Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/03 14:09 投稿番号: [16080 / 18519]
続きです。
>>于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」
そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがありません。
それに朴世堂は「麋鹿熊シヤウ徃徃越海出來」とありえないことを書いているわけですから実際には見えない島を見えると書いたとしても不思議ではありません。
>>朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
「日本人と思しき」とあります。ararenotomoさんの話を総合すると朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧侶は鬱陵島が物産豊富な島と聞き、1666年大谷家の船に乗って欝陵島に渡りあわびやあしかを捕まえて、日本に戻る途中で遭難して朝鮮半島に漂着し、日本に帰らずに韓国に帰化し韓国語を覚えて僧侶として活動し、さらに欝陵島とは何回も往来し欝陵島の自然地理に関して詳しいにもかかわらず、朴世堂に欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っていると有りもない話を語ったということになります。。。
ararenotomoさん自身も No.16054 で「非常に大胆な推測です」とお書きになっているようにこの僧侶の冒険譚には好意的に表現しても信憑性が高くないと思います。私は確実な根拠からは確実な結論を導くことはできるが、信憑性の薄い根拠からは信憑性の薄い結論しか導きだすことができないと考えます。にもかかわらずararenotomoさんはこのような信憑性の薄い根拠から于山島が竹島なのは客観的な事実であるかのような結論を導き出してしまいました。これはいかがなものでしょうか。
>>于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」
そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがありません。
それに朴世堂は「麋鹿熊シヤウ徃徃越海出來」とありえないことを書いているわけですから実際には見えない島を見えると書いたとしても不思議ではありません。
>>朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
「日本人と思しき」とあります。ararenotomoさんの話を総合すると朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧侶は鬱陵島が物産豊富な島と聞き、1666年大谷家の船に乗って欝陵島に渡りあわびやあしかを捕まえて、日本に戻る途中で遭難して朝鮮半島に漂着し、日本に帰らずに韓国に帰化し韓国語を覚えて僧侶として活動し、さらに欝陵島とは何回も往来し欝陵島の自然地理に関して詳しいにもかかわらず、朴世堂に欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っていると有りもない話を語ったということになります。。。
ararenotomoさん自身も No.16054 で「非常に大胆な推測です」とお書きになっているようにこの僧侶の冒険譚には好意的に表現しても信憑性が高くないと思います。私は確実な根拠からは確実な結論を導くことはできるが、信憑性の薄い根拠からは信憑性の薄い結論しか導きだすことができないと考えます。にもかかわらずararenotomoさんはこのような信憑性の薄い根拠から于山島が竹島なのは客観的な事実であるかのような結論を導き出してしまいました。これはいかがなものでしょうか。
これは メッセージ 16079 (yabutarou01 さん)への返信です.
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