竹島
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
Re: 倭国犬恥をかいたな ! *^^*
投稿者: kokinguto 投稿日時: 2010/09/27 18:17 投稿番号: [18456 / 18519]
>>大韓民国の底力を今やっと実感するか ?
60年前から中国の傀儡の北朝鮮が朝鮮半島の半分を取った事は解かっている。
これは メッセージ 18454 (youjie1004 さん)への返信です.
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済州島を日本の領土と主張する韓国人がいる
投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2010/09/27 18:08 投稿番号: [18455 / 18519]
済州島は日本の領土だったころがあったのか?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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倭国犬恥をかいたな ! *^^*
投稿者: youjie1004 投稿日時: 2010/09/27 15:29 投稿番号: [18454 / 18519]
中国との領土紛争に無条件白旗投降
ウハハ〜ハハ
中国と数千年の間 , 幾多の戦争を通じて国家と民族を守って来た大韓民国の底力を今やっと実感するか ?
泣きながら君たちが好きなその所で解決しなさい !
" " 国際 司法 裁判所 " "
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: その2
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/26 22:13 投稿番号: [18453 / 18519]
>しかし、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島という理解は、1877年当時の政府には無かった、と私は思います。
点線で竹島が記されていることは、政府の理解がアルゴノート=竹島でなかったという根拠にはなりません。これを根拠にしてもしょうがないでしょう。点線であっても、そこには竹島の文字が記されており、しかもそうした地図がほとんどであるということです。私はことごとくという言葉を使いましたが、おおむねそれからはずれるものではないと思っています。また『原由之大畧』を前提に古来よりの竹島・松島が念頭に置かれたことは私も同意していることです。しかし、これまた、アルゴノート=竹島の根拠にはなりません。そこにあるのは古来からの日本の認識のみであって、地理(位置)的認識はなんら正確に規定されていないものと思われます。
>ahirutousagi2様は、太政官判断を考える証左として、1881年内務省地理局発行の「大日本府県分轄図」を提示されました。そして私が、その解釈において「陰謀論なり、策略論なり」をでっちあげたように書いておられます。
以前に陰謀論っぽいことを書いていらっしゃらなかったでしょうか。それを思い出して書きました。的外れでしたら申し訳ありません。ただ、彩色の話はこれまたどうでもいいことです。関心もありません。私が注目しているのは、内務省地理局のこの地図でも竹島、松島がアルゴノート、ダジュレーの位置に書かれているということです。1881年にして、です。
>ahirutousagi2様は、「田辺とか渡辺とかの外務省の甲論乙駁は結構です」と云っておられますが、外務省の認識は「1877年前後のいわば混乱期の状況の中での整合性」をとらえるのに重要と思います。
もう田辺や渡辺の話は飽き飽きしていますので(原文ももちろん読んでいますよ。復刻版でですが)、もう結構ですと書きました。参考事項程度でいい、と以前に書いた通りです。それ以上に解釈すべきものでもないとも書きました。今でもそう思っています。
>三条実美の解釈とは、1883年3月の鬱陵島への渡航禁止令にある「日本称松島(分註:一名竹島)朝鮮称蔚陵島」の表現と思われますが、これは今まで竹島と呼ばれていた鬱陵島に単に松島の名も認めただけです。
何で認めたんでしょう。井上馨も同様です。天城の調査もそうです。この認識の原点にあるのは何でしょう。アラレさんの主張する1877年の太政官判断、竹島=ダジュレー=鬱陵島、松島=リアンクール岩という基準ではなさそうです。どこからこんな解釈が発生したのでしょう。私はその原点にあるのは太政官の外一島判断だと考えています。それが整合性というものでしょう。
私には衒学の趣味はありません。また、関係がないと思った部分について反論、反証を行うほどの暇もありません。私とのやり取りに関する限り、アラレさんはただ一点、太政官がダジュレー=竹島=鬱陵島、松島=リアンクール岩と判断したという根拠さえ示されればそれでよろしいのではないかと思います。それに妥当性があると思われれば私はいくらでも持論を変更します。意地でも自分の理解にこだわるほどに固陋な性格ではないつもりです。
しかし、出てくるのは、アルゴノートが点線であったというお話ばかりです。傍証も薄いものです。反証する必要性も今のところさほど感じません。具体的な地図を挙げるのも、take_8591さんの分で充分でしょう。私のほうで敷衍する必要性も感じません。
また、古来からの竹島・松島を版図外とすることと、太政官が竹島=ダジュレー=鬱陵島、松島=リアンクール岩と理解して放棄したということは、私は別問題だと考えます。このあたりは、政府の竹島認識の混乱期たる所以でしょう。
これは メッセージ 18452 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: その1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/26 22:06 投稿番号: [18452 / 18519]
アラレさん、生憎ですが、失礼ながら貴殿のご意見に感じられるのは単に衒学的な記述に過ぎず、それに伴う論点への説得力の不足を実感するばかりなのです。いつもお話があちこちに飛んでいらっしゃいます。
よほど熱心に調べられたのでしょう。それには敬意を表しますが、ただそれだけのことです。外一島の理解における根拠を何ら提示なさってはいらっしゃいません。そう、ただ一点、太政官がダジュレー=竹島=鬱陵島、松島=リアンクール岩と判断したという根拠さえお示しなさればいいのではないでしょうか。そのあたり、これだけいろいろ提示されつつ、結局は何も提示されていないように見受けられます。ご自身でお気づきにならないでしょうか。ですから、反証する必要も感じませんし、よく調べましたね、ご苦労様です、としか言いようがないのです。
示された根拠は地図でアルゴノートが点線であること、版図外は古来からの竹島・松島と考えられること、あとは傍証として田辺の論などがそれをうかがわせるという程度でしょうか。結局、普通に納得できるようなお話をうかがうことはできなかったように思われます。
>また、当時の地図の大部分は、アルゴノート=竹島を「現存せず(nicht vorhanden)」として描かないか、或いは、「位置不詳(position doubtful)」として点線で描いています(Nos. 18428, 18439)。
大部分が描かれていないか点線で書かれているというのはあたっていますが、参考までにペリーをはじめとする西洋の地図を含め「現存せず」と明記している地図の数(単に両島を描き落としているものは含めないでください)は大体どれくらいあるものか教えていただけないでしょうか。その数と、点線で描かれている地図の割合はどんなものでしょうか。
もしもここに一定の偏りがあるとすれば、アラレさんの主張のこの部分は、巧みなトリックが含まれているとすべきでしょう。文章で人を惑わせてはいけないということです。「現存せず」と「点線」を並列で記してよいかどうかは、私は疑問です。
ただ、繰り返しますが、政府の地理認識を考えるにおいて点線で描かれていることは大事なことではありません。大事なのは、当時の政府がどの島を竹島・松島に比定したと考えるのが合理的かつ整合的であるか、ということに過ぎません。結論は、私が主張していることに何の間違いもないと思っています。
地図で申し上げますと、アラレさんの主張する竹島=鬱陵島=ダジュレー、松島=リアンクールを描いている地図は、1872年版の陸軍参謀局の地図(未見;田村清三郎『島根県竹島の新研究』p.33によれば日本に近く松島を描いているとのこと。1875年版はアルゴノートの位置に竹島、ダジュレーの位置に松島あり)を除き、この混乱期にいくつあるのでしょうか。あるいは、そもそも存在するのでしょうか。
アラレさんは、take_8591さんのご提示の地図(18373)について「1-02を除く日本人作製の地図で、1-07, 11~15は竹島を点線で描き、1-09, 10は古来の竹島松島の認識で描かれています。アルゴノート島の実存性を示唆しているのは、「橋本玉蘭の大日本四神全図」だけではないでしょうか」(18439)とされています。私はtake_8591さんと視角を同じくしない部分もありますが、このアラレさんの指摘は的外れではないかと考えます。なぜなら、1−09, 10はともに、アルゴノート、ダジュレーの位置で竹島・松島が描かれていることがうかがえるからです。
島根県提出の地図をあげられるかもしれません。しかし、これまた、アルゴノート、ダジュレーでの位置認識を否定する根拠には何らなりえません。
これは メッセージ 18449 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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がんばれ楽天ニダ
投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2010/09/26 14:09 投稿番号: [18451 / 18519]
ロッテ見たいに無駄な抵抗しろニダ
これは メッセージ 18450 (senkaku_islands さん)への返信です.
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浦項市 & 田原総一朗 「日本支持」
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/26 13:48 投稿番号: [18450 / 18519]
これは メッセージ 18445 (senkaku_islands さん)への返信です.
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1905年までの明治政府の竹島松島認識
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/24 23:15 投稿番号: [18449 / 18519]
ahirutousagi2様、ご意見ありがとうございます。私の考えに対する具体的な反証例の少ないことが残念です。
ahirutousagi2様は、「当時の政府の基本的な立脚点は、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島という理解に、何の違和感も感じられません。」と述べておられます。しかし、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島という理解は、1877年当時の政府には無かった、と私は思います。
アルゴノートやダジュレーという言葉は島根県と内務省が太政官に提出した資料にはありません。また、当時の地図の大部分は、アルゴノート=竹島を「現存せず(nicht vorhanden)」として描かないか、或いは、「位置不詳(position doubtful)」として点線で描いています(Nos. 18428, 18439)。
太政官の判断は「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」に明示されています。何度も書きましたが、竹島は、島根県が提出した『原由之大畧』にある「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許・・」から古来の竹島であり、外一島は、「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許・・」から古来の松島である、と私は考えます(No.18332)。
ahirutousagi2様は、太政官判断を考える証左として、1881年内務省地理局発行の「大日本府県分轄図」を提示されました。そして私が、その解釈において「陰謀論なり、策略論なり」をでっちあげたように書いておられます。
これは、私がNo.18324で書いた“塚本明毅は、1873年の『Carte de l'empire du Japon』にMatsou I.とTake I.を描き(No.15816)、その説明書の『日本地誌提要』では「松島竹島」を隠岐国条に配し(No.15715)、『大日本府縣分轄圖』の「大日本全國略圖」で「松島竹島」を一度は隠岐や山陰道と同色に彩りました。従って、塚本は「松島竹島」を日本領とする意図がありました(No.15893)。(中略)ただし塚本明毅は、1882年以降の改訂版では、太政官の決定に従い「松島竹島」を日本の版図外にした(後略)(No.18250)。”を指していると思われます。しかし塚本が、1881年の地図で隠岐と同じ彩色をしたのは、日本人の古来の松島・竹島への渡航実績を守ろうとしただけです。
ahirutousagi2様はまた、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島としないのは、「三条実美の解釈にも、「大日本府県分轄図」にも、何とも整合性がとれない解釈であると思います。」と述べられました。三条実美の解釈とは、1883年3月の鬱陵島への渡航禁止令にある「日本称松島(分註:一名竹島)朝鮮称蔚陵島」の表現と思われますが、これは今まで竹島と呼ばれていた鬱陵島に単に松島の名も認めただけです(No.18428)。外務卿井上馨は1881年に鬱陵島を「竹島一名松嶋ト称スル孤島ハ朝鮮国之属島ニシテ、江原・慶尚二道ニ界シ、蔚陵島ト称スルモノ」と認識していました(池内敏:近世から近代における竹島(鬱陵島)認識について.小林昌二監修『日本海域歴史大系』4巻, 清文堂出版, 2005)。アルゴノートやダジュレーの認識は全くありません。これは、慶応3年3月竹島開拓を計画していた坂本龍馬に、竹島の情報を伝えた井上にとっては当然のことでしょう(No.15679)。
ahirutousagi2様は、「田辺とか渡辺とかの外務省の甲論乙駁は結構です」と云っておられますが、外務省の認識は「1877年前後のいわば混乱期の状況の中での整合性」をとらえるのに重要と思います。
外務省では、1876〜1878年に松島開拓願が相次いで出され、松島についての議論がありました。極めて優秀な官僚渡邉洪基は、「竹嶋洋名アルゴナウト嶋ナル者ハ全ク烏有ノ者ニシテ其松島デラセ嶋ナル者ハ本來ノ竹嶋即チ蔚陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ」と認識していましたが、欧米の地図に、松島竹島を日本領とするものがあることを知り、この地域の詳しい調査の必要性を強調しました(No.18247)。
一方、幕府の外国方であった田邉太一は、開拓願の松島が鬱陵島であることを確信していたので、「本来の松島」について「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と簡潔且的確に纏めました。我邦人は鬱陵島東北沖約2kmの竹嶼を松島と名付けたことはありませんから、于山は竹嶼でないことも明らかです(No.14932)。
1905年まで多くの政府機関は、鬱陵島を松島と命名した海軍省を除き、「竹島外一島本邦関係無之」の竹島は鬱陵島、外一島は「本来の松島」と認識しており、日本領とした例を私は知りません。
これは メッセージ 18440 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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ソフトバンク応援はテロ行為
投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2010/09/23 22:51 投稿番号: [18448 / 18519]
脱税犯が主力の球団など応援するな
これは メッセージ 18445 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 祝CS進出 & 竹島最東端
投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2010/09/23 22:42 投稿番号: [18447 / 18519]
命がほしければホークスを応援するなニダ
今日は気分が悪いニダ
これは メッセージ 18445 (senkaku_islands さん)への返信です.
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◆小沢先生に尖閣問題の平和解決をお願い!
投稿者: ket_chup66 投稿日時: 2010/09/23 22:18 投稿番号: [18446 / 18519]
しましょうね!!
中国政府は19日、尖閣諸島(中国名・釣魚島)付近で起きた日本の巡視船と中国漁船の衝突事件で
日本が漁船船長の拘置を延長したことを受けて、日中間の閣僚など高官レベルの往来を停止した。
この結果、両国関係はこの5年間で最悪の事態となってしまった。
中国政府は、日本の出方次第では「強い対抗措置」を講じると述べており、今週、中国全土で激しい
抗議運動が展開される恐れがあり、両国間の通商関係にも大きな打撃となりかねない情勢です。
国民は菅内閣に対し、重要な隣国である中国ともっと仲良くやって欲しいと考える。
中国は高成長を続けており、21世紀半ばには米国を凌駕する超大国になる国です。
この21世紀の超大国中国がさらなる「強い対抗措置」を発動してきた場合、
ただでさえデフレ不況に苦しむ日本経済は壊滅的な打撃を受けることは火を見るよりも明らかですね。
さらに中国側の尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権ついての主張は、1970年代、井上清京大教授
の著書中で、「尖閣列島は中国領である」と明確に論証されており、また米国の有力紙NYタイムズの
電子版でピュリツァー賞を受賞しているクリストフ記者も「私の感覚では、中国に分があるようだ」
と明言した。
その点、前原外相の言動は過ぎたるは及ばざるが如しで、国際世論の反発を得る事は必至です。
この様な状況の中、日本の国益を考えるならば、沖縄の領有権は日本にある事を中国に納得して
貰う代わりに、経済メリットがそれほど期待できない尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権は放棄し
中国の要求に沿う形で決着させれば日中双方にとってメリットが大きいと思われます。
そうすれば中国との関係はさらに緊密になり、最終的には日本の国益に沿うものと思われる。
そのためには先ず小沢先生を「悪党小沢」呼ばわりし、「友愛の海」と呼ばれている尖閣列島近海を
「騒乱の海」に変えようとしている前原外相を即刻更迭すべきです。
その上で、胡錦濤さんのとの太いパイプを持つ、小沢先生を三顧の礼をもって外務大臣兼副首相に
迎え、その人脈を有効に使って貰い、中国との関係改善に努めることが「友愛の海」を取り戻す
ことが出来る唯一の方法だと思います。
要するに政府は「小異を捨て大同につく」姿勢を示し、日本の国益を損なわない様、努力すべきである。
これは メッセージ 18445 (senkaku_islands さん)への返信です.
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祝CS進出 & 竹島最東端
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/23 22:12 投稿番号: [18445 / 18519]
これは メッセージ 18443 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18445.html
今更ですが
投稿者: kokinguto 投稿日時: 2010/09/23 14:26 投稿番号: [18444 / 18519]
これは メッセージ 18443 (senkaku_islands さん)への返信です.
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A子さんへ & 竹島最北端
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/20 19:49 投稿番号: [18443 / 18519]
これは メッセージ 18438 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 太政官その2
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/18 21:49 投稿番号: [18441 / 18519]
>ただし、海軍省は、1876年12月ロシア海軍の海図を翻訳した『朝鮮東海岸圖』を出版し、鬱陵島を松島とし、隠岐よりにヲリウツ礁・メ子ライ礁、朝鮮よりに点線でアルゴナフタ島を描きました(Nos.17667, 17668)。そして、軍艦天城は、1878年と1880年松島を調査し、1883年7月刊行の『水路雑誌』第41号に、「鬱陵島(一名松嶋)」として詳しく記載し、公的に鬱陵島を松島と認定しました。そこで日本政府は、「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」等と鬱陵島に松島の名も許しました。
その通りの理解でよろしいのですが、なぜ、余計な解釈をされようとするのかよく分かりません。それは以下のくだりです。
>しかし決して、古来の竹島=鬱陵島を否定した訳ではありません(No.18248)。『原由之大畧』にある「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス・・」や「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」を消し去ることは出来ません。
この時期の明治政府・太政官は竹島=鬱陵島=ダジュレー島、松島=リアンクール岩という知識を有していたのですか?
私は古来よりの竹島・松島を、意図的にであれどうであれ、位置を不明確にしたまま太政官は版図外とした(結局は鬱陵島までの位置を版図外とした)と考えていますが、アラレさんが仰るように太政官に上記のような認識が明確にあったとする根拠があるのであれば、私も考え方を変えないといけません。田辺とか渡辺とかの外務省の甲論乙駁は結構ですので、太政官が正確に上記のように理解していたという根拠を教えていただければ有難いです。
何度かお聞きしていますが、古来の竹島・松島を放棄したということ以外、いまだに出てきませんので。また、それは私も何年も前からそう考えていることでもあるとすでに申し上げました。
>しかし次第に、本来の松島の名が復活してきました。1901年の恒屋盛服『朝鮮開化史』は于山島に「日本人ハ松島ト名ク」と注記し(No.15525)、1902年の釜山領事館報告『韓國欝陵島事情』には、「本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス」とあります。これら「前後の資料の整合性」からの「答え」は、日本政府が竹島=鬱陵島のみならず「本来の松島=リャンコ島」も版図外にしたことでしょう。
一部の資料のみをつなげて物語を作るべきではないと思います。1900年あたりの資料では于山島=松島という理解が日本では一般的だったという話でしょうか。それはフィクションというものでしょう。釜山領事館報告は原文を見ておりませんので何とも言えませんが、この時期においては赤塚正輔の調査もあったことからもうかがえるように、鬱陵島の知見はさらに正確さを増しつつあったとも言えるかもしれません。しかし于山島=松島と釜山領事館が書いているわけでもなさそうです。ただ言えることは、19世紀後半期の地理的な混乱が収束する段階であり、その中で、無主地(主権が明確にされていない)であるリャンコ島について島根県への編入がなされたのではないでしょうか。
私は、元来(過去)、リャンコ島=松島と呼ばれたという知見がこの時期にありえたとしても、それがイコール于山島さらに朝鮮の地であったという認識が20世紀初頭の明治政府の認識であったとは考えません。
20世紀初頭の記録を持ってきて整合性を述べるのではなく、1877年前後のいわば混乱期の状況の中での整合性をとらえて太政官判断を考えるべきであり、その場合、リアンクール岩を太政官が松島と認めて放棄したという見方は、まず、考えにくいものとしなければならないものと思われます。アラレさんの整合性のとり方は、恣意的なものと言うべきではないでしょうか。
これは メッセージ 18440 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 太政官その1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/18 21:16 投稿番号: [18440 / 18519]
>ahirutousagi2様は、1877年3月の太政官判断に影響した地図として、1867年の勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)及び1875年の陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)を挙げられました(No.18320)。
ほかにもあげていますよ。そのあとで二つほどあげていますし、ウィキペディアの地図も参照していいでしょう。太政官判断に影響を与えるものではありませんが、その判断を考える証左として「大日本府県分轄図」も提示しました。アラレさんはいろいろ理由をとってつけていましたが、無意味なことだと思います。内務省地理局の発行であることに間違いはないからです。
その存在が不明確で点線が入っていようが、例外的な地図が存在しようが別にどうでもいいことだと私は思っています。問題は当時の太政官がいかなる情報を取り入れたかであり、それをどう整合的に理解するかがすべてであると思っています。
アラレさんは「ほら、ちがう地図もあるじゃないか。点線があるからそんな島はなかったとおもっていたはず」と仰っているように見受けられますが、それは、どう考えても三条実美の解釈にも、「大日本府県分轄図」にも、何とも整合性がとれない解釈であると思います。こじつければ、陰謀論なり、策略論なりでもでっちあげなければならないことでしょう。実際にアラレさんはそういう類の解釈もあったかに記憶しています。「大日本府県分轄図」の解釈において。
>当時既に、欧米の地図をよく知る人は、竹島=鬱陵島をダジュレー島=松島としたシーボルトの誤りは継承しましたが、アルゴノートは架空の島と認識しており、竹島をアルゴノートに比定しようとは思わなかったのではないでしょうか?
よく知る人がどう考えたにせよ、当時の政府の基本的な立脚点は、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島という理解に、何の違和感も感じられません。官製の地図のほとんどがそうなのですから。点線であろうと、一部、違ったものがあろうと。架空の可能性の理解云々や特定の地図のありようを取り出しても無意味でしょう。時代状況として、複数の見方がありえた状況であり、その中から政府の立場は最大公約数的に理解すべき、つまりその後の天城の調査や三条実美の記述まで含めて、理解すべきだと申し上げています。
アラレさんの上記のご主張はきわめて主観的なものであり、想像以外にそれを裏付ける根拠はほぼないのではないでしょうか。それを説明するために特定の地図や点線を挙げてもしかたないということです。百歩譲ってアラレさんの想像があたっていたとしても、天城や三条実美の規定から、太政官が示した松島の位置は明確に記されているとすべきだと思われます。
>さらにahirutousagi2様は、江戸時代に広く普及していた長久保赤水系の地図や伊能忠敬の地図を無視されているようです。新政府は、明治最初期には、幕府と同様に、竹島・松島を日本領とは考えていませんでした。
ここから以下は、何を仰りたいのか、失礼ながらよく分かりませんでした。私はもともと、島根県への編入以前は、江戸時代まで含めて竹島・松島は無主地としての理解をしているものですので。
以下、続きます。
これは メッセージ 18428 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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太政官は古来の竹島松島と認識していた
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/15 22:15 投稿番号: [18439 / 18519]
take_8591様、ご意見を有難うございます。まだ少し誤解があるようです。
take_8591様は、“私は、No.18373において「1-01」〜「1-15」の地図を掲げ、明治政府が「松島=ダジュレー島」認識を有していたことを示唆する状況を示しました。対して、ararenotomo1さんは「明治政府は鬱陵島に松島の名も認めました(18429)」と主張されますが、これは松島がダジュレー島であるかリャンコ島であるかを特定できない状態で、「竹島外一島」を版図外としたという主張なのでしょうか。”とお尋ねになったので、先ずお答え致します。
私は“明治政府が「松島=ダジュレー島」認識を有していた”とは思いません。しかし、一部の政府機関、例えば陸海軍や文部省の一部では、シーボルトの間違いに基づく、松島を鬱陵島に比定する地図も作られました。ただし、明治政府の公式見解は1877年の太政官指令「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」で決まった、と私は考えております。No.18332で書いたように、島根県提出資料『原由之大畧』の記述から、「竹島外一島」の竹島は鬱陵島であり、また外一島を、私は松島と特定しました。それは、『隠州視聴合紀』以来、日本人が知っていた「古来の松島」です。島根県提出資料に「松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません」(No.18362)。
>前島密が「松島=ダジュレー島」を否定する言説を残していないことが、明治政府内の「松島=ダジュレー島」認識を示唆するものと言えます。
前島密が太政官に上申した『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』には、「竹島外一島之儀本邦関係無之儀」の文言があります。前述のように、竹島は鬱陵島、外一島は「古来の松島」ですから、前島密は「松島=ダジュレー島」を明確に否定しています。
>私が、No.18373で示した15枚の地図の内、「現存せず(nicht vorhanden)と記された」地図は『1856年アメリカ艦隊ペリー提督の地図』『1855年ハイネの地図』だけではないでしょうか。余の地図は、日本で作成された地図は、アルゴノート島の実存性を示唆しています。
1-02を除く日本人作製の地図で、1-07, 11~15は竹島を点線で描き、1-09, 10は古来の竹島松島の認識で描かれています。アルゴノート島の実存性を示唆しているのは、「橋本玉蘭の大日本四神全図」だけではないでしょうか。
>『磯竹島事略』に、「與地勝覧に謂う于山と欝陵は1島である」旨を記しています。この概念を有していた田辺太一は、『第十四号附け札』で「松島は朝鮮の鬱陵島にして我版図中ならず」と述べ、『第二十三号』で「松島は我邦人の命せる名にして、其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なり」と記しています。この事実から、田辺太一は、欝陵・鬱陵・蔚陵・于山を1島と認識していたことが解ります。
確かに、『磯竹島事略』は『輿地勝覽』の「一説于山欝陵本一島」だけを取り出して引用しています。しかし、漢籍に詳しい田辺太一は『輿地勝覽』の「于山島欝陵島一云武陵一云羽陵(分註:二島在縣正東海中・・)」を知っていたと思います(Nos.14932, 18247, 18431)。もし、田辺が欝陵・鬱陵・蔚陵・于山を一島と認識していたならば、「蔚陵島に属する于山なり」は「蔚陵島に属する蔚陵島なり」となってしまいます。
>本スレで問題にしているのは、「明治10年の松島」であり、「元禄期の松島」ではありませんし、明治14年以降に存した「古来の竹島と松島」でもありません。
take_8591様は、「明治10年の松島」を「ダジュレー島」として、「元禄期の松島」とは異なると考えておられるようです。しかし私は、「明治10年の松島」を太政官指令の外一島である「古来の松島」として、「元禄期の松島」と同一のものと考えます。太政官指令が根拠の一つにした『原由之大畧』は、松島を「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ」と書いていますが、「元禄期の松島」を記した『磯竹島覺書』も、「松嶋両國江附属之嶋ニ而ハ無御座候竹嶋江渡海之筋ニ在之嶋ニ而御座候」即ち、竹島への渡海の筋としています。明治14年以降に存した「古来の竹島と松島」の意味はよく分かりませんが、「古来の竹島」は鬱陵島、「古来の松島」は現竹島、と私は認識しています。
これは メッセージ 18433 (take_8591 さん)への返信です.
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日清両帝国図 & 釣魚島解密
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/13 23:27 投稿番号: [18438 / 18519]
これは メッセージ 18436 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 竹島展望台 & 台湾も認めていた
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2010/09/12 11:20 投稿番号: [18437 / 18519]
私はこの掲示板で何も案件は抱えていないので、「chaamieyさん案件」などという言い方はやめていただけませんか?
これは メッセージ 18436 (senkaku_islands さん)への返信です.
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竹島展望台 & 台湾も認めていた
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/12 07:10 投稿番号: [18436 / 18519]
これは メッセージ 18423 (senkaku_islands さん)への返信です.
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世界中がダジュレー島とは別に鬱陵島を認定
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/12 00:59 投稿番号: [18435 / 18519]
林子平は、竹島とは別に鬱陵島を描きました。
1855年の英国は、ダジュレー島とは別に于山島鬱陵島を描きました。
『Japan and Korea 1855』
http://collections.lib.uwm.edu/cdm4/item_viewer.php?CISOROOT=/agdm&CISOPTR=704&CISOBOX=1&REC=12
この様に、世界中が、鬱陵島を半島の近くに在る島であり、ダジュレー島とは異なる島であるとの認識を持っていました。原因は、韓国が、『與地勝覧』で「半島から、欝陵島の峯頭の樹木及山根の沙渚が、歴歴可見である」と当時の漢字文化圏の世界に知らせたことにあります。この様に記載されている『與地勝覧』を読んだ者が「鬱陵島を半島の近くに在る島」と認識するのは当然のことです。
1846年の『carte de la Coree』及び1899年の『大韓全図』は、半島の姿形を比較的正確に描いています。この正確性に比較して、鬱陵島の大きさ・属島の数と形は、非常に劣悪です。又、半島の姿形が正確に描かれているとの前提を置く場合、半島からの距離も、『carte de la Coree』は半分程度・『大韓全図』は3分1程度に描かれています。
この様に、李氏朝鮮の末期頃の認識が、『carte de la Coree』及び『大韓全図』が描く鬱陵島は、ダジュレー島とは異なる島であるとの認識を持っていたと認定するに合理性があります。16世紀〜19世紀の朝鮮が、鬱陵島とダジュレー島が同じ島であると認識していたとするには無理があります。
これは メッセージ 18434 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−6
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/12 00:32 投稿番号: [18434 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf6
西ヨーロッパの 1737年の地図も、独島を朝鮮領土として描きました。
(1)
フランスの有名な地理学者ダンヴィル(B.B.D'Anville)が 1737年に朝鮮王国全図(Royaume de Coree)を描いたが、独島と鬱陵島を朝鮮領土として描きました。ダンヴィルの地図では独島(于山島)と鬱陵島を韓国の東海岸により近接して描き、独島が韓国領土であることを一層明瞭に表示しました。
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1737年ダンヴィル図の画像
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1737年にフランスの地理学者ダンヴィル(J.B.B.D'Anville)が描いた『朝鮮王国全図』。独島と鬱陵島を韓国の東海岸により近接して描き、独島が韓国領土であることを一層明瞭に表示しています。
(2)
イギリスの地図学者ボーウェン(E.Bowen)が1752年に描いた朝鮮王国図(Carte du Royaume de Kau-Li ou Coree)においても独島と鬱陵島を韓半島の東海岸に非常に近接して描き、鬱陵島と独島が朝鮮領土であることを明白に表示しました。また、東海の名称を「朝鮮(韓国)海」(Mer de Coree)と表記したことも注目すべき特徴です。
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1755年ボーウェン図の画像
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イギリスの地図製作家ボーウェンが1755年に描いた朝鮮王国全図 (ソウル歴史博物館所蔵)。独島と鬱陵島を韓半島に一層近接して描き、独島と鬱陵島が韓国領土であることを示しました。東海を「朝鮮海」(Mer de Coree)と表記したことも大きな特徴です。
この外、西洋の18・19世紀の地図で韓半島周辺の島々を描いた諸地図は、鬱陵島、独島を全て韓国の領土と認知して描いています。
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52668041.html
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固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18434.html
Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/11 21:06 投稿番号: [18433 / 18519]
3
明治初年の于山島認識
明治初年に編纂された『磯竹島事略』に、「與地勝覧に謂う于山と欝陵は1島である」旨を記しています。この概念を有していた田辺太一は、『第十四号附け札』で「松島は
朝鮮の鬱陵島にして我版図中ならず」と述べ、『第二十三号』で「松島は我邦人の命せる名にして、其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なり」と記しています。
この事実から、田辺太一は、欝陵・鬱陵・蔚陵・于山を1島と認識していたことが解ります。
これは『與地勝覧』→『磯竹島事略』→『第十四号附け札』→『第二十三号』と読み込んだ結果ですが、ararenotomo1さんのそれは『與地勝覧』から直に『第二十三号』を表示し自分に不都合な文献を除外して得た思い込みに過ぎません。
磯竹島事略
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/shiryou-4-1-2.pdf竹島考證 下
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a343tan1649-1881/4
明治10年の松島
本スレで問題にしているのは、「明治10年の松島」であり、「元禄期の松島」ではありませんし、明治14年以降に存した「古来の竹島と松島」でもありません。
5
本スレッド
太政官は竹島外一島を鬱陵島・現竹島と認識
ararenotomo1
18362
L
太政官は竹島と外一島を共に松島と認識
take_8591
18366
L
太政官は竹島と外一島を共に・・・認識
2
take_8591
18373
L
太政官は竹島と外一島を共に・・・
3
take_8591
18374
−L
Re:
太政官は竹島と外一島を共に松島と認識
ararenotomo1
18386
−−L
誰もリャンコ島を想起していなかった1
take_8591
18398
−−L
誰もリャンコ島を想起していなかった2
take_8591
18399
−−L
誰もリャンコ島を想起していなかった3
take_8591
18400
−−−L
Re:
誰もリャンコ島を想起していなかった
ararenotomo1
18429
−−−−L
Re:
誰もリャンコ島を想起していなかった
take_8591
18430
−−−−−L
>Re:
誰もリャンコ島を想起していなかった
ararenotomo1
18431
これは メッセージ 18432 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/11 20:54 投稿番号: [18432 / 18519]
1
松島=ダジュレー島を示唆するもの
私は、「明治政府が言葉を使用して意思統一を図っている組織である限り、「松島」の文言を使用した命令・報告が、ある時はダジュレー島とし、又ある時はリャンコ島とすることはあり得ません。(18398)」と主張し、ararenotomo1さんは「松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません(18362)」と主張されます。(註)「示唆」とは「それとなく知らせること。ほのめかすこと。」と定義されます。
そこで、私は、No.18373において「1-01」〜「1-15」の地図を掲げ、明治政府が「松島=ダジュレー島」認識を有していたことを示唆する状況を示しました。
対して、ararenotomo1さんは「明治政府は鬱陵島に松島の名も認めました(18429)」と主張されますが、これは松島がダジュレー島であるかリャンコ島であるかを特定できない状態で、「竹島外一島」を版図外としたという主張なのでしょうか。
又、ararenotomo1さんは「原由之大畧は、松島が竹島へ行く途中の島であることを明確に述べている。(18429)」と主張されますが、誰も「松島が竹島へ行く途中の島である」を争っていません。
又、ararenotomo1さんは「地理に精通していた前島密は、この松島がリャンコ島であることを知っていたようです」と主張されます。しかし、前島密が、『1-07
1867年
勝海舟の大日本沿海略図(18373)』と異なる地理認識を有していたと出来る状況はありません。尚、「鹿児島・対馬から北海道まで日本全土を何度も旅行し、地理には精通していました。(18362)」、「極めて有能な前島密は最新情報に詳しかったでしょう。(18431)」というararenotomo1さんの推論は、前島密が「松島=ダジュレー島」の認識を有していなかった根拠とはなりえません。むしろ、かかる前島密が「松島=ダジュレー島」を否定する言説を残していないことが、明示政府内の「松島=ダジュレー島」認識を示唆するものと言えます。
2
竹島=アルゴノート島の存在性
ararenotomo1さんは「現存せず(nicht vorhanden)と記されたアルゴノート島に比定するなど、全く無意味でしょう。(18429)」と主張されます。
しかし、私が、No.18373で示した15枚の地図の内、「現存せず(nicht vorhanden)と記された」地図は『1856年
アメリカ艦隊ペリー提督の地図』『1855年
ハイネの地図』だけではないでしょうか。余の地図は、日本で作成された地図は、アルゴノート島の実存性を示唆しています。すると、「全く無意味でしょう(18429)」との主張は、全く無意味でしょう。
又、No.18374等で示したように、当時の情報を総合すると、朝鮮が鬱陵島とする島がアルゴノート島である可能性が高かったと認められます。明治政府が自分で確認することなく、「アルゴノート島は現存せず」との決定を下すことはできませんし、「現存せず」の島に名前を付けても何ら問題ないと思われます。
明治13年に天城艦が松島に廻航する迄の間、明治政府はアルゴノート島の実存性を考慮して政策を決定していたとするのが合理的です。
これは メッセージ 18431 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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>Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/10 07:08 投稿番号: [18431 / 18519]
take_8591様、早速のレスポンスに感謝します。
take_8591様は、前島密は『勝海舟の大日本沿海略図』のダジュレー島=松島とした地理認識を引継ぎ「この松島がリャンコ島であることを知っていた」に結びつく情報は存在しない、と述べられました。しかし、「ウィキペディア:竹島外一島」は、“前島密らは欧米列強各国からの相次ぐ情報で、シーボルト海図以前の徳川時代に「松島」と呼ばれていた島は、『大日本国沿海略図』では「リエンコヲルトロック」となっていることを知っていた。”と書いています(No.18362)。極めて有能な前島密は最新情報に詳しかったでしょう。
take_8591様はまた、“前島密には、『勝海舟の大日本沿海略図』と異なる地理認識を有していた場合、その事を明示的に示す義務があります。”と述べられましたが、私には全く理解できません。英国海図を観て作ったとされる勝海舟識『大日本國沿海略圖』と異なる地理認識を有している事を、何故、大久保利通の信頼の篤い前島密が、明示的に示す義務があるのでしょうか?又そうしなければ、何故、上司同僚部下は前島密が1867年の『大日本國沿海略圖』の地理認識を有していると判断するのでしょうか?
>川上健三『竹島の歴史地理学的研究』は、「竹島外一島」に触れていませんから、そこで使用されている「古来の竹島と松島」というのは1880年以降の知見に基づくものと推察できます。ararenotomo1さんは、1877年において「古来の竹島と松島」という概念が存したという主張ですから、川上健三氏のそれとは異なる概念です。
よく分かりませんが、川上健三氏は、「竹島外一島」とは関係なく、「古来の竹島と松島」を、シーボルトが比定した竹島=アルゴノート島や松島=ダジュレー島と区別するために使いました。私も同様です。
>朝鮮名于山島をLiancourt Rocksと呼んだ事実はありません。
北澤正誠編『竹島考證』(1881)によると、外務省交信局長田邉太一は「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と言っています。即ち、朝鮮名于山島は日本名松島であり、前島密らはその松島が「リエンコヲルトロック」であることを知っていました(No.18362)。従って、于山島はLiancourt Rocksとなります。
私はNo.15525で、大田才次郎『新撰朝鮮地理誌』(1894)が、江原道の島嶼として、「竹島、鬱陵島、于山島ハ共ニ東海ノ中ニ散布セル諸島ナリ」と書いている事を示しました。
take_8591様は、“『新撰朝鮮地理誌』は、その5頁で、竹島=アルゴノート島、松島=ダジュレー島としています。その上で、102頁に上記を記述し、松島=鬱陵島+于山島としています。”と述べられました。確かに、5頁の地図は竹島を点線で描き、アルゴノート島の積りかもしれません。ただし、松島=鬱陵島+于山島の于山島は、鬱陵島の北東沖約2kmの竹嶼即ち竹島(Jukdo)と考えられているようですが、これは疑問です。
于山島は竹嶼を指すこともありましたが、先に示したように、田邉太一は、松島は日本人の命名と書いていますから、竹嶼ではあり得ません。日本人は隠岐から鬱陵島への略中間にある島を、17世紀以来松島と呼んできました。それが于山島です(Nos.18247, 18264)。
田邉が、松島は朝鮮鬱陵島に属する于山島である、と認識したのは、『東國輿地勝覽』や『高麗史』の記述からかもしれません。特に、『高麗史』にある「于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」、よく晴れた日に武陵(鬱陵島)から望見できる島として于山(松島)を認識したのかもしれません。或いは安陪恭庵『因幡志』(1796)の「欝陵島(日本ニテ是ヲ竹嶋ト称ス)子山嶋(日本ニテ松嶋ト呼)是ナリ」から知ったのかもしれません。これについては下記ブログの49・64番目のコメントも参照して下さい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/4the-22nd-column-seeking-truth-based.htm
l>于山島がLiancourt Rocksに変貌を遂げるのは戦後のことです。
上記は知りませんが、于山島=古来の松島=Liancourt Rocksと考えています(No.18428)。
これは メッセージ 18430 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/08 17:57 投稿番号: [18430 / 18519]
ararenotomo1さんは、「地理に精通していた前島密は、この松島がリャンコ島であることを知っていた」旨の主張をされ、次の経歴を根拠とされます。
前島密は、箱館の諸術調所で武田斐三郎に航海術を学び、1859〜1861年に函館から日本海を南下し太平洋岸に出て函館に戻る航海や、ロシア領ニコライエフスクへの航海等を行っています。また、鹿児島・対馬から北海道まで日本全土を何度も旅行し、地理には精通していました。(No.18362)
この前島密の経歴からすると、その地理認識は『勝海舟の大日本沿海略図』に表されていると考えられ、幕府海軍がダジュレー島=松島としていた認識を引継いでいたと考えられます。すると、ここには、「この松島がリャンコ島であることを知っていた」に結びつく情報は存在しません。
又、内務少輔としての前島密には、『勝海舟の大日本沿海略図』と異なる地理認識を有していた場合、その事を明示的に示す義務があります。「この松島がリャンコ島であることを知っていた」を明示していなければ、上司同僚部下は『勝海舟の大日本沿海略図』の地理認識を有していると判断し、その判断により前島発信情報が処理されます。
古典的名著である川上健三『竹島の歴史地理学的研究』は、「竹島外一島」に触れていませんから、そこで使用されている「古来の竹島と松島」というのは1880年以降の知見に基づくものと推察できます。ararenotomo1さんは、1877年において「古来の竹島と松島」という概念が存したという主張ですから、川上健三氏のそれとは異なる概念です。
>
朝鮮名于山島を、Liancourt RocksやHornet Rocks或いはヲリウツ礁メ子ライ礁等と、勝手な名前を付けた。(No.18429)
>
次の例は、読点をきちっと打ち、竹島、鬱陵島、于山島がそれぞれ別個の島であることを明確に示しています。「江原道島嶼:- - 竹島、鬱陵島、于山島ハ共ニ東海ノ中ニ散布セル諸島ナリ」(大田才次郎『新撰朝鮮地理誌』博文舘, 1894, 復刻大空社, 2005)。(No.15525)
朝鮮名于山島をLiancourt Rocksと呼んだ事実はありません。
例えば、『新撰朝鮮地理誌』は、その5頁で、竹島=アルゴノート島、松島=ダジュレー島としています。その上で、102頁に上記を記述し、松島=鬱陵島+于山島としています。
于山島がLiancourt Rocksに変貌を遂げるのは戦後のことです。
以上検討した様に、ararenotomo1さんは、「古来の竹島と松島」「シーボルトは、竹島を誤って松島=ダジュレー島とした」「朝鮮名于山島をLiancourt Rocksとした」等と、1877年に存在しなった概念を用いて、自説を補強しているに過ぎないと思われます。
これは メッセージ 18429 (ararenotomo1 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18430.html
Re: 誰もリャンコ島を想起していなかった
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/06 22:30 投稿番号: [18429 / 18519]
take_8591様、詳しい長文のご意見をありがとうございます。幾つかの事実誤認と、私の考えに対して少し誤解があるようなので、説明したいと思います。
>1)明治政府が「松島」と呼ぶ島はダジュレー島である。(中略)ararenotomo1さんは、ある時はダジュレー島とし、又ある時はリャンコ島として、ご自分の主張に都合の良いように文献解釈をしていると考えています。
明治政府は鬱陵島に松島の名も認めましたが(No.18248)、ダジュレー島に比定した訳ではありません。私も、「竹島外一島本邦関係無之」の竹島を鬱陵島としましたが、ダジュレー島としたことはありません。又、外一島は、『原由之大畧』の記述「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許」から、私は「松島ト呼フ」島と解釈しました。地理に精通していた前島密は、「ウィキペディア:竹島外一島」が書いているように、この松島がリャンコ島であることを知っていたようです(No.18362)。
>「古来の竹島と松島」というのはararenotomo1さんの造語であって、当時の文献に現れた文言ではありません。
15世紀に始まった欧米人の侵略は、18世紀には日本海(東海)に達し、日本も韓国(朝鮮)も幾つかの由緒ある地名を失いかけました。日本名竹島或いは朝鮮名鬱陵島を、アルゴノート島やダジュレー島、日本名松島或いは朝鮮名于山島を、Liancourt RocksやHornet Rocks或いはヲリウツ礁メ子ライ礁等と、勝手な名前を付けたのは、その最たる例でしょう。またシーボルトは、竹島を誤って松島=ダジュレー島としました。それらを区別するため「古来」を使いましたが、私の造語ではありません。古典的名著である川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)も使っています。
>ararenotomo1さんは、現代的視点で「元禄期の竹島はダジュレー島」である、又、現代的視点で「鬱陵島はダジュレー島」であるから、明治10年の明治政府は「竹島はダジュレー島」の認識を有していたと主張されますが、論理的に成立しない主張です。
よく理解できませんが、私は“明治政府は「竹島はダジュレー島」の認識を有していたと主張”したことはありません。
>4)朝鮮名「鬱陵島」はアルゴノート島
>ararenotomo1さんが、鬱陵島=ダジュレー島とされる根拠がわかりません。
私は鬱陵島=ダジュレー島としたことはありませんが、take_8591様が欧米人命名のアルゴノート島やダジュレー島に拘る理由が、少し分かりました。take_8591様は、欧米の誤った地図に基づき、ahirutousagi2様と同様に、竹島をアルゴノート島、松島をダジュレー島に比定して、内務省・太政官が「本邦関係無之」とした「竹島外一島」を何れも鬱陵島にしたいのではないかと思います。しかし、先に示したように、『原由之大畧』は、松島が竹島へ行く途中の島であることを明確に述べています。また、その竹島を、現存せず(nicht vorhanden)と記されたアルゴノート島に比定するなど、全く無意味でしょう。
>5)島根県の「松島」認識はより明確になった。
明治14年島根県が提出した『日本海内松島開墾之儀ニ付伺』の松島は、シーボルトが誤って松島とした竹島=鬱陵島のことです。これについての議論はNo.17667を参照して下さい。
最後にtake_8591様は、「ararenotomo1さんが明らかにしているのは元禄期の松島がリャンコ島を意味することのみで、明治政府がリャンコ島を松島と呼んでいた事実と根拠を明らかにされていません。」と書かれました。「元禄期の松島」即ち、寛文7(1667)年の『隠州視聴合紀』にある「戌亥間行二日一夜有松島又一日程有竹島」の松島が、リャンコ島を意味する、とのtake_8591様の考えに同意します。ありがとうございます。
私は、繰返し述べたように(Nos.18184, 18248, 18332, 18333, 18362)、明治政府が版図外とした外一島は、シーボルトが誤ってダジュレー島=松島とした竹島=鬱陵島ではなく、元禄期の松島=古来の松島=リャンコ島=現竹島と考えております。
これは メッセージ 18400 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18429.html
太政官:架空島アルゴノートに比定?
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/09/06 22:20 投稿番号: [18428 / 18519]
ahirutousagi2様のご意見は、誤解したこともありましたが、だいたいは理解している積りです。しかし、次の点がどうしてもよく分かりません。
ahirutousagi2様は、No.18392で「確かなことは、竹島・松島を判図外とした。それは前後の数々の資料からアルゴノート島・ダジュレー島に比定された、」と書いておられます。また、No.18186では「政府から出ていた資料がことごとく竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーであった」と述べておられます。しかし、当時の政府資料がことごとく竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーを表しているでしょうか?
ahirutousagi2様は、1877年3月の太政官判断に影響した地図として、1867年の勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)及び1875年の陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)を挙げられました(No.18320)。
勝海舟識『大日本國沿海略圖』は、英国海図を観て作ったとされ、鬱陵島の形をした松島の西北に点線で竹嶋を描き、東南にリェンコヲルトロックとして二つの小島を載せています。参考にした英国海図は、take_8591様がNo.18373で示された1863年のJapan and Korea図と思われますが、これはTako sima or ArgonautをP.D.として点線で表しています。陸軍参謀局『朝鮮全圖』も同様に竹島は点線です。また、Perryの『日本遠征記』の地図は、I. Argonautを現存せず(nicht vorhanden)と記し、島の形を描いていません。さらに、1876年3月刊海軍省水路寮製図課長大後秀勝の『大日本海路(海陸)全圖』では、松島と記された鬱陵島とその南にヲリウツ瀬・メ子ライ瀬の二つの島は描かれていますが、アルゴノートに当たる島はありません(川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。当時既に、欧米の地図をよく知る人は、竹島=鬱陵島をダジュレー島=松島としたシーボルトの誤りは継承しましたが、アルゴノートは架空の島と認識しており、竹島をアルゴノートに比定しようとは思わなかったのではないでしょうか?
さらにahirutousagi2様は、江戸時代に広く普及していた長久保赤水系の地図や伊能忠敬の地図を無視されているようです。新政府は、明治最初期には、幕府と同様に、竹島・松島を日本領とは考えていませんでした。1871年の川上寛『大日本地圖』や1873年の中根淑『兵要日本地理小誌全圖』に竹島松島は描かれておりません(Nos.16955, 17667)。
初等地理教科書『日本地誌略』で「(隠岐)西北ノ洋中ニ、松島・竹島アリ、」と書いた大槻修二は、1875年の『日本地誌要略』では「此國ハ、日本海中西邉ノ絶島ニシテ、其西北洋中ニ、松島・竹島ノ兩島アリ、共ニ朝鮮・地方ニ接近スレドモ、亦・居民・統屬ナク、各方ノ人、時ニ来リテ、海獵ノ場トナスト云フ、」と詳述し、松島・竹島を無主地と見做しましたが、西洋図の影響は全く受けていません(No.15715)。
ただし、海軍省は、1876年12月ロシア海軍の海図を翻訳した『朝鮮東海岸圖』を出版し、鬱陵島を松島とし、隠岐よりにヲリウツ礁・メ子ライ礁、朝鮮よりに点線でアルゴナフタ島を描きました(Nos.17667, 17668)。そして、軍艦天城は、1878年と1880年松島を調査し、1883年7月刊行の『水路雑誌』第41号に、「鬱陵島(一名松嶋)」として詳しく記載し、公的に鬱陵島を松島と認定しました。そこで日本政府は、「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」等と鬱陵島に松島の名も許しました。しかし決して、古来の竹島=鬱陵島を否定した訳ではありません(No.18248)。『原由之大畧』にある「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス・・」や「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」を消し去ることは出来ません。
松島という名を鬱陵島に取られたので、本来の松島はリャンコ島等と呼ばれました。しかし次第に、本来の松島の名が復活してきました。1901年の恒屋盛服『朝鮮開化史』は于山島に「日本人ハ松島ト名ク」と注記し(No.15525)、1902年の釜山領事館報告『韓國欝陵島事情』には、「本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス」とあります。これら「前後の資料の整合性」からの「答え」は、日本政府が竹島=鬱陵島のみならず「本来の松島=リャンコ島」も版図外にしたことでしょう。
これは メッセージ 18392 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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東海(日本海)を高麗大和百済海と妥協しよう
投稿者: kundaikun 投稿日時: 2010/09/05 18:15 投稿番号: [18427 / 18519]
東海を高麗大和百済海と妥協しよう
英語では kori-yamato-kudara seaと妥協しよう。。ok?
それでは日本人の大和百済の臣民たちも歓迎するでしょう。
独島(竹島)という名称も高麗大和百済島だと妥協して呼ぼう。。ok?
英語では kori-yamato-kudara island?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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林子平の2枚の地図
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/05 18:14 投稿番号: [18426 / 18519]
これは メッセージ 18424 (take_8591 さん)への返信です.
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シンヨンハ氏の言う「正確」とは ?
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/05 17:48 投稿番号: [18425 / 18519]
これは メッセージ 18424 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−5
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/05 17:25 投稿番号: [18424 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf5
日本で最高に権威のある1875年の古地図も独島は韓国領土だと明白に規定しています。
(1)
日本の有名な実学者林子平が1785年に編纂した『三国通覧図説』の付属地図に『三国接壌之図』があるが、各国の領土を国別に異なる色で彩色した地図です。この地図で、朝鮮は黄色、日本は緑色で彩色されているところ、この地図は東海の中に鬱陵島と独島を正確な位置に描き、朝鮮の色である黄色を彩色して鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを明確にしました。
この地図は、鬱陵島と独島の領有国をさらに明瞭にさせるために、その上に改めて「朝鮮の所有(朝鮮ノ持へ)」と文字まで書き入れました。独島が韓国領土であることをより明白にしたのです。
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三国接壌之図の画像
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1785年、日本の実学者林子平が描いた『三国接壌之図』
(2)
林子平の1875年の『三国通覧図説』とその付属地図である『三国接壌之図』を、ドイツ人クラプロト(J.Klaproth)が1832年にフランス語で翻訳出版しました。この地図でも韓国は黄色、日本は緑色に彩色したが、東海の中の鬱陵島と独島は韓国の色である黄色で彩色して韓国領土であることを明白に表示しました。
クラプロトは、独島と鬱陵島の黄色の島の上に改めて「Takenoshima a la coree(タケシマは朝鮮のもの)」と書き、独島と鬱陵島が韓国領土であることを一層明瞭に明らかにしました。
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三国接壌之図フランス語の画像
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林の『三国通覧図説』と『三国接壌之図』をドイツ人クラプロト(J.Klaproth)が1832年にフランス語で翻訳出版する際に、鬱陵島と独島を韓国の色である黄色で塗って「鬱陵島と独島は韓国の領土(Takenoshima a la coree )」と記録した地図
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52639416.html
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固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18424.html
松島東望楼 & グアテマラ 7日(火曜)
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/05 07:54 投稿番号: [18423 / 18519]
これは メッセージ 18418 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18423.html
貴方は、奥さんの姿形を知っていますか
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/04 19:06 投稿番号: [18422 / 18519]
1
認識と領有
韓国大統領は、独島問題に対して「長年、連れ添ってきた我女房を、隣の男が俺の女房だ、と言い始めた様なものだ。」としました。(出典:失念)
「長年連れ添ってきた我女房」であれば、その姿形を認識している筈です。隣三軒両隣の奥さんと間違える様なことはありえません。
尚、特定の女性の姿形を知っていても、それは「我が女房」に直結しません。生計を一にしているとか、毎朝の食事を作ってくれるとか、夫婦としての営みをしていて始めて「我が女房」となります。
外務省は、「認識」との文言を使用しています。これは「発見」概念とは異なる状態を想定していると考えられますが、その違いは判りません。勝手ですが、「認識」とは、その島の姿形について他島と峻別できる情報を有し、再訪問可能な程度に航路を把握している状態にあることをいう。とします。
2
韓国によるリャンコ島の認識
于山国は、5世紀頃に最盛期を向かえ12世紀頃まで存続したことになっています。ここに暮らしていた于山国人が、リャンコ島への航海をしていた可能性は否定できません。しかし、この高い航海技術は、李氏朝鮮に引継がれていません。李氏朝鮮が鬱陵島に渡るのに四苦八苦していた状態は、これまで見てきたとおりです。李氏朝鮮に引継がれていないのですから、于山国人による認識は韓国人による認識とすることはできません。
1694年の張漢相は、鬱陵島から東を眺めるもリャンコ島には行きませんでした。1882年の李奎遠は、鬱陵島から東を眺めるも「一挙の石一撮の土なし」としました。この両時、朝鮮は鬱陵島への日本人の進出に悩んでいました。にも関わらず、「一挙の石一撮の土なし」と出来るのですから、この時の朝鮮人はリャンコ島を知らなかったと解されます。
3
日本海にある4つの島
日本海には、リャンコ島程度以上の島が4個あります。隠岐島・リャンコ島・チェクト・鬱陵島です。
韓国が、この4つの島の姿形について他島と峻別できる情報を有し、再訪問可能な程度に航路を把握している状態にあったのは何時からでしょうか。
日本は、遅くとも17世紀初頭には、このこの4つの島を認識していたと出来ます。史料的に裏付けられるのは、17世紀末です。
韓国は、1711年の朴昌錫『鬱陵島圖形』において2島の発見が出来ていると認められますが、4島の発見が確認できるのは1904年の『軍艦新高行動日誌』となります。
これは メッセージ 18419 (take_8591 さん)への返信です.
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竹島(鬱陵島)領有権の確立
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/04 18:53 投稿番号: [18421 / 18519]
日朝で和平が成ったのは1607年です。この時、鬱陵島の領有権がどの様になったかは定かではありません。しかし、これより前に始まっていた竹島(鬱陵島)渡海は継続されました。
1615年、幕府は朝鮮に書を送って「磯竹島は日本属島である」と諭すが、朝鮮は「磯竹島とは我国の鬱陵島のことである」としてこれを許しませんでした(通航一覧137巻)。この時、日本は漁業等を行っていました。朝鮮は『與地勝覧」に記載があることから「その島のことは知っているから我のものだ」と反論しました。尚、『芝峰類説』・『西渓雑録』に日本人による鬱陵島渡海の事実が記されていますから、日本人による実効支配の情報はソウル市内迄は届いていたと思われます。しかし、朝鮮朝廷はこの情報に対して何らの策を執りませんでした。
1620年、幕府は、磯竹島に居住していた鷺坂(磯竹)弥左衛門を潜商の罪で捕えました。1615年の返書では「海賊と看做して取り締まる」としていた朝鮮が、1617年に日本に対し警察権の行使を要望したためです。
1620年〜1624年、幕府は大谷村川両家に対し『竹島渡海免許』を与えました。その後、1693年まで両家の竹島渡海事業は継続しますが、免許のコピーを携えた渡海でした。記録では、この事業途上で2回難破し、朝鮮海岸にたどり着いたとされています。1615年に「磯竹島領有権」を日本が主張していると知っていた朝鮮は、『竹島渡海免許』を確認しても、日本に正式な抗議をしませんでした。朝鮮実録にはその記録すら残っていません。
1693年、両家は磯竹島で安龍福を捕らえ、幕府に『竹島渡海免許』の実効性を問いました。対馬藩を介した日本の苦情を受けた朝鮮は、ここで始めて動きました。
以上の様に、幕府は島の実効支配(継続的有効利用)を以って領有と考え、朝鮮は島の発見(認識)を以って領有としていたことが解ります。
これは メッセージ 18419 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18421.html
一応、隠州視聴合記の解釈
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/02 04:06 投稿番号: [18420 / 18519]
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52613341.html
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s
隠州在北海中故隠岐嶋ト云
按訓海中言遠岐故名○
其在巽地言嶋前也
知夫郡海部郡属焉
其位震地言嶋後也
周吉郡穏地郡属之・・・・・・・其府者周吉郡南岸西郷豊崎也
従是南至雲州美穂関三十五里
辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里
自子至卯無可往地
戍亥間行二日一有松嶋
又一日程有竹嶋
俗言磯竹島多竹魚海鹿
此二島無人之地
見高麗如自雲州望隠州
然則日本之乾地
以此州為限矣
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e
これを3部に分けます。
1
隠州の中点を求める
「その東南に在るが島前で、その東に在るを島後と言う」と記されています。島後は島前の北東に在りますから、海上の一点から東南と東を眺めていることが解ります。この一点は、竹島を含んだ隠岐州の各島を加重平均して求めた中点と思われます。
又、1里=1海里強に設定して、美穂関・赤碕浦・温泉津からその距離を逆に遡って行けば上記中点に辿り付きます。
2
松島・竹島の存在
上記中点から2日で松島、更に1日で竹島があります。
ここで注意すべきは、美穂関・赤碕浦・温泉津には州名が付いていたのに、松島竹島には州名が付いていません。もし、朝鮮領と考えていたなら、高麗松島・高麗竹島と記す筈です。州名が付いていないのは、斉藤氏が松島竹島を隠州に属すると考えていたからです。隠州視聴合記において、州名が付いていない地名は全て隠州に属しています。少なくとも、大谷村川両家が、葵の御旗を立て出航し、領地保全の朱印状を拝領したと吹聴している松島竹島を朝鮮領と記録する地方官僚はいません。
3
竹島への感慨
辿り着いて更に先を見れば、その向こうに在るのは朝鮮である。
その距離は、雲州と隠州の程しか離れていない。
然らば、即ち、ここが日本の最西北端である。
竹島を含む隠州が日本の限界点であると、感慨にひたる。
これは メッセージ 18419 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18420.html
世界人独島理解16−4
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/02 03:51 投稿番号: [18419 / 18519]
世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf4
日本が独島を歴史的に領有したという根拠は、20世紀初期までただ1件も全くありません。日本政府が提示した17世紀の日本で最も古い文献なども、「独島」は韓国領土だと記録しています。
(1)
日本外務省は、1960年に韓国政府に送った外交文書において、日本は1667年に編纂された『隠州視聴合記』(斎藤豊仙編)において鬱陵島を「竹島」(タケシマ)、独島を「松島」(マツシマ)と呼び、独島を日本の領土として認知したと主張しました。
ところが、いざ『隠州視聴合記』を開いて見れば、この古文献の内容は、独島(松島)と鬱陵島(竹島)から高麗(韓国)を見るのはあたかも日本の雲州から隠岐を見るようであり、この二つの島、独島(松島)と鬱陵島(竹島)は高麗(韓国)に属した島で、日本の西北方の国境は隠岐島(隠州)を限界とすると明白に記録しています。
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隠州視聴合記の画像
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独島を記録した日本最初の古文献、1667年の『隠州視聴合記』は、独島と鬱陵島から高麗を見るのはあたかも雲洲から隠州(隠岐島)を見るようであるので、「日本の西北方の領土は隠州をもって限界とする」と言う要旨の記録
日本最初の独島を記録した古文献も独島が韓国領土であり、日本の西北方の領土は隠岐島を限界とすると記録したのは、歴史的真実がそうだったからです。
(2)
日本外務省は、今回の『2008-10ポイント』(1)において、1779年に描かれた改正日本輿地路程全図(長久保赤水編)が「独島」を認識していたと主張しました。
改正日本輿地路程全図の1846年版原本は、保坂祐二教授によれば、経度緯度がない地図であり、鬱陵島と独島の2島を描いたのは位置だけ描いたのであって日本の領土として描いたのではなく、改訂版の鬱陵島(竹島)、独島(松島)の部分を拡大して見れば、「高麗を見るのは出雲国から隠岐島を見るのと似ている(見高麗猶雲州望隠州)」という文字を2島の上に書き入れたが、この文句は隠州視聴合記の結論の文言と同様であり、鬱陵島、独島の2島が高麗のものであって日本の領土ではないことを教えてくれるのです。
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日本輿地路程全図の画像
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改正日本輿地路程全図の鬱陵島、独島部分の拡大図(保坂祐二教授提供)
隠州視聴合記の説明と同じく鬱陵島(竹島)、独島(松島)を朝鮮領土と見なしている。
改正日本輿地路程全図(1779年)も独島と鬱陵島が韓国領土であることを示唆しているのです。
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52613341.html
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固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18419.html
鬱陵島の食事 & パラグアイ 4日(土曜)
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/09/02 00:10 投稿番号: [18418 / 18519]
これは メッセージ 18377 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18418.html
韓国では詐欺師を知者と呼ぶのか
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 07:39 投稿番号: [18417 / 18519]
1
慶州にある半月城にはひとつの伝説が残されています。
まだ半月城が建てられる以前のこと。後に新羅第4代国王となる昔脱解は、その土地が非常に縁起のいい場所であることを知りました。ぜひともそこに住みたいと思いましたが、すでにそこには新羅の重臣瓠公の家がありました。あきらめきれない昔脱解はなんとかしてこの土地を手に入れようと一計を案じます。瓠公の家の周りに砥石や金物、炭などを埋めると、後日瓠公に向かって言いました。
「この土地はもともと私の先祖のものなので返してください。私の先祖はこの土地に長く住んでおり、わずかの間他の国に出ただけです。先祖はここで鍛冶屋を営んでいました。きっと家の周辺を掘れば確実な証拠品が出てくるでしょう。」
驚いた瓠公が家の周辺を調べてみると、確かに金属や砥石などが出てきました。それを見た瓠公はしぶしぶながら納得し、この地を手放したそうです。
その後、事件の一部始終が第2代国王、南解王の耳に入りました。たいへん優秀な人物だと喜んだ南解王は昔脱解を婿養子にとり、後の第4代国王としました。昔脱解はこの吉兆の地を王城とすることに定め、それを引き継いで第5代国王、婆娑王が半月城を完成させました。
http://www.pusannavi.com/miru/1073/article/2
于山国が新羅に服属した経緯は、世宗実録地理誌に次のとおりです。
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s
恃險不服
智證王十二年
異斯夫爲何瑟羅州軍主
謂于山人愚悍
難以威來
可以計服
乃多以木造猛獸
分載戰船抵其國
誑之曰
“汝若不服, 則即放此獸”
國人懼來降。
〈地勢の)険しさを頼んで従わないので、智証王12年に、異斯夫が何瑟羅州軍主になったとき、「于山国人々は愚かで荒しくて、威厳では服従させにくいから、計略を以って従わせるのが良い」と言って、木造りの荒しいけだものをたくさん作り、多くの戦船に分けて積んでその国へ行き、欺いて言う「君たちが降伏しなければ、この荒しい獣放すぞ」、そうしたら、その国人々が恐ろしがって来て降伏した。
----------------------
e
3
昔脱解にしろ、異斯夫にしろ、上記の説話において『知者』の評価を得ています。
日本若しくは中国において、かかる人物を知者と呼ぶことはありません。本当にこの様な事実があったとしても、本人が隠し周りが隠すことにより、歴史の中で風化し、現在には伝わらないものです。ところが、韓国においては、この様な説話が現在に伝わっているのです。
これは メッセージ 18414 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18417.html
『輿地勝覧』は改竄されたか?
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 07:04 投稿番号: [18416 / 18519]
地図とは、「地球表面の一部または全部を一定の割合で縮小し、記号・文字などを用いて平面上に表した図。」と定義されます。
「一定の割合で縮小」したものですから、東に在る物は『東』に、遠くに在る物は『遠く』に描かなければなりません。東西を逆にしたり、遠近を無視したものは地図ではありません。勿論、測量技術が劣悪であるから、今日のように正確には描かれていないのは仕方のない事です。
ところが、シンヨンハ氏は、「于山島が鬱陵島よりも韓半島側に近く描かれているのは・・・より明確に韓国領土として表示されているものと解釈することが合理的です。」と主張されます。
シンヨンハ氏は、意図的に、東西を逆にし、遠近を無視したと主張するのです。
これは、地図の改竄です。
シンヨンハ氏は、「『輿地勝覧』は『改竄』された」と主張しているのです。
シンヨンハ氏は、「輿地勝覧・・・を、当時の漢字文化圏世界に再表明、公布したのです。・・・当時の日本も真実の前に承服したのでした。」と主張します。その一方で、「輿地勝覧は改竄された」とも主張します。
シンヨンハ氏は、改竄された資料に基づく主張であっても、相手方が「真実の前に承服した」態度をしめせば有効であると考えているのです。これは、韓国において詐欺師を知者と呼ぶ風習に基づいています。
これは メッセージ 18414 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18416.html
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