Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/31 02:22 投稿番号: [16180 / 18519]
ararenotomoさん
遅くなりましたが回答いたします。
私は基本的にメッセージ 16127 のですでに結論が出ていると考えます。
メッセージ 16127 で私が使ったのは文章がいかに記述されたかその記述のされ方そのものから文意を読み取る、解釈する立場の人間の私情の混じる余地の少ない大変客観的な史料批判方法です。
ararenotomoさんがこの説明で納得していただけないのは残念ですし、私が自分の都合のよいような解釈をしているとお考えならば悲しくさえあります。。
『臥遊録』にはこの『欝陵島』の記事以外に『蔚陵島説』と題された記事があります。
「鵝溪蔚陵島在東海之中距海濱不知其幾百里也毎秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗則自嶺東望之如一后蒼烟撗抹於水天之間獨眞珠府與此島最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者亦翩翩渡海而來及至海濱」
『臥遊録』の『蔚陵島説』
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_00 9&aa15no=009&aa20no=24513_009_0027
『臥遊録』の『欝陵島』
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_00 9&aa15no=009&aa20no=24513_009_0038
「嶺東(=江原道の東側)から欝陵島を望むと蒼烟の如くであり、眞珠府(三陟)とこの島が最も対峙している(=最も近い?)故に召公臺(三陟にある高台の地名)に登ると木が生えているのがはっきりとわかるのでそれほど離れていないと判断できる」とあります。
この文章は規式のとおり朝鮮半島から見た欝陵島について記述しています。それに朝鮮半島から欝陵島を見ると木が見えると書かれています。もちろん見えるはずはありませんが当時は見えると信じられていたのは明らかです。
さらにいわゆる竹島一件が起きたときに朝鮮の役人は日本側の使者に対してこのように述べて欝陵島が朝鮮領であることを主張しました。
「本島峰巒樹木自陸地歴々望見而凡其山川紆曲地形濶狭民居遺址土物所産倶戴於我国輿地勝覧書歴代相伝事跡昭然」
『粛宗実録』20年8月13日/『通航一覧』巻137
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/takeshima-3.html
「欝陵島の峰巒樹木は陸地(朝鮮半島)よりはっきりと見えると『輿地勝覧』に書いてある(ゆえに欝陵島はわが国の地である)」とあります。
この文章は『輿地勝覧』の記述を朝鮮半島から鬱陵島を見ると木が見えると解釈しているのが明らかですよね。
ararenotomoさんは朝鮮半島から樹木が見えないので『新筯東國輿地勝覧』の「三峰岌ゲフタウ空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」そして『西溪雑録』『臥遊録』の「登高望之三峰岌嶪撑空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰攢逭岩壑呈露沙汀樹木歷歷可指」は朝鮮半島から見たものであるはずはない、したがって規式のルールは適用されていないとお考えのようです。
しかし朴世堂が生きたまさにその時期に書かれた『臥遊録』の『蔚陵島説』や『粛宗実録』の記事を考慮すれば朴世堂もまた朝鮮半島から鬱陵島を見ると木が見えると誤解していたと理解しなければむしろ不自然ではないでしょうか。
朴世堂に本当に朝鮮半島から鬱陵島の木が見えるのかどうか検証する手段があったとは思えません。
当時朝鮮半島から鬱陵島の木が見えるという情報があったのであればそれをそのまま信じるよりほかになかったのではないでしょうか。
人はだれでもその人が生きた時代の認識の限界から自由になることができません。
天動説を信じていたプトレマイオスが地動説を信じている現在の日本の高校生よりもおばかさんであるというわけではないのですよ。
>>許穆(1595〜1682)の『陟州誌』(1662)欝陵島記事には「欝陵或曰羽陵海中三峰岌ゲフ(山の下に業)南峯差卑海晴則山木森然可望山下皆白沙風便一日可渡云」と書かれています。ここでは「海晴則」とあり、近くの海上から見た欝陵島の景観の描写と思います。
朝鮮半島から欝陵島を見る時その間にある海が晴れていなければ見えないのは当然ではないでしょうか。
『陟州誌』の「海晴則」は『臥遊録』・『蔚陵島説』の「海氣澄朗則」と同じ表現であると
遅くなりましたが回答いたします。
私は基本的にメッセージ 16127 のですでに結論が出ていると考えます。
メッセージ 16127 で私が使ったのは文章がいかに記述されたかその記述のされ方そのものから文意を読み取る、解釈する立場の人間の私情の混じる余地の少ない大変客観的な史料批判方法です。
ararenotomoさんがこの説明で納得していただけないのは残念ですし、私が自分の都合のよいような解釈をしているとお考えならば悲しくさえあります。。
『臥遊録』にはこの『欝陵島』の記事以外に『蔚陵島説』と題された記事があります。
「鵝溪蔚陵島在東海之中距海濱不知其幾百里也毎秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗則自嶺東望之如一后蒼烟撗抹於水天之間獨眞珠府與此島最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者亦翩翩渡海而來及至海濱」
『臥遊録』の『蔚陵島説』
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_00 9&aa15no=009&aa20no=24513_009_0027
『臥遊録』の『欝陵島』
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_00 9&aa15no=009&aa20no=24513_009_0038
「嶺東(=江原道の東側)から欝陵島を望むと蒼烟の如くであり、眞珠府(三陟)とこの島が最も対峙している(=最も近い?)故に召公臺(三陟にある高台の地名)に登ると木が生えているのがはっきりとわかるのでそれほど離れていないと判断できる」とあります。
この文章は規式のとおり朝鮮半島から見た欝陵島について記述しています。それに朝鮮半島から欝陵島を見ると木が見えると書かれています。もちろん見えるはずはありませんが当時は見えると信じられていたのは明らかです。
さらにいわゆる竹島一件が起きたときに朝鮮の役人は日本側の使者に対してこのように述べて欝陵島が朝鮮領であることを主張しました。
「本島峰巒樹木自陸地歴々望見而凡其山川紆曲地形濶狭民居遺址土物所産倶戴於我国輿地勝覧書歴代相伝事跡昭然」
『粛宗実録』20年8月13日/『通航一覧』巻137
http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/takeshima-3.html
「欝陵島の峰巒樹木は陸地(朝鮮半島)よりはっきりと見えると『輿地勝覧』に書いてある(ゆえに欝陵島はわが国の地である)」とあります。
この文章は『輿地勝覧』の記述を朝鮮半島から鬱陵島を見ると木が見えると解釈しているのが明らかですよね。
ararenotomoさんは朝鮮半島から樹木が見えないので『新筯東國輿地勝覧』の「三峰岌ゲフタウ空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」そして『西溪雑録』『臥遊録』の「登高望之三峰岌嶪撑空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰攢逭岩壑呈露沙汀樹木歷歷可指」は朝鮮半島から見たものであるはずはない、したがって規式のルールは適用されていないとお考えのようです。
しかし朴世堂が生きたまさにその時期に書かれた『臥遊録』の『蔚陵島説』や『粛宗実録』の記事を考慮すれば朴世堂もまた朝鮮半島から鬱陵島を見ると木が見えると誤解していたと理解しなければむしろ不自然ではないでしょうか。
朴世堂に本当に朝鮮半島から鬱陵島の木が見えるのかどうか検証する手段があったとは思えません。
当時朝鮮半島から鬱陵島の木が見えるという情報があったのであればそれをそのまま信じるよりほかになかったのではないでしょうか。
人はだれでもその人が生きた時代の認識の限界から自由になることができません。
天動説を信じていたプトレマイオスが地動説を信じている現在の日本の高校生よりもおばかさんであるというわけではないのですよ。
>>許穆(1595〜1682)の『陟州誌』(1662)欝陵島記事には「欝陵或曰羽陵海中三峰岌ゲフ(山の下に業)南峯差卑海晴則山木森然可望山下皆白沙風便一日可渡云」と書かれています。ここでは「海晴則」とあり、近くの海上から見た欝陵島の景観の描写と思います。
朝鮮半島から欝陵島を見る時その間にある海が晴れていなければ見えないのは当然ではないでしょうか。
『陟州誌』の「海晴則」は『臥遊録』・『蔚陵島説』の「海氣澄朗則」と同じ表現であると
これは メッセージ 16155 (ararenotomo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16180.html