イ・ヨンフン教授 特別講義 4(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/25 21:17 投稿番号: [218 / 1474]
日帝がこの地に残した遺産
<解放前後史の再認識>特別講義4
近代的意味の法と制度、そして市場経済体制
[ イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-22
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1702
(翻訳4)
ところで、先に指摘したように、解放後の北朝鮮では近代文明が破棄されました。それで、北朝鮮で暮すことができなくなった多くの数の近代的人的資本が、なじんだ故郷を離れて南韓に下りました。そのようにして越南した同胞は、6.25戦争が終わるまで、少なくとも200万人を超えます。これも南韓が享受するようになった植民地期の遺産でした。
大韓民国の国民経済の建設過程で、北から下った企業家たちが大きな役目を果たしたことについてはよく知られています。例えば、解放の後南韓で成立したメリヤス・靴下・ゴムのはき物・硝子工場は、たいてい北朝鮮で活動した企業家たちが南に下って立てたものなのです。
私は、このように植民地期に近代的な部分で活動した人々を、親日派と規定することに対して反対です。結論から言うなら、まったく逆です。他でもない、韓国の近代民族主義は、まさにこれらの階層を母胎にして成長したのです。植民地期を生きた人を対象として、彼らが日帝に抵抗したのかそれとも協力をしたのか、その境界線を引くのは、ほとんどの場合まことに困難なことです。国内外の独立運動に直接献身したごく少数の人々を除いた大部分の人々は、消極的な協力と消極的な抵抗の間を行ったり来たりしながら暮しました。先に言及した全体住民の一割にあたる、近代部門に携わった人々もそうでした。概して、彼らは、下級官僚、警察、軍人、教師、技術者、銀行員、会社員、商工業者、地主たちでした。
ところで、皮肉なことに、支配者日本人から差別を受けるのは、まさに彼らでした。日本人たちと日常的に顔を突き合わせながら暮さなければならなかったからですね。一方、農村の面単位で、日本人は多くて10人、普通は5人前後でした。下級官吏と警察と教師は朝鮮人の場合が多かったのです。それで、農村住民が日本人と接する機会はほとんどなかったのです。したがって、差別を受ける機会もあまりなかったのですね。農村住民の大多数は、村と親族のような伝統的生活空間で、日本人からの差別を知らずに過ごした場合が多かったのです。
それに比べれば、都市部で日本人と日常的に接触したり、熾烈に競争しながら生活した近代的階層の朝鮮人は、日本人からの差別によって、農村住民よりも民族意識をより早く目覚めさせて実践する場合が多かったです。もちろん真正な意味の親日派も多かったのですが、同時に、差別と抑圧に反発しながら内面で民族意識を強化して行った人の数も、決して少なくなかったのです。
彼らは、政治的状況が変われば、彼らが身につけた近代文明のノウハウを持って国民国家の建設に献身することができる能力と姿勢を持った人々でした。そういう視角から、私は、植民地期に成長した朝鮮人出身の近代的階層を無条件に親日派だと騒ぎ立てることに賛成できません。植民地当時の実態をよく分かっていないだけでなく、解放の後に彼らが遂行した大きな役割を無視することになるからです。
この「親日」と「反日」の複雑微妙な問題については、後日もう一度話す機会を用意します。(特別講義5に続く)
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の <解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(もう一度聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終)
<解放前後史の再認識>特別講義4
近代的意味の法と制度、そして市場経済体制
[ イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-22
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1702
(翻訳4)
ところで、先に指摘したように、解放後の北朝鮮では近代文明が破棄されました。それで、北朝鮮で暮すことができなくなった多くの数の近代的人的資本が、なじんだ故郷を離れて南韓に下りました。そのようにして越南した同胞は、6.25戦争が終わるまで、少なくとも200万人を超えます。これも南韓が享受するようになった植民地期の遺産でした。
大韓民国の国民経済の建設過程で、北から下った企業家たちが大きな役目を果たしたことについてはよく知られています。例えば、解放の後南韓で成立したメリヤス・靴下・ゴムのはき物・硝子工場は、たいてい北朝鮮で活動した企業家たちが南に下って立てたものなのです。
私は、このように植民地期に近代的な部分で活動した人々を、親日派と規定することに対して反対です。結論から言うなら、まったく逆です。他でもない、韓国の近代民族主義は、まさにこれらの階層を母胎にして成長したのです。植民地期を生きた人を対象として、彼らが日帝に抵抗したのかそれとも協力をしたのか、その境界線を引くのは、ほとんどの場合まことに困難なことです。国内外の独立運動に直接献身したごく少数の人々を除いた大部分の人々は、消極的な協力と消極的な抵抗の間を行ったり来たりしながら暮しました。先に言及した全体住民の一割にあたる、近代部門に携わった人々もそうでした。概して、彼らは、下級官僚、警察、軍人、教師、技術者、銀行員、会社員、商工業者、地主たちでした。
ところで、皮肉なことに、支配者日本人から差別を受けるのは、まさに彼らでした。日本人たちと日常的に顔を突き合わせながら暮さなければならなかったからですね。一方、農村の面単位で、日本人は多くて10人、普通は5人前後でした。下級官吏と警察と教師は朝鮮人の場合が多かったのです。それで、農村住民が日本人と接する機会はほとんどなかったのです。したがって、差別を受ける機会もあまりなかったのですね。農村住民の大多数は、村と親族のような伝統的生活空間で、日本人からの差別を知らずに過ごした場合が多かったのです。
それに比べれば、都市部で日本人と日常的に接触したり、熾烈に競争しながら生活した近代的階層の朝鮮人は、日本人からの差別によって、農村住民よりも民族意識をより早く目覚めさせて実践する場合が多かったです。もちろん真正な意味の親日派も多かったのですが、同時に、差別と抑圧に反発しながら内面で民族意識を強化して行った人の数も、決して少なくなかったのです。
彼らは、政治的状況が変われば、彼らが身につけた近代文明のノウハウを持って国民国家の建設に献身することができる能力と姿勢を持った人々でした。そういう視角から、私は、植民地期に成長した朝鮮人出身の近代的階層を無条件に親日派だと騒ぎ立てることに賛成できません。植民地当時の実態をよく分かっていないだけでなく、解放の後に彼らが遂行した大きな役割を無視することになるからです。
この「親日」と「反日」の複雑微妙な問題については、後日もう一度話す機会を用意します。(特別講義5に続く)
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の <解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(もう一度聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終)
これは メッセージ 216 (chaamiey さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/218.html