竹島

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Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/12 13:01 投稿番号: [15663 / 18519]
ご批判は覚悟していましたが、何ら論理もないわけではありません。私たちには話し合い(日韓会談:紛争の解決)という「知恵」があるのであり、新漁業協定の有効な運営という政治的な積み上げが今後なされた上で、竹島のより冷静な扱い方が見えてくるのだと考えます。

国際司法裁判も選択肢ですが、こうした方向性も一つの選択肢です。私としてはどちらでもいいのですが、前者はスピード解決、後者は、それこそ何十年かかる交渉、ということになるでしょう。両方で構えればそれでよろしいのではないでしょうか。その中から現実的な解決が見えてくることでしょう。

ただ、韓国はそもそも「紛争」という立場をとりませんので、こればかりは仕方ありません。韓国の民度の問題かとも思っています。偏狭な民族主義を脱却する時代が来たときには、何らかの手がかりが見えてくるのかもしれません。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2007/07/12 00:28 投稿番号: [15662 / 18519]
>まぁ、あくまで個人的な感情です。

このようにお断りを入れさえすれば


>私としては、個人的には、竹島は、半分で線を引いて分けて、日韓で共同管理をすればよいとの思いを持っています。狭い日本海でいがみあっても仕方ありません。ともに、利益を享受すればよいのではないかと。韓国側はこういうことは死んでも認めないでしょうが、100年後ぐらいには、割と変わっているかもしれません。

論理の飛躍どころか、論理無視の感想文もありってことになるのかしら。
すこし、論客風に論旨を展開していただけに、ふぅ・・・・。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/11 23:30 投稿番号: [15661 / 18519]
ご紹介ありがとうございます。私はどうも体力がなくて、論文を読むと骨が折れます。いずれゆっくり読みたいと思います。私は、今はどうも江戸時代の竹島問題にはあまり興味がなくて、明治期や、あるいは韓国側の資料のほうに関心があります。

韓国側の資料は、知れば知るほど、竹島=韓国領となるものは、皆無に近いですね。私が知る限り、それなりに説得力があるのは、唯一「于山は即ち倭の所謂松山なり」という記録だけです。そして、何ら実効支配も伴っていないし、そもそも島の存在を分かっていない。高宗の時代に至ってもです。

私は竹島が韓国領であるか日本領であるかは、結局は、国際法に照らすしかないとは思っていますが、ただただ、情けないのは、韓国の誰もが、自国の韓国側の意見に一切疑問を抱かず、むしろ日本の横暴を非難さえすることです。

残念です。客観的に見て韓国の主張はそれほど明快なものでもなければ説得力があるものでもありません。これに疑問を持たない国民性というのは、ある意味でとても不幸なものだと思うのです。植民地時代の心の傷跡があるにしても、こうしたあり方は、あまり望ましい姿とも思えません。

私としては、個人的には、竹島は、半分で線を引いて分けて、日韓で共同管理をすればよいとの思いを持っています。狭い日本海でいがみあっても仕方ありません。ともに、利益を享受すればよいのではないかと。韓国側はこういうことは死んでも認めないでしょうが、100年後ぐらいには、割と変わっているかもしれません。

まぁ、あくまで個人的な感情です。

日本としては粛々と領土としての意思表明をするしかないでしょうね。

GIF形式で画像加工して下さい

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/07/11 23:29 投稿番号: [15660 / 18519]
いつも通りの縮尺でお願いします。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/saninshinbun.pdf

出来ましたらメールに添付してお送り下さい。
よろしくお願いします。

Re: 総合的な位置関係 VS. たまたま合致

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/11 23:14 投稿番号: [15659 / 18519]
すごいですね。私の主張の裏づけ作業をしてくださり、どうもありがとうございます。これでもかなり良心的に近く考えるようにしたのではないでしょうか。普通に見れば大きくずれているのですが、半月城さんのフィルターをかけると近く見えるようです。

私としては、半月城さんについては、すでに個人的な結論をすでに持っています。半月城さんは、竹島がどこに属するか、どういう歴史があり、どのように考えることが可能か、ということには基本的には関心がなく、スタート地点に「竹島=韓国領」という前提がある、ということです。

ですから、議論は決して成り立ちません。「竹島=韓国領」を前提としてそれをどのように資料につなげることができるか、ということだけが、彼の主張だからです。私を含めて誰かに返事をするときも、揚げ足取りか、ありえないとの理由なきごり押ししかありません。

これはとても残念なことです。

ほっとけばいいのですが、本まで出している以上、困ったものだと思っています。いずれはあの著書についてもう少し、どこに問題があるかを、ここで私なりの考えを書きたいと思っています。当分、忙しいので無理でしょうが、少なからず問題を感じているのも確かです(体力がないので、皆さんで分担して問題点を考えてみるのもいいかもしれません)。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/11 13:19 投稿番号: [15658 / 18519]
>池内氏の論文は読んでいないので、どんな感じで書かれているかは分かりませ
>んが
半ケツ通信に掲載されてます。
http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#ronbun

>堀和生という方の「1905年に本の竹島領土編入」という論文
京大経済史専攻ですか。確か内藤 正中も同じでは。。。

総合的な位置関係 VS. たまたま合致

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/11 03:14 投稿番号: [15657 / 18519]
半ケツが、「偶然の一致」と言う「大日本府県分轄図」と「アルゴノート島の位置」の対比。
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/takeshima/eng/japan/img/Interior.gif

半ケツが、「総合的な位置関係において合致」と言う「大日本府県分轄図」と「磯竹島略図」の対比。
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/Work/isotake.html

半ケツばりに身辺周辺の時空が歪んでない人は、わかってるとは思いますが大日本府県分轄図の竹島と半島間が近すぎるんですな。なにせその竹島はアルゴノート島に「偶然」一致する位置にあるわけですから当然ですな。しかし、半ケツは更に続けます。
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No.15645
それも含めて朝鮮と竹島間の距離など、総合的な位置関係に着目しています。
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いい年して、恥ずかしくないのかしらん。

Re: 防衛白書で「独島は日本領」とうそぶく

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2007/07/10 22:30 投稿番号: [15656 / 18519]
いや、そんなこと言われてもさ、お互い領土主張をすることを黙認するって約束したんだからさ、つべこべ言うのはやめてよ。

日本は大分遠慮して、毎年形ばかりの抗議にとどめていたのに、そっちが盛り上がって日本を刺激したんだよ。

>日本という国の横に位置することになった不幸

ほんとに気の毒だとは思うよ。
中韓の側を下にして極東地図をみるとさ、この列島はホントに邪魔だ。
ほんとうっとうしい国だよね日本は。存在自体が悪だよね。
みんな詰めて座ってるのに、荷物をぽんぽんなげて座席取りしてるような国だね。

だから、獨島ぐらい気にすんなよって言いたくなるでしょ?
そのとおりだから、気にしてなかったんだよ。
それなのに韓国が火をつけたんだよ。
自業自得だということと北朝鮮の日韓離間策だってことを知れ。

参議寺島外務卿の印

投稿者: take_8591 投稿日時: 2007/07/10 21:55 投稿番号: [15655 / 18519]
>   この部分については、以前に、14664, 14826あたりですでに論議したことがあるものです。

   [ No.14772 ]に次の半月城さんの認識が載っていました。
      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出された内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏はこう記しました。・・・・・
      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   どうやら、半月城さんは、岩倉具視と前島密だけの間で隠密裏に「竹島外一島を版図外とする」決定がなされたと考えておられるようです。「版図の取捨は重大事件」でありながら、「外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です」とも言われています。しかし、外務卿が「版図の取捨にかかる重大事件」を知らずに仕事が出来るでしょうか。ありえない事実認識です。

   公文録内務省の部を参照すると、大臣の下には「岩倉」の印があり、参議の下には「●島宗則」の印があります。
   http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/002.jpg
   この事実は、「竹島外一島を版図外とする」決定に寺島宗則外務卿が関わっていたことを示しています。

   半月城さんとか堀和生氏は、当時の明治政府が「ダジュレー島=松島」と捉えていた事実を認めたくないのでしょう。だから、この「隠密裏の決定」というありえない前提を設けて論を進めているのだと思います。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/10 20:57 投稿番号: [15654 / 18519]
池内氏の論文は読んでいないので、どんな感じで書かれているかは分かりませんが、ご指摘の部分は、確かにちょっとどうかという印象ですね。一般に韓国側の立場に立とうとする日本人論者の視角と言うのは、どこか、不自然な部分がついて回るようです。

私は個人的には堀和生という方の「1905年に本の竹島領土編入」という論文は、部分的にかなりひどい偏向性を見せていると思っています。大韓帝国学部編「大韓輿地図」を論じて、曰く、

「…さらに19世紀末、朝鮮政府が鬱陵島の開発に着手すると、于山島への認識はより正確になった。その時点の朝鮮領の認識を示すものが、図1に掲げた大韓帝国学部編「大韓輿地図」であり、古地図としては鬱陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に描かれている。(p.100)」

ちなみに、ここで提示された「大韓輿地図」は、鬱陵島の近辺にいくつかの小島を記してその一つに「于山」と書いた「大韓全図」と同様のものです。

こういう書き方一つで、この人の論文の客観性はすでに喪失していると私は判断しています。一事が万事かと。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/10 12:14 投稿番号: [15653 / 18519]
>「公的な活動・認可」というものの例が、どれほどに正確にあげられるか

公的な活動・認可及び領有意志の断絶に関する判例として以下があります。

東グリーンランドの判例では、グリーンランド人が殺人を行った場合、ノルウェー国王に罰金を払う約束があったとするS・トルダーソンの記録が管轄権行使の証拠として認められています。ただ、S・トルダーソンなる人物の正体は判例には書かれておらず不明です。他の判例では、北ボルネオ会社の海亀卵の採取許可や東インド会社に生産物を売った金で税金を払った記録が証拠として採用されてます。
また、グリーンランドでは植民地が消滅してことによって実効支配や領有の意志表示が2世紀ほど断絶するのですが、国王の明確な放棄の意志を示す証拠がないことを論拠に「植民地の消滅後始めの2世紀ほどの間、グリーンランドとの交通は何もなかったようであり、そしてそれに関する知識も減っていった。しかし、国王の見地の伝統は存続し、17世紀初期に関心が復活した。」としてます。パルマス島の判例では、1700年に東インド会社の地方総督が当該島を視察し宗主権の行使が認められているのですが、そのことをすっかり忘れて1895年に当時の総督が「自分が当該島を訪れた最初の植民庁官吏」と言ってしまっているのですが、委棄されていたとは認定されてません。


しかし、池内の論理は惨いな〜。
「公儀御目見と、そこに形成された幕閣とのつながりを誇る由緒が競合者を排除する役割を補完した」と公儀御目見の実施と実効を認めながら、「仲介者(阿部)が継続の努力を払って初めて維持されるものであった。とすれば、幕府と大谷・村川両家との関係は必ずしも公的・継続的なものではなく、代々の阿部四郎五郎による仲介の努力によって維持された私的・不定期なものであった」としてます。彼は、政治家へのロビーや陳情を反映した立法や行政の行為を「私」としてしまうつもりなのだろうか?角栄道路なんか「私」の権化といったところか。重要なのは寺社奉行も承認の上、公儀御目見が実施されたことであり、これを「公」と言わず何を「公」というのだろう。「不定期」で何を主張したいんだろうか?不定期だったら「私」なのか?彼の主張がさっぱりわかりません。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/09 20:30 投稿番号: [15652 / 18519]
コメントをどうもありがとうございます。

>国際法では、公的な活動が実効支配の証拠となると共に領有意志の表明にもなります。漁民の活動でも公的機関による許可がなされている場合は、権原の証拠(領有意志の表明+主権の発現)として有効です。改めて「ここは俺の領土だ」と宣言している例のほうが少ないのではないのでしょうか。

ご指摘の部分もいちおう念頭にはありましたが、「公的な活動・認可」というものの例が、どれほどに正確にあげられるか、私には分からない部分もありましたので、いずれにしても積極的な領土表明はない、という形で書きました。

ただ、なるほど、言われてみれば、「ここは俺の領土だと宣言している例のほうが少ない」と言うのはその通りかな、とも思いました。ありがとうございます。

>池内が何故に幕府の家来たる阿部を「私」と決めつけたがるのか意図がわかりませんが、国際法上は地方機関における権限の発現も「公」として認められらており、公儀、寺社奉行、鳥取藩の活動を「私」とする論理はありえません。

勉強になりました。ありがとうございます。幕府・地方側の認可というものを私もどちらかと言えばかなり否定的に捉えていました。また、参考にさせていただいて、いずれ考えを整理してみることにいたします。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/09 19:56 投稿番号: [15651 / 18519]
>ただし、無主地と言っても、日本にそれなりに近い島でもあり漁民の渡航も
>ありますので、領有意識はいちいち表明せずとも、日本の地に含まれるもの
>との考え方は自然とあったかもしれません。

国際法では、公的な活動が実効支配の証拠となると共に領有意志の表明にもなります。漁民の活動でも公的機関による許可がなされている場合は、権原の証拠(領有意志の表明+主権の発現)として有効です。改めて「ここは俺の領土だ」と宣言している例のほうが少ないのではないのでしょうか。
------------------------ -
Eritrea-Yemen仲裁裁判
The modern international law of the acquisition (or attribution) of territory generally requires that there be: an intentional display of power and authority over the territory, by the exercise of jurisdiction and state functions, on a continuous and peaceful basis.
(中略)
In order to examine the performance of jurisdictional acts on the Islands, the Tribunal must consider evidence of activities on the land territory of the Islands as well as acts in the water surrounding the Islands. This evidence includes:(中略)the licensing of activities on the land of the Islands(略)
------------------------ -

現竹島に関する公権力の発現(公的な許可)として認められる可能性があるものとして、以下があります。
・1660年:亀山庄左右衛門から大屋への手紙(松嶋への渡船の老中内意)
・1681年:幕府巡察使への請書の写し(竹島への道筋にある小嶋を阿部の取り持ちで拝領)
・1681年以前:公儀御目見に関する寺社奉行への申入(明確に松嶋に言及せず)
・1663年以前:鳥取藩からの借銀、鳥銃の貸し出し(明確に松嶋に言及せず)

まぁ「強い間接的推定」と判断される可能性のほうが高いとは思いますが、国際法では追認でも大丈夫ですのでこれらが公的機関の許可として認められる可能性は0ではないでしょう。他にも鎖国時に国際法の権原が通用するかといった問題もあるのですが、可能性を自ら捨てる必要はないと思ってます。

なお、池内は1681年に公儀御目見の取り持ちが阿倍家から鳥取藩に変わったことや大谷・村川の渡海を「寄合之所務」へ変更したことをもって「それまでなされてきた阿部家の竹島渡海への関与が私的なものであって、幕府意志を背景にした公的性格を帯びた関与ではなかったことを示唆していよう」としています。池内が何故に幕府の家来たる阿部を「私」と決めつけたがるのか意図がわかりませんが、国際法上は地方機関における権限の発現も「公」として認められらており、公儀、寺社奉行、鳥取藩の活動を「私」とする論理はありえません。

竹嶼、竹島、竹岩? 1918年の鬱稜島地図

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/09 16:39 投稿番号: [15650 / 18519]
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/Work/1918_soutokufu_map.jpg
土地調査事業から総督府が作成した1918年の鬱稜島の地図です。
竹嶼は、竹島(チクトー)であり、南面所属です。
一本立島が「竹岩(テーアム)」その対岸は「竹岩(チュクアム)」となっているのが面白いですな。
更に「石」を使用した地名として「石圃洞(ソクポドン)」「石門洞(ソクモンドン)」、「石峰(ソクポン)」があります。
「石峰」は地理的な位置からも方言で石が獨に変化するのであれば「獨峰」となっていてもおかしくないのではないでしょうか。
あと、観音島の東に1つ、竹島の東に2つ石柱がポッキリ折れたっぽい跡があります。観音島の1つは、成宗の三峯島の記録「有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島」の中で不明だった「次巌石列立」に位置的にもピッタリです。

ところで、併合後も日本は竹島(獨島)を朝鮮所属として扱ったという人がいらっしゃいます。もし、そうであれば土地調査事業に基づく総督府の土地台帳に登録されてなければいけませんが、不思議なことに誰も調べてないようです。もしかしたら、東拓の悪辣な収奪地として登録されてるしれませんね(笑)。まぁこの地図や朝鮮地誌資料(臨時土地調査局編纂)も土地調査事業から作成したモノらしいですが、竹島(獨島)は何れの鬱稜島の面にも所属してません。ちなみに、島根県の土地台帳ではずっと島根県のままであり、竹島が台帳から削除された事実はないようです。。。

防衛白書で「独島は日本領」とうそぶく日本

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/07/09 14:43 投稿番号: [15649 / 18519]
  日本政府は6日、2007年防衛白書で独島(日本名竹島)について「日本の固有の領土」と主張した。日本政府は2005年の防衛白書から「日本の固有領土である北方領土と竹島の領土問題はいまだ解決していない」と記載し始めた。そして韓国政府がこれに抗議し、削除を要求したにもかかわらず黙殺する態度を取った。


  日本は2005年からにわかに独島についての領有権を主張する姿勢を強めている。島根県が「竹島の日」を制定し、駐韓日本大使がソウルで堂々と「竹島は日本の領土」と語ったのが始まりだった。文部科学省は公民や地理の教科書で「竹島は日本固有の領土」「韓国が不法占拠している」と明記するよう指針を出した。昨年の春には海上保安庁の調査船が独島近海を測量しようとしたこともあった。こうした一連の動きを指揮した人物こそ、当時官房長官だった安倍首相だ。


  これは日本政府の本音をよく示す動きだ。機会があるたびに独島の領有権を主張し、世界の注目を集めることで、ひとまず紛争地域に仕立て上げようとしているのだ。そうした上で、この問題を国際司法裁判所に提訴しようというわけだ。日本は自分たちの国力をもってすれば国際司法裁判所の判決に影響を及ぼすことが可能だと考えている。隣国に言い掛かりをつけ、その「血と肉」である固有領土を奪い取ろうとしているのだ。これがもし100年前なら、日本は間違いなく砲艦を送り込み、独島を制圧して仁川や釜山を砲撃していたことだろう。


  日本が国防政策の方向性を示す防衛白書を通じ、執拗(しつよう)に独島の領有権を主張するのは、一種の示威行動と見ることができる。2005年度の日本の防衛費は世界第2位となる469億ドル(約5兆8000億円)で、実際の軍事力でも世界第3位との評価を得ている。特に日本の海上軍事力はイージス艦4隻をはじめ、駆逐艦54隻、潜水艦16隻など152隻もの艦艇と205機もの戦闘機を保有している。対潜水艦戦、補給、機雷処理などの戦闘能力も世界最強レベルにある。


  だが日本政府がこうした対応を取れば取るほど、韓国政府および韓国国民は「日本という国の横に位置することになった不幸」を切実に感じるだけだ。そうした事実を日本側は十分理解しているのだろうか。隣国に対しこんな行動を取る日本が、国際社会の表舞台に立つために国連安全保障理事会の常任理事国を目指しているというのだから、まったく恐ろしい世の中になったものだ。

朝鮮日報/朝鮮日報JNS
http://www.chosunonline.com/article/20070709000001

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/09 14:29 投稿番号: [15648 / 18519]
>「江戸時代からの実効支配の権原が駄目なら明治の先占の権原」という2段構えの主張でいいと思います。

私は、個人的には、明治の島根県編入以前には、日本側はあまり積極的に竹島が日本領土であるとの認識を示してこなかったのは確かではないかと思っています。ただし、かと言って、それは朝鮮領土とは規定されておらず、むしろ日本近傍にある岩礁という程度の理解であったのではないかと。

また「隠州視聴合紀」についても私はずっと以前から提示しているように無主地(朝鮮領ではありません)としての竹島・松島が提示されたと見ています。つまり、江戸時代から明治初期に至るまで、日本側が竹島=独島に明確な領土意識を表明していたとは考えていません。

その所属をいちいち表明してこなかった島を、明治政府はのちに島根県に編入するに至るという理解です。

ただし、無主地と言っても、日本にそれなりに近い島でもあり漁民の渡航もありますので、領有意識はいちいち表明せずとも、日本の地に含まれるものとの考え方は自然とあったかもしれません。

いずれにせよ、少なくとも「隠州視聴合紀」では竹島・松島を朝鮮領であると考えたとはまったく読めませんし、明治期において政府がリアンクール岩を朝鮮領と規定したことは一度もないと、私は考えています。

*「岩礁」と書きましたが、この用語は適切でないかもしれません。「岩の塊」ぐらいがいいのかもしれません。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/09 12:20 投稿番号: [15647 / 18519]
>明治政府は、このリアンクール岩をのちに無主地として島根県に編入している
>からです。


  補足しておきますと日本政府は無主地の先占の立場はとっておらず、江戸時代から日本領土だった竹島を近代国際法のルールに基づき島根編入で再確認したという立場です。1933年外務省条約局作成の「國際法先例彙輯」でも竹島を編入事例としてません。
  釜山大学校の朴培根は「日本が先占のような追加的処置をとることは、近代国際法の観点から見ると論理的に可能なことであり・・・」としてます。ただ、朴は続いて実体的に先占なのだから、論理的に矛盾しないとしても日本は明治の無主地先占を主張すべきだともしています。
  結局、明治の編入が無主地先占なのか当時の国際法が要求した実効支配による権利の継続なのかは、編入時に「無主地」であったかどうかに帰着すると思われます。また、その判断は国際司法裁判によるしかないと思われます。江戸時代の実効的支配の権原が成立し、その後の日本の委棄が成立してないと判決されれば日本の主張のとおりとなります。
  朴教授は無主地先占を主張するように有難い提言をしているわけですが、わざわざ自分の選択肢を減らす必要はありません。「江戸時代からの実効支配の権原が駄目なら明治の先占の権原」という2段構えの主張でいいと思います。リギタン島とシパダン島の判例でもこのような複数の権原の主張は認められています。
  なお、半ケツが「明治政府が竹島を認識してなかったのでは」と言っているようですが、例え認識があまりなかったとしても国際法上はあまり意味がありません。東グリーンランドやクリッパートンの判例にあるとおり長期に渡る実効支配や領有意志の断絶があったとして明確な権原の委棄の意志表示が必要となるからです。

  細かいことを言っているようですが、国際法上の根拠に乏しい(というか全くない)韓国の主張の1つが「明治時代に無主地を編入したということは、江戸時代から日本領土だったことと矛盾する」なので。(だからといって、エストッペルに問えるわけでも、韓国の権原が証明されるわけでもありません。負け犬の遠吠えみたいなものでしょうね)

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/09 10:14 投稿番号: [15646 / 18519]
>そうだとしたら、日本の地理や地誌、国境を公的に画定する機関の内務省地理局は、当時、竹島=独島の存在を認識していなかったか、あるいは無視していたことになります。そのような島は日本領とは何らの関係もないし、領有権論争の対象にすらなりません。

何も描かれていない以上、地理局にリアンクール岩の認識があったかどうかは不明ですが、「大日本府県分轄図」と完全に位置が一致する勝海舟の地図などを見れば、認識していた可能性が高いですね。単なる岩礁のようなものとして。

リアンクール岩は竹島・松島として認識されていなかった。そして、それについては仰るように日本領土とも何とも規定されていない、というのが私の理解です。領有権論争の対象にすらならないとのご意見については、あいにく首肯できませんが。なぜなら、明治政府は、このリアンクール岩をのちに無主地として島根県に編入しているからです。

ところで、半月城さんのご意見では、つまり、地理局は松島をリアンクール岩と把握していた。そして、その位置は「磯竹島略図」に基づいて現在の鬱陵島の位置で把握され、「大日本府県分轄図」でもそのように描かれたということでしょうか。地理局がリアンクール岩を現在の鬱陵島の位置で理解したなど、私は、無茶苦茶だと思いますが。

あるいは、リアンクール岩のことはともかくとして、単純に日本海に二つの島があり、その二島が放棄された。それは「磯竹島略図」を基とした「大日本府県分轄図」でもうかがえる位置で認識されたのだ、ということでしょうか。私はそれでも構いませんが。結局、鬱陵島から向こうの二つの島を放棄した、ということでしょうから、私の理解と大差ありません。

>また、些細なことですが、ahirutousagi2さんは隠岐と松島間の距離だけに着目しているようですが、私は一部だけをみるのではなく、それも含めて朝鮮と竹島間の距離など、総合的な位置関係に着目しています。そうした相互の位置関係の結果として「大日本府県分轄図」が書かれたのだと考えていますので、念のため。

たまたま隠岐と松島間だけをあげましたが、総合的な位置関係を見て、全然ずれていると申し上げたのですよ。

まず、距離が滅茶苦茶です。方向もずれています。良心的に、距離を無視して距離の割合だけで考えてみても、なぜこの位置で考える必要があったのかは疑問です。

距離を無視して距離の割合(隠岐〜朝鮮のあいだで、隠岐〜松島:47%、松島〜竹島:23%、竹島〜朝鮮:30%程度)で考えるのならいくらでも場所の策定は任意でできるわけですが、わざわざ方向までずらして考える必要はありません。

所詮、半月城さんが、「大日本府県分轄図」は「磯竹島略図」を基にしていると考えないと都合が悪い、ということではないでしょうか。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/08 22:25 投稿番号: [15645 / 18519]
   半月城です。

   ahirutousagi2さん、
>むしろ「大日本府県分轄図」の竹島・松島が、アルゴノート・ダジュレーと位置が完全に一致していることをそのまま認めれば何の問題もないことです。

   そうだとしたら、日本の地理や地誌、国境を公的に画定する機関の内務省地理局は、当時、竹島=独島の存在を認識していなかったか、あるいは無視していたことになります。そのような島は日本領とは何らの関係もないし、領有権論争の対象にすらなりません。
   また、些細なことですが、ahirutousagi2さんは隠岐と松島間の距離だけに着目しているようですが、私は一部だけをみるのではなく、それも含めて朝鮮と竹島間の距離など、総合的な位置関係に着目しています。そうした相互の位置関係の結果として「大日本府県分轄図」が書かれたのだと考えていますので、念のため。

竹島問題研究会の品位、下條氏への批判4

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/08 22:20 投稿番号: [15644 / 18519]
   この批判に対する下條氏の反論ですが、ちょっと首をかしげざるをえません。下條氏はさきの問題発言につづけてこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   それは池内氏の研究が、これまで日本側が『隠州視聴合記』の「此州」を欝陵島と解釈し、江戸時代にも竹島を日本領としていたとする見解を、根底から覆すものだったからだ。池内氏は、「此州」を隠岐島と解釈し、鬱陵島を日本の西北限とする日本側の主張は成立しないとしたのである。
   だが「此州」を隠岐島と解釈したのは、池内氏の初歩的なミスである。『隠州視聴合記』を編述した齋藤豊仙は、隠岐島の位置を説明する方法として、島後の西郷を基点とし、各方位にあたる地名を挙げた。
   基点の西郷から「北西の間」に松島と竹島があり、「此州」から朝鮮がみえるのは、出雲から隠岐島が見えるのと同じであるとしたのである。松島と竹島の内で、朝鮮を見ることができる位置にあるのは、欝陵島の外にない(注4)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   下條氏の説はつづくのですが、ここまで書いただけで下條氏の問題点は明らかです。下條氏は、<「此州」から朝鮮がみえるのは、出雲から隠岐島が見えるのと同じ>と書きましたが、これは池内氏の批判を受けて、「日本領」を「此州」に書き改めたようです。
   しかし『隠州視聴合記』にはそのような記述はありません。また、高麗の見える竹島・松島は『隠州視聴合記』の文脈上で「此州」に含まれません。そもそも、両島が「此州」に含まれると解釈されるのなら、日本の限界が文脈上「此州」にせよ、あるいは竹島・松島にせよ、どちらでも日本の限界は「此州」の中の竹島・松島ということになり、日韓間で「日本の限界」論争が起きる余地はありません。
   両国政府共に竹島・松島が「此州」に含まれないと解釈したからこそ、そのような論争が生じたのでした。これには研究者間でも異論はないようです。結局、<「此州」から朝鮮がみえるのは・・・・>などという下條氏のくだりは、これもやはり「誤読」といえます。

   以上のようにたび重なる変説をしてきた下條氏が、実証的な研究で論説にほとんどブレがない池内氏の論説に対し「初歩的なミス」などとのたまうのは滑稽にみえます。竹島=独島問題の本当の障害は、たび重なる変説や迷走で世人を惑わせてきた御仁にあるのではないでしょうか。

(注1)下條正男「竹島論争の問題点」『現代コリア』P31,1998年7,8月号
(注2)半月城通信<安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判>
   http://www.han.org/a/half-moon/hm119.html#No.897
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,P65,2004
(注4)竹島問題研究会『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』P4,2007
(注5)池内敏「隠岐・村上家文書と安龍福事件」『鳥取地域史研究』第9号,2007,P14)
   (竹島=独島論争)http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ikeuchi2007.pdf
(注6)田保橋潔「鬱陵島   その発見と領有」『青丘学叢』第3号,1931,P20
   (竹島=独島論争)http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/tabohashi1931.pdf
(注7)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』第25集,2005,P145
   半月城通信<『隠州視聴合記』の最新解釈>
   http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.844

竹島問題研究会の品位、下條氏への批判3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/08 22:01 投稿番号: [15643 / 18519]
   池内氏の痛切な批判に対し、下條氏はまさか意趣返しではないのでしょうが、池内敏氏の研究を「竹島問題の障害」と極言しました。その衝撃的な問題発言は次のとおりです。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
竹島問題の障害
   最後に、「竹島問題研究会」が調査研究を進める中で、障害となったものがある。池内敏氏による一連の『隠州視聴合記』研究である。池内氏の論稿は、韓国側の『独島論文翻訳選2』に韓国側の主張を補強する文献として紹介された(注4)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   よりによって、碩学の研究に対して「調査研究をすすめる中で、障害になった」という放言は聞き捨てなりません。見解のことなる研究に「障害」とのレッテルをはるような手法は、真実を追究する姿勢とはほど遠いものです。しかも放言は下條氏個人の名ではなく、「竹島問題研究会」の名のもとになされたことは重大です。同研究会の品位を疑わせます。

   かくも下條氏にショックを与えた池内氏の論文については一年前に紹介したとおりです。そこで下條説に対する批判がこうなされました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   下條正男説は、結局のところ「見高麗如白雲州望隠岐、然則日本之乾地   以此州為限矣」だけを抜き出して読み、誤解した、田川孝三の同じ轍を踏んでいる。先述したように「見高麗如白雲州望隠岐」のどこにも竹島(鬱陵島)が日本領とは書いていないばかりか、「隠州視聴合記」すべてを精読してもそうした記述は出てこない。
   にもかかわらず、「「高麗を見ること雲州の隠州を望むがごとし」は、高麗(朝鮮)を見ている位置は当然日本領と認識しているわけで、竹島、欝陵島、隠岐島の中で雲州(島根)から隠岐島を見るように朝鮮が見えるのは、欝陵島だけしかない」[下條正男一九九六・六九頁]とか「日本領から高麗(朝鮮)を望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである」[下條正男二〇〇四・一七一頁]などとするのは、竹島(鬱陵島)が日本領と書いてあるとする思いこみである。
   そうした思いこみの補強説明として、「『隠州視聴合記』が書かれた当時の出雲藩には、竹島(鬱陵島)を日本領として認識するだけの事情があった」[下條正男二〇〇四・一七一頁]という。その主たる論拠は、米子の大谷・相川両家が竹島渡海を繰り返していた事実が「隠州視聴合記」に記載されているというところに求められている。
   たしかに、大谷・村川両家は、「竹島渡海免許」を受けて、年に一度、竹島(鬱陵島)へ渡海し、数ヶ月 同島に滞留しながら漁業活動を行った。大谷・村川両家は、竹島(鬱陵島)および松島(竹島/独島)を将軍家から拝領したと述べているから、これをもって日本領と認識したと考えがちである。
   しかしながら、「竹島渡海免許」は、大谷・村川両家が同業の競合者を排除するために、旗本阿部家を介して得た「渡海免許」であり、したがって竹島(鬱陵島)へ大谷・村川家および同家に雇われた者以外は渡海できなかった。また竹島(鬱陵島)へは毎年一度渡海したのみであって、漁期が終われば鳥取藩領に戻ったから、誰もそこに居住しなかった。こうした状態は、客観的にみたときに「日本領」であったとは言いがたい。
   また、少し後のこととなるが、元禄八年(一六九五)一二月、鳥取藩江戸藩邸は老中阿部正武の問いに対し「竹島は因幡・伯耆附属にては無御座候」と述べた。これを受けて翌年正月九日、対馬藩国元家老に対し、「(竹島は)因幡・伯耆江附属と申二而も無之」「日本人居住候か、此方江取候島に候ハハ今更遣しかたき事候得共、左様之証拠等も無之」などと述べた[池内敏二〇〇一・一九−二〇頁]。すなわち鳥取藩は、竹島(鬱陵島)を鳥取藩領としたことがないと述べ、幕府も自分の領土としたことがないと明言しているのである。
   大谷・村川家が竹島(鬱陵島)で排他的に漁業活動をしてきただけであって「日本領」ではなく、そのようにも認識されてはいなかった(注7)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

竹島問題研究会の品位、下條氏への批判2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/08 21:59 投稿番号: [15642 / 18519]
   このように下條氏は冒頭の説を変更して、安龍福のいう于山島は竹島=独島であると断定しました。ところが最近になって下條氏はまたまた変説をおこなったようです。驚いたことに竹島問題研究会の最終報告書において下條氏はこう記しました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  では安龍福は、何故「于山島は松島なり」としたのか。それを知る手がかりは、最終報告書に収録した「竹島紀事」にある。幕府の命を受け、朝鮮側と交渉した対馬藩は、交渉の経緯を文献を中心に編年体にまとめ「竹島紀事」としていた。
  その中には、対馬藩の取調べを受けた安龍福の証言も記録されており、于山島に対する安龍福の知見を知ることができる。それによると、安龍福は、欝陵島より「北東に当たり大きなる嶋あり」、彼島を存じたるもの申し候は于山島と申し候」と証言している。この証言から見ても、安龍福が主張する于山島は、今日の竹島ではない。安龍福が見たのは、地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹島)である。チクトウは安龍福が漁撈活動をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し、竹島は欝陵島の東南にあるからである。だが于山島を松島とした安龍福の証言は、「東国文献備考」の分註に載せられ、歴史的事実とされてしまった(注4)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   このように下條氏はみずからの解釈や主張を再度変え、今度は安龍福の于山島像をチュクト(竹島)にしました。最初の段階で下條氏はチュクト説を捨てていたのですが、それをひっくり返したようです。何とも人騒がせな変説です。
   そうなると、自己の当初の指摘「船で一日の距離」あるいは「欝陵島より頗る大きな島」という考察をどう処理するのでしょうか?   チュクトは欝陵島からわずか数kmの位置なので、船で一日どころか、一時間の距離であり、しかも欝陵島より「すこぶる小さな島」になります。
   下條氏の再度の変説は、いかにも支離滅裂のように見受けられます。しかし、このような見方は私だけではなかったようです。名古屋大学の池内敏氏は、下條氏の隠岐島説を「荒唐無稽」であるとしてこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   安龍福を虚言癖の男と評価する流れは、近年では下條正男に代表される。しかしながら、たとえば安龍福が見た松島(竹島=独島)は竹島/独島ではなく隠岐島だったとする下條正男の主張は荒唐無稽である。
   安龍福が竹島(鬱陵島)および隠岐諸島と区別された島として松島(竹島/独島)を認知していたことは隠岐・村上助九郎家文書によりはっきりしたが、そもそもから右主張は『邊例集要』の誤読にもとづく誤謬であった。こうした誤謬がもたらされた背景には、安龍福を虚言癖の男とする評価への過剰なこだわりがある(注5)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   池内氏は、下條氏が「安龍福を虚言癖の男とする評価への過剰なこだわり」から「誤読」をおかしたと批判しましたが、まさにそのとおりと思われます。安龍福の朝鮮における供述は基本的に手柄話・自慢話なので、それを割り引いて真偽を究明する必要がありますが、その努力が欠けているようです。
   ちなみに、竹島=独島問題の先駆的な研究者である田保橋潔は、安龍福は「徒に大言を弄する嫌はあるが、(供述は)大體において事實と信ぜられる」と評しました(注6)。これについては、さらなる検討を要します。
(つづく)

竹島問題研究会の品位、下條氏への批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/08 21:57 投稿番号: [15641 / 18519]
   半月城です。

   下條正男氏は、安龍福のいう于山島がどこをさすのかについて、またまた主張を変えたようです。まずは下條氏の変説の遍歴をたどることにします。
   当初、下條氏は、安龍福が1693(元禄6)年にみた于山島は現在の竹島=独島でなく、隠岐島を見誤ったものだとしてこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   安龍福が見た于山島とは、どの様な島であったのだろうか。そこで安龍福の発言を手がかりにしていきたいと思う。それは次の二点である。

(1)于山島は「欝陵島より頗(すこぶ)る大きな島」であった。(『邊例集要』)
(2)于山島は「欝陵島の北東に位置する大きな島で、船で一日の距離」にあった。(『竹島紀事』)
  ・・・・・・
   欝陵島の北東に位置する「竹嶼」を于山島と認識していた安龍福は、欝陵島の東南の地点で拉致され、そこから隠岐島に向う船上で島影を目撃したため、夕闇の中の隠岐島を「頗る大」きな于山島と思いこんだのであろう。
  実際に隠岐島の面積は、欝陵島の4.7倍程度であったからだ。こうして隠岐島を于山島と誤認した安龍福は、「竹島は朝鮮領の于山島である」と供述したのである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   下條氏は、于山島が竹島=独島である可能性については、いともあっさり「(欝陵島の)北東に見える島は、勿論現在の竹島ではない」として、方角違いを理由に否定したのでした。そうしておきながら、欝陵島の「東南」にある隠岐島こそ安龍福がいう于山島だったと書きましたが、これは明らかに矛盾しています。
   なお、竹島=独島は、八方位式でいえば欝陵島の東に位置するので、北東というのはまったくの方向違いというわけでもありません。これについてはすでに書いたとおりです(注2)。

   その一方で、この時に下條氏が安龍福の于山島像を「竹嶼」すなわち韓国名のチュクト(竹島)としなかった事実は注目にあたいします。下條氏は、安龍福は「「竹嶼」を于山島と認識していた」と理解していたにもかかわらず、安の于山島像を「竹嶼」ではなく、隠岐島としたのでした。
   その理由は、チュクトが「船で一日の距離」という記述に反するためでしょうか?   あるいは「欝陵島より頗る大きな島」という説明に反するからでしょうか?

   こうした主張の後、下條氏は『竹島は日韓どちらのものか』においてこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  (元禄9年)安龍福をはじめ 僧 雷憲、劉日夫、李仁成ら11人は、それより先の5月20日、舟で隠岐島に着くと出雲藩の代官に、自分たちは竹嶋(鬱陵島)へ渡海した朝鮮舟32艘の内の1艘で、「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟ノ為 渡来」したと伝えていた。
  ・・・
   安龍福はこのとき、「鬱陵 于山両島監税」という実在しない官職を僭称していた。安龍福としては、「鬱陵 于山両島」と称することで、鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の官吏としてやってきた、と言いたかったのだろう。つまり、鬱陵島と于山島も朝鮮領であるという主張である。
   鬱陵島は理解ができるとしても、問題は于山島である。
   先に『太宗実録』に、太宗17(1417)年2月、于山島から島民を引き揚げることになった、と記されていると述べたが、そこに出てくる于山島は竹嶼とも称される鬱陵島の近傍の小島である。
   しかしここで安龍福が言っている于山島は、その竹嶼のことではない。では、どこを指していたのか?   じつは、今日の竹島なのである。安龍福は、于山島を今日の竹島と思い込み、鬱陵島とともに朝鮮領だと主張したのである(注3)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

Re: 舩杉氏への批判?1(訂正)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/08 21:14 投稿番号: [15640 / 18519]
「大日本全國略圖」→勝海舟「大日本国沿海略図」の間違いです。

誤:竹島・松島の位置が「大日本府県分轄図」と「大日本全國略圖」をはじめとする政府関連機関の地図と、完全に、あるいはほぼ一致することはあくまで偶然であり、位置情報が相当に異なる「磯竹島略図」こそが「大日本府県分轄図」の基になっているということのようです。


正:竹島・松島の位置が「大日本府県分轄図」と勝海舟「大日本国沿海略図」をはじめとする政府関連機関の地図と、完全に、あるいはほぼ一致することはあくまで偶然であり、位置情報が相当に異なる「磯竹島略図」こそが「大日本府県分轄図」の基になっているということのようです。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/08 21:02 投稿番号: [15639 / 18519]
そうですね。私の意見と一致するということはないでしょうが、ともあれ半月城さんもどうやらリアンクール岩の地理認識で太政官が版図外としたという理解はしていないようにも見えますね。

ともあれ、この部分については、以前に、14664, 14826あたりですでに論議したことがあるものです。

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明治政府は「版図の取捨は重大之事件」との緊張感を持って竹島、松島を版図外にしました。それを ahirutousagi2さんは「その地理的な位置理解は、いわゆるアルゴノートとダジュレーに該当」と決めつけていますが、それでは明治政府の官僚をあまりにも見くびりすぎるのではないでしょうか。かれらはそれほど無能ではないと思います。
(14664)
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つまり、半月城さんの理解はアルゴノート・ダジュレー島と見まがうほど彼らは無能ではない、というものでした。で、

----------------
その十年前の1867年、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら、アルゴノートに相当する「竹島」は島の輪郭の半分が点線で書かれました。これを「疑存」の島というのでしょうか。勝海舟すら島の存在を半分疑問視していたようです。
   ahirutousagi2さんは、そんな地図を主張の柱にすえ、内務省の地理局はそうした疑存の島の位置情報を信じたと考えるのでしょうか?   たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。
(14826)
----------------

竹島・松島の位置が「大日本府県分轄図」と「大日本全國略圖」をはじめとする政府関連機関の地図と、完全に、あるいはほぼ一致することはあくまで偶然であり、位置情報が相当に異なる「磯竹島略図」こそが「大日本府県分轄図」の基になっているということのようです。

正直、いずれにしても私にはどうでもいいようにも思えてきています。半月城さんまで認めているように、松島は鬱陵島の位置で考えられていたということだけが確認できればそれでいいのです。

そして、竹島・松島の版図外との判断は確かにあったけれども、リアンクール岩=松島としての理解から版図外にされたことは、少なくとも資料上確認できないということで充分のように思います。

私は、明治政府は、リアンクール岩は無主地としての、岩礁のごときものに過ぎないと考えていたと思っています。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: take_8591 投稿日時: 2007/07/07 23:27 投稿番号: [15638 / 18519]
  次の舩杉氏の見解が[No.15629]に示されています。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  又、半月城さんの見解が[No.15630]に示されています。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。
  隠岐と松島間;   隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東80里(320km)ばかり
  松島と竹島間;   松島より磯竹島を隔てる北東40里(160km)ばかり
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  然即、磯竹島略図に隠岐から320km離れていると記されている「松島」は、157km離れているリャンコ島と捉えるよりも、245km離れているダジュレー島と捉える方が妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していないことは明らかである。
  と、半月城さんがその主張を変更したことの表明であると考えられます。

  この半月城さんの新しい見解は、ahirutousagi2さんの見解と一致し、日本の竹島固有領土説に何らの瑕疵がないことを表明したものと認められます。

  私の様な初心者は、どうしても、この様に捉えますね。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/07 22:54 投稿番号: [15637 / 18519]
その通りなんですけど、半月城さんはそもそも独島=韓国領ということが出発点ですから、資料の整合性とかはあまり考えていらっしゃらないようですね。

単純な話なのですが…。

半月城説:「大日本府県分轄図」は「磯竹島略図」を基にして描かれた。
アヒル説:「大日本府県分轄図」はアルゴノート・ダジュレー島の位置に完全に一致する(他の政府機関の地図と関連する)。

それだけの話。これが半月城さんは、認められないようです。いや、認めているのでしょうが(認められないはずはない。地図でそうなっているのですから)、「たまたま」だとのお話でした。

どう見ても、「大日本府県分轄図」は「磯竹島略図」と、相当ずれているんですけどね…。まぁ、「大日本府県分轄図」がアルゴノート・ダジュレー島の認識を反映していると考えると、都合が悪いのでしょう。

Re: 舩杉氏への批判?1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/07/07 20:10 投稿番号: [15636 / 18519]
>むしろ「大日本府県分轄図」の竹島・松島が、アルゴノート・ダジュレーと位置
>が完全に一致していることをそのまま認めれば何の問題もないことです。

イギリスのアルゴノート島の緯度・経度をプロットすれば一目瞭然なんだけどね。
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/takeshima/eng/japan/img/Interior.gif

舩杉氏への批判?2

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/05 17:11 投稿番号: [15635 / 18519]
第二に、「数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は磯竹島略図くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです」というのもどうでしょうか。上記、勝海舟「大日本国沿海略図」一つをとっても、大変に詳細に記されているもので、他の地図を無視して「磯竹島略図」だけが詳細であるというのは理解に苦しみます。

もとより半月城さんは「大日本府県分轄図」において竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置に描かれたことは「たまたま」だと仰っていました。その「偶然の一致」の後付けをするためには、他の地図を無視してかなりのずれがある「磯竹島略図」に依存するしかないのかもしれません。

また、そもそも半月城さんの言うとおり太政官が竹島・松島を「磯竹島略図」の位置で考えたとして、その反映が地理局の「大日本府県分轄図」のアルゴノート・ダジュレーに一致する地理認識でうかがわれるとすると、いずれにしても、太政官の判断は「鬱稜島の位置にある松島までを放棄した」という結果に落ち着きそうです。

あるいは、そもそも、1880年には、松島=鬱稜島と確定しているわけで、そこに全てが収斂されているとも言えるでしょう。

以前にも私は何度も書いていますが、太政官は確かに竹島・松島を版図外としたけれども、そこに正確な地理的な理解は伴っておらず、結局、地理的には、具体的には朝鮮から鬱稜島までの島を版図外とした、ということができると思います。

そこに伝統的な竹島・松島の理解が反映されている以上、いささかの混乱は見受けられますが、いずれにしても、結論は松島=鬱稜島として、太政官判断後にすぐに定着することになった次第であったわけです。

舩杉氏への批判?1

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2007/07/05 17:07 投稿番号: [15634 / 18519]
私は全く知らなかったのですが、舩杉氏が私がここでずっと展開してきた説明と全く同じ立場であるとは驚きました。やはり、普通に考えれば、そうなのだろうと確信を深めた次第です。

>しかしながら、これらの地図は「日本政府」の地理的認識を知るには大半が二次的な意味しか持ちません。文部省や陸軍などが竹島=独島に関していかなる認識を持とうとも、それは政府部内の一機関の認識にすぎず、地理や領土問題の担当外である政府機関の認識は決して日本政府の公式見解にはなりえません。

二次的な資料であっても、複数の政府機関から発行された地図が、当時の日本政府の理解を考える、それなりの手がかりになることに疑いはありません。

当時の複数の政府機関から発行された地図で、いずれも竹島・松島の認識がアルゴノート・ダジュレーにあったことは注目すべきであり、逆に松島をリアンクール岩とした理解を見ることができないことに気をつける必要があります。

もちろん地理局発行の地図が何より重視されることは言うまでもありません。当たり前のことです。ですから「大日本府県分轄図」(1881)の竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で記されていることも大変に重要なものです。

一方、「大日本府県管轄図」(1879)と「大日本国全図」(1880)で、竹島・松島が記されていないことも何の不思議もありません。仰るとおり、竹島・松島は日本とは関係のない土地とされたわけで記す必要はないものです。

では、なぜ「大日本府県分轄図」(1881)では竹島・松島が記されたか。私は無主地としての提示であったと理解しています。さらなる検討は必要ですが、少なくとも「朝鮮領」として記されたようには見えません。

さて、半月城さんのご意見に、次のような記述があります。
----------------------
このふたつの地図(「大日本府県分轄図」?と「磯竹島略図」:引用者注)を並べると、竹島と松島の位置が似かよっていることに気づくはずです。それもその筈です。数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は「磯竹島略図」くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです。「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。

  隠岐と松島間;   隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東[北西の誤り:引用者]80里(320km)ばかり
  松島と竹島間;   松島より磯竹島を隔てる北東[北西の誤り:引用者]40里(160km)ばかり
  竹島と朝鮮間:   磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(200km)ばかり

   この距離や方向にもとづいて「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたようです。その結果、両島の位置は朝鮮寄りになりました。
----------------------

これは、ごり押しというか、牽強付会というか、そういう類のものであるといわなければなりません。

第一に、「大日本府県分轄図」は鬱稜島の部分に松島が描かれていますが、隠岐から鬱稜島までは245kmです。経緯度までもが記された地図において、上記の説明の誤差は大きすぎるものです。

さらに、よく見てみると「大日本府県分轄図」では松島・竹島は、厳密には北西の位置にはありません。むしろ、西北西に近いものです。この距離や方向に基づいて「大日本府県分轄図」が描かれたという主張は、かなり無理があるとすべきでしょう。相当のこじ付けが必要です。

むしろ「大日本府県分轄図」の竹島・松島が、アルゴノート・ダジュレーと位置が完全に一致していることをそのまま認めれば何の問題もないことです。

たとえば、1867年   勝海舟「大日本国沿海略図」
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html
で、「大日本府県分轄図」と全く同じ位置に竹島・松島が描かれていることが確認できます(それぞれ経緯度の単位が違うので注意)。こちらとの関係や、その他の政府機関の地図と一致することを考えたほうが妥当です。

「大日本府県分轄図」と「磯竹島略図」には、かなりのずれがあります。しかし「大日本府県分轄図」と「大日本国沿海略図」に見られるアルゴノート・ダジュレーの位置は完全に一致しています。

どちらが正しい主張であるかは、地図を一目見れば分かることです。

Re: 竹島

投稿者: torezojp 投稿日時: 2007/07/04 21:02 投稿番号: [15633 / 18519]
半月城さんの相変わらずの能筆ぶりには
感服しますわい。

KUNITKAさんは勉強に精進されているご
様子   これにも感心させられますわ。

知識が   ものが   どんどん進み   愚老
だけとり残されてるようで寂しくてい
けませぬ。これも   年ですかな。

今   やっと   これを読んだところです。↓

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=407741006

島根県の最終報告書、舩杉氏への批判4

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:42 投稿番号: [15632 / 18519]
   話が国際法方面へずれてしまいましたが、舩杉氏は、さらにこう続けました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ②絵図の性格についてであるが、この絵図は、一連の文書の添付資料として付けられたもので、享保年間作製の大谷家所蔵絵図を写したものとされる。すでに指摘したように、この絵図の記載内容は、元禄絵図の内容であり、享保期に鳥取藩が作製し、幕府へ提出した享保絵図とは異なっている。またこの絵図は江戸時代の絵図であるため、経緯度も記されていない。つまり、この絵図は江戸時代中期の空間認識を示したものである。史料を検討する際には、こうした江戸時代の添付資料ではなく、明治初期における日本政府の竹島・松島に対する地理的認識について考慮する必要がある(P155)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   これについては記述の順序が入れ替わりましたが、私の見解はうえに書いたとおりです。すなわち、明治初期における日本政府の公的な竹島・松島の地理的認識は「磯竹島略図」の空間認識を引き継いだ「大日本府県分轄図」に代表されますが、竹島と松島の二島は日本の領土外という認識をもち、隠岐の沖合に日本の領土は存在しないという認識をもっていました。それは元禄時代に朝鮮となされた「竹島一件」交渉の結末を受けいれたものであり、両島を朝鮮領と認識したからでした。

(注1)地図資料編纂会編『明治前期 内務省地理局作成地図集成』柏書房、1999
http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin2/bookisbn.cgi?isbn=ISBN4-7601-1717-2&backurl=../index.htm&backlist=1
(注2)下記「近代デジタルアーカイブ」で「大日本府県分轄図」を表示可能
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
(注3)半月城通信「磯竹島略図」
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf
  隠岐島後福浦ヨリ松島ヲ距ル乾位八十里許
  松島ヨリ磯竹島ヲ距ル乾位四十里許
  磯竹島ヨリ朝鮮國ヲ遠望スル酉戌ニ當リ海上凡五十里許
(注4)奥原碧雲「竹島沿革考」『歴史地理』第8巻第6号、1906、P464
(注5)芹田健太郎『日本の領土』中公叢書、2002、P153

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

島根県の最終報告書、舩杉氏への批判3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:40 投稿番号: [15631 / 18519]
   陸上の里と区別するために、海里は「浬」と書かれることは周知のとおりです。ただ、明治初期には里が海里を意味したこともありました。しかし、奥原は140海里(259km)と70里をほぼ同じ距離にみていたので、70里は280kmになります。
   これについては、なお人文地理学(歴史地理学)専門家のご意見を待ちたいと思いますが、それにより舩杉氏の信頼性や権威がどうなるか興味津々です。

   話が多少わきにそれましたが、結論として、明治初期、国境画定部署であった内務省の認識、ひいては日本政府の公的な認識は、一貫して竹島と松島を日本の版図外とするものであり、両島の地理的理解は江戸時代の絵図から作成された「磯竹島略図」の空間認識を引き継いだものでした。
   これは当然です。内務省は慎重に島根県の伺い書に書かれた竹島、松島の記述や「磯竹島略図」にもとづいて「重大事」を判断したのですから、同図の空間認識を引き継いだことはいうまでもありません。

   他方、舩杉氏は「磯竹島略図」についてこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  上記「磯竹島略図」の解釈についてであるが、以下のことが指摘できる。
  ①一連の文書では竹島外一島は日本領ではないとは書いてあるが、現在の竹島が朝鮮領であるとは書かれていない。現在の独島を韓国領であると日本政府が認めたという解釈は明らかに間違っている。日本領ではないと規定しただけである。朝鮮領であると証明するには、朝鮮側の史料で、朝鮮王朝が島を実効支配していた根拠を提示しなければならない(P155)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   舩杉氏がここにいう「竹島外一島」が竹島と松島を指すのかどうか、かならずしも明確ではないようですが、ここではそれを「磯竹島略図」に描かれた竹島と松島、すなわち欝陵島と竹島=独島であるという理解で議論を進めることにします。
   たしかに「公文録」や「磯竹島略図」には、現在の竹島=独島が朝鮮領とは記されていません。しかし、同省が竹島、松島を日本の版図外と判断するにあたり、元禄時代になされた朝鮮との外交交渉の記録を精査し、その時に日本が朝鮮国の竹島(欝陵島)領有権を認めた交渉結果をそのまま受けいれました。これは暗に内務省が竹島外一島を朝鮮領と認めたことを意味するのではないでしょうか。
   また、舩杉氏は「朝鮮領であると証明するには、朝鮮側の史料で、朝鮮王朝が島を実効支配していた根拠を提示しなければならない」として、話を国際法へ飛躍させていますが、この主張は日本政府の主張にすら反するのではないでしょうか。国際法の専門家である芹田健太郎氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを争わなければ、それで領有するには充分であった、と認められる、というものである(注5)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この論理を朝鮮にあてはめるとどうなるでしょうか。太政官の版図外指令当時、朝鮮はやっと開国が緒についたばかりで、国際法で領土を云々するような時代ではありませんでした。その一方、当時の朝鮮では官撰史書の『萬機要覧』(1808)などでたびたび「欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」と認識し、日本でもそれを争いませんでした。それどころか、日本では太政官が松島(竹島=独島)を朝鮮領と認識していました。朝鮮の竹島=独島領有根拠は、当時としては充分ではないでしょうか。

島根県の最終報告書、舩杉氏への批判2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:21 投稿番号: [15630 / 18519]
   明治前期における日本政府の公的認識はあくまでもこの三つの資料を中心に論じるべきです。まず、(1)「大日本府県管轄図」ですが、ここに松島と竹島は掲載されませんでした。この地図作成の二年前、内務省は島根県から提出された伺い書にある「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版図外と判断し、しかも「版図ノ取捨ハ重大之事件」との認識をもち、念のために最高国家機関である太政官から公的な版図外指令をえました。そうした経緯からすると、日本の版図を示す同省の地図に竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)が描かれないのは当然です。
   同様に(2)「大日本国全図」も両島を記述しませんでした。問題は(3)「大日本府県分轄図」です。これについて舩杉氏は「大日本府県分轄図は松島を山陰道として彩色している」と報告書に記しましたが、前記の書籍は白黒写真のため、カラーは確認できませんでした。いずれ彩色の具合を確認したいと思いますが、国会図書館の「近代デジタルアーカイブ」でも色は確認できませんでした(注2)。

   舩杉氏は、報告書において地理担当外部署の地図を大きく掲載しましたが、かんじんな地理局の「大日本分轄図」や、焦点の「磯竹島略図」はなぜか掲載しませんでした。同氏は「磯竹島略図」を伝えた中央日報の記事を「重要な史料」と紹介しながら、核心の「磯竹島略図」を掲載しないのは理解に苦しみます。両図は日本にとって好ましい地図でないだけに、資料の取捨にバイアスがかかっているといったら言い過ぎでしょうか。
   このふたつの地図を並べると、竹島と松島の位置が似かよっていることに気づくはずです。それもその筈です。数ある地図の中で松島と竹島の位置情報が詳細に記されている地図は「磯竹島略図」くらいしかないので、内務省はそれを参考にしたようです。「磯竹島略図」に両島などの位置関係がこう記されました(注3)。

  隠岐と松島間;   隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北東80里(320km)ばかり
  松島と竹島間;   松島より磯竹島を隔てる北東40里(160km)ばかり
  竹島と朝鮮間:   磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(200km)ばかり

   この距離や方向にもとづいて「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたようです。その結果、両島の位置は朝鮮寄りになりました。なお、「大日本府県分轄図」に竹島と松島が描かれたといっても、各府県の管轄図に描かれたのではなく、「朝鮮」や「魯西亜領 満州」を含む極東図である「大日本全国略圖」だけに両島が描かれました。したがって、着色は別途確認するとして、モノクロ図で見るかぎり両島を日本領とみるのは困難です。ましてや、いずれかの府県に所属するものでもありません。

   ところで、これらの地図に書かれた松島と竹島間の距離40里(160km)ですが、舩杉氏は40里を下記のように72kmとしているのは注目されます。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   一連の絵図では、両島(竹島と松島、半月城注)の距離はたいてい40里と描かれている。これは海里であり、約72kmである。むしろ日本の絵図の方が実際の距離(92km)に近いといえる(P128)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この一節には驚きました。絵図の時代には、経緯度の1分に相当する海里(1852m)の単位は西洋からまだ導入されていなかったはずですが、人文地理学(歴史地理学)の専門家が自信たっぷりにおっしゃるので、念のために江戸時代の「里」について調べることにします。
   1801(享和元)年に書かれた矢田高当『長生竹島記』にこんな記述がありました。

  「隠岐島後より松島ハ方角申酉の沖に当る卯方より吹出す風二日二夜〓り 道法三十六丁一里として海上行程百七十里程」

   矢田は36丁を1里としていますが、1丁(町)は約109mであり、1里は約4kmになります。これは、明治の人もそのように理解しました。たとえば、奥原碧雲はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   隠岐の西北七十余里にして竹島ありと見ゆるは、まさしく欝陵島にあたり、水路誌に見えたる海上百四十浬に殆ど符合す(注4)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

島根県の最終報告書、舩杉氏への批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/01 22:20 投稿番号: [15629 / 18519]
   半月城です。

   前回、紹介したように、島根県 竹島問題研究会の下條正男座長は最終報告書において、明治政府の『公文録』付属の地図「磯竹島略図」に書かれた磯竹島(竹島)を現在の欝陵島、松島を竹島=独島と認めました。そのうえで『公文録』本文に書かれた竹島も松島も共に現在の欝陵島であり、竹島=独島ではないと強弁しました。
   一方、同研究会で人文地理学(歴史地理学)が専門の舩杉力修委員は、こうした下條説を踏襲しているのかどうか、あまりはっきりしないのですが、『公文録』に書かれた「外一島」は現在の竹島=独島かどうかの断定を避けて、懐疑的にこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島(実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、いわゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   舩杉氏は、このような疑問をもった背景説明として太政官の版図外指令のあった明治10(1877)年前後に描かれた日本政府の下記の地図を引用しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(1)1875年(明治8)陸軍参謀局「朝鮮全図」【図3−15】。
(2)1875年(明治8)陸軍参謀局「亜細亜東部輿地図」【図3−16】。
(3)1876年(明治9)海軍省水路局、海図「朝鮮東海岸図」。
(4)1877年(明治10)文部省「日本全図」。
(5)1881年(明治14)内務省地理局「大日本府県分轄図」(全図)。
(6)1882年(明治15)内務省地理局「朝鮮全図」【図3−17】。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   しかしながら、これらの地図は「日本政府」の地理的認識を知るには大半が二次的な意味しか持ちません。文部省や陸軍などが竹島=独島に関していかなる認識を持とうとも、それは政府部内の一機関の認識にすぎず、地理や領土問題の担当外である政府機関の認識は決して日本政府の公式見解にはなりえません。
   日本政府の公式見解は、1877年ころなら国境画定の役割をもった内務省、および最終的に太政官が示すことができました。時代がくだると、国境画定機関は、やがて海軍省から独立した水路部がになうようになりますが、太政官が「竹島外一島」を版図外とした当時は内務省の地理局が担当機関であり、その部署で公的な日本地図や地誌が作成されました。

   さて、政府の日本領土に関する公的な認識を知るうえにおいて、上記(6)の「朝鮮全図」も参考程度にしかなりません。当時は、日本の地理局が朝鮮領土をすべて正確に認識するのは望むべくもありませんでした。この地図も除外されるとなると、上記で残るのは地理局の(5)「大日本府県分轄図」のみになります。
   といっても、領土に関する日本政府の公的認識を知るには、上記の(5)だけでは充分ではありません。舩杉氏は、なぜか地理局発行の他の地図を引用せず、地理担当部署と雑多な機関の地図とを峻別せず、ミソもクソもいっしょくたにしましたが、地理局発行の地図はすべて重要です。
   上記以外に地理局からどのような地図が発行されたのか、これは書籍『明治前期 内務省地理局作成地図集成』から容易に知ることができます(注1)。関連する地図は下記のとおりですが、いずれも経緯度が記入されました。

1.明治12年(1879)大日本府県管轄図/地理局測量課
2.明治13年(1880)大日本国全図/地理局地誌課
3.明治14年(1881)大日本府県分轄図/地理局地誌課
(つづく)

Re: 木村蒹葭堂「華夷一覧図」の松島竹島

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/06/28 22:16 投稿番号: [15628 / 18519]
字数超過で最後が切れてしまったので、

「松島」と思しき島を「梅島」と書いているのは興味があります。「梅島」については本掲示板で初めの頃、議論がありました(Nos.541, 543, 546)。近藤正齋が「梅島」と書いた真意は分りません。活字化された『邊要分界圖考』(國書刊行会, 1905)の「今所考定分界之圖」では「マツシマ」「タケシマ」となっています。ただし、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、ヲキノシマや日本と同様に青く彩られ、朝鮮の黄色とは明かに異なります。後の人が彩色し、「松島竹島」を書き入れたのかもしれません。

木村蒹葭堂「華夷一覧図」の松島竹島

投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/06/28 22:10 投稿番号: [15627 / 18519]
有坂道子氏は「木村蒹葭堂と地図」(藤井譲治・杉山正明・金田章裕編『大地の肖像』京都大学学術出版会, 2007)で、蒹葭堂作成の「華夷一覧図」という「大清」を中心とする東半球図を紹介しています。蒹葭堂はこの図に、隠岐西北にほぼ同じ大きさで「松シマ」と「竹シマ」を描き、「日本」と同じ朱に彩色しました。

この地図は、大日本(本州)・四国・九州と蝦夷の四島の外郭を朱で縁取り、松シマ・竹シマの他、オキ(地名なし)・イキ・ツシマ・琉球諸島・伊豆諸島・無人島一名小笠原島・タ(ク)ナシリ・エトロフ等の小島を朱に彩っています。さらに、東北・関東沖とマリア島(マリアナ諸島)東方の島々も朱色です。しかし、蝦夷北方の大陸から半島状に延びたカラフトと、サカリイン(サハリン)島、及びウルフ(ウルップ)以北の千島列島は彩色されず、蒹葭堂の懐く「日本」の範囲がよく分ります。

木村蒹葭堂は長久保赤水と親しく「改正日本輿地路程全圖」の出版に尽力しましたから、「華夷一覧図」の「松島竹島」は赤水の図を参考にしたのでしょう。しかし、安永8(1779)年刊行の「改正日本輿地路程全圖」は、「松島竹島」を彩色せず、当時の赤水には「松島竹島」が隠岐國に属するという認識はありませんでした(Nos.14969, 15599)。

木村蒹葭堂が、寛政期(1790年代)作成と推定される「華夷一覧図」で、「松島竹島」を「日本」とした理由は不明ですが、17世紀の「竹島渡海」の事跡と、渡海を禁止した「竹島一件」の決着は、山陰地方以外でもかなり広く知られていたようです。

元禄3(1690)年大坂で出版された南宗庵『残太平記』は、「五十猛嶋」を鬼界嶋・八丈嶋・夷嶋・三嶋(長門國)と同様な遠島とし、産物について「此嶋ニ多キ物ハ蚫栄螺辛螺アシカ磯ノ石ヨリ多シ」と正確に記述しました。これは大西俊輝氏によって紹介され(『日本海と竹島』東洋出版, 2003)、早稲田大学図書館からネットで公開されています。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02071/index.html

伊藤東涯の『盍簪録』は、磯竹島について「因州有大屋・村河二豪民、其先嘗受官符驗、間年到島、採鰒魚海物等而歸、近爲朝鮮邊氓所占、不復得到。聞因州人言、其島多巨竹、又有猫、與此間所有者稍異。」と記しましたが、東涯の門弟で大岡忠相に重用された青木昆陽は、『草盧雜談』(1738)で「憲廟の御時、朝鮮より朝鮮の島のよしを申上ければ、竹島を朝鮮へ與へ給ふとかや、憲廟の御仁政にて與へ給ふと雖ども、地は少の所も惜むべきことなれば有司の過ちならんか。」と、竹島を朝鮮に与えたのは過ちとの見解を示しました。木村蒹葭堂と親交のあった山岡浚明の百科全書『類聚名物考』の「竹島」項は『盍簪録』や『草盧雜談』を引用しております。18世紀後半の噂話を集めた津村淙庵『譚海』は「竹島一件」決着の内情に触れています。「公儀より御尋ありしは、其島へ漁人往來致し、あはびとらされば渡世の妨にも相成事にやと有しに、さのみ漁獵のためには此島へ往來仕らずとも、渡世の妨には相ならざるよし申上ければ、然らば彼島此まで日本の領分といふ急度したる事もなきゆゑ、其まゝにさし置べきよし御下知ありて、事止たりとかや。」

このように巷間でも竹島は朝鮮に譲った島との見方が一般的だったようです。しかし、本草学者・物産家としての蒹葭堂には、「竹島渡海」で豊富な物産を日本へ持ち帰った事跡だけが強く印象に残り、「松島竹島」を日本のものとしたのかもしれません。

蒹葭堂から多くの地理情報を得ていた長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』(1790)の「亜細亜小東洋圖」で「松シマ」「竹シマ」をヲキや日本と同じ赤褐色に彩り、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5C-121/lime/5C-121_16.html
『大日本史地理志稿』「隠岐」に「別有松島竹島屬之」と書いたとも考えられます(No.15609)。

一方、幕府は「松島竹島」を朝鮮領と認めていました。近藤正齋『邊要分界圖考』(1804)は次のように記しています。「松前ヨリ西ニ航スレバ西ノ方ニ地方アリト見ユ必西ヨリ吹返シノ風出ルソノ風ニテ朝鮮ノ梅島竹島ヲ指テノルヲ大廻シト云フ。」

「松島」と思しき島を「梅島」と書いているのは興味があります。「梅島」については本掲示板で初めの頃、議論がありました(Nos.541, 543, 546)。近藤正齋が「梅島」と書いた真意は分りません。活字化された『邊要分界圖考』(國書刊行会, 1905)の「今所考定分界之圖」では「マツシマ」「タケシマ」となっています。ただし、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、\xA5

Re: フォトしまねNo.161の疑問点

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/06/27 12:11 投稿番号: [15626 / 18519]
土地調査事業報告書の別冊として発行された「朝鮮地誌資料(臨時土地調査
局編纂)1918年」でも、「島嶼ヲ含ム」朝鮮半島の極東は130度56分23秒の慶
尚北道鬱稜島竹「島」。グーグルアースででも竹嶼や鬱稜島の経度を確認するこったな。
ちなみに、慶尚北道に含まれる島嶼は「鬱稜島」「竹島」「観音島」の3島
をリストアップ。内「竹島」の面積は、0.016方里、最高地点の標高は105m。
(韓国のサイトでは、現竹嶼の標高を106mとしている)

経度が明記されていても信じないのであれば、判断できないんじゃなくて、
判断したくないだけだな。

フォトしまねNo.161の疑問点

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/25 19:19 投稿番号: [15625 / 18519]
「フォトしまねNo.161」
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/05.html

  上記をざっと読んだところ、どうにも引っかかる箇所があったので記録します。

>「朝鮮現勢便覧(1935年版)」などでは、領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」とし、位置は「東経130度56分」とされた。

  「朝鮮現勢便覧」は当時の朝鮮総督府が発行していたものですが、日本統治時代には鬱陵島の東側2Kmほどに在る竹島は「竹嶼」と呼称されており、「竹島」の呼称が復活するのは独立後の筈と思っていました。(『韓国水産誌』他)
  それまでは、鬱陵島の近海で竹島と云えば現在の獨島のことであり、日本統治時代以前の竹島は紛らわしいため竹嶼の呼称が与えられていました。
  やはり「朝鮮現勢便覧(1935年版)」の原本を見ないと何とも判断できませんが、領土の範囲に無人の岩礁等を含めないのは他の史料でも前例のあることなので有り得る話とも思われ、「フォトしまねNo.161」の記述だけでは何とも判断がつきかねます。
  また崔南善の「朝鮮常識問答(初版)」も同書を引用したのならば、同様の疑問が湧くことになるでしょうけれども、これがマッカーサーライン(フォトしまねでは平和線=李承晩ライン)の根拠になったのだとすれば、当時の人々は或いは素直に「慶尚北道鬱陵島竹島」と書かれれば直ちに現在の獨島と解釈したのかもしれませんし、また、違うのかもしれません。
  いずれにせよ、「朝鮮現勢便覧」を見てみたいものです。

島根県の最終報告書、下條氏への批判3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/24 22:42 投稿番号: [15624 / 18519]
   この史料で大谷家が漂着したのはまぎれもなく竹島(欝陵島)とされました。さらに、大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1617年ではなく、1650年代だったことが大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られており、上記の文脈に合いません。
   このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始しているのであり、したがって「この地」は松島ではあり得ません。さらに、下條氏は「現在の竹島については何も書かれていない」と記しましたが、上記「由来の概略」には松島について島の大きさや位置、産物などが間違いなく書かれています。それを再掲します。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この文章は、大谷家文書などをもとにして島根県によって書かれただけに、松島が今日の竹島=独島をさすことは疑いありません。また、この記述は、島根県が同時に提出した磯竹島略図に書かれた位置や大きさに合致することはいうまでもありません。これを今日の竹島=独島ではないとする下條氏の新説は、すこし我田引水が過ぎるようです。
   結局、下條氏の論証は成り立たないので、(3)の「太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である」という結論が誤りなのはいうまでもありません。『フォトしまね』の重大な記述を変えるのに、何とも杜撰な論証といわざるを得ません。変説は、もっときちんとした論証を行ってからにすべきです。

   それでも下條氏が、公文録付属の磯竹島略図に書かれた松島を今日の竹島=独島であると認めたのは一歩前進ではないでしょうか。ま、昨年6月、漆崎氏に協力していただき、私が磯竹島略図を初公開した甲斐はりました。
   それにしても、焦点になっている重要な磯竹島略図を最終報告書に掲載しなかったのはなぜでしょうか?   島根県に不利な史料で一部の読者を動揺させないためでしょうか?
   この磯竹島略図に関連して、舩杉力修氏が最終報告書でコメントを書いていますが、それへの批判は後日にゆずります。なお、磯竹島略図を付属している公文録などの重要史料は下記で写真を見ることができます。

・公文録、内務省之部-明治10(1877)年
   http://www.kr-jp.net/meiji/koubun/koubun.html
・太政類典、「竹島外一島 版図外ト定ム」明治10(1877)年
   http://www.kr-jp.net/meiji/dajou/dajou-m10.html

(注1)「特集 竹島」『フォトしまね』161号、P7
http://www.pref.shimane.lg.jp/kochokoho/photo/161/05.html
(注2)内藤・朴『竹島=独島論争』新幹社、2007,P206
(注3)同上、P85
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996(復刻版)P72

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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