入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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Re: 1月8日 ラーベの日記

投稿者: akbsol333e 投稿日時: 2009/12/17 04:02 投稿番号: [280 / 2250]
あなたはすごいですね
ちょっと震えちゃいました。

時系列で追えなかった南京攻略が分かりやすい
昨日徹夜して携帯で170位まで読んだけどもう一度PCで読み返します
参考書籍がたくさん出てきますが推薦図書(複数で構いません)はありますか?ちょっと混乱してて何から読めばいいのか分からなかったもので
匿名で急に失礼かと思いましたが教えていただけると嬉しいです

1月8日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/16 18:40 投稿番号: [279 / 2250]
一月八日

ローゼン、ヒュルター、シャルフェンベルクの三氏が、明日イギリス大使館の二人と
いっしょに南京にくると福井氏が知らせてくれた。

ローゼン、ヒュルターの家はどちらも無事だ。ドイツ大使館も。
ただローゼン家からは車と自転車、それから酒が数本盗まれた。

イギリス人の家の様子はわからない。シャルフェンベルクの家は安全区の外
だったこともあって、ひどい荒らされようだった。

ヒュルターの家に泊めてもらわなければなるまい。
こまったことに、どこも電気や水がとまっている。

そこで福井氏にまた手紙を書いた。
アメリカ大使館の人たちの家も同じ状態らしい。

みな、寒い寒いと言いながら、大使館の大きな暖炉にへばりついているという。
電気や水が使えるよう、日本軍に要求すればいいと思うのだが。

福井氏がいうには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。
ドイツ大使館に、おそらく他の大使館にもだろうが、盗まれた車を弁償するという。


今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしているという噂が、
またもやひろまった。

それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。
まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。

日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。

そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、相当数の難民が
日本大使館を襲おうと考えていたという。

このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。
いままで安全区が平穏でいられて、本当によかった。

どうかこういう悲惨なことにならないようにと祈るばかりだ。


*   この中国人の反乱は、便衣兵による攪乱工作であった。
   それは、安全区に潜伏していた郭岐が手記に書いている。

郭岐の手記は翌日に記す

1月7日 川越大使の談話

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/15 18:33 投稿番号: [278 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 261〜263p

近衛首相は、六日、四相会議(首相、陸、海、外相)を招集して、十二日までは待てぬ、
十日までにする、と定め、回答を催促する内閣書記官長談を発表した。

この声明をうけて、翌日、駐支大使川越茂が、上海で、談話を発表した。

「日本軍占領地域内の支那民衆は、
国民政府からはなれて新しい国家の出現を熱望している   ―   。

新しい中支の政権は従来の南京政府の如き軍閥政権でもなく、
古い政治家の政権でもなく……財界人、実業家を中心とする

『経済的民衆的国家』 が出現するものと思われる。
新政権が出現するには、日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ。……

日本は腰をすえて、支那民衆を援助する。
再び国民党政権の復活はあり得ないことを、十分に認識させてやらねばならない」


蒋介石が和平を求めてこなければ、北支のほかに中支にも新政権を誕生させるぞ、
というよりも、もはや蒋政権に用はない、

はやく否認すべきだとの趣意がうかがわれる発言である。



戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 473p

このような情勢のうちに、現地にある川越大使もまた一月七日、
上海で新聞記者に対し

「中支新政権が出現するためには、日本改府が国民政府を公式に否認することが
必要だ」 という意見を発表した。

1月7日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/14 18:50 投稿番号: [277 / 2250]
一月七日

福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。

氏の話だと、なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、
と東京から厳命があったとのこと。

また、行政的な職務 (この私、ラーベの 「市長職」 も?) も我々 「よそ者」 ではなく、
すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。

そういわれてしまっては、手も足もでない。
願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。


南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。
「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。

なかにはすでに犬に食われているものもあります。
でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。

この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと
頼んできましたがだめでした」。

福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。


きょう午前十時ごろ、私の留守中のことだった。日本兵が一人、
使用人の部屋に押し入り、女たちが悲鳴をあげながら私の住居へ逃げこんできた。

屋根裏部屋まで追っていったところで、この日本兵は、たまたま私を訪ねてきた
通訳の日本人将校に取り押さえられ、放り出された。

占領されて今日で二十六日。
南京のヨーロッパ人住宅の治安状況がどんなものか、これでもわかるだろう。


リッグズが今日の視察の報告書をもってきた。
うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。

この人は病院に運ばれ、身の上を話した。
十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。

残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。
家は中華門の近くだそうだ。


わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。
弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子どもをなくした。

全員日本兵に射殺されてしまったのだ。

せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、
これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸 (なきがら) を放り出したという。

中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ、というのが、かれらの言い分だった。



*   義和団の前、清国の官憲が、“中国人の訴えを信用するな”
   とやっていたが、まさにこういう事だろう。

   「なけなしの金で棺桶を買った」 というが、どこで棺桶を売っているのか?
   どこにそんな店が開いている?

   「棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、
   亡骸 (なきがら) を放り出した」

   と言うが、日本兵は中国語が分からない。そんな個人情報をどうして知り得る?

   棺桶を買ったのが、どこの誰とも分からないのに、わざわざ捜し出して
   埋葬の妨害に出動し、嫌がらせするほど日本兵は暇か?

   仮に、中国人が日本軍に密告したところで、そんな事で一々出動するか?
   追い返すのが、普通だろう。

12月6日 回答期限を十日に変更

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/13 16:05 投稿番号: [276 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 262p

駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、ドイツ側は中国に回答を
督促している、と語り、外相は、十二日まで待つと応えた。

だが、近衛首相は、六日、四相会議 (首相、陸、海、外相) を招集して、十二日
までは待てぬ、十日までにする、と定め、回答を催促する内閣書記官長談を発表した。



戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 472p

日本政府は、独大使を通じて示した和平交渉条件の中国側回答が一月五、六日ころ
までには到着するものと期待しつつ年を越した。

ディルクセン大使は、従来の責任上これを捨てておけないので、
一月四日、広田外相に対して国民政府との接触経過に関し中間連絡を行う

とともに、本国政府及びトラウトマン大使にあて、
日本政府から速やかに国民政府の諾否を求められていることを通告した。

(このとき、中国側回答期限を十二日ころとしたが、
  のち六日の四相会議で十日ころとするよう変更した)


一月六日、しびれをきらした近衛総理は、陸海外三相を招き、
国民政府にだめを押す相談をした結果、

早く回答しないとためにならぬという意味の内閣書記官長談を発表した。

この談話のなかでは 「もし中国側が如実に反省の真意を示すならとにかく、
わが方としては、あくまで所期の目的達成に邁 (まい) 進すべく、

今後この決意のもとに百般の対策を講ずる」 と述べている。
このころ、すなわち年末から年始にかけて日本側の対支態度には非常な変化があった。


中・北支における軍事的進展と北支、蒙疆における新政権の成立等により、
軍部はもちろん政党、ジャーナリズム、有力な国民層とくに右翼団体等の間に、

蒋介石の国民政府を相手にしなくても中国側を屈服させることは
必ずしも不可能でない、という空気が濃厚に台頭してきたので、

講和促進論者は沈黙せざるをえない情勢となっていた。
従って、前記書記官長談も、一般国民には和平無用論のような印象を与えた。


しかし参謀本部首脳は、長期戦に対する戦力の限界を考え、和平策を堅持していた。

1月6日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/12 16:13 投稿番号: [275 / 2250]
一月六日

ばんざい!   アメリカ大使館のアリソン、エスビー、マクファディエンの
三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。

すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが
上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。

アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。
これで日本の軍当局から米と小麦粉 (これは軍が略奪したものだが) が買える。

価格は高いが (米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。
石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。

難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。


韓はあまり乗り気ではない。
米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。

すでに南西部では砲声が聞こえたという。
「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。

けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかった。
「決してそんなことにはならないよ」


十時ごろ日本軍のトラックがきて、うちの収容所から下関の発電所の作業員を
十五人連れていった。みなしぶしぶ出かけていった。

前回、食事をちゃんと与えると約束しておきながら、ろくなものを食べさせて
もらえなかったからだ。まったくありつけなかった者もいた。

それだけではない。発電所ではなく、市の南部の門のちかくで
塹壕 (ざんごう) 掘りをさせられた者も何人かいた。


午後五時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、
その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。

自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。
資産を引き渡す?   冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。

「仕事を譲ることに関しては異存はありませんが、これだけはいっておきます。
治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。

難民の住まいの大半は壊され、略奪されている。
焼き払われてしまった家もあるのだ。


さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事をしたものかと相談した。
また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても。

日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。
どうやら狙いは我々の金だけらしい。

つまり、「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」というわけだ。
しかし我々の考えは全く違う。なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。

アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。
といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。

1月5日 石川達三南京到着

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/11 18:37 投稿番号: [274 / 2250]
『生きている兵隊』 中公文庫のあとがき・解説 (半藤一利) 205pより


《南京に着いたのは、十三年一月五日。
念のために書くが、南京を日本軍が攻略したのは十二月十三日。

石川はずっと遅れてその地に着いている。

東京裁判でいう暴虐事件を目撃することはなかったが、なお血なまぐさい、
なまなましい事件後の状況を見聞することは可能であり、

そこで日本軍の実態に接してふかい衝撃をうけた。
その回想が残されている。


「小便くさい貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。

南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、
死の町という言葉がピッタリでした。

はじめて目撃した戦場は、ショックでした」

そして南京で八日、上海で四日、精力的な取材をすませると、ただちに帰国する。》



*   ここでも、彼は、他の善良な日本人と同じ勘違いしている。

   「南京市民は難民区に隔離され」 と言っているが、
   別に日本軍が隔離したわけではない。

   難民区は外国人が作ったのであって、便衣兵の温床・隠れ蓑となっていた。

   日本軍は逆に、難民区を解体しようとしていた。
   そして、それを外国人は快く思っていなかった。


   次に
   「町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、・・・ショックでした」

   と衝撃を受けた感想を述べているが、
   彼も、この死体を作ったのは日本軍だと勘違いしているようだ。

   本当は、中国軍脱出の時の混乱による同士討ちで生じたものなのだけど。


   結果として、彼が、描きたかった残酷シーンに相応しい現場の状況を見聞でき、
   好材料を得て 『生きている兵隊』 という、

   日本兵が残虐行為を働く小説が完成する事になる。

1月5日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/10 18:35 投稿番号: [273 / 2250]
わがジーメンス・キャンプはほかの収容所からあまり芳しくない評判をとっている。
韓がちょっぴりよけいに米を配るからだ。なにしろ韓は気がいいから!

いくらなんでも五百平方メートルの庭に六百二人は狭すぎるので、
難民を一部、他の収容所に移そうとしたがうまくいかなかった。

ここだけが安全だと思っているので、だれも出たがらない。
まあ、しかたないだろう!

衛生状態が気になる。これについては私もどうしていいのかわからない。
伝染病がひろがらないといいが。

今日の午前までは水が出たのだが、午後になってとまってしまった。
電気はまだつかない。それなのに、近所ではいまだに家が燃えている。


登録はまだ終わっていない。何万人もの女の人が乳のみ児をかかえて
五列に並んだまま、もう六時間も外で待たされている。

果てしなく長い行列だ。このきびしい寒さのなか、
いったいどうやって耐えているのかと思う。


またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。クレーガーの話では、
門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。

機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。
南京の実態がばらされたら困るからな。



*   「漢中門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が・・・
   機関銃で殺された市民」

   と言っているが、本当に市民なのだろうか?

   ラーベ達外国人は、12月12日夜の、中国兵脱出の時の混乱で生じた、
   城内の大量の死体ですら、日本軍 (まだ南京城内に入っていなかった) の

   仕業と思い込んだくらいだから、そのつもりで聞いていた方がいいだろう。

   便衣兵の処刑によるものなのか、
   戦闘で殺されたものなのか、

   脱出時の混乱で死んだものなのか、
   判別はつかない。

支那軍将校…犯罪を日本軍のせいに

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/09 18:32 投稿番号: [272 / 2250]
ラーベ達が日本軍の犯罪と決めつけていた事が、実はそうではなく、
中国兵の犯罪で有った事が判明しました。

それは、『ニューヨーク・タイムズ』 の記事からですが、
それを東中野氏の本 『南京大虐殺の徹底検証』 から引用してみましょう。


東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 275〜276p

〈一九三八年一月三日上海発の 『ニューヨーク・タイムズ』 の記事
(一月四日付) である。

「元支那軍将校が避難民のなかに   ―   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」
と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。


《南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留している
アメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を

匿 (かくま) っていたことを発見し、心底から当惑した。

実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に
権力ある地位につけていたのである。


この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから
女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、
砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、

それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。

この元将校たちは、南京で掠奪したことと、
ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、

その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、
アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。

この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、
恐らく処刑されるであろう。》


南京安全地帯は中立地帯であった。
そこに、ベイツやスマイスなどアメリカ人教授が支那軍将校を匿っていたのである。

これは重大な中立違反であった。その上、あろうことか、〈市民に変装した
現役の将校たち〉 が掠奪や強姦を重ねては、日本軍の犯行にしていた。

アメリカ人教授が 「心底から当惑」 したのも当然であったろう。しかも、彼らの十号文書
(十二月十八日付) は、安全地帯に支那兵は一人もいないと保証していたのであった。

しかし、この安全地帯で生じた重大な出来事が、不思議なことに、
『南京安全地帯の記録』 には収録されていない。

日本軍告発という目的に、合致しなかったからであろう。
しかも、これは氷山の一角に過ぎなかった。〉

12月30日〜1月4日 中国の和平対応行動

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/08 18:42 投稿番号: [271 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466〜467p

十二月三十日から翌年一月一日まで、
中国側は最高国防会議 (主席蒋介石、副主席汪兆銘) を開いた。

この会議でトラウトマン大使がもたらした回答を討議したもようであるが
その結論は明らかでない。

(汪兆銘の回想録によれは、この和平交渉条件受諾を決定したというが、
ドイツ側資料からみて、これは信じ難い)

ただ本会議において、蒋介石が行政院長の職を辞し、
孔祥煕が院長、張群が副院長になることが決定し、元旦の日に正式就任した。

二日、白崇禧、閻錫山等の将領は前線に帰り、蒋介石も四日、開封方面に向かい出発し、
あとの処置は孔、張に任されることになった。



児島襄著 『日中戦争4』 262p

その翌日(3日)、国民政府は、正式に次のように決定した。
「否認将派代表赴南京與日方講和」

(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)

  和平拒否   −   である。

  だが、この決定は極秘にされ、ドイツ側にもつたえられなかった。


   −   日本では、

駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、
ドイツ側は中国に回答を督促している、と語り、外相は、十二日まで待つと応えた。

1月3日 蒋介石 和平交渉使派遣拒否

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/07 18:20 投稿番号: [270 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 262p

《その翌日 (3日)、国民政府は、正式に次のように決定した。

「否認   将派   代表赴南京   與   日方講和」

(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)

  和平拒否   −   である。
  だが、この決定は極秘にされ、ドイツ側にもつたえられなかった。》


*   中国は 「和平拒否」 を決定していながら、ドイツ大使に伝えないため、
   当然の事ながら日本にも伝わらない。

   そのお陰で日本では、無用な会議を続けることになる。
   これも中国側の作戦かも知れない。

   無用な疑心暗鬼をさせて、日本を精神的に疲れさせるためとか。

1月3日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/06 16:09 投稿番号: [269 / 2250]
一月三日

きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に
医者の許伝音氏のところからやってきた。

フィッチ様!

本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして
日本兵に射殺されました。

近所の家が日本兵に占領されているため、
わが家はいま、逃げてきた婦人たちでいっぱいです。

私はシュペアリング氏に手紙を書き、
すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願いしました。

シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、
だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか?     敬具
   許伝音


本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、
私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。

マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。
田中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。


これは実に計画的で残虐な犯行だ。

劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。五人の子どもがいる。
夫がかけつけ、日本兵の横っ面をはって追い払った。

午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、
台所に隠れていた劉をひきずりだした。

近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。
だが日本兵は聞き入れなかった。


田中氏は、ただちに軍部に報告すると約束した。
私も氏が約束を果たさなかったとは思っていない。だが結局、沙汰やみだ。

兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。
それ以上こらしめたという話を聞いたことがない。

せめてもの慰めのつもりだろう、田中氏は、そのあととてもうれしいことを教えてくれた。

目下蕪湖にいるローゼン、それからたぶんヒュルターとシャルフェンベルクの三人が、
一月五日に南京に到着するそうだ。

ということは、アメリカ大使館の人たちと同じ日だ。そちらからはすでに連絡がきている。

  (数行略)

給食所と収容所の決算報告で、委員会の財政がかならずしも楽ではないことがわかったが、
これには改めてうなってしまった。

要するに、働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていたのだ。
なんせここは中国だ。手数料なしにはなにひとつ運ばない。

今日うちの庭で、とほうもない値段をふっかけようとした野菜売りをつかまえた。

ちょうどそこにいあわせた女の人たちが品物をそっくり買いとろうとしたので、
私はそれをとめ、そいつを追い払った。


*   >朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持って<

   「日本兵 (陸軍) はピストルを持っていない」 と私は聞いている。
   「将校が自決用にピストルを持っている」 とも。

   自決用なら、弾に予備はあまり無いだろう。
   ピストルを持って来た兵士   便衣兵の変装ではないのだろうか?

   中国人が日本兵にビンタというのもどうだか?
   ビンタは日本では普通だが、中国でも普通の習慣だったか?

*   「働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていた」

   ラーベ達が善意で無償で働いているのに、当の助けられている中国人が
   手数料をとり、人の弱みに付け込み、途方もない値段を吹っ掛けていた。

   ラーベ達も大概で、自分達が何をしているのか気づくべきだろうに。

1月2日 蒋介石 和平拒絶を命ず

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/05 16:03 投稿番号: [268 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 261p

一月二日、外交部長王寵恵が、
ドイツ大使トラウトマンから対日回答の督促をうけていると報告すると、

「日方所授条件等   於征服   與   滅亡我国、與   其屈服而亡、不如戦敗 而亡之為愈」

(日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。
屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい)

  蒋介石は、大声で、そう、叫ぶと、王部長に命令した。

「応即厳詞拒絶」   (断乎として拒絶せよ)



*   日本は、別に、中国を征服して滅亡させるような条件などつけていないのだけど。
   中国は、自分で戦争をしかけておきながら、勝手に滅亡の妄想をしている。

   日本はただ、早く戦争を止めたいだけなのに。
   しかし、蒋介石は、断固拒絶を命じました。

   蒋介石は、またしても、和平拒絶を選んだのです。

郭岐が明かした略奪者

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/04 18:38 投稿番号: [267 / 2250]
ラーベは、略奪は日本軍がやっていて、中国人はかわいそうな被害者だと
思っていましたが、実は彼らこそが略奪の犯人だったと郭岐は書いています。

それは、松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 138〜141p にあります。


《ところで、いささか長文になるが、次に重要な文章を引用する。
これこそが 「略奪」 の真相だったと考えられるからである。


〈十二月十二日の後、城門は大型の荷車が通行できず、汽船の運行も断絶していたのに、
なぜ上海路ではあのように売買がおこなわれたのだろうか。

また商品はどこから来るのだろうか。
これらは   簡単なことであった。

一夜のうちに商品はすべて揃い、選ぶ手間も運ぶ時間も省け、
そのうえどれも使えそうな商品ばかりだった。

一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、
昼は隠れて夜活動するというねずみのような生活をしていた。


夜の間は獣兵は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、
兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。

人々は難民区外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。
当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。

だから一晩動くと翌日には手に入らない物はなく色々なものがすべて揃った。

長い間世に出ることのなかった骨董書画、磁器や、馬桶、たんつぼ、箸、お碗、
小皿、電球までもが揃っていて、一つの家庭を作るのも容易なことだった。

半日もかからずにすべて買いそろえることができ、
しかも価格を勝手に決めることができた。

あるときなど、私は銅貨三枚で茶壷を買ったが、帰り際に売っていた人は
「友よ、持って行けよ!」 とでもいうように笑っていた。

真新しい洋服でも、おそらく二元あれば買え、新品のソファーが三元もしなかったし、
狐の皮の長衣が十数元で、これを着て日本兵に仕えて荷物運びをしている者もいた。


一番良い上等のロシア絨毯が数元もしなかったが、
惜しむらくは、それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていたことである。

その中には、世に伝わる名品もあり、長い間、世に出てこなかった物もあったが、
今無造作に道端に並べられていた。

ある人が地中から金の碗を二つ掘り出したが、茶碗のように大きく、
表面がとてもきたなかったので、てっきり鋼製だと思い、上海路に並べて売っていた。

注意深い人が、手で持ってみたところ思ったよりも重量感があったので、
表面を少し力を入れてこすってみると、美しい光沢があったので、金ではないかと疑った。

そこで二角で二つの碗を買い取って、鑑識眼のある人に見てもらうと、
本当に金製であったとのことである。

その他にも骨董品の値打ちが分からずにやたらに買った人は多く、
磁器一つとっても、六朝時代、康煕帝時代のものまで多く含まれていた。

しかし、そのとき盗んで売った者も、買って持っている者も何の罪もとがめられなかった。
ただ金陵女子大の黄女史だけが入り口のところに次のように書いて貼っていた。

「略奪品を買って持ち込むべからず」 と。
・・・・〉
(②234頁〜235頁)


この文章を読んで、読者は誰が書いたと思ったろうか。

「獣兵」とあるのは日本兵を意味するのでとまどうかもしれないが、
これは『資料集②』に載っている郭岐の手記の一部である。

先に書いたように、彼は南京戦当時、支那軍の指揮官であった。》


注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊『南京事件資料集』の事
   ②は中国関係資料編


*   「それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていた」

   つまり、中国人が略奪し売っていた 「書画や古い磁器」 を
   日本兵が買ったと言うのです。

   ところが、善良な日本人はその人達を略奪者と見なしていますね。
   ひどい話です。

12・13 南京史実を守る映画祭 開催

投稿者: Marc_Laforet 投稿日時: 2009/12/04 13:20 投稿番号: [266 / 2250]
■□■□■   南京・史実を守る映画祭   ■□■□■
http://jijitu.com/filmfestival2009/

【日時】   2009年12月13日(日)   10:00開場
【場所】   東京都世田谷区区民会館ホール

【料金】   前売券900円、当日券999円。
※   一作品ごとに入れ替えを行います。
※   前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10

【プログラム】
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
  ※ゲスト:鈴木邦男さん(一水会最高顧問)、武田倫和さん(映画監督)
  ※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー   遥かなる希望の道』(125分)

主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp

1月2日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/03 18:28 投稿番号: [265 / 2250]
一月二日

《本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、
女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。

クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。

塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、
私もあとを追おうとした。

ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。
さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。

その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。
やつらはあわてふためいて逃げていった。

ただちょっと様子を見にきただけだというのだ!


十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、
今日ようやく退院が許された。

入院費は一日当たり八十セント。お金がないというので、私がかわりに払った。
日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。

自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを
口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。

自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。
「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」

どうぞどうぞ!   とっくに心づもりはできている。
お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ!


安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。
何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。

値段の交渉をしている人もある。
道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。

だれもが日本の腕章や国旗をつけてとび回っている。
横町や道路の間の空き地には、藁小屋が所せましと建ち並び、難民村ができている。

わが家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。
美しかった生け垣もあっという間に踏みつぶされ、見る影もなくなった。

なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!

昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。
スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。


我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。
といったからといって、けっして友人としてではない。敵としてだ!

かつての日本軍のように、時間どおりに爆弾を落としていく。

だが、いままでのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、
つまり南の飛行場かその近くに限られている。

日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。
空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。

だが、そうであってほしい。
さもないと、いままでよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。

いまの安全区の混み具合ときたら、日中は上海よりすごい。
そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。

そう思っただけでぞっとする。》



*   「日本軍の略奪につぐ略奪」・・・「軍の放火だ。」・・・「道路の両側には
   行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。」

   とラーベは言っているが、おかしいと思わないのだろうか。
   その商人はどこから品物を仕入れたのか。

   実は、彼らこそが略奪の犯人で証拠隠滅のために放火している
   とは考えられないのか?

   日本軍に放火のメリットなどないのに。

1月1日 蒋介石の戦争決意

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/02 18:37 投稿番号: [264 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 261pより

一九三八年 (昭和十三年) 元日

蒋介石は突然に内閣改造をおこない、自身は行政院長を辞任して、
「抗日戦之指揮」 に専心する旨を言明した。

副院長孔祥煕が行政院長に昇格し、副院長には秘書長張群が転出した。

しかし、改造の主眼は 〝和平派〟 の追放におかれ、蒋介石は、
前述の国防最高会議で和平交渉を提議した交通部長愈飛鵬、

教育部長王世杰を解任し、それぞれ張家ケイ (王+敬)、陳立夫を後任とした。

ラーベの日記 1938年1月1日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/01 18:28 投稿番号: [263 / 2250]
一九三八年一月一日

(前の部分   日本軍の問題に関係ないので省略)

夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。
戸を開けないでいたらいなくなった。

見ていると中学校へむかった。ここはたえず日本兵におそわれている。
私は庭の見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。

こうしておけば、いつお越し下さってもすぐに馳せ参じられる。
だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。



*   既に慰安所を作っているのに、夜中に 「女集め」 に来るか?
   しかも、喚いただけで、サッサといなくなった??

   日本の正月は1月1日だが、中国は旧暦で祝う。
   従って、売春婦が正月休みだとは限らない。

   この“日本兵”とみられる者の行為、ラーベ達に日本兵を悪く印象づけさせるため、
   わざとやっているとしか見えないのだが。

perusona2001さんへ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/30 19:09 投稿番号: [262 / 2250]
ありがとうございます。


最初の頃の 「7 もしもし」 に 「昭和元年の南京事件」 と書きましたが、
あれは 「昭和二年」 の間違いでした。

書いた時に気づかず、最近になって気付いたので訂正ができませんでした。

元々は、「第一次南京事件」 としていたのですが、
それ以前にも南京の虐殺事件は沢山あり、

「第何次」 とするのが、正しいのか判らなくなり、
年数でやったら、間違えまえました。

よろしく。

12月31日 和平条件連絡の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/30 18:26 投稿番号: [261 / 2250]
戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』467pの注

注    参謀本部では、オット少将の情報によれば、
    独大使には講和交渉条件細目一一カ条が伝わっていないとのことなので、

    抽象的な四条件だけでは中国側も理解できまいと判断し、
    この一一カ条も独大使から中国側に提示するのを許容するよう、

    十二月三十一日、陸相から外相に申し入れた。

   (参謀本部は当初から具体的条件の提示を主張していたが、
    多くの閣僚はこれに反対であった)

kireigotowadameさん へ

投稿者: perusona2001 投稿日時: 2009/11/29 18:43 投稿番号: [260 / 2250]
貴方のメッセージを少し読ませてもらいました。
非常に勉強になりました。
最初から最後まで読ませてもらいます。
ありがとうございます。

12月30日 ドイツの説得と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/29 16:12 投稿番号: [259 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 260〜261p

駐支大使トラウトマンは、しかし、日本側の勝利を確信しているので、
軍事顧問A・ファルケンハウゼン中将を通じて、中国側説得をこころみることにした。

十二月三十日、大使は中将に中国軍の抗戦能力を質問した。

「適切な軍事措置、国民の戦意高揚、十分な弾薬補給という三要件が確保されれば、
あと六カ月間は戦えるでしょう」

「そりゃ、楽観的すぎると思うね。将軍」
大使によれば、大使は、顧問ファルケンハウゼン中将の言葉から、

中国側も同様の 「自己過信」 をしているとみなし、「極秘情報」 を提供して、
中国側の反省をうながすよう依頼した、という。

だが、顧問ファルケンハウゼン中将による説得工作は、逆効果をうんだだけであった。



戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p

十二月三十日から翌年一月一日まで、
中国側は最高国防会議 (主席蒋介石、副主席汪兆銘)を開いた。

この会議でトラウトマン大使がもたらした回答を討議したもようであるが
その結論は明らかでない。

(汪兆銘の回想録によれは、この和平交渉条件受諾を決定したというが、
ドイツ側資料からみて、これは信じ難い)

ただ本会議において、蒋介石が行政院長の職を辞し、孔祥煕が院長、
張群が副院長になることが決定し、元旦の日に正式就任した。

12月28日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/28 16:32 投稿番号: [258 / 2250]
宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙

ジョージヘ!

鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。
元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。

もうかなり腐敗が進んでいるので、
できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。

私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、
日本当局からの許可なしでは不安らしい。

許可がいるのかなあ?   もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
よろしく!


フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。
この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。

これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。
いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。


スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。
岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。

今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。
そうすればこちらとしても保護しやすい。

もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。
私はきっぱり言った。

「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。
日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。

もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や
他のドイツ人といっしょにさっさとクトウー号で逃げていましたよ」

岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。


それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、
政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」

それについては、ただ次のように答えるしかなかった。
「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、

ドイツ人の家も持ち物も無事でした。略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、
こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからです。

誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。

舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、
みんな太平路にありました。太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」


七時半ころ、下士官が一人、私の衛兵といっしょにやってきた。
二人ともがっしりした体格で銃剣をたずさえ、泥だらけの軍靴を履いていた。

おかげで、カーペットがすっかり汚れてしまった。
この二人は私の護衛を命じられているのだそうだ。

すぐにまた外へ出ていって、この雨や雪のなかを歩きまわらなければならない。
外はひどい天気なので、さすがにちょっと気の毒になった。

夜の九時ころ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。
私が出かけようとしたときには、やつらはすでに食料貯蔵室にもぐりこんでいた。

私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。
ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ!

クレーガーが私に知らせにきたときには、
こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げだしていた。

(字数の都合で、以下略)


*   またもや日本兵の侵入?   もはや第16師団しかいないのだから、
   状況証拠からするとラーベのところに侵入していたのは第16師団の兵士

   かと言うことになるのだが。はたして?

12月28日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/27 18:24 投稿番号: [257 / 2250]
  十二月二十八日

あいもかわらず、放火がくりかえされる!
まるで重い病いにでもかかっているようだ。

おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。
難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。

酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。
慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。

それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから!


誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。
そのため何万人もの人が登録所につめかけた。

安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。

私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。
ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。

なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。
そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。

私が通ったとたん、あっというまに元通り埋まってしまう。
休憩時間にでもあたったら、ここから抜け出すのは並大抵のことではないだろう。


今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。
こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。

難民はいくつかの学校に収容されている。
登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。

保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。
何人か進み出た。ある所では、五十人くらいだったという。

彼らはただちに連れ去られた。生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、
貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。

それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、一組ずつひきずり出して
銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げこんだというのだ。

そのうちの十人が逃げのびて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。
人々は喜んで服をくれたという。


これと同じ内容の報告が三方面からあった。
もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。

こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。
ベイツはいまこれについて詳しく調べている。

ただ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、
よくよく気をつけなければならない。

知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。



*   掃蕩作戦は既に終了している。もう第7連隊はいない。

   「五人ずつ縛って、銃剣で刺し、火の中に投げ込む」 と言うが、
   5人縛られたままで倒れた者を、どうやって火に投げられる?

   一人を動かそうとしたら、つながっている他の四人が邪魔になって動かせない。
   ロープを切ったら、そのロープは短くなって、次には使えない。

   また、五人ずつ縛られていて、どうやって塀を乗り越えられる。
   三方面から、同じ内容の報告という事は、攪乱工作による、デマ宣伝の可能性大。


   清国の官憲が 「中国人の訴えを信用するな」 と言った事が想い起こされる。

12月27日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/26 18:44 投稿番号: [256 / 2250]
  十二月二十七日

サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに
二十セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。

もみくちゃにされて、ひきさかれそうになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが
押しつぶされそうになっているのに気がついて、私はあわてて中止した。

プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。
いずれ折を見て、だれがまだもらっていないか聞いてみよう。

今日、本部を片づけた。

仕事もないのに、ここには怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。
ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿になった。


鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五カ所も銃剣で刺されている。

金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、
そのうちの一人だという。

この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。
目下この方法が取られている。

さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、
なにかあったのか、とうるさいからだ。


今日、張と韓が、新街口(ポツダム広場)に日中合弁商店ができて、
ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。

私は韓といっしょに確かめに行った。そして − はからずも、
この建物に放火する現場を目撃したのだ!

日本軍はこの街を破壊しようというのか!



*   日中合弁の店を日本軍が何のために放火しなければならないのか?
   自分で金を出して、作って、自分で放火?

   だったら最初から作らなければよい。意味ないだろうに。
   なぜ、日本軍の放火と決めつけるのか。

   こういう事をするのは、日本軍と中国人が仲良くするのを好まない、
   便衣兵のしわざとは、考えられないのだろうか。

12月27日 中国側の和平案検討

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/25 18:45 投稿番号: [255 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』259〜260p

十二月二十七日、蒋介石が国防最高会議を招集して、日本側提案を討議の対象にすると、
意外にもとにかく交渉すべきだと主張する者が、いた。

交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰らである。
そして、会議後、交通部長愈飛鵬は大使トラウトマンを訪ねた。

「中国としては、日本の条件をうけいれるべきでしょうか。
大使閣下のご意見をうかがいたい」

「残念ながら、本使はその種の意見をのべる立場におりません」
「それでは、結局、貴国のお力で停戦にもちこむことはできないのでしょうか」

  交通部長愈飛鵬は、大使トラウトマンの明答を得られぬまま、
肩をおとして帰っていった。


  蒋介石は、憤然とした。

「今日除投降無和平、捨抗戦外無生存、彼等実昧於大勢、不知国家利害、

此革命之所以未能成功、一至於此也」

(いまや降伏以外には和平はなく、抗戦する以外に生存の道はない。
彼らは世界の大勢にくらく国家の利害も知らない。

革命が成就できないゆえんは、まさにここにある)


蒋介石は、ソ連の援助をもとめる決心をかため、立法院長孫科にモスクワ行を指示した。
行政院副院長孔祥煕は、ドイツ商社 『HAPRO』 代表H・クラインをまねいて述べた。

「(日本との)和平交渉開始の努力が成功しなければ、国民政府は、
たとえわが国が経済的に破綻しようとも、また、

たとえわが国民をソ連の腕の中におしやろうとも、最後まで抗戦するつもりです」

H・クラインから通報をうけた外務次官H・マケンゼンは、駐支大使トラウトマンに、
ソ連との接近強化は中独関係を改変させる旨を中国側につたえるよう、指示した。

同時に、次官マケンゼンは、駐日大使ディルクセンにも、

中国の赤化は防共協定にそぐわない、不満があっても日中関係を正常化して
中国の赤化を防止すべきだと

日本政府に勧告せよ、と訓令した。

駐日大使ディルクセンは、その程度の勧告で日本側の考え方を変えられるものでもない、
と思ったので、とっさには行動しなかった。


*   「いまや降伏以外には和平はなく」 と蒋介石は言ってるけど、
   日本はそこまで解からん事を言っていない。

   なぜ、彼らは、このような妄想をして、
   解決を不可能にするのだろうか?

   もともと、戦争を仕掛けたのは中国であり、
   日本は大幅に譲歩した和平案を出していた。

   それを蹴って戦争を続けたから、こうなっただけ。

   全ては、自分のまいた種。自分の責任だろうに。
   どうして、自分たちの非をさとれないのだろうか。

12月26日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/24 18:56 投稿番号: [254 / 2250]
ヨーロッパ人の家をのこらずリストアップし、とられた品物の
「完全なリスト 」 を作って提出してくれと、高玉が言ってきた。

私は断った。大使館の仕事じゃないか。
第一、そんな面倒なことを引き受けて貧乏くじをひくのはまっぴらだ。

最後まで無事だった家があるのかどうか、あるとしたらどの家なのか、
それさえ正確に知らないというのに。


クリスマスの二日目の今日、私はあいかわらず家にいた。
難民が心配で、家を空けられない。だが、あしたにはまた本部で仕事がある。

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。

米はあと一週間しかもたないだろうとスマイスはいっているが、
私はそれほど悲観的には見ていない。

米を探して安全区にまわしてくれるよう、
何度も軍当局に申請しているのだが、なしのつぶてだ。

日本軍は、中国人を安全区から出して、家に帰らせようとしている。

そのくせいつ汽車や船で上海にいけるようになるのかと聞いても、
肩をすくめるだけだ。

「それは当方にもわかりません。川には水雷がばらまかれているので、
定期的に船を出すのはとうてい無理でしょうな」


うちのボーイやコックが、食べものをいまだにちゃんと調達しているのには
いつも驚かされる。とくに私の家では奇跡に近いほどだった。

二週間ほど前から中国人を三人泊めているので、その人たちにも食事を出している。
幸運にもそれでもまだ足りているのだ。

ひょっとすると、いまや私を心から愛してくれている難民たちが、
いざとなると食べ物を手に入れる手伝いをしてくれているのかもしれない。

私は毎日目玉焼きを食べているが、
卵がどんな形をしていたかさえわすれてしまった人もいるのだ。


ミス・ミニ・ヴォートリン。実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、
アメリカ人で、金陵女子文理学院の教授らしい。

大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、
びっくり仰天して反対したそうだ。

最終的には、男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。

ところで、この人に恐ろしい事件が起こった!   彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、
めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。

日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。
四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。


さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。

何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、
ミニは両手を組み合わせて見ていた。

一人だって引き渡すもんですか。
それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。

ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。
我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが

(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、
なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。

すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、
新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。



*   「川には水雷がばらまかれているので、定期的に船を出すのはとうてい無理」
   これは事実。海軍による揚子江掃海・障害物除去作業は昭和十三年四月まで続いている。

*   「日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうという」

   いわゆる、「戦時慰安婦」 はこの時始まったようだ。ここで明らかなように、
   これは強制連行ではなく、売春婦を雇って働かせるシステムだった。

12月26日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/23 16:06 投稿番号: [253 / 2250]
十二月二十六日   十七時

《素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!
なんたって六百人をこす人々の命なのだから。

新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。
男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。

女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。
しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。


隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。
元中国兵という疑いで処刑されるのだという。


わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。
いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。

今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。
将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。

葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、
百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた。

庭は灰の雨だ。藁小屋は大丈夫だろうか。いくぶん考え深げにその様子を眺めながら、
その将校はフランス語であっけらかんと言った。

「わが軍にも、なかには粗暴なやつがいましてね」
そう、なかには、ね。


昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週間ではじめてのことだ。
やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。

ここの登録は昼に終わった。しかも後からこっそりもぐりこませた
二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。


使用人の劉と劉の子どもが、病気になったので、
鼓楼病院のウィルソン先生のところに連れていった。

トリマー先生が病気で、いまはこのウィルソン先生一人で病院を切り盛りしている。
先生から、新しい患者を見せられた。

若い娘を世話できなかったという理由で撃たれた中年婦人だ。
下腹部を銃弾がかすめており、手のひら三つぶんくらいの肉がもぎとられている。

助かるかどうかわからないという話だ。


安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。
この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。

安全区の他の区域から、何百人かずつ、
追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。

今までにすでに二万人が連行されたという。
一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。

なんというむごいことを……。我々はただ黙って肩をすくめるしかない。
くやしいが、しょせん無力なのだ。》



*   「隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかった…。
   元中国兵という疑いで処刑されるのだ。」 とあるが、

   1月4日の 『ニューヨーク・タイムズ』 には「 元支那軍将校が避難民のなかに
   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」 という記事があり、

   記事では 「恐らく処刑されるであろう。」 と書かれていた。
   その将校らの潜伏先は、金陵女子大学だった。

   中学と女子大では違うだろうが、この処刑は犯罪の発覚と関連はないのだろうか?

   その記事内容は1月4日の所に書く。

12月26日 日本側和平条件中国に伝わる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/22 16:02 投稿番号: [252 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p

駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、
二十三日これを漢口のトラウトマン大使に伝達し、

同大使は、二十六日孔祥煕と宋美齢に伝えた。
(蒋介石は病臥) 中国側はその内容に極めて強い驚きを示した。



児島襄著 『日中戦争4』 258〜259p

駐支大使トラウトマンは、二十六日、行政院副院長孔祥煕と蒋介石夫人
宋美齢に会い、日本側覚書を手交した。

大使は蒋介石との会見を申しいれたが、病気だとのことであった。

二人は、覚書内容の日本側条件が過酷なものに一変しているのにおどろき、
夫人宋美齢は、大使に言った。

「まさか、ドイツ政府はこのような要求に味方されるはずはないでしょうね」
  副院長孔祥煕も、大きく吐息して、大使に告げた。

「日本はきっと、十の自治政府、十の非武装地帯を要求するにちがいない。
とても受けいれられない。日本は将来を考えるべきです。

必ず自滅する将来を、です」



陸軍の移動

なお、この日、安全区を掃蕩していた第9師団の第7連隊が南京を去ったので、
南京に駐留しているのは、警備の第16師団だけとなった。

第十軍の杭州占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/21 16:05 投稿番号: [251 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 431p


第百一師団主力は、十二月十日上海出発、十九日湖州付近に集結した。

師団長は歩兵一大隊から成る捜索隊をして、

二十日湖州を出発してシンガー山付近を捜索させ、主力を二縦隊及び左側支隊に区分し、


まず武康付近を目標とし二十一日出発、

途中敵小部隊を駆逐し、二十二日武康北側地区に進出した。

二十三日、第十八、第百一師団は余杭−瓶窰−徳清の線に到達し、

二十四日朝、敵の抵抗を受けることなく杭州を占領した。


第一後備歩兵団は、二十二日嘉興出発、二縦隊となり長安方向に前進し、

崇徳、長安の敵を駆逐し、二十五日杭州に入城した。

12月25日 石川達三南京へ向け出発

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/20 18:34 投稿番号: [250 / 2250]
12月25日   石川達三は南京への取材のため、東京を発った。

『生きている兵隊』 中公文庫の後ろの方の “「解説」 半藤一利” 204p より引用


《各雑誌は作家の現地特派という企画で競い合うことになる。
『中央公論』 は七月にもう尾崎士郎、林房雄を中国に派遣している。

同じく 『主婦の友』 は吉尾信子を送った。九月には 『日本評論』   から
榊山潤がでかけ、その報告がそれぞれの誌面を派手に飾った。

負けてはならじと 『文藝春秋』『改造』 などの各誌がそれにつづいた。

厳しい検閲のもとに、がぜん戦意を高める現地報告、従軍記、
ルポルタージュが、主流という情勢になっていく。


このとき、その二年前に第一回芥川賞を受けた気鋭の作家石川達三が
「俺が全然こんなのとは違った従軍記を書いてみせる」 と、

ひそかな野望を抱いたとしても、なんら奇怪 (おか) しいことではない。


「毎日読む記事が画一的なんで腹が立ちました。
戦争というものは、こんなものではない。

自分の目で確かめたいと思っているところへ、
中央公論特派員の話があったのです」


と、石川は語っているが、とにかく、こうしてかれは中国戦線へ従軍することになる。
十二年十二月二十五日に東京を発ち、神戸から軍用貨物船で出港、・・・》


石川達三は、どうも、他の人達の穏和な記事が気に食わず、
残虐な光景を描きたかったようですね。

彼の小説は、最初から、そういう意図で取材され、まとめられていたのなら、
上海・南京戦の実態を表わしているとは言えないでしょう。


半藤氏は、石川達三の南京行きを 「従軍」 と書いていますが、
これは、従軍ではないでしょう。

別に、派遣軍にくっついて行ったわけでもないし、
彼が、行った時には、上海戦も南京戦も終わっていた。

彼は、適当に、現地で話しを聞き、破壊の後を見、死体を見ただけでしょう。
あとは、最初の構想のままに残虐話を作り上げたというべきです。

12月25日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/19 18:31 投稿番号: [249 / 2250]
  十二月二十五日
・・・

クレーガーとシュペアリングは平倉巷のアメリカ人の家へ向かった。
そこのクリスマスディナーに招待されていたのだ。が、私は家を空けられない。

六百二人の難民を保護者なしでおいていくわけにはいかない。
ただ、仲間がとちゅうでしばらく交代してくれることになっていた。

そうすれば私もアメリカ人の同志たちとしばし楽しい時が過ごせる。
入れちがいに、福井氏がやってきた。

目下この人が日本大使館で一番上のポストにいる。高玉氏もいっしょだ。
・・・

日本人はとても花が好きだ。わが家の難民のために、この人たちとある程度
親しくなっておきたい。なにしろ発言権があるからだ。

・・・

ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。
果てしない闇、死体だらけの道を。もう十二日間も野ざらしになっている。

仲間たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。
ただ暖炉の赤い小さな旗に、使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。

私たちは難民登録というさしせまった問題について話し合った。心配でたまらない。
難民は一人残らず登録して 「良民証」 を受けとらなければならないということだった。

しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、
二十万人もいるのだから大変だ。早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。

登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられたのだ。
行き着く先は強制労働か、処刑だ。

若い娘も選別された。兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。
そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分などふきとんでしまう。


半時間ほどして、また悪臭ふんぷんたる道を戻る。
だが私の小さな収容所には平和とやすらぎがあった。

見張りが十二人、交代で壁づたいに歩き回り、ときどきささやきあっている。

眠っている仲間を起こさないよう、ちょっとした合図をしたり、
とぎれとぎれの言葉をかわすだけだ。ミルズは家に帰った。私もやっと眠れる。

いつものように、そのまま飛び出せるかっこうだが。
日本兵が入ってきたら、すぐに放り出さなければならない。

だがありがたいことに、今晩は平穏無事だった。苦しそうな息づかいや
いびきがほうぼうから聞こえてきて、なかなか寝つかれなかった。合間には病人の咳。

12月24日 兵民分離の住民登録始まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/18 18:46 投稿番号: [248 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 233〜235p

南京陥落から二週間にして、事態はほとんど沈静化したことになる。
では、何が、事態の沈静化をもたらしたのか。

その一つの要因として、国際委員会の日本軍批判が挙げられよう。
それに対する日本側の 「厳重」 すぎる処罰も、その一つの要因であったであろう。

しかし、それ以上に、決定的な要因が二つ考えられるのである。

一つは、十二月二十二日に布告され、二十四日から一斉に開始された住民登録である。
これにより市民は、日本軍の指定する登記所に 「各自」 出頭を要請された。

代理申請は不可能であった。「良民票」 交付と言われるこの住民登録により、
日本軍は兵士と市民の分離を図ったのである。


もう一つが、住民登録と同時に始まった査問工作であった。
「兵士と、市民とを、分離しつづけることができなかった」(二号文書)

とは、国際委員会の告白であった。そのため、安全地帯に潜伏する
敗残兵の摘出作業が、南京住民立ち会いのもとに始まったのである。

この兵民分離の査問工作を担当したのが、『南京戦史資料集Ⅰ』 の
「佐々木到一少将私記」にもあるように、歩兵第三十旅団長の佐々木少将であった。

第十六師団司令部の内田義直通訳官は、その査問工作に立ち会った感想を、
次のように回想する。以下は 『南京戦史』 からの引用である。


《中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、広東、広西、
湖南の兵隊で南方訛りであって、言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。

しかし身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、

一般市民を狩り立てるようなことはなかった。
上衣だけが民服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。》


恐らく、内田通訳官の回想に間違いはないであろう。
『南京安全地帯の記録』 には、あること無いことを含めて、

様々な日本軍批判が収録されているが、被害者の実名を挙げて、
兵民分離工作が市民に累を及ぼしたという記録は一つもない。

こうして約二千の敗残兵と武器が摘発されたと 「佐々木到一少将私記」 は記す。
従って、国際委員会十号文書 (十二月十八日付) が

「武装解除された支那兵集団すら存在しない」と主張したのは、誤りであった。


昭和十三年一月十日付の 『読売新聞』 は、「難民調査は暮から始められて、
七日漸く一段落を告げて、敗残兵一千六百名とその他のものは安民居住の

所を与へられ、今では大手を振って城内を歩けるやうになった」 と記す。

潜伏に困難を来し、自ら出頭して市民登録を許可された支那兵もいたのである。
このため、潜伏兵が急減し、あわせて撹乱工作も減少した。

そしてまた、潜伏兵の出頭により、人口数が増加した。

12月24日までの安全区掃蕩での鹵獲品

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/17 18:40 投稿番号: [247 / 2250]
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』184〜186p

《第七連隊の 「南京城内掃蕩成果表」(十二月十三日より十二月二十四日まで) は、
軍規があるとはとても思えない支那軍の実態を示している。

それは次のように記録していた。

一、消耗弾   小銃       五、〇〇〇発

         重機関銃    二、〇〇〇発

二、刺射殺数 (敗残兵)    六、六七〇

三、鹵獲 (ろかく) 品

         十五糎(センチ) 砲   二門     同弾薬      約六〇〇発

         二十糎級砲       八門     同弾薬    約一、〇〇〇発

         小銃         九六〇挺     同実包       三九万発

         水冷式重機関銃   一二挺     軽機関銃       三三挺

         拳銃        一〇三挺     同弾薬   二六一、三五〇発

         高射砲         一門     高射機関銃       一挺

         山砲          六門     同弾薬        八二発

         迫撃砲        一〇門     同弾薬    五七、二一八発

         戦車砲弾   三九、〇〇〇発     銃剣        三二〇挺

         手榴弾    五五、一二二発     青竜刀     二、〇二〇振

         対戦車砲        二門     戦車          四台

         機関砲         一門     自動貨車       一六台

         便衣服     二、三〇〇着     夏衣袴    二五、三〇〇着


これは第七連隊だけの 「成果」 である。しかも押収品は、
全ての項目を羅列すると、右の三倍近くになる。

あまりに多いので他は省略したが、
それでも戦車四台と戦車砲弾三万九〇〇〇発が鹵獲された。

同じく、手榴弾五万五一二二発や、小銃九六〇挺に同実包三九万発、
迫撃砲一〇門と同弾薬五万七二一八発などが鹵獲された。

降伏の意思表示なく兵士が軍服を脱ぐこと自体、明らかな戦時国際法違反であった。
その上、あろうことか、安全地帯の将兵は大量の武器まで隠匿 (いんとく) していた。

これも明らかな戦時国際法違反であった。》


*   ラーベ達は、路上で武器を捨てた中国兵を市民と見なしていたが、
   とんでもない事だった。

   もともと、中国軍は安全区の中に軍事施設を作っていて、
   日本軍突入前に撤去をしていない。従って、有って当り前。


午後六時、第七連隊は掃蕩の任務を解除される。

東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 187〜188p

《「爾今(じこん) 掃蕩ノ任務ヲ解除ス」(歩七作命甲第一一七号)と命じられる

十二月二十四日午後六時まで、安全地帯の掃蕩を任務としていた。しかし、
実際には十二月十四日、十五日、十六日の三日間でほとんど掃蕩を完了していた。》


*   ここに於いて、彼らも移動の準備を開始する。

12月24日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/16 18:47 投稿番号: [246 / 2250]
十二月二十四日

《昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、
ジーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。

女性たちへのクリスマスプレゼントだ。


ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。
顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。

下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。
ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。

この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、
明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。

地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、
それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。


なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。
やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四つ。

ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。
痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。

この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。
だから、こういうむごたらしい姿を見ても、もはや目をそむけはしない。

クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。
いつの日か目撃者として語ることができるように。

これほどの残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!


私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。
まだ当分は兵隊たちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。

うちの難民は三百五十人から四百人くらいだとばかり思っていた。
だが、今では全部で六百二人。

なんとこれだけの人間が庭 (たった五百平方メートル) と事務所に寝泊まり
しているのだ。韓によると男三百二人、女三百人とのこと。

そのうち十歳以下の子どもが百二十六人。
ひとりは、やっと二カ月になったばかりだ。

これにはジーメンスの従業員やわが家の使用人、またその一族は入っていないので、
全部入れると六百五十人くらいになるのではないだろうか。

・・・・

神、ただ神だけが、この恥ずべき輩、人を辱め、殺し、
火を放っている無法集団から我々をお守りくださるだろう、と。

今日、新たな部隊が着任するという知らせが届いた。
これでようやくいくらか混乱がおさまるだろう。

法にそむく行為はすべて、みせしめのために罰せられるにちがいない。
ぜひそうであってほしい!   その時が来ているのだ!   我々はじきに力尽きてしまう!

神よ守りたまえ。私たちがいま味わっている苦しみを、
いつの日かおまえたちが味わうことのないように!

この祈りを胸に、今日の日記を終えよう。ここに残ったことを悔いてはいない。
そのために、多くの人命が救われたのだから。

だが、それでも、この苦しみはとうてい言葉につくせはしない。》



*「神だけが、この恥ずべき・・・無法集団から我々をお守りくださるだろう」
  とラーベは言っている。

   しかし問題は   「その無法集団が一体誰なのか」   なのだ。
   ラーベは、すべてが日本兵の犯行と信じて疑わないようだ。

12月24日 支那事変対処要綱(甲)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/15 16:14 投稿番号: [245 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 469p

支那事変対処要綱 (甲)   の閣議決定   その後、和平交渉条件の検討と並行して、
前記 「事変対処要綱」 の二 「現中央政権否認ノ場合」 の検討が進められ、

十二月二十四日の閣議で、次のように決定した。

     支那事変対処要綱 (甲)

事変勃発以来   帝国政府ハ   南京政府ニ於テ   速ニ其ノ抗日容共政策ヲ棄テ

帝国ト提携シテ   東亜ノ安定ニ寄与センコトヲ   切望シ居ルヲ以テ   同政府ニ於テ

反省スルニ於テハ   之ト共ニ   時局ノ収拾ヲ計ルヘキモ   同政府ニシテ

猶   長期ノ抵抗ヲ標榜シ   毫モ反省ノ色ヲ示ササル   場合ニ対処スル為ト

他方我軍事行動ノ進展ニ伴ヒ   帝国ノ占拠区域広汎トナリ   至急之カ処理ヲ行フノ

要アルニ至レルトニ鑑ミ   今後ハ必スシモ   南京政府トノ   交渉成立ヲ期待セス

之ト別個ニ   時局ノ収拾ヲ計リツツ   事態ノ進展ニ備へ   軍事行動ト相俟 (ま) チ

南京政府ノ長期抵抗ニ   対応スル為   北支   及   中支方面ニ於テハ   左記方針ニ依リ

措置スルコトトス

  右趣旨ハ   適当ノ機会ニ   之ヲ中外 (ちゅうがい) ニ闡明 (せんめい) ス〔以下略〕


以下、その方策として、北支では防共親日満政権の成立、日満支不可分の経済関係の
設定を目途としてこれが促進を図り、北支政権を漸次拡大強化して更生新中国の

中心勢力であるよう指導する政治措導方針と、
一国策会社の設立を含む経済開発の細目を定めている。


また上海方面でも、機の熟するをまって、北支新政権と連結のある新政権の
樹立を考慮するが、当分は治安維持会及びその連合会で治安に当たらせることとし、

租界を除きその周辺について、上海特別市を作ることを含む租界周辺処理方針と、
国策会社の設立を含む中支の経済的権益設定策などにつき詳細な方針を定めた。

以上のねらいは、新政権の樹立及び経済開発の両方面において、
日本軍の占拠地域の安定及び復興繁栄を図りもって民心をわが方に引きつけ、

蒋介石政権を打倒しようとする趣旨にあった。

なお本要綱起草当時は、中支那方面軍がようやく上海周辺を占拠した際であったので
「上海方面処理方針」 とされた。その後、占拠地域の拡大により

「中支那方面処理方針」 とするのが適当となったが、
同様趣旨で工作を進めることができるので原案どおりに決定された。

中国が和平拒否の場合の対案

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/14 15:58 投稿番号: [244 / 2250]
事変対処要綱の策定

戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 467〜468p

参謀本部第二課戦争指導班では、十二月一日、現国民政府との直接交渉により
事変を解決する方策として 「支那事変解決処理方針」 を策定していたが、

・・・
中国側が条件を受諾せぬ場合の考案を同時に取り扱う必要に迫られたので、

十二月六日、大臣随員を加え、大本営陸軍部案とするよう
「事変対処要綱」 案を合同起案した。その方針は次のとおりである。

一   対現中央政府解決ノ場合

   (一)   現戦果ヲ   拡張強化シツツ   速ニ   現中央政権ト   日支全般問題ヲ

     一括解決スルコトニ   諸般ノ措置ヲ統合ス

   (二)   比間 爾後   持久戦争ニ移行ノ為ニ   必要ナル考慮ト   準備措置ノ実行トヲ

     併セ行フ   但シ   之カ為   方針第一項ノ   達成ヲ阻害スル   コトナシ

   (三)   持久戦争移行   ノ為ノ決意ノ時機ハ   方針第一項ノ   目的ヲ達成スルコト

     能ハサル実情ヲ   確認シタルトキ   又ハ   現中央政権カ   実力上一方地方

     政権タルニ   至リタル時トシ   其 (その) 時機ハ   南京攻略前後トス

二   現中央政権否認ノ場合

   (一)   従来ノ支那中央政権ヲ否認シ   北支ニ   親日満防共ノ政権ヲ樹立シ

     之ヲ   更正新支那ノ   中心勢力タラシムル   如ク指導シ之ト連繋シテ

     各方面共親日(又ハ非抗日)反共政権ヲ樹立シ   支那全局面ニ於テ

     抗日共産政権ニ対スル   圧縮壊滅ヲ策ス

   (二)   所要地域ニ於テ   我兵力ヲ以テスル   軍事的占拠   其地域内ニ於ケル

     画期的善政指導   及   新樹立政権ノ勢力拡大等ニ依リ   之ニ伴フ領土喪失感ト

     抗日共産領域内住民ノ   困窮トニ依リ対抗政権   及   某所属民衆ヲシテ

     抗日容共ノ非ヲ   悟ラシメ   時ト共ニ依日救国ノ大勢ニ   順応スルニ至ラシム

   (三)   成ルヘク速ニ   全支ノ自然的統一状態ヲ誘致シ   無期分裂抗争ニ基ク

     支那ノ赤化   又ハ   欧米勢力侵襲ノ罅隙 (カゲキ:すきま)   ナカラシム

   (四)   全期間ヲ通シ   我国防国策ノ主脈ヲ   依然   対蘇反共ニ置キ   其以外

     数正面ニ亙ル   戦争準備ノ余儀ナキ情勢ニ   立チ至ラサル如ク   政戦両略ニ

     亙リ   運用施策ス

   (五)   我国家総力   就中 (なかんずく) 国防力ノ培養強化   及   統整ヲ促進スルト

     共ニ支那ニ対スル我国カノ   消耗ヲ制限シ   且   対 「ソ」 作戦ノ準備ヲ強化整頓ス


右両案は時期的段階をつけるべきと思われるが、当時の空気はこれを並立して
掲げねばならぬほど切迫したものであった。

しかし、あたかもトラウトマン工作が進展してきたのに乗じ、戦争指導班としては本案
審議の遷延策をとったので、これが大本営陸軍部案となったのは十二月十五日であった。

この間に現地における作戦は進展し、十三日南京は陥落した。十四日、政府は
「南京攻撃は、中国側に日支提携の大道に返ることを求めたものである。

しかるに国民政府になんら反省の色なきにおいては、日本は親日政権との提携、
抗日政権の徹底的膺懲によって日支問題の根本的手術を決意し、それがためには

真の持久戦はこれからだという覚悟に徹すべきである」 と声明した。
もちろん、これは表向きのものであり、政府は和戦両用の構えをとっている

のであるから、今こそ真に強力な政戦略一致が望まれるときであった。
しかし、事変の終息、和平工作をぶちこわすかのように戦果の獲得、

拡充方策が着々と進められていた。
前記の政府声明発表の日に、北支に中華民国臨時政府が成立した。

12月23日 日本側和平条件の伝達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/13 18:31 投稿番号: [243 / 2250]
(戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p)

  駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、
二十三日これを漢口のトラウトマン大使に伝達



児島襄著 『日中戦争4』 258p

大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。

ドイツ外相C・ノイラートは、覚書の語調と内容から 「最後通告」 にひとしい
との印象をうけ、とっさに中国側への伝達は和平仲介の趣旨に反する、と考えた。

しかし、駐支大使トラウトマンに転電するとともに、中国大使程天放の来訪をもとめ、
日本側条件をつたえながら、このさいは、隠忍して受諾してはどうかと勧説した。

12月23日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/12 18:40 投稿番号: [242 / 2250]
十二月二十三日

昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。
外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。

なんと今日の昼までに、という。
そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。

我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。
さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、

地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。
それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。

うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。
だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。

リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。


日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、
二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。

クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。
金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。

昼食のとき、兵隊が三人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、
どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。

おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。
私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。

今度は六人。今回もやはり塀越しにご退場願った。
思えば、こういう目にあうのもそろそろ二十回ちかくになる。


午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を二度とわが家に踏みこませない。
命がけでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じるようすもない。

肩をすくめ、それで一件落着だ。
「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができないんですよ」


六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。
ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。

同じころ、上海商業儲蓄銀行の裏からも火の手があがっていた。
これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。

しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。

わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、おそろしくも美しく
燃えさかる炎を息をのんで見つめていた。

もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。
かれらにとっての最後の希望、それは私だけなのだ。

(中略)

今日、シンバーグが棲霞山から持ってきてくれた手紙には
(彼は、江南セメント工場〜南京間をふつう一時間半で往復する)、

棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。
あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。



*   南京には、日本兵は殆どいなくなっているのに、
   “日本兵” の犯行が一向に減らないとは、実に不自然な事だ。

12月22日 独逸大使への和平条件案回答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/11 18:35 投稿番号: [241 / 2250]
日本は、独逸大使への回答の和平条件案が、
21日にやっとまとまったので22日独逸大使に回答しました。


戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p

《新和平交渉条件の提示と中国側の反応   二十二日、広田外相は、ディルクセン
独大使と会談し、十二月七日同大使からなされた連絡に対する正式の回答を行った。

大使は 「これらの条件は、十一月二日のものをはるかに越えており、
私は中国政府による受諾は極めて難しいと思う」 と述べた。

外相は 「軍事情勢の変化と世論の圧力により、
これ以外に各方面の意見をまとめることができなかった」 と述べた。

また大使は 「余日の少ない年内に中国側の回答を期待するのは無理だから、
一月五、六日ころまで延期してはどうか」 と申し出たので、外相はこれを承諾した。》


同じ事を児島襄氏の 『日中戦争4』 257〜258p は 23 日の事として書いています。


《広田外相は、十二月二十三日、駐日ドイツ大使H・ディルクセンをまねき、
前文と四条件を列記した英文覚書をわたした。

「和ヲ乞フノ態度」 なる表現は、さすがに不適当とみなされたものか、
英文では 「インディケイト……ア・デザイア・ツー・メイク・ピース」

(媾和意思の表明) となっていた。

広田外相は、また、四条件の説明の形で細目九項を概括的に読みあげ、
大使ディルクセンに筆記させた。

大使ディルクセンが、条件加重を指摘して、「中国政府が受諾する可能性は
極度に少ないと思う」 旨を述べると、広田外相は、「戦況の変化」 と

「世論の圧力」 でこれ以外の条件は認められない、と応えた。

さらに外相は、交渉妥結までは日本側は作戦をつづける、
中国側の回答は年内に期待する、といった。

「それは無理でしょう。本使はベルリンに打電し、
ベルリンが漢口の駐支大使に電報して、また逆の経路をたどるほかに、

中国側の検討の時間も必要です。まず一月五、六日までは待たねばなりますまい」

「その程度なら……結構です」 広田外相は大使の勧告をうけいれ、
大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。》
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