トラウトマン工作開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/15 18:40 投稿番号: [58 / 2250]
石原少将は満州に転出する前、馬奈木中佐に、トラウトマン駐支・独大使への和平仲介依頼工作を頼んでいきました。
井本熊男著 『支那事変作戦日誌』 192pには
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、
石原第一部長は 『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』 と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
とあり
松本重治著 『上海時代・下』 の224〜225pには
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は中央を追われ、
関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木(敬信)中佐に対し、「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」 と、
局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
とあります。また
戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 455pには
《 陸軍では、石原第一部長が、かねてからドイツを仲介として事変の終息を図ろうとし、
第二部部員馬奈木敬信中佐(28期)を通じてドイツ大使館付武官オット少将と連絡し、
極秘のうちに交渉を進めていた。
ドイツ側も日支諸懸案の全面的解決については事変前から関心を持っていたところであるので、
両者の話し合いは急速に進んだ。
馬奈木中佐はオット少将とともに、表向きは戦線視察、ドイツの対支援助の調整を目的として、
十月十七日東京出発、上海に至り、
かつて駐独武官輔佐官当時から懇意であったトラウトマン駐支・独大使に上海まで出行してもらって、
二十六日ころ、会談した。
馬奈木中佐が和平の必要、仲介の労をとってもらいたい旨を語ったところ (具体的条件は示さず)、
大使は極力やりましょうという熱意のある返事であった。》
そして、鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 221pには
《 和平工作の仕掛けは、日本の側からである。このままズルズルと戦争を延ばされれば、
日本は不利になると判断した参謀本部の石原莞爾は、
十月半ばには 「早期休戦」 を決断し、参謀部員の馬奈木敬信 (中佐・元ドイツ駐在日本大使館武官補佐官)と、
このとき駐日ドイツ大使館の武官をしていたオイゲン・オットーをひそかに上海に派遣し、
十月二十六日にトラウトマン駐華大使を上海に呼んで、キャセイ・ホテルで三日間にわたり中国側の意向、
日本側の条件などについて話し合った。
ここで手ごたえを得た馬奈木は、石原を通して外相広田弘毅に連絡、広田は正式 (といっても秘密裏)に
駐日大使のディルクセンに対し、ドイツに仲介を依頼した。》
とあります。
この結果、ドイツ大使を通じての和平の提案が、日本側からなされる事になります。
井本熊男著 『支那事変作戦日誌』 192pには
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の友人である』
と話したところ、
石原第一部長は 『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行ってトウラトマンと会い、
日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』 と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
とあり
松本重治著 『上海時代・下』 の224〜225pには
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は中央を追われ、
関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木(敬信)中佐に対し、「イギリスの調停は、
あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、何とかして、やって欲しい」 と、
局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
とあります。また
戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 455pには
《 陸軍では、石原第一部長が、かねてからドイツを仲介として事変の終息を図ろうとし、
第二部部員馬奈木敬信中佐(28期)を通じてドイツ大使館付武官オット少将と連絡し、
極秘のうちに交渉を進めていた。
ドイツ側も日支諸懸案の全面的解決については事変前から関心を持っていたところであるので、
両者の話し合いは急速に進んだ。
馬奈木中佐はオット少将とともに、表向きは戦線視察、ドイツの対支援助の調整を目的として、
十月十七日東京出発、上海に至り、
かつて駐独武官輔佐官当時から懇意であったトラウトマン駐支・独大使に上海まで出行してもらって、
二十六日ころ、会談した。
馬奈木中佐が和平の必要、仲介の労をとってもらいたい旨を語ったところ (具体的条件は示さず)、
大使は極力やりましょうという熱意のある返事であった。》
そして、鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 221pには
《 和平工作の仕掛けは、日本の側からである。このままズルズルと戦争を延ばされれば、
日本は不利になると判断した参謀本部の石原莞爾は、
十月半ばには 「早期休戦」 を決断し、参謀部員の馬奈木敬信 (中佐・元ドイツ駐在日本大使館武官補佐官)と、
このとき駐日ドイツ大使館の武官をしていたオイゲン・オットーをひそかに上海に派遣し、
十月二十六日にトラウトマン駐華大使を上海に呼んで、キャセイ・ホテルで三日間にわたり中国側の意向、
日本側の条件などについて話し合った。
ここで手ごたえを得た馬奈木は、石原を通して外相広田弘毅に連絡、広田は正式 (といっても秘密裏)に
駐日大使のディルクセンに対し、ドイツに仲介を依頼した。》
とあります。
この結果、ドイツ大使を通じての和平の提案が、日本側からなされる事になります。
これは メッセージ 57 (kireigotowadame さん)への返信です.