竹島
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輿地勝覧と成宗実録の齟齬
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/09/01 06:54 投稿番号: [18415 / 18519]
『輿地勝覧』の「于山島・鬱陵島」の項は、次の言葉で終わっています。
成宗二年
有告別有三峯島者
乃遣朴宗元往見之。因風濤不得泊而還。同行一船
泊欝陵島
只取大竹大鰒魚。回啓云
島中無居民矣。
成宗実録に次の記事が見つかりました。
1470年12月11日に、永安道から苦情があった。「逃賦を逃れ、國に背き、三峯島に投往する者がいる。」と
1472年3月6日に、朝議を開いて検討した。「三峯島は江原の境に在り、土地が沃饒なのに、海道險阻だから放置していた。対策を講ずる必要がある。」と。
1472年3月20日に、朴宗元を三峯島敬差官に任ずる。
1472年6月12日に、江原道觀察使が報告する。「朴宗元は武陵島の近くで、大風に遭遇し難破して還る。」「しかし、部隊の一部が武陵島に至り、三日間島中を捜索したが、大竹があるのみで、居民はいなかった。」と。
他方、永安道も1471年5月に金漢京を派遣しており、その報告は「島人相接」であった。
朴宗元と金漢京の報告が異なるので、永安道観察使は金自周を派遣した。1472年10月22日に報告する。「三峯島の形を圖にした。島には30余人の朝鮮人がいたので、怖くて還った。」と。
1479年10月26日に、又、永安道から苦情があった。
1480年に、朴宗元を三峯島敬差官に任じて派遣しようとしたら、朴宗元は水路を憚って病気になり、その内梅雨となったので中止した。
以上の状況を次の様に考えます。
1
三峯島は明らかに独島ではありません。尚、三峯島敬差官団は、三峯島ではなく武陵島に上陸し捜索しています。
2
「三峯島は江原の境」に在ります。これは、江原境の外と解されます。なぜなら、江原道は三峯島を全く管理していないからです。
3
『輿地勝覧』は1472年の記事で終わっています。その後の事件は無かったことになりました。金漢京・金自周は朝廷ではなく永安道が派遣した官吏ですから、その言動は信用できないとされたのです。そして、信用できない者の言動に載せられて行った施策も又無かったことになりました。
4
『輿地勝覧』が正史であるとすれば、李氏朝鮮は、朴宗元の報告により、鬱陵島を「大竹大鰒魚が採れるだけの島で、潛居する者のいない無人島である。」と認識していました。
5
1472年に朴宗元を派遣してからは、1694年に張漢相を派遣する迄の220年間、李氏朝鮮が放置していた島ですが、粛宗は空島にしていたのは政策であると主張しました。
これは メッセージ 18414 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−3
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 10:42 投稿番号: [18414 / 18519]
世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf3 韓国は、15世紀と16世紀に独島が韓国領土であることを当時の漢字文化圏の世界に知らせました。日本を含めた全ての漢字圏世界がもちろん抗議することなく承服しました。
(1)
朝鮮王朝政府は、1481年に朝鮮王国の領土解説書として『東国輿地勝覧』を編纂発刊しました。続いて50年後の1531年には、この本を増補して『新増東国輿地勝覧』を発刊したが、新たに増補した部分は毎回「新増」と表示したので、初版本がなくても新増本を見れば初版の部分と新増の部分を区別して全て見ることができます。
この『新増東国輿地勝覧』に地方行政所属が明示され説明がつけられている地域は全て朝鮮王国の領土であることを、当時の朝鮮王国政府は当時の漢字文化圏の世界に再表明しました。
『東国輿地勝覧』と『新増東国輿地勝覧』において、「独島(于山島)」と鬱陵島は朝鮮江原道蔚珍県に属する東海の中の2つの島だと説明されています。この本により、朝鮮王朝政府は独島が朝鮮領土であり江原道蔚珍県に属する島であることを、当時の漢字文化圏世界に再表明、公布したのです。もちろん、この時に日本が独島(于山島)は朝鮮領土ではないと反論したことは全くありませんでした。当時の日本も真実の前に承服したのでした。
『新増東国輿地勝覧』には朝鮮領土の解説とともに八道総図(全国地図)と道別地図が添えられています。
(2)
日本外務省は、最近、『2008-10ポイント』(2)において、『新増東国輿地勝覧』の付属地図『八道総図』では于山島(独島)が鬱陵島よりもっと韓半島側に近い内側に描かれているから、于山島(独島)は実在しない架空の島だと主張しました。これは、15世紀の日本の地図の隠岐島が今の位置のとおり正確に描かれていなかったからと言って隠岐島が実在しない架空の島だと主張することと同じ減らず口です。
15世紀の世界のあらゆる古地図は、当時の地図製作能力では位置が今日のように正確には描かれていません。ヨーロッパと日本の古地図も全てそうです。『八道総図』において于山島(独島)が鬱陵島よりも韓半島側に近く描かれているのは、領土問題と関連しては、鬱陵島が韓国領土である以上、鬱陵島よりもさらに韓半島に近く描かれている于山島(独島)は、より明確に韓国領土として表示されているものと解釈することが合理的です。
韓国では、地図製図能力の進歩に伴って、18世紀に入れば于山島(独島)は今の「独島」の位置に「于山島」が正確に描かれ、まさに「于山島」が「独島」であることを明確に証明してくれています。18世紀に描かれたチョン・サンギの『東國全圖』がその例です。
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以上は、chaamieyさんの翻訳
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52592494.html
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于山と武陵の二島は相去不遠
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:40 投稿番号: [18413 / 18519]
シンヨンハ氏は、「2島が、江原道蔚珍県のすぐ東海の中にあり、距離が遠くない」と翻訳していますから、下條氏の言う「2島は半島から離れていない」の解を踏襲しているように見えます。しかし、シンヨンハ氏の論文解釈も古文献解釈と同様に、独島教の教義に則って解さなければなりません。
「于山島と鬱陵島の2島は(not=が)、距離が遠くない」なのでしょう。
1416年9月2日の金麟雨発言は「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わない」です。1437年2月8日の大臣発言は「此島は陸地から遠くて、風水が甚だしく惡い」です。1438年7月15日の兵曹発言は「海中絶域」です。1438年7月26日の江原道監司発言は「近頃の者は、大洋を渡るのを恐れている」です。
この様に、半島と鬱陵島の間は「相去遠い」という認識が朝廷内にあった事実を示しています。
では、鬱陵島と独島の間はどうなのでしょうか。その距離は、半島と鬱陵島の間とほぼ同じですが、鬱陵島はとにかく行き着くことができれば良いのですが、独島では生活できませんから往復の距離を設定しなければなりませんん。仮に、鬱陵島独島間に穏やかな海が広がっているとしても、「相去遠い」と判断せざるをえません。
すると、「相去不遠」とする2島の内の1島は架空の島であるか、チェクトと解するかしかありません。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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三陟都護府蔚珍縣に属するか于山島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:28 投稿番号: [18412 / 18519]
シンヨンハ氏は、「韓国は、高麗時代は勿論、朝鮮王である世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治したことを記録しています。」と主張されますが、何に依拠した主張なのか判りません。
1417年2月8日・1436年6月19日・1437年2月8日と3回に渡って、鬱陵島の籍を江原道に入れる建白が為されるが、何れも却下されています。又、于山茂陵等處按撫使の金麟雨・茂陵島巡審敬差官の南薈はソウルから命令されているのです。按撫使派遣が江原道の裁量に任されていなかった事が解ります。この様に、「世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治」していなかった記録のみが残っているのです。
1425年10月20日の王発言は「捕還した逃民は、潛從他國ではない。」です。これを「他国から潜む」とは解せませんから、「他国に従いて潜む」と解します。1438年7月15日の兵曹発言は「茂陵島が本國之地に係ると雖も、海中絶域なので、國家は縣邑を置いていない。」です。この「係る」の解釈は微妙ですが、本国の地とは別に茂陵島があると解されます。この様に、朝鮮領土で無かったことも明白です。
尚、金麟雨と南薈を于山島に派遣した目的は、職場放棄した逃隱者を連れ戻し、税金を納めさせることですから、于山島が独島でないことも明らかです。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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世宗実録の鬱陵島記事
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:16 投稿番号: [18411 / 18519]
1419年3月29日
武陵島に潛居しようと謀議した者を杖一百にした。
1419年4月1日
武陵出來男婦共十七名が、平丘驛に至り、絶糧となる。然るに、これを援ける者がいない。王は救済命令を出した。
1423年-月-日
武陵島に男婦28名が逃げた。
1425年5月-日
武陵島に男婦7名を残して平海に来た者を捕らえた。
1425年8月8日
金麟雨を于山武陵等處按撫使に任じて、刷還を命じた。
1425年10月20日
金麟雨が本島で20名を逮捕し、官員46人を失った。王は「何が益なのか。この島には別段の産物もない。」と言った。
1425年10月20日
王が「逃げた理由は賦役を兔れたと解される。」「捕還した逃民は、潛從他國ではない。赦前の犯罪だから、罪を加えるのは宜しくない。」と言うので、逃民を深遠な山郡に置き、3年後に赦免するようにした。
1425年10月26日
于山茂陵等處按撫使の金麟雨を賞する。
1425年11月20日
茂陵島の帰途に難破した者の慰霊祭を行う。
1425年12月28日
漂流者10名が日本から帰国した。36人は溺死した。
1426年12月13日
茂陵島と対馬に逃げて火藥秘術を教えないか心配なので、沿海で火薬を造らない様にした。
1432年-月-日
『新撰八道地理志』編纂。二島相去不遠
風日芿明
則可望見。
1436年6月19日
江原道監司柳季聞啓。「武陵島・牛山は土沃多産だから移民してはどうか。」
1437年2月8日
「茂陵島は土地が半島の10倍も肥えている。嶺東の藩籍としてはどうか」の江原道監司建白あり。「此島は陸地から遠くて、風水が甚だしく惡い。郡縣は置けない。」と反対あり。「茂陵島が無人になって久しい。若し倭奴が先據すれば、將來之患となる。毎年人を送って島を探索する様にしてはどうか。」と結論する。
1438年4月21日
武陵島は土沃可居なので、南薈と曹敏を茂陵島巡審敬差官にした。
1438年7月15日
南薈と曹敏は、男女66人を逮捕し、土地の産物を持ち帰った。
1438年7月15日
發船一日一夜乃至・・・東西一日程, 南北一日半程
1438年7月15日
議政府據兵曹呈啓。茂陵島が本國之地に係ると雖も、海中絶域なので、國家は縣邑を置いていない。逃隱者への逃避之罪は容赦しないが、温情を以って罰せよ。
1438年7月26日
傳旨江原道監司。茂陵島は本来人の住む処である。昔は往來之地であった。然に、近頃の者は、大洋を渡るのを恐れている。昼夜これを憂慮している。
1438年11月25日
茂陵島に逃入した首謀者を絞刑に処した。従犯は流刑。
1439年2月7日
茂陵島で暮らしていた者を絞刑に処した。
1454年-月-日
世宗実録地理誌。三陟都護府
蔚珍縣。于山武陵二島
在縣正東海中。【二島
相去不遠
風日芿明則可望見
新羅時稱于山國
一云鬱陵島
地方百里・・・
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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太宗実録の鬱陵島記事
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/30 03:06 投稿番号: [18410 / 18519]
1403年8月11日
江陵道の武陵島の居民を半島に出るように言い付けた。
1407年3月16日
対馬島守護宗貞茂が、武陵島に移住して暮すことを要請したが、これを断る.
1412年4月15日
流山國島人12名が江原道を訪ねて曰く。「私達は武陵島で生長したが、今は11戸60余人で流山國島で住んでいる。」と。觀察使は、彼らが逃げないように通州高城杆城に分置した。
1416年9月2日
江原道都觀察使は聞いた事がある。「武陵島の周回は七息で、傍に小島がある。昔、方之用が十五家を従え、時に假倭寇を為した。」と。
1416年9月2日
三陟人金麟雨は奏上した。「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わない。軍役を避ける者や逃亡者が島に入る。若し島に多くの人が入れば倭寇が必ず入り、江原道を侵す事になる。」と。
1416年9月2日
金麟雨を武陵等處安撫使にし、其頭目を諭す様に命じた。
1417年2月5日
金麟雨が于山島から還り報告する。「土地の産物を献上する。居住民3人を率いてきた。其島には、15戸男女86人が住む。」
1417年2月8日
「物資と主帥を送って慰撫し、土貢を納めさせてはどうか。」と建議あり、王は「彼らは、役を逃れ楽に暮らすのが目的だから、土貢を定めると定着しない。」と許可しなかった。
1417年2月8日
金麟雨に于山武陵等處の居人を出陸させるよう命じた。
1417年2月8日
于山人3名には、各衣一襲を与えた。
1417年8月6日
倭が于山、武陵を寇した。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: パクッた竹島にパクリ守護神
投稿者: kiyoakl 投稿日時: 2010/08/27 20:38 投稿番号: [18409 / 18519]
本物がテコンV倒して竹島を奪還すればいい
これは メッセージ 18408 (freefigh さん)への返信です.
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パクッた竹島にパクリ守護神
投稿者: freefigh 投稿日時: 2010/08/27 20:14 投稿番号: [18408 / 18519]
韓国政府は「マジンガーZ」のパクリアニメの「テコンV」を竹島の守護神にしたそうな。
まさに朝鮮人の大詐欺精神を象徴する話です。
「テコンVよ!
お前に正義の心があるなら、日本のために竹島を奪還せよ!!」
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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ほらね
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/27 19:13 投稿番号: [18407 / 18519]
珍走団・成人式で暴れる糞ガキ・特攻服(朝鮮進駐軍)・・・在日チョン・部落民
ツバや痰を吐く・下賤・下品な行為・発言・・・・・・・・・在日チョン・シナ人
所かまわず脱糞・放尿・ゴミのポイ捨て・・・・・・・・・・シナ人・在日チョン
街の落書き・器物破損・日本を汚す・・・・・・・・・・・・在日チョン
エセ街宣右翼(下劣な罵声・大音量の街宣・下品な黒車)・・在日チョン
DQN車・ビグスクや車での迷惑大音量・・・・・・・・・・在日チョン・部落民・大阪系のバカ
凶悪犯罪(強姦・殺人・強盗・窃盗)・薬物・・・・・・・・在日チョン・シナ人・南北朝鮮・部落民
暴力団(やくざ)・チンピラ・ホスト・クズ男・・・・・・・在日チョン・部落民
振り込み詐偽・その他詐偽・嘘つき・裏切り・・・・・・・・在日チョン・シナ人
サラ金・ヤミ金・パチンコ・その他イカサマ商売・・・・・・在日チョン・南北朝鮮
民主、社民、共産、公明の支持者・反日左翼・日教組・・・・在日チョン・シナ人・南北朝鮮・部落民
創価学会・統一教会・その他カルト・・・・・・・・・・・・在日チョン・シナ人・南北朝鮮
差別・被害者捏造ビジネス・金に卑しい・・・・・・・・・・在日チョン・部落民
反日マスゴミ(朝日・毎日・TBS・電通・NHK等)・・・シナ・南北朝鮮・在日南北チョン
【まとめ】
日本のレベル低下・下賤・下劣な文化や犯罪・・・・・・・・在日チョン・シナ人・部落民の仕業
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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于山鬱陵二島と鬱陵于山二島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/27 18:42 投稿番号: [18406 / 18519]
物には序列があり、これを侵してはなりません。
この理念、朝鮮朱子学において、病的に強いものがあります。
すると、「于山鬱陵二島」と「鬱陵于山二島」という概念は、全く異なる概念であると推察されます。
「于山鬱陵二島」の概念を端的に現しているのが、『與地勝覧』に掲載された「八道総図」です。「八道総図」に于山島は半島と鬱陵島の間に描かれています。『與地勝覧』本文は「一説于山欝陵本一島」と記されています。又、世宗実録地理誌と同年代に編纂された『高麗史』に「一云于山武陵本二島」と記されています。
この様に、日本海上にある于山国が、2島で構成されているのか、1島なのか判然としない状態をして「于山鬱陵二島」と表現されているのが明らかです。
1694年李氏朝鮮は、張漢相を鬱陵島に派遣しました。しかし、張漢相はチェクトと独島を遠望したと推察されますが、何れの島に対しても「于山島」の名を冠することが出来ませんでした。1711年李氏朝鮮は、朴昌錫を鬱陵島に派遣しました。朴昌錫は鬱陵島圖形を残しました。鬱陵島圖形はチェクトを「于山島」と命名し、「海長竹田
所謂于山島」と記しました。1808年李氏朝鮮は、万機要覧を編纂しました。万機要覧は「鬱陵于山
皆于山國地」と記しました。
この様に、日本海上にある于山国が鬱陵島とチェクトで構成されていると明確に認識した場合、「鬱陵于山二島」と表現されているのが明らかです。
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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于山島鬱陵島の2島は朝鮮領ではない
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/27 18:24 投稿番号: [18405 / 18519]
シンヨンハ氏は、「韓国は、高麗時代は勿論、朝鮮王である世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治したことを記録しています。」と主張されますが、何に依拠した主張なのか判りません。
先ず、『世宗実録地理誌』は、于山島鬱陵島を「規式」に則って記録していません。「規式」に則れば、「陸地より相去る水路の息数」を記録しなければなりませんが、シンヨンハ氏は規式に則った記録は存在せず、ただ、于山島鬱陵島の状況を記録しているに過ぎないと言い張る様です。
このシンヨンハ氏の主張は、「規式」に則った記録をしていない『世宗実録地理誌』は于山島鬱陵島を李氏朝鮮領として認識していないと結論付けざるを得ません。
次いで、「昔の新羅時代には于山国と称しており、新羅に併合されたことが確認できる」と主張されますが、半島政権による「于山国」認識は、高麗から李氏朝鮮へと継承されています。高麗史は、鬱陵島付近の地域を「于山国」と称しています。更に、万機要覧には「輿地志云
鬱陵・于山
皆于山國地」と記録され、「于山国」が依然として存在していた事が確認できます。
この様に、李氏朝鮮歴代の王は、蔚珍県の東の日本海に「于山国」を認識していたのです。他国との認識を持っているのに、「江原道蔚珍県に属した朝鮮領土」と言える筈がありません。尚、内藤正中氏に拠れば、無人の留守宅に忍び込んで物品を持ち去ろうとも、それに拠って留守宅の所有権を主張できないのだそうです。
下條氏『竹島は日韓どちらのものか』p163〜p165に次のとおりです。
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s
(世宗実録地理誌の編纂においては)、州府郡県の地方官庁では「規式」に準拠して資料が集められたわけだが、これは鬱陵島のような島嶼の場合も同様であった。例えば『慶尚道地理誌』では、島嶼の規式は次のようなものであった。
諸島は、陸地より相去る水路の息数、及び島中、前に在りて人民の接居、農作の有無。
(中略)『慶尚道地理誌』では、興善島は「陸地より相去ること水路10里。人民来住して耕作す」と記された。それが、『新撰八道地理誌』を経て、致死の最終段階である『世宗実録地理誌』では「水路10里。人民来住して耕作す」に落ち着いた。『世宗実録地理誌』では、「規式」の一部である「陸地より相去ること」の一節が削られたのである。
(中略)17世紀末、鬱陵島の領有を巡る争いが起こると、南九萬は当然のように『東国與地勝覧』の「歴々と見える」を蔚珍県から鬱陵島が「見える」と解釈したのである。
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e
これは メッセージ 18404 (take_8591 さん)への返信です.
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世界人独島理解16−2
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/27 18:13 投稿番号: [18404 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」−2
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf
韓国は、高麗時代は勿論、朝鮮王である世宗が独島を江原道蔚珍県に属した朝鮮領土として統治したことを記録しています。
1
朝鮮王朝世宗大王の統治記録である世宗実録(世宗実録)地理誌は、「独島(于山島)と鬱陵島の2島が、江原道蔚珍県のすぐ東海の中にあり、距離が遠くなく、天気が清明ならば見えて、新羅の時には于山国と称した。」と記録しました。世宗は、“独島(于山島)・鬱陵島按撫使”という職責の金麟雨を、二回も派遣してその統治権を行使しました。
2
世宗実録地理誌は、独島と鬱陵島の2島が、昔の新羅時代には于山国と称しており、新羅に併合されたことが確認できるだけでなく、天気が清明な場合には鬱陵島から独島が見えると記録しました。
東海には少し大きい島として鬱陵島と独島と日本隠岐島の3島があるだけなのに、鬱陵島では韓国東海岸は遠くて見えないし、日本隠岐島も遠くて見えません。ただ、天気が清明な日にだけ独島(于山島)がやや小く見えます。
この事実は、于山島が即ち独島なのを証明することと同時に、15世紀に独島が世宗の統治をずっと受けた朝鮮王国の領土だったことをはっきりと証明しています。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18404.html
Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/24 23:56 投稿番号: [18403 / 18519]
1
西暦512年(新羅智証王13年)に于山国が新羅に服属して併合されたので新羅の一地方として編成した。
『三国史記』に「于山国帰服
歳以土宜為貢」(于山国が帰属し毎年の産物を貢いだ)と記されています。この記事により、「512年には独島を領有した」とされるのですね。
すると、日本への「遣新羅使」「遣耽羅使」は、新羅・耽羅が日本領であったことを意味するのでしょうか。「遣唐使」は、日本が唐の一地方であることを意味しません。
又、新羅高麗が、于山国に冊封使を送ったという記録も、于山国が女真族に寇されても防衛の軍隊を送ったという記録もありません。一方、中国は朝鮮に冊封使を送り、秀吉の朝鮮征伐に対抗し軍隊を送り、日清戦争の前には朝鮮防衛の為に軍隊を送りました。この様な中朝関係は、李氏朝鮮が明・清の一地方であった事実を示しています。現在、韓国は独立国家である様ですが、これは明・清に対する忘恩行為ではないでしょうか。
そして、新羅の于山国併合を合法とされながら、日韓併合を違法とする理由はありませんよね。
この愚かな私の歴史認識は修正されねばなりません。今後の展開に興味津々です。
2
于山国の大きい島である「鬱陵島」の名称が固定されると、その付属島である独島に遅くとも15世紀に「于山島」という名称が固定した。
この表現を始めて聞きました。
「于山島」という名称は、15世紀頃からのものなんですね。新羅朝・高麗朝では、何と呼ばれていたのでしょうか。まさか、領有している島に名前が付いていないなんて事はないですよね。今後の展開に興味津々です。
史料的に始めて「于山島」の名前が出てくるのは、武陵等處安撫使の金麟雨が「于山島から帰って来た」と報告する、太宗実録1417年2月5日の記録です。その報告は、「土地の産物は、大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などであり、その島の戸数はおよそ15家族、男女86人である。」となっています。
この様に登場した「于山島」が、どの様にして、人の住めない岩石島へと変貌を遂げるのでしょうか。今後の展開に興味津々です。
3
『万機要覧』軍政編では、于山島(独島)を当時の日本の呼称も記録して、「輿地志にいう、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人たちが言う松島だ」としました。
「輿地志云
鬱陵・于山
皆于山國地
于山則
倭所謂
松島也」ですね。
なるほど、1808年頃、日本海には「于山国」があり、その国家は鬱陵島于山島を領有していた事実が解ります。李氏朝鮮は、朝鮮国民が于山国への国外逃亡を防ぐための施策をとっていたことが『万機要覧』に載っています。一方、日本は「于山国」を「松島」と呼び、既に「于山国」を日本領として編入していた事が解ります。
この様に、李氏朝鮮は独立国家と認識し、日本は日本領の一部と認識していた「于山国」が、何時どの様にして韓国領になったのか、今後の展開に興味津々です。
4
「朝鮮全図」は、鬱陵島の東南側の正確な位置に「独島」を描き、「Ousan」(于山)と表記しました。
1846年の金大建による「Ousan(于山)」が、「独島」を意味するというのですね。
しかし、この「Ousan(于山)」は、済州島の牛島の何倍もある大きな島です。しかも、その島は隣接していますから、鬱陵島から92km離れている「独島」と理解するには躊躇せざるを得ません。むしろ、1417年に金麟雨が「于山島」と呼んだ島を、1530年に與地勝覧附属地図が西側に描いている「于山島」を意味すると理解する方が容易です。
まぁ、こんな素人解釈は置いておいて、正確に描かれていた「Ousan(于山)」が何拾分の一にも縮小して独島になるのですから、今後の展開に興味津々です。
これは メッセージ 18378 (chaamiey さん)への返信です.
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Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/24 23:41 投稿番号: [18402 / 18519]
このパンフレットのタイトルは、「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」です。しかし、ハングルで書かれたものしか無い模様です。
独島学会は、2005/03/01に『韓国の領土
独島物語』を発行し、日本語・中国語・英語など8ヶ国語に翻訳したものをWeb上に公開しています。ところが、2005/11/11に『なぜ日本の獨島領有權主張は誤りなのか』を発行し、日本語に翻訳したものをWeb上に公開していましたが、リンク元の頁を削除しました。
どうやら、多国語に翻訳すると問題が発生するようです。
このパンフレットの『16−3』は『東国輿地勝覧』を示して「独島が韓国領土なのを漢字文化圏世界に知らせました」と宣言しています。
どうやら、独島学会は、世界中がハングル文化圏世界と考えているようです。否、もしかしたら、独島学会の独島理論を理解できるのは、ハングルを解する少数に過ぎないことを自認したのかも知れません。
これは メッセージ 18378 (chaamiey さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18402.html
ハングルを教えたのは日本人だった!
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/23 19:04 投稿番号: [18401 / 18519]
これは メッセージ 18400 (take_8591 さん)への返信です.
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誰もリャンコ島を想起していなかった3
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/23 18:10 投稿番号: [18400 / 18519]
7
内務省は「外一島」をダジュレー島とした。
>もし、西村捨三が「日本海ニ在ル竹島松島之義」の松島を鬱陵島と認識しているならば、竹島は鬱陵島ですから「竹島(鬱陵島)松島(鬱陵島)之義」となってしまいます。従って西村捨三は、「竹島松島之義」の松島は「本来の松島」、内務省作成の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」にある「外一島」も、『原由の大畧』にある「次ニ一島アリ松島ト呼フ」の「本来の松島」であり、鬱陵島とは決して考えていなかったと思います。(No.17667)
明治10年の時、朝鮮名「鬱陵島」がアルゴノート島であるかダジュレー島であるか判然としていなかったのではないでしょうか。
明治13年に天城艦が松島に廻航することにより、アルゴノート島が存在しない島であり、鬱陵島がダジュレー島であることが確認できました。
明治14年の島根県は、アルゴノート島が版図外となったので、ダジュレー島は版図内にあると考えていたので、島根県は『日本海内松島開墾之儀ニ付伺』を出しました。
明治14年の西村捨三は、「竹島松島之儀」という文言を使用しました。
明治16年の外務省への内達で鬱陵島に「我邦人竹島又は松島と唱ふ」と註記しました。
これらの歴史的史実から、西村捨三の「竹島松島之儀」は、「アルゴノート島ダジュレー島之儀」又は「竹島又は松島と唱ふ島之儀」と解することができます。ですから、「竹島(鬱陵島)松島(鬱陵島)之義」という解釈は問題ないのですが、松島=リャンコ島という解釈は成り立ちません。当時の明治政府にとって「本来の松島」はダジュレー島のことです。
又、西村捨三は、「外一島ハ松島ナリ」の註記をしました。これは、「外一島はダジュレー島なり」と解されます。天城艦が松島に廻航する以前に、朝鮮名鬱陵島がアルゴノート島であるかダジュレー島であるかの議論はあったと思いますが、外一島がダジュレー島であるかリャンコ島であるかの議論はなかったと思います。史料的には、西村捨三によって始めて「外一島」の意味付が為されたのです。これは、太政官から内務省(西村捨三)に「外一島」の指定権限が委任されていたと、結果的に認識できます。
8
誰も「リャンコ島」を想起していなかった。
内務省地理寮は「外一島」を使用していませんし、島根県知事は「外一島」「次に一島」の文言を使用し、内務少輔は別紙1号〜4号を添付し、太政官は「竹島外一島は版図外」の決定をしますが、誰も「リャンコ島」を想起していなかった事が明らかになりました。
ararenotomo1さんが明らかにしているのは元禄期の松島がリャンコ島を意味することのみで、明治政府がリャンコ島を松島と呼んでいた事実と根拠を明らかにされていません。
又、「『竹島松島本邦関係無之』という表現を避けたのは、鬱陵島を松島とするシーボルトの誤りが、かなり普及していたからでしょう。」と言われますが、「誤りが普及」認識を有していたのであれば、「誤りを訂正」する命令を発してから、「版図の取捨は重大之事件」の決定するのではないでしょうか。なにせ、「重大之事件」なのですから。
「竹島外一島は版図外」の指令を解釈するときに、「リャンコ島」を想起した者は誰もいなかったのです。
島根県伺再考
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html
これは メッセージ 18399 (take_8591 さん)への返信です.
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誰もリャンコ島を想起していなかった2
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/23 17:45 投稿番号: [18399 / 18519]
5
島根県の「松島」認識はより明確になった。
島根県は松島を、明治9年に『原由之大畧』で「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」と説明し、明治14年に「東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流且ツハ平坦ノ地アリ・・」と説明しています。
この両者の松島は、明らかに違う島を表しています。
明治9年の『原由之大畧』は、「且、北海百余里を懸隔し線路も不分明・・・追て詳細を上申可致候」と述べた上で添付した書面ですから、明治14年の説明内容と異なっていても、その責は問えないでしょう。むしろ、中央政府が「東西凡四五里南北三里余周廻十五六里」たる島を松島と呼んでいる事が判明したので、中央政府の認識に追従したと解するのが合理的です。「線路も不分明」とした上での説明に依拠して自論を展開するのは合理的ではありません。
尚、島根県認識において、明治14年の「東西凡四五里南北三里余周廻十五六里」が明治9年『磯竹島略図』の竹島を意味しないことは明らかです。同じ島であると認識していれば、改めて開墾願いは出さないでしょう。
又、島根県認識において、「外一島」が「松島」を意味しないことも明らかです。「外一島」は版図外になったのですから、改めて松島開墾願いは出さないでしょう。
そもそも、『原由之大畧』は、伺い本文に記載されている「元和四年より・・・旧幕府之許可ヲ経テ毎歳渡海」した島であり、「北海百余里ヲ懸隔」した島である「竹島外一島」の説明文書です。本文を超えて拡大解釈することはできません。例えば、隣に暴力団の事務所があることが判っていれば、不動産会社は重要事項説明書にその事を記載するでしょう。しかし、売買目的物が隣の暴力団事務所を含まないことは明らかです。「次に一島あり・・・」も同様です。
6
本文と添付資料の違い
境二郎による、明治9年『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』の本文は、竹島のみの地籍編纂を伺っています。同伺いには添付資料が付いています。
境二郎による、明治14年『日本海内松島開墾之儀ニ付伺』の本文は、松島のみの開墾を申請しています。
通常、書面への記名押印者は、本文に対して直接の責任を負い、添付資料に関しては間接的に責任を負います。
ararenotomo1さんは、「提出された松島開墾願書をそのまま伝えただけで、境二郎が鬱陵島を松島と認識していた訳ではありません。」と主張されますが、明治14年の境二郎が「どこにあるか所在不明の島」に対する開墾之儀を提出したと出来る証拠はありません。証拠も無く、境二郎が無責任男の如く断定することはできません。
ararenotomo1さんの論理は、「添付した『原由之大畧』はそのまま伝えただけで、境二郎は『次の一島・・・』を『外一島』と認識していた訳ではありません。」とするならば、検討の余地があるかと思います。「原由之大畧」は、「古書旧状等持伝候」の情報を添付したに過ぎず、「外一島」を定義した部分は存在しないという釈明が成立するか否かは、検討の余地があります。
これは メッセージ 18398 (take_8591 さん)への返信です.
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誰もリャンコ島を想起していなかった1
投稿者: take_8591 投稿日時: 2010/08/23 17:35 投稿番号: [18398 / 18519]
1
明治政府が「松島」と呼ぶ島はダジュレー島である。
私は、「明治政府が『松島』と呼ぶ島はダジュレー島である」と主張します。ahirutousagi2さんもこの様に主張していると思います。しかし、ararenotomo1さんは、ある時はダジュレー島とし、又ある時はリャンコ島として、ご自分の主張に都合の良いように文献解釈をしていると考えています。又、「この松島はシーボルトが誤って松島とした鬱陵島である」と言われますが、原因がシーボルトの誤認であろうと、明治政府が松島をダジュレー島としていた事実を否定することにはなりません。
明治政府が言葉を使用して意思統一を図っている組織である限り、「松島」の文言を使用した命令・報告が、ある時はダジュレー島とし、又ある時はリャンコ島とすることはあり得ません。
2
「古来の竹島と松島」との文言は文献に表れない。
明治13年に天城艦が松島に廻航する迄の間、「古来の竹島と松島」という概念が明治政府に存したと出来る根拠はありません。たぶん、「アルゴノート島は架空島」との情報はあったでしょうが、それが「元禄期の竹島と松島」と「明治初年の竹島と松島」を区別して認識していた理由とはなりません。そもそも、「古来の竹島と松島」というのはararenotomo1さんの造語であって、当時の文献に現れた文言ではありません。
3
明治10年に「竹島」と呼ぶ島はアルゴノート島である。
幕末から明治10年の間、竹島を載せた地図が多く作成されています。これらの何れもが、竹島=アルゴノート島としています。(No.18373)
ararenotomo1さんは、現代的視点で「元禄期の竹島はダジュレー島」である、又、現代的視点で「鬱陵島はダジュレー島」であるから、明治10年の明治政府は「竹島はダジュレー島」の認識を有していたと主張されますが、論理的に成立しない主張です。
尚、ararenotomo1さんは、『太政官は竹島=鬱陵島と認識していた、と思いますが、“太政官が「竹島=ダジュレー島」たる認識を有していた”とは思っておりません。』と言われます。これは、「アルゴノート島であるかダジュレー島であるか判然としない竹島を版図外とした」と主張されているようにも見えます。この主張は、ahirutousagi2さんと同じ認識であると思われます。もしそうであるならば、明確に宣言して頂くと議論が進むかも知れません。
4
朝鮮名「鬱陵島」はアルゴノート島か
明治10年の時、朝鮮名「鬱陵島」がアルゴノート島であるかダジュレー島であるか判然としていなかったのではないでしょうか。
1855年のイギリスの地図に拠れば、アルゴノート島ダジュレー島の外に于山島鬱陵島が在ると記されています。(No.18374)
太政官指令が出される1877年までの15個の地図を示しましたが、鬱陵島がどこに在るのか、何も示していません。(No.18373)
内務省が添付した1号〜4号からは、ダジュレー島であるよりも、アルゴノート島であると捉えていた可能性が高いと思われます。(No.18366)
明治10までに日本で再発行された朝鮮作成地図の鬱陵島は、ダジュレー島であるよりも、アルゴノート島であると捉えていた可能性が高いと思われます。(No.18374)
ararenotomo1さんが、鬱陵島=ダジュレー島とされる根拠がわかりません。
これは メッセージ 18386 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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竹島占領しました。
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/23 17:17 投稿番号: [18397 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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韓国人だけがご熱心ですね(笑)
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/23 14:07 投稿番号: [18396 / 18519]
騒ぎ立てて自尊心と植民地支配時代の悔しさ惨めさを
不法占拠で晴らしているおつもりでしょうが(笑)
朝鮮人さん
頑張ってくださいませ。
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Re: こんな話がニュースに
投稿者: kuntakinte1929 投稿日時: 2010/08/23 13:59 投稿番号: [18395 / 18519]
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/takeshima_island/?1282532516
ですね。
日韓両国が領有権を主張する竹島問題で、韓国側の領有の根拠のひとつを覆す17世紀末ごろの朝鮮の木版印刷の古地図が神戸市立博物館で見つかっていたことが22日、分かった。韓国側は、当時、竹島が「子山(于山)」と呼ばれ、この時期に朝鮮国漁民が「子山は朝鮮の領土」と鳥取藩に主張し認められたという記録があることを有力な根拠としている。ところが、この地図の子山は実際の竹島と方角も距離も違う位置に記載されており、別の島の可能性が高いという。
[フォト]19世紀ドイツの地図も「竹島は日本領」
見つかったのは「地図」と題された朝鮮の地図帳の中の「江原道図」。記載の地名から1684〜1767年の間に朝鮮半島で流通したとみられる。当時の朝鮮半島の古地図が確認されたのは初めてという。
地図では、朝鮮半島の東側にある鬱陵島のすぐ南側に「子山」という島が描かれている。実際の竹島の位置は鬱陵島の南東92キロにあり、位置も方角も異なる。
子山が問題になるのは、1696年に朝鮮国の漁民、安龍福が日本に密航した際、自身が所持する朝鮮図に鬱陵島と子山島が記載されていると供述した記録が島根県・隠岐の「村上家文書」にあるからだ。
安龍福は鳥取藩によって追放、送還された後の取調べで、自ら鳥取藩主と交渉して「松島(現在の竹島)は即ち子山島、此れ亦我国の地(子山島は朝鮮領)」と認めさせたと朝鮮側に証言したとされる。
このため、竹島をめぐる領有問題が持ち上がった後年には、韓国で領有権を日本に認めさせた「英雄」とされている。
朝鮮でこれまで見つかった古地図は、鬱陵島近くの東や西に「子山」の「子」の字が変化したとみられる「于山」という島が描かれており、日本側は于山は、竹島ではないとしていた。しかし、この古地図は安龍福の時代ではないことが問題点のひとつだった。しかし、今回の地図は、安龍福の生きた時代で、その地図の記載から、安龍福が実際の竹島ではない島を自国領と主張したことを示す可能性が高いという。
島根県竹島問題研究会の杉原隆・副座長は「安龍福の時代の地図が見つかったことで、子山島の位置が竹島の領有権の根拠にはなり得ないものであることが改めて明らかになった」と話している。
____________________________
さて又馬鹿ん国は捏造だ(実は自分がいつもそうしてるので他国がそうだと思いこんでる。日本はそれが捏造だとばれたら国際信用無くすので余程の事が無い限りそんな事はしない。)と火病るんでしょう。
これは メッセージ 18394 (kokinguto さん)への返信です.
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こんな話がニュースに
投稿者: kokinguto 投稿日時: 2010/08/23 13:26 投稿番号: [18394 / 18519]
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18394.html
やはり竹島は日本でした。
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/23 01:09 投稿番号: [18393 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 太政官は竹島外一島を鬱陵島・現竹島と
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/08/22 23:11 投稿番号: [18392 / 18519]
ウィキペディアの文章をもう一度読んでみましたが、おっしゃる通り分かりづらいところも見受けられますね。かと言って他人の文章を私が要約したり説明したりするような性質のものでもないでしょうし、その能力もありませんのでウィキペディアの説明は重複を避けましょう。
>私は、内務省や太政官が、島根県提出の資料から、松島をダジュレー島に比定したとは考えません。島根県提出資料は、No.18332で示したように、古来の竹島・松島について詳述しており、松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません。
太政官の判断において示唆されるものは竹島・松島を判図外としたということのみであって、ほかに明示できるものはないと考えます。松島=リアンクール岩(の位置)という根拠も、一切ありません。
となると考えうるのは政府関連、あるいは官許関係の地図やその後の天城の調査なり三条実美などの規定などと整合性のとれる理解というものが必要になりますが、この場合、松島=ダジュレー島(の位置)ということに何の違和感もありません。
むしろ、周辺事項のあらゆる情報の整合性から完全に外れているものが松島=リアンクール岩(の位置)という理解にほかならないことでしょう。架空の島であることを知っていた、あるいは前島密がどう考えていた、ということすら実質上、どうでもよいことです。
確かなことは、竹島・松島を判図外とした。それは前後の数々の資料からアルゴノート島・ダジュレー島に比定された、ということしか言えないということです。これは、整合性として「確かなこと」だと考えます。
>太政官は、1877年3月17日に提出された「竹島外一島本邦関係無之」とした内務省からの「伺」を審議し、1877年3月29日、内務省からの「伺」どおり、「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」と指令しました。竹島外一島は、上述の記事から、竹島は鬱陵島、外一島は古来の松島=リアンクール岩=現竹島であることは明らかです。
大変に申し訳ないのですが、それなりにアラレさんの文章は誠実に読み、また
受け入れるべきご主張があれば、耳を傾ける気持ちもありますが、どういうわけで「竹島は鬱陵島、外一島は古来の松島=リアンクール岩=現竹島であることは明らかです」となるのか、いまだにさっぱり分かりません。
天城の調査や、三条実美の規定についても、いろいろな理由付けをされるのでしょうが、仮に太政官判断の松島=リアンクール岩というのが「明らか」だとして、これをどう考えるべきか、もののついでですので、勉強までに教えていただけませんか。
私の意見は何度も申し上げましたが、架空の島だったとか、誰がどういっていたとかは実はどうでもよいことなのだろうと思っています。前後の資料の整合性にしか答えはないのだろう、という判断です。
太政官判断に、島の位置が特定されておらず、特定(島根県によっても、当時の地図によっても)されているとすれば、位置的にはアルゴノート島とダジュレー島の位置のみ、という状況だからです。架空の島だの、誰かが何を言っていただのというのは参考事項を超えるものではないという判断です。
結論を先に出すのではなく、時代を鳥瞰する目が太政官判断の解釈については必要なのだろうと思います。アラレさんの太政官判断についての議論は徹底して、マクロの視点というか時代を鳥瞰する視点が欠けている印象を受けているのが正直なところです。私の読解力不足かもしれませんが。
これは メッセージ 18362 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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参考にしてくださいませ。
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/22 18:51 投稿番号: [18391 / 18519]
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Re: 問題は反応
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2010/08/22 13:13 投稿番号: [18390 / 18519]
>7月13日の記事が竹島を石島としたものであるなら、日本の領有に対する反対運動や記事が無ければおかしい。
>領土だと思うけど、日本の領有を仕方ないと思うなら、結局同じ。
>だから、アリバイが無いことは結局変わらない。
私もそう思います。
伊藤統監は一般人からの手紙をかなり貰っていたようですし,地方官(郡主や観察使)とも面会に応じていますから,石島が竹島をさすのであれば政府が動かなくても他のルートから情報が入ったことでしょう。
また,排日運動華やかな中で,日本の領有に対する反対運動が見られないのは奇妙としか言いようがありません。
これは メッセージ 18363 (husenoyaji さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18390.html
Re: 久保田発言は正論である。
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/22 09:19 投稿番号: [18389 / 18519]
当時植民地支配下での日本人の比率はたったの2パーセントです。
韓国人のためのインフラ整備をしてあげたのに
天皇陛下にお礼を言わないのは失礼な民族だと思いませんか?
これは メッセージ 18388 (puracyaka2007 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18389.html
久保田発言は正論である。
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2010/08/22 07:43 投稿番号: [18388 / 18519]
「日韓外交資料集成6
上,中,下」(厳南堂書店)を読み進めています。
本年は日韓併合100年ということで,今日日比谷公会堂で保守系団体の集会もあるようです。
「韓国施政改善ニ関スル協議会」の記録中に竹島とは直接関係はありませんが非常に印象的な部分がありましたので言及したいと思います。
かつて,日韓国交正常化交渉中にいわゆる久保田発言が問題となったことがありました。外務省参与の久保田貫一郎氏が「日本は多額の持ち出しで朝鮮のインフラ整備を行った。日本は朝鮮でよいこともした。」という内容の発言を行ったところ,韓国は「インフラ整備は日本人のために行ったもので,韓人には何の利益もなかった。」と反論し,交渉が中断したという事件です。
では,韓国のインフラ整備は誰のために行われたのでしょうか。「韓国施政改善ニ関スル協議会」で伊藤統監や韓国閣僚等はインフラ整備は韓国民の直接間接の利益となるから進める必要があるという趣旨の発言をしています。韓国が豊かになることは日本の利益にもなりますから日本の利益もその目的といえますが,韓国民を利益することが直接の目的であったことは間違いありません。
久保田発言はまったくの正論なのです。
これは メッセージ 18336 (puracyaka2007 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18388.html
日本人に相手をしてもらいたいのでしょうね
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/21 22:50 投稿番号: [18387 / 18519]
日本人にすれば
別にどうてことない小さな出来事に過ぎないことを
植民地時代の恨みを晴らす如く拘るのは
日本人他の事で何もかなわないから誇示している
つもりなのでしょうね。(笑)
小国の発想そのものですね(笑)
これは メッセージ 18386 (ararenotomo1 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18387.html
Re: 太政官は竹島と外一島を共に松島と認識
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/08/21 22:31 投稿番号: [18386 / 18519]
take_8591様、ご意見をありがとうございます。よく分からないところが多いのですが、理解できる範囲でお答え致します。
>>内務省や太政官が・・・松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません。
>ここで問題となっているのは、島根県の認識ではなく、太政官の認識ですね。すると、島根県提出の資料の解釈は後回しにして、太政官の認識を論点とすべきです。「ウィキペディアの竹島外一島」は、太政官指令が出される1877年までの地図を掲げ、太政官が「竹島=アルゴノート島」の認識を有していたと主張しているようです。ararenotomo1さんは、これに反論せず、又、太政官が「竹島=ダジュレー島」たる認識を有していた資料の提出を拒んでいます。
「ウィキペディアの竹島外一島」で具体的にどの個所で、“太政官が「竹島=アルゴノート島」の認識を有していたと主張している”のか、ご指摘いただければと思います。私の理解では、「ウィキペディア」においては「竹島=アルゴノート島」は「架空島」と数か所で書いているようです。又、私は、太政官は竹島=鬱陵島と認識していた、と思いますが、“太政官が「竹島=ダジュレー島」たる認識を有していた”とは思っておりません。
>>内務省は・・・『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』を太政官に提出しました。
>この内務省伺いの本文は、「竹島所轄之儀に付
島根県より別紙伺出取調候処」と始まり、竹島のみの「所轄之儀」に付いて取り調べたことを明らかにしています。「竹島所轄之儀に付」「本邦関係無之相聞」と判断した内務省は、「版図の取捨は重大之事件に付」、1号〜4号・口上書を摘採し添付し上申しました。そこで、「1号〜4号・口上書」を見ると、そこには竹島のみの争いが記され、アルゴノート島とダジュレー島、又は、ダジュレー島とリャンコ島の2島が争われた痕跡はありません。(中略)論ずる迄もなく日本に遠く朝鮮に近い島は、アルゴノート島でありダジュレー島ではありえません。更に、磯竹島略図で確認すると、隠岐〜竹島は120里であり、竹島〜半島は50里です。この様に、版図外とした竹島はアルゴノート島であると解するに相当性があります。
これらの資料で論じられたのは竹島で、アルゴノート島・ダジュレー島という言葉はありません。私は、先に書いたように、版図外とした竹島は鬱陵島と思っています。
>境二郎は、明治9年に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」をして、「竹島外一島の義
本邦関係無之義」の返答を得ています。これを承知の境二郎は明治14年に「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」をしました。この事から、明治9年の伺いに謂う「外一島」が松島を意味しないとの境二郎認識が判明しました。『原由之大畧』の「次に一島あり・・・」が、論理的に境二郎認識として「外一島」を意味しないのです。
この部分はよく理解できませんが、私なりに次のように解釈して、お答え致します:“「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」の松島は鬱陵島だから、明治9年の伺いに謂う「外一島」が松島(=現竹島)を意味しない、との境二郎の認識が判明しました。”
「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」は大屋兼助等から出された松島開墾願書についての「伺」です。松島は「東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流且ツハ平坦ノ地アリ・・」と書かれていますから、この松島はシーボルトが誤って松島とした鬱陵島であることは明らかです。ただし、この文書は、提出された松島開墾願書をそのまま伝えただけで、境二郎が鬱陵島を松島と認識していた訳ではありません(No.17667)。
一方、境二郎は、『原由之大畧』では「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」と、古来の松島を的確に記述しています。これに基づき、内務省と太政官は古来の竹島と松島を、「竹島外一島本邦関係無之」としました。「竹島松島本邦関係無之」という表現を避けたのは、鬱陵島を松島とするシーボルトの誤りが、かなり普及していたからでしょう。
これは メッセージ 18366 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2010/08/21 17:01 投稿番号: [18385 / 18519]
>そうではありませんで、日本の領土を韓国が不法占拠している状態です。
一方が自国領土だと宣言しても実効支配をしなければ意味がありません。
日本が自国領土だと主張するならそれなりの対処をすべきなのに、韓国が占拠した後も、日本政府は自国の領土だと主張するだけで排除行動をしません。
日本の憲法が自衛を認めているなら、自衛隊は行動すべきです。
口で何を言っても相手には通用しません。
これは メッセージ 18381 (chaamiey さん)への返信です.
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韓国は、すでに大国ですよ!
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/21 16:49 投稿番号: [18384 / 18519]
これは メッセージ 18383 (air_sinsinsin さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18384.html
Re: 韓国は日本に負けたから植民地なんです
投稿者: air_sinsinsin 投稿日時: 2010/08/21 16:12 投稿番号: [18383 / 18519]
日,独島.北方領土国有化対象除外"
これは メッセージ 18382 (heisinokumaarasi さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18383.html
韓国は日本に負けたから植民地なんですよ
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/21 14:41 投稿番号: [18382 / 18519]
これは メッセージ 18381 (chaamiey さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18382.html
Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2010/08/21 12:28 投稿番号: [18381 / 18519]
>すなわち現在はどちらのものとも言えない状況です。
そうではありませんで、日本の領土を韓国が不法占拠している状態です。
>国境確定は平和裏に決定できることは理想で有るが、基本的に双方が反目対峙しあう状況では武力または金銭に依って確定するしかないだろう。
竹島問題に関して言えば、当面は、韓国の主張がウソばかりだということを韓国人に知らせるという作業が必要でしょうし、そのことはそれなりの効果はあるだろうと思います。
これは メッセージ 18379 (anti_notarin さん)への返信です.
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●^o^● 脱南移民300万人だって
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/20 09:25 投稿番号: [18380 / 18519]
これは メッセージ 18376 (heisinokumaarasi さん)への返信です.
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Re: 世界人独島理解16−1
投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2010/08/20 09:22 投稿番号: [18379 / 18519]
>1 韓国は遥かな昔(西暦512年)から「独島」を韓国固有領土として「領有」して来ました。
領有したことと領土確定とは何ら関連がないと思います。
本来、陸続きの大陸各国は有史以前から侵略、被侵略を繰り返し戦争に勝った方が領有してきました。
近代の国境策定は第二次大戦後に確定されたと考えるべきです。
国境確定は二国間のあるいは国境を接する多国間の条約に依って決定されるべき問題であります。
国際慣習で国境を認められたとしても、当事国間で認め合わなければ何ら意味を持ちません。
その意味では日本は昔から他国と海洋で分離され、領土、国境に関して極めていい加減で有ったといえます。
また韓国も現在、竹島を自国領土として占拠していますが、日本が認めてないので、韓国領土と確定はしてないと言えます。
すなわち現在はどちらのものとも言えない状況です。
北方4島しかり、これは日本がサンフランシスコ条約締結時、時の政府が国境確定の法的措置を怠ったためであり、日本人の国境意識が希薄で有ったために禍根を残す結果になったのだと思う。
国境確定は平和裏に決定できることは理想で有るが、基本的に双方が反目対峙しあう状況では武力または金銭に依って確定するしかないだろう。
これは メッセージ 18378 (chaamiey さん)への返信です.
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世界人独島理解16−1
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2010/08/20 01:09 投稿番号: [18378 / 18519]
「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf1 韓国は遥かな昔(西暦512年)から「独島」を韓国固有領土として「領有」して来ました。
(1)古文献である『三国史記』(金富軾
編、1145年)には、西暦512年(新羅智証王13年)に于山国が新羅に服属して併合されたので新羅の一地方として編成したと2ヶ所に記録されています。于山国は、今の「鬱陵島」と「独島」を含んだ東海上の小さな王国でした。
「独島」は、19世紀までは于山島と呼ばれました。新羅は韓国を形成した古代国家の一つです。韓国は西暦512年以前から独島を「認識」し、512年には独島を「領有」したが、日本は『2008年−10のポイント』(1)でようやく18世紀末(1779年) の地図を根拠として提示して、「領有」ではなくようやく独島を「認識」したと主張しています。
(2)別の古文献『三国遺事』 (一然
著、1285年)にも、新羅の智証王の時、将軍異斯夫が于山国の降服を受け、于山国が新羅の一地方として併合されたと記録されています。 『三国遺事』と『三国史記』は記録内容が一致します。
(3)于山国が鬱陵島と独島で構成されていたという事実を証明する古文献は多数あります。『世宗実録』地理誌(1432年編纂)、『東国輿地勝覧』(1481年)、『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『肅宗実録』(1696年の条)、『万機要覧』軍政編(1808)、その他に各種の古文献と古地図に鬱陵島と于山島(独島)が全て昔の「于山国」の領土だったと記録されています。
特に、『万機要覧』軍政編では于山島(独島)を当時の日本の呼称も記録して、「輿地志にいう、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人たちが言う松島(マツシマ)だ」としました。日本では19世紀に鬱陵島を「竹島」(タケシマ)、于山島を「松島」と呼んでいました。『万機要覧』は朝鮮の「于山島(独島)」が日本では「松島」(今の独島)と呼称され、全て「于山国」の領土と明白に記録して説明しているのです。
日本外務省の『2008年−10のポイント』(2)において、韓国が昔から独島(松島、今日の日本でいう竹島)を認識していたという根拠がないと主張しているのは千万不当な嘘であることが『万機要覧』軍政編によってよく証明されます。
(4)また、独島の古い名前である「于山島」という名称自体が、「于山島」は「于山国」の所属であることを証明してくれています。于山国の大きい島である「鬱陵島」の名称が固定されると、その付属島である独島に遅くとも15世紀に「于山島」という名称が固定して付いたことは、于山島が于山国の領土であったことを明白に証明してくれるのです。
(5)日本外務省は、『2008年−10のポイント』(2)において「于山島」が今日の 「独島」だという根拠がないと言うが、韓国と日本の多数の古地図が最も理解しやすい根拠です。例えば、韓国の初期カトリック神父金大建が1846年に報告用としてフランス語で表記した「朝鮮全図」(Carte de la Coree)は、鬱陵島の東南側の正確な位置に「独島」を描き、「Ousan」(于山)と表記しました。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18378.html
ahirutousagi氏 & 南島風土記
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2010/08/19 20:11 投稿番号: [18377 / 18519]
これは メッセージ 18368 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18377.html
脱南移民300万人だって
投稿者: heisinokumaarasi 投稿日時: 2010/08/19 19:46 投稿番号: [18376 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/18376.html
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