幕府山 捕虜逃がしに失敗射殺
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/19 18:26 投稿番号: [216 / 2250]
両角業作
手記より
十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。
万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは
「俘虜のものどもを“処置”するよう」 ・・・山田少将に頻繁に督促がくる。
山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。
私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、
大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。
ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。
しかし私にはどうしてもできない。
いろいろ考えたあげく
「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、
ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」
− 田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、
夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。
これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。
十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。
馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。
信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、
この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。
新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、
次いで戦勝を祝する乾杯があった。
この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。
もどったら、田山大隊長より
「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」 の報告を受けた。
火事で半数以上が減っていたので大助かり。
日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、
解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。
さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
そのいきさつは次の通りである。
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、
前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、
舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、
次第に押し流されるという状況。
ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、
日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、
静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、
大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、
翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に
報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、
さも 「我が意を得たり」 の顔をしていた。
解放した兵は再び銃をとるかもしれない。
しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、
少数といえども射殺したことは
<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが> ・・・
なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。
十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。
万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは
「俘虜のものどもを“処置”するよう」 ・・・山田少将に頻繁に督促がくる。
山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。
私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、
大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。
ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。
しかし私にはどうしてもできない。
いろいろ考えたあげく
「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、
ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」
− 田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、
夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。
これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。
十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。
馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。
信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、
この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。
新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、
次いで戦勝を祝する乾杯があった。
この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。
もどったら、田山大隊長より
「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」 の報告を受けた。
火事で半数以上が減っていたので大助かり。
日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、
解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。
さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
そのいきさつは次の通りである。
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、
前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、
舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、
次第に押し流されるという状況。
ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、
日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、
静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、
大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、
翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に
報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、
さも 「我が意を得たり」 の顔をしていた。
解放した兵は再び銃をとるかもしれない。
しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、
少数といえども射殺したことは
<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが> ・・・
なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。
これは メッセージ 215 (kireigotowadame さん)への返信です.