角良晴のとんでも証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/06 18:31 投稿番号: [235 / 2250]
松井大将の副官角良晴はユウ江門や下関にある大量の死体を見て、
日本軍が虐殺したと勝手に思い込み、戦後とんでもない証言をしました。
それを、板倉由明氏がまとめられていますので、引用します。
『本当はこうだった南京事件』 288〜290p
《角証言とは、どんな内容であろうか。角の書簡数通 (昭和五十八年末より) 及び
編集長・高橋登志郎氏との問答 (昭和五十九年十一月) から、簡単に要約してみよう。
① 南京大虐殺は確かにあった。それは自分の証言するこれ一つだけで、
他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。
② 日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。
③ 日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。
④ 揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。
⑤ 渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。
⑥ 結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。
⑦ 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に 「ヤッチマエ」 と命令した。
⑧ 角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。
⑨ 一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。
角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。
⑩ 十七日、十八日、十九日と角は三度下関を視察したが、ユウ江門から揚子江に出て
(中山碼頭) 右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、
ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。
⑪ 二十日、松井軍司令官と角は自動車で下関に行き、右折して河岸道の死体の上を
静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。
⑫ 最初の電話は第六師団参謀から、二度目は殺害命令を不審に思った
下野一霍参謀長からと思う。下野の回想録 (未発見) には
「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、このことで
谷寿夫師団長の死刑は間違いである」 と述べられているはずである。》
これの間違いは、これまで私が書いてきた事を読んでおられる方には一目瞭然でしょう。
②は言うまでもなく間違い。彼はこの時、蘇州にいて南京を知らない。
③は、中国軍兵士が船を求めて下関を右往左往したのであって住民ではない。
④ 門は通行不自由だった。
⑤ 船がないので渡し賃も何もない。
⑦ 17日は入城式 方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
そして、この時 第6師団は下関にはいない。
第6師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?
そもそも、長勇は上海派遣軍の参謀で、第6師団は第十軍所属、
第6師団が上海派遣軍にお伺いを立てる事自体あり得ない。
従って、この話は全くのナンセンス。長勇の 「ヤッチマエ」 も成り立たなくなる。
彼は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に解釈し、罪の意識から、
このような虐殺話を夢想したのでしょう。 戦後のいい加減な人の作り話も加えて。
愚か!
日本軍が虐殺したと勝手に思い込み、戦後とんでもない証言をしました。
それを、板倉由明氏がまとめられていますので、引用します。
『本当はこうだった南京事件』 288〜290p
《角証言とは、どんな内容であろうか。角の書簡数通 (昭和五十八年末より) 及び
編集長・高橋登志郎氏との問答 (昭和五十九年十一月) から、簡単に要約してみよう。
① 南京大虐殺は確かにあった。それは自分の証言するこれ一つだけで、
他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。
② 日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。
③ 日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。
④ 揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。
⑤ 渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。
⑥ 結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。
⑦ 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に 「ヤッチマエ」 と命令した。
⑧ 角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。
⑨ 一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。
角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。
⑩ 十七日、十八日、十九日と角は三度下関を視察したが、ユウ江門から揚子江に出て
(中山碼頭) 右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、
ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。
⑪ 二十日、松井軍司令官と角は自動車で下関に行き、右折して河岸道の死体の上を
静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。
⑫ 最初の電話は第六師団参謀から、二度目は殺害命令を不審に思った
下野一霍参謀長からと思う。下野の回想録 (未発見) には
「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、このことで
谷寿夫師団長の死刑は間違いである」 と述べられているはずである。》
これの間違いは、これまで私が書いてきた事を読んでおられる方には一目瞭然でしょう。
②は言うまでもなく間違い。彼はこの時、蘇州にいて南京を知らない。
③は、中国軍兵士が船を求めて下関を右往左往したのであって住民ではない。
④ 門は通行不自由だった。
⑤ 船がないので渡し賃も何もない。
⑦ 17日は入城式 方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
そして、この時 第6師団は下関にはいない。
第6師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?
そもそも、長勇は上海派遣軍の参謀で、第6師団は第十軍所属、
第6師団が上海派遣軍にお伺いを立てる事自体あり得ない。
従って、この話は全くのナンセンス。長勇の 「ヤッチマエ」 も成り立たなくなる。
彼は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に解釈し、罪の意識から、
このような虐殺話を夢想したのでしょう。 戦後のいい加減な人の作り話も加えて。
愚か!
これは メッセージ 234 (kireigotowadame さん)への返信です.