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12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/25 16:28 投稿番号: [222 / 2250]
松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな間違いが生じたのだろうか。


板倉由明著 『本当はこうだった南京事件』 305〜308p

《よく読めば 『上海時代』 での慰霊祭の描写には十二月のものと二月のものが
混合している。松本氏が出席していない十二月の描写は、

前田氏など出席した同盟記者からの伝聞であろう。

その前田氏の 『戦争の流れの中に』 には、日記にもないこの場面が、同様に、
見てきたように記されている。

ジャーナリストの面目躍如だが、同盟系記者の錯誤だけを責めてはいけない。
張本人の松井大将自身が両者を混同しているのである。


昭和二十三年十二月九日、巣鴨拘置所で処刑を控えた松井大将は
教諭師・花山信勝氏に次のように語ったという。

「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、せっかく、

皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。
ところが、このあとでみなが笑った。

はなはだしいのは、ある師団長の如きは 『当り前ですよ』
とさえ言った。」(花山信勝・『平和の発見』)


この文の中での間違いは、二月には柳川中将など第十軍関係者は参列しておらず、
「ある師団長」 とは巷間中島中将と目されているが、すでに北支に移動しており、

これは一月二十四日、上海での転進挨拶の際の暴言の混同であろう。
・・・

言うまでもなく、松井大将は昭和二十三年十二月二十三日に処刑されており、
『上海時代』 の出版はその二十数年後のことである。

順序で言えば松本氏の錯覚は、松井大将の錯覚から誘導された可能性もある。
つまり松井大将自身が慰霊祭を一回だけ、と錯覚 (半ば故意?) していたのかもしれない。


その最大の原因は、東京裁判対策の誤算であろう。
松井大将は裁判に出頭する前に弁明資料として 「支那事変日誌抜粋」 を書き、

基とした日記を始末したという。しかし、この日記の中で、なぜか残った
昭和十二年十一月一日以後の分は、田中正明氏が発見されて、

御殿場の自衛隊に保管されている。

「日誌抜粋」 は戦後の執筆で、申し開きの目的で書かれたものであるから、
南京事件解明には直接役にたたない。


しかし東京裁判に臨むにあたっての、松井大将の 「傾向と対策」 を探る上での
資料としては貴重である。この中で最も力点の置かれているのは、

第三国権益の侵害に対して松井大将のとった措置の弁明で、量として
約四十%を占めている。つまり松井大将は、裁判に於いて

ここが最も攻撃目標にされると考えたのであろう。
中国人に対する日本軍の非行としては、「暴行・掠奪」 が、

ぐっと減って十五%程度に落ちるが、「虐殺」 に至っては全く無いといってよい。
・・・

その 「日誌抜粋」 の 「五、我軍ノ暴行、奪掠事件」 の中では次のようになっている。


「因 (よっ) テ予ハ南京入城翌日(十二月十七日)特ニ   部下将校ヲ集メテ

厳ニ   之ヲ叱責シテ   善後ノ措置ヲ要求シ、犯罪者ニ対シテハ   厳格ナル処断ノ法ヲ

執ルヘキ旨ヲ   厳命セリ。」
・・・この括弧内の日付は一日違う。・・・

推理すれば、全くの記憶違いでなければ、この部分は自己の処置に手抜かりが
無かったことを強調するため、二月の慰霊祭後の訓示を流用したものと考えられる。

・・・
無論、二月に諭した 「非行」 が 「大虐殺」 でなかったことは後述のように明瞭である。

しかし、この錯誤は定着し、その 「意味」 は当初の松井大将の意図と逆に、
あたかも 「大虐殺」 の存在証明と》


されてしまったようです。
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