Re: その2
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/09/26 22:13 投稿番号: [18453 / 18519]
>しかし、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島という理解は、1877年当時の政府には無かった、と私は思います。
点線で竹島が記されていることは、政府の理解がアルゴノート=竹島でなかったという根拠にはなりません。これを根拠にしてもしょうがないでしょう。点線であっても、そこには竹島の文字が記されており、しかもそうした地図がほとんどであるということです。私はことごとくという言葉を使いましたが、おおむねそれからはずれるものではないと思っています。また『原由之大畧』を前提に古来よりの竹島・松島が念頭に置かれたことは私も同意していることです。しかし、これまた、アルゴノート=竹島の根拠にはなりません。そこにあるのは古来からの日本の認識のみであって、地理(位置)的認識はなんら正確に規定されていないものと思われます。
>ahirutousagi2様は、太政官判断を考える証左として、1881年内務省地理局発行の「大日本府県分轄図」を提示されました。そして私が、その解釈において「陰謀論なり、策略論なり」をでっちあげたように書いておられます。
以前に陰謀論っぽいことを書いていらっしゃらなかったでしょうか。それを思い出して書きました。的外れでしたら申し訳ありません。ただ、彩色の話はこれまたどうでもいいことです。関心もありません。私が注目しているのは、内務省地理局のこの地図でも竹島、松島がアルゴノート、ダジュレーの位置に書かれているということです。1881年にして、です。
>ahirutousagi2様は、「田辺とか渡辺とかの外務省の甲論乙駁は結構です」と云っておられますが、外務省の認識は「1877年前後のいわば混乱期の状況の中での整合性」をとらえるのに重要と思います。
もう田辺や渡辺の話は飽き飽きしていますので(原文ももちろん読んでいますよ。復刻版でですが)、もう結構ですと書きました。参考事項程度でいい、と以前に書いた通りです。それ以上に解釈すべきものでもないとも書きました。今でもそう思っています。
>三条実美の解釈とは、1883年3月の鬱陵島への渡航禁止令にある「日本称松島(分註:一名竹島)朝鮮称蔚陵島」の表現と思われますが、これは今まで竹島と呼ばれていた鬱陵島に単に松島の名も認めただけです。
何で認めたんでしょう。井上馨も同様です。天城の調査もそうです。この認識の原点にあるのは何でしょう。アラレさんの主張する1877年の太政官判断、竹島=ダジュレー=鬱陵島、松島=リアンクール岩という基準ではなさそうです。どこからこんな解釈が発生したのでしょう。私はその原点にあるのは太政官の外一島判断だと考えています。それが整合性というものでしょう。
私には衒学の趣味はありません。また、関係がないと思った部分について反論、反証を行うほどの暇もありません。私とのやり取りに関する限り、アラレさんはただ一点、太政官がダジュレー=竹島=鬱陵島、松島=リアンクール岩と判断したという根拠さえ示されればそれでよろしいのではないかと思います。それに妥当性があると思われれば私はいくらでも持論を変更します。意地でも自分の理解にこだわるほどに固陋な性格ではないつもりです。
しかし、出てくるのは、アルゴノートが点線であったというお話ばかりです。傍証も薄いものです。反証する必要性も今のところさほど感じません。具体的な地図を挙げるのも、take_8591さんの分で充分でしょう。私のほうで敷衍する必要性も感じません。
また、古来からの竹島・松島を版図外とすることと、太政官が竹島=ダジュレー=鬱陵島、松島=リアンクール岩と理解して放棄したということは、私は別問題だと考えます。このあたりは、政府の竹島認識の混乱期たる所以でしょう。
点線で竹島が記されていることは、政府の理解がアルゴノート=竹島でなかったという根拠にはなりません。これを根拠にしてもしょうがないでしょう。点線であっても、そこには竹島の文字が記されており、しかもそうした地図がほとんどであるということです。私はことごとくという言葉を使いましたが、おおむねそれからはずれるものではないと思っています。また『原由之大畧』を前提に古来よりの竹島・松島が念頭に置かれたことは私も同意していることです。しかし、これまた、アルゴノート=竹島の根拠にはなりません。そこにあるのは古来からの日本の認識のみであって、地理(位置)的認識はなんら正確に規定されていないものと思われます。
>ahirutousagi2様は、太政官判断を考える証左として、1881年内務省地理局発行の「大日本府県分轄図」を提示されました。そして私が、その解釈において「陰謀論なり、策略論なり」をでっちあげたように書いておられます。
以前に陰謀論っぽいことを書いていらっしゃらなかったでしょうか。それを思い出して書きました。的外れでしたら申し訳ありません。ただ、彩色の話はこれまたどうでもいいことです。関心もありません。私が注目しているのは、内務省地理局のこの地図でも竹島、松島がアルゴノート、ダジュレーの位置に書かれているということです。1881年にして、です。
>ahirutousagi2様は、「田辺とか渡辺とかの外務省の甲論乙駁は結構です」と云っておられますが、外務省の認識は「1877年前後のいわば混乱期の状況の中での整合性」をとらえるのに重要と思います。
もう田辺や渡辺の話は飽き飽きしていますので(原文ももちろん読んでいますよ。復刻版でですが)、もう結構ですと書きました。参考事項程度でいい、と以前に書いた通りです。それ以上に解釈すべきものでもないとも書きました。今でもそう思っています。
>三条実美の解釈とは、1883年3月の鬱陵島への渡航禁止令にある「日本称松島(分註:一名竹島)朝鮮称蔚陵島」の表現と思われますが、これは今まで竹島と呼ばれていた鬱陵島に単に松島の名も認めただけです。
何で認めたんでしょう。井上馨も同様です。天城の調査もそうです。この認識の原点にあるのは何でしょう。アラレさんの主張する1877年の太政官判断、竹島=ダジュレー=鬱陵島、松島=リアンクール岩という基準ではなさそうです。どこからこんな解釈が発生したのでしょう。私はその原点にあるのは太政官の外一島判断だと考えています。それが整合性というものでしょう。
私には衒学の趣味はありません。また、関係がないと思った部分について反論、反証を行うほどの暇もありません。私とのやり取りに関する限り、アラレさんはただ一点、太政官がダジュレー=竹島=鬱陵島、松島=リアンクール岩と判断したという根拠さえ示されればそれでよろしいのではないかと思います。それに妥当性があると思われれば私はいくらでも持論を変更します。意地でも自分の理解にこだわるほどに固陋な性格ではないつもりです。
しかし、出てくるのは、アルゴノートが点線であったというお話ばかりです。傍証も薄いものです。反証する必要性も今のところさほど感じません。具体的な地図を挙げるのも、take_8591さんの分で充分でしょう。私のほうで敷衍する必要性も感じません。
また、古来からの竹島・松島を版図外とすることと、太政官が竹島=ダジュレー=鬱陵島、松島=リアンクール岩と理解して放棄したということは、私は別問題だと考えます。このあたりは、政府の竹島認識の混乱期たる所以でしょう。
これは メッセージ 18452 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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