>Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/02/07 23:26 投稿番号: [16306 / 18519]
husenoyajiさん
ご意見を有難うございます。少し理解し難いところもありますが、私なりの理解でお答えいたします。
>>『世宗実録地理志』では、「相」を本土からの距離をしめすときに使う必要はないようです。それにもかかわらず、「二島相去不遠風日芿明則可望見」とわざわざ「相」を入れたのは、「二島(于山と武陵)はお互いに相去ること遠くなく、風日清明ならば望み見ることができる」と、二島の間だということを明確に示すため、「相」を使ったと思います。
>思うのは自由ですが、積極的根拠は陸地をが省かれているというだけですよね。相去るというだけで、距離をしめすのではないですか。
「相」は「お互いに」の意味ですから、「二島相去不遠」は、二島(于山と武陵)はお互いに去ることが遠くない、即ち、「相去る」は二島の間の距離を示し、二島と本土の間の距離ではない、と解釈します。『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」には、「二島在縣正東海中」とありますが、Am_I_AHO_1stさんが言われたように(Nos.16158, 16164)、二島が蔚珍縣の東の海中に在るということを示しているだけで、二島と本土の間の距離を示すとの積極的根拠は無いように思います。さらに『高麗史地理志』では、欝陵島は、「在縣正東海中」として一島説により詳しく説明した後に、「一云于山武陵本二島相距不遠」は一説として末尾に挿入されています。従ってこれから、二島と本土の間の距離を示すとは読めないでしょう(No.16154)。
>私は、世宗実録と、東國輿地勝覧をワンセットで考えています。なぜなら、AHOさんにご教示いただいたところでは、編者が同一人物なんです。三峯島探検のあとに、いわば決定打として、出たのが東國輿地勝覧なんです。
『世宗実録地理志』は1424年に編纂が開始され1454年に完成しました。一方、『東國輿地勝覧』は1481年に完成しましたが、これは伝わらず、現存するのは1531年版です(内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社, 2007)。「編者が同一人物」?
>相を二島がお互いだとすると、東國輿地勝覧では海上からだとするのは矛盾です。同じ編者なんですから、より詳しく書いたと考えるのが当然です。
『世宗実録地理志』と『新筯東國輿地勝覧』は同じような地誌ですが、別の書ですから書き方・内容が違うのは当然ではないでしょうか。
>二日可到も、本土でなくお互いだと考えるのですか?
No.16155 で述べたように、『新筯東國輿地勝覧』欝陵島記事の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」で、本土からの距離を明記した部分は「風便則二日可到」と考えています。
>接近した海上から強く印象にのこるのは、まず断崖絶壁です。それを書かずに、樹木や渚のことを書くのは、変ですね。
欝陵島の海岸を、『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島地誌」では、「自稱壬辰之亂俘」の僧は「皆壁立萬仞」と語り、yabutarou01さんが紹介された(No.16180)『臥遊録』「蔚陵島説」では、「四面皆蒼岩鐵壁」と書いていますが、何を書くかは人それぞれによって異なるでしょう。
>私の想像は、古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島が直近にあるので、これに比定して于山島をあてたのだと思います。獨島を見て于山島だと考えた人も居る可能性はありますが、普通は見えませんので、近傍の島を比定してしまったのだと考えます。
同感です。私の言いたかったのは正に、「古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島(竹嶼)が直近にあるので、これに比定して于山島をあてた」人や、「獨島を見て于山島だと考えた人も居る」ということです。そして『地理志』の「二島相去(距)- -」は後者の見解を記したものと思います。husenoyajiさん有難うございました。
ご意見を有難うございます。少し理解し難いところもありますが、私なりの理解でお答えいたします。
>>『世宗実録地理志』では、「相」を本土からの距離をしめすときに使う必要はないようです。それにもかかわらず、「二島相去不遠風日芿明則可望見」とわざわざ「相」を入れたのは、「二島(于山と武陵)はお互いに相去ること遠くなく、風日清明ならば望み見ることができる」と、二島の間だということを明確に示すため、「相」を使ったと思います。
>思うのは自由ですが、積極的根拠は陸地をが省かれているというだけですよね。相去るというだけで、距離をしめすのではないですか。
「相」は「お互いに」の意味ですから、「二島相去不遠」は、二島(于山と武陵)はお互いに去ることが遠くない、即ち、「相去る」は二島の間の距離を示し、二島と本土の間の距離ではない、と解釈します。『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」には、「二島在縣正東海中」とありますが、Am_I_AHO_1stさんが言われたように(Nos.16158, 16164)、二島が蔚珍縣の東の海中に在るということを示しているだけで、二島と本土の間の距離を示すとの積極的根拠は無いように思います。さらに『高麗史地理志』では、欝陵島は、「在縣正東海中」として一島説により詳しく説明した後に、「一云于山武陵本二島相距不遠」は一説として末尾に挿入されています。従ってこれから、二島と本土の間の距離を示すとは読めないでしょう(No.16154)。
>私は、世宗実録と、東國輿地勝覧をワンセットで考えています。なぜなら、AHOさんにご教示いただいたところでは、編者が同一人物なんです。三峯島探検のあとに、いわば決定打として、出たのが東國輿地勝覧なんです。
『世宗実録地理志』は1424年に編纂が開始され1454年に完成しました。一方、『東國輿地勝覧』は1481年に完成しましたが、これは伝わらず、現存するのは1531年版です(内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社, 2007)。「編者が同一人物」?
>相を二島がお互いだとすると、東國輿地勝覧では海上からだとするのは矛盾です。同じ編者なんですから、より詳しく書いたと考えるのが当然です。
『世宗実録地理志』と『新筯東國輿地勝覧』は同じような地誌ですが、別の書ですから書き方・内容が違うのは当然ではないでしょうか。
>二日可到も、本土でなくお互いだと考えるのですか?
No.16155 で述べたように、『新筯東國輿地勝覧』欝陵島記事の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」で、本土からの距離を明記した部分は「風便則二日可到」と考えています。
>接近した海上から強く印象にのこるのは、まず断崖絶壁です。それを書かずに、樹木や渚のことを書くのは、変ですね。
欝陵島の海岸を、『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島地誌」では、「自稱壬辰之亂俘」の僧は「皆壁立萬仞」と語り、yabutarou01さんが紹介された(No.16180)『臥遊録』「蔚陵島説」では、「四面皆蒼岩鐵壁」と書いていますが、何を書くかは人それぞれによって異なるでしょう。
>私の想像は、古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島が直近にあるので、これに比定して于山島をあてたのだと思います。獨島を見て于山島だと考えた人も居る可能性はありますが、普通は見えませんので、近傍の島を比定してしまったのだと考えます。
同感です。私の言いたかったのは正に、「古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島(竹嶼)が直近にあるので、これに比定して于山島をあてた」人や、「獨島を見て于山島だと考えた人も居る」ということです。そして『地理志』の「二島相去(距)- -」は後者の見解を記したものと思います。husenoyajiさん有難うございました。
これは メッセージ 16179 (husenoyaji さん)への返信です.
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