トラウトマン工作と杭州湾上陸作戦の発端
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/08 18:50 投稿番号: [49 / 2250]
トラウトマン工作と杭州湾上陸作戦の立案は石原第一部長の辞任から始まります。
参謀本部の作戦部長を辞任した石原少将は9月27日、満州に転出しました。
その前に部下の馬奈木中佐に、和平工作を依頼していきました。
井本熊男著『支那事変作戦日誌』192pには
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、石原第一部長は 『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』 と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
とあります。
そして松本重治著『上海時代・下』の224〜225pにも
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は中央を追われ、
関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木(敬信)中佐に対し、「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」
と、局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
と書いてあります。
これが本格的になるのはもう少しあとなので、続きはあとで書きます。
次に杭州湾上陸作戦の案ですが、石原少将の後任にすわった、
下村定少将が気運を醸成して作成しました。
彼は、石原少将のように穏健派ではありません。
一般に歴史では、軍部には拡大派と不拡大派とがあって、この両者のせめぎ合いがあったと言われていますが。
この「拡大派」、「不拡大派」という名前は実態を表わしていません。
「不拡大派」とは、「まず話し合いで行きましょう」というグループです。これに対し
「拡大派」は、そんな甘っちょろい事では駄目だ。中国人は詭弁・嘘・欺瞞の天才だ。やさしくしてると、騙される。
ああいう連中はまず、ガツーンとやってから、話し合うべきだ。というグループです。
つまり、「不拡大派」とは穏健派の事で、今の平和主義者のようなもの
「拡大派」は強硬派で、別に戦争を拡大させようとしていたわけではありません。
交渉するにしても、どういうアプローチを取るかで異なっていただけです。
現在の餃子事件やコピー品でも明らかなように、こちらが優しくしてると、ウヤムヤにされます。
当時も穏健派が、優しく対処しようとした結果、戦争にされ、それを拡大されてしまったのです。
だから、戦争を拡大させたのは「不拡大派」とも言えます。
下村新第一部長は、事変早期解決のために杭州湾上陸作戦を考えました。
『支那事変作戦日誌』155pには
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を
行う必要のあることを始めから考えていた、と自ら回想している。》
とあります。
参謀本部の作戦部長を辞任した石原少将は9月27日、満州に転出しました。
その前に部下の馬奈木中佐に、和平工作を依頼していきました。
井本熊男著『支那事変作戦日誌』192pには
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、石原第一部長は 『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』 と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
とあります。
そして松本重治著『上海時代・下』の224〜225pにも
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は中央を追われ、
関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木(敬信)中佐に対し、「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」
と、局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
と書いてあります。
これが本格的になるのはもう少しあとなので、続きはあとで書きます。
次に杭州湾上陸作戦の案ですが、石原少将の後任にすわった、
下村定少将が気運を醸成して作成しました。
彼は、石原少将のように穏健派ではありません。
一般に歴史では、軍部には拡大派と不拡大派とがあって、この両者のせめぎ合いがあったと言われていますが。
この「拡大派」、「不拡大派」という名前は実態を表わしていません。
「不拡大派」とは、「まず話し合いで行きましょう」というグループです。これに対し
「拡大派」は、そんな甘っちょろい事では駄目だ。中国人は詭弁・嘘・欺瞞の天才だ。やさしくしてると、騙される。
ああいう連中はまず、ガツーンとやってから、話し合うべきだ。というグループです。
つまり、「不拡大派」とは穏健派の事で、今の平和主義者のようなもの
「拡大派」は強硬派で、別に戦争を拡大させようとしていたわけではありません。
交渉するにしても、どういうアプローチを取るかで異なっていただけです。
現在の餃子事件やコピー品でも明らかなように、こちらが優しくしてると、ウヤムヤにされます。
当時も穏健派が、優しく対処しようとした結果、戦争にされ、それを拡大されてしまったのです。
だから、戦争を拡大させたのは「不拡大派」とも言えます。
下村新第一部長は、事変早期解決のために杭州湾上陸作戦を考えました。
『支那事変作戦日誌』155pには
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を
行う必要のあることを始めから考えていた、と自ら回想している。》
とあります。
これは メッセージ 48 (kireigotowadame さん)への返信です.