于山島はやっぱり独島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/21 22:22 投稿番号: [16054 / 18519]
yabutarou01さん
朴世堂『西溪雑録』と『臥遊録』「欝陵島地誌」の紹介を有難うございます。
『臥遊録』の「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至欝陵島」の記述に大変興味があります。「嘗って一人の僧に遇ったが、彼は壬辰之亂で日本に連行された俘(の子孫?)と自稱し、丙午の年、倭船に隨い欝陵島に至った」と書かれています。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.html
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/early-1800s-gwang-yeodo-gangwondo.html
朴世堂(1629〜1703)が存命中の丙午は1666年です。この年は池内敏氏の「近世日本人の朝鮮漂着年表」(『近世日本と朝鮮漂流民』臨川書店, 1998)によると、米子の商船が「いそたけ」へ渡海し戻る途中で漂流し、3艘のうち2艘が行方不明になった、とされています。さらに川上健三氏の『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)には、寛文6年は大谷家の番で、13反帆の船2隻に50名が乗組み4月6日隠岐出帆、同8日竹島着、竹島で15反帆の船1隻を作り、3隻に分乗して7月3日帰路についたが、途中暴風にあって遭難し、新造の15反帆の船だけが朝鮮に漂着し乗員21名が救助された、とあります。
非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。『臥遊録』には「鄰船適有同俘七人夜與相語」と記されているので、彼には少なくとも7人の仲間がいたと思われます。「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。
「壬辰之亂の俘」と自称する人たちが、欝陵島周辺海域に住み着き欝陵島と往来していたことは極めて重要と思います。彼らは、欝陵島にかなりの長期間滞在し、大谷・村川両家の渡海事業とも関わり合いを持っていたかもしれません。「倭方伐竹採藥留渠守船」は、倭人と接触があり、実際に近くで見ていなければ書けないでしょう。
倭船に隨い欝陵島に至った僧は、松島を経由して来たと考えられます。従って、松島も彼にとっては甚だ遠い島とは思わなかったでしょう。「盖二島去此(寧海)不甚遠一ハン(馬偏に風)風可至」欝陵島も于山島=松島も「ひとたび風に乗れば至ることができる」と認識していたに違いありません。
この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。特に、欝陵島内陸部は「- - 登岸則白沙平鋪 - - 江水流出縁江行十餘里則ウンタウ(竹の名)作藪 - - 又穿藪行十餘里則有竹林 - - 竹林既窮而原野夷曠有村居墟落 - -」と詳しく踏査したことが分かります。「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」は、yabutarou01さんが的確に訳された通り、欝陵島からは「于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができない」ですから、彼は実際の経験に即して語ったのでしょう。
また、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。
日本側の資料によれば、竹島は元禄5(1692)年に多数の朝鮮人と出遭うまで、無人の島とされてきました。しかしそれ以前にも、朴世堂がこの『西溪雑録』で述べたような、日本の資料には決して記録することの出来なかった、友好的な交流があったと思われます。
朴世堂『西溪雑録』と『臥遊録』「欝陵島地誌」の紹介を有難うございます。
『臥遊録』の「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至欝陵島」の記述に大変興味があります。「嘗って一人の僧に遇ったが、彼は壬辰之亂で日本に連行された俘(の子孫?)と自稱し、丙午の年、倭船に隨い欝陵島に至った」と書かれています。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.html
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/early-1800s-gwang-yeodo-gangwondo.html
朴世堂(1629〜1703)が存命中の丙午は1666年です。この年は池内敏氏の「近世日本人の朝鮮漂着年表」(『近世日本と朝鮮漂流民』臨川書店, 1998)によると、米子の商船が「いそたけ」へ渡海し戻る途中で漂流し、3艘のうち2艘が行方不明になった、とされています。さらに川上健三氏の『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)には、寛文6年は大谷家の番で、13反帆の船2隻に50名が乗組み4月6日隠岐出帆、同8日竹島着、竹島で15反帆の船1隻を作り、3隻に分乗して7月3日帰路についたが、途中暴風にあって遭難し、新造の15反帆の船だけが朝鮮に漂着し乗員21名が救助された、とあります。
非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。『臥遊録』には「鄰船適有同俘七人夜與相語」と記されているので、彼には少なくとも7人の仲間がいたと思われます。「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。
「壬辰之亂の俘」と自称する人たちが、欝陵島周辺海域に住み着き欝陵島と往来していたことは極めて重要と思います。彼らは、欝陵島にかなりの長期間滞在し、大谷・村川両家の渡海事業とも関わり合いを持っていたかもしれません。「倭方伐竹採藥留渠守船」は、倭人と接触があり、実際に近くで見ていなければ書けないでしょう。
倭船に隨い欝陵島に至った僧は、松島を経由して来たと考えられます。従って、松島も彼にとっては甚だ遠い島とは思わなかったでしょう。「盖二島去此(寧海)不甚遠一ハン(馬偏に風)風可至」欝陵島も于山島=松島も「ひとたび風に乗れば至ることができる」と認識していたに違いありません。
この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。特に、欝陵島内陸部は「- - 登岸則白沙平鋪 - - 江水流出縁江行十餘里則ウンタウ(竹の名)作藪 - - 又穿藪行十餘里則有竹林 - - 竹林既窮而原野夷曠有村居墟落 - -」と詳しく踏査したことが分かります。「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」は、yabutarou01さんが的確に訳された通り、欝陵島からは「于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができない」ですから、彼は実際の経験に即して語ったのでしょう。
また、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。
日本側の資料によれば、竹島は元禄5(1692)年に多数の朝鮮人と出遭うまで、無人の島とされてきました。しかしそれ以前にも、朴世堂がこの『西溪雑録』で述べたような、日本の資料には決して記録することの出来なかった、友好的な交流があったと思われます。
これは メッセージ 16036 (yabutarou01 さん)への返信です.
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