来て奥に座った主人に向けて三拝を奉る光景を描いています。その日、主人は日記に、「例え世の中が変わっても、主・奴間の上下義理は変わらない」と感想を書きました。そのように、年が変われば主人を捜して庭先で犬のように伏せて三拝を捧げなければならなかった奴婢という身分が、農地改革で消えることになったのです。
農地の分配を受けた彼らは、多くの場合、土地を売って、自分の元の身分が分からない他の地方に引っ越しました。そこで独立営農者として熱心に働いて、息子を小学校の教師までさせた事例が報告されています。そのように、まさに四民平等の時代が到来しました。貧農の子でも頭さえ良ければ大学に通って、判事、検事にもなれる、そんな時代が開かれたのですね。さっき朗読した制憲憲法の宣布のとおり、どんな形態の差別も特殊階級の存在も認めない建国の理念が、農地改革を通じて実現したのです。
以後、制憲憲法は何回かの改訂を経ます。そういう憲政史の試練について、私たちはよく分かっています。大統領の選出を巡って、直選とするか間選とするかが主要な争点でした。しかし、憲法の基礎理念が否定されたことはないです。裁判を通さずに人身を拘禁する事は有り得ず、いくつかの特殊な政治的事件を除けば実際にありませんでした。
憲政史の試練があったとしても、このような建国の基本理念にまで試練があったと言うなら、それは間違いです。まだ、そういうデマのような建国史批判がたまに聞こえたりしますが、慎む必要があります。大韓民国は、建国の基礎理念において近代国家でした。そのような近代文明国家としての出発を知らせるのが、1948年8月15日その日にあった大韓民国の建国なのです。
そういう視点から、私は、最近一部から提起されている「光復節」を「建国記念日」に変えなければならないという主張に共感します。先に申し上げたように1945年8月15日に我が民族は日帝から解放されたのですが、我が民族の国際法上の地位にはなんらの変化がなかったのです。その日を記念して「光復」というのは語弊がある言葉です。
また「光復」と言う言葉は、1905年に大韓帝国が滅びる以前に何かの光明があったということですが、実際のところ、常民や奴婢の身分の人々に何の光明があったでしょうか? だから、真正な光は、これら下層身分が最終的に解放された1948年8月15日、大韓民国の建国と共にやって来たと言えます。
だから本当に記念しなければならない国民的慶祝は、当然、大韓民国の建国であるべきなのです。私たちも、アメリカ人たちがするように、その日になれば通りに出てダンスをして歌を歌って楽しく騒ぐ「建国記念日」を作ろうではありませんか。
(続く)
これは メッセージ 233 (chaamiey さん)への返信です.
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