『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/01 22:50 投稿番号: [16073 / 18519]
yabutarou01さん
『西溪雑録』についての説明を有難うございます。
『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。
yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。
朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。
于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。
朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。
于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
『西溪雑録』についての説明を有難うございます。
『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。
yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。
朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。
于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。
朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。
于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
これは メッセージ 16070 (ararenotomo さん)への返信です.
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