竹島問題研究会の品位、下條氏への批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/07/08 21:57 投稿番号: [15641 / 18519]
半月城です。
下條正男氏は、安龍福のいう于山島がどこをさすのかについて、またまた主張を変えたようです。まずは下條氏の変説の遍歴をたどることにします。
当初、下條氏は、安龍福が1693(元禄6)年にみた于山島は現在の竹島=独島でなく、隠岐島を見誤ったものだとしてこう記しました。
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安龍福が見た于山島とは、どの様な島であったのだろうか。そこで安龍福の発言を手がかりにしていきたいと思う。それは次の二点である。
(1)于山島は「欝陵島より頗(すこぶ)る大きな島」であった。(『邊例集要』)
(2)于山島は「欝陵島の北東に位置する大きな島で、船で一日の距離」にあった。(『竹島紀事』)
・・・・・・
欝陵島の北東に位置する「竹嶼」を于山島と認識していた安龍福は、欝陵島の東南の地点で拉致され、そこから隠岐島に向う船上で島影を目撃したため、夕闇の中の隠岐島を「頗る大」きな于山島と思いこんだのであろう。
実際に隠岐島の面積は、欝陵島の4.7倍程度であったからだ。こうして隠岐島を于山島と誤認した安龍福は、「竹島は朝鮮領の于山島である」と供述したのである(注1)。
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下條氏は、于山島が竹島=独島である可能性については、いともあっさり「(欝陵島の)北東に見える島は、勿論現在の竹島ではない」として、方角違いを理由に否定したのでした。そうしておきながら、欝陵島の「東南」にある隠岐島こそ安龍福がいう于山島だったと書きましたが、これは明らかに矛盾しています。
なお、竹島=独島は、八方位式でいえば欝陵島の東に位置するので、北東というのはまったくの方向違いというわけでもありません。これについてはすでに書いたとおりです(注2)。
その一方で、この時に下條氏が安龍福の于山島像を「竹嶼」すなわち韓国名のチュクト(竹島)としなかった事実は注目にあたいします。下條氏は、安龍福は「「竹嶼」を于山島と認識していた」と理解していたにもかかわらず、安の于山島像を「竹嶼」ではなく、隠岐島としたのでした。
その理由は、チュクトが「船で一日の距離」という記述に反するためでしょうか? あるいは「欝陵島より頗る大きな島」という説明に反するからでしょうか?
こうした主張の後、下條氏は『竹島は日韓どちらのものか』においてこう記しました。
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(元禄9年)安龍福をはじめ 僧 雷憲、劉日夫、李仁成ら11人は、それより先の5月20日、舟で隠岐島に着くと出雲藩の代官に、自分たちは竹嶋(鬱陵島)へ渡海した朝鮮舟32艘の内の1艘で、「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟ノ為 渡来」したと伝えていた。
・・・
安龍福はこのとき、「鬱陵 于山両島監税」という実在しない官職を僭称していた。安龍福としては、「鬱陵 于山両島」と称することで、鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の官吏としてやってきた、と言いたかったのだろう。つまり、鬱陵島と于山島も朝鮮領であるという主張である。
鬱陵島は理解ができるとしても、問題は于山島である。
先に『太宗実録』に、太宗17(1417)年2月、于山島から島民を引き揚げることになった、と記されていると述べたが、そこに出てくる于山島は竹嶼とも称される鬱陵島の近傍の小島である。
しかしここで安龍福が言っている于山島は、その竹嶼のことではない。では、どこを指していたのか? じつは、今日の竹島なのである。安龍福は、于山島を今日の竹島と思い込み、鬱陵島とともに朝鮮領だと主張したのである(注3)。
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(つづく)
下條正男氏は、安龍福のいう于山島がどこをさすのかについて、またまた主張を変えたようです。まずは下條氏の変説の遍歴をたどることにします。
当初、下條氏は、安龍福が1693(元禄6)年にみた于山島は現在の竹島=独島でなく、隠岐島を見誤ったものだとしてこう記しました。
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安龍福が見た于山島とは、どの様な島であったのだろうか。そこで安龍福の発言を手がかりにしていきたいと思う。それは次の二点である。
(1)于山島は「欝陵島より頗(すこぶ)る大きな島」であった。(『邊例集要』)
(2)于山島は「欝陵島の北東に位置する大きな島で、船で一日の距離」にあった。(『竹島紀事』)
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欝陵島の北東に位置する「竹嶼」を于山島と認識していた安龍福は、欝陵島の東南の地点で拉致され、そこから隠岐島に向う船上で島影を目撃したため、夕闇の中の隠岐島を「頗る大」きな于山島と思いこんだのであろう。
実際に隠岐島の面積は、欝陵島の4.7倍程度であったからだ。こうして隠岐島を于山島と誤認した安龍福は、「竹島は朝鮮領の于山島である」と供述したのである(注1)。
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下條氏は、于山島が竹島=独島である可能性については、いともあっさり「(欝陵島の)北東に見える島は、勿論現在の竹島ではない」として、方角違いを理由に否定したのでした。そうしておきながら、欝陵島の「東南」にある隠岐島こそ安龍福がいう于山島だったと書きましたが、これは明らかに矛盾しています。
なお、竹島=独島は、八方位式でいえば欝陵島の東に位置するので、北東というのはまったくの方向違いというわけでもありません。これについてはすでに書いたとおりです(注2)。
その一方で、この時に下條氏が安龍福の于山島像を「竹嶼」すなわち韓国名のチュクト(竹島)としなかった事実は注目にあたいします。下條氏は、安龍福は「「竹嶼」を于山島と認識していた」と理解していたにもかかわらず、安の于山島像を「竹嶼」ではなく、隠岐島としたのでした。
その理由は、チュクトが「船で一日の距離」という記述に反するためでしょうか? あるいは「欝陵島より頗る大きな島」という説明に反するからでしょうか?
こうした主張の後、下條氏は『竹島は日韓どちらのものか』においてこう記しました。
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(元禄9年)安龍福をはじめ 僧 雷憲、劉日夫、李仁成ら11人は、それより先の5月20日、舟で隠岐島に着くと出雲藩の代官に、自分たちは竹嶋(鬱陵島)へ渡海した朝鮮舟32艘の内の1艘で、「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟ノ為 渡来」したと伝えていた。
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安龍福はこのとき、「鬱陵 于山両島監税」という実在しない官職を僭称していた。安龍福としては、「鬱陵 于山両島」と称することで、鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の官吏としてやってきた、と言いたかったのだろう。つまり、鬱陵島と于山島も朝鮮領であるという主張である。
鬱陵島は理解ができるとしても、問題は于山島である。
先に『太宗実録』に、太宗17(1417)年2月、于山島から島民を引き揚げることになった、と記されていると述べたが、そこに出てくる于山島は竹嶼とも称される鬱陵島の近傍の小島である。
しかしここで安龍福が言っている于山島は、その竹嶼のことではない。では、どこを指していたのか? じつは、今日の竹島なのである。安龍福は、于山島を今日の竹島と思い込み、鬱陵島とともに朝鮮領だと主張したのである(注3)。
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(つづく)
これは メッセージ 15629 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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