入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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蘇州河敵前渡河
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/23 18:30 投稿番号: [74 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』の380p
《二十六日、軍は大場鎮を攻略し、滬寧鉄道を遮断し、二十七日、蘇州河の線に到達した。
・・・
一方、海軍陸戦隊は27日に閘北 (ざほく) 一帯を占領し、掃蕩を完了した。》
陸戦隊を攻撃していた八十七師や八十八師は蘇州河の南側に移動しました。
(同上383p)には
《「中国軍の記録
―
淞滬付近の戦闘(二)
『抗戦簡史』」
次いで(10月)三〇日新芤鎮以南で抵抗を継続した。この際、わが方の撤退掩護の任務をもって
閘北四行倉庫を死守する八百の勇士はついに孤立となったが、命により撤退し
かつ英国の好意により租界内に退入した。》
とあります。
蘇州河の南に逃げたからと言って戦争をやめたわけではありません。
日本軍の占領地の周りは全部中国軍が包囲しています。
彼等は外国人の協力を得て、戦争を続けています。
西岡香織著『報道戦線から見た「日中戦争」』91pには
《蘇州河以南、両租界住民の九十%以上は支那人であって、
中には抗日に燃える分子も多かったので、租界当局が口にいう中立の守れる筈がなく、
支那軍人は便衣に変じ租界内に於て作戦に関係ある仕事に従事し、
観測所や信号所を設けていたことも認められる。
租界の住民は陣地を築いたり、軍隊のために糧抹や弾薬を補給運搬し、
又各病院には支那軍の戦傷者が充満したのであるが、甚だしいのは、
工部局の衛生自動車が弾薬や戦傷患者を運搬したと言うことである」
(馬淵『報道戦線』)》
とあります。
そこで蘇州河の南へ行くため敵前渡河が行われました。
しかし、簡単には行きません。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』380〜381p
《蘇州河南岸には平時から構築された特火点陣地があり、事変勃発後は野戦築城により補強されていた。
上海派遣軍司令官は、軍主力が蘇州河の線に進出すると、上海南市を完全に封鎖するため、引き続き蘇州河南岸の敵を攻撃するに決した。・・・
第三・第九師団を十一月二日までに渡河させ、第百一師団を上海北西側に集結し
第三師団に続いて渡河できるよう準備させ、第十一師団は南翔方面の敵に対し軍主力の右側を掩護するよう部署した。
・・・
第三師団は十月三十一日、渡河を開始した。左翼方面では一部が渡河しただけで頓挫したが、
右翼方面では十一月五日ころ、渡河に成功し、逐次南岸に地歩を獲得した。
また第九師団は、十一月一日右翼隊方面の渡河に成功し、
左翼隊は二日、右翼隊の渡河点から渡河してその左翼に進出したが、
師団正面の優勢な敵は、師団の渡河点に対し正面から逆襲を繰り返し、さらに蘇州河北岸
南翔方面から逐次兵力を南岸に移して師団の右側を圧迫したので、師団は一時苦境に陥った。
よって軍司令官は、第十一師団に江橋鎮(南翔南東約四粁)付近を攻撃させた。
第九師団は、敵の攻撃を排除し逐次南方に地歩を占めたが、軍司令官は、同師団の攻撃を
更に進展させるため、七日、第百一師団の一部(歩兵一聯隊、野砲兵一大隊基幹)を配属し、
また第百一師団主力をして第九師団の左翼後で渡河を準備させた。
第百一師団の一部は、八日、第九師団の右翼に加入し、主力は架橋を実施したが、九日、軍命令により渡河を取りやめた。》
これは メッセージ 71 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京事件そのものの前に
投稿者: Valve1000 投稿日時: 2009/06/23 13:06 投稿番号: [73 / 2250]
>朝鮮の理屈はムチャクチャなのです。
よその国に行って文書を受け取れと言って、断りの理由がむちゃくちゃだから武力に訴える方向に動いたと言うことですね。それは日本の見方ですよね。
どうも問いかけに対し、妄想だの一言で片付けて、中抜けの答えが多く、会話になっていませんね。
朝鮮問題絡めた一連の動きで木戸は下野してますよね。明治政府の中でも合意の取れた動きじゃ無かったってことです。
吉田松陰の考えた対外政策が拙いやり方で強行になされたイメージがあります。
今後話を続けるのであれば、日本がそうならざるを得なかった言い訳じみた経緯だけ書かずに、他国がどうみていたかも交えて書いて欲しいものです。また、うその情報を流したから卑怯だとかいう論はなしでお願いします。戦略ののひとつと割り切るべきです。
これは メッセージ 72 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京事件そのものの前に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/22 19:52 投稿番号: [72 / 2250]
>戦争を避けるために大局的なものの見方も大事なはずですが
そうです。だから言っているのです。
>列強が日本の味方をしなくなっていくのも、やっちゃいけないことをやり始めたからですよね。
それが、妄想です。虚構の歴史観に洗脳されているから、事実が見えないのです。
私は、そうなっていく状況を書いてますけど。
>>日本は、江華島事件以後、朝鮮を開化させようとしていました。
>日本はなぜそういうちょっかい(いちゃもん)<朝鮮から見ればね>を始めたのですか。それは日本にとって、よそに出かけて、そうせざるを得ない唯一のものだったのですか?
貴方は、歴史を知らないから、そういう風に曲解するのです。
日本は明治維新の時、対馬藩に政権交代を朝鮮に伝えるよう命じました。
そこで、対馬藩が朝鮮の釜山に国書を以ていきますと、釜山の役人が、こんな文書は受け取れんといったのです。
理由は、
1、文書の文字に「皇」とか「勅」の字がある。
2、文書の書式が前と違う
3、朝鮮政府の与えた判子を使ってない
などです。
「皇」とか「勅」は政権交代のいきさつを説明する中で出てきます。
もともとは天皇が統治していたが、途中から武家に政権を委ねた、
ところが時代が経ちどうにもならなくなったので、天皇が登極され、・・・、
対馬藩の宗氏も勅命により働き、功を上げ官職が変わったので、
判子の文字は実態に合わなく、造り変えた。
と説明しているのです。
「皇」とか「勅」は政権交代のいきさつを説明しているわけですから、外せません。
判子の文字も実態を表してないから使えません。
文書の書式は徳川から朝廷に変ったのだから、徳川のままというわけに行きません。
朝鮮の理屈はムチャクチャなのです。
日本は何とか、文書を受け取ってもらおうとするのですが、頑として受け付けません。
これを渡せなければ、政権交代の通告もできません。
8年後、日本の軍艦雲揚が清国の牛荘への水路調査をやっているとき、水が不足して、
江華島に近づいたら砲撃され、事件になりました。
その解決のなかで、朝鮮には、もう少し、道理を分かってもらわねば困る、
そして、国際情勢というのも、もう少し、解ってもらわねば困るということで、開化させようとしたのです。
>貴殿もこういう、しまいには消えていくところで油を売ってないで、ちゃんとしたWebで記録・説明いただいたらいいと思うのですが、いかがですか?
ありがとう。ホームページ作るには、ちょっと年をとりすぎてるんだよね。
それに、これは、最初からここまで書くつもりはなかったんだけど、行きがかり上なったんだな。
南京の問題を討論するにも、あまりにも、的外れの理解が多すぎるので、已む無く書いてるわけ。
それにホームページを創っても、読むのは、同好の志だけだろう。
君のような人は「軍の言いなりになっていきそうだから」と最初から見ないだろう。
だから、わざと敵の土俵で書くの。
これは メッセージ 70 (Valve1000 さん)への返信です.
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蒋介石 日本の和平案を蹴る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/22 18:53 投稿番号: [71 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』456〜457p
《十月二十一日、広田外相はディルクセン大使に、ドイツが九カ国会議への参加を拒否するとともに日支和平のあっせんに乗り出すことを希望する旨伝えた。
同日、ディルクセン大使から報告を受けたドイツ外務省は、翌二十二日、在支トラウトマン大使あて 「 ドイツは日支直接交渉のためコミュニケーションのチャンネルになる用意のある」 旨を打電した。
トラウトマン大使は、前述の馬奈木中佐との会談により日本参謀本部の意向も承知したので、
十月三十日、中国の陳介外交部次長と会談し、本国政府の意向を伝達すると同時に
日本との協定を求めるべき時がきた旨を、非常な熱意をもって語った。
陳次長も乗り気になり日本側の条件を知りたいと述べた。》
児島襄著『日中戦争4』156p
《十月二十八日、日本政府は、外務次官掘内謙介を通じて、
駐日ドイツ大使H・ディルクセンに日中和平の仲介を打診してきた。
ドイツ外務省は、駐中国大使トラウトマンに中国外務部長陳介に日本側の打診を
つたえさせるとともに、次官H・マケンゼンはドイツ側としては日中両国の「伝書使」の役目
以上のことをやるつもりはない、と大使に通告した。
しかし、日本側は、十一月二日、あらためて外相広田弘毅が大使ディルクセンをまねき、
日中和平についての日本側条件を提示した。》
鈴木明著『旧「南京大虐殺」のまぼろし』159p
《十一月二日、日本は七つの条件で停戦を申し入れた。その条件とは
①内蒙古に自治政府を樹立する。②満州国国境に非武装地帯を設定する。
③上海の非武装地帯を拡大する。④抗日政策を止める。⑤共同して防共に当る。
⑥関税率の引下げ。⑦中国における外国権益を尊重する、の七項目であったと伝えられる。》
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 457p
《
十一月三日、ディルクセン大使は、ドイツ外務省に右会談のもようを報告し
「日本のこれらの条件は極めて穏健なものであるから、中国がこれを受諾するよう圧力をかけるのが賢明と思われる」 と述べた。
ドイツ外務省も、日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、
同日、トラウトマン大使あて、これを中国側に伝えるよう訓令した。
十一月六日、トラウトマン大使は、孔祥煕実業部長だけが列席している場で、
蒋介石に日本側の意向を伝えた。蒋介石は現在これに応じられないと回答した》
児島襄著 日中戦争4』 156〜157p
《大使ディルクセンは、日本側条件は 「穏健」 なものであり、中国側も 「面子」 をつぶさずに受諾できると思う、と、外相ノイラートに報告・・・
外相ノイラートは、大使ディルクセンの意見に同意し、翌日、駐中国大使トラウトマンに蒋介石との接触を指示し、この日、五日の会見になったのである。
蒋介石自身は、この日の会談については、簡単に次のように記録している。
「徳国駐華大使陶徳曼(トラウトマン)、試図斡旋中日戦争、伝達敵方所主張之媾和条件、厳詞拒絶之」》
鈴木明著 『新「南京大虐殺」のまぼろし』 222p
《
蒋介石は直ちに、この提案に対して 「拒絶」 の意志を伝えた。
これは第二次 「国共合作」 をやったばかり、という中国側の空気もあったと思うが、
何よりも大きな 「拒否原因」 は、十一月三日から行われていた
「ブリュッセル九カ国会議」 の行方を見守っていたからである。》
白崇禧も 『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』 (上海時代・下278p) と言ったくらい温和な条件なのに、蒋介石は蹴ったのです。
これは メッセージ 68 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京事件そのものの前に
投稿者: Valve1000 投稿日時: 2009/06/22 11:20 投稿番号: [70 / 2250]
>その原因を的確に把握せず、でたらめな宣伝を信じているかぎり、正しい対応はできません。
>そんな妄言どこから出るのです。当時の情勢を的確に見るべきです。
軍国主義の立場からですか?
ものは見方によって代わります。
戦争を避けるために大局的なものの見方も大事なはずですが、
列強が日本の味方をしなくなっていくのも、やっちゃいけないことをやり始めたからですよね。
>日本は、江華島事件以後、朝鮮を開化させようとしていました。
日本はなぜそういうちょっかい(いちゃもん)<朝鮮から見ればね>を始めたのですか。それは日本にとって、よそに出かけて、そうせざるを得ない唯一のものだったのですか?
もうそろそろ手を引きます。
軍の言いなりになっていきそうだから。
貴殿もこういう、しまいには消えていくところで油を売ってないで、ちゃんとしたWebで記録・説明いただいたらいいと思うのですが、いかがですか?
これは メッセージ 69 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京事件そのものの前に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/21 18:43 投稿番号: [69 / 2250]
「すなわち戦勝国と敗戦国があるだけです」以下についてはまーいいでしょう。
字数がないので、その前についてだけ申し上げます。
現在ある情勢は、その前に原因があります。
その原因を的確に把握せず、でたらめな宣伝を信じているかぎり、正しい対応はできません。
嘘を信じていては、どんなに努力しても間違った対応になります。
必要なことは、正しい歴史を知ることです。
>よその国の軍隊を受け入れざるを得ない不平等条約なんてどういう条約でしょう。
>戦争で負けたからでしょう。
一般には、そういう単純な言い方がされますが、世の中、そういう単純なものではないでしょう。
中国に軍隊を駐留させたのは、単に、「戦争で勝ったから」ではありません。
単に、戦争に負けた・勝ったで、外国に軍隊を駐留はさせたりしません。
大変な維持費がかかります。
そうではないのです。
問題は、清国政府は外国人の生命・安全を保護せず、逆に外国人の虐殺に加担したからです。
文明国では、その国が居留外国人の安全を保障します。
しかし、清国・中国においては、国家が外国人を襲うのです。
清国・中国は、はっきり言って文明国とは言えない地域だったのです。
義和団事件の結果、自国民の安全は、自国の軍隊で護るしかないとなって、
北清事変の議定書で、各国の軍隊が駐留するようになったのです。
ちなみに義和団事件で杉山書記官は清国兵に殺され四肢は切断され、心臓は食べられました。
日本人はまだ戦闘行動をとっていないときにです。
清国・中国が我々の常識の通用する国だったら、軍隊駐留など必要なかったのです。
ここのところをキチンとふまえなければならないのです。
中国の軍隊は、このあとも外国領事館を襲撃し居留民を襲います。
第一次南京事件や済南事件など。
>日本はどういうつもりで、日清戦争とか日露戦争とか起こしたのですか。
>徳川が豊臣のやることにいちゃもんをつけて抹殺したのと同じではないですか。
誤った歴史認識を植え付けられているから、そういう妄言になるのです。
よく考えて見て下さい。
日清戦争の前の清国はアジアの超大国ですよ。
開戦前に、日本が勝つと思った列強は一つもありません。
日本は、江華島事件以後、朝鮮を開化させようとしていました。
通信使を日本の費用で呼び、蒸気船に乗せ、鉄道にのせ、電信通信をみせました。
これによって開化党が生まれますが、反動勢力が清国を利用して妨害します。
その軋轢から東学党の乱をきっかけに日清戦争となるのです。
また、ロシアは世界の超大国です。
これも、朝鮮問題や満州問題が絡まって起こったものです。
清国もロシアも超大国、これに戦争を挑むというのは、北朝鮮が米国に戦争を挑むようなもの、
「徳川が豊臣にいちゃもん」
そんな妄言どこから出るのです。当時の情勢を的確に見るべきです。
これは メッセージ 67 (Valve1000 さん)への返信です.
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英国人の中国軍援助
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/21 17:32 投稿番号: [68 / 2250]
富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』には、松井大将の証言として、
次のようなことが書いてあります。
203p
当時、上海付近の欧米諸国はほとんど大部分が支那側に同情していたが、・・・
一、二の実例を上げれば、イギリスは上海付近の支那軍に対して、糧食、武器の援助をしていた。
263p
本作戦に対する列国軍民の態度には遺憾なもの少なくなく、
彼らは厳正な中立国として一九三二年列国の停戦協定を守らず、
中国政府及びその軍隊に同情するのあまり、直接間接に日本軍の作戦を妨害し、
中国軍の作戦に便宜を与え、時にはこれを援助する行動も少なくなかった。
例えば、その国旗を中国軍の悪用に任せ、あるいは中国軍に武器を与え、食糧を供する等、
中立国として偏頗な行為にでたのである。
また、鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』194〜195pによりますと
《『八一三淞滬 (しょうこ) 抗戦』・・・劉勁持は、こう書いている。
・・・
何日か経って、私はとんでもない話をきいた。王敬久は八十七師の司令部と、
共同租界を電話線で結び、本人は(イギリス)租界地から電話で指揮を出していた、というのだ。
一方、八十八師は蘇州河に沿った河岸に建っている堅牢な建物である〝四行倉庫〟に
本部を移してしまった。この一帯なら対岸がイギリス租界だから、
日本軍も誤爆を恐れて空中から爆撃を行うようなことはなかった。》
そして、戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』の383pは
「中国軍の記録
―
淞滬付近の戦闘(二)
『抗戦簡史』」の記述として
次いで(10月)三〇日新芤鎮以南で抵抗を継続した。
この際、わが方の撤退掩護の任務をもって閘北四行倉庫を死守する八百の勇士は
ついに孤立となったが、命により撤退しかつ英国の好意により租界内に退入した。
と書いています。
これ以外にも、英軍は日本軍の海上作戦に対するスパイ行動らしきものまでしています。
杭州湾上陸作戦のため、日本艦隊が陸軍輸送を秘密裏にやっていたところ、
たまたま、英国駆逐艦に出くわしました。
戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉』439pには
(11月4日)
17:29、二三〇度方向一五粁付近に英国駆逐艦を認めた。同艦は船団前方を横切り、
18:10「川内」の左舷正横二、五〇〇米を反航航過し、船団に接近した。
「由良」及び第十六号掃海艇は英艦と同航監視した。
H作戦部隊指揮官は我が企図を暴露することを防ぐため、18:56、同作戦部隊あて、
「由良付近ニ英国駆逐艦アリ
極力送信電波ヲ捜索補捉セバ直グ知ラセ」と命令した。
英国駆逐艦は第二船団左舷側を反航航過後第一船団に差しかかったので、
「木曾」及び直衛の駆逐艦は煙幕を展張し、船団を遮蔽した。
やがて煙幕の陰に英国駆逐艦を見失った。
とあります。
英国駆逐艦は日本船団の前を横切り、反転航行して接近したというのです。
行先を探り、通報しようという魂胆だったのかも知れません。
こうなると、中立の枠を超えて、完全に中国軍に味方しています。
これは メッセージ 65 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京事件そのものの前に
投稿者: Valve1000 投稿日時: 2009/06/20 21:31 投稿番号: [67 / 2250]
>条約によってです。
よその国の軍隊を受け入れざるを得ない不平等条約なんてどういう条約でしょう。
戦争で負けたからでしょう。
日本はどういうつもりで、日清戦争とか日露戦争とか起こしたのですか。
徳川が豊臣のやることにいちゃもんをつけて抹殺したのと同じではないですか。
日本人あるいはこの国を守るという名目の元に「よそ」に出かけているわけです。
すなわち戦勝国と敗戦国があるだけです。敗戦国があれは正当性があったなんてくどくど言い立てても誰も相手にしません。今どうすべきかにつなげられなければ、不毛かと思います。
この世界で生き抜くためには、自力をつけるか、連合するかだと思います。
日本が米軍の駐留を今でも許しているのは、追い出したら、政治の下手な中国・ロシアの脅威が迫るからなのでは無いでしょうか。
これは メッセージ 66 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 南京事件そのものの前に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/20 19:46 投稿番号: [66 / 2250]
>なんでよその国に軍隊が入れるのでしょうね。
条約によってです。
盧溝橋事件の前、日本軍が北支に駐留していたのは、義和団事件の結果です。
義和団が外国人を皆殺しにしようとして乱を起こしたとき、
清朝政府はこれを取り締まらず、逆に乱に加担して、諸外国に宣戦しました。
北京の公使館を包囲して攻撃したのです。
そこで、各国は連合軍を結成して、北京に進撃し公使館員を救出しました。
その結果として北清議定書で、居留民の保護のため、各国が、軍隊を駐留することが認められたのです。
駐留していたのは、日本だけでなく英・米・仏・蘭・伊などもいます。
盧溝橋事件の時にもいました。
反日サヨクは、この事実を見ずに、「何で、日本軍が、よその国にいるの?」
「侵略でしょう?」とトンチンカンな事を言いますが、日本には米軍が既に64年駐留しています。
彼らに、自衛隊が武力攻撃したら、米国は黙っているでしょうか?
当然、怒って、軍隊を派遣してくるでしょうね。
日本軍の行動は、そういうものなのです。
なお、上海にいたのは海軍でこれは租界の管理組合からの要請で、警備員として、駐留していただけです。
そして、満州の関東軍は日露戦争の結果、満州の利権を得たことで、鉄道警備として、
駐留が認められたのです。
全部、条約に基づいて、駐留しています。戦後の在日米軍と同じ立場です。
ここの所をきちんと踏まえておかないと、後の考えが間違って誘導されます。
>よその国に軍隊が入り込んで何かやると非難されるのは当たり前でしょう。
ほらほら、前提がまちがっているから、そういう理屈になるでしょう。
条約で駐留し、条約に基づいて演習しているところを中国側が銃撃し、盧溝橋事件になったのです。
日本側が努力して停戦協定を結ばせたのに、何度も協定を無視して攻撃して来、
上海を包囲して攻撃してきたので、止むを得ず、陸軍を派遣したのです。
非難されるべきは、中国であって、日本ではありません。
これは メッセージ 64 (Valve1000 さん)への返信です.
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中国に迎合する外国報道陣
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/20 18:46 投稿番号: [65 / 2250]
西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 92〜94pより
《・・・上海では抗日テロが横行したが、最初から激しかったのは新聞関係者に対するものであった。
「抗日新聞を背後から操縦するものは、重慶政府の言論統制機関であるが、これが租界に存在し、
黄白によって買収する外、脅迫威圧により論説記事の指導統制を行い、
少しでも日本に有利な事や蒋政権に不利な事を書けば、忽ち暴力を加えて弾圧し、
これを裏切るものは漢奸として血祭に上げる。
抗日言論によって政治テロを使嗾し遊撃隊を煽動するので、租界は勿論、
租界外の我が占領地区内の治安を撹乱し、日本と手を握りたい各方面の中国人も、
ジャーナリズムの暴露と其の後の崇りが恐ろしいので、皆尻込みするという有様であった。
かくして新しい中国を建設するため日本と提携した親日要人で暗殺せられたものは、……
既に数百人に及び、漢奸の汚名で恐怖政策の血祭に上げられたものは、
数千、数万の多きに達しているのである」(馬淵『報道戦線』)
・・・
蒋政権は独裁を強化すると共に、対内外情勢の複雑化に鑑み言論統制に頗る過酷を極めた。
欧米列強は、もとより事実に於て蒋介石政府及び支那民衆に媚びていたのであるが、
事変勃発と共に、蒋介石は莫大な宣伝費を投じて第三国有力紙を買収し、
反日記事に依って世界の同情支援を求むることに全力を尽した」
このような上海では、慮溝橋事件以来、世界の世論が日本の不利に傾くのも当然であった。
そして上海事変となれば、上海の言論機関がますます日本の「侵略」を誇大宣伝したので、
日本軍が武力で勝てば勝つほど、世界の世論は支那に同情的になって行った。
「一歩郊外に出づれば戦場である上海に於てさえ、外字紙、華字紙は大袈裟に支那軍の大捷を報じ、
日本軍の敗北を伝え、上海の外人も華人も皆これを本当にしていたのだから始末が悪かった。
外人記者に対し上海市長・愈鴻鈞が頻りに黄白と巧みな愛嬌を振りまけば、
淞滬(呉淞・上海)警備司令・張治中がトリック一杯で戦況を説明するのが、
皆真実として世界に放送され、定期会見には押すな押すなの大盛況であった。
これに反して、日本側は声をからして外人記者を呼び集めても、仲々集まらない。
宇都宮(直賢)少佐が事変前から駐在武官であった関係上、わざわざメトロポールヘ
出かけて行ってプレス・コンプレンスを開いたが、個人的には好くても、……
日本の正義とか戦勝という段になると、ことさら眼と耳を塞いでしまい、
その結果は徒らに支那側の宣伝を跋扈跳梁せしめるという有様であった。
支那側に至っては……針程の事を棒大にし、嘘から誠を出し、
煽動的に人心を動かす技術にはほとほと感心して了(しま)った。
このように、中国大陸における権益の競争者である日本に対し、英米仏等は完全に支那側に立ち、
蒋介石政権もそれを徹底的に利用して国際世論を引きつけたのである。》
これは メッセージ 63 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京事件そのものの前に
投稿者: Valve1000 投稿日時: 2009/06/20 12:46 投稿番号: [64 / 2250]
なんでよその国に軍隊が入れるのでしょうね。
交易目的の場所があり、日本に住居を許可された場所があり、そこを警備する警察があるのは良しとしましょう。
よその国に軍隊が入り込んで何かやると非難されるのは当たり前でしょう。南京事件だって、当時の戦争国際ルールから外れている事が起きた、と言われれば、そうなのでしょう。
で、このことを見直して何か役に立つことがあるかというとそうではないでしょう。
虐殺は悪いことではあるが、今も世界のどこかでおきている。
付き合い方のすべては、紳士的に見える駆け引きですよね。
北朝鮮の問題だって、中国、ロシアがなんのかんの現政権をサポートするようなことをしなければ、今頃南北統一されて、平民が苦しまずに済んでいるはず。共産主義を選ぼうが、資本主義を選ぼうが、朝鮮半島の皆さんに任せればいいとは思いませんか。
中国が南京事件から何かを学んだかと言うと決してそうではなさそうです。
「戦争やっているところには物資補給をしてはならず」ぐらいの取り決めをして欲しいものです。兵器取引の一番多い国はどこですか、アメリカですか、中国ですか?
国際ルール作りの先鋒にもなってないじゃないですか。
日本だってそうですよね。
なんのかんのきれいごとを並べても、日本人をへこましたいだけの不毛な議論と思います。
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ルール無用の中国式戦法
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/19 18:35 投稿番号: [63 / 2250]
日本軍は大場鎮を攻略し南下して蘇州河の近くにいきますと、困った事に直面しました。
中国軍は、外国の旗を悪用し、外国の権益を盾とする戦法をとっていたのです。
西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 90pには
《 支那軍は外国権益を楯にした卑劣な戦闘を平気で行い
・・・
外国権益の錯綜する此の地で、我が軍隊が、外国権益を保護して戦うということは、
誠に至難中の至難である。
敵はドンドン大砲や機関銃を撃って来るのに、我が軍は租界の中に砲弾を落さぬため、
ミスミス大砲の有効射撃を止め、肉弾を以て敵陣地に突込むという、無理な戦闘をしたのであった 》
とあり91pには
《上海事変を通じ、ビル等の建築物に拠る支那軍が、欧米各国の国旗を翻して
日本軍の砲撃をさけ、日本軍が近づくと国旗を倒して射撃を開始する 》
とあります。外国の旗を悪用していたのです。
同様のことは、松井大将の東京裁判の証言にも出て来ます。
富士信夫著 『「南京大虐殺」 はこうして作られた』 158pに
《 外国権益の保護で中国の戦場で事実上困惑したことは、中国軍および中国の常民が
米、英、独等の外国旗を濫用し、日本軍の作戦を妨害する事実の少なくなかったことである。
例えば、揚州には外国権益は存在しないことは前もって調査の上明らかであったにも拘らず、
英、米、仏の国旗を揚げているものがあったので不審に思い調査したところ、
中国人が外国旗を濫用していたことが明らかになった。》
また198pには次のような記述もあります。
《 一部の将兵はいわゆる便衣兵となり、軍服を脱ぎ、平衣を着て残留し、我が将兵を狙撃し
、我が軍の背後を脅かすことも少なくなく、付近人民もあるいは電線を切断し、
あるいは烽火を上げる等直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我が軍に幾多の危難を与えた。
また、同地付近に駐屯した米・英・仏諸国の軍隊もまた支那軍に同情して幾多の支援を与え、
我が軍の行動に故意に妨害を与えた事実がすくなくなかった。》
これ以外にも
鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』194〜195pには
《『八一三淞滬 (しょうこ) 抗戦』・・・劉勁持は、こう書いている。
・・・
何日か経って、私はとんでもない話をきいた。王敬久は八十七師の司令部と、
共同租界を電話線で結び、本人は(イギリス)租界地から電話で指揮を出していた、というのだ。
一方、八十八師は蘇州河に沿った河岸に建っている堅牢な建物である〝四行倉庫〟に本部を移してしまった。
この一帯なら対岸がイギリス租界だから、日本軍も誤爆を恐れて空中から爆撃を行うようなことはなかった。》
というのもあります。
こういう、中国人のルール無用のやり方が、外国人や、無関係の中国人市民に被害を及ぼし、
日本軍の民間人に対する厳しい対応につながって来るわけです。
こういうやり方をされると、民間人、女、子供、老人といえども信用できなくなります。
秦郁彦著『南京事件』72p
《 歩41連隊第三大隊の戦闘詳報
「11月22日
15:00、計家湾ニ到着、
コノ時敗残兵約二百白旗ヲ樹テ数家屋ニ終結シアルヲ以テ捕虜トスベク努メタルモ、
至近距離ニ達スルヤ、ピストル、手榴弾ヲ以テ抵抗セルニヨリ全部之ヲ刺殺又ハ射殺ス・・・」》
これは メッセージ 62 (kireigotowadame さん)への返信です.
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大場鎮攻略と陸戦隊の閘北制圧
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/18 19:11 投稿番号: [62 / 2250]
井本熊男著 『支那事変作戦日誌』 156〜157pより
《 10月23日、漸く大場鎮攻撃が始まり、右より第9、第3と併列した両師団は、
各々約2キロの戦闘正面を以て重点を第3師団に保持して猛攻した。
この戦闘では、第3師団の正面に約120門の我砲兵火が指向せられた。
上海派遣軍には重砲兵が少なかったので、三ケ師団増派の際、
砲兵力の不足を補うため15サンチ榴弾砲一旅団と一聯隊、15サンチ加農砲二大隊、
10サンチ加農砲四乃至五大隊、24サンチ榴弾砲一大隊等が派遣せられ、
その他北支から15サンチ加農砲二大隊を10月中旬、上海に転用の処置をした。
右の砲兵諸部隊の増加は、大部分到着し大場鎮の戦闘に間に合った。
遺憾ながら弾薬が十分になかった。
そのため砲数に比例した砲兵火力の発揮ができなかったのである。
一般に上海戦の困難は、弾薬の不足がその重大原因の一つであった。
第9、第3両師団は力攻に力攻を重ね、10月25日遂に大場鎮の陣地を突破して、その南方に戦果を拡張した。》
注:加農砲はキャノン砲
閘北 (ザホク) 制圧
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 400〜402 pより
《 8日、上海派遣軍は大場鎮攻略を下命した。
同日付、上海特別陸戦隊は陸上戦闘に関し上海派遣軍司令官の指揮を受けることとなった。
このころ上海方面は連日降雨、敵はこれを利用し10日、11日各千名近くの兵力を
閘北方面に増勢した模様であった。我が方は連日砲戦を継続した。
13日我が砲隊は一航戦 (第一航空戦隊の略) と協力し、閘北鉄道管理局、敵砲隊陣地を砲撃した。
北部支隊方面は12〜13日の夜
敵の活発な逆襲を撃退した。
14日も一航戦と協力し閘北南西部を砲撃した。 数カ所に火災が発生した。 ところが、
18:30ごろ三義里方面の敵が我が第二大隊正面に主攻撃を向け虹口方面租界に侵入すべく猛撃を開始した。
19:00ごろ敵の銃隊二コ中隊が三義里方面から第二大隊川公路陣地方面へ来襲、
続いて第十大隊ハスケル路陣地へ約二コ中隊が突撃、20:00ごろ敵の攻撃最も猛烈を極めた。
各隊は本隊から増援を得て奮戦二時間半、敵に多大の損害を与え撃退した。
15日、日没後北部支隊及び閘北部隊正面に敵の逆襲があったが直ちに撃退した。
翌16日我が方は、閘北広東中学及び江湾南方の商学院にいた敵部隊をまず一航戦の爆撃により逃走させ機銃掃射で損害を与えた。
・・・
20日北四川路方面に、21日全線にわたり敵は攻撃の気配を見せたが、いずれも撃退した。
・・・
23日敵は後退を開始した模様であった。24日上海派遣軍司令官の命令に基づき攻撃開始、
北四川路方面の我が部隊は逐次進出し、北部八字橋方面は夜に至るまで攻撃を続行した。
25日も派遣軍の攻撃前進に策応し攻撃続行に努めたが閘北方面の敵は動揺の色を見せず、
北部戦線では同夜商科大学を占領した。
26日22:30ごろ敵は北四川路方面に対し大規模な逆襲を決行してきたが、我が方は交戦一時間この敵を撃退した。
この日陸軍部隊は夕刻、既に大場鎮を占領しており、敵は蘇州河に向け退却中であった。
そこで陸戦部隊も26日夜、絶えず敵と接触を保持し特に左翼の蘇州河方面では激戦を継続のまま、
27日04:30月明を利用し、予定計画に基づき右翼に重点をおいて総攻撃を開始した。
05:05全軍進撃開始、各隊は宝興路の敵第一線突破に全力を挙げた。 右翼隊が最初に
第一線突破に成功し07:00閘北西端に進出し、更に南方に転じて敵の退路を遮断するよう行動した。
同時刻左翼隊は北停車場鉄路管理局を占領、次いで中央隊及び左翼隊は敵を逐次西方及び南方、
次いで東方ポケット地帯内に追いつめ掃蕩した。
そして18:00ごろ西行上海貯蓄総公貨桟(四行倉庫)に追いつめた残敵約一〇〇名の外、夜間各部の残敵を掃蕩した。
なお別に西方に向かい追撃した一隊は真茹駅を占領した。
この戦闘で我が陸戦部隊は閘北全部、大隆鉄廠、中央造兵廠、真茹駅を占領、・・・。
四行倉庫の残敵に対してはその後包囲態勢を取り降伏勧告をしたが応じなかったので、
31日01:45砲撃制圧する一方、03:00突撃隊が突入し完全に残敵を掃蕩した 》
これは メッセージ 61 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南市にジャキノ難民区設立
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/17 19:27 投稿番号: [61 / 2250]
松本重治著『上海時代・下』230〜235pより
大場鎮が陥落する前
『マンチェスター・ガーディアン』 の特派員ティンパーレーが、
「同盟」 支社の松本重治氏を訪ね、南市の一部を難民区にする相談を持ちかけました。
これはジャキノ神父の構想で、「信頼するに足る日本人」 を知らないからと、ティンパーレー
に相談をもちかけ、ティンパーレーが友人の松本支局長に話を持ってきたのです。
なお、このティンパーレーとは、後に、南京大虐殺の元になる本を書く人です。
そこで、松本氏は日高参事官に話をしました。
《すると、日高さんは、「では、ご両人に来てもらい、直接話をうかがいましょう。
よい考えだから、私もできるだけ尽力しましょう」 といってくれた。
すぐ翌日の約束の時間を打ち合せ、支社にとって返して、私は、ティンパーレー君に
その旨電話をかけた。ちょうどジャキノ神父も同席で、両人はとても喜んでくれた。
翌日、日高さんは、ジャキノ神父とティンパーレー君から詳細の計画を聞き、すぐ協力を約したが、
彼は、南市の問題を担当していた陸軍特務部の楠本大佐と連絡して、協力を得たうえ、
松井軍司令官と長谷川司令長官とに、直接、会見して、両首脳者の賛成を得た。
その間の日高さんの活動は、いとも鮮やかであったが、それについては、
日高さんによる 「極東国際軍事裁判所宣誓供述書」 の数行を左に引用したい。
「・・・・私は岡本上海総領事及び岡崎総領事と協議し、この案の実現の為、お世話を致しました。
松井陸軍最高司令官も長谷川海軍最高司令も最初から極めて好意的な態度を示され、
これを認めることになり、中国側もこれを認めました。
そのさい松井軍司令官は金壱万円を委員会に寄付し・・・
長谷川司令長官も同額を贈られました。
また広田外務大臣は十二月八日付でジャキノ神父宛書翰を送り、その人道的事業に対する
日本国民の讃美と敬意とを伝え、その成功を祈る旨を表明されました。
この計画を日本国が認めたのは、
(1)この地区は純粋の支那町であり、またジャキノ神父はじめ委員全部の
公正無私な気持や態度が明瞭であったこと。
(2)委員会は、戦闘のある場合、中国非戦闘員を収容保護し、戦闘終了後は、暫くの間、
引き続彼等を救護するが、地区内の行政や取締りは日本軍の全権力の下にある
ことを認め、委員会はこれに関与せぬことを最初から明かにしたこと。
(3)この地区に隣接した仏租界当局の好意的協力があったため、委員会は、戦闘中
同地区の 『中立性』 を維持する実力を持つと認められたこと。
(4)同地区の位置に鑑み、戦闘が近くで行われた場合、その 『安全』 を尊重することが
出来ると認められたこと等の理由に基づくものでありました。
上海戦の最後の段階には、この地区の境まで戦脚が及びましたが、日本軍の砲弾は
一発も地域内に落下せず、逃げ込んだ中国兵は委員の手によって、
みな武装解除され、日本軍は地区内に入らず、極めて平穏に経過しました。
かくて、同地区は、数千戸の中国家屋と、約二十五万人の中国民衆の生命とを救い得たのであります。》
ということです。
このようにして難民区は、松井司令官、長谷川長官賛助のもとにつくられました。
しかし、
この善意の松井司令官が、後に大虐殺の責任者として処刑される原因の本を書いたのも、
このティンパーレーです。
これは メッセージ 60 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第十軍の編成
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/17 03:34 投稿番号: [60 / 2250]
下村第一部長主導のもと、杭州湾上陸作戦の準備が進められました。
上陸作戦を敢行する軍は、上海派遣軍とは別組織で第十軍として編成されました。
従って、松井大将の指揮権の及ばない軍隊です。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』386pには
《新たに上海方面に派遣する兵団はこれを上海派遣軍に増派するのではなく別個の軍として使用する考えで検討・・・
下村部長の上海方面作戦のねらいは・・・前面にいる75コ師にのぼる敵軍主力と決戦を交え、
これを撃破するという積極的な考えであり、・・・敵主力をたたいて戦争の終結を図ることを意図していた。》
とあります。ここでも、やはり、戦争の終結が目的だったのです。
そして、軍の編成ですが、
児島襄著『日中戦争4』文庫本147〜148pには
《十月二十日、柳川平助中将を司令官にする第十軍の戦闘序列が下令された。
内地から第十八師団(牛島貞雄中将)と第百十四師団(末松茂治中将)、
北支那方面軍の第一軍から第六師団(谷寿夫中将)および第五師団第九旅団(国崎登少将)主力の国崎支隊、第二軍から第十六師団(中島今朝吾中将)をあわせての編成である。》
とあります。
そして、第十軍に与えられた命令は次のとおりです。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』390p
《十月二十日、臨参命第百十九号をもって次のように下命された。
一
上海方面ニ第十軍竝所要ノ兵力ヲ増派ス
二
第十軍司令官ハ海軍ト協力シテ杭州湾北岸ニ上陸シ上海派遣軍司令官ノ任務達成ヲ容易ナラシムヘシ
三
上海派遣軍司令官ハ現任務ヲ続行スルト共ニ第十軍ノ上陸ヲ援助スヘシ》
「上海派遣軍司令官ノ任務達成ヲ容易ナラシムヘシ」
要するに、上海居留民救出に向かった上海派遣軍を援けろということですね。
それから参謀本部の次長多田中将が第十軍参謀長田辺盛武少将に次のように述べました。
『日中戦争4』148p
《「上海付近ニ於テ一大戦果ヲ収ムルコトハ、最モ緊要ニシテ且絶対要件ナルニ付、
凡(あら) ユル困難ヲ克服シテ作戦目的ヲ達成シ、
以テ世界注視ノ戦場ニ我ガ威武ヲ発揚セラレンコトヲ切望シテ巳マズ」
参謀長田辺少将も、参謀たちに訓示している。
「北支那及上海方面ノ各軍ニ於テハ、作戦ノ外ニ多分ニ政治的施策ヲ必要トスルコトハ、
其作戦地域ノ特殊性ニ鑑ミ巳ムコトヲ得ザル処ナルモ、当集団ニ在リテハ之ト全然趣ヲ異ニシ、
敵ニ殲滅的打撃ヲ与ヘ、戦局ヲ此ノ一戦ニ決スルヲ以テ軍ノ使命ノ凡(すべ) テナリトス」
つまりは、上海の戦況を打開して中国軍に再起不能の「必殺打」を加えるべく、
参謀本部がいかに期待をよせ、第十軍もまた奮起の決意に燃えているかが、二人の発言に顕示されている。》
多田次長は、世界注視の戦場だからと注意を与えています。
変な証言者が、“「わが柳川兵団は上陸後、
(1)
民家を発見したら全部焼却すること、(2) 老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」
との命令を受けた(宮下手記) ”と言って、秦郁彦氏もこれを自著『南京事件71p』に採用していますが、
この証言は多田次長の命令と真逆の内容です。
そして、田辺第十軍参謀長は敵に殲滅的打撃を与へて、戦局を此の一戦に決せよ、と言っています。
つまり、この一戦で戦争を終わらせろという事でしょう。
また参謀本部は戦訓をもとにした教令を示達するなかで、田辺少将はつぎの事を注意しています
《とかく家屋、村落を焼きはらう傾向があるが、なるべくやめたほうがよい、と注意する。
「寒冷季ニ入ラントスルニ際シ……其利用価値大ナルヲ以テナリ」
とくに上海戦線でめだったのは、便衣隊の襲撃であるが、少将は、その点についても厳告している。
「一般ノ支那住民ハ老人、女、子供ト雖モ敵ノ間諜ヲ勤メ……敵ヲ誘導シ……
日本軍ノ単独兵ニ危害ヲ加フル等、寔(まこと) ニ、油断ナリ難キ実例多キヲ以テ……
斯クノ如キ行為ヲ認メシ場合ハ、些 (いささか) モ仮借スルコトナク、断乎タル処置ヲ執ルベシ」》
『日中戦争4』151p
つまり、「老人、女、子供といえども、上述のような日本軍に害を加える行為をしたら、
断固たる処置をとれ」 という事で無辜の民を殺せとは命じていないのです。
これは、中国のやり方がああだから、仕方ありません。
これは メッセージ 58 (kireigotowadame さん)への返信です.
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トラウトマン工作開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/15 18:40 投稿番号: [58 / 2250]
石原少将は満州に転出する前、馬奈木中佐に、トラウトマン駐支・独大使への和平仲介依頼工作を頼んでいきました。
井本熊男著 『支那事変作戦日誌』 192pには
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、
石原第一部長は 『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』 と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
とあり
松本重治著 『上海時代・下』 の224〜225pには
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は中央を追われ、
関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木(敬信)中佐に対し、「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」 と、
局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
とあります。また
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 455pには
《
陸軍では、石原第一部長が、かねてからドイツを仲介として事変の終息を図ろうとし、
第二部部員馬奈木敬信中佐(28期)を通じてドイツ大使館付武官オット少将と連絡し、
極秘のうちに交渉を進めていた。
ドイツ側も日支諸懸案の全面的解決については事変前から関心を持っていたところであるので、
両者の話し合いは急速に進んだ。
馬奈木中佐はオット少将とともに、表向きは戦線視察、ドイツの対支援助の調整を目的として、
十月十七日東京出発、上海に至り、
かつて駐独武官輔佐官当時から懇意であったトラウトマン駐支・独大使に上海まで出行してもらって、
二十六日ころ、会談した。
馬奈木中佐が和平の必要、仲介の労をとってもらいたい旨を語ったところ (具体的条件は示さず)、
大使は極力やりましょうという熱意のある返事であった。》
そして、鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 221pには
《
和平工作の仕掛けは、日本の側からである。このままズルズルと戦争を延ばされれば、
日本は不利になると判断した参謀本部の石原莞爾は、
十月半ばには 「早期休戦」 を決断し、参謀部員の馬奈木敬信 (中佐・元ドイツ駐在日本大使館武官補佐官)と、
このとき駐日ドイツ大使館の武官をしていたオイゲン・オットーをひそかに上海に派遣し、
十月二十六日にトラウトマン駐華大使を上海に呼んで、キャセイ・ホテルで三日間にわたり中国側の意向、
日本側の条件などについて話し合った。
ここで手ごたえを得た馬奈木は、石原を通して外相広田弘毅に連絡、広田は正式 (といっても秘密裏)に
駐日大使のディルクセンに対し、ドイツに仲介を依頼した。》
とあります。
この結果、ドイツ大使を通じての和平の提案が、日本側からなされる事になります。
これは メッセージ 57 (kireigotowadame さん)への返信です.
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三コ師団増派とその進捗
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/14 17:24 投稿番号: [57 / 2250]
井本熊男著『支那事変作戦日誌』152〜155pより
《
三ケ師団は第百一、第九、第十三の順序に九月中旬末から下旬にわたり、
神戸、大阪から出発し、九月下旬から十月上旬にわたり呉淞、上海間に上陸させることになった。
増加兵団の動員下命から上海に到着するまでの約一ケ月間、現地ではさらに苦戦の連続であった。
しかしこれ等の兵団が逐次到着して、戦線に加入することによって、戦況に一つの転機を作った。
重藤支隊は九月十八日頃、羅店鎮北方川沙河口附近に上陸し、急速に西進して
九月二十日には羅店鎮西方約三キロに進出して、西面して敵陣地に相対し、
第十一師団の右側背を掩護する態勢をとった。
第十一師団は前記の如き天谷支隊の進出により、師団の主力をまとめることができ、
九月三十日には重藤支隊の左翼に連接して、西南面して約四キロの正面を保持した。
これで、一ケ月以上苦闘した羅店鎮周辺から、一キロ乃至二キロ前進したことになったのである。
第三師団は、前記九月十七日の進出線から連続不断の力攻を続け、約二週間の後に右翼方面は約二キロ前進し、
十月一日劉家行北方約二キロの張家角から、劉家行、○ (厄+頁) 家宅を連ぬる堅固な敵陣地を攻略した。
第百一師団は九月二十日頃から呉淞附近に上陸して、薀藻浜クリーク北側地区を攻撃前進し、
九月三十日、その主力は第三師の左に連接して、薀藻浜北岸に近く進出した。
上陸点から約六キロの前進である。
第百一師団の谷川支隊は、上陸後第三師団の片山支隊と交代して江湾鎮敵陣地に対し、
片山支隊は九月末、第三師団主力に復帰した。
第九師団は九月二十三日頃から呉淞附近に上陸し、
九月三十日、主力を以て第十一、第三両師団の後方近く進出した。
第十三師団は九月下旬半頃から呉淞附近に上陸し、十月十日頃主力を月浦鎮附近に集結した。
ここで戦況を大まかに振りかえって見ると、
八月二十三日、第三、第十一両師団の先遣隊が上陸して以来、上海派遣軍は、
薀藻浜クリーク以北の地域を攻撃正面として、西方に向って力攻したがその戦況はあまり進捗しなかった。
九月下旬の兵力増加により、前記の如く一段の進捗を見て、十月一日現在においては、
東西に通ずる薀藻浜クリークと、それに直角に南北に通ずる楊芤クリークで挟む、
直角の地域の大部分を攻略したことになった。
敵は依然楊芤の線に東面し、また薀藻浜の線に北面して重畳する数線の陣地を占領して、
わが攻撃を阻止している。
上海派遣軍はここにおいて、今までの西向きの主攻撃を南に向け、
まず大場鎮を攻略する戦闘指導の方策を立てた。
そこでこの方策を遂行するため、第三師団を左旋回の軸とし、その右に第九師団を進出させ、
この両師団を大場鎮に向わせるように指導した。
この際、第九師団の右には第十三師団を加入させ、その右に第十一師団、重藤支隊と連接し、
第十三師団より右は、依然西面して、敵陣地に対していた。第百一師団は、
戦況の進むに伴って、第三師団の左後方を前進させることにした。》
とまー、このような状態で、あまり、はかばかしくありません。
それでも少しずつ前進してゆきます。
これは メッセージ 56 (kireigotowadame さん)への返信です.
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杭州湾上陸作戦立案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/13 18:34 投稿番号: [56 / 2250]
追加の三ケ師団が九月下旬から十月上旬にかけ、逐次、呉淞、上海間に上陸し、
戦局は少しは進展しましたが、まだ、はかばかしくありません。
井本熊男氏はその著 『支那事変作戦日誌』 153pに
《 特設師団を動員することに関しては、種々の問題があった。…特に東京で動員する第百一師団が問題となった。
・・・
動員完結の日、私は歩兵第一聯隊の営庭で行われた第百一聯隊の軍装備検査を視察した。
なるほど、これは年よりの集りだというのが第一の印象であった。
皆一家の主人で、家庭を支えている大黒柱の年配である。訓練は長年ほとんどしていない。
指揮官にも現役はほとんどいない。これでは当分戦力は出まいと思った。》
と書いています。
《対ソ関係を考えて検討すると、そう精鋭師団ばかり出すわけには行かないので、遂にこの決定となったのである。》
(同上153p)
これでは戦争は中々終わりそうにありません。
一方、9月28日、下村定少将が石原少将のあとを受けて作戦 (第一) 部長に就任しました。
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を行う必要の
あることを始めから考えていた、と自ら回想している。
結局杭州湾上陸は、下村第一部長がその気運を醸成して発動することになったのである。》
(同上155p)
《10月4日
部長統裁のもと第二・第三課長以下の関係部員が参集して・・・研究した。
作戦当事者は「上海は・・・、兵力は五個師団で大体いいのではないか」・・・
しかし部長は「上海方面をそのままにしておいたのでは戦局の終結が求められない。
この方面で積極的に行動し所望の戦果を獲得するのが急務」と述べ、部内の意見を統一した。
当時、参謀本部は、ソ連が対日攻勢に出るとすれば、11、12月の晩秋初冬のころであろうと判断し、
この時期戦線膠着状態であれば、ソ連に対日攻勢の好機を与えることを憂慮し、
それまでに戦局を打開することを企図していたのである。》
(戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』385p)
結局、下村新第一部長もソ連を心配し、中国との戦争を早く終わらせたかったわけです。
彼は拡大派の部類に入るようですが、けっして支那事変を拡大したかったわけではありません。
強い力で叩いて、早くやめさせたかっただけです。
そして11日「今後ノ作戦ニ関スル件
」につき検討し、12日次長の決裁を得て (参謀) 総長に
一、上海方面
(2)
第十軍ヲ以テ杭州湾北岸ニ上陸セシメ上海派遣軍ノ任務達成ヲ容易ナラシム
(戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』384p)
と報告しました。
これは メッセージ 55 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国、日本軍が毒ガス使用と訴える
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/12 18:33 投稿番号: [55 / 2250]
〔昭和12年10月17日
中外商業(夕刊)〕
《
王氏またも誣告〔ニューヨーク十五日発同盟〕
支那政府外交部長王寵恵氏は十五日、米国に向けラジオを通じて放送演説を試み、
支那における日本軍の行動を誣告して、次のごとく述べた。
米国民はこの際日本を援助するような挙にはいっさい出ないよう切望する。
日本軍が支那軍に対し非人道的行為を行って居るのは明白で、
日本軍が毒瓦斯 (ガス) を使用して居ることは、南京赤十字病院院医長
エッチンガー博士並びに連盟保健部代表ボルチック博士の確認する所である。
逆宣伝反駁、駐米大使館〔ワシントン十五日発同盟〕
駐米帝国大使館当局は十五日、UP通信記者との会見において、
日本軍が催嚏 (さいてい) 瓦斯並びにダムダム弾を使用したとの支那側の宣伝を否定し、
逆に本国政府より接受した確証を挙げて、支那軍こそダムダム弾の使用者だと、左のごとく反駁した。
上海附近の戦線で支那逃亡兵の遺棄した弾薬箱からダムダム弾が発見された。
早速東京に送って保管したが、将来禁止武器使用問題が起こった場合、証拠として提出するはずである。》
ところで、この毒ガス記事に符号する記述がラーベの日記10月14日にあります。
《日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、
すでにここの病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。》
ラーベの日記が10月14日で、米国の記事が10月15日ですから、全く同じ時です。
さて、英国が中国に毒ガスを供給していた事はすでに書きましたが、
実は中国は日本軍に対して毒ガスを使用していたのです。
早瀬利之著 『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』 63pには
《 のちに判明したことのひとつに、中国軍側は化学兵器弾を司令部近くに撃ち込んでいる。
九月二日のことで、司令官の松井自身、「石齢水泡のようなものが広がった」 のを見ている。
化学兵器については日本軍も 「緑筒」「赤筒」 の二種類をもっていたが、松井の使用禁止令で、
ついに上海戦、南京戦には使われなかった。
しかし中国側は、化学兵器も含めて砲弾を遠距離から、水産学校めがけて撃ち込んだ。 》
とあります。
日本軍が使ってないのに、中国兵がガス中毒になったという事は、自分たちの毒ガスの取り扱いを間違って浴びたという事でしょう。
それを巧妙に日本軍のせいにすり替えたという事でしょう。
そもそも、日本軍が、毒ガスを使っていたなら、こんなに苦戦はしません。
敵は大軍ですから、そこに毒ガス弾を撃ち込めば、効果てきめん、
敵に多大な損害を与え、戦局は有利に運んだでしょう。
苦戦したのは使ってなかったからと言えます。
なお、上陸した陸軍にコレラが流行ったのも、中国側の細菌戦との疑いもあるのです。
児島襄著『日中戦争4』151pに
《衛生とくに飲水にかんする注意をおこたってはならない。
井戸水にはアメーバ赤痢薗がうようよしているほか、九月に上海戦線でコレラ患者が多発したのは、
中国軍の細菌戦による疑いが濃厚である。
「支那軍ノ指令ヲ奪取セルトコロ、其ノ中ニ井戸水ヲ飲用スベカラズトノ指示アリ。
即チ敵ガ井戸ニ細菌ヲ投ゼシモノト察セラル」》
と。
これは メッセージ 54 (kireigotowadame さん)への返信です.
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廃墟で泣く赤子の写真を捏造
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/11 18:31 投稿番号: [54 / 2250]
中国の狡猾な嘘宣伝・逆宣伝はすでにいくつか挙げましたが、
中国は、上海南駅の爆撃跡に赤ん坊を置いて、廃墟で泣き叫ぶ赤ん坊の姿を写真に撮り、
10月4日アメリカの写真雑誌ライフに載せ、日本悪者のイメージを広めました。
もちろん、この写真は捏造です。
爆撃は8月28日で、上海は中国軍に包囲され、日本人居留民の命が風前の灯だったころの事です。
当時、鉄道は軍用に切り替えられ、民間の使用は禁じられていました。
上海近辺の駅は、中国軍に占拠され、軍隊や軍事物資の輸送に供されていたのです。
当然、南駅にも民間人はいなかっただろうと考えられます。軍の協力者を除いては。
だから海軍は、日本人の命を狙う危険な敵の根拠地・集結地を叩いたのです。
そうしなければ、こっちが皆殺しにされますから。
中国は この5日前には先施公司デパートを爆撃し、その9日前にはパレスホテルなど上海南京路を爆撃し、
大量の死傷者を出していますが、それにはホオっかむり。
というか、逆に日本がやったと宣伝しています。
爆撃跡の惨状、路上に散乱している死体などが写真に撮られていました。
しかし、それには知らん顔で、
上海南駅の爆撃跡に赤ん坊を置いて、悲劇の赤ん坊を演出させています。
この恥知らずの図太い神経、日本人にはまねできません。
南京にいる外国人はともかく、欧米に住んでいる人たちには真実はわかりません。
だから、この捏造写真を信じ、日本憎しの思いを募らせるでしょう。
これは メッセージ 52 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京事件 中国人にだまされてました
投稿者: y8y8y859 投稿日時: 2009/06/11 02:20 投稿番号: [53 / 2250]
中国人は
自国で日本のB級C級戦犯を裁いて
絞首刑にしている
それだけでもう充分
後からいろいろ歴史をでっちあげるな
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米国大統領の「隔離演説」
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/10 18:36 投稿番号: [52 / 2250]
英国が反日に流れたのに続き、米国も反日になりました。
ルーズヴェルト米国大統領は10月5日、日本を伝染病になぞらえ「隔離せよ」と演説したのです。
〔昭和12年10月6日
大阪毎日〕
《「世界には今、不法の悪疫が蔓延しているが、
こうした際、社会はその悪疫の拡大を防止し、社会の健康を擁護するため、
患者を隔離する必要を認め、かつそのため共同動作をとらねばならない。」
と説き、「今や各国の幸福と安全は脅威されつつある」と述べ、他国の領土に侵入し、
他国の国内問題に干渉する国民を攻撃し、さらに不戦条約、九国条約の侵犯を責めた後、
宣戦を布告せず、正当なる理由なくして、婦女子を含んだ非戦閣員は没義道に空爆によって殺戮され、
海上の船舶は正当な理由なくして警告なしに潜水艦によって攻撃、撃沈されている。
また一部の国々はその国になんらの危害をも加えない他国の内乱に誘発されてその内乱に加担したり、
あるいは自国のために自由を主張しながら、他国に対してはそれを拒否するごとき態度をとっている。》
とあります。ところが、日本外務省の情報部長 (新聞に名前が書いてない) は、何をトチ狂ったのか、6日
〔昭和12年10月7日
東京日日(夕刊)〕
《「持てる国」が「持たない国」に対し経済権利の譲歩を拒絶したならば、
これを解決する途は戦争によるほかないではないか》
と反論したのです。
こんな事をいったら、支那事変は侵略と解されます。
今も昔も、TPOをわきまえずトンチンカンな事を言う人はいるものです。
軍部も近衛首相も中国を侵略しようとは、考えていませんでした。
彼が、欧米のブロック経済に腹を立てていたとしても、それは、それにふさわしい所で
発言すべきで、このような場合の反論に持ち出すべきではありません。
この
後先考えない発言が、外国をして、ますます、反日に向かわせます。
米国国務省は六日、条約違反と正式に声明しました。
〔昭和12年10月8日
大阪毎日(夕刊)〕
《〔ワシントン本社特電六日発〕
米国国務省は六日、左の要旨の正式声明書を発表した。
米国改府は、支那における日本の行動は国際関係を律すべき諸原則にもとり、
かつ九国条約およびケロッグ不戦条約の規定条項にも合致せざるものとの結論を下すのやむなきに至った。
声明内容〔ワシントン六日発同盟〕
国務省はスイス駐剳米国公使より、二十三国諮問委員会で可決された支那における
現在の情勢ならびに日本の条約上の義務に関する報告書の正文を接受した。
公使は同時に十月六日、連盟総会が右報告書を採択、承認した旨報告し来たった。
・・・
米国政府は極東における事態の推移を観察せる結果、支那における日本の行為は国際関係を
律すべき諸原則と矛盾し、かつ一九二二年六月二日締結された支那に関する九国条約ならびに
一九二八年八月七日締結された不戦条約の親定に違反するとの結論に到達せざるを得ざるにいたった。
如上米国政府の到達した結論は、国際連盟総会の採択した結論と一般的に一致するものである。》
このあと、14日に斉藤駐米大使が正しく説明し直しました。
〔昭和12年10月16日
中外商業(夕刊)〕
《〔ワシントン十四日発同盟〕
・・・今回の事変が明らかに支那の挑戦によるもので、
日本はやむなく坂本的解決に乗り出さざるを得なかった・・・
日本が九国条約その他の違反国呼ばわりを受ける理由のない・・・
日本が支那の領土割譲を要求した時初めて言わるべき事、
現在日本の在支居留民と莫大な投資が危険に在る際、
我々としてこれを保護するはあまりにも当然なる事》
これは メッセージ 51 (kireigotowadame さん)への返信です.
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英国の中国加担2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/09 18:47 投稿番号: [51 / 2250]
ヒューゲッセン大使誤射事件の影響もありましょうが、
英国は、中国の嘘報道に騙され、次第に反日に傾斜して行きます。
カンタベリー大主教が反日大会の司会受諾
〔昭和12年10月2日
中外商業〕
吉田駐英大使抗議〔ロンドン一日発同盟〕
ロンドン駐剳帝国大使吉田氏は一日、カンタベリー大僧正に書翰を送り、
現在英国内の反日運動は大部分支那側の逆宣伝による根拠なき作り事、
または無稽なる誇張に基づくものなる事実を指摘、
カンタベリー大僧正がなんらこれを確実にせずして、
五日のニューズ・クロニクル紙(自由党系)主催の反日大会の司会方を軽率に受諾したのに対し、
抗議的注意喚起を行った。
同時に吉田大使はリットン卿その他の右反日大会の演説承諾者にも同様の警告を発した。
英紙に排日記事氾濫〔ロンドン一日発同盟〕
・・・支那側のデマ宣伝はいよいよ露骨を加えて来た。
蒋介石夫人宋美齢女史が連日堂々と機関デーリー・ヘラルド紙に与太電報を打電する外、
ロンドン駐在支那大使館では毎日のように日本軍を中傷するニュースを公表して、
英国民の反日気勢を煽っている。
その上在支外国通信員を動かす等の間接方法をも併用、
絶体絶命、泣き落とし政策で英国民の同情を得んと必死となっている。
従って日本側の反駁乃至抗議はともすれば無視され勝ちで、
たとい多少は掲載されても各新聞紙は依然最初の入電を固執し、
日本軍の非戦闘員殺戮、潜水艦の支那漁船撃沈等を今なお云々し居る有様だ。
・・・なお南京、広東等外人実見者のいない場所に関し、
今なお我が空軍の非戦闘員殺戮のデマが行われ、現に一日のタイムス紙は、
広東の北部清遠の空爆で学校、民家を破壊し、非戦闘員死傷者二百名を出した等と報じている有様である。
一日、某方面着情報によると、二十八日のロンドン・タイムスは、
英国政府は二十六日、
支那側のマークを附したる日本軍飛行機二機が広徳、安徴方面に現れ、
爆弾を投下したとの支那政府の覚書を受領した。
と報道し、またラジオも同趣旨の放送を行ったと。右は明らかに支那側の虚構宣伝である・・・
中国への戦闘機輸出を許可
〔昭和12年10月1日
中外商業(夕刊)〕
〔ロンドン二十九日発同盟〕
グロスター航空機製作会社は最近支那から時速二百五十哩(マイル) のグラジエーター型、
単座戦闘機多数の注文を受け、航空省に対し注文受諾につき認可申請中であったが、
英国航空省は二十九日、右申請に対し正式認可を与えた。
注文台数は不明だが、最近支那に向け輸送されるはずである。
・・・
スペイン向け武器の輸出を禁止した英国政府が、支那向け輸出を認可したことは注目される。
操縦士も義勇兵として向かう〔ロンドン二十九日発同盟〕
AP通信社ロンドン支局の探知する所によれば、右は総数十二機で、
英国人の操縦士も「義勇兵」として飛行機とともに支那に向かうはずだと伝えられる。
最初にアメリカのシェノールトが中国に雇われ、上海爆撃を計画し
(これは、アラン・アームストロング著『「幻」の日本爆撃計画』にある)
次に、ソ連が中国に飛行機とパイロットを送り、
今度は英国が、
その前にドイツ軍将校が中国軍を背後で指揮している。
この時、日本は5カ国と戦争をしていた事になります。
これは メッセージ 50 (kireigotowadame さん)への返信です.
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英国の中国加担1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/09 18:37 投稿番号: [50 / 2250]
英国は、日本が正式な宣戦布告をしていないことをいい事に、
中国に飛行機や武器の援助をしていました。
「南京空襲の予告」でもちらっと書きましたが、英国は香港から、飛行機の部品を陸揚げし、
組み立て、中国の戦争に協力していたのです。
以下は新聞記事です
香港が中国軍の兵站基地の役割果たす
〔昭和12年10月10日
中外商業〕
〔香港九日発同盟〕
・・・香港は完全に排日抗戦兵站基地の観を呈するに至った。すなわち、
一、香港に公然陸揚げされる武器は小銃、機関銃、大砲、迫撃砲、タンク、飛行機、
トレンチ、モーター、その他小銃弾、機関銃弾、火薬等以前に増しておびただしき数に上っている。
二、以下略
海上ルートを主に、武器援助増える一方〔昭和12年11月29日
東京朝日〕
支那事変発生当時より今日に至るまで、英国がその本国に於いてまたは現地支那各地において我が国に対して取り来たった不信、非友誼行為は、既にその都度報道されたところである。
・・・・
英国より支那に支給しつつある武器、弾薬につき、十月中旬現在、確実に判明せる所、左のごとし。
(×印は交戦法規において使用を禁止されているもの)
既に支那に到着せるもの
飛行機
高速度戦闘機二機、軽戦闘機六機、駆逐機五機、偵察機四〇機、
Ⅴ・Ⅰ七型偵察機九機、爆撃機一〇機、その他三〇機、合計一〇二機。
飛行機捜査聴音器二〇台、敷設水雷l00内外、高射砲四門、高射砲弾八〇噸 (トン)、
同三、八〇〇箱、附属器具二〇箱、強烈爆薬(T・N・T一箱五〇封度(ポンド) 入り)二、二〇〇箱。
十月中旬支部に向け輸送途中にあったもの
飛行機七機、飛行機用モーター一二台、飛行機部分品二五〇噸、飛行機用機関銃七〇挺、
×焼夷弾十万発、爆弾(大型)一〇五箱、高射砲二二門、野砲八門、武器二二〇箱、
機関銃一五〇挺、小銃二、〇〇〇挺、小銃(自動式九ミリ)二、六〇〇挺、
同(ヴィカース七・二ミリ)三、〇〇〇挺、小銃弾百八十万発、同八、七四〇箱、
弾薬三九六噸、機関銃及び弾薬一〇一箱、弾薬(数量不明)、同三一噸、戦車一〇台、
十型戦車 (六輪附き)一三台、装甲自動車一八台、貨物自動車四二台、乗用自動車一五〇、無電機三台、
ガスマスク八箱、軍需品二〇〇箱、×クローリン瓦斯(ガス) 入り筒一五〇箱、×ガス円筒入り六筒、
敷設水雷二三個、各種爆薬物二〇〇箱、ダイナマイト七〇箱、×液体ガス(数量不明)、
手榴弾二八〇箱、ブラック・パウダー九五箱、特別軍需品一三箱、弾丸及び火薬三〇(単位不明)、
セルロイド一(同)、×チューブ入り瓦斯一〇(同)、鉄条網二、五〇〇巻、
同鉄柱四、八〇〇本。(後略)
この中には毒ガスも含まれています。
これは メッセージ 49 (kireigotowadame さん)への返信です.
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トラウトマン工作と杭州湾上陸作戦の発端
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/08 18:50 投稿番号: [49 / 2250]
トラウトマン工作と杭州湾上陸作戦の立案は石原第一部長の辞任から始まります。
参謀本部の作戦部長を辞任した石原少将は9月27日、満州に転出しました。
その前に部下の馬奈木中佐に、和平工作を依頼していきました。
井本熊男著『支那事変作戦日誌』192pには
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、石原第一部長は 『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』 と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
とあります。
そして松本重治著『上海時代・下』の224〜225pにも
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は中央を追われ、
関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木(敬信)中佐に対し、「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」
と、局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
と書いてあります。
これが本格的になるのはもう少しあとなので、続きはあとで書きます。
次に杭州湾上陸作戦の案ですが、石原少将の後任にすわった、
下村定少将が気運を醸成して作成しました。
彼は、石原少将のように穏健派ではありません。
一般に歴史では、軍部には拡大派と不拡大派とがあって、この両者のせめぎ合いがあったと言われていますが。
この「拡大派」、「不拡大派」という名前は実態を表わしていません。
「不拡大派」とは、「まず話し合いで行きましょう」というグループです。これに対し
「拡大派」は、そんな甘っちょろい事では駄目だ。中国人は詭弁・嘘・欺瞞の天才だ。やさしくしてると、騙される。
ああいう連中はまず、ガツーンとやってから、話し合うべきだ。というグループです。
つまり、「不拡大派」とは穏健派の事で、今の平和主義者のようなもの
「拡大派」は強硬派で、別に戦争を拡大させようとしていたわけではありません。
交渉するにしても、どういうアプローチを取るかで異なっていただけです。
現在の餃子事件やコピー品でも明らかなように、こちらが優しくしてると、ウヤムヤにされます。
当時も穏健派が、優しく対処しようとした結果、戦争にされ、それを拡大されてしまったのです。
だから、戦争を拡大させたのは「不拡大派」とも言えます。
下村新第一部長は、事変早期解決のために杭州湾上陸作戦を考えました。
『支那事変作戦日誌』155pには
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を
行う必要のあることを始めから考えていた、と自ら回想している。》
とあります。
これは メッセージ 48 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/49.html
南京空襲の予告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/07 19:07 投稿番号: [48 / 2250]
公大飛行場を確保した長谷川長官に、海軍中央部から、
中国に引き渡し予定の英国機九機が九龍付近で組み立て中、ソ連機数十機南京着、
9月15日上海方面空襲の算ありとの情報が入りました。
九龍は英国の領域ですので、手が出せません。
代わりに輸送中継地である広東が攻撃目標になります。
長谷川長官は、二連空に上海付近の敵飛行場の偵察を命じました。
しかし、いずれも敵機は見つかりません。
ならば奥地だということで、南京、広東、漢口、南昌への空襲が決まりました。
尤も南京空爆には、外国からの注文があってましたので、予告しました。
《 南京空襲実施にあたり、長谷川長官は戦禍が第三国人及び一般市民に及ぶのを避けんがため、
九月十九日岡本上海総領事を通じ在上海各国総領事あて、南京空爆の予告を通告した。
更に二十日付、中国非戦闘員に対し避難を勧告する宣言を発した。 》
( 戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 407p )
〔昭和12年9月20日
大阪毎日(号外)〕
《 長谷川長官の通告正文〔上海二十日発同盟〕
第三国に対する通告
支那軍の敵対行為を終息せしめ、
もって時局の迅速なる収拾をはかることは我が軍の作戦の目的とするところにして、
南京は支那軍作戦の中枢なりと認め、我が海軍航空隊は九月二十一日正午以後、
南京市およびその附近における支那軍隊、ならびに作戦および軍事などに関係ある
いっさいの施設に対し、爆撃その他の加害手段を加えることあるべし。
右の場合においても、友好国の船舶および国民の生命財産はこれを尊重する意向なること勿論なるも、
日支交戦の結果、万一にも危害がおよぶことなきを保しがたき状況なるに鑑み、
第三艦隊長官においては南京市および附近に在住する友好国官憲および国民に対し、
自発的に適宜安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず。
なお揚子江上に避難せらるる向きおよび警備艦船は、下関上流に避泊せられんことを希望す。》
しかし、この予告は逆効果になりました。
《 不幸にしてこの予告は逆効果を生じ、世界を刺激し、我が国に対する世論をにわかに悪化させた。
中国側は盛んな宜伝を行い国際連盟の対日空爆非難決素、各国の対日抗議申し入れとなった 》
(海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』 407p)
中国の提訴で開かれていた、国際連盟諮問委員会は
9月27日、日本軍飛行機の中国における無防備都市爆撃を非難する決議を採択しました。
尤も、南京は無防備都市どころか、
「諸外国の不自然な対応」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb
faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=30でも書いたように軍事都市なのですけど。
《 広田外務大臣は二十九日、爆撃は軍事目的達成に必要やむを得ざるものに限定し、
無差別的に非戦闘員をも対象とするものではない旨を強調する回答を発した。
上海においても本田忠雄海軍武官が外国新聞記者団に対し、爆撃目標は軍事目標に限定し、
細心の配慮の下に正確に実施されつつある旨の談話を発表した。》
(海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉』407p)
本来空襲は、予告したら対応されますので、意味がなくなるのです。
それを善意のつもりで、予告したら、逆に解釈された。
日本の善人根性はかくもおめでたいものなのです。
これは メッセージ 46 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ヒューゲッセン英大使銃撃事件3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/06 17:45 投稿番号: [46 / 2250]
私は、早瀬氏のように、中国がやったと言えるほどの証拠は持っていませんが、
そう疑わせるに足る、中国側の行動は知っています。
松本氏は、ヒューゲッセン大使を使っての和平構想に失敗したので、
新たな人を求めホール=パッチと会談し、徐新六を得ました。
毎週金曜日にキャセイ・ホテルでランチを食べながら会合を開くことにしたのです。
ところが徐さんは、中国の特務から見張られていました。
《
三回目のカセイ・ホテルでの会合 ( 十月十四日 ) の際、徐さんは、中国人らしく、
一種の特務隊が二人の動静を監視しているという気配を感じたらしく、
「 次の会合は、どこか、ほかのところでやりましょうや 」 という。
狙われているのは、私よりも徐さんのほうだと感じ、
「 徐さん、次の会合は、ホール=パッチのアパートで、四時半ごろのお茶の会にしたら如何 」
と提案すると、徐さんは、「 そうできれば、それに越したことはない 」 という。
四回目は、ホール=パッチと打合せのうえ、彼のアパートを借用した。
そこで両三回の会合をやったが、その翌日、上海クラブでホール=パッチに会うと、
「 シゲ、どうも、僕のアパートも監視されている。中国人ボーイが密告したらしいから。
この次のお二人の会合は、アメリカ大使館附武官に内情を話したら、
武官が自分のアパートを使ってくれというので、そうして欲しい 」 という。 》
( 松本重治著 『 上海時代・下 』227〜229p )
こういう状態なら、ヒューゲッセン大使の行動が中国側にもれても不思議ではないでしょう。
また、偽装飛行機にしても、中国は外国で、こういう宣伝をしています。
10月2日の中外商業新聞は
〔ロンドン発1日同盟〕…ロンドン駐在支那大使館では毎日のように日本軍を中傷する記事を流して
、英国民の反日気勢を煽っている。…外人目撃者のいない場所に関しては、今なお…デマが行われている。
9月28日のロンドン・タイムスは
「 英国政府は26日、支那側のマークを付したる日本軍飛行機二機が広徳・安徽方面に現れ、
爆弾を投下したとの支那政府の覚書を受領した 」
と報道し、ラジオも同趣旨の放送を行った。
と伝えています。
中国側の今までの傾向からすると、自分のやったことを日本がやったように宣伝しますから、逆に考えれば、
中国機が
日の丸をつけて、ヒューゲッセン英大使を攻撃してもおかしくはないわけです。
徐新六と松本重治氏の和平工作も中国は快く思っていないようですし、
ならば、ヒューゲッセン英大使の和平工作を妨害することもありえるわけでしょう。
それに、もう一つ
大使の車が銃撃されたとき、ホール=パッチは全速力で上海まで車を飛ばし大使を病院に運びました。
犯人が日本機なら、
上海は日本機の領域ですから、ずっと飛行機につけ狙われる事になります。
そうすると彼等は病院に着く前に殺されてるでしょう。
逆に中国機なら、深追いせず、引き上げるから、彼らは助かります。
しかし、証拠がありません。
だから、海軍も中国がやったとは言えず、さりとて認めるわけにもいかなかったのかも知れません。
ただ、日本海軍には、自分でやって、中国機がやったと言うほどの、図々しさは、なかったようです。
これは メッセージ 45 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ヒューゲッセン英大使銃撃事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/06 17:39 投稿番号: [45 / 2250]
海軍が認めないのに、外務省が勝手に謝罪の回答を出すことはできません。
英国の対日感情は悪化していますから、外務省としては困ってしまいました。
外務省が海軍を説得したのでしょう。
( 北博昭著 『 日中開戦 』106p ) には
堀内謙介外務次官の尽力で海軍側も譲歩し、海軍次官山本中将が遺憾の意を表わすにいたる。
そして九月二十一日、この遺憾の意を記した日本政府の最終回答が広田外務大臣からクレーギ一大使に出された。
・・・
「調査の結果、ヒューゲッセン大使が負傷したのと同じ地点で同じ時刻に、
海軍機二機が中国軍将兵を輸送中と確信される自動車を銃爆撃したことがわかった。
銃爆撃は、大使の自動車を中国軍の自動車と誤認しての行為だったかもしれない。
故意ではないが攻撃は海軍機の 『 行為に因りたるやも計り難き次第なるに鑑み 』、
日本政府はイギリス政府に深い遺憾の意を表する。」
これで英国は満足し、問題は解決しました。
しかし、なぜ海軍はこうまで頑強に認めなかったのでしょうか。
( 北博昭著 『 日中開戦 』107p )には
海軍省法務局はイギリスに謝罪しなくてもよいと、その理由を国際法の立作太郎の見解に基づき
「 戦闘地域にはいった者が、戦闘の間接の損害を受けるのはしかたがない 」
風な ( これは私の意訳で原文は長い ) ことをのべたようであり
(同上104p)
松本重治氏は 「 当時、蒋介石が前線を視察するという情報があり、
中華民国の青天白日旗とイギリスの国旗は、遠くから見ると、ちょっと似ているので、
海軍機が誤って爆撃を加え、機銃掃射したわけです 」 (『昭和史への一証言』)
と言っています
つまり、こういう弁解の口実があったのですから、「 間違えた 」 と言えば済んだのです。
しかし、頑として認めませんでした。
もしかしたら、海軍は本当にやっていなかったのではないでしょうか?
海軍機は当日、確かに太倉は空襲しています、しかし、大使の襲撃された場所は太倉よりはるかに西なのです。
当時、日本海軍は陸上に飛行場をもっていませんから、東シナ海の空母から発進していました。
燃料に限りがある為、命令外の地域に勝手に飛んでいって攻撃することは考えられません。
それに、それは軍法会議ものです。
このことについて、『 将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝 』 を書かれた早瀬利之氏は53〜54pで
《 この日、海軍の飛行機は飛んでいなかった ( ?その場所にはという意味か )。
松井は参謀たちを通じて調査をした結果、日本軍の飛行機ではないことが判明する。
その意味では、むしろ南京にいるイギリス大使館筋か、または南京政府の方が、
情報をつかんでいたのではないか。イギリス大使館に勤めている中国人か、
または国民政府がもぐらせていた中国人が、イギリス大使の行動を知っていて、
偽装日本軍機に着手させた、と見るのが自然である。
襲った飛行機は、松井も海軍も、日本軍機というより、中国軍機であろうと判断している。
日本政府は9月21日、外交折衝により解決することになるが、
和平の機会を崩したくない配慮から一歩下がったふしがある。 》
と書いています。
つづく
これは メッセージ 44 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ヒューゲッセン英大使銃撃事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/06 17:31 投稿番号: [44 / 2250]
今回は日本にとっていささか不都合な話です。
中国側の悪を書いて、日本の不都合を書かなければ、NHKと同じですので書きます。
8月26日にヒューゲッセン英大使が日本海軍機に銃撃される事件が起こりました。
これは、中国の米汽船盲爆より前です。
何で、いまごろ出すのかと言うと、もめて解決が長びいたからです。
簡単な話なら、ヒューゲッセン英大使銃撃事件を先に書いて、その後に、
中国のフーバー号爆撃事件を出せば、ヒューゲッセン事件が相殺されて、
都合がよいのですが、そうも行きません。
この事件の発端は、松本同盟通信上海支局長とその友人(英国人)エドモンド・ホール=パッチとの話し合いに始まります。
彼等は、戦争の行く末を心配して、何とか和平をしでかせないかと話し合い、
英国大使を上海に呼び、川越大使と会談させることにしました。
ところが、ヒューゲッセン大使が上海に自動車で来る途中、常熟と太倉の間で、銃撃されたのです。
以下は、大使護衛のロヴァット・フレイザーの話
「行程の四分の三ぐらいは無事に来たのだが、常熟と太倉の間で、突然日本の海軍機二機が現れた。
海軍機は、まず爆撃し、そのうえ、低空飛行をしながら機銃掃射をやったのだ。
二台とも、車の先端には英国旗を垂直に立て、車の屋根の上には大きな英国旗を水平にひろげて、
不慮の椿事を予防するあらゆる用意をしておいたのに、英国旗を無視して、
むちゃくちゃなことをやったものだ」
翌日、川越大使と、長谷川第三艦隊司令長官は病院に赴き、見舞のことばを述べました。
ところが、海軍は「同日午後に問題の地点に飛行した海軍機は一機もない」と言うのです。
(ここまでは松本重治著『上海時代・下』198〜207p)
これに対し批判的な人がいます。( ここからは北博昭著 『 日中開戦 』 104~105p )
(『 石射猪太郎日記 』)。
8月31日
「 ヒューゲッセン大使を射った飛行機があるのか無いのかまだわからぬ。
海軍もダラシがない。見切りをつけるのが商法の秘訣である事を知らない 」
9月1日
「 ヒューゲッセンの自動車をやったものなしと第三艦隊からの報告、
子供の申ワケの如し、アタマ匿して尻かくさず。海軍省も物足らぬとなし再調を命ずと云う 」
2日
「 現地海軍より英大使の自動車を撃った飛行機なしと報告来る。天下の物笑いである 」
「 海軍もこんな事になるとダラシが無い 」
5日
「 ヒューゲッセン遭難問題。海軍は第三艦隊から覚えなしと返事来る 」
9月6日、広田弘毅外務大臣は、駐日クレーギ一大使に、
「 日本軍機のしわざとみるだけの材料がなく、責任があるか否かの判断を下すことはできない。
将来については非戦闘員に損害を与えないよう最大の注意を払うべき旨の訓示を与えた。」
という中間回答を送ります。
海軍は事件の事実関係をより詳しく調べるため、海軍省軍務局第一(軍事)課の高田利種中佐を現地へ派遣しました。
その結果が九月十二日に外務省へ届きますが、これまでと同じ、ヒューゲッセン大使に銃爆撃を加えた覚えはないというものです。
つづく
これは メッセージ 42 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: datouchon 投稿日時: 2009/06/06 15:35 投稿番号: [43 / 2250]
私は中国の偉大な文明や長く暗くて悲惨な歴史を背負っても たくましく繁栄している中国には敬意を持っています。南京の件は現実としてありました。大なり小なりありましたが、あなた方同じ中華民族同士で起こした内戦に次ぐ内戦でもレイプや強奪などは星の数ほどあるのです。それが戦争です。終戦時、満州や上海にいた日本の女性達も同じ事をされています。それが戦争なのです、同じ過ちを繰り返さぬよう歴史からお互い学びましょう。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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中国、国際連盟に日本を提訴
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/05 19:00 投稿番号: [42 / 2250]
( 紀伊国屋書店発売 『 近代日本戦争史第3編
満州事変・支那事変 』
奥村房太
監修
河野収
編集
同台経済懇談会刊行 ) 300p
には
九月十二日、中国は、正式に事変を国際聯盟に提訴した。
聯盟はこの問題を諮問委員会に付託した。
とあり、
( 戦史叢書 『 支那事変
陸軍作戦1 』 311p )
には
中国が正式に事変を国際連盟に提訴したのは九月十二日で、翌日から第十八回国際連盟総会が開かれた。
とあります。
何と言う事でしょうか。
自分の方から、戦争を仕掛けておきながら、臆面もなく、「 侵略された 」 と訴えているのです。
これまでの流れで明らかなように、日本は 「 戦争を避け、話し合いで解決を」 とやっていたのです。
それを踏みにじって、無理やり戦争をしかけたのは中国の方です。
我々、日本人は、やっていなくても 「 相手がああ言っているのだから、取り敢えず謝っておこう。
それで相手の気が済むなら 」 とやりますが、
中国人の場合は、まったく逆で、自分が加害者のくせに、平然と被害者をよそおって、
本当の被害者を加害者に仕立てて、訴えるのです。
上陸した陸軍は、進撃どころか、大量の中国軍に苦戦し、大変な被害を出している最中です。
そして、追加の三ケ師団は9月10日に動員が下命されたばかりで、当分来れません。
日本人殺し放題のときに、侵略されてるとホザいているのです。
上海にいる、外国人は実情を知っていますが、遠くのヨーロッパや米国にいる人には分かりません。
だから中国が、「 強い日本が弱い中国をいじめている 」 と訴えれば信じてしまいます。
こうやって、「 日本悪者 」 宣伝工作が着々と進んで行くわけです。
なお、日本は、
これより先九月二日、臨時閣議で 「北支事変」 を 「支那事変」 に改称しました。
これは、戦争が北支だけでなく、中支に拡大したため、「北支事変」 では不都合になったからです。
そして、上海の苦境打開のため、追加の三ケ師団の動員が九月十日に下命されました。
この時点で、石原第一部長の支那事変に対する、作戦構想は破綻しますので、
石原少将は第一部長の職の辞任を申し出ました。
当然、後任は強硬派 ( 侵略主義者という意味ではありません ) ということになります。
石原少将は戦争を避けようとして、和平を模索したのですが、その思いは中国には通じませんでした。
これは メッセージ 41 (kireigotowadame さん)への返信です.
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上陸部隊にコレラ発生
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/04 18:46 投稿番号: [41 / 2250]
陸軍上陸部隊は大量の敵になやまされていましたが、もう一つ別の敵がいました。
それはコレラです。
以下は『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』より
不運はもう一つ重なった。
それは食糧不足の第11師団の20名がコレラにかかったとのしらせである。( 59p )
9月10日の日、コレラの原因が、クリークの水を飲んだためと判明。
コレラ患者は青島から2日に呉淞錨地に到着した天谷支隊に多い。
患者数は百名で、死者30名を出した。
松井は軍医部長に患者の感染地を消毒させる。( 62〜63p )
10日午後、日高信六郎南京大使館の参事官が司令部のある水産学校を訪れ、松井と会談した。
松井は日高に 「 何とか水を運んできてほしい 」 と頼む。水不足は予想外のことだった。
それに、コレラ保菌者も多く、このままでは戦意にかかわる。その後もコレラ患者は増え、
第三師団でも十二日の時点で、三十名の患者を出し、うち四名が死亡していた。
コレラ患者はその後も増えつづけ、二十日、藤田部隊片山支隊にも発生する。
二十一日には患者数三百余名、死亡者九十名に及ぶ。しかし、病院が不足して患者の隔離に苦悩した。
給水船を操って飲料水を運んだのは、上海の岡田酉次ら武官府だった。
岡田は『日中戦争裏方記』の中で、当時の給水船とコレラ患者のようすを、こう記している。
「八月二十五日ごろには、無数の日本軍輸送船が呉淞沖に到着していたが、
敵の妨害で砲弾の補給準備にもこと欠き、ましてや一般軍需の揚陸などは見込みさえ立て得ない。
そのうえやっと岸辺に取りついた部隊からは、不幸にも伝染病患者まで発生し、
惨状見るに忍びざる苦戦を繰り返した。
そこで、せっかく、武官府であらかじめ準備した軍需品 ( 医薬品を含む ) を、
黄浦江を下って揚子江本流への出口にあたる呉淞鎮付近までいかに補給するかが、
武官府に課せられた声なき至上命令となった。
さいわい暗夜を利用して敵の抑留から引き出してきた数隻の小艇に、鉄板で防弾装置をほどこし、
敵弾雨下の中を運航してやっと上陸し、水際に平伏している兵隊から歓呼して迎えられたのである 」
水上補給に使用した艇は、三井物産上海支店所属の 「 梅丸 」 が主力で、
三井物産上海支店の梶山幹六 ( のちに宇徳運輸社長 ) の決死行動で、
何度も上海と上陸地点との間を往復している。
江岸水際にて上陸兵と共に夜を徹したことも少なくなかった。
上陸部隊がやっと大場鎮に達したころ、部隊の中からコレラ患者が多発しだした。
当時なお上陸部隊では、これが治療薬剤にもこと欠き、
いたずらに患者を敷ワラの上に横臥せしめるのみで、ほどこすすべも持たない有様であった。
また、重傷患者の手術をしようにも、消毒薬や麻酔薬が揚陸できない窮状で、
部隊付軍医による医薬品の現地入手が、人道問題とまで考えられてきた。
( 63〜64p )
これは メッセージ 40 (kireigotowadame さん)への返信です.
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陸軍増派に関する陸海軍の交渉
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/03 19:11 投稿番号: [40 / 2250]
陸軍は上陸したけど、あまりの数の少なさに苦戦しているので増派を要請しました。
戦史叢書 『 支那事変
陸軍作戦1 』 294〜295p )
には
(
注:陸軍戦史叢書 『 支那事変1 』 という本の題名は正確ではありませんでしたので、
以後、戦史叢書 『 支那事変
陸軍作戦1 』 に変えます。)
《
二十四日、中央部は、臨参命第七十八号により、
独立重砲兵第二・第三大隊及び独立攻城重砲兵隊を動員派遣した。
三十日、軍令部福留第一課長は上司の命を受け、参謀本部武藤第三課長を訪ねて、
上海に陸軍部隊を増派し速やかに敵を撃破するよう交渉した。
・・・
翌三十一日、石原第一部長は軍令部の近藤信竹第一部長を訪ね、次のような申し入れを行った。
上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。・・・
陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれは、なるべく速やかに平和に進みたく、
ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。
・・・
九月一日、近藤第一部長は石原部長に対し上海増派を督促した。
これに対し、石原部長は次のように回答した。
対ソ戦準備及び兵団の編制装備上、上海方面の作戦に適する兵力はない。・・・
なるべく速やかに講和をしたい。・・・しかしせっかくの要望であるので更に研究する。》
とあります。石原部長は、
「なるべく速やかに講和をしたい」
「条件を領土的野心のないものに」 といっていたのです。
世間でいう侵略戦争とは大違いですね。
日本人の危機にも関わらず、兵を出し渋っていますが、そうも言っておられなくなりました。
(同上296〜297p) の注1 には
《陸軍中央部内においても、上海方面の兵力が過少であるとして、作戦部を非難する声が相当に強かった。
石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だからと言って容易に同意せず、・・・頑張っていた。
しかし上海方面の悲惨な戦況を打開する必要があるので、ついに増兵に同意せざるをえなくなった。》
とあります。かくて
《九月一日、第五次動員として、かねてから準備中の第百一師団、独立工兵第十一聯隊(丁)、
野戦高射砲隊(甲)一隊などに対する動員が下命された。
(同上295p)
九月六日午前、軍令部総長は海軍の用兵について奏上した際、
「上海の陸上戦闘は遅々として進まず、陸軍兵力の増強が必要である」 旨を上奏した。
よって、直ちに参謀総長を召された。参謀総長は、参謀本部で検討ののち、十五時参内し、
「上海に、第九・第十三・第百一師団及び台湾守備隊を増派することに内定、
後備歩兵四コ大隊を派遣」 する旨上奏した。
九月七日、台湾軍の台湾守備隊を応急動員により、・・・重藤支隊として上海付近に派遣すべき命令が出された。
これと同時に、臨参命第九十六号をもって、北支那方面軍から、後備歩兵一〇コ大隊、
同砲兵二コ中隊、同工兵二コ中隊、野戦重砲兵第十聯隊の一大隊、高射砲隊(乙)五隊を
上海に転用する命令が下達された。》
(同上296p)
しかし、石原部長はまだ頑張ります。
《九月十日、石原部長は、第一部各課長に対し次のように意図を示した。
(1)
上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない。
(2)
上海に一撃を加えたのちは二〜三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、じ余は満州に転用する。》
(同上297p)
です。
これは メッセージ 39 (kireigotowadame さん)への返信です.
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膠着状態の上海戦線
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/02 18:33 投稿番号: [39 / 2250]
陸軍は呉淞と川沙口に上陸しましたが、敵に対して人数が少なすぎて犠牲がでます。
以下は井本熊男著 『 支那事変作戦日誌 』 芙蓉書房出版 150〜152p よりの引用です。
《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、戦況は激しさを加えるのみで、
なかなか進まない。
第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗するかに見えたが、
それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着してほとんど動かず、
かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。
その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては九月九日までに上陸江岸から
僅かに約三キロ前進して、宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。
ウースン・クリーク以南においては、兵站部隊が黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。
上海共同租界に近い黄浦江岸には、始め第三師団の飯田支隊 ( 歩兵一大隊 ) が
上陸したが、支隊長は間もなく戦死した。
次いで同師団の片山支隊 ( 歩兵第五旅団長、片山少将の率いる歩兵四大隊基幹 ) は
飯田支隊 ( 支隊長戦死 ) を併せ指揮して
九月十三日、江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。
この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。
九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰したが、
以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。
すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。
海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、上海戦の最後まで動くことができなかった。
第三師団主力は九月十七日までに、前記九月九日の位置から右翼方面は約六キロ、
左翼方面は約四キロ前進した。一日四百メートル乃至は百メートルの前進である。
連続不断の激闘で、一面の敵陣地を、一枚一枚鱗を剥ぐように奪取しての前進であった。
第十一師団の天谷支隊は、大連に上陸することなく、八月下旬青島東方の洋上で
待機させられていたが、青島上陸は行わないことに決定せられたため、九月一日の大命で上海に向った。
同支隊は九月四、五日頃呉淞に上陸し、師団主力に復帰するため、宝山城附近を経て前進中、
九月七、八日頃月浦鎮周辺において、頑強に抵抗する数線の敵陣を攻撃して多大の損害を出しつつ、
九月十七日、羅店鎮東南地区において第十一師団主力の左翼に近く進出した
( 後に軍作戦主任参謀西原大佐の言によれば、
天谷支隊は上海上陸後十日間に三千四百名の兵力が九百名となった )。
その他第三、第十一師団主力においても、右九月十七日までの戦闘において莫大な損害を出した。
上海の陣地攻撃間に、この両師団の歩兵は当初出征したものは殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程であった。
これは日露戦争後、経験のない大損耗であった。
筆者の同期生で、中隊長として参戦した八名は、全員この戦闘で戦死した。》
結局、人数が少なすぎたために、とんでもない犠牲を出したわけです。
これは メッセージ 38 (kireigotowadame さん)への返信です.
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公大飛行場の確保
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/01 18:51 投稿番号: [38 / 2250]
日本海軍は楊樹浦 (ヤンジッポ) の東の方に公大飛行場を建設中でしたが、
中国軍の攻撃を受けてなかなか進みませんでした。
そこで、陸軍の一部を上海に回してもらって陸軍部隊と協力して、
周囲の敵を排除することにしました。
《 九月上旬我が東部支隊右翼隊は陸軍部隊の前進に呼応して、
キュウ江碼頭及び付近地域に対し単独作戦中であった。
付近に公大航空基地を建設中であったが、
敵陣地からの銃砲火にさらされ、航空機の進出が困難であった。
このため陸軍飯田支隊 ( 飯田七郎歩兵少佐の指揮する歩兵一コ大隊基幹 ) が主として
同方面の攻撃に当たることとなり、海軍側は東部支隊、火砲によりこれに協力することとなった。
陸軍中村中隊 ( 飯田支隊の先遣隊 ) の乗艦する 「 栂 」 は六日
02:00
上海発、
下江し同03:05
キュウ江碼頭に横付けし陸兵揚陸を開始した。
ところが同倉庫によっていた敵から頑強な抵抗を受けたため、一たん揚陸を中止、
「栂」は横付けを離し、「 刈萱、安宅、堅田、夕月、芙蓉、勢多 」 などの掩護艦と共に、
夜明けまで同倉庫付近を猛撃制圧し、07:30
碼頭下流江岸に揚陸を完了させた後、
午後戦死傷者を収容し上海に帰投した。
なお旗艦出雲も六日
03:50
上海発、主砲 ( 二十糎 ( センチ ) 砲 ) をもって本上陸掩護射撃に
加入の上、08:00
上海に帰着した。
かくて上陸した飯田支隊は滬江大学から進撃し、何家宅以南の軍工路の線に進出して
八日ほぼその目的を達成したが、
九日未明の戦闘で飯田支隊長以下幹部多数が戦死するに至った。》
( 海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉』397〜398p )
《 9月10日
事変勃発当初、周水子基地 ( 大連 ) で陸軍部隊の北支海上輸送警戒に従事していた第二聯合航空隊は、
上海方面への急速な進出が望まれていたが、同方面陸上基地は未整備であった。
しかし陸軍部隊上海派兵の結果、かねて建設中であった公大基地の使用が可能となり、
同隊は九月十日この基地に進出した。
公大基地は元来ゴルフ場を急速造成したもので、同隊進出直後、天候不良のため滑走路がどろだらけとなり、
昼夜兼行の修理にもかかわらず、最初の一〇日間に九六式艦戦約一一機が発着の際大中破した。
また敵機の来襲もしばしばであったが、おおむね夜間攻撃で我に被害なく、付近敵陣地からの砲撃もその都度反撃した。
この一〇日間が実に第二聯合航空隊にとり最大の危機であった。》
( 同上402〜403p )
いままで、上海方面には、陸上に飛行機基地を持たず、航空母艦から小さな複葉機を飛ばすか、
済州島や台湾から、96式陸攻を飛ばすしか出来ませんでした。
だから、南京へは済州島から空襲に向かっていたのですが、公大基地が確保できたお陰で、
陸上から艦上機で、南京やその他、遠くの敵基地を攻撃する事が可能になりました。
これは メッセージ 37 (kireigotowadame さん)への返信です.
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鉄壁の布陣で待ち構える中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/31 18:09 投稿番号: [37 / 2250]
陸軍は何とか上陸はしましたが、非常に苦戦します。
敵は鉄壁の布陣で待ち構えていたからです。
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』早瀬利之著には
54pに
この両師団の上陸は、ドイツ軍事顧問の指導で構築された中国軍のトーチカからの抵抗に苦戦した
中国軍側の配備は、上海北側地区に三十万、浦東に二万、上海西部地区に十万、北翼羅店鎮に十八万の最精鋭中国軍が、トーチカなどで陣地を造っていた(55p)
馮玉祥総指揮の下に、張治中の十万、のちに台湾の国民党の台湾主席となる陳誠が指揮する十八万、張発奎指揮の二万と判明する。
空軍の飛行機はほとんどがソ連製の飛行機だった。トーチカなどに構築された高射砲はドイツ製。
機関銃はチェコ。それにアメリカ製のカービン銃が見つかる。(57p)
第十一師団の長勇参謀が旗艦「由良」に帰ったさい、羅店鎮の正面に中国軍は約二万人、
さらに嘉定方面より増援があり、近々、第十一師団に反撃してくる姿勢がうかがえると報告がある。
・・・
中国軍は呉淞砲台、商船学校付近から西方の大金家村付近に及ぶ線を守っている。
指揮官は陳誠で、兵の数約十五、六師団であることが判明する。
日本軍の一師団と、ドイツ顧問団に指導された十五、六師団との睨み合いである。(58p)
とあります。
とんでもない大軍と堅固なトーチカ、優れた外国製の武器が待ち構えていたのです。
これにたった二個師団で太刀打ちできるはずがありません。
かつ敵は地の利を活かしています。
十一師団が上陸した辺りの稲の中には身を伏せて待ち伏せし、日本軍を狙撃したり、
また飛行機に連絡するなど、訓練された中国兵に苦戦する。
軍の参謀、下坂正男歩兵中佐が狙撃されたのは、稲の中からの中国軍による。
このときの十一師団の損害は、二十三、二十四日の二日間だけで、下坂参謀以下戦死十五名、負傷兵五十余名に及ぶ。(55p)
難敵は縦横に走るクリーク(川)である。橋は落とされていて、日本軍は前進できずにいる。(60p)
とあるのです。しかし敵は前だけではありません。後ろにもいました。
松井は、少なくとも五師団は必要と思い、第三艦隊長官と川越大使に通報(58p)
9月10日の朝、参謀本部からの電報が届いた。その電報は松井をびっくりさせるものだった。
電文は「新たに第九、第十三、第百一師団を一時的に増加するが、十月までに二師団だけ残し、
他の主力を北方に転用する予定」という内容のものである。
この朝の松井の無念さが、日記の行間に読みとれる。
「遅くも十月末までに二師団(うち一つは特設師団)だけ残し、主力を北方に転用する予定なりと知り吃驚せり。
かくのごとくして軍の攻撃ははなはだ不徹底となり、敵軍攻撃の半途にしてこれを打ち切り、
上海北方に小さく二コ師団をもって防守せんなどはとうてい上海確保、人民安護の所以(ゆえん) にあらず。
かつ皇軍の威信を傷つくること絶大なりと考えられ、憂慮に禁ぜず。」
(61〜62p)
兵隊をほとんど増やさず、増やしても一時的で、すぐよそに回すというのです。
石原参謀本部第一部長は、ソ連が参戦してきたら困るから、その防備に必要
という考えで、対中国戦は、あまり重要視していなかったのです。
こんな状態で、中国侵略などと言われるのですから、困ったものです。
これは メッセージ 36 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国軍機、米汽船に爆弾投下
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/30 18:27 投稿番号: [36 / 2250]
中国空軍機は、またも盲爆、今度はアメリカの汽船に爆弾を投下しました
以下は新聞記事です。
〔昭和12年8月31日
大阪毎日〕
〔上海三十日発同盟〕
支那軍飛行機一機は三十日午後五時頃、呉淞 ( ウースン) 港外に仮泊中の
ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号に爆弾を投下、一弾は船体に命中し、
外人客ならびに船員に負傷者を出した模様である。
〔上海三十日発同盟〕
三十日午後七時半、P・フーブァー号より帝国海軍への公信によれば、
爆弾は当時上空飛行中の支那飛行機より投下され、フーヴァー号の舷側で炸裂したものである。
当時附近一帯の近距離にあった日本軍艦〇〇と〇〇の二隻は、直ちに支那飛行機に対し
猛烈に高角砲を発射し、これを撃退するとともに救援のためフーヴァー号に近づき、
乗組員二名を同船に派遣、救護に当らしめんと申し出でたが、フーヴァー号は日本海軍の
好意ある態度に深甚なる謝意を表するとともに、被害軽微のため日本側の救護申し入れを辞退した。
わが機、爆撃の一機を撃墜〔上海本社特電三十日発〕
(三十日午後十時第○艦隊報道班発表)
三十日午後五時三十分頃、軍艦〇〇の〇〇機二機は揚子江口のライト・シップ附近にて、
米国ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号を爆撃せる支那空軍の
カーチス・ホークス機三機を認め、これを追撃、その一機を撃墜せり。
このころ、上陸した陸軍は少ない人数で大敵を相手にし苦戦していました。
これは メッセージ 35 (kireigotowadame さん)への返信です.
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各地で居留民引き揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/29 19:32 投稿番号: [35 / 2250]
中国の他の地域でも不穏な情勢になってきましたので、居留民に引き上げ命令が出ました。
以下は新聞の記事です。
★
青島居留民に正式引き揚げ命令
〔昭和12年8月28日
大阪毎日(夕刊)〕
〔青島本社特電二十七日発〕
外務省よりの青島在留民正式引き揚げ命令は二十六日深更、総領事館に到着したので、
二十七日早朝、大鷹総領事は正式引き揚げ命令を民団参事会に申し渡し、
また同九時から第一小学校で開催した居留民会が発表した。
これによって約三千三百名の居留民と済南避難民約百名は本月末までに大連または
内地に引き揚げ、日独戦争以来の総引き揚げが行われることになった。
しかし青島および済南の両総領事館員、税関、市政府、鉄道、電信局の日本人役員は最後まで残るのである。(中略)
邦人財産、支那側で保障〔青島二十七日発同盟〕
引き揚げ後における邦人財産保護に関しては、
二十六日以来大鷹総領事と沈鴻烈市長および市政府当局との間に交渉が進められていたが、
二十七日朝にいたり両者の間に完全なる諒解が成立、支那側は全責任をもって邦人財産保護にあたることを確約した。
★
廈門の総領事館も閉鎖、全員引き揚げ
〔昭和12年8月30日
大阪毎日〕
廈門(アモイ) における邦人の危険なる状態が報道されているので、
海軍省は二十九日午前十一時、廈門の状況に関し左の副官談を発表した。
(海軍省副官談)
南支方面において従来比較的平静なりし廈門は、去る二十七日、
第百五十七師の一団侵入し廈門要港司令、同参謀長を監禁し、支那海軍陸戦隊の武装解除を行い
砲台、兵営などを占領し、果敢に抗日気勢をあげた結果、形勢とみに不安を加え、
加うるに同夜、支那便衣隊は帝国総領事館を包囲し形勢不穏となったため、
二十八日、所在帝国官憲は在留邦人残留員全部の引き揚げを決し、帝国海軍部隊警戒のうちに総領事館を閉鎖し、
邦人全部を長沙丸に収容し、軍艦〇〇および〇〇駆逐隊護
衛のもとに無事引き揚げを終わった。
★
香港も抗日気分強まり、婦女子引き揚げ
〔昭和12年9月4日
中外商業(夕刊)〕
三日、水沢香港総領事より外務省に到着した報告によれば、
わが空軍の広東爆撃以来香港の邦人に対する空気は俄然悪化し、
ために七日香港出港の郵船浅間丸で取り敢えず邦人婦女子百名を引き揚げさせることに決定した。
すなわち二日午後一時半ごろ、湾仔にある邦人経営浜田洋行に支那人五百名押し寄せ口々に、
「日本人を焼き殺せ」とわめき立てて暴行を働き、政庁より警官多数急行してようやく事なきを得た。
また同日、一邦人が内地引き揚げのために家財をまとめ苦力 (クーリー) に運ばせたところ、
その苦力は「日本人のために仕事をした漢奸だ」と仲間から罵られ袋叩きにあうなど、
邦人に対する人気は極度に険悪となってしまった。
最近支那人が日本人と誤られ殴打されたことが再三あり、八月三十一日には川田商店事件があったので、
水沢総領事は総引き揚げを決意するに至ったものである。
なお香港は英国領なるため支那の他地方と異なり、わが総領事が引き揚げ命令を出す訳に行かず、
各自自由に帰国という形式を取っている訳で、残留邦人千二百名は旅館千歳館と小学校及び
台湾銀行社宅に集まり引き揚げ待機の姿勢にあり、近く全面的引き揚げのやむなきに至る形勢である。
よく、中国人や善良な日本人は、日本兵が中国人を虐殺したと言いますが、日本国内で中国人が大量虐殺されたという話はききません。
日本人が残虐なら、日本本土でこそ、起こるべきと思うのですが。
逆に中国で日本人が虐殺されているのですね。
だから、逃げ出してるわけです。
駐日中国大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は昭和13年6月11日まで在留していました。(陸軍戦史叢書『支那事変1』479p)
これは メッセージ 32 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: こんにちは
投稿者: chromists 投稿日時: 2009/05/28 22:00 投稿番号: [34 / 2250]
kireigotowadameさま
こんにちは
読んでいただきましてありがとうございます。
ただ、私の言わんとするところへのご意見をいただけなかったのは
残念です。
今後の貴方の話の展開に注目しています。
これは メッセージ 33 (kireigotowadame さん)への返信です.
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