竹島

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Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/09 05:42 投稿番号: [16320 / 18519]
chaamiey様こんにちわ。
極東亜細亜研究所の成果に注目しています。
解読はいよいよ正確さを増し、内容はほぼ間違いないところまで来たようですね。本当に凄いと思います。
該記事が出た背景は、chaamiey様が想像しているあたりだと思います。
そうでなければこんな記事が唐突に現れるわけがありません。

Re: >Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/08 22:49 投稿番号: [16319 / 18519]
ararenotomoさん

  >>これは、yabutarou01さんが述べられたように、朝鮮半島から欝陵島の木々や山々の状態がはっきりとわかる、とした最初の記事と思います。後の「竹島一件」に際し、領議政南九萬は1694年9月「本島峰巒樹木自陸地歴々望見 - −載於我国輿地勝覧書」と書き、宗氏の竹島日本領説に反駁しました。

うーん。。。私は南九萬が「自陸地歴々望見」と言っているということは『新筯東國輿地勝覧』の、

于山島欝陵島一云武陵一云羽陵二島在縣正東海中三峰岌業空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見

の「可見」が朝鮮半島から于山島と欝陵島の二島を見たものであるとしか解釈できない。したがって『西溪雑録』と『臥遊録』の『欝陵島』の、

于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見

も朝鮮半島から于山島を見たと解釈すべきである。
竹島=独島は朝鮮半島から見えない以上『新筯東國輿地勝覧』の于山島も『西溪雑録』と『臥遊録』の『欝陵島』の于山島も竹島=独島のことであると見なすことができない。
このように訴えたかったわけですが、理解していただけましたでしょうか。。心配です。。。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/02/08 22:08 投稿番号: [16318 / 18519]
あらためて該当の文章を読んでみましたが、

>1;方教授の文章が、どうにも突拍子がない印象があること。

と書いた部分。訂正します。さほど、突拍子がない、というほどでもないですね。読み返してみると、普通に、語源について述べている感じでした。

失礼いたしました。また、教授が1947年の時点で勅令を見ている可能性ですが、私は可能性は排除すべきでないと思っていますが、その可能性が薄いのも事実でしょうね。

一歩退いて、再考してみることにします。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/02/08 21:51 投稿番号: [16317 / 18519]
私の理解は、やぶ太郎様とは別物です。誤解を与えて申し訳ありません。
私の理解は私の理解としてお考え下さい。

1;方教授の文章が、どうにも突拍子がない印象があること。
2;この調査の1年後に単独政府が独島を鬱陵郡に編入していること。
3:大韓帝国官報が非公開の資料ではなかった可能性を充分に想定しうること。

私が申し上げているのは、このことだけです。やぶ太郎様の論旨とはまったく関係がありません。

>勅令41号の石島が独島と関係があるという主張は1960年代か1970年代の研究で生まれたものであるということになっていたと記憶しています。

それ以前に単独政府側が資料を確保していたとしても何ら不思議には思いません。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/08 21:24 投稿番号: [16316 / 18519]
ahirutousagiさん


  >>知られていたとしても何ら不思議はないと思います。そして、知っていたと考えるほうが、方教授の発言は、自然です。大韓民国単独政府樹立に伴う竹島の編入を考えても、それなりの後付は準備したとしても何ら不思議はありません。そのために、1947年に調査がなされたわけで。



勅令41号の石島が独島と関係があるという主張は1960年代か1970年代の研究で生まれたものであるということになっていたと記憶しています。
私は方教授の石島と独島との関連についての説に何らかの作為があったと主張しているわけではありません。そのように判断する証拠を持っていません。
あくまでも愼𨉷廈氏が方教授の説と口裏を合わせるために全羅道出身者過半数説をでっちあげてそれが現在韓国で唯一絶対の説になっていることを問題にしているわけです。

Re: 瓮島がドクト

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/08 19:37 投稿番号: [16315 / 18519]
take_8591 さん


あれこれ手を尽くして検索みたところ、かろうじて一つだけソースを発見しました。

独島の島名前に対する三種類お正月がある.一つは島模様が毒(瓮)を伏せておいたように生じたと言ってドックソム,島全体が岩になっていると言ってドルソムが石を毒で発音する慶尚道なまりでドックソム,茫々たる大海にさびしく湧いていると言ってドックソムが独島(独島)で漢文表記したということが史学者崔南善(崔南善), (申〓鎬)のお正月だ.

http://209.85.175.104/search?q=cache:bQNOzn757ucJ:www.yj-capit al.com/board_write.asp%3FPK_ID%3D36%26kind%3D1%26writeType%3DDelete+%EC%8B%A0%EC%84%9D%ED%98%B8%E3%80%80+%E7%93%AE&hl=ja&ie=UTF-8


甕島由来説は瓮島由来説の誤りでした。唱えたのは崔南善のようです。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/02/08 19:32 投稿番号: [16314 / 18519]
アホ様。有難うございました。

アホ様は、大韓帝国官報が、1965年以降、日本から返却されるまで韓国には存在しなかったという理解ですが、私は、これについて疑問を呈したわけでした。

>そのような当時の事情を勘案し、勅令の記述は知られていなかったと判断して差し支えなかろうと考えたわけです。

知られていたとしても何ら不思議はないと思います。そして、知っていたと考えるほうが、方教授の発言は、自然です。大韓民国単独政府樹立に伴う竹島の編入を考えても、それなりの後付は準備したとしても何ら不思議はありません。そのために、1947年に調査がなされたわけで。

>もし知っていれば「石島」以外の説が命脈を保ち続けるのは不自然ですし、ましてや日本の主張に対抗するつもりがあったのならばより「最善」(笑)を尽くすでしょう。

石島が方言でトルソム・トクソムに由来すると言う話は、ある意味では荒唐無稽にしか思われていないかったのでしょう。実際、荒唐無稽だと思いますが。まともに議論されるようになったのは、あとのことでしょう。

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/02/08 19:23 投稿番号: [16313 / 18519]
アホ様。どうも有難うございました。

>藪太郎さんご紹介のサイトにあった方教授の紀行文(下記訳文参照)とされる部分を見て、現地住民を調査した結果観察されたのだと解釈しました。洪氏の証言とされる部分だけを問題にすれば、ご指摘のように「トルソム」と呼んでいたのかもしれませんが、他の住民の中には「トクソム」と呼んでいた者も観察されたのだろうと思われます。

要するに、当時「トクソム」と呼ぶ人がいたというのは、あくまでもアホ様の推測であるわけですね。了解いたしました。引用文にはそのように住民が呼んでいたという記述はありません。

測量の実施と地図の証拠能力

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/08 16:16 投稿番号: [16312 / 18519]
地図に関しては、以下の2つの議論が混同されてるね。
・地図は権原の証拠にはならない。つまり、実効支配の証拠にはならない。
・島の特定(同一性)に関しては証拠能力がある。

前者の場合、自国領との意識のもとに自国領土として測量され法規類に添付された地図の場合は証拠になる。後者については、実測の結果であることも正確性もそれほど要求されてない。これは、パルマスの判例をよく読めばわかるんだけどな。

あと、例え自ら実測してなくても、抗議もせずその地図や他国の測量の結果に基づいて行動してた場合、その地図等に瑕疵や錯誤があったとしても証拠になるとプレア・ビヒア寺院の判例にある。フランスが条約とは異なる線引きの地図を作成し、後々その地図の間違いが発覚した。しかし、判決では、「地図に錯誤があったとしても、その地図に文句を言ってないだろ?今更、言っても遅い」とされた。
だから、朝鮮の緯度経度範囲について、日本の情報を抗議もせずに受け入れていた時点で、「島が韓国領でなかったとする証拠」になる可能性はおおいにあるでしょうな。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/08 09:22 投稿番号: [16311 / 18519]
  家鴨と兎さん
>というわけで、どうも分からんなぁ、と思っているところです。

  完璧に100%正しいなどとはお互い考えていないなかで、探求すると云うことで宜しいのではないでしょうか。
  日本政府から領有主張が為される大分以前の話ですし、藪太郎さんからもご指摘の通り、独島の語源については大きく3つの説があったわけですよね。
  そのような当時の事情を勘案し、勅令の記述は知られていなかったと判断して差し支えなかろうと考えたわけです。
  もし知っていれば「石島」以外の説が命脈を保ち続けるのは不自然ですし、ましてや日本の主張に対抗するつもりがあったのならばより「最善」(笑)を尽くすでしょう。

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/08 09:12 投稿番号: [16310 / 18519]
  家鴨と兎さん
>1947年時点で、独島が'Dok seom'と呼ばれたと言う証言はどこにあるのでしょうか。私が見たところ、パンジョンヒョン教授の文章にはそういう記述はありませんでしたが。

  藪太郎さんご紹介のサイトにあった方教授の紀行文(下記訳文参照)とされる部分を見て、現地住民を調査した結果観察されたのだと解釈しました。洪氏の証言とされる部分だけを問題にすれば、ご指摘のように「トルソム」と呼んでいたのかもしれませんが、他の住民の中には「トクソム」と呼んでいた者も観察されたのだろうと思われます。
  『私は最後に、或いはこの島の名が『石島』の意から来たのではないかと考える。これは「トルソム」または「トクソム」の二通りに呼べることなので、ここでの問題は、獨島の外形が全て石で出来ているように見えることと、また「トル」をどの方言で「トク」とするのかを解決すれば、この「石島」と云う名称が極めて近い解釈になるであろう。』

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/08 08:52 投稿番号: [16309 / 18519]
自説(ウリナラ国際法)の証明を放棄して、脳内勝利宣言ですか。
相応しい最後です。

Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2008/02/08 02:47 投稿番号: [16308 / 18519]
だから無駄だってw
文章読解能力が欠片もないんだからw

>Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/02/07 23:34 投稿番号: [16307 / 18519]
yabutarou01さん

>ararenotomoさんがこの説明で納得していただけないのは残念ですし、私が自分の都合のよいような解釈をしているとお考えならば悲しくさえあります。。

私は、yabutarou01さんの文章にはよく分からないところもありますが、「一般論としてはyabutarou01さんのお考えと殆んど同じです。」と書きました。ただし、yabutarou01さんの説明で納得できないことに対して、私の考えを述べました。それがyabutarou01さんに悲しみを与えてしまったなら、私の真意ではありません。お詫びします。

納得できなかったことの一つは、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見欝陵稍峻風浪息則尋常可見」の解釈です。「盖二島 - - 風可至」の解釈はyabutarou01さんと同じですが、「于山島 - - 不可見」に関して、yabutarou01さんは、于山島を竹嶼とし、「此(寧海)」から見たとのお考えのようですが、寧海近くの朝鮮半島から竹嶼を見るには10000m以上の高さが必要です(No.16125)。従って私は、欝陵島から見たとは書いてありませんが、上記の文は「欝陵島地誌」の記事ですから、この于山島は海気が極めて晴朗ならば欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は、朝鮮半島の高所から見たのであれば、yabutarou01さんが述べられたように(No.16079)、波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありませんから、海上から欝陵島を見たと解釈しました。

二つ目は、「欝陵島地誌」冒頭の「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」で、私は最初、「登高望之」が「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈していました。しかし、ahirutousagi2さんとyabutarou01さんのご指摘により、「日初出時風恬浪靜則 - - 沙汀樹木歴々可指」は、海上から見た欝陵島の景観が相応しいと思い、前説を撤回しました。そこで、同様な表現である『新筯東國輿地勝覧』の「峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」も、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していましたから、私は、欝陵島に上陸し或は近くの海上から見た欝陵島の景観を描写したものと解釈しました(No.16154)。

yabutarou01さんはNo.16180で、これに関連する重要な資料、鵝溪李山海(1539〜1609)の「蔚陵島説」を紹介されました。「海氣澄朗則自嶺東望之如一后蒼烟横抹於水天之間獨眞珠府與此島最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之状了了然可辨以此知不甚遠也」の記述は大変興味があります。yabutarou01さんが的確に訳されたように、「海氣澄朗ならば嶺東より欝陵島を望めば厚い蒼烟の如く水天の間に独り横たわり、眞珠府(三陟)はこの島が最も対峙している(最も近い?)故に召公臺(三陟にある高台の地名)に登ると林木岡巒の状がはっきりとわかるので甚だ遠くないと判断できる」と書かれています。

これは、yabutarou01さんが述べられたように、朝鮮半島から欝陵島の木々や山々の状態がはっきりとわかる、とした最初の記事と思います。後の「竹島一件」に際し、領議政南九萬は1694年9月「本島峰巒樹木自陸地歴々望見 - - 載於我国輿地勝覧書」と書き、宗氏の竹島日本領説に反駁しました。これをうけ、宗義真の近臣陶山庄右衛門は賀島兵助宛に次のように書き送りました「竹島之儀日本之地を去る事百六拾四里、朝鮮之地よりは樹木磯際迄相見へ、誠に朝鮮に屬候」(『竹島文談』日本経済叢書13, 1915)。竹島日本領説の破綻は、欝陵島について殆んど知らないまま、日本領化を謀った当然の帰結でしょう。

なお、三陟市から鬱陵島は微かにしか見えないようです。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/mid-1700s-haedong-chongdo-gangwondo.html

yabutarou01さん、大変興味深い資料の紹介を有難うございました。私は単なる地理マニアに過ぎませんが、またいろいろとご教示ください。

>Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/02/07 23:26 投稿番号: [16306 / 18519]
husenoyajiさん

ご意見を有難うございます。少し理解し難いところもありますが、私なりの理解でお答えいたします。

>>『世宗実録地理志』では、「相」を本土からの距離をしめすときに使う必要はないようです。それにもかかわらず、「二島相去不遠風日芿明則可望見」とわざわざ「相」を入れたのは、「二島(于山と武陵)はお互いに相去ること遠くなく、風日清明ならば望み見ることができる」と、二島の間だということを明確に示すため、「相」を使ったと思います。
>思うのは自由ですが、積極的根拠は陸地をが省かれているというだけですよね。相去るというだけで、距離をしめすのではないですか。

「相」は「お互いに」の意味ですから、「二島相去不遠」は、二島(于山と武陵)はお互いに去ることが遠くない、即ち、「相去る」は二島の間の距離を示し、二島と本土の間の距離ではない、と解釈します。『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」には、「二島在縣正東海中」とありますが、Am_I_AHO_1stさんが言われたように(Nos.16158, 16164)、二島が蔚珍縣の東の海中に在るということを示しているだけで、二島と本土の間の距離を示すとの積極的根拠は無いように思います。さらに『高麗史地理志』では、欝陵島は、「在縣正東海中」として一島説により詳しく説明した後に、「一云于山武陵本二島相距不遠」は一説として末尾に挿入されています。従ってこれから、二島と本土の間の距離を示すとは読めないでしょう(No.16154)。

>私は、世宗実録と、東國輿地勝覧をワンセットで考えています。なぜなら、AHOさんにご教示いただいたところでは、編者が同一人物なんです。三峯島探検のあとに、いわば決定打として、出たのが東國輿地勝覧なんです。

『世宗実録地理志』は1424年に編纂が開始され1454年に完成しました。一方、『東國輿地勝覧』は1481年に完成しましたが、これは伝わらず、現存するのは1531年版です(内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社, 2007)。「編者が同一人物」?

>相を二島がお互いだとすると、東國輿地勝覧では海上からだとするのは矛盾です。同じ編者なんですから、より詳しく書いたと考えるのが当然です。

『世宗実録地理志』と『新筯東國輿地勝覧』は同じような地誌ですが、別の書ですから書き方・内容が違うのは当然ではないでしょうか。

>二日可到も、本土でなくお互いだと考えるのですか?

No.16155 で述べたように、『新筯東國輿地勝覧』欝陵島記事の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」で、本土からの距離を明記した部分は「風便則二日可到」と考えています。

>接近した海上から強く印象にのこるのは、まず断崖絶壁です。それを書かずに、樹木や渚のことを書くのは、変ですね。

欝陵島の海岸を、『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島地誌」では、「自稱壬辰之亂俘」の僧は「皆壁立萬仞」と語り、yabutarou01さんが紹介された(No.16180)『臥遊録』「蔚陵島説」では、「四面皆蒼岩鐵壁」と書いていますが、何を書くかは人それぞれによって異なるでしょう。

>私の想像は、古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島が直近にあるので、これに比定して于山島をあてたのだと思います。獨島を見て于山島だと考えた人も居る可能性はありますが、普通は見えませんので、近傍の島を比定してしまったのだと考えます。

同感です。私の言いたかったのは正に、「古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島(竹嶼)が直近にあるので、これに比定して于山島をあてた」人や、「獨島を見て于山島だと考えた人も居る」ということです。そして『地理志』の「二島相去(距)- -」は後者の見解を記したものと思います。husenoyajiさん有難うございました。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/02/07 21:46 投稿番号: [16305 / 18519]
アホ様。ついでにもう一つ教えていただけませんか。よく知らないので何か資料でもあれば助かるのですが…。

>3.1965年以降、旧朝鮮の公文書を日本から韓国政府に返還する道が開けた。
4.返還文書の中から勅令第41号が発掘され、独島は石島であったことが裏付けられた。

大韓帝国官報は1965年に至ってはじめて日本から返還された文書であるのかどうか。です。もとより韓国側(建国以前の連合司令部も含めて)に資料は存在しなかったか。

ついでに申し上げれば、すでに指摘されていますが、1947年の総合学術調査は、もともと独島を大韓民国に所属させるための調査であったものと考えて差し支えないものと思われます。

1年後、1948年8月15日の大韓民国単独政府樹立と同時に「独島」に慶尚北道鬱陵郡南面ドトン1番地を付与して行政処置を行っていますから。

私は個人的には、1947年8月の調査時点で李承晩側では官報41号「石島」の記述をすでに把握していた可能性はあるように感じています。学問の世界で公にこのことが知られるようになったのはあとであったとしても。

そう考えれば、パンジョンヒョン教授の発言も、納得ができます。というか独島という名前を聞いて「これは石島から方言で音が変わったもの」と何ら資料もなしにいきなり意見を述べるというのは、どうでしょう。その可能性もあるのではないか、という程度の記述ならともかく、文章があまりに断定的です。

というわけで、どうも分からんなぁ、と思っているところです。

Re: 瓮島がドクト

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/07 21:30 投稿番号: [16304 / 18519]
take_8591さん

>最後が甕島由来説です。甕とはかめ・つぼという意味であり古い韓国語で"dok"と発音します。鬱陵島から見た竹島=独島が甕を横にした上半分の形に似ていることからdok島と呼ばれるようになり、音を取って独島と書いたとする説です。
この説は、誰が何時、唱えられたものなのでしょうか。

確か1950年代か1960年代に李漢基氏が述べたと竹島関連の本に書いてあったと記憶しています。
どなたか詳しく御存知の方がいらしたら教えてください。
古い説なのでネットソースがなかなか見つからないんですよ。。

ただ1948年に“Patriotic Old Men’s Association”なる団体がダグラス=マッカーサーに送った、竹島が韓国領であると主張する内容の手紙があります。

Japan, however, never dismiss the fishing profit around the island “Ulneungdo”, but planned to occupy a corner of it by some means and became to find out a small island called “Docksum” in Korean name, meaning a small pot-shaped island, near the Uleungdo where whales gathered

「独島とは小さなポットの形をした島という意味である」とあります。これは甕島由来説を指していると思います。

三つめの画像
http://www.geocities.com/mlovmo/page30.html

  >>また、ゲーリー氏は、1794年の検察報告に付き、次の解説をしています。何か、関連性はあるのでしょうか。
   http://www.occidentalism.org/?p=361
   報告では又、そこから3つの島が見える、とあります。最北は防牌島で、これが現在の観音島だったと思います。中央の島は竹島(Jukdo)で、ほぼ間違い無く現在の竹島(Jukdo)でしょう。南東の楮田洞のすぐ東沖にあったのは瓮島で、意味は甕島です。純粋な韓国語では、瓮島はDokseomと発音し、中国系韓国語発音では “Dokdo”となります。

韓国にはこの「瓮島」を音が同じだから竹島=独島であるとする説があります。まあどう考えても間違いですが。。

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/02/07 21:19 投稿番号: [16303 / 18519]
アホ様。すみません、よく分からないのですが、もしもよろしければ教えていただけませんか。

>一般的にはその通りですが、この場合は1947年の現地調査で実際に現地の住民が独島を'Dol seom'または'Dok seom'と呼んでいたことが観察されたわけですね。
  'Dok seom'も一般的な用法でしょうか。

1947年時点で、独島が'Dok seom'と呼ばれたと言う証言はどこにあるのでしょうか。私が見たところ、パンジョンヒョン教授の文章にはそういう記述はありませんでしたが。

呼ばれた可能性があるとすれば、洪氏の証言に従って'Dol seom'ということになりますが、これはやぶ太郎さんも仰るように、普通に通用する、一般名詞と考えていいでしょう。

Re: Re:Re: Re:石島=独島説の秘密1

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/07 20:42 投稿番号: [16302 / 18519]
Am_I_AHO_1st さん


  >>勅令に「石島」と書いてあることが広く知られるようになるのは、ずっと後のことなので、故方鐘鉉教授の説が後世の研究により裏付けられたと解釈できるかもしれませんね。
 
これを「後世の研究により裏付けられた」と解釈するか、「単に都合のよい主張をしているだけ」と解釈するかは鏡の裏と表のようなもので他に判断材料がない以上見る人の立場によって解釈が替わっても仕方がない部分はあります。
ただ少なくともこのような曖昧な主張を領有権の根拠として持ち出すべきではないと私は考えます。

まあとりあえずでっち上げはやめてほしいものです。。。

瓮島がドクト

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/02/07 17:09 投稿番号: [16301 / 18519]
>最後が甕島由来説です。甕とはかめ・つぼという意味であり古い韓国語で"dok"と発音します。鬱陵島から見た竹島=独島が甕を横にした上半分の形に似ていることからdok島と呼ばれるようになり、音を取って独島と書いたとする説です。


   この説は、誰が何時、唱えられたものなのでしょうか。

   また、ゲーリー氏は、1794年の検察報告に付き、次の解説をしています。何か、関連性はあるのでしょうか。
   http://www.occidentalism.org/?p=361
   報告では又、そこから3つの島が見える、とあります。最北は防牌島で、これが現在の観音島だったと思います。中央の島は竹島(Jukdo)で、ほぼ間違い無く現在の竹島(Jukdo)でしょう。南東の楮田洞のすぐ東沖にあったのは瓮島で、意味は甕島です。純粋な韓国語では、瓮島はDokseomと発音し、中国系韓国語発音では “Dokdo”となります。
  ------------------------------ -

   瓮(へ・もたい)とは、「酒などを入れる容器。瓶(かめ)。」のことです。

半月城氏、『大韓地誌』に狂喜?

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/02/07 14:50 投稿番号: [16300 / 18519]
   独島領有主張の不思議さは、官撰史料から「朝鮮が独島を領有していた」事実を全く認められないにも関わらず、「朝鮮が独島を領有していた」と強弁していることです。この様な根拠の無い主張でも、外務省は「日本国政府は、韓国側がその主張を各種の資料に基き立証しようと試みていることに対しては、これを歓迎するものである。」と受け止めていたのです。

   しかし、無いものは証明のしようがないのです。そこで、
   「光武5年(明治34=1901)刊の玄采著『大韓地誌』(光武9年 2冊本として再刊)には韓国領土の東限を東経130度35分としており、竹島は含まれていない。著者は学部職員であり、学部編しゅう局長の序もあるので当時の権威ある著書とみられる。」
   と反論しました。
   玄采が、古今東西の史料を検討した上で、鬱陵島を示す「東経130度35分」を韓国領土の東限としたことが明らかです。玄采は、輿地勝覧以後の官撰史料を検討したが、鬱陵島以東に朝鮮領は記されていなかったと言っているのです。

   これに対して、 [ No.16288 ]の半月城さんは、「日本外務省は官撰書でもなければ官製図書でもない一般書の『大韓地誌』などを引用して韓国に対する反論の4本柱のひとつに据えました。」と主張します。しかし、存在しないことは証明の方法が無いのです。そこで、存在しないという研究成果を証拠として自説の根拠とするのは、当然の手法です。まぁ、こういう反論しか出来ないということが、朝鮮領の東限が鬱陵島であることの証明であるとも言えます。

   又、「世の君子がそれを継いで自分の過誤を正して編輯して至当なものに仕上げるなら、これに勝る幸せはない。」とあと書があるから、最終判断ではない旨の主張をします。
   1900年に勅令41号が発布され、1906年には沈興沢による「独島領地之説」事件があります。これらを受けて、1907年に『大韓新地誌』が発表されますが、朝鮮の東限に変化はありませんでした。即ち、世の君子が玄采に過誤無しと認めたことを意味します。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/07 09:51 投稿番号: [16299 / 18519]
  とうに終わっている議論なのでいつ終了しても結構ですよ。

  ヘンポコ君の理屈ですと旧朝鮮を継承しているのは日本と云うことになりますが、この点から逃げ回っている姿がログに残るだけですから。
  つまるところ国際法をきちんと理解して公正に判断するのではなく、自分の主張に都合の良いところだけを摘み食いする姿勢で一貫していると理解させていただきます。
  ご苦労様でした。

Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/07 09:42 投稿番号: [16298 / 18519]
  プラチャカさん

>   私が示した文献は「島が韓国領でなかった。」ことの強力な証拠なのです。

  それは貴方のご見解としては承りますが、前提からして無理です。
  他国の測量成果を使えば良いとのことですが、当時の状況について議論したことをお忘れとしか思えませんね。

Re: Re:Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/07 09:35 投稿番号: [16297 / 18519]
  藪太郎さん
>「史的検証竹島独島」での洪在現の証言は1883年の鬱陵島入島の時二十歳位であった洪在現が八十五歳の時の韓国側の学術調査の時のものです。
>この学術調査は1947年に行われたもので、確認は出来てませんが方鍾鉉氏もこの調査団の一員であった可能性があります。
>そもそも韓国側が学術調査をしたのは独島を領有するための準備のためであるのは明らかですし、この証言が公開されたのは1965年です。
>もうひとつの証言も日本が竹島の領有権を主張した後公開されたものです。

  独島を領有するための調査であったかどうかは確認していませんが、ご指摘のように故方鐘鉉教授は1947年8月に獨島を視察して戻り紀行文「獨島の一日」を「京城大学予科新聞」に寄稿したようですね。
  ご紹介のサイトからその一説を訳してみました。
  『私は最後に、或いはこの島の名が『石島』の意から来たのではないかと考える。これは「トルソム」または「トクソム」の二通りに呼べることなので、ここでの問題は、獨島の外形が全て石で出来ているように見えることと、また「トル」をどの方言で「トク」とするのかを解決すれば、この「石島」と云う名称が極めて近い解釈になるであろう。』
  勅令に「石島」と書いてあることが広く知られるようになるのは、ずっと後のことなので、故方鐘鉉教授の説が後世の研究により裏付けられたと解釈できるかもしれませんね。

>勅令四十一号の石島が竹島=独島であることを証明するためには石島と独島、この二つの言葉に関連があることを証明しなければなりませんが、これが可能なのは石島由来説だけです。
>そこで石島由来説が正しいことを証明するために愼𨉷廈氏が勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていたという話をでっちあげて他の二説を封印してしまったのではないかと私は考えました。

  確かに愼𨉷廈氏の見解には時折首を傾げざるを得ないものがあり、私自身も過去にこのトピで幾度か異議を唱えたことがあります。
  1900年当時の記録をみると、鬱陵島に定住する韓国人は江原道や慶尚道から渡った者が多いようで、主に農業を営み、漁業に従事する者は希だったようです。
  一方で、全羅道の漁民も鬱陵島に来ては居ましたが、定住していなかったようで、統計上は鬱陵島の住民にカウントしなかったようですね。

Re: 日本外務省、『大韓地誌』に狂喜?2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/07 09:11 投稿番号: [16296 / 18519]
  半月城さん、Am I AHOです。
  ご指摘ありがとう御座います。
  どうやら、これまで積み上げた議論が裏付けられたと思います。
  経度緯度の正確さを問題にするのならば、分析の第一歩で当然あるはずのバックデータがどうなのかを問題にするのは初歩の初歩ですね。
  それすらも疎かにした議論が世間に通用するはずは御座いません。

>ま、それでも『大韓地誌』は学術書なのでまだしも、外務省が「狂奴」と自称する人の『韓国痛史』を引用するのはいかがなものでしょうか。しかも10年後の書を針小棒大にとりあげ、まるで鬼の首でも取ったかのように公式の反論に利用するのは理解に苦しみます。これは見方を変えれば、外務省がいかに反論の材料に事欠いていたのかを示しているともいえます。そうでなければ、何かが狂っているようです。

  あはは
  まあ、そう仰らずに。
  「阿呆」を自称している人もいるわけですから。

Re: 日本外務省、『大韓地誌』に狂喜?2

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/07 06:00 投稿番号: [16295 / 18519]
>>玄采はとても正直な方のようです。教課を急いで作成したので、内容を充分
>>吟味する時間がなく、やむをえず、日本人の書や輿地勝覧だけに頼ったと述
>>べました。なかでも緯度や経度は輿地勝覧などにはないので、日本人の著書
>>を引用したようです。それはおそらく『朝鮮水路誌』あたりでしょうか。

>もし玄采に内容を充分吟味する時間があったら韓国領土の東限に竹島=独島を
>含めていたはずだがなかったので『朝鮮水路誌』のような日本人の書を引用し
>て韓国領土の東限を東経130度35分と書いたということですね。
>ということは少なくとも当時の日本政府が竹島=独島を韓国領土と認識してい
>なかったことは認めていただけるわけですよね。

輿地勝覧や朝鮮水路誌が独島領有の証拠だと今まで散々主張して来たのは誰なのでしょうか。
あまりにも無茶苦茶なんで頭痛がしてきました。

Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/07 05:44 投稿番号: [16294 / 18519]
>あなたも古い割には議論の内容をお読みになっておられないようですね。
>議論の積み上げを無視して、蒸し返すようなことは慎んでいただきたいもので
>す。
>韓国の経度表示が不正確だったことについては、既に幾つかの指摘がなされ、共
>通理解に至っているはずです。
>共通理解を得たくない方にはどんなに議論をしても無駄ですが。
>簡潔に要約すると

>1.そもそも測地にはバックデータがあるはずである
>2.当時西欧式の測量では日本が遙かに先進したいた
>3.20世前半頃までの韓国政府機関による離島の測量成果は存在しない
>4.日本でさえ離島の測量を完了するには数十年を要している(ついでに国土
>地理院の独島の緯度経度表記が十数kmずれていたのも古い人には有名な話です)
>5.従って、それれまでの全ての史料に表記されている緯度経度について、離島の表記はそもそも信用できない。
>6.また、「韓国水産誌」に見るように領土の範囲には含まないものの、東海岸の所属物として表記している事実もある
>7.よって独島が韓国領であったことの証拠にはならないかもしれないが、島が韓国領でなかったとする証拠とは云えない

↑こんなのが共通理解だったのですか。それじゃ、今からきっぱりとその共通理解とやらは捨てて下さい。
  測量誤差が大きければその地図に全く価値が無いということにはなりません。特に、離島の測量成果なんて最近までかなり誤差があったのは常識です。
  島の領有権を議論しているのだから、島を特定出来る程度の精度があれば十分なのです。当時の地理書にしろ地図にしろ、誤差は大きいなりにきちん経緯度で示そうとしているではありませんか。島の位置を自分で測量出来なければ、他国の他国の測量成果を使えばいいだけの話です。測量成果が得られなければ他国が作成した地図上で直接経緯度を読み取るという方法も取れます。
  つまり、独島とやらの経緯度を島を特定出来る程度の精度で知ろうと思えばいくらでも方法はあったということです。
  ところが、こんな簡単なことさえ実行していない。
  私が示した文献は「島が韓国領でなかった。」ことの強力な証拠なのです。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/07 02:45 投稿番号: [16293 / 18519]
>ナチスを支援しつづけた犯罪国家は保護されるが

そもそもナチスが「戦時国際法違反」をしたからといって、
ドイツの「領域権原」が無効になるわけではない。
↓そして、結局最初に戻って終了と。

PRINCIPLES OF PUBLIC INTERNATIONAL LAW by Ian Brownlie
"The very considerable derogation of sovereignty involved in the assumption of powers of government by foreign states, without the consent of Germany, did not constitute a transfer of sovereignty."

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/07 02:40 投稿番号: [16292 / 18519]
THE ACQUISITION AND GOVERNMENT OF BACKWARD TERRITORY IN INTERNATIONAL LAW by M.F. LINDREY
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/thistory/1852000/20070420117706121841187300.gif
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/thistory/1852000/20070420117706130879004400.gif

INTERNATIONAL LAW by OPPENHEIM
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/thistory/1831000/20070227117257571235282400.jpg
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/thistory/1831000/20070227117257599017117300.jpg
「Voluntary Merger」として割譲に分類。

ウリジナル国際法を創作しても無駄。

Re: Re:Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/07 00:59 投稿番号: [16291 / 18519]
Am_I_AHO_1st さん

  >>日本が独島の領有権を主張し始めるよりも大分以前の話のようですし、何の目的ででっちあげる必要があったとお考えですか。
  少なくとも二国間の論争に有利に働かせる目的で作為を働かせた可能性はないと判定して宜しいでしょう。


「史的検証竹島独島」での洪在現の証言は1883年の鬱陵島入島の時二十歳位であった洪在現が八十五歳の時の韓国側の学術調査の時のものです。
この学術調査は1947年に行われたもので、確認は出来てませんが方鍾鉉氏もこの調査団の一員であった可能性があります。
そもそも韓国側が学術調査をしたのは独島を領有するための準備のためであるのは明らかですし、この証言が公開されたのは1965年です。
もうひとつの証言も日本が竹島の領有権を主張した後公開されたものです。


もともと独島という名前の由来には三つの説がありどれが正しいのかは分かっていませんでした。
その一つが方鍾鉉氏の石島由来説です。もう一つが離れ島由来説です。これは竹島=独島が孤独な離れ小島であるので意味を取って独島としたとする説です。
最後が甕島由来説です。甕とはかめ・つぼという意味であり古い韓国語で"dok"と発音します。鬱陵島から見た竹島=独島が甕を横にした上半分の形に似ていることからdok島と呼ばれるようになり、音を取って独島と書いたとする説です。

鬱陵島から見た竹島
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-from-ulleungdo.jpg

勅令四十一号の石島が竹島=独島であることを証明するためには石島と独島、この二つの言葉に関連があることを証明しなければなりませんが、これが可能なのは石島由来説だけです。
そこで石島由来説が正しいことを証明するために愼𨉷廈氏が勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていたという話をでっちあげて他の二説を封印してしまったのではないかと私は考えました。
これが私の言うところの「石島=独島説の秘密」です。

Re: 日本外務省、『大韓地誌』に狂喜?2

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/07 00:26 投稿番号: [16290 / 18519]
  半月城さん

  >>玄采はとても正直な方のようです。教課を急いで作成したので、内容を充分吟味する時間がなく、やむをえず、日本人の書や輿地勝覧だけに頼ったと述べました。なかでも緯度や経度は輿地勝覧などにはないので、日本人の著書を引用したようです。それはおそらく『朝鮮水路誌』あたりでしょうか。


もし玄采に内容を充分吟味する時間があったら韓国領土の東限に竹島=独島を含めていたはずだがなかったので『朝鮮水路誌』のような日本人の書を引用して韓国領土の東限を東経130度35分と書いたということですね。
ということは少なくとも当時の日本政府が竹島=独島を韓国領土と認識していなかったことは認めていただけるわけですよね。


  >>このように日本外務省は官撰書でもなければ官製図書でもない一般書の『大韓地誌』などを引用して韓国に対する反論の4本柱のひとつに据えました。
ともかく、『大韓地誌』はそのような体裁の本なので、たとえ官員が作成したといっても韓国政府の見解を代弁するものでないことは当然です。

どうしてこのような曖昧な表現をされるのですか。。『大韓地誌』が大韓帝国の学部編輯局刊行の官製図書であるのは半月城さんもご存知のはずですよ。。。
下のリンクにある「大韓帝国学部から教材用」として発刊された『大韓全図』というのは『大韓地誌』の付属の地図ですよね。

証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判
http://www.han.org/a/half-moon/hm129.html

Re: 日本外務省、『大韓地誌』に狂喜?2

投稿者: kkgwsthm 投稿日時: 2008/02/06 23:54 投稿番号: [16289 / 18519]
>ともかく、『大韓地誌』はそのような体裁の本なので、たとえ官員が作成したといっても韓国政府の見解を代弁するものでないことは当然です。

それならば独島が書かれた地図を示したらどうでしょうか?
私の知る限り1905年以前に韓国が独島を書いた地図はありません。

あと半月城さんは持論に不利な意見には全く答えないのでしょうか?

韓国が国際司法裁判所に出ない理由が分かってきました。

日本外務省、『大韓地誌』に狂喜?2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/02/06 23:26 投稿番号: [16288 / 18519]
   このように日本外務省は官撰書でもなければ官製図書でもない一般書の『大韓地誌』などを引用して韓国に対する反論の4本柱のひとつに据えました。
   しかも日本政府は『大韓地誌』などに喜んで飛びついたのか、中味をよく読んでいなかったようです。もし、精読していたら、その書を反論の材料に使用したでしょうか?   同書はあとがきでこう述べました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大韓地誌跋
  余所編地誌 本諸日人所記 參諸輿地勝覧・・・顧以教課事急 不能摩歳月博考据此 其所愧也 世之君子其或嗣 而輯之匡余過誤 而歸于至當 則斯厚幸云
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   これを意訳してみます。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
大韓地誌跋
   自分が地誌を編纂した基本には日本人たちの記した書や、輿地勝覧などを参考にした・・・・顧みるに教課が至急であり、熟考のために歳月を無駄にできない。それが慚愧にたえない。世の君子がそれを継いで自分の過誤を正して編輯して至当なものに仕上げるなら、これに勝る幸せはない。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   玄采はとても正直な方のようです。教課を急いで作成したので、内容を充分吟味する時間がなく、やむをえず、日本人の書や輿地勝覧だけに頼ったと述べました。なかでも緯度や経度は輿地勝覧などにはないので、日本人の著書を引用したようです。それはおそらく『朝鮮水路誌』あたりでしょうか。
   ともかく、『大韓地誌』はそのような体裁の本なので、たとえ官員が作成したといっても韓国政府の見解を代弁するものでないことは当然です。
   さらに『大韓地誌』には于山島を含む絵図が付属していますが、それも従来の地図を流用したものであり、玄采が独自に調査したものではありません。欝陵島の東に于山島を、南に存在しない小さな島を5島も描きました。これは竹島=独島問題を云々できるような絵図ではありません。

   ま、それでも『大韓地誌』は学術書なのでまだしも、外務省が「狂奴」と自称する人の『韓国痛史』を引用するのはいかがなものでしょうか。しかも10年後の書を針小棒大にとりあげ、まるで鬼の首でも取ったかのように公式の反論に利用するのは理解に苦しみます。これは見方を変えれば、外務省がいかに反論の材料に事欠いていたのかを示しているともいえます。そうでなければ、何かが狂っているようです。

(注)外務省情報文化局「竹島の領有権問題」『海外調査月報』1954年11月、P71

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

日本外務省、『大韓地誌』に狂喜?1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/02/06 23:19 投稿番号: [16287 / 18519]
   半月城です。
   韓国のある本に韓国の東限が130度35分と書かれているので、現在の竹島を含むはずがない、したがって当時の韓国は竹島=独島を認識していなかったという単純な論法を信じている人が未だにいるようです。
   半世紀以上も前に日本の外務省はその論法を韓国に対する有力な反論材料にしました。そして大まじめに次のように記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「竹島に関する1953年9月9日付 韓国政府の見解に対する日本国政府の反駁」

1.日本国政府は、本件に関する韓国政府の見解について慎重に検討した。日本国政府は、韓国側がその主張を各種の資料に基き立証しようと試みていることに対しては、これを歓迎するものである。日韓両政府がかかる立場に立って、本問題を虚心に検討するならば、その結論はおのずから明白となるであろう。

2.しかしながら、韓国側がその主張の根拠として挙げているところは・・・

5.韓国側は最近でこそ竹島の領有を問題としているが、明治38年の竹島の島根県編入前後において、竹島を韓国領とは考えていなかったことは、次の事実からも明らかである。
(1)光武5年(明治34=1901)刊の玄采著『大韓地誌』(光武9年 2冊本として再刊)には韓国領土の東限を東経130度35分としており、竹島は含まれていない。著者は学部職員であり、学部編しゅう局長の序もあるので当時の権威ある著書とみられる。
(2)民国4年(大正4=1915)刊の太白狂奴著『韓国痛史』も韓国領土の東限を130度50分としており、これまた竹島は含まれていない。
   この書物は日本の朝鮮統治に反対してその独立を企図し、上海に亡命した一人によって編さんされたものであり、竹島について関心があれは当然これが取りあげられるべきである。
6.これを要するに韓国側の説明によるも・・・(注)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/06 11:39 投稿番号: [16284 / 18519]
  あなたも古い割には議論の内容をお読みになっておられないようですね。
  議論の積み上げを無視して、蒸し返すようなことは慎んでいただきたいものです。

  韓国の経度表示が不正確だったことについては、既に幾つかの指摘がなされ、共通理解に至っているはずです。
  共通理解を得たくない方にはどんなに議論をしても無駄ですが。
  簡潔に要約すると

1.そもそも測地にはバックデータがあるはずである
2.当時西欧式の測量では日本が遙かに先進したいた
3.20世前半頃までの韓国政府機関による離島の測量成果は存在しない
4.日本でさえ離島の測量を完了するには数十年を要している(ついでに国土地理院の独島の緯度経度表記が十数kmずれていたのも古い人には有名な話です)
5.従って、それれまでの全ての史料に表記されている緯度経度について、離島の表記はそもそも信用できない
6.また、「韓国水産誌」に見るように領土の範囲には含まないものの、東海岸の所属物として表記している事実もある
7.よって独島が韓国領であったことの証拠にはならないかもしれないが、島が韓国領でなかったとする証拠とは云えない

以上

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/06 10:05 投稿番号: [16283 / 18519]
  国際法を全く無視した侵略戦争を引き起こし、中立条約を破ってナチスを支援しつづけた犯罪国家は保護されるが、犯罪被害にあった被害国家は保護されないという理屈ですね。
  毎度おなじみヘンポコ流死せる国際法論法ですね。

  それならそれで一貫性を保っていただきたいのですが、その理屈ですと旧朝鮮を継承しているのは日本と云うことになりますが、この点は素直にお認めになれない?
  不思議な方ですねえ(笑)

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/06 09:34 投稿番号: [16282 / 18519]
>鬱陵島民は竹島=独島も鬱陵島周辺の岩で出来た小島や岩礁も"Dol seom"と呼んでいるはずで、石島とあれば竹島=独島を指すとは必ずしもいえません。

  一般的にはその通りですが、この場合は1947年の現地調査で実際に現地の住民が独島を'Dol seom'または'Dok seom'と呼んでいたことが観察されたわけですね。
  'Dok seom'も一般的な用法でしょうか。

>次に問題になるのはやはり証言の信憑性ですね。証言というのは特定の立場に都合のよいようにでっちあげられてしまう可能性があるので慎重に検討する必要があります。

  日本が独島の領有権を主張し始めるよりも大分以前の話のようですし、何の目的ででっちあげる必要があったとお考えですか。
  少なくとも二国間の論争に有利に働かせる目的で作為を働かせた可能性はないと判定して宜しいでしょう。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2008/02/06 02:05 投稿番号: [16281 / 18519]
疲れるっしょ?w

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 22:28 投稿番号: [16280 / 18519]
合意の上の併合ですから当然です。

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 21:41 投稿番号: [16279 / 18519]
Am_I_AHO_1st さん

  >>宋炳基氏の指摘しているように「今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。」のであれば、石島は獨島でほぼ確定かもしれませんね。


まず指摘しておきたいのは"Dol seom"の用法についてです。"Dol seom"という表現は固有名詞として特定の島を表すよりむしろ、普通名詞 として岩で出来た小島や岩礁一般を表す事の方が多いということです。
ソウル大学奎章閣の地図の解説にこのようにあります。

その他周辺の島に対する表示もすぎるほど大きく描かれていると言える.実在では大部分がドルソム位に過ぎない.
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GZD/GZD_JIMYUNGS.jsp?ptype=class&subtype=yj&lclass=01&mclass=%EA%B0%95%EC%9B%90%EB%8F%84&sclass=GM33496IL0006_104.jpg&jido=

鬱陵島民は竹島=独島も鬱陵島周辺の岩で出来た小島や岩礁も"Dol seom"と呼んでいるはずで、石島とあれば竹島=独島を指すとは必ずしもいえません。

次に問題になるのはやはり証言の信憑性ですね。証言というのは特定の立場に都合のよいようにでっちあげられてしまう可能性があるので慎重に検討する必要があります。
例えば「史的検証竹島独島」の77ページにはこのようにあります。

鬱陵島開拓令の施行で朝鮮本土から人々が移住して開拓に従事していったのは前述の通りである。
そのなかで江源道の江陵から移住した洪在現は、東方にある独島を発見して出漁した経験を語った談話を残している。

   鬱陵島開拓当時、鬱陵島人はこの島を発見し、あるいはコンブ、ミミガイ、をとるために、あるいはザリガニをとるために、多数が独島に出漁しており、洪氏自身も十数回往来したと述べている。


この文章を読めば鬱陵島開拓民が独島で漁をしたのは事実であるように思えます。
しかし私があるサイトで見つけた洪在現の証言にはこのようにありました。

1883年旧暦 4月初8日江原道江陵から鬱陵島で都落ちしたお爺さん(洪在現翁)が 4日間波路にして今の鬱陵邑北面ヒョンピョドングに到着した時,その時鬱陵島住民とはわずか二つの家具が住んでいた.お爺さんが一日は高い山に登るようになったが,遠い東海でもう一つの島を見つけた.かつて読んだ事がある <世宗実録> 及び <東国輿地勝覧> など古書で明らかにした于山島,今の独島なのを見当をつけるようになったし,1897年 6月にお爺さんは独島道に上がってあの時鬱陵島で香木ひと株を持って行って今の独島同道に植えた.
お爺さんは鬱陵島に帰って来る時はアシカ三人の匹を捕って来て鬱陵島住民たちにめいめいに配った.葛とさざえや生関だけで食いつないだ住民たちに脂肪質を供給するようになったことを非常に喜んで以後では脂肪質を独島で得なくちゃいけないと心に決めるようになった.
翌年(1898年) 独島にアシカを捕りにいらっしゃったが,意外にその所で日本であるMurakami(村上)と言う(のは)人連中に会った.話し合って見ると彼らは生業でアシカをザブアパは動物像と言った.あの時お爺さんがこの島はザゴで我が国の地だから,これからは二度とこの島にオジマルのを話した.お爺さんはここで止まないで日本人が乗って来た船に同乗,日本に一緒に行った.
日本へいらっしゃったお爺さんはその所官憲に鬱陵島と日本間に位した于山島,今の独島は韓国の地だからこれから日本人の出漁を禁止することを頼んで日本人が渡す船で鬱陵島に帰って来たと私が幼い時何回武勇談のようにおっしゃった.

ttp://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-KJ,bT,hT,uaHR0cDo vL3Rrd24xMDAuZWdsb29zLmNvbS8xMzMxMjM5,ql ang=ja|for=0|sp =- 5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,k835 4df22a649e77fd2dca3544b2de41b,t200705131 14846,
http://tkwn100.egloos.com/1331239

まず1898年に竹島で生業としてアシカを捕っていた日本人がいたなどという話は聞いたことがありません。日本にやって来て于山島,独島は韓国の地と言う話は安龍福のパクリとしか思えません。
1898年にはすでに多くの日本人が鬱陵島で活動していて、条約で日本人が韓国領内で漁をすることが認められていたにもかかわらず、独島は韓国の地だから漁をするなと要求しているのもおかしな話です。
しかも「史的検証竹島独島」では独島でコンブ、ミミガイ、ザリガニを捕っていたはずなのにアシカを捕った話にすりかわっています。は
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