半月城氏、『大韓地誌』に狂喜?
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/02/07 14:50 投稿番号: [16300 / 18519]
独島領有主張の不思議さは、官撰史料から「朝鮮が独島を領有していた」事実を全く認められないにも関わらず、「朝鮮が独島を領有していた」と強弁していることです。この様な根拠の無い主張でも、外務省は「日本国政府は、韓国側がその主張を各種の資料に基き立証しようと試みていることに対しては、これを歓迎するものである。」と受け止めていたのです。
しかし、無いものは証明のしようがないのです。そこで、
「光武5年(明治34=1901)刊の玄采著『大韓地誌』(光武9年 2冊本として再刊)には韓国領土の東限を東経130度35分としており、竹島は含まれていない。著者は学部職員であり、学部編しゅう局長の序もあるので当時の権威ある著書とみられる。」
と反論しました。
玄采が、古今東西の史料を検討した上で、鬱陵島を示す「東経130度35分」を韓国領土の東限としたことが明らかです。玄采は、輿地勝覧以後の官撰史料を検討したが、鬱陵島以東に朝鮮領は記されていなかったと言っているのです。
これに対して、 [ No.16288 ]の半月城さんは、「日本外務省は官撰書でもなければ官製図書でもない一般書の『大韓地誌』などを引用して韓国に対する反論の4本柱のひとつに据えました。」と主張します。しかし、存在しないことは証明の方法が無いのです。そこで、存在しないという研究成果を証拠として自説の根拠とするのは、当然の手法です。まぁ、こういう反論しか出来ないということが、朝鮮領の東限が鬱陵島であることの証明であるとも言えます。
又、「世の君子がそれを継いで自分の過誤を正して編輯して至当なものに仕上げるなら、これに勝る幸せはない。」とあと書があるから、最終判断ではない旨の主張をします。
1900年に勅令41号が発布され、1906年には沈興沢による「独島領地之説」事件があります。これらを受けて、1907年に『大韓新地誌』が発表されますが、朝鮮の東限に変化はありませんでした。即ち、世の君子が玄采に過誤無しと認めたことを意味します。
しかし、無いものは証明のしようがないのです。そこで、
「光武5年(明治34=1901)刊の玄采著『大韓地誌』(光武9年 2冊本として再刊)には韓国領土の東限を東経130度35分としており、竹島は含まれていない。著者は学部職員であり、学部編しゅう局長の序もあるので当時の権威ある著書とみられる。」
と反論しました。
玄采が、古今東西の史料を検討した上で、鬱陵島を示す「東経130度35分」を韓国領土の東限としたことが明らかです。玄采は、輿地勝覧以後の官撰史料を検討したが、鬱陵島以東に朝鮮領は記されていなかったと言っているのです。
これに対して、 [ No.16288 ]の半月城さんは、「日本外務省は官撰書でもなければ官製図書でもない一般書の『大韓地誌』などを引用して韓国に対する反論の4本柱のひとつに据えました。」と主張します。しかし、存在しないことは証明の方法が無いのです。そこで、存在しないという研究成果を証拠として自説の根拠とするのは、当然の手法です。まぁ、こういう反論しか出来ないということが、朝鮮領の東限が鬱陵島であることの証明であるとも言えます。
又、「世の君子がそれを継いで自分の過誤を正して編輯して至当なものに仕上げるなら、これに勝る幸せはない。」とあと書があるから、最終判断ではない旨の主張をします。
1900年に勅令41号が発布され、1906年には沈興沢による「独島領地之説」事件があります。これらを受けて、1907年に『大韓新地誌』が発表されますが、朝鮮の東限に変化はありませんでした。即ち、世の君子が玄采に過誤無しと認めたことを意味します。
これは メッセージ 16287 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16300.html