イ・ヨンフン教授特別講義 6(3)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/01 21:56 投稿番号: [230 / 1474]
南北分断の原因と責任
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その3)
しかし、そのことだけだと考えては困ります。解放の政局を規定した外的な国際条件も、きちんと見る必要があります。占領軍として韓半島の南と北に進駐したアメリカとソ連が協力する余地は、初めから少なかったのです。初めの1年間は、二つの強大国の間に妥協の余地があるように見えましたが、1946年9月からは、すべてのことがあまりにも明確でした。いわゆる冷戦が開始されたのです。米ソ間の冷戦こそ、韓半島を真ん中で分断することになった一番重要な力でした。その二つの強大国を制御することができなかったという点で、分断は、当時の韓半島の住民集団にはもしかしたら運命とも言える、選ぶことができない選択でした。
そんな中、南韓と北朝鮮では、占領軍によって選択されて支援される政治勢力がありました。南韓では、日帝下で近代文明を学習した下級官僚とテクノクラート型知識人、中小商工業者たちがその中心勢力を成しました。一方北朝鮮では、社会主義革命を志向する社会主義者たちが中心勢力を成しました。ともかく、支配的政治勢力が占領軍によって選択されて支援されたという点で、南北韓の事情は同じだったのです。
しばしば、分断の責任を、1946年6月3日、後日初代大統領になった李承晩が全北井邑で行った発言にあると言いますが、これは誤った話です。秘密扱いが解除されたモスクワの文書によると、スターリンはすでに1945年9月20日、北朝鮮にソ連の利害関係に相応しい独自の政府を立てる意志を、北朝鮮に進駐したソ連軍司令官に明確に伝達しました。この点を 『解放前後史の再認識』2巻に掲載されたイ・ジョンシクの 「冷戦の展開過程と韓半島分断の固着化」で学ぶことができます。
イ・ジョンシク教授の主張は、次のように要約されます。
第1、1945年9月初めまではスターリンの韓半島政策は流動的であり、アメリカとソ連は韓半島問題について妥協する余地がありました。
第2、このような妥協の可能性は、9月12日から10月2日までロンドンで開かれた戦勝国(アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連)外相会談でアメリカ・イギリスとソ連の間に戦後処理を巡って衝突が表面化し、消滅してしまいました。
第3、9月20日、スターリンの秘密指令によって、ソ連軍政は北朝鮮に独自の行政機構を構築する作業に取り掛かりました。
第4、その後のスターリンの韓半島政策は、日本と中国の状況によって変化することになったが、彼が朝鮮戦争を挑発するようになったのは、中国の共産化が大きく作用したというのです。
広く知られたとおり、北朝鮮ではすでに1946年から、ソ連軍とその協力者たちが北朝鮮を完璧に掌握した上で土地改革を実施するなど, 事実上独自の政府に準ずる統治行為を展開しました。それに比べれば、南韓の米軍政は、その協力者を選択するのをむしろ躊躇したのです。米軍政に参加したアメリカの進歩的な自由主義者たちは、非常にロマンチックにもすべての可能性を開いておきました。よく知られるとおり、彼らは左右合作に対する未練を捨てることができなかったのです。
(続く)
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その3)
しかし、そのことだけだと考えては困ります。解放の政局を規定した外的な国際条件も、きちんと見る必要があります。占領軍として韓半島の南と北に進駐したアメリカとソ連が協力する余地は、初めから少なかったのです。初めの1年間は、二つの強大国の間に妥協の余地があるように見えましたが、1946年9月からは、すべてのことがあまりにも明確でした。いわゆる冷戦が開始されたのです。米ソ間の冷戦こそ、韓半島を真ん中で分断することになった一番重要な力でした。その二つの強大国を制御することができなかったという点で、分断は、当時の韓半島の住民集団にはもしかしたら運命とも言える、選ぶことができない選択でした。
そんな中、南韓と北朝鮮では、占領軍によって選択されて支援される政治勢力がありました。南韓では、日帝下で近代文明を学習した下級官僚とテクノクラート型知識人、中小商工業者たちがその中心勢力を成しました。一方北朝鮮では、社会主義革命を志向する社会主義者たちが中心勢力を成しました。ともかく、支配的政治勢力が占領軍によって選択されて支援されたという点で、南北韓の事情は同じだったのです。
しばしば、分断の責任を、1946年6月3日、後日初代大統領になった李承晩が全北井邑で行った発言にあると言いますが、これは誤った話です。秘密扱いが解除されたモスクワの文書によると、スターリンはすでに1945年9月20日、北朝鮮にソ連の利害関係に相応しい独自の政府を立てる意志を、北朝鮮に進駐したソ連軍司令官に明確に伝達しました。この点を 『解放前後史の再認識』2巻に掲載されたイ・ジョンシクの 「冷戦の展開過程と韓半島分断の固着化」で学ぶことができます。
イ・ジョンシク教授の主張は、次のように要約されます。
第1、1945年9月初めまではスターリンの韓半島政策は流動的であり、アメリカとソ連は韓半島問題について妥協する余地がありました。
第2、このような妥協の可能性は、9月12日から10月2日までロンドンで開かれた戦勝国(アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連)外相会談でアメリカ・イギリスとソ連の間に戦後処理を巡って衝突が表面化し、消滅してしまいました。
第3、9月20日、スターリンの秘密指令によって、ソ連軍政は北朝鮮に独自の行政機構を構築する作業に取り掛かりました。
第4、その後のスターリンの韓半島政策は、日本と中国の状況によって変化することになったが、彼が朝鮮戦争を挑発するようになったのは、中国の共産化が大きく作用したというのです。
広く知られたとおり、北朝鮮ではすでに1946年から、ソ連軍とその協力者たちが北朝鮮を完璧に掌握した上で土地改革を実施するなど, 事実上独自の政府に準ずる統治行為を展開しました。それに比べれば、南韓の米軍政は、その協力者を選択するのをむしろ躊躇したのです。米軍政に参加したアメリカの進歩的な自由主義者たちは、非常にロマンチックにもすべての可能性を開いておきました。よく知られるとおり、彼らは左右合作に対する未練を捨てることができなかったのです。
(続く)
これは メッセージ 228 (chaamiey さん)への返信です.
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