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イ・ヨンフン教授 特別講義 4(3)

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/06/25 06:50 投稿番号: [216 / 1474]
日帝がこの地に残した遺産

<解放前後史の再認識>特別講義4

近代的意味の法と制度、そして市場経済体制

[ イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-22

http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1702  

             (翻訳3)


  大韓民国が日帝から受け継いだ精神的遺産が、もう一つあります。いや、この場合は、受け継いだというより、我が民族の高い文化的能力が、自らの意志で努力して蓄積したものだと言えます。他でもありません、日帝時代にかけて広く普及した大衆教育です。大衆の教育熱が爆発するきっかけは、3.1独立運動でした。民族の長い将来のために実力を養成しなければならないという、民族的自覚が芽生えたのですね。

  1920年代の大衆教育は、就学年代児童の就学率を20.3%の水準へ引き上げます。教育熱は1920年代後半に少し下がったものの、1930年代になるとまた爆発するようになります。当時の記録を見れば、入学希望者が入学定員をかなり超過して、小学校に入学するにも年を越しながら順番を待つほどでした。1930年代になると、児童の就学率が、男の場合60%を越えるようになります。このような教育熱に押され、日帝もやむを得ず、1946年頃から義務教育制を施行するという計画を樹立するほどでした。

  中学校以上の高等教育も大きく拡がりました。日本への留学生数も大きく増加しました。1940年代になると、日本への留学生が3〜4万人に達しました。その大部分は、中学校生徒たちでした。朝鮮では中学校が極端に不足していたし、また民族差別のため入学するのが気難しかったからです。それで、少しでも経済的能力があれば、かえって日本に渡って中学校に入学するのが便利でした。

  教育を受けるようになった朝鮮人たちは、総督府付属の各官署、学校に、官吏や教師として就職しました。その数が、1940年頃には約17万人に達しました。この外にも、各種会社や銀行、金融・水利組合などの機構に携わりながら近代的な経済活動の訓練を受けた知識階級の人々がいました。その詳細な実態と、彼らが解放後にどのよう役割を担ったかについては、 『解放前後史の再認識』第1冊に掲載されたナミキ・マサヒトの「植民地期朝鮮人の政治参加」が非常に有益なので、ぜひ参照してください。

  何より重要な人的資本は、1920年代以後、店鋪や工場、会社を経営する商人と企業家の集団でした。1920年代以後、行商の担ぎ商人と背負い商人に代わり、固定的な店鋪を所有するようになった朝鮮人商人の数は、20万人を超えるようになります。1939年には、5人以上の従業員のいる工場を経営する朝鮮人は4千人に達しました。 彼らは、以後の大韓民国の国民経済を建設するに当たり、かけがえのない大事な人的資本の役を果たしました。『解放前後史の再認識』第1冊に載せられたカーター・エッカートの論文「植民地ではない朝鮮の総力戦・工業化・社会変化」は、このように近代を学習して主体的に実践するようになった人的資本が、植民地末期には全体人口の約一割位になったと推定しています。


               (続く)
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