竹島

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Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/04 05:29 投稿番号: [16088 / 18519]
半月城さんへ

  >>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。

  半月城さんは長々と文章をお書きになりましたが私と下條氏が提示した疑問に全くお答えになっていません。半月城さんは建設的な議論をするお気持ちがあるのでしょうか。最近2ちゃんねるにあれこれ書き込んでいらっしゃるようですが、疑問にちゃんとお答えにならないと半月城さんの意図とは逆の結果になってしまいますよ。。
  そんなわけで半月城さんには改めて質問にお答えいただきたいと思います。
 

  「云盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」
私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、半月城さんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、

「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」

という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。

 
  「中宗実録」   中宗 六年(1511年) 5月 21日の項に

   「謂臣曰, 寧海居軍官朴自範云, 江原道武陵島, 與此相望, 夜有火光, 疑是倭船隱接, 或我國逋亡人潛寓。」

とあるのを見れば「去此」の「此」が朝鮮半島(寧海) を指していて世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」の「相去不遠」は「于山と欝陵はお互いに遠くなく」ではなく「(蔚珍) 県と于山欝陵二島はお互いに遠くなく」であって、朝鮮半島から鬱陵島が見えると理解すべきではないでしょうか。

Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/03 23:23 投稿番号: [16087 / 18519]
>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり

そんな認識はありません。
相去るは半島からの話しであるのがフォーマットですから、此処を去ることと
入れなくても二島が半島から遠くないと読むのが基本です。
この掲示板でその話しは出てますよ。

仮に二島間の関係なら、渚や木が見えるということが決定的に矛盾します。
100mしか離れて無くても、天気が雨なら見えません。

すでに何度も出たことですが、rom専の方のために書いておきます。

すくなくともそれらの記述を読んだ当時の人間の解釈は地図の位置です。

「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 22:10 投稿番号: [16086 / 18519]
   両書の前後関係はともかく、ここで重要なのは「欝陵島」の記述が性質も時代も違う二書に記述されたことです。これは取りも直さず、その話が17世紀半ば以降は広く知れわたっていたことを意味します。
   しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。

(注1)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?>
http://www.han.org/a/half-moon/hm064.html#No.412
(注2)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1969、P456
(注3)韓国「王室図書館蔵書閣デジタルアーカイブ」の「臥遊録解題」によれば、『臥遊録』は2種類が知られており、「欝陵島」が記載されている蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの史料のみが掲載されているとのこと。
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/HajeView.jsp?aa10up=kh2_je_a_vsu_24513_0 00&keywords=%E8%87%A5%E9%81%8A%E9%8C%84%20AA50
(注4)朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)
  朝鮮中期の学者、文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は播南。1660(顕宗1)年、増広文科に首席で及第し、成均館典籍に叙授された後、兵曹正言などを経て、1664年に副修撰、黄海道の暗行御使になった。1667年に修撰、翌年に吏曹佐郎になったが、就任せずに杖刑を受けた後、同年に冬至使書状官として清を往復した。
  その後、礼曹、刑曹の参議を勤め、1694(粛宗20)年の甲戌喚局以後に少論が重用されるや、承旨に特進し、翌年、工曹判書を経て吏曹判書を勤めた。1703年に判中樞府事として耆老所に入ったが、『思辨録』を書いて朱子学を批判し、独自の見解を発表したため、斯文乱賊の烙印を押されて官職を剥奪され、配流途中に玉果で死ぬ。
・ ・・・
  実学派の先駆的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点から出発したが、自主意識が強く、自由奔放な独創性を帯びている。

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
(追記)(1)に下記の「   」を追加します。
その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。「その僧が欝陵島へ行ったとする丙午年は、僧の年令から考えて 1606年と思われます。」
また、前回の書き込みで「購読」は「講読」の間違いでした。また「韓文」は間違いではないので、念のため。

Re: 半島から鬱陵島の2つの頂が

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/03 22:08 投稿番号: [16085 / 18519]
なるほど、将に三峰島ですね。
真ん中の峰と右の峰で2つの島に見える以外に、
一番低い左端の峰が一つ、真ん中と一番右の二峰があわせて一つ、
その間の谷が水平線に隠れるという可能性もありますね。

う〜。半島から見た写真がほしい。

「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 21:50 投稿番号: [16084 / 18519]
   弥左衛門は歳役を納めていたので、やはり竹島(欝陵島)で公認の事業をしていたようです。しかも、かれは公儀から御朱印をもらっていたようで、中村栄孝は「柚谷記に曰、磯竹島は、昔、鷺坂弥左衛門父子、渡此島 陰(ママ)居、自公儀以御朱印」と紹介しました(注2)。
   磯竹島に倭人が入り込んでいたことは朝鮮史書『芝峰類説』にもあり、「壬辰變後 人有往見者 亦被倭焚掠 無復人煙 近聞倭奴占據 礒竹島 或謂礒竹 即蔚陵島也」と記されました。すなわち、壬辰の変以後、倭人が礒竹島(蔚陵島)を占拠したとされました。これは弥左衛門親子の居住をさすものと思われます。

   そうした実績に立ち、対馬は欝陵島を自国領にすべく、1614年、朝鮮に対して竹島(欝陵島)は日本領であると言いだしました。これを『通航一覧』は「宗對馬守 義智より朝鮮國東莱府使に書を贈りて、竹島は日本屬島なるよしを諭せしに、彼許さず、よて猶使書往復に及ぶ」と記しました。ただし、同書はこれを慶長17(1612)年のこととして書き、注で『朝鮮通交大紀』では慶長19年のこととしていると記しました。
   これに対応する記事が『光海君日記』1614年9月2日条に見えるので、対馬の申し入れは慶長19年が正しいようです。朝鮮は対馬の主張をもちろん受けいれるはずはありません。東莱府使の尹守謙は「いわゆる磯竹島は、これ我国の欝陵島なり・・・・・貴国の我国に来往するは、ただ釜山一路を除くのほか、皆海賊をもって論断せり」と回答したことが『通航一覧』巻137に記されました。

   以上のように、弥左衛門親子は慶長年間に豊臣秀吉や対馬国の公認のもとに竹島(欝陵島)で活動していたことは史料からも裏付けられます。したがって、その時に『西渓雑録』に登場する僧が対馬から弥左衛門親子にしたがって欝陵島へ渡航したことは充分あり得ます。僧は日本人と行動した時のことをこう語りました。

  「(欝陵島で)倭人が竹を伐り、薬草を採っていた。自分が船に残り留守番をしていたところ、横の船に同じような俘虜が七人いたので、夜、一緒に語り合った。ちょうど暁どきに船を出して以来、日が申時(午後3-5時)にはもう寧海の地に着いたと云う」(韓国人研究者訳)

   この伝聞によると、僧は俘虜7人とともに欝陵島から寧海へ行ったとされますが、それが可能かどうか疑わしいところです。俘虜の送還は対馬から朝鮮の東莱府へなされているので、俘虜を欝陵島経由で送ることは考えられません。ただ、俘虜たちが欝陵島から逃げて寧海へ行ったとするなら、まだ少しは可能性があるかもしれません。
   いずれにせよ、僧の話には多少の脚色があるようです。ま、僧が俘虜として日本へ行った話だけは信じられるとしても、欝陵島から寧海へ行ったという話は、実は倭人に随った時のことではなく、別な機会に朝鮮から往復していたのかも知れません。
   そこで思い当たるのは、弥左衛門親子が「潜商」であった事実です。彼らは欝陵島で単に木の伐採だけを行なっていたのではなく、交易の途絶えた朝鮮とは欝陵島を中継地点にして密貿易をおこなっていたのではないかと想像されます。

   ところで、話はかわりますが、下條正男氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである」としていますが、朴世堂が僧から直接話を聞いたかどうかは疑問です。
   ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は同書だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』のほうが古いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱っており、その中に「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成していたと見られます(注3)。
   それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載せているので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。したがって、朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本があったと見られます。朴世堂の経歴からすると(注4)、そのころの朴世堂は種々の情報を容易に得られる立場にあったようです。そのために「蔚陵島事蹟」の転載も可能だったと思われます。
(つづく)

「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 21:47 投稿番号: [16083 / 18519]
   半月城です。
  『西渓雑録』に書かれた僧の記事はなかなか興味を引きます。特に僧が「壬辰の乱で日本へ俘虜として入り、丙午年に倭船にしたがって欝陵島へ至った」とするくだりは歴史の生き証人としての証言だけに注目されます。
   僧は欝陵島の情景を詳細に語っていることなどから、上記の一節に関するかぎり、ほぼ信頼できそうです。これが史書からも裏付けられるのかどうか考察したいと思います。

   まず、壬辰の乱とはいうまでもなく、1592年に豊臣秀吉が朝鮮を侵略した無謀な文禄の役を指しますが、日本軍は慶長の役とあわせて、朝鮮人を5万人ないし7万人も日本へ拉致しました。薩摩焼の沈寿官さんや、戦時中の東郷外相などはそうした子孫の一人として有名ですが、拉致された人びとのほとんどは日本に残りました(注1)。
   それも無理ありません。何しろ戦後処理の遅れから、被虜を連れ戻す公式の刷還使が日本へ派遣されたのが、なんと10年も経た1607年であり、その時は被虜本人もほとんどが日本に定着して帰国を望まなかったのでした。また、被虜の主人や藩も被虜が帰国するのをほとんど望まなかったのでした。

   しかし、対馬だけは別でした。対馬は侵略戦争により朝鮮との交易を完全に断たれたので、糧道を断たれたも同然でした。良田の少ない対馬は、魏志倭人伝の時代から交易が命でした。宗義智は朝鮮との交易を再開すべく懸命な努力をしました。その一環として、朝鮮へ誠意を示すべく、被虜人の送還を積極的に行ないました。
   1600年、対馬にいた被虜 300余名、翌年には250名を朝鮮へ送り届けましたが、これらの努力が功を奏し、朝鮮もやや軟化し始めました。05年に朝鮮から講和のさきがけとして松運大師を招き、徳川家康と対面させるまでにこぎつけました。松運大師は加藤清正と戦った義兵僧でした。
   その時の話し合いで被虜の送還が決まり、対馬はさっそく手始めに被虜 1200人を送還しました。その後も、対馬は被虜人を積極的に各地から集めるのに躍起でした。その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。

   一方、対馬と欝陵島とのかかわりですが、古くは室町時代 1407年にさかのぼります。宗貞茂は、朝鮮の太宗が欝陵島を空島にしたことをかぎつけたのか、朝鮮に土産物を献上し、倭寇の被虜を送還して、茂陵島(欝陵島)に対馬島民を移住させたいと申し出ました。これに対して太宗は、それを許すと、幕府と対立する謀反人を入れることになるという理由で許可しませんでした。

   その後、対馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の先導をになうのですが、そのころ、対馬から欝陵島へ渡航していた人がいました。それは鷺坂(磯竹)弥左衛門・仁右衛門親子ですが、幕府の『通航一覧』によれば、元和6(1620)年に竹島(欝陵島)で潜商の罪で捕えられました。ただし『通航一覧』は続けて『対州編稔略』を引用し「潜商の事とも定めがたく」と記しました。どうやら親子の活動は公認の事業であったようです。
   関連記事は、1617年に朝鮮使節の従事官として来日した李景稷の旅行記である『李石門扶桑録』にも記されました。それについて中村栄孝はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  (『李石門扶桑録』)記事のなかで、対馬の老臣 柳川調興が、伏見で、土井大炊助利勝と朝鮮のことを語ったさい、利勝から、磯竹弥左衛門のことをのぼらせたとあるのは、注目すべきところである。秀吉の許可をえて、「礒竹島」へ渡り、材木などを取ってかえり、その縁故で「礒竹弥左衛門」とよばれた日本人があった。かれは、その後、この島への渡航によって生活し、歳役を納めていたというのである(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

Re: 半島から鬱陵島の2つの頂が

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/01/03 21:31 投稿番号: [16082 / 18519]
すでにご存知かも知れませんが。
http://www.ullungdo.com/ullung/image/summary1.jpg

光の具合から見て、おそらく西側から撮影されとものと思います。

半島から鬱陵島の2つの頂が見えるのでは?

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/03 20:41 投稿番号: [16081 / 18519]
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/dd/UlleungDo.jpg

この写真は南南西あたりから鳥観した鬱陵島と思われる。
この形状をみて、左の若干低い頂と右の高い頂だけが見えて、
他が水平線に隠れたため、2つの島に見える場所が半島にあるんじゃないかと思った。

カシミールでNASAの数値地図データを入れてみたんだけど、
イマイチ半島から見える鬱陵島の形状が再現できない。

半島から見た鬱陵島の写真はないのかな。

Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/03 14:09 投稿番号: [16080 / 18519]
続きです。

  >>于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。

『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。

「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」

  そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
  しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがありません。
  それに朴世堂は「麋鹿熊シヤウ徃徃越海出來」とありえないことを書いているわけですから実際には見えない島を見えると書いたとしても不思議ではありません。


  >>朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。

  「日本人と思しき」とあります。ararenotomoさんの話を総合すると朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧侶は鬱陵島が物産豊富な島と聞き、1666年大谷家の船に乗って欝陵島に渡りあわびやあしかを捕まえて、日本に戻る途中で遭難して朝鮮半島に漂着し、日本に帰らずに韓国に帰化し韓国語を覚えて僧侶として活動し、さらに欝陵島とは何回も往来し欝陵島の自然地理に関して詳しいにもかかわらず、朴世堂に欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っていると有りもない話を語ったということになります。。。
  ararenotomoさん自身も No.16054 で「非常に大胆な推測です」とお書きになっているようにこの僧侶の冒険譚には好意的に表現しても信憑性が高くないと思います。私は確実な根拠からは確実な結論を導くことはできるが、信憑性の薄い根拠からは信憑性の薄い結論しか導きだすことができないと考えます。にもかかわらずararenotomoさんはこのような信憑性の薄い根拠から于山島が竹島なのは客観的な事実であるかのような結論を導き出してしまいました。これはいかがなものでしょうか。

Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/03 13:52 投稿番号: [16079 / 18519]
ararenotomoさん


新年早々ご苦労様です。ararenotomoさんはあくまでも于山島は竹島(独島)であると主張されていますが、ararenotomoさんの主張にはいくつか疑問があります。


  >>下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。

  確かに「来日」という単語は存在しますが、「以来」という単語の方がよりメジャーですから「發船以來・日」と分けるべきか「發船以・來日」と分けるべきか私にはよく分かりません。いずれにせよ寧海と鬱陵島との間が近いということであって、半日か一日半かは本質的な議論ではありませんね。


  >>朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。

  ararenotomoさんは欝陵島の高所から鬱陵島の低所にある「衆峰&#25890;青岩壑呈露沙汀樹木」を見たと解釈されていますが、私はそうは思いません。「風恬浪靜則   可指」(風がおだやかで波が静かならば   見える)という文言があります。これは水平線の間際に鬱陵島があるので波が高いと波が邪魔で見えないということであり、海を隔てたどこかから鬱陵島を見たとしか解釈できません。欝陵島の高所から眼下の「衆峰&#25890;青岩壑呈露沙汀樹木」を見たのであれば波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。


  >>朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません

  私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、

「盖二島去此不甚遠一&#39103;風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」

の部分は

「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」

という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。

Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/02 20:23 投稿番号: [16078 / 18519]
訂正します。

>おそらく韓国の学者でさえ、「大韓輿地図」における欝陵島と于山島の位置関係を「ほぼ正しい位置関係」とする人は、少数派ではないでしょうか。

韓国の学者の間では、「大韓輿地図」における欝陵島と于山島の位置関係を「ほぼ正しい位置関係」とするのが、大勢です。少数派ではありません。

なお、半月城さんも言及していたと思いますが、大韓輿地図も大韓全図も、鬱陵島と于山島に関してはほとんど同様の描き方です。

以下の画像をご参考ください。上から三番目、左が大韓全図、右が大韓輿地図です。これが、堀和生氏によれば、古地図としては鬱陵島と于山島がほぼ正しい位置関係ということになるそうです。

個人的には、古地図として正しい位置で書かれたのは鬱陵島だけで、于山島=独島は、規定不能だと思いますが(むしろ竹嶼としてであれば正しい位置で描いています)。対馬や済州島、その他の近隣の島などと比較して、そう言わざるを得ません。

ttp://dokdo.naezip.net/Dokdo/Dokdo12f.htm

やっぱり・・・・

投稿者: boshind 投稿日時: 2008/01/02 15:13 投稿番号: [16077 / 18519]
反論は   見ない書かない   聞こえない...nida

Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/02 00:27 投稿番号: [16076 / 18519]
部分的な話ですが、堀和生氏の論文から半月城さんは、以下の部分を引用しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  19世紀末、朝鮮政府が欝陵島の開発に着手すると、于山島への認識はより正確になった。その時点の朝鮮側の認識を示すものが、図1に掲げた大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年 奎章閣所蔵)であり、古地図としては欝陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画がかれている(注4)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
正直な所、この一文で、堀和生氏の論文の価値は、半分以下に落ちていると言ってもいいほどに、無茶な記述です。

引用していらっしゃる所を見ると、半月城さんはこの記述に一定の価値を見出しているのかもしれませんが、それはひいきの引き倒しというものでしょう。

大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年 奎章閣所蔵)を「古地図としては欝陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画がかれている」などと言える神経を私は疑います。ましてや、堀氏は学者です。

おそらく韓国の学者でさえ、「大韓輿地図」における欝陵島と于山島の位置関係を「ほぼ正しい位置関係」とする人は、少数派ではないでしょうか。

Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/02 00:08 投稿番号: [16075 / 18519]
横から失礼いたします。

>次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。

鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。

そうでもないのでしょうか。

ちなみに、朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。文章がどう読めるか。その一点が問題かと。

Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/01 23:06 投稿番号: [16074 / 18519]
私は、yabutarou01さんのご意見に賛同する立場です。

半月城さんご指摘の下條氏の記述については、下條氏の文章の冒頭にあるように、朝鮮日報の記事を念頭においたものでしょうから、やや慎重さに欠けた点があったように感じます。勇み足と言えば勇み足かと。

ただし、下條氏が述べんとしている内容自体は、さほどの違和感はありません。柳氏が「韓国側の旧来の説を繰り返すために、朴世堂の『西渓雑録』を誤読して引用した」という理解。

柳氏は「于山島は地勢が低く、天気が非常に澄んでいなかったり最頂上に上らなければ見えない」という部分の視点を鬱陵島に置いています。これはすでにyabutarou01さんのご指摘の通り、いささか疑問です。

柳氏の読解は本当に正しいものでしょうか。

なお、海洋水産動向の柳教授の論文は、ネット(PDF)で原文が読めます。
ttp://library.kmi.re.kr/w03_01e.asp?gs_DType=s&gs_DControlNo=2053&gs_SelYears=2007&gs_Years=2007

『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/01 22:50 投稿番号: [16073 / 18519]
yabutarou01さん

『西溪雑録』についての説明を有難うございます。

『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。

yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。

朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。

于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。

朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。

于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。

朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。

Re

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:42 投稿番号: [16072 / 18519]
No.16071の投稿は文字化けしてしまいました。

削除して下さい。大変失礼しました。

〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々噐表\x8Duは防\x8Du

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:26 投稿番号: [16071 / 18519]
yabutarou01さん

〆廉露\xEBj\xE5h〇についての\xD5h苧を嗤\xEByうございます。

〆廉露\xEBj\xE5h〇についてyabutarou01さんは肝に\x98\x94に\x95琛ǂ譴泙靴拭\xA3
﹅仝囑匯筆徭\xB7Q班浬岻\x81y々參週は匯粁和げて\x95琛ǂ譴討い董△海譴茲蠻阿⓱称弔任△辰討海賻埆気⓱称弔砲弔い討倫a怎\xD5h苧であることが蛍かります。
﹅云猟にあたる\xB9w侭をよく\xD5iむと1530定撹羨の〆仟\x89\x88\x96|忽\xDD\x9B仇\x84搜E〇とほとんど揖じ坪否であって\xDF`っているのは〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では仝噐表\x8Du\xF4d相\x8Du匯堝冷相匯堝嚼相屈\x8Du壓\xB1h屎\x96|今嶄眉\x8Do式\x98I嫺腎掴\x8Do敏碓\xEFL晩賠苧\x84t\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As?辛\xD2\x8A\xEFL宴\x84t屈晩辛欺匯\xD5h孤表\xF4d相云匯\x8Du仇圭為戦々にあたる何蛍が、〆廉露\xEBj\xE5h〇では仝\xF4d相\x8Du\xF4d相賜垰冷相呀垰嚼相鞠互李岻眉桁瓰\x98I嚇腎遇掴桁不詰晩兜竃\x95r\xEFL厄惜\xECo\x84t\xD0\桁\x94\x80\xECi冫柆格其紐諭\x98篦\xBE\x9As\x9As辛峺々になっている侭だけです。つまり〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では噐表\x8Duと\xF4d相\x8Duについて屈\x8Du\xD5hと匯\x8Du\xD5hとを\x81穩\x9Bしていたのが〆廉露\xEBj\xE5h〇では匯\x8Du\xD5hのみに\x89篁唎靴討い襪里❹錣ǂ蠅泙后\xA3

yabutarou01さんが峺姜されたように、〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々の恷兜の何蛍は〆仟\x89\x88\x96|\x87癭\x9B仇\x84搜E〇とほとんど揖じ坪否で、\xDF`っているのは丹\xEE^の\x99鸛\xEA\x8Duの\xD5h苧です。個佩して\x95琛ǂ譴拭\xB8\x87L囑匯筆徭\xB7Q班浬岻\x81y拳々參週の猟嫗は、念の云猟についての\xD1a怎\xD5h苧というよりは、鏡羨の嫗として筆からの\x81斬\x84を\xD3\x9B\xE5hしたものと房います↙No.16065⇄。そして、酉弊銘は筆あるいは\x99鸛\xEA\x8Du局砂宀から\xC2\x84いた\xD4\x92によって、〆仟\x89\x88\x96|\x87癭\x9B仇\x84搜E〇の\x95畸舛△襪い浪師鋿_な\xD3\x9B並を\xD3\x86屎しました。

酉弊銘は、〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々の丹\xEE^で、仝\x99鸛\xEA - - 鞠互李岻々と互く鞠り岻↙\x99鸛\xEA\x8Du⇄を李めば仝眉桁キフゲフ↙キフ表の和に式とゲフ表の和に\x98I⦿表の\xEA\x93しく互き嘆⇄- - 掴桁不詰々と、互侭から\xD2\x8Aた\x99鸛\xEA\x8Duの仇侘を\xD5h苧しています。肝に、仝晩兜竃\x95r\xEFL厄惜\xECo\x84t\xD0\桁\x94e楳冫柆格其紐諭\x98篦\xBE\x9As\x9As辛峺々と、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇の仝\xEFL晩賠苧\x84t\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As\x9As辛\xD2\x8A々の何蛍を\xD4\x94峰し、恷瘁に\x99鸛\xEA\x8Duの互侭からは仝紐諭\x98篦勝垢❶\xB8\x9As\x9As辛峺々峺さして幣せるほど苧らかに\xD2\x8Aえる、と\xBDYんでいます。この恷瘁の何蛍は〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇の仝\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As\x9As辛\xD2\x8A々に屢輝しますが、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇は採\x84Iから\xD2\x8Aたかを\x95琛ǂ覆ǂ辰燭里如△海譴漏婷r云輿から\xD2\x8Aた\x99鸛\xEA\x8Duの徊との盾\xE1\x8Bも伏れました。しかし140kmも\xEBxれた云輿から、\x99鸛\xEA\x8Duの\x8Do\xEE^の\x98篦召簓集硑良割召\xAC\x9As\x9Asと\xD2\x8Aえるはずはありません。匯圭、〆廉露\xEBj\xE5h〇の\x99鸛\xEA\x8Du仇\x84櫃林\x9B峰は\x98Oめて醤悶議で、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇に曳べ、はるかに措く尖盾できます。

噐表\x8Duについては〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では仝孤表\x99鸛蟇紹\xBB\x8Du々とする匯\x8Du\xD5hも\x81穩\x9Bしております。しかし、酉弊銘は\x99鸛\xEA\x8Du局砂宀の\xD4\x92を\xC2\x84き、泳らは孤表\x8Duと\x99鸛\xEA\x8Duを\x84e?の\x8Duと\xD5J\xD7Rしていることを岑り、仝匯\xD5h孤表\x99鸛蟇紹\xBB\x8Du々を嵭茅しました。また、瘁でもっと\xD4\x94しく峰べているので、仝屈\x8Du壓\xBFh屎\x96|今嶄々や仝\xEFL宴\x84t屈晩辛欺々も嵭茅しました。

酉弊銘は、筆からの\x81斬\x84として、噐表\x8Duを仝堝固屈\x8Du↙噐表と\x99鸛蝪Ñゴ鵬刺栝h匯ハン↙\xF1R陶に\xEFL⇄\xEFL辛崛噐表\x8Du\x84蘖芦子鮑\xA3\x9A\xE2\x98O\x9C[席音鞠恷互\xED\x94\x84t音辛\xD2\x8A々とさらに\xD4\x94しく\xD3\x9B峰しました。この\xD3\x9B峰からは、噐表\x8Duは晩云繁が各する防\x8Duを峺しているとしか深えようがありません↙No.16054⇄。

噐表\x8Duは\x99鸛\xEA\x8Duの\x96|2 kmにある幢\x8EZ↙Chukdo⇄を峺すこともあります。しかし幢\x8EZは、劾\xF5r云輿からは畠く\xD2\x8Aえず、\x99鸛\xEA\x8Duからは、爺\x9A櫃ⅲ燃◀砲茲\xA4\x95rでなくとも、また、\x98妨澆臨遒盡澆い箸海蹐泙乃任蕕覆唎箸癲⊖\x8Aることの竃栖る\x8Duですから、この噐表\x8Duが幢\x8EZを燕しているとは房えません。

酉弊銘は謹くの繁から\x99鸛\xEA\x8Duの秤\x88鵑鮗唎瓩燭任靴腓Α◀修琳个波娜照砲繁爾靴①姑紐瞬\xAE\x81yの拳↙の徨\x8CO◦⇄々と徭各する筆をインフォ\xA9`マントとして恷も互く\xD4u\x81鈇掘◆採焠ɮj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々で匯嫗を護き掲械に\xD4\x94しく泳の\xD4\x92を\xD3\x9B\xE5hしたことを、寄\x89篥d龍侮く湖じました。

朴世堂「欝陵島」下條氏見解への異見

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:20 投稿番号: [16070 / 18519]
yabutarou01さん

yabutarou01さんが、下條氏の「半日の航程」とした解釈によって、欝陵島と寧海との距離を最初の「翌日」から「当日」に変更した経緯はよく分かりました。2ちゃんねらー自称漢文専攻の院生氏も「天將曉發船以來日纔ホ(日偏に甫:日暮れ)已到寧海地面」を「夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いた」と、初めは「翌日」と正しく訳しました。ただし後で、「「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。」と解釈しなおしたようです。しかし、太陽が出たとたん日付が替わるわけではありませんから、その日に着いたのなら、「以其日纔ホ(日偏に甫)已到 - -」と書くはずです。

下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。

下條氏は、朴世堂に欝陵島のことを話した僧侶は、「文禄の役で捕虜」となり、「丙午(1606年)の年、日本船で朝鮮に送還され、欝陵島を経由して半日で慶尚道の寧海に着岸していた。」としています。しかし私は、朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます(No.16054)。

朴世堂は「自稱壬辰之亂の俘」である僧から聞いた話を基に欝陵島のことを記しました。この僧は特に、欝陵島の自然地理に関して詳しいように見えます。恐らく欝陵島にかなりの長期間滞在し、欝陵島とは何回も往来していたと思われます(No.16054)。従って、yabutarou01さんが述べられたように、僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。ただし、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」は勇み足でしょう。これを除いて、朴世堂の記述は殆んど間違ってはいないと思います。

なお、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」に関して、前提の院生氏は、「「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。」としていますが、海洋島と見做せる欝陵島に大型哺乳類は棲んでいません。

下條氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文した」と書いています。朴世堂は、確かに下條氏が云われるように、『東國輿地勝覧』の記事に加えて僧侶や欝陵島渡航者の伝聞から『西溪雑録』「欝陵島」を書きました。その記事は当時としては出色の豊富な情報量を盛り込んでいるように見えます。そして朴世堂は、『新増東國輿地勝覧』の曖昧な記述を、もっと明瞭な表現に改めたことを、次に示します。

Re: 朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/30 01:50 投稿番号: [16069 / 18519]
半月城さんへ

  >>下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳されます。
すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきかも知れません。

どうか落ち着いて下さい。。半月城さんは重大な勘違いをされていますよ。下條氏が、

朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。

と翻訳した部分は朝鮮日報の記事をこのように訳したのではなくて自分で原文を読んで訳したもので間違いないですよ。下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と朝鮮日報には載っていない部分を引用されていますよ。「『東国輿地勝覧』の記事を基に」とあるのも原文を読まないと判断出来ません。「海洋水産動向」1250号を入手出来ていたのかどうかどうかは分かりませんが少なくとも『西溪雑録』と『臥遊録』のどちらかの原文を入手出来ていたのは間違いありません。
下條氏は自分の訳と朝鮮日報にある柳博士の訳を比較した上で、

柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である。

と判断されているのではないでしょうか。

  >>柳博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読みくだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。

下條氏は柳博士が「此」が寧海である事実を無視して訳したことを指摘されているのであって、柳博士が「去此」を読みくだしてないと判断されているわけではないと思いますよ。

  >>柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先刻承知済みでしょうが。

。。。   柳博士と半月城さんがまずなすべきは自説が正しくて下條氏の説が間違っていることを論証することではないでしょうか。

Re: 朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2007/12/30 00:52 投稿番号: [16068 / 18519]
  半月城さんの論<朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1〜3>にはいくつか疑問があります。


  まず半月城さんは、下條氏の指摘について、「下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした。」として下條氏が原典にあたっていないと断言しておられますが、下條氏の文章からは、彼が「海洋水産動向」1250号を読んだか読んでいないかは明らかではないと思いますよ。


  次に、本件の核心部分である「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」の解釈についてですが、下條氏が、柳美林氏は「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と読み誤った、と指摘していることに対して、半月城さんは、柳美林氏は「ここからさほど遠くなく」と正確に読んでいるから、下條氏の指摘は見当はずれだという御意見のようです。しかし、そうでしょうか。

  半月城さんの紹介するところによれば、柳美林氏は、朴世堂の『鬱陵島』のうち、

  「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとたび大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていないとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」

という部分が重要であるとした上で、それから分かる重要な事実の2つ目として、

「第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており」

と言っていますね。

  「ここからさほど遠くなく」という言葉は、もともと朝鮮半島から欝陵島、于山島を見ての表現であったはずなのに、あっという間に2島(欝陵島と于山島)間の距離の問題にすりかわっているのではないですか。

  こういう矛盾があるから、下條氏が「柳美林氏は読み誤った」と言ったのは間違っていないように思います。

2008年度の竹島問題 ラインナップ

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/29 22:36 投稿番号: [16067 / 18519]
先ずは下記をご覧下さい。文句なく面白いです。
http://www.youtube.com/watch?v=57EyaVI5NWc
これを竹島に例えるなら、以下のようになります。

半月城氏「安龍福が言ったことは、デタラメじゃないんだけどね、正確でもないんだよね」
kunitaka「正確じゃないことをデタラメって言うんだろ(笑)」


半月城氏「于山島には15戸、86人が住んでいました。これが証拠の太宗実録です」
kunitaka「于山島って良い所ですね〜。これホントに于山島ですか?」
半月城氏「于山島・・・に似てる島です」
掲示板一同「え?!話が違うじゃないか(笑)」


まだまだ私と半月城氏とのバトルは続きます。今年後半は尖閣諸島問題に力を入れてきましたが(その性で竹島サイト構築があまり出来ませんでしたが)、来年上半期は竹島問題をドーンとやります。

next, coming up
『日本外交文書』 18巻 534-5、573-6
『日本外交文書』 23巻 531、532、574-5
『日本水路史』海上保安庁S46   160-161
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『陸軍省 大日記』
『通航一覧』
『大日本史料』
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで

2008年度から始まる「新シリーズ・韓国直送資料」
『三国史記』
『世宗実録地理志』
『増補文献備考』
『新増東国輿地勝覧』
『皇城新聞』1900年9月23日
『皇城新聞』1906年5月9日
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日

今年の書き込みは今日で終了します。半月城さん、皆さん、良いお年をお迎え下さい。

朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:34 投稿番号: [16066 / 18519]
(注1)Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜」第1回   朴世堂の『鬱陵島』
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04-h.html
(注2)朝鮮日報記事「于山島はやはり独島であった」2007.12.4
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2007/12/04/2007120400027.html

(注3、柳博士の注)朴世堂は17世紀の思想界を風靡した碩学であったが、自由奔放な思惟体系のために、当時朱子学を信奉していた老論学界により「斯文乱賊」と罵倒される。彼の文集『西渓集』は『韓国文集叢刊』に入っているが、「欝陵島」が載っている『西渓雑録』は刊行された文集には入っておらず、未分類資料となっている筆写本である。このため、史料の存在が一般に知られていない。

(注4、柳博士の注)「欝陵島」は、朴世堂が他人の文と他人から聞いた話を引用して自身の意見をつけ加える形になっている。朴世堂はこの文において「欝陵島」と「于山島」を確然と区分して言及している。彼の言及から推論すると、于山島はまさに独島を指すことが明確に知ることができる。
   さらに朴世堂が生きた時代は安龍福事件があった時期であり、朴世堂は当時、安龍福事件で重要な役割をはたした領議政・南九萬の妻の兄弟である。南九萬は死刑を受けた安龍福を配流の刑に減軽するのに大きな功績がある。
   朴世堂と南九萬がしばしば書信のやりとりをしていた事実からみて、朴世堂は南九萬から安龍福が日本へ渡った事実と、そこで欝陵島に対する領有権を主張して来た事実を聞いていたと推定される。全16頁からなるが、筆写本の状態が良くなく、時折欠字がある。

(注5、柳博士の注)この部分は、朴世堂が僧侶から聞いた話を記した後、自身の説で締めくくったのだが、他人の文を転載した可能性も排除しがたい。そうだとしても、この文が当時、于山島に関する朝鮮人の意識を明らかにしている点で著者が朴世堂であろうとなかろうと問題にならないと考えられる。

(注6)「西渓集を読む集い」(韓国語)京郷新聞、2007.2.9
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=13&articleid=2007020914573334640&newssetid=85

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:18 投稿番号: [16065 / 18519]
   下條氏は「海洋水産動向」1250号をきちんと確認せずに、新聞記事を誤読し、柳博士が「誤謬」をおかしたなどと書くのは余りにも独善的ではないでしょうか。同書にて柳博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読みくだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。つぎに同書の関連部分を紹介します。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「海洋水産動向」1250号
  「于山島は独島」を立証する朝鮮時代の史料を発掘
   ・・・・・
  朴世堂(注3)の「欝陵島」(注4)は大きく四部から構成されている。
  第1部は『新増東国輿地勝覧』を引用した部分
  第2部は、壬辰倭乱の時に捕虜として捕えられ、日本の船に乗り、欝陵島へ行って帰った僧侶から聞いた話を記録した部分
  第3部は 1694年9月2日に張漢相が軍官の報告を元に備辺司へ報告した内容
  第4部は同年の1694年9月20日から10月3日まで張漢相が捜討した状況を備辺司へ報告した内容からなる。

   この中で第4部は張漢相の『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じである。朴世堂は第2部、前述の僧侶から聞いた話を伝え、自分の意見を加えたが、ここで于山島が独島であることを物語る重要な記述が次のように含まれている。

  「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとたび大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていないとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」

   このような内容がまさに于山島が独島であることを証明する重要な根拠といえる。上の文章をつうじて我々は次のような事実を知ることができる。
  第1にこの文で欝陵島と于山島が明らかに違う島と区分される点である。
  第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており、これから于山島は少なくとも欝陵島近隣の島を指すものではないという点が明らかになったのである。
  第3に于山島が欝陵島より少し低いところにあるので、欝陵島からは簡単に見ることができないということを知ることができる。欝陵島が于山島より少し高いので、天候が晴れているとか、高いところへ登って初めて于山島が見えるとしたためである。
  第4に上に述べたように、朴世堂の記録は張漢相が于山島に対し、「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」と表現したこととぴったり合う点である。

   張漢相は聖人峰から東南方向に島が一つかすかに見えるとしたが、朴世堂の記録は于山島は非常にくっきり晴れた日に欝陵島の高いところだけで見えるとした。こうした事実を考慮すると、朴世堂が語る「于山島」は張漢相のいう、まさに「かすかな島」に該当する。
   欝陵島から離れていて、くっきり晴れた日に高いところだけから見える島は現在の独島以外にないためである。したがって、結論をいうと朴世堂のいう于山島と、張漢相のいう東南方向の島は現在の独島をさすのは明らかである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   余談ですが、柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です(注6)。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先刻承知済みでしょうが。
(つづく)

朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:16 投稿番号: [16064 / 18519]
   半月城です。
   下條正男氏の「事実求是」を読んで、どうしてもコメントを書かずにはいられない心境です。同氏は、Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是」第1回、「朴世堂の『鬱陵島』 」において韓国海洋水産開発院の柳美林博士が「漢文が読めないための誤謬」をおかしたと断言し、こう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
に もかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と 読み誤った。柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳されます。
   すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきかも知れません。下條氏は記事を『世宗実録』地理誌と結びつけて、こう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は「二島相去ること遠からず」に次いで「歴々見える」の一文があるため、欝陵島から竹島が「見える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてきた(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   下條氏は、柳博士が韓国側の旧来の説を繰り返すために、朴世堂の『西渓雑録』を誤読して引用したと主張しているようです。しかし、そのような重大な指摘をする元ネタが新聞記事とは情けない話です。その記事には取材源が次のように記されました(yabutarou01さんの訳)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム(柳美林) 博士は最近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世堂・1629〜1703)」が書いた「鬱陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかにされた」と述べた。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

『日本水路誌 第2巻下』 文章起し完了

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/28 20:57 投稿番号: [16063 / 18519]
今年こそは竹島問題を決着させると思っていたのですが、またまた来年に持ち越ししてしました。韮澤さんと大槻教授の超常現象対決が毎年持ち越されるのと似通っていますね(笑)。
http://www.tv-asahi.co.jp/tokuban/20072008/contents/article/0061/

そう言えば永田町では最近、UFO論議が活発になっているようですね。
http://www.asahi.com/politics/update/1220/JJT200712200003.html
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/celebrity/110639/
そこで今週の、そして今年最後の尖閣掲示板エンディングテーマが決まりました。


さて、掲題の件ですが 『日本水路誌 第2巻下』と『日本水路誌 第六巻』を掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/hydrograph1908/
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/nihonsuiroshi-1919/

http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/
(後日転載予定)


next, coming up
『中華民国年鑑』台湾でGET予定
『日本外交文書』 18巻 534-5、573-6
『日本外交文書』 23巻 531、532、574-5
『日本水路誌 第2巻下』(本日文章起し完了)
『日本水路誌 第6巻』(本日文章起し完了)
『日本水路史』海上保安庁S46   160-161
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『陸軍省 大日記』
『皇城新聞』
『大韓毎日申報』



今週の尖閣掲示板エンディングテーマ
「矢追純一 UFOスペシャル」
http://www.youtube.com/watch?v=PD2S3J401lI
http://www.youtube.com/watch?v=uSPlHRC3jR0
http://www.youtube.com/watch?v=Ij-tr_30vFs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=LdTV6BoW0ow
http://www.youtube.com/watch?v=FgzghsL2-Dg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=LLK2W9L5iC8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=A6nnEnLC5KU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v =- W5DfUobuBE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Ov0AGMmMPz4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=NC3k67LSOKM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ETYw9wAsQhY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=eSMkLFx027Y&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3xOjN64LPiQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=G6ukWOJb -- 0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v =- rcWoCmilRo&feature=related

Re: 半月城さんへ

投稿者: boshind 投稿日時: 2007/12/28 14:11 投稿番号: [16062 / 18519]
ニフティのパソ通時代から、自分に都合の悪い質問や反論には殆ど答えないというのが彼の定評でしたが、検索すれば半月城氏への批判はまだ出てくるんじゃないでしょうかね?
特に半月城通信への一方的記載には批判が多かったように思います。
討論の相手の反論は著作権の問題とか(?)で一切載せない事に対する批判は当時からあったように記憶しております。

例えば、半月城通信では、今では有名になったラスク書簡ですら彼にとっては日本に有利とはならないようですw

1951.8.10   外交文書    ラスク書簡
   米国政府はこの岩島は1905年から日本の島根県の管轄下にあり、韓国から自国の領土であるとの主張がなされたことはない

半月城通信記載による反論
1952.10.3   内部文書   Korians on Liancourt Rock(在日米大使館>米国国務省)
   国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、それをここで詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部であった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もちろん朝鮮の残りの領土とともに併合された。


とお書きになり、外交文書を無視して単なる内部文書を「アメリカも竹島=独島は朝鮮王朝の一部であったとの結論を出した事実は、今後の領有権論争に大きな影響を与えそうです。」と言い切ってしまうところが凄いです^^

でまぁ、実際には上の文書より後に
1952.11.27   外交文書で、韓国政府に対し駐韓米国大使館が「竹島の地位に関する合衆国の理解はラスク書簡のとおりである」と再度韓国外交部宛てに通牒を行う訳なんですがw   どのへんが半月城氏の仰る結論なんでしょうかねぇ。お馬鹿な私にはさっぱり解りませんがw

ということで返答は期待されない方がよろしいのではないでしょうか^^

Re: 朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/27 23:09 投稿番号: [16061 / 18519]
ararenotomo さん

  >>これはyabutarou01さんの最初の訳が正しいと思います。下條氏は「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」としています。しかし、私は「天将に暁にならんとするとき船を発し、以って、来日(翌日)わずか■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と解釈します。来日は来月・来年と同意でしょう。
私はyabutarou01さんが難しい漢字の多い「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」を見事に訳されたことに感心しておりました。


私の翻訳は2ちゃんねるにあった自称漢文専攻の院生氏の書き込みを参考にしたものです。

院生氏の書き込みにはこのようにありました。

「天まさに暁ならんとして発船す。来日の纔かに&#26209;なるを以て、すでに寧海地面に到ると云う。けだし二島ここより去ること甚だしくは遠からず、一の■風にて至るべし。于山島は勢ひくく、海気の極めて清朗なるに因らず、最高頂に登らずば則わち見るべからず。鬱陵は稍や峻にして、風浪やめば則ち尋常に見ゆべし」夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いたとのこと。というのは、于山・鬱陵の二島はここ(多分寧海)から遠くなく、一度の大風で到達できるのだ。于山島は低いので、天気極めて晴朗か山の頂上に登らないと見えない。
鬱陵はやや険峻なので、風浪が無ければ普通に見える。

「けだし」は、朝出て夕方前に寧海に到着するわけを説明することば。この「けだし」を「総じて」と訳すのは誤訳。「蓋」が「総じて」になるのは文章全体の初めに置く場合だけ。「相去」だと、寧海到着の話と無関係の話題になり、繋がらない。
後ろに「麋鹿熊■、往往越海出來」麋鹿熊■、往往にして海を越えて出来す。とある。ぎりぎり望見できる距離を動物が泳ぎ渡るのは驚きだが、それは「相去」でも「去此」でも驚きとしては同じだが、「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。つまり寧海まで遠くないという文脈に繋がってる。でその前後文の間で突然無関係に「二島間の距離」の話になるのは通じない。

鬱陵島は寧海から見え易いが、于山島は少々見えにくいということ。どっちにしろ寧海から近いという話題。

「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。

「蓋」以下は過去の地誌に基づく記述で、僧侶の話は「云」まで。で>>730の漢文では「去此」となってて、朝鮮半島からのこととなってるね。朝鮮半島から鬱陵は晴れの日に見えるそうだ。
歴代の地誌の記載で「可望見」というのは二島が寄り添う様が半島から見えるとも解釈できるし、二島が互いにぎりぎり視界に入る距離だとも解釈できる。つまり「相去」の場合は解釈確定は難しい。「去此」ならば半島からだと確定できる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私はこの書き込みを呼んでから最初の見解修正を行いました。これによると「来日」は夜明け前から見て明けた日とあり、「天將曉」とは夜明けの直前という意味ですから夜が明けて日暮れ少し前になってもまだ「当日」であるという解釈が可能になります。恐らく院生氏は「来日」の本来の意味は「After the sunrise」であり「in the next day」という訳 はここから派生したものと解釈していると思われます。
ただ「来日」は一般的には「らいじつ」と読んで明日という意味 に解釈されていますから、私は当たり障りのないように「翌日」と訳しました。
しかし『西溪雑録』の記事には「已到寧海地面」と「已(すでに)」という文字があり僧侶が鬱陵島と寧海との距離が近いと認識しているのは明らかにもかかわらず「当日」ではなく「翌日」と訳してしまうと近いというニュアンスが伝わらないので不満でした。
このような経緯があったため下条氏が半日の航程と解釈しているのを目にして「当日」でも差し支えないと判断して二度目の見解修正で「翌日」を「当日」に変更しました。どちらが正しいのかは率直に言ってよくわかりません。この判断は私の能力の範疇を超えていると言わざるを得ません。。

まあなんと言うか漢文の読解とは灯りをつけずにすり足で夜道を歩くようなものでとっても難しいものがあります。。。

朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/26 23:55 投稿番号: [16059 / 18519]
yabutarou01さん

朴世堂『西溪雑録』「欝陵島」の記事についての下條正男氏の見解の紹介を有難うございます。

>下条氏は「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」の部分について「(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。」と説明しています。
>私は「夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。」と訳しましたが、「翌日午後三時に」の部分は「当日午後三時に」の誤りでした。訂正します。

これはyabutarou01さんの最初の訳が正しいと思います。下條氏は「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」としています。しかし、私は「天将に暁にならんとするとき船を発し、以って、来日(翌日)わずか■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と解釈します。来日は来月・来年と同意でしょう。

私はyabutarou01さんが難しい漢字の多い「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」を見事に訳されたことに感心しておりました。『西溪雑録』の見解に対し、後ほどゆっくりと答えさせていただきます。

Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/26 02:32 投稿番号: [16058 / 18519]
Web竹島問題研究所に朝鮮日報の朴世堂の「欝陵島」の記事についての下条正男氏の見解が載っています。

http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04-h.html

下条氏は「天將曉發船以來日纔已到寧海地面」の部分について「(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。」と説明しています。

私は
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.html#comment-c56884709 78957831432
で「夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。」と訳しましたが、「翌日午後三時に」の部分は「当日午後三時に」の誤りでした。訂正します。

これは朴世堂が朝鮮半島と欝陵島との間の距離を実際よりもかなり近い距離にあると認識していた可能性を示唆しているのではないかと私は考えます。

Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/23 16:43 投稿番号: [16057 / 18519]
半月城さんへ

  >>舩杉氏が熱心に収集して『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』に発表した多くの地図や絵図は「測量に基づかない」ことと、公的な地図でないので、国際司法裁判所においてほとんど意味をもたないということになります。ひいては、竹島=独島の領有権論争においてもほとんど意味をもたないということになります。『最終報告書』は、しょせんは趣味的に古地図を収集したようです。

  これにはびっくりさせられました。そもそも最初に測量に基づかない絵地図を持ち出して地図にある于山島は竹島=独島に間違いないので領有権の根拠であると主張したのは韓国政府の方ですよ。ご存じないはずはありません。私はまるで鳩が豆鉄砲を喰らったような気分です。韓国政府は見る人によってさまざまである絵地図が根拠にならないのを知りながら卑怯にも絵地図を根拠に領有権を主張していたのでしょうか。私は韓国側の研究者が絵地図や民間の地図を根拠に領有権を主張している事例をいくらでも紹介することができますが、半月城さんは彼らは卑怯者または学のない人間であるとお考えでしょうか、それとも絵地図や民間の地図が領有権の根拠になるかどうかは見る人によってさまざまであるとお考えでしょうか。半月城さんは卑怯の限りを尽くして勝ち進めばそれでよいとお考えなのでしょうか。このあたりについてぜひお伺いしたいと思います。

  >>結局、韓国の官製地図において于山島の記述はあいまいなままであり、証拠になる得る近代的な公的地図は存在しないようです。なお、有名な「大東輿地図」は民間人である金正浩が作成したといわれているので、その地図から国家の意志を読み取ることはできません。

  半月城さんはなぜ1711年の鬱陵島の検察の際に描かれた朴昌錫「鬱陵島圖形」を無視しているのでしょうか。国際法上の効力はともかくとして半月城さんが自分の目で見て自分の頭で考えて于山島が竹島=独島ではない竹嶼(韓国名 竹島)として描かれている地図が存在していることを認めてはいただけないのでしょうか。半月城さんにはぜひとも私のホームページをご覧になって目を覚ましていただきたいと思います。

   藪太郎の研究室
    http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/

  >>日本は竹島=独島の領有を否定する公的な地図のみが数多く存在します。しかも、それらは国際司法裁判所にて日本の歴史的な竹島=独島領有を否定する有力な証拠になりそうです。

  日本の歴史的領有権が否定されたとしても1905年の島根県編入が認められれば韓国にとって意味がないのではないでしょうか。1905年以前に韓国が竹島=独島を領有していたことを証明する国際法上有効な証拠にはどのようなものがあるのかぜひ伺いたいと思います。

Re: 于山島はやっぱり独島

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/23 11:38 投稿番号: [16056 / 18519]
続きです。

こちらが『西溪雑録』の原文のdjvuファイルです。

http://hanmaum.web-bi.net/zbxe/?module=file&act=procFileDownload&file_srl=528&sid=a5dbef0ae749db40acb96d02338e09f6


  これを見れば「遇一僧自稱壬辰之亂」以降は一段下げて書かれていて、これより前が本文であってこれ以降が本文についての補足説明であることが分かります。
  本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では
于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中三峯及業掌空南峯梢卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見風便則二日可到一説干山鬱陵本一島地方百里
にあたる部分が、『西溪雑録』では
鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌業&#25745;空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰&#25890;逭岩壑呈露沙汀樹木歴歴可指
になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。
  私の推測では朴世堂が『西溪雑録』を書いた当時『輿地勝覧』の記述を一島説に改変した地誌が存在していてこれを彼は『西溪雑録』に記載したものの、彼自身は二島説が一島説に変化したのは鬱陵島は標高が高いために朝鮮半島からよく見えるが于山島は標高が低く朝鮮半島から見て存在が確認しにくいためと考え「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」と補足の説明を加えたのではないかと思います。
  それに『西溪雑録』が完成した時代(恐らく1696年から1703年の間)の鬱陵島の地図には鬱陵島の北東にある竹嶼に、「大于島」・「大干島」と于山島を連想させる表現が使われています。

  http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=445698006
  http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/1.html

これは当時の李朝の朝廷では竹島=独島は于山島とは見なされていなかったことを意味しているのではないでしょうか

Re: 于山島はやっぱり独島

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/23 10:51 投稿番号: [16055 / 18519]
ararenotomoさん、

  >>「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。

  たしかに当時鬱陵島に行くことは国禁であり、朝廷にばれたら処罰されてしまいますから、偽称である可能性はあると思います。朴世堂も「自稱壬辰之亂俘入」と「自稱」という微妙な表現を使っていることを考えると僧侶の言葉を額面通り受け取っていなかったのかもしれません。

  >>非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。

  むう。。これは非常に大胆な推測と言うより荒唐無稽な話のように思います。ararenotomoさんが「彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡った」とお書きになったのは行方不明になった船で朝鮮半島から鬱陵島に渡ったという意味でしょうか。行方不明になった船は隠岐から鬱陵島に渡って隠岐に戻る途中で行方不明になったわけですからその可能性はありません。
  それに私は行方不明になったとされる船は朝鮮に漂着した事実も自力で日本にたどり着いた事実もないからこそ行方不明になったとされているのだと思います。行方不明になったとされる船は乗員もろとも海の藻屑と消えてしまったというのが常識的な判断だと思われます。朴世堂に鬱陵島の話を語ったのはこの世に未練を残しつつ溺死してしまった僧侶の亡霊だったのでしょうか。。。

  >>この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。

  『西溪雑録』で于山島について言及している箇所は朴世堂が自らの見解を述べている箇所であり僧侶が于山島について何らかの知識を持っていたと判断できる箇所はありません。これは決して私の我田引水的な解釈ではありません。朝鮮日報日本語版の記事には、


    朴世堂は船に乗り鬱陵島に行ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録し、次のように述べている。 「大体、2島(鬱陵島と于山島)はさほど離れておらず、1度大きな風が吹けばぶつかってしまうほどだ。(以下略)

     http://www.chosunonline.com/article/20071206000065
     http://www.chosunonline.com/article/20071206000066

とあります。これは韓国の学者も「盖二島去此不甚遠」以降は朴世堂が自ら述べている箇所であり僧侶から伝え聞いた話の内容ではないと判断しているということではないでしょうか。

  >>「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。

  むしろ朝鮮半島と鬱陵島との間の距離を鹿や熊が渡ってこれる程度の近い距離にあると勘違いしていたと判断すべきです。これは「盖二島去此不甚遠」以降は確実な情報をもとに書かれた文章ではないことを示唆しています。

于山島はやっぱり独島

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/21 22:22 投稿番号: [16054 / 18519]
yabutarou01さん

朴世堂『西溪雑録』と『臥遊録』「欝陵島地誌」の紹介を有難うございます。

『臥遊録』の「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至欝陵島」の記述に大変興味があります。「嘗って一人の僧に遇ったが、彼は壬辰之亂で日本に連行された俘(の子孫?)と自稱し、丙午の年、倭船に隨い欝陵島に至った」と書かれています。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.html
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/early-1800s-gwang-yeodo-gangwondo.html

朴世堂(1629〜1703)が存命中の丙午は1666年です。この年は池内敏氏の「近世日本人の朝鮮漂着年表」(『近世日本と朝鮮漂流民』臨川書店, 1998)によると、米子の商船が「いそたけ」へ渡海し戻る途中で漂流し、3艘のうち2艘が行方不明になった、とされています。さらに川上健三氏の『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)には、寛文6年は大谷家の番で、13反帆の船2隻に50名が乗組み4月6日隠岐出帆、同8日竹島着、竹島で15反帆の船1隻を作り、3隻に分乗して7月3日帰路についたが、途中暴風にあって遭難し、新造の15反帆の船だけが朝鮮に漂着し乗員21名が救助された、とあります。

非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。『臥遊録』には「鄰船適有同俘七人夜與相語」と記されているので、彼には少なくとも7人の仲間がいたと思われます。「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。

「壬辰之亂の俘」と自称する人たちが、欝陵島周辺海域に住み着き欝陵島と往来していたことは極めて重要と思います。彼らは、欝陵島にかなりの長期間滞在し、大谷・村川両家の渡海事業とも関わり合いを持っていたかもしれません。「倭方伐竹採藥留渠守船」は、倭人と接触があり、実際に近くで見ていなければ書けないでしょう。

倭船に隨い欝陵島に至った僧は、松島を経由して来たと考えられます。従って、松島も彼にとっては甚だ遠い島とは思わなかったでしょう。「盖二島去此(寧海)不甚遠一ハン(馬偏に風)風可至」欝陵島も于山島=松島も「ひとたび風に乗れば至ることができる」と認識していたに違いありません。

この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。特に、欝陵島内陸部は「- - 登岸則白沙平鋪 - - 江水流出縁江行十餘里則ウンタウ(竹の名)作藪 - - 又穿藪行十餘里則有竹林 - - 竹林既窮而原野夷曠有村居墟落 - -」と詳しく踏査したことが分かります。「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」は、yabutarou01さんが的確に訳された通り、欝陵島からは「于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができない」ですから、彼は実際の経験に即して語ったのでしょう。

また、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。

日本側の資料によれば、竹島は元禄5(1692)年に多数の朝鮮人と出遭うまで、無人の島とされてきました。しかしそれ以前にも、朴世堂がこの『西溪雑録』で述べたような、日本の資料には決して記録することの出来なかった、友好的な交流があったと思われます。

半月城さんへ

投稿者: kkgwsthm 投稿日時: 2007/12/20 23:27 投稿番号: [16053 / 18519]
半月城さんの投稿に対してたくさんの反論が出ています。
半月城さんは反論をしないのですか?

反論をしない=半月城さんの主張は間違いだと半月城さん自身が認めた

と受け取ってよろしいでしょうか?

Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判

投稿者: yukitanhanatan 投稿日時: 2007/12/19 20:36 投稿番号: [16052 / 18519]
>結論として、韓国には舩杉氏がいうように「国際裁判において証拠となる地図が1枚もない」といえるのに対し、日本は竹島=独島の領有を否定する公的な地図のみが数多く存在します。しかも、それらは国際司法裁判所にて日本の歴史的な竹島=独島領有を否定する有力な証拠になりそうです。

半月城さん

だいぶ、エビデンスは整ったみたいですね。

是非是非、本国の方へも、あと押しお願いしますね。

獨島ならふたつ書きますよね。

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2007/12/19 10:58 投稿番号: [16051 / 18519]
位置的に無理がありすぎなのはさておき。
近くに寄っても、鬱陵島から見ても、ふたつ見えるわけですから。
于山島をひとつの島に描いたところからみても、変ですね。

Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判

投稿者: gtomr1998 投稿日時: 2007/12/19 01:53 投稿番号: [16050 / 18519]
大韓全図や大韓輿地図に記載されている鬱陵島の姿は、
朝鮮全図や海東輿地図、東輿図等の鬱陵島の詳細図を簡略化した地図。

即ち、それらの地図中の”于山”は、附属小六島の中で、最も顕著な于山島、別名JUKDOである事がはっきりとわかる。

薮太郎様の鬱陵島詳細地図リストを参照されたし。
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/5.html

地図は同一性検証の証拠になる

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/12/19 01:31 投稿番号: [16048 / 18519]
実効支配の証拠として地図は無効だけども、
島の同一性の検証において地図は有効なんですね。
ちなみに、パルマスの判例では実測に基づくものかどうかさえ不明だけども
メナドの知事が蘭印の総督に送った地図が島の同一性に有効とされてますな〜。

「それは大きさと形状において全く正しいのではないし、また、南に約40分、
東に20分も多いが最も信頼できる詳細な近代的地図、殊にイギリス海軍省海
図がタラウアー又はナヌサ諸島とミンダナオの間にパルマス以外の島を示し
てないので、パルマスに該当せざるをえない。」

そういえば、緯度経度もピッタリ、大きさ形状も竹嶼にピッタリな近代的な
大韓全図という地図があったね。

Re: 県立博物館資料 変チンポコイダー氏に

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/12/19 01:16 投稿番号: [16047 / 18519]
>ここで変チンポコイダー氏に質問ですが、
>なぜ1724年にも鳥取藩は幕府に図を提出したのでしょうか?
なぜでしょうかね。私にはわかりませぬ。
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