竹島

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Re: 太政官その2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/18 21:49 投稿番号: [18441 / 18519]
>ただし、海軍省は、1876年12月ロシア海軍の海図を翻訳した『朝鮮東海岸圖』を出版し、鬱陵島を松島とし、隠岐よりにヲリウツ礁・メ子ライ礁、朝鮮よりに点線でアルゴナフタ島を描きました(Nos.17667, 17668)。そして、軍艦天城は、1878年と1880年松島を調査し、1883年7月刊行の『水路雑誌』第41号に、「鬱陵島(一名松嶋)」として詳しく記載し、公的に鬱陵島を松島と認定しました。そこで日本政府は、「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」等と鬱陵島に松島の名も許しました。

その通りの理解でよろしいのですが、なぜ、余計な解釈をされようとするのかよく分かりません。それは以下のくだりです。

>しかし決して、古来の竹島=鬱陵島を否定した訳ではありません(No.18248)。『原由之大畧』にある「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス・・」や「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」を消し去ることは出来ません。

この時期の明治政府・太政官は竹島=鬱陵島=ダジュレー島、松島=リアンクール岩という知識を有していたのですか?

私は古来よりの竹島・松島を、意図的にであれどうであれ、位置を不明確にしたまま太政官は版図外とした(結局は鬱陵島までの位置を版図外とした)と考えていますが、アラレさんが仰るように太政官に上記のような認識が明確にあったとする根拠があるのであれば、私も考え方を変えないといけません。田辺とか渡辺とかの外務省の甲論乙駁は結構ですので、太政官が正確に上記のように理解していたという根拠を教えていただければ有難いです。

何度かお聞きしていますが、古来の竹島・松島を放棄したということ以外、いまだに出てきませんので。また、それは私も何年も前からそう考えていることでもあるとすでに申し上げました。

>しかし次第に、本来の松島の名が復活してきました。1901年の恒屋盛服『朝鮮開化史』は于山島に「日本人ハ松島ト名ク」と注記し(No.15525)、1902年の釜山領事館報告『韓國欝陵島事情』には、「本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス」とあります。これら「前後の資料の整合性」からの「答え」は、日本政府が竹島=鬱陵島のみならず「本来の松島=リャンコ島」も版図外にしたことでしょう。

一部の資料のみをつなげて物語を作るべきではないと思います。1900年あたりの資料では于山島=松島という理解が日本では一般的だったという話でしょうか。それはフィクションというものでしょう。釜山領事館報告は原文を見ておりませんので何とも言えませんが、この時期においては赤塚正輔の調査もあったことからもうかがえるように、鬱陵島の知見はさらに正確さを増しつつあったとも言えるかもしれません。しかし于山島=松島と釜山領事館が書いているわけでもなさそうです。ただ言えることは、19世紀後半期の地理的な混乱が収束する段階であり、その中で、無主地(主権が明確にされていない)であるリャンコ島について島根県への編入がなされたのではないでしょうか。

私は、元来(過去)、リャンコ島=松島と呼ばれたという知見がこの時期にありえたとしても、それがイコール于山島さらに朝鮮の地であったという認識が20世紀初頭の明治政府の認識であったとは考えません。

20世紀初頭の記録を持ってきて整合性を述べるのではなく、1877年前後のいわば混乱期の状況の中での整合性をとらえて太政官判断を考えるべきであり、その場合、リアンクール岩を太政官が松島と認めて放棄したという見方は、まず、考えにくいものとしなければならないものと思われます。アラレさんの整合性のとり方は、恣意的なものと言うべきではないでしょうか。
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