12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/24 16:16 投稿番号: [221 / 2250]
板倉由明著『本当はこうだった南京事件』299〜304p
ところで、慰霊祭はもう一回あった。翌昭和十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭
(十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる) である。松井日記は次のように記す。
「嚢 (さき) ノモノハ 戦勝ノ誇ト気分ニテ 寧 (むし) ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、今日ハ只々悲哀其 (その) 物ニ 捉 (とら) ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ 迫ルヲ覚エタリ。
蓋 (けだ) シ 南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト ソノ後地方自治、政権工作等ノ
進捗 (しんちょく) セサルニ起因スルモノナリ。
仍 (よっ) テ 式後参集諸隊長ヲ集メ 予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭 (かいちょく) ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)日記にも記されているが、
飯沼日記によればその内容は 「南京入城ノ時ハ誇ラシキ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭又
其気分ナリシモ本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。其レハ此 (この) 五十日間ニ幾多ノ
忌 (いま) ハシキ事件ヲ起シ、戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ此英霊ニ見 (まみ) へンヤ」という趣旨であった。
しかし、この訓示に対する軍人一般の評判はあまり良くなく 「凱旋気相当ニ横溢
シアルハ怪シカラヌトノコトモアリ」 といった批判があり、その夜の晩餐会での
「宣撫ハ兵十人ニ一人ノ支那人ヲ難有ク思ハセヨ」 という要望にも、
「日本兵より支那人が可愛いのか」 という声があったようである。
・・・・
この日、松本氏が深堀 (遊亀、上海派遣軍報道部長) 中佐と南京に居たことは、
『南京新聞』 発行と関連して、前田雄二氏の日記及び 『戦争の流れの中に』
に記されている。
・・・
「南京戦史」 の編集メンバーが初めて松本氏に会ったのは昭和六十一年暮であった。
このとき確認したのは次の四点である。
① 十二月十七日の入城式には参列していない。
② そのころ南京へ行ったのは一回だけ。
③ 汽車で往復した。
④ 参列者は五百人から一千人くらい。
これでほぼ二月説が立証されたとみてよい。
①はジャーナリストがメインイベントたる入城式を抜かして、
慰霊祭だけ参列するはずがない。
マスコミ関係者はもちろん、多くの文化人たちが南京に急行した。
②は前田日記によれば二月七日の確証がある。松本は慰霊祭前に、同盟支局で
支局員たちに会えなかった、と 「上海時代」 に記しているが、
これは翌日から発行の 『南京新聞』 の準備に忙殺されていたのである。
③は汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため十二月二十二日からで、入城式、
慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して揚子江を遡行して下関から上陸した。
④の参列者数は十二月十八日には三千人以上は確実だが、二月七日は各部隊が
長以下数名の代表で参列したためほとんどが将校で、五百人程度であった(石松政敏氏談)。
しかし決定的な確証は、防衛研究所戦史部・原剛氏によってもたらされた。
原氏が発見した二月八日の 『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』『チャイナ・プレス』
には正に相当する同盟配信の記事があったのである。
・・・
昭和六十二年三月十六日、この新聞コピーを持参しての再度の訪問で、松本氏は
「間違いなくボクの記事だ」 と記憶違いを率直に認められた。
しかし、松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな大きな間違いが生じたのであろうか。
続く。
ところで、慰霊祭はもう一回あった。翌昭和十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭
(十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる) である。松井日記は次のように記す。
「嚢 (さき) ノモノハ 戦勝ノ誇ト気分ニテ 寧 (むし) ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、今日ハ只々悲哀其 (その) 物ニ 捉 (とら) ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ 迫ルヲ覚エタリ。
蓋 (けだ) シ 南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト ソノ後地方自治、政権工作等ノ
進捗 (しんちょく) セサルニ起因スルモノナリ。
仍 (よっ) テ 式後参集諸隊長ヲ集メ 予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭 (かいちょく) ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)日記にも記されているが、
飯沼日記によればその内容は 「南京入城ノ時ハ誇ラシキ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭又
其気分ナリシモ本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。其レハ此 (この) 五十日間ニ幾多ノ
忌 (いま) ハシキ事件ヲ起シ、戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ此英霊ニ見 (まみ) へンヤ」という趣旨であった。
しかし、この訓示に対する軍人一般の評判はあまり良くなく 「凱旋気相当ニ横溢
シアルハ怪シカラヌトノコトモアリ」 といった批判があり、その夜の晩餐会での
「宣撫ハ兵十人ニ一人ノ支那人ヲ難有ク思ハセヨ」 という要望にも、
「日本兵より支那人が可愛いのか」 という声があったようである。
・・・・
この日、松本氏が深堀 (遊亀、上海派遣軍報道部長) 中佐と南京に居たことは、
『南京新聞』 発行と関連して、前田雄二氏の日記及び 『戦争の流れの中に』
に記されている。
・・・
「南京戦史」 の編集メンバーが初めて松本氏に会ったのは昭和六十一年暮であった。
このとき確認したのは次の四点である。
① 十二月十七日の入城式には参列していない。
② そのころ南京へ行ったのは一回だけ。
③ 汽車で往復した。
④ 参列者は五百人から一千人くらい。
これでほぼ二月説が立証されたとみてよい。
①はジャーナリストがメインイベントたる入城式を抜かして、
慰霊祭だけ参列するはずがない。
マスコミ関係者はもちろん、多くの文化人たちが南京に急行した。
②は前田日記によれば二月七日の確証がある。松本は慰霊祭前に、同盟支局で
支局員たちに会えなかった、と 「上海時代」 に記しているが、
これは翌日から発行の 『南京新聞』 の準備に忙殺されていたのである。
③は汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため十二月二十二日からで、入城式、
慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して揚子江を遡行して下関から上陸した。
④の参列者数は十二月十八日には三千人以上は確実だが、二月七日は各部隊が
長以下数名の代表で参列したためほとんどが将校で、五百人程度であった(石松政敏氏談)。
しかし決定的な確証は、防衛研究所戦史部・原剛氏によってもたらされた。
原氏が発見した二月八日の 『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』『チャイナ・プレス』
には正に相当する同盟配信の記事があったのである。
・・・
昭和六十二年三月十六日、この新聞コピーを持参しての再度の訪問で、松本氏は
「間違いなくボクの記事だ」 と記憶違いを率直に認められた。
しかし、松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな大きな間違いが生じたのであろうか。
続く。
これは メッセージ 220 (kireigotowadame さん)への返信です.