入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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第一次南京事件5 松崎医師2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/10 18:36 投稿番号: [370 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
38〜39p
《後を振り向くと一人の兵士が小銃に装弾しつつ近寄ってきて
『お前たちは何国人だ』 と言う。
田坂氏が 『日本人 (リーベンレン)』 と答えると、
それを 『高腰人(コーリーレン)』 と間違えたらしく
『高麗人なら許すが日本人だと許さないぞ』 と怒鳴ったので、
急に高麗人すなわち朝鮮人になりすましようやく虎口を逃れた。
当時我同胞は日本人であることさえも高唱されなかったのだ。
かくて宝来館旅館の附近まで来るとその辺一帯は掠奪の最中である。
震旦大学の門内には二名の仏国宣教師が殺害され、髯から頭髪まで焼かれて
無残の死骸を横たえている。筋向いの日本小学校も掠奪されている。
二人は革命軍の暴虐に驚きながら西華門に向う途中で、ようやく知人に
支那服を借り受け、それに着替えて、とある阿片館に隠れた。
その家は草屋根の二室しかない小屋で、隣室に阿片を吸うている労働者風の
支那人の話し声がよく聞える。
『南兵はなぜ外国人を殺すのだ』
『彼奴らは俺たちの国に素手で来て、帰りには儲けて行くからだ』
『まるで泥棒だ』『虐殺されるのは当然だ。
日本領事館では鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺してしまったよ』
聞かされた二人は、まさかと思ったがまったく身の毛のよだつ思いをした。
そこへ突然昨年須藤医院を卒業した宣君が尋ねて来てくれた。
領事館からの依頼で方々を探し歩いたとのこと、
そして今外では二人の日本人がこの家に入ったと言うので、
二百元の懸賞で捕縛することになっているから早く逃げよとの話だ。
吃驚してそこを飛び出し二丁ほど離れた宣君の家に落ち着き、
始めて領事館の日本人の無事であることを知った。
それが午後四時頃であった。
その内に江岸に当って盛んに砲声が聞える。今外国軍艦と革命軍と交戦中で、
日本軍艦二隻は沈没したとの噂が伝わって来た。
二人はお互いの運命もこれまでだと観念し、一切を認めて支那人に頼んで
蕪湖領事館に送り届けようとしたが、船便がなかったために果たさなかった。
やむなくその夜は今後を心配しつつ宣君の宅で過ごしたが、幸いにも翌二十五日朝十時、
領事館からの急便で引揚のことを知り、ミルク、菓子などを携え領事館に駆け付けた。
当時城外に居住し、軍艦に収容されたものは左記二十四名である。(後略)
70p
六月末に南京城内の被害調査に赴いた山野氏報告に左の如き一節があった。
路傍の楊樹は無心に我らを迎え山川風光昔に異ならざるも当時を回想すれば
感慨悲壮、荒廃せる我らの旧居を目睹するに及んでは只鳴咽あるのみ。
殊に惨状を呈せしは城内宝来館、須藤、栗林、松崎の三医院にしてほとんど旧態を止めず、
見る影もなく荒れ果てて床板もなき室に蓆を敷き並べ、
蒜と汗の臭気紛々たる裸体の兵士が我が物顔に昼寝せる様、
唖然たるの外なく到底再び住居とする勇気も出でざる状態なりき云々
*
『彼奴らは俺たちの国に素手で来て、帰りには儲けて行く』『泥棒だ』
この理屈が正しいのなら、日本に来ている中国人も襲撃されねばならない。
日本企業は、何度襲われても中国に行こうとする。バカではなかろうか。
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第一次南京事件5 松崎医師1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/09 18:39 投稿番号: [369 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
36〜38p
《城内キョウ (龍+共) 家橋にある松崎医院の院長松崎熊士氏は、
これまで同じ城内の須藤医院に副院長を勤めていたが、
今度独立することになって三月二十一日に開業した。
その夜はあたかも革命軍が南京に迫った頃で、殷々たる砲声を真近に聞きながら
開業の宴を張った。そして一人の患者も見ないうちに今回の災厄である。
同医院では二十四日午前六時、革命軍の入城を知ると同時に、
晴天白日旗と茶菓を用意して歓迎の意を表することにした。
これも凡 (すべ) ての在留邦人と同じく革命軍を信じていたのである。
然るにその期待は見事にも裏切られた。
まもなく数名の革命軍の兵士が入って来て 『この家を司令部にするから明け渡せ』 と言う。
松崎氏は 『俺は日本人だ、お前らに貸し渡すことはできない』 と突っぱねると、
彼らは口々に 『洋鬼子々々々』 と罵りつつ金を出せと迫り、同氏のポケットの
一つ一つに手を突っ込んで、時計財布など残らず取り上げて立ち去った。
その後で松崎氏は急ぎ近所の田坂写真師に電話し、
領事館に避難するため二人で家を出で、約一里の間を革命軍に後について歩いた。
途中は格別危険もなかったが鼓楼医院の前まで来ると 『須藤理助』 とした名刺が
路上に散乱している。すぐ坂上の日本領事館では馬車や馬で盛んに荷物を運び出している。
不審だと思いながら二人とも領事館が掠奪を受けてるとは思わなかった。
正門を入るとき田坂氏だけはうまく通過したが、
松崎氏は革命軍の兵士に捉まって外套、眼鏡、現金を奪取され、
ほうほうの体で領事館に来て見ると、どの部屋もどの部屋もがらんどうだ。
そして紙片や書類などの散乱した中を革命軍の兵士が右往左往している。
赤い腕章をつけた平服の支那人が無頼漢らしい者どもを指揮して荷物を運んでいる。
裏口に抜けて領事官舎に行くとボーイがいたので、
日本人はどこにいるかと聞くと知らぬと言う。
官舎の裏手に回ると雨水タンクの上に根本少佐が仰向きに仆れている。
まったくの死人だ。
それに一人の日本人の姿も見当たらないのと考え合わせて、
邦人全部虐殺されたと直感した。
そこで始めて危険の迫れるを感知し、根本少佐には気の毒だったが
これを打ち捨てて愴惶 (そうこう) として館内を抜け出で、
鼓楼医院の側で田坂氏にめぐり合い、
北門橋の南京写真館に行って支那服の借用を乞うたが断られ、
まったくの落人の気持ちで戦々恐々、五丁ほどを歩いたと思う頃、
突然 『止まれ』 と大喝された。》
註
愴惶
ソウコウ
大いに恐れ、あわただしいさま。
つづく
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第一次南京事件4 宝来館裡の悲鳴3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/08 18:47 投稿番号: [368 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
35〜36p
《余は地獄で仏に会った思いでその将校を捕え、このままではいつ殺されるか分らぬので、
一刻も早く脱出して領事館に避難したいから、どうか同行して頂きたいと嘆願すると、
将校はそれではあとで警察署長を出すからそれまで待てといって、そばの巡査に
自分の名刺を与え、裸で震えている余に着物を貸せと命じて立ち去った。
三十分の後巡査部長が来て、巡査二人で余らを護送してくれることになったので、
余はズボン下一枚の上に、巡査が苦力の着ていたのを脱がしてくれた
ぼろぼろの上衣一枚を肌に当てたまま街上に出た。
黒山と取り巻く人馬の中には、糾察隊のマークをつけた学生が混じって、
『そいつらを引き渡せ、渡さぬと殺すぞ』 と幾度か巡査を脅かし余らを連れ去ろうと
するが、テコロ病院の前にさしかかると、
石畳の上に生々しい血潮が流れ、砕かれた脳漿が散乱している。
その門のすぐそばで外人紳士二人が兵士に取り囲まれて、まさに銃殺されんとしていた。
これを目撃した余らは自分の運命を告げられているような気がして、
われにもあらず目の前が真っ暗になるのを感じた、
そのうちにようやく領事館の建物が見えるところにくると、
正門前の坂道を兵士や無頼漢の群れが押し合うようにして家具類を抱えて降りてくる。
見れば門前も前庭も公用書類が地を埋めて乱れている。『領事館もやられたのだ』と
始めて目の当たりを見て、思わずも鉄槌で殴られたように驚きを感じた。
(三月三十日東京朝日所載)
一方丸裸にされ、座布団を前と後ろにあてがって、
寒いのと恥かしいのを防いで敵味方を笑わした鈴木老人は、
暴徒のすきを見て向い側の支那人宅に飛び込み着物をもらい、
宝来館から一丁ほど離れた警察署へ救助を頼んだ。
署長は顔馴染みなので好意を持って世話を焼いてくれたが、
まもなく兵卒らが来て乱暴にも署長を殴りつけ、
老人を引っ張って督弁公署の裏の錬兵場に連行し、
またまた丸裸にしてしまって銃剣を咽喉に擬する。
鈴木老人はいよいよ殺されるものと観念した。その刹那に一名の将校が来て
『打つな打つな』 と叫んだので危機を免れることができた。
それで老人はその将校に領事館までの護送を頼んだが容れない。
やむなく知り合いの附近の鉄葉屋の主人を訪ねて着物を乞受け、
途中でこれまた顔知った車夫からも着物を借り、一緒に宝来館に帰ってみると、
まだ掠奪の最中らしいので逆戻りして車夫の宅に隠れ、
そこからまた車夫や乞食に衛られて福民巷の孫氏(督軍署日本語通訳)の宅に遁れ、
そこで一夜を明かし、領事館からの密使で軍艦への引揚を知り、
孫氏の令息がボーイに、鈴木老人は盲人に変装し、
ようやく危険地帯を突破し無事領事館に着いて始めて安堵した。
鈴木氏は在支数十年、いろいろの災害にも遭遇したが、
今度ほど弱らされたことはなかったと言うている。》
つづく
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第一次南京事件4 宝来館裡の悲鳴2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/07 16:04 投稿番号: [367 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
33〜35p
《余は無抵抗のいかに悲惨なるかを体験し、生来二十八年、
この時ほど自分が弱いものだと思ったことはなかった。
しかしこうなれば死を決して暴徒のなすままに天運を待つほかなかった。
そのうちに余らは外套、服、ワイシャツ、着ているもの全部をはぎ奪われ、
ズボン下一つきりになったが、暴兵は刻々に数を増すばかりで、
奪ってゆくもののなくなった腹立たしさに、室内の小道具類を片端から破壊し始め、
『百円出せば命だけ助けてやる』 とか、
『張作霖びいきの日本人は皆殺しだ、もう五十人殺された』 などと喚きながら、
一人の兵は一間余も間近からピストルを向けて余を狙撃した。
幸いにして弾丸は余のびんをかすめ、とびらを貫いた。
一緒の者四人既に生きた心地はない。
どうでもなれと観念のほぞを固めているうち、兵隊に続いて潮の如き無頼漢の群衆
雪崩れ込んで来て口々に我々を冷笑しながら、家の中の品物を片ッ端から持ちだしてゆく。
めぼしい品物はもちろんのこと、後では畳、床板、便器、鉄瓶のかかった火鉢、たんつぼに
至るまで持ち出して、部屋の中はまるで馬小屋同様のあばら家同然となってしまった。
余らは丸裸になってこの暴挙を眼の辺に眺めながら、どうなる事かと胸を痛めていると、
やがてどかどかと数人の兵が飛び込んできて、
『貴様らは支那の土地に勝手に家を建てる権利はない、早く出てゆけ、
下で銃殺してやるから早くゆけ』 と言い捨てて余らを引きずり出した。
いよいよ最後の時が来た、もうもがいても喚いても駄目だと観念して、
彼らのなすがままに引き立てられて階下のボーイ部屋に押し込められた。
そこで暴兵らは、またもや悲鳴を挙げて拒む女中を取り押さえて、腰巻までも奪おうとする。
これを見た余は思わず眼がくらんだ。
凌辱でもして見ろ、その時には剣を奪って斬り死にしてくれんと決心し
見ていると幸いそのまま出て行ってしまった。
これより先、危害がいよいよ身辺に迫ったので、このままでは暴徒のために
掠奪されるばかりだと思ったので、余は密かにボーイを密使に立てて、
急を領事館に告げしめ適宜の処置を請うた。
宿から領事館まで二十丁の道程だが、ボーイは待てど暮らせど帰らぬ。
やっと十時過ぎに帰って来て、領事館も大掠奪を受けている。
兵隊が一杯でとてもゆけぬと告げた。
まさか領事館がやられるはずはない、遭難を恐れて途中から逃げ帰ってきたのかも知れぬ、
この上は命をかけても飯事館に逃げのびるはか道はないと考えて、
裏口から脱け出ようとしているところへ、またもや鬼のような兵士が十数人押し寄せて、
日本人は全部銃殺するから用意せよと破れ鐘のような声で宣告し、
壁際に引き据えて、まず小銃の狙いを女中の心臓部にすえた。
もうこれまでだ、暴徒は遂に引金を引いた。
すると天いうか、弾丸が入っていなかったため、空しくカチリと鳴っただけで、
命はようやく絶たれんとして一瞬に残し得た。
暴兵はいまいましげに舌打ちして気をいら立てながら弾丸を入れているところへ、
突如少佐服を着けた二人の将校が門の前を通り合わせ、この有様を見るや否や、
つかつかと入って来て兵士の腕をつかんで制止したので、
余らは危機一髪を免れたが、暴兵はいまいましげににらみつけて立ち去った。》
つづく
これは メッセージ 366 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第一次南京事件4 宝来館裡の悲鳴1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/06 16:10 投稿番号: [366 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
31〜33p
《南京唯一の日本旅館宝来館は南京城内石板橋にある。
二十二日の邦人の避難の際には馬車が来ないためにそれに加わることできず、
二十三日は連合軍の退却で市中は上を下への大混乱にどうすることもできない。
その夜は当時の宿泊客東京朝日の園田記者ほか一人と家中とで、
そこここにあがる銃声に脅えつつ息を潜めて夜を明かすことにしたが、
午前二時頃からにわかに静かになったので、
皆気を許してまどろんだと思う間もなく、けたたましい銃声が間近の街上に鳴り渡った。
さては市街戦が始まったかと思われたが、同館ではかねがね懇意の孫文会の
中山事務所から検査済みの札をもらったので安心していると、
七時頃になって突然二階の窓ガラスめがけて三四発の銃弾が注がれ、
その弾は折から服を着替えていた園田記者の身辺を掠めて天井の電球を砕いた。
またたくうちに街上を埋めた革命軍の暴兵は開門、開門と怒号しつつ表の鉄門を
押し破り、どかどかと乱入し泥靴のまま畳を踏み荒らし、奉天兵はいないか、
ピストルはないかなど、口々に連呼しつつ家捜しを始め、主人の鈴木氏を捉えて
『金を出せ』『ピストルを出せ』 と迫り、有り金を引っさらって出て行くとまた押し入って来る。
次から次と入れ代り立ち代り、金、金、金!と叫びながら入って来ては
各室に侵入し、手当たり次第に掠奪する。
宿泊客の荷物はもちろん、主人が永年の支那生活で集めた大小幾百の骨董品は、
見る見るうちに彼らのポッケに隠され小脇に抱えられ、幾分も立たぬ間に影も留めなくなった。
当時同旅館にあって親しく暴虐に直面した東京朝日の園田記者の遭難記は、
凄絶惨絶、鬼気人をうつものがある。左にその一節を録する。
〈(前略)
たちまち数人の暴くれた兵隊がどかどかと乱入して奉天兵が
逃げ込んではいないか武器は持たぬかなどと連呼しながら
泥靴のまま畳を踏み荒らして家捜しをはじめ、トランク一個を奪取して引き上げた。
その時まではまさか掠奪だとは気づかず、
平気でいると続いて四十数名の兵士が乱入して『ピストルは持たぬか』 と呼びつつ、
われわれの所持品懐中の点検をはじめ、まず写真機と外ポケットのがま口を取り上げ、
次いで内ポケットの財布をひったくった。
その間一人の兵は宿の女中をつかまえ指輪を抜き取ろうとしていたが、
堅くて容易に抜けないのに気をいらだて、
『面倒だ、指を切り落としてやる』 といいさま、懐中から短刀を取り出して
あわや左の薬指を切落とそうとする、女中は必死に抵抗しつつようやく抜き取って渡した。
そうして掠奪だと気がついた時分には、部屋々々はいずれもピストルや小銃の引金に
手をかけた乱入者で一ぱいでいれかわり立ちかわり現れて来ては、
すご文句でおどしつけながら、めぼしい品物を奪取してゆく、
少しでも抵抗の気を見せようものなら、
すぐさま銃殺する面がまえで引金に手を当てて迫ってくる。〉》
つづく
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第一次南京事件3 埠頭の流血
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/05 18:35 投稿番号: [365 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
30〜31p
《連合軍 (国民党以外の軍) 退却開始と同時に恐るべき掠奪暴行の演ぜらるべきを
予想した日本海軍では、二十二日下関すなわち江岸一帯に在住せる邦人の大部分を
駆逐艦 桃、檜二隻に収容したが、これらの避難民の中数名は家財をまとめるために上陸し、
二十三日午前十一時頃、日清汽船会社のハルクに引き返した処を
折柄襲来した革命軍 (国民党軍) のために、行李その他所持品全部を掠奪された。
二十四日未明に南京に入った
―
そして我領事館に暴虐を逞しくした革命軍の先鋒は、
軍艦 桃、檜、濱風の碇泊せる江岸を通過の際に、その日本軍艦であることは
明白なるにかかわらず盛んに射撃を加えたため、各艦とも数発の小銃弾痕を残した。
同じく八時過ぎにはますますその数を増した革命軍は日清汽船のハルクに殺到し、
鉄条網を引き回し桟橋を取り除きあるにもめげず掠奪を企てたので、その附近一帯は
一時混乱を極め、ハルクに在って防備に努めていた後藤機関兵曹は、
痛ましくも彼らの乱射せる銃弾に仆 (たお) れた。そばに居合わせた須藤医院の
津田氏が助けてボートに移し手当てしたが、遂に異域の露と消えた。
これは後日譚であるが、二十六日に日清埠頭の広場で同機関兵の葬儀が営まれ、
各艦長、居留民皆参列し焼香の最中に革命軍の一兵卒は汚い軍服で
ヒョロヒョロと式場に乗り込み、歩哨兵の禁止も聞かず
『洋鬼子、ざまを見ろ』『打倒帝国主義だ』『ここは俺たちの土地だ、通行は勝手だ』
など口汚く罵りつつ、式場を右往左往し、参列者を尻目にかけ祭壇の前に
立ちはだかって 『洋鬼子』 と叫んだ。
洋鬼子というのは支那人が外国人を罵る言葉である。
あまりの暴状に歩哨兵は彼を捉えて殴りつけ場外に追放した。
ああ、我後藤機関兵曹は、死してなおかつ暴兵に辱められたのである。》
これは メッセージ 364 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第一次南京事件2 外国人の被害
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/04 18:36 投稿番号: [364 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫66〜67p
《近くの 「金陵大学」 では、それとわかる掠奪暴行の騒音がつづいているし、
警備のためという中国兵五人は、なんとなく 「物色スル」 風情で館内をぶらつき、
ときにギロリと日本人をにらむ。
武器を完全に奪われている日本側としては、わずか五人の武装兵でも〝強敵〟である。
やがて中国人使用人が帰ってきて、街から 「支那マンジュウ及茶」 を買い求め、
一同はひと息つく心境になった。
聞けば、英米両領事館をはじめ教会、学校、商店、住居など外国人の占有場所は
軒なみに襲撃されたが、中国人については住居も個人も被害は皆無だ、という。
まさしく 「純然タル組織的排外暴動」 だ、と領事たちは理解し、歯がみすると
同時に、そうであればより一層の襲撃も予想されるので、恐怖心が刺戟された。
森岡領事は、暴兵たちが 「日本帝国主義打倒」 と叫んでいたのを思いだして、
日英がとくにねらわれたらしいが英国領事館はどうか、と使用人にたずねた。
「惨状甚シ。領事以下鏖殺 (おうさつ) セラレタルモノノ如シ」
実際には、英領事館は午前九時すぎから襲われ、医師と港務長が射殺され、
軍艦 『エメラルド』 から派遣されたスペア大尉が右腕、左脚に負傷した。
しかし、領事ジャイルスは、左脚に銃創をうけたうえ、暴兵に青龍刀で斬首される
寸前に中国人将校の制止で救助されている。
米国領事館では、いち早く館員および在留米国人を 「金陵大学」 に避難させていた。
しかし、市内の米人系学校、会社、事務所など無人の建物は、
かえって思いのままに荒らされ、十戸に放火された。
「金陵大学」 でも、副学長 J・ウイリアムスが射殺され、米国人男女は構内を逃げまどった。
のちに女流文学者として知られるパール・バックは、夫である宣教師 J・バックと
ともに友人の中国人女性の小屋にかくれていたが、そのときの想いを次のように記述している。
「まるで暴風が吹き荒れているようであった……そして、
私は自分が蒔きもしない種を刈り取らされている形であった……
私たちはただ自分たちが白人だというだけでかくれねばならなかった……」》
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
41p
《さらに欧米人に対して行われた暴虐もまったく同様の手段であった。
英米領事館を始め、欧米人の住宅、店舗が遺憾なきまでに荒らされたのはもとより、
各学校にある欧米人までが一々物色して危害を加えられた。
中にも金陵大学副校長イー・ゼー・ウイリアム博士と、
震旦大学の仏人教師二名は暴兵のために惨殺され、
その中の一人は頭髪から髭、陰毛までも焼かれた上、
大腿部を切断され街頭に遺棄されていた。
このほかに重傷を受けまたは衣服を剥がされたものは数うるにいとまないほどである。
殊に婦人にして凌辱を受けたものも少なからずと言うが、
これらの事実に徴しても、いかに計画的に行われたかが分ると思う。》
註
:
鏖殺
オウサツ
皆殺しのこと
つづく
これは メッセージ 363 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第一次南京事件1 領事館襲撃2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/03 18:46 投稿番号: [363 / 2250]
《暴兵と暴民は、荒れ狂った。
事務所、職員宿舎、使用人室、物置きその他、館内の隅々まで先きをあらそって
走りこみ、トランクをあけ、戸棚をこわして物品を略奪した。
男女の別なく、衣服を奪われ、財布、時計、指環は例外なく奪取されたほか、
次々に服をぬがされて身体検査までされた。
女性の場合は、帯、タビはむろんのこと下着までぬがされて
「忍ブベカラザル」 検査さえ、実施された。
「強姦ノ事実ナシ。尤モ、二 (ふたり) ノ婦人ニシテ 強姦予備行為トモ
思ハルベキ所作ヲ 受ケタルモノアリ」
とは、後日の森岡領事の報告であるが、かりに 「強姦ノ事実」 はなくても、
女性たちは、一人の暴兵が去ればまた次の暴兵……と、
くり返してハダカにされては 「検査」 されるのである。
女性の叫喚、悲鳴、子供の泣き声が暴兵の罵声と掠奪の騒音をさいてひびき、
日本人男性たちの胸をついた。
荒木大尉と水兵たちも、あまりの無念さに気失寸前の状態となったが、
ともかくも館内にいる邦人のうち五十二人が子供であり、
うち十二人が乳児なので、その安全のために我慢をつづけた。
暴兵と暴民は、その子供たちからもオモチャを奪い、靴をむしりとり、
フトン、家具、調度品などとともに馬車、トラックではこび出した。
領事森岡正平の病室にも暴兵が乱入し、室内の品を奪ったあと、
領事のフトン、寝間着もはいで行った。
一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃をおこない、居あわせた邦人数人が逃げ、
領事のほかに夫人、木村三畩署長、根本博少佐の三人が残った。
「外ニ出ヨウ」
領事がベランダに出たとたんに、一人の暴兵が走りこんできて、木村署長は左胸を
銃剣で刺されて階下に逃げ、根本少佐は後続した二人の暴兵に左腹部、
左臀部を刺され、ベランダの下の貯水槽に転落した。
暴兵たちは、ひとわたり館内を荒らしまわると、事務所の大金庫に関心を集中した。
銃床でたたいたり、鉄棒でこじあけようとするが、あかない。
発砲してもダメなので、館員、邦人の誰れ彼れとなく鍵の所在を質問したが、
成果は得られず、次第に興奮度を高めた。
領事夫妻は、ベランダにいたが、裏庭に避難した邦人たちが、
暴兵が車庫からガソリンを持ちだして放火しようとしている旨を告げた。
領事は夫人にたすけられて階下におり、館員の一人が秘匿していた大金庫の鍵を
炊事場の煙突の破口に投げこんで、一同と合流した。
根本少佐ら負傷者は流血のまま横たわり、文字どおりに身ぐるみはがれた男女が、
ただ子供たちを抱きしめて恐怖する様子は、悲惨であった。
暴兵は、なおも一同にせまり、交互に銃剣をつきつけては大金庫の鍵を要求しつづけた。
午前十時半ごろ、ようやく一人の中国軍将校があらわれ、暴兵を叱咤し殴打して、暴行を制止した。》
69p
《「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、窓枠の木材、ガラス、
床板すべてが持ち去られ…」 とは4月末に領事館を訪ねた佐々木到一中佐の記録》
これは メッセージ 362 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第一次南京事件1 領事館襲撃1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/02 18:31 投稿番号: [362 / 2250]
南京事件は何度も有っているので、いつを第一次とすべきかは判りませんが、
取り敢えずここでは昭和2年のものを、第一次としておきます。
昭和元年 (1926年) 蒋介石は、他の軍閥を倒して中国を統一する為、
北伐を開始しました。そして昭和2年3月24日、国民党軍は南京に入りました。
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫61〜63p
《領事森岡正平は、国民革命軍が入城した以上は 「十中八九危険ハ去リタ」 と判断した。
・・・中国側を刺激しないようにすべきだ、と考え、荒木大尉に〝武装〟撤去を求めた。
大尉は承知して、土のう、機銃を撤去して、正門も開いた。
午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪ね、敗兵の所在を訊ねたが、
不在という返事をきくと黙って退去した。
日本人一同がますます安心していると、
約三十分後、こんどは五十人ほどの兵士が 「疾風ノ如ク」 領事館事務所に
乱入して、警察署長木村三昧の所持品を奪い、左腕に貫通銃創をおわせた。
同時に、居合せた陸軍武官根本博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。
二人が逃げると呼笛が吹き鳴らされ、すかさず平服の女性と青年を先頭にした
兵士約二百人が、喚声をあげて領事館内になだれこんだ。
掠奪品運搬のためか、トラック、馬車、人力車までが続行した。
乱入者は、意味のない叫声やかけ声のほかに、スローガンも唱えていた。
「日英帝国主義打倒!」
「華俄(中ソ)一家!」
あるいは、中国人から奪った日本人の財産をとりもどせ、という意味の声もきこえた。
もっとも、それらスローガンの叫びは、少数の指導者のものらしく、乱入者の大部は、
金をだせ、かくすと殺すぞ、といった表現をくり返しては、館内をわれがちに物色した。
領事森岡正平は、荒木大尉を自室に呼んで頼んだ。
「気ノ毒乍 (なが) ラ
各兵ノ階級章及帽子
ノ如キ標識ヲ
一時取り去ラレ度」
領事の報告によれば、荒木海軍大尉と水兵十人は官邸北側の「ボーイ」室に
退避していたが、館内の避難邦人の間から、
大尉たちの軍装が中国側を刺戟 (しげき) する恐れがある、との意見が出たので、
領事も 「右ハ不得己 (やむをえざ) ル要求」 と判断して、大尉に要請した、という。
荒木大尉は、血相を変えた。
国家と国民を外敵から守るのが、軍人の本務である。
いまや、準日本領土である領事館と日本国民がおそわれている。
それなのに、戦うな、というだけでなく、軍装も解け、と領事は、いう。
軍人が軍装を解かれるのは、退官の場合を除けば、「敵ノ軍門ニ下ル」 か、
犯罪行為により軍籍を剥奪されるとき以外にはない。
一戦もこころみずにそのような 「恭順」 姿勢を示すのは、
軍人としてはあまりにも不名誉である。
いや、その種の 「度ヲ過ゴシタル無抵抗主義」 は、相手の自制心をさそうどころか、
かえって増長心を刺戟して暴行を激化させるのではないか……。
荒木大尉は、しかし、「在留民ノ生命ガ風前ノ灯火ニモ比スベキ時」 だから、
と病床に深々と頭をたれる領事を凝視すると、とっさに承知した。
つづく
これは メッセージ 361 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米英軍の残虐
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/01 18:17 投稿番号: [361 / 2250]
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.html
より引用
《 <昭和十八年十一月二十七日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、
ラバウル野戦病院からの傷病兵千百二十九名を乗せた病院船
「ベノスアイレス号」(九六二五トン) は、米軍B24に爆撃され撃沈する。
患者、看護婦、乗組員は十六隻の救命ボートと発動機艇二隻で漂流するが、
十二月一日、同じくB24に発見された、
この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、
容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む百五十八名が戦死している。
昭和二十年四月七日、軽巡 「矢矯」(六六五二トン) の測的長として
戦艦 「大和」 の沖縄水上特攻作戦に参加した池田武邦大尉(海兵七二期) も、
同様に米軍の不法行為をこう証言している。
「乗艦沈没後洋上を漂流したが、米軍艦載機の執拗な銃撃を受けた。
敵パイロットのゴーグルがはっきり見えるぐらい肉迫攻撃を何度も受けた」>
以上二つの史実は 「敵兵を救助せよ」(恵隆之介
草思社
平成十八年) P二四三 より
そして、英軍は
<「川沿いの道に移送を待っていた重傷者三十人の担架が見えた。
グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。
焼けつくような日差しだった。
おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。
次の瞬間、担架が燃え始めた。
見る間に黒煙が上がり辺りは火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」
インパール戦においての昭和十九年六月二十二日第十五師団栃平主計曹長の証言
同じく六月二十二日、インパールのミッションヒルで島田上等兵は
英軍戦車隊が日本軍野戦病院を砲撃後、
英印軍兵士が這って逃げた傷病兵を道路に並べ、英軍士官が検分する。
将官クラスは尋問するのかインド兵にトラックに運ばせた。選別が終わると
「路上に残った傷病兵にガソリンがかけられ、燃やされた。その悲鳴が聞こえた」>
「WiLL
7月号別冊
歴史通」(ワック出版
平成二十一年七月)P二百一 》
*
赤十字船を攻撃し、漂流者を救うのではなく攻撃している。
また、傷病兵にガソリンを掛けて焼き殺しています。
南京で日本軍が捕虜を処刑して、まだ死なないうちにガソリンをかけて
焼き殺したとか、中国側は言っていますが、英軍はもっと酷い事をやっています。
彼ら自身がやっているから、中国側のデタラメ証言でも採用できるのでしょう。
次は、中国軍や中国民衆の暴虐について紹介します。
これは メッセージ 360 (kireigotowadame さん)への返信です.
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オーストラリア軍の残虐2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/28 16:17 投稿番号: [360 / 2250]
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.html
より引用
《<その中でも豪州兵は目立って程度が悪かった。その兵舎を膝をついて
雑巾がけしていると、いきなり私の額でタバコの火を消されたことがあった。
くそっと思ってにらみつけると平気な顔で新聞を読んでいる。
激しい憎悪がその横顔に浮かんでいる。
ドスンと目の前に腰をおろし、その拍子のようにして
靴先でいやというほどあごを蹴り上げられたこともある。
私をひざまずかせ、足かけ台の代わりにして足をのせ、
一時間も辛棒 (ママ) させられたこともあった。
ある日K班長が、青ざめ、顔をひきつらせて豪州兵の兵舎作業から帰ってきた。
聞くとかれは、豪州兵の便所で小便をしていると、入ってきた兵士にどなられ、
ひざまずかせて口をあけさせられ、顔に小便をかけられたという。
日本兵は便器でしかないという表示である。
そのすこし前に配達された妻からの便りを手にしていなかったら、
このおとなしい兵隊は、死刑覚悟でその豪州兵を
殺していたかもしれないほどの形相であった。>P七〇〜七一
(会田雄次氏の著書 「アーロン収容所」(中公文庫)より) 》
--------------
《<公刊戦史はムアル戦線でオーストアリア部隊と遭遇した
日本軍負傷兵の運命について、はっきり書いていない。
略)
「守勢にあるので捕虜をとる状況に無く、
今までの経験からして敵の負傷兵をそのままにはできない。
死んでいると思われるか負傷している敵兵に近づくときは最大限の注意を払い、
銃剣を使え。要するに命令は 『捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな』
というものであった」
略)
もちろん大隊の戦場日誌にはアンダーソン
(引用者注
直接指揮していた第一九大隊長チャールズ・G・W・アンダーソン中佐)
が正式にそのような指示をしたとは書いていない。
しかしムアル戦線で戦ったオーストラリア兵の間では、状況の緊急性から考えて
「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」 というのが少なくとも
公式に認められた 『指示』 だったということは、広く受けいられてきた。
指示がどこから出たかについて不安な人たちでさえ、これらが一月一九日から
二二日までの絶望的な七二時間に採用された戦術であったことは認める。>
(P二〇七〜二〇八)
<否定できない事実は、マレー作戦の中で最も激しかった四日間と半日の戦闘のあと、
オーストラリア軍は一人も捕虜をとらなかったということだ。
白兵戦により日本軍は二千人の死者を出し、ほとんどは近衛師団だった。
もう一つの否定できない事実は、戦闘の状況からして、
オーストラリア部隊は日本の負傷した兵士をその場で殺したことだ
(みかたによっては処刑したことになる)。
さらに、命令ではないにしても、捕虜をとらず負傷兵をそのままにしない
というのは、少なくとも一般的な了解だった。>
(p二一八〜二一九)
「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード著
二〇〇五年原書房刊)》
*
「捕虜をとるな」、これは南京で中島師団長が 「大体捕虜はせぬ方針なれば」
と言ったとされているのと同じ状態。
しかし、悪く言われるのは日本軍だけ。
これは メッセージ 359 (kireigotowadame さん)への返信です.
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オーストラリア軍の残虐1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/27 16:15 投稿番号: [359 / 2250]
リンドバーグの日記 (前出の正論より)
《八月十一日には、リンドバーグは次のような話を聞いている。
【「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を覚えてるかね?
あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ、捕虜を機上から山中に突き落とし、
ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。
わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」】》
(354「米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺2」 に既出 )
次はネットの記述ですが、参考文献が記してありましたので引用します。
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.htmlより引用
《ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、
日本軍捕虜に 「死の行進」 が課せられた。
ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、
オーストラリア陸軍の捕虜となった。
同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名がトロキナの仮収容所に移送される
こととなったが、栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、
気温三五〜三八度の中を一〇マイル行進させられた。
翌日、到着の一二五〇人も同様であった。
豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、
水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。
体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、
川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、
足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。
一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、
マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。
捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。
以上 「日本の反論」 米田健三著
p一六五およびp一七一〜一七二よりの引用ですが、
米田氏はリンドバーグ日記および
「軍事史学
第三五巻第二号」 喜多義人論文より引用されています)》
つづく
これは メッセージ 358 (kireigotowadame さん)への返信です.
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占領米軍の性犯罪3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/26 18:37 投稿番号: [358 / 2250]
サピオ2007年4月11日号
65pより
《このような状況は、神奈川県民を震撼せしめたであろう。
当時の朝日新聞 (1945年9月5日付) は三段見出しで
「 神奈川県の女生徒は休校
教職員が家族を巡回指導」 と記している。
しかし、9月19日、GHQ 「プレスコード」 が発令されて以後は米兵を批判する記事は、
新聞紙面からすべて消えている。
これで米国は、「強姦」 など人道上の米軍の犯罪を封印できたと考えたであろう。
しかし記述のように 「特高」 の調書は、言論統制されてからも継続して綴られていたのだ。
当時の憤りを取材して 『黒い春 (米軍・パンパン・女たちの戦後)』 を
1953年に五島勉氏が出版している。
その内容は、調書よりも残酷さがひしひしと伝わってくる。
五島勉氏は1948年から調査を開始し、本人やその家族・友人・事件の目撃者など
1000人にも及ぶ面接にもとづいて占領下の空白時期をまとめた。
その中の、元外務省外局・終戦連絡委員会横浜事務局の北林余志子氏の作成した
米軍の横浜市内と県下の一部を含む、不法行動リストによると、
10月末日までで強姦29件となっている。
しかも、届け出ない件数は数十倍になると証言しているのだ。
五島氏は 「印刷ミスではない」 と断わってこう記す。
「T子 (十一歳・武蔵野市小学五年生) R子 (同) A子 (同) の三人は、
十月 (中略) 武蔵野の林のなかを伸よく手をつないで歩いていた」
〈キャンプ・トコロザワの近くで夢中でスケッチをしていると、
まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。
彼女達のスカートは切られ、何が起こったのか全然わからなかった。R子とA子は気絶し、
T子はまた泣き叫ぶと、アメリカ兵は彼女の顔を蹴り、ジープで去った〉(要旨、以下同)
このような事件が全国で続発している中で、1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。
〈N病院 (=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった) は
三台のトラックに分乗した米兵によって、およそ一時間ちかくも病院じゅうを荒らされた。
彼等の総数は二百人とか三百人とかという説もある。婦人患者のうち重症者をのぞく
四十数人と看護婦十七人、ほかに十五ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された〉
「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちのふとんを剥ぎとり、
その上にのりかかった」
「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、
一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」
「M子などは続けさまに七人の兵隊に犯され、気絶した」
そして、「裸でころがっているあいだを通って、侵入してきたときと同様、
彼等は表玄関と裏口から引き揚げていった」−− 慄然とする内容である。》
*
トピ主のrdupwatchさんが、
「貴方の愛人かお母さんが・・・の軍人にレイプされて、どんな感じがあります?」
と言っていましたが、
実は、この日本でも、されていたのです。
でも、言わないんですね。日本の性奴隷を糾弾される方々は、
日本女性 (沖縄を除く) の被害を握りつぶしています。
自国の被害者を踏みつけにしておいて、他国の被害者に 「可哀そう」。
rdupwatchさんは、こんな人達の言を信用できますか?
中国では、こういう人を漢奸と言うんですよね。
次は、英・豪兵の残虐に移ります。
これは メッセージ 357 (kireigotowadame さん)への返信です.
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占領米軍の性犯罪2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/25 18:46 投稿番号: [357 / 2250]
サピオ2007年4月11日号
64〜65pより
《米軍の不法行為を明らかにする前に、敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の
「性の暴力」 からいかに守るか、苦心惨憺 (くしんさんたん) した様子を少し述べてみたい。
日本政府が 「慰安所」 設置に直接関与したのは、戦時中でなく占領下の
米軍 (進駐軍) のためにだったのだ。
1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、
池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、1945年8月28日
「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称) が設立された。
その目的は、「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」 となっていた。
GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。
しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。
実際は主権回復後まで膨大な数の女性が 「強姦」 されていた。
ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう
(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)。
強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。
8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。
〈強姦事件
(一)八月三十日午後六時頃横須賀市〇〇方女中、34
右一人ニテ留守居中、
突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、一名ハ二階四畳半ニテ〇〇ヲ強姦セリ。
手口ハ予(あらかじ)メ検索ト称シ、家内ニ侵入シ、一度外ニ出テ再ビ人リ、
女一人ト確認シテ前記犯行セリ
(二)八月三十日午後一時三十分頃
横須賀市〇〇方。米兵二名裏口ヨリ侵入シ、
留守居中ノ右同人妻当〇〇三十六年、長女〇〇当十七年ニ対シ、挙銃ヲ擬シ威嚇ノ上、
〇〇ハ二階ニテ、〇〇ハ勝手口小室ニ於テ、夫々 (それぞれ) 強姦セリ (以下略)〉
同9月1日、房総半島に米軍上陸。ここでも事件発生。
〈〇〇方ニ侵入セル米兵三人:留守番中ノ妻 (二八)(中略) 奥座敷ニ連行、
脅迫ノ上、三人ニテ輪姦セリ〉
〈九月一月午後六時頃
トラックニ乗リタル米兵二名 (中略) 市内〇〇ニ来リ
女中一名(24) 連レ去リ (中略) 野毛山公園内米兵宿舎内ニ於テ米兵二十七名ニ
輪姦サレ仮死状態二陥りタルモ (中略) 三日米兵ニヨリ自宅迄送り届ケラレタリ〉
このような記載が 「特高」 解散の10月4日まで続く。
〈九月十九日夜十一時頃、(横浜市) 保土谷区、出征中〇〇妻 (27)、
(中略)
:侵入シ「ジャックナイフ」 デ情交ヲ迫り、
被害者之ヲ拒否シテ戸外ニ逃避セルヲ (中略) 畠 (畑)ニ連行、
三名ニテ輪姦シタル。更ニ通中ノ三名ノ黒人兵ガ同所ニ於テ輪姦逃走セリ〉
調書を総覧すると、米兵の蛮行が眼前に浮かんでくる。
警察官はいたるところで暴力を振るわれ、拳銃を取り上げられている。
一般人は、「乗用車」「ラジオ」「現金」「腕時計」「背広」 や 「ゲタ」
まで、手当たり次第に強奪されていた。
〈九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハトラックニテ横浜市中區
山手町二一二番地共立女学校内、校長神保勝也ニ侵入
各室ヲ物色シタル後現金二千七百十圓及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ〉
とこのような 「強奪逃走せり」 が続くのだ。
その中に、首を傾げたくなる記述がある。
それは、「民家に米兵が押し入り、若い女性から腕時計だけ強奪して逃走せり」
との記述が散見することである。
貞操は取り返すことができずとも、せめて当時、貴重だった 「腕時計」 だけでも、
取り返したいとの思いから被害届を出していたのではと思われる。
先述した945件の強盗・略奪に強姦 (あるいは強姦未遂) も入っているのでは
ないかと考えるのはこのためである。》
つづく
これは メッセージ 356 (kireigotowadame さん)への返信です.
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占領米軍の性犯罪1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/24 18:37 投稿番号: [356 / 2250]
サピオ2007年4月11日号
63〜64pより
《ここでは、「戦争と性」 の問題を考える上でひとつの史料を提供したい。
それは、GHQ占領下の日本人女性にたいする米兵の 「強姦事件」 についてである。
マッカーサーが厚木に降り立った直後に9件の強姦事件
占領初期のGHQ1945年9月 「月例報告」 では、「日本人は米兵に協力的であり、
占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」 などと記載されている。
また、GHQ外交局長W・J・シーボルドは
「(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった」、
「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」 と記している
(『マッカーサーの日本』 1970年刊、新潮社より)。
しかし、これら米国側の記録は、事実ではない。
この米軍の 「嘘」 を暴く鍵は、占領下の1945年10月4日に解散させられた
「特高 (特別高等) 警察」(約6000人) の記録の中にある。
米軍進駐後、「特高」 は 「治安維持法」 に基づく監視の必要もなくなり、
もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。
前掲の 『マッカーサーの日本』 にこの記録のことが一部記されており、
原本をこの目で確かめてみたいと思った筆者は、国立公文書館でこの資料を発見した。
手書きの原本が白日の下に晒されるのは今回が初めてだろう。
そのファイルが377ページに及ぶ 「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課) である。
マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの米軍の
不法行為を特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものだ。
ファイルによれば1945年8月30日〜9月10日の12日間分だけでも強姦事件9、
ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件
(この中には、後述するような理由で強姦事件も含まれていると考えられる)。
特別事件として 「葉山御用邸侵入」「二重橋ニ侵入皇居撮影事件」
「宮様御用列車ニ同乗未遂事件」 などが発生している。
「特高」 は解散命令が出た10月4日の記録も残している。その日の記録には
「各種学校、倉庫等ニ侵入シ保管品等ヲ不法徴発
被害発生場所
屋内10件
屋外10件」「両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件」 などとある。
掠(かす) れたページもあり、正確な数字ではないが、全ファイル約1か月間で
少なくとも強姦37件(未遂を含む)、その他の不法行為945件を数える。
実際、「特高廃止」 指令が出ると、全国の 「特高」 は、書類を焼却してしまった。
しかし、「特高」 の元締 「内務省警保局」 の秘密報告書は焼却されず、
この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られたのだ。
その後、実は1973年12月日本に返却され、翌年1月から、国立公文書館に所蔵されていた。
つづく
これは メッセージ 355 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/23 18:49 投稿番号: [355 / 2250]
正論2000年5月号
86〜87 p
リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋
◇下巻 「戦時下の南太平洋にて」(一九四四年四月〜一九四四年九月) から
《
八月十四日
月曜日
午後は将校達と話をしたり、原稿の執筆に費やしたりする。
ヌムフォール島でまだ続いている戦闘情況を訊 (き) いてみた。
日本軍の孤立した拠点が幾つか残存しており、
その一つがキャンプから二マイル半のところにあるという。
同地区の歩兵部隊を訪問できないものかと持ちかけても、積極的な反応には接せず。
戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的に定期的なパトロ−ルを実施し、
相当数の〝ニップス〟を殺したと将校たちは語る。
そのリーダー格は管制班に所属するチェロキー・インディアンの混血であった。
「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの大腿骨を持ち帰り、
それでペン・ホルダーとかペーパー・ナイフとかいったような品を造っている」。
八月三十日
水曜日
…タラワは多くの血が流された戦場にしては驚くほど小さな島だ。…
同行の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、
海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。
激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。
敵を悉(ことごと) く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。
捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。
英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、
あとの連中は 「一人も捕虜にされなかった」 という。
九月九日
土曜日
ケネス・コリヤー中尉、マッコール大尉らと昼食。
話題は何となくロイ島の侵攻作戦と占領当時のことに及ぶ。…
将校の話によれば、穴の中の遺体を 「ブルドーザーにかける」 前に、何人かの海兵隊
員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。
金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、
耳や鼻を切り落されている日本軍の戦死体を幾つか見たとも言った。
「兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて
帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。
頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり
過ぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」。
行く先先で聞かされる似たり寄ったりの話だ。
九月十四日
木曜日
…オアフ島へ向う途中、一時間ばかり操縦桿を握ってみた。零時二十八分に着水。
到着したとき、海軍航空輸送部事務所にはたまたまジョン・ヤング大佐ら数名の
海兵隊将校が居合わせていた。大佐からエワで一夜を過すようにと招かれる。
通関を済ませ、車でエワの基地に向った
(税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。
日本兵の遺骨をスーペニアとして持ち帰る者が数多く発見されたので、
相手構わずにこのような質問をせねばならないのだと言う。
税関吏はまた、手荷物の中にまだ 「緑色をしている」 日本兵の頭蓋骨を二個も
忍ばせていた男を発見したことがあるとも言った)》
*
善人心の日本人は、日本軍は残虐無比と教え込まれ、それを信じているようだが、
これらの米兵やオーストラリア兵と比べてどうなのだろうか?
次は、米兵の強姦や慰安婦について書こう。
これは メッセージ 354 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/22 18:35 投稿番号: [354 / 2250]
正論2000年5月号
85〜86p
リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋
◇下巻 「戦時下の南太平洋にて」(一九四四年四月〜一九四四年九月) から
七月二十四日
月曜日
…十分後、ビアク島のモクメル飛行場に着陸。…
午後、クロード・スタッブス少佐ら数人の将校とジープで
モクメル西方の洞窟へ出掛けてみる。
日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。…
丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。
そこには一人の日本軍将校と、十人か十二人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた
人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。
…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に二つの首が
並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。
なかには四肢がばらばらになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。
そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。
つまり、戦利品として金歯を悉 (ことごと) くもぎとったというのである。
洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。
山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。
穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだ
トラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。
同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これを理解できる。戦争の
欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。
しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、
残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。
八月六日
日曜日
明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人捕虜
の問題を話し合った。私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。
でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、
投降を受け容れればわれわれの進撃は一段と速くなり、
多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。
とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、
彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう
−
そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。
大多数の将校は私の意見に同意したが (さほど熱烈に同意したわけではないが)、
しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。
「たとえば第四二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。
兵どもはそれを自慢にしているのだ」
「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ
二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。
お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」
「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。
兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」
「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を知ってるかね?
あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ。捕虜を機上から山中に突き落し、
ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。
わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」
つづく
これは メッセージ 353 (kireigotowadame さん)への返信です.
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米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/21 16:21 投稿番号: [353 / 2250]
正論2000年5月号
84〜85 p
リンドバーグ第二次大戦日記・抜粋
◇下巻 「戦時下の南太平洋にて」(一九四四年四月〜一九四四年九月) から
六月二十一日
水曜日
日本兵士殺害に関する将軍の話
−
数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう二年以上も太平洋地域で、
戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく
−
帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。
軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、
偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。…
「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」
「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」
偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に
腕が巻き付き、喉元が 「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」 のだった。
六月二十六日
月曜日
八時三十八分、第三滑走路からP三八で離陸し、ニューギニアの密林を
越えてホランディアへという直線コースの針路をとる。天気良好。…
小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。
日本軍兵士の死体から取ったものだという。
その一枚は記念品(スーペニア)として十ポンド(三十三ドル)の値打があると、
ある将校は説明した。
日本軍将校の軍刀を所持する男は二百五十ポンドなら譲ってもよいと言った。
談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。
「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」 と、将校の一人が答えた。
「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。
しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。
残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、
機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」 と、
別の将校が調子を合わせる。
六月二十八日
水曜日
第四七五飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。
話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。
わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な
人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。
日本兵の死体から略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。
日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、
われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。
「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してから
それをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
つづく
これは メッセージ 352 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京での殺害その他について
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/20 18:36 投稿番号: [352 / 2250]
南京攻略の時
多くの中国兵が殺されました。
しかしこれは戦闘です。
そして、投降兵が殺されました。それを非難する人もいますが、自分がその場に居たら、
果たして、そんなきれい事が出来たかどうか考えるべきでしょう。
昔、「酔拳」 という中国映画がありました。
ジャッキーチェーン扮する若者が悪人と闘い、敗けそうになると 「助けて」 と哀願します。
そこで、悪者が後ろを向くと攻撃するのです。
中国では、正義の味方でも、「助けて」 と哀願した後、敵が後ろを向くと襲いかかります。
我々の感覚では、これは正義の味方のとるべき行動ではありません。
しかし、中国では問題ないようです。
これが当り前とする中国兵捕虜を 「可哀そう」 と善意で接し、
裏切られ、殺されたとしたら。
そういう事を何度も経験すると、日本式の善意は通用しない、
殺すしかないと変化しても仕方がないのではないでしょうか。
実際に捕虜が手榴弾を隠し持ち、投げつけたという話もありますし。
また、中国には便衣兵というやり方があります。
兵隊が民間人の服を着て、民間人の間から発砲し、民間人の間に逃げるという戦法です。
このような戦法を取れば、民間人に犠牲がでるのは当然でしょう。
なにしろ民間人を盾にしているのですから。
民間人を盾にする戦法をとりながら、民間人が殺されたと言っても通りません。
民間人に犠牲が出たのなら、その全責任は、便衣兵戦法をとってる中国にあります。
市民が殺されたと主張するのなら、虐殺犯は中国軍なのです。
市民を盾にしたのですから。
彼らが、便衣に着替えず、安全区に隠れなければ、
市民が間違えて殺される事はなかったでしょう。
また、安全区に隠れた中国兵は、少女を強姦したり、建物を放火したりして、
日本軍の犯罪のように見せかけました。
中国は、善人の常識など通用しない 「なんでもあり」 の世界なのです。
また、一部の外国人は、国民党から金を貰って、虐殺の宣伝文を作成しました。
多くの、善人はこの宣伝文に踊らされています。
もちろん、日本兵も全員が聖人君子ではありませんから、強姦や略奪、
殺人をした人もいたでしょう。
さて、では、他国の軍隊はどうだったのでしょう?
そこで、次は外国の軍隊の暴虐について紹介します。
これは メッセージ 351 (kireigotowadame さん)への返信です.
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上海だけに特別な日本軍がいた訳ではない
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/19 18:38 投稿番号: [351 / 2250]
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 204〜205p
《三月二十八日、ティンパレーからベイツへの最後の手紙に、次のような一節がある。
〈なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとのお尋ねですが、
七章を読んでいただければ分かるかと思います。
この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、
確実な証拠がほとんど見つかりません。〉(①374頁)
北支から中支、杭州から南京に至るあらゆるところでの日本軍暴行の証言を
集めたにもかかわらず、自分がいる上海、
しかも難民区第一号が設定された上海地区では、
日本軍暴行の証拠をまったく見つけ出せなかったのである。
・・・
本当ならばティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。
なぜ自分のいる上海には見出せず、
自分が見ていない他のすべての地区で日本軍の暴行が起きているのか、
そのカラクリに気づくべきだったのである。
華北その他について、アメリカ人の牧師や神父に話を伝えたのは支那側の人物だった
と思うが、彼らはその話をストレートに信じてティンパレーに伝え、
ティンパレーもそれをそのまま検証もせず本にしたことがよくわかる。
上海地区だけに特別な日本軍がいた訳ではない。南京に特別な西洋人がいたのである。》
*
>上海地区だけに特別な日本軍がいた訳ではない<
も何も、上海を攻略した日本軍がそのまま南京に行ったのです。
同じ人間で構成された軍隊です。
死傷者の分は、別の人で補充されていますけど。
同じ人間が上海では、問題を起こさず、
上海以外のところで、残虐の限りを尽くす?
そんな事があり得るでしょうか?
ティンパレーにも良心のかけらは有ったのでしょう。
「上海、松江、嘉興には暴行の証拠が見つからない」と言ったのだから。
これは メッセージ 350 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ティンパーレーは国民党の宣伝工作員
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/18 18:48 投稿番号: [350 / 2250]
実はティンパーレーは、国民党の宣伝工作員だったのです。
鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 291〜292p
《何回目の中国旅行のときであったか、A君はある日、七百頁ぐらいの
『近代来華外国人名辞典』(中国社会科学出版社、一九八一年十二月出版)
の奥付がある本を持って来て、「多分、これじゃないか」 と、なにげなく
この、やや手あかによごれた一冊の本を渡してくれた。
彼の友人が以前買って、結構便利に使っている、という人名辞典であった。
そして、そこに遂に 「田伯烈(ティンパーレー)」 の名前が出ていたのである。
たまたまコピーもなかったので、これはそっくり手書きで書き写した。
念のため、はじめに原文通りを、中国文のままご紹介する。
「田伯烈 (一八九八〜
) 廷珀利・哈羅徳・約翰
澳大利亜人、第一次世界大戦後来華、任路透社駐北京記者、後又任
《曼徹斯特、衛報》
(Manchester Guardian)及美国聯合報 (即美聯社)
駐北京記者、一九三七年盧溝橋事変後、国民党政府派他前往英美做宣伝工作、
嗣任国民党中央宣伝部顧問、編有 《日人在華的恐怖》
(The Japanese Terror in China
一九三八) 一書」(原文は簡略字体である)。
「(訳文)ティエンパレー、
ハロルド・ジョン・ティエンパレー、一八九八年生れ。
オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。ロイター通信の北京記者となる。
その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。
一九三七年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、
宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。
編著に 『中国に於ける日本人の恐怖』(一九三八年)一書がある」》
北村稔著 『「南京事件」の探求』
文春新書
43p
《曽虚白は、ティンパーリーとの接近について次のように言う。
「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に
上海の 『抗戦委員会』 に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。
・・・
漢口〔南京陥落直後の国民政府所在地〕に来てもらい、直接に会って全てを相談した。
我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。
我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、
我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になって
もらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人達であった。
かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由で
スマイスに依頼して、日本軍の南京人虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、
印刷して発行することを決定した。〔中略〕
このあとティンパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕一つの書物は
売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。(曽虚白『自伝』より)
*
というわけで彼は国民党の宣伝工作員だったのです。
前回出の 『「南京虐殺」 への大疑問』 205pの中で、松村俊夫氏が、
「ティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。」
と書いていますけど、工作員だから、気にする必要はなかったわけです。
これは メッセージ 349 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ティンパーレーの情報源
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/17 18:45 投稿番号: [349 / 2250]
南京に行った松本氏ですら 「読むに堪えない」 と感じたほど酷い
「残虐話」 を、ティンパーレーは誰から得たのでしょうか。
それはベイツ達からです。
『328アリソン事件証言の食い違い』 の中に
松村俊夫著 『「南京虐殺」への大疑問』 167p
《『南京事件資料集①』 に、ティンパレーとベイツの間に交わされた
『戦争とは何か』 の出版をめぐる往復書簡 (352〜376頁) が掲載されている。》
とありましたように、本を書く為の情報を交換していたのです。そして、
203pには、
《三月十四日付の手紙でベイツは、ティンパレーから送られてきた原稿を
スマイスとミルズの三人で検討した結果を返答している。
この件はあわてるべきではなく、誰かが上海まで出かけていって
一緒に作業をした方がよいとし、
もし内容に間違いでもあると 「日本側に反駁の機会を与えるものであり、
全体の効果を弱める結果になる」(①360頁) とある。
・・・
203〜205p
同じ三月十四日付で、上海のティンパレーからタイプされた原稿の一部が
ベイツに送られてきた。
それによれば、第一章はまだできていないが、
第二章から第十章の結論までの構想が示されている (①365頁)。
その構成を見ると、ここで参考としている
『外国人の見た日本軍の暴行』 とは若干異なっているが、
第六・七章に南京以外の事件を扱うこと、第八章に
「今日にいたるまでの南京空襲に関する新聞報道と目撃談を厳選するつもり」 とある。
この記事が、完成した本の 「第五章
華北の恐怖」 のなかにある
石炭を知らぬ日本兵の話 (同書57頁)、
「第六章
暗黒に鎖された城市」(同書69頁) のなかの、略奪品を持って上海に
引き揚げる日本兵の話などとしてそれぞれ入っているのである。
その他もこれに似て、およそ日本人なら想像もつかない目撃談というものが続く。
日本軍は前掲の各都市を始め、いつでもどこでも虐殺、略奪、
強姦を働く集団として、目撃者や体験者の話が文字通り腐るほどある。
・・・
三月二十八日、ティンパレーからベイツへの最後の手紙に、次のような一節がある。
〈なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとのお尋ねですが、
七章を読んでいただければ分かるかと思います。
この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、
確実な証拠がほとんど見つかりません。〉(①374頁)
・・・
華北その他について、アメリカ人の牧師や神父に話を伝えたのは支那側の人物
だったと思うが、彼らはその話をストレートに信じてティンパレーに伝え、
ティンパレーもそれをそのまま検証もせず本にしたことがよくわかる。》
*
というわけで、ティンパーレーは、南京のベイツ・スマイス・ミルズや華北の
神父たちから情報を得、書きかけの原稿を送ってチェックしてもらっていたのです。
また、上海に来たフィッチも原稿の材料を与えたでしょう。
註
ここではティンパーレーとティンパレーと誤記のように書いてますが、
これは著者の表現に忠実に従ったまでで誤記ではありません。
ちなみに
「ティンパーレー」 は
松本重治氏
「ティンパレー」 は
松村俊夫氏
の表現です。
これは メッセージ 348 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ティンパーレー 「日軍残虐」 の本を書く
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/16 18:46 投稿番号: [348 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 249〜250p
《四月になって、ジャキノ難民区でともに働いたティンパーレー君が
総局事務所にやってきて、
「中国における日本軍の残虐行為 (ジャパニーズ・アトロシティーズ・イン・チャイナ)」
なる書物を編集、発行することになったことを報告した。
そして、「これは、よき日本人に対しては、まことに済まぬことながら、
ひろく戦争が人間というものを変えてしまうという、悲しむべく、
また憎むべきことを世界に周知せしめたいのです。
しかし、ことに日高さんと松本さんとに対しては、
南市の難民区を作ることにつきご両人に協力をしてもらいながら、
事実上、反日的な刊行物を編集するにいたった。
これは、お二人の好意に対し悪意をもって酬 (むく) ゆるようなことになるもので、
自分にとっても心苦しい限りである。
そこで、時局がら、直接に名指しすることは差し控えたが、私の序文において、
お二人に対する私の衷心からの敬意を表明しておいたわけだ。
何とぞ、この本はあくまで反戦的編著書として受けとってくれ」
という良心的な話であった。
「ティンパーレー君、私も日本人の端くれである。
南京の暴行、虐殺は、全く恥かしいことだと思っている。
貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、致し方ない。
中国人に対し、また人類に対し、われわれ日本人は深く謝するとともに、
君の本をわれわれの反省の糧としたいものだ。
丁寧なご挨拶で、かえって痛み入る」 といったことがあった。
それから六月ごろになって、その本を買い求め、通読しようとしたが、
読むに堪えない事実の羅列なので、半分ぐらいでやめてしまった。
聞けば、本書は、ロンドンでの発行と同時に、
中国においても中国語に翻訳、刊行された。》
*
〉貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、〈
松本氏は、反日的宣伝効果を一時的と思っていたようだが、
まさか、永久的とは、予想だにしなかっただろう。
中国人の悪意を理解できず、善意でのみ解釈していこうとすると、
こういう事になる。
*
〉読むに堪えない事実の羅列〈
ここで松本氏は 「事実」 と書いていますが、「事」 とすべきでしょう。
民主党の原口大臣風に言えば、「伝聞であって事実と証明されていない。
確たる証拠を持って来て 『事実』 と言いなさい」 となるでしょう。
ティンパーレーは虐殺を目撃しているわけではないのですから。
これは メッセージ 347 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベの日記 2月13〜22日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/15 18:47 投稿番号: [347 / 2250]
これより先はあまりめぼしい内容はないので部分的に抜粋する。
二月十三日
・・・
『ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ』 から (ラーベの切り抜き)
一九三八年一月三十日
日本大使は懐疑的
ロンドン、一九三八年一月二十九日。吉田茂駐英日本大使は、本日
『デイリー・スケッチ』 のインタビューで、
中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に
遺憾の意を表明するとともに、つぎのように付け加えた。
わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。
そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相いれないものであり、
わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。
日本軍は非常に規律正しいのだ。
二月十五日
昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。
今日発つという。どうやって家に帰るのかは知らない。
計画を打ち明けられなかったし、こちらも聞かなかった。
残念ながら我々の友情にはひびが入った。
・・・
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを
受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。
いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。
そのほとんどは下関にある。
この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった
最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。
二月二十二日
羅福祥氏は空軍将校だ。
本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。
汪氏は韓の力ぞえで上海行きの旅券を手に入れることができたので、
私の使用人だといってビー号に乗せるつもりだ。
南京陥落以来、わが家にかくれていたが、これでやっと安泰だ。
*
ラーベは23日に乗船南京を発った。中国軍将校羅福祥を連れて。
*
「昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。」
龍と周は12月12日の夜南京陥落の時、密命を帯びて南京に留まった中国軍将校
ラーベが南京を去らねばならなくなり、
彼の影に隠れての犯行が不可能になったので、南京を去ったのであろう。
*
「死体があと三万・・・この数は下関に殺到したものの、
船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅した
ということを物語っている。」
全滅と書くと、日本軍が殺したかの様に取れるが、これは同士討ちによるもの。
日本軍が来る前に死体の山は出来ていた。
これは メッセージ 346 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月11日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/14 16:11 投稿番号: [346 / 2250]
在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録
一九三八年二月十日
(長いので、前略)
ラーベ氏にはこのうえない輝けるラストシーンが用意されていたのだから。
さあ、ラーベよ、君の栄光に満ちた物語もいよいよ幕を閉じるのだ!
ラーベ氏も同じことを感じ、南京から出るための許可を取ろうとしてはいるが、最近
またぶり返した日本兵による血なまぐさい事件を阻止すべく、あいかわらず奔走している。
だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ。
ほかに頼る相手がいなくなった暁には、中国人は手のひらを返すように日本人と
兄弟のような交わりをするのは目に見えているのだから。
第一、暴行事件といっても、
すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。
ラーベ氏も含め、ここにいるドイツ人は全員、アジアの戦争というものが、
われわれの考えている戦争とは本質的に異質だということが身にしみてわかった。
捕虜にしないということは、とりもなおさず冷酷な行為につながる。
略奪などはあたりまえで、まるで三十年戦争の時代に戻ったようだ。
たしかに当地の状態は悲惨だが、難民が安全区から出てしまえば
よくなっていく見込みはある。ごく最近、混乱を治めるため、松井大将が来ていた。
「車の遺骸」を片づけさせている点では、天谷少将の力量も感じる。
ひっくり返ったトラックやバスなど、なかにはスクラップ化したようなものもあるが、
道ばたに転がっているあらゆる種類の車に片っ端からガソリンをかけて燃やし、
残骸を片づけている。街ではたくさんの部隊が作業し、
あたりに引っかかっている電線を取り除いてはせっせと新たな線を引いている。
というわけで、この点では状況はよくなり始めている。
紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、
数日前には、シュレーダー家の近くの沼からなんと百二十もの死体を引き上げた。
たった一つの沼からだ。死体の腕は針金でくくられたままだった。
ラーベはこれを目撃したという。私はといえば、日本兵たちがその沼で
飯盒 (はんごう) に水を汲んでいくのを一度ならず見た覚えがある。
どうぞおあがり下さい!
暖かくなってきたら、最悪の事態を心配しなければならない。
*
何も知らないから、日本兵はその水で飯を炊いていたという事。
外国人の見方も少しづつ変化してきたようだ。
これは メッセージ 345 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月11日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/14 16:02 投稿番号: [345 / 2250]
9日、10日は音楽会やラーベの上海行きの交渉なので省略
二月十一日
《きょう、委員会の苦力、銭は歩いて故郷の村に帰っていった。
ここから三時間の道のりだ。銭の家族はまだ生きているだろうか。
無事に会えただろうか。心配でたまらない。
郊外ではまだかなり人が殺されているという話だ。
たった今、またもやこんな知らせが舞いこんできた。
一人の兵士がある家に押し入った。
天谷少将によれば、その素晴らしい軍紀によってつとに名高い日本軍の兵士が、だ。
その家には母親と二人の娘が住んでいた。
娘を強姦しようとしたが抵抗され、そいつは三人を家に閉じ込めて火をつけた。
娘の一人は焼き殺され、母親は顔にひどいやけどを負った。この件を調査しなければ。
シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。
だが今度は中国人の話だ。
同郷の一人が隠し金を持っていると睨んだ四人の中国人が、
その男を縛り上げて火あぶりにして、金のありかをはかせたという。
とにかくここはアジアなのだ!
そう言い聞かせてはみても、こういう
胸の悪くなるような残虐な話をつぎからつぎへと聞かされると、祖国が恋しくなる。
上海から良い知らせだ。緑豆を百袋送ったとのこと。
鼓楼病院が脚気の治療にと頼んでいたものだ。
張は板を探しにいった。まだこまごました品物がたくさん残っている。
できるだけ多く送りたいので、木箱を作らせるつもりだ。
南京をふたたびこの目で見ることができるかどうかなど、誰にもわかりはしない!
カルロヴィッツ社にもう一箱空き箱があるというので、
シュペアリングがこっそり取ってきてくれるという。
十三時
ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。
まだ荷造りが終わっていないのが残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。
マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。
ローゼンは、上海で複製を作らせている。
ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。
(フィルムに写っている) 負傷者は何人か見覚えがある。
そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話ができた。
鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。
在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録
一九三八年二月十日
・・・・
第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。》
*
シャルフェンベルクが言うように、残虐な話もすべては中国人から一方的に
聞きかされているだけ。
シャルフェンベルクもやっと不自然さに気付き始めたようだ。
これは メッセージ 343 (kireigotowadame さん)への返信です.
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日中戦争前後中国側は何をしていたか?
投稿者: taratarayamada 投稿日時: 2010/02/14 08:53 投稿番号: [344 / 2250]
rdupwatch さん、
あなたの友達のお爺さんは中国共産党が「消毒」して日本軍の蛮行だけが記憶された歴史の証人の役を務めているようですが、生の歴史を調べると消毒前の国民党、軍閥、共産党の暴力が山ほどあるようです。
当時の中国では国民党軍が男性を強制的に徴兵して大量に死なせ、兵士たちも暴行を働き、軍閥の暴力もひどく、共産党は支配地の富裕層を殺しました。戦後、共産党は数千万人の中国人をさまざまな形で殺戮しました。
そういう歴史を友達のお爺さんは知らない筈はないと思いませんか?
中国の民衆殺戮 義和団事変から天安門事件までのジェノサイドと大量殺戮
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434116274/ 日本と中国の読者に読んでほしい『中国の民衆殺戮』
訳者
China's
Bloody Century翻訳委員会代表
河辺志文
◆中国の民衆殺戮=日本軍394万人、国民党1021万人、共産党3870万人以上◆
『中国の民衆殺戮』は20世紀初頭以来の中国で起きた民衆殺戮の全容を記述し、
その規模を推計したハワイ大学名誉教授R.J.ラムル氏の貴重な力作です。
アメリカの学会で高名なラムル教授の本書に接してその重要性を知った
China's
Bloody Century翻訳委員会は今年日本語版を出版し、さらに
天安門事件20周年を迎える来年には中国語版の刊行を計画しています。
本書で20世紀中国の民衆殺戮死者数を総計したラムル教授は以下の知見を明らかにしました。
(1)「レイプ・オブ・ナンキン」など昨今疑われることの多い日本軍の虐殺や
戦争犯罪に関する主張をほぼそのまま信用したとしても、日本軍による民衆殺戮
推計は394万9,000人にとどまり、反日勢力が激しく宣伝する「日本軍の蛮行」の
規模は中国共産党や中国国民党の民衆殺戮にはるかに及ばない。
(2)あまり知られていないが、本書の推計では国民党による民衆殺戮は日本軍を
大きく上回る1,021万4,000人に及び、20世紀世界で4番目の大規模な民衆殺戮を
行った。
(3)中国共産党による民衆殺戮の規模は日本軍も中国国民党も大きく引き離している。
本書の推計では共産党による民衆殺戮は控え目に推計しても3,870万2,000人にもなり、
しかもその大部分は戦後に起こった。
(4)最後に、ラムル教授が日本語版への序で述べているように、大躍進運動の時期に
発生した1959年から1963年までの世界最悪の大飢饉(死者推計2,700万人前後)に関して
責任があるとするなら、中国共産党はソ連の6,191万人を超えて
20世紀史上最大の民衆殺戮を行ったことになる。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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2月7〜8日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/13 16:12 投稿番号: [343 / 2250]
二月七日
・・・・・
許さんが知らせてきたのだが、
なんでも蓮沼の近くで、明け方に中国人が四人、日本兵に射殺されたとか。
一人の老人が、家の近くに自分の力車を隠しておき、
取りにいったときの出来事だという。
老人は射殺された。女の人が一人、それから親戚の男の人が二人、
助けようと駆けよったところ、同様に撃たれてしまった。
(中略)
行ってみると野原に男女三名の死体がころがっていた。三つともぴったり
くっついている。およそ十メートルほど離れたところに老人の死体があった。
竹竿に板をつけた間に合わせの担架がその間に放り出されていた。女の人に
よばれ、結局は殺されてしまったふたりは、これで老人を運ぶつもりだったのだ。
またしても貧民が犠牲になった。
この老人は百姓で小さな畑をもっており、すでに畑を耕していた。
すぐそばに粘土でつくったみすぼらしい小屋があり、なかはからっぽだった。
殺された女の人は十ドルほど身につけていたはずだという。娘は言った。
「それが母の全財産でした」。
けれども見あたらなかった。ミルズも私も深くショックを受けた。
殺したうえ、持ち物まであらためるのか…。
あまりのことに涙も見せず、ただ繰り返しおじぎばかりしている娘に、
私は十ドル握らせた。これで、少なくとも金だけは戻る。
帰るまえに、妹のほうはそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。
二月八日
(前略)
それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの五人で
百子亭へいった。四つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、
すでに筵 (むしろ) にくるまれていた。
ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。
それによると老人は自分の力車を取りに来たといっていたが、
実際は、椅子を二つ、藁 (わら) 小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。
椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。
そしてそれを日本兵に見とがめられ、発砲されたのだという。
老人は重傷を負って倒れ、妻 (あるいは姉妹か?) が親戚の男を二人呼んで
駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。
*
7日と8日とでは、証言が異なっている。
こういう、いい加減な証言での訴えは、まともな国では、認められないだろう。
力車でも椅子でもいいが、そんなものを運んでいる老人を
何で日本兵が射殺しなければならないのか?
それだったら、市街地で露店を開いている者は全員射殺しなければならなくなる。
言っている事の内容が不自然だという事になぜ気付かないのだろうか?
これは メッセージ 341 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月7日 2回目の慰霊祭
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/12 18:46 投稿番号: [342 / 2250]
板倉由明著 『本当はこうだった南京事件』 299〜302p
十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭 (十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる)。
松井日記は次のように記す。
「嚢 (さき) ノモノハ
戦勝ノ誇ト気分ニテ
寧 (むし) ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、今日ハ只々悲哀其 (その) 物ニ
捉 (とら) ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ
迫ルヲ覚エタリ。
蓋 (けだ) シ
南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト
ソノ後地方自治、政権工作等ノ
進捗 (しんちょく) セサルニ起因スルモノナリ。
仍 (よっ) テ 式後参集諸隊長ヲ集メ
予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭 (かいちょく) ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村 (利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)日記にも記されているが、
飯沼日記によればその内容は
「南京入城ノ時ハ誇ラシキ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭又其気分ナリシモ
本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。
其レハ此 (この) 五十日間ニ幾多ノ忌 (いま) ハシキ事件ヲ起シ、
戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ此英霊ニ見 (まみ) へンヤ」
という趣旨であった。
松本重治著 『上海時代・下』 248〜249p
・・・
私は、心に 「松井さん、よくやったなあ」 と叫び、深堀中佐を顧みて、
「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。何とかして松井大将の
訓戒のニューズを世界に撒きたいのだ。ぜひとも報導部長の同意を得たい」 と頼むと、
深堀中佐は、「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀から
OKをとってくるから、ちょっと待っていてくれ」 という。
二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、「参謀は、あまり賛成しないといっている」
というので、私は、「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、
報導部長として、日本のための最大の貢献になるのですよ。これを許可しない
というほうが報導部長の責任になるのだと考えられないですか」 と詰め寄る。
深掘中佐は、しばし考えていたが、
「松本君、君の考え方が正しい。参謀が何といおうとかまわない。
自分は報導部長の責任において、ニューズの発表、打電を許可する」
「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、少なからず聞いてはいたが、松井大将の
話を聞いてみると、現実に、ずいぶんわるいことをやったらしいではありませんか。
日本軍の名誉回復の一助としたいのです。ぜひこの電報をやりましょうや」
「松本君、やってくれ」。私は、深掘中佐の手をとって、握手をした。
*
結局、松井大将も松本重治氏も善人であるため、
中国人や外国人の宣伝に感化されてしまうようだ。
これは メッセージ 341 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月6日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/11 18:47 投稿番号: [341 / 2250]
ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
今月の五日に、日本大使館におきましてティーパーティーが催されました。
新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、
当地の在外公館のメンバーを招待したのです。
かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。
少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、
それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。
(内容省略)
天谷少将の挨拶に話を戻しますと、さしあたってつぎのような結論が引き出されましょう。
つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。
ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、ついに侵入者に反旗を翻す
ということぐらい、愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。
ところが、際限なくのぼせ上がった日本人はけっして
この事実に目を向けようとはしませんでした。
およそ二年前、満州国の外交部次長であり、
日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。
中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。
将校、いやそれどころか参謀本部についても天谷少将が不安を感じたという事実は、
中国進軍について、日本がまったく別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。
南京住民が日本人を受け入れなかった理由を外国人のせいにしようとする
天谷少将の試みは的はずれとしか申せません。
なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、
しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏をすえたことを考えれば、それは明らかです。
また少将が 「ある国家」 にアメリカをも含めたとしても事情は変わりません。
アメリカ人はドイツ人とともに密接に提携して共に行動してきました。
ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人も加わり、無条件に承認したのです。
ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、
日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。
ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。
日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。国内でふだんこっそりやれて
いたことが、当地では細かな点まであらいざらい明るみに出てしまったのですから。
ところがこれはつぎのような論理で片づけられてしまいました。
すなわち、日本が無秩序な中国に光明と秩序をもたらしたため、
国民は喜びのあまりじっとしていられないのだ、と。
しかし事実はこうです。我々外国人の予想に反して、日々繰り返される空襲や
市街戦に苦しめられながらも、中国人民は非の打ち所のない規律を示し、
比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。
一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵端基地になったあとも、
人を殺し、強姦し、街を焼きはらい、
あらゆるものを、ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。
ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、
日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。
けれどもその際、日本はあることを見逃しております。
つまり、ほかならぬ防共協定の創案者 (ヒトラーのこと) が、
日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。
漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。
ローゼン
*
ローゼンは自分がユダヤ人でドイツに戻れば虐殺されるかも知れないのに
ヒトラーを信じ切っている、かわいそうな人。
ヒトラーは、もっと恐ろしい事をしているのに。
これは メッセージ 340 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月5日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/10 18:44 投稿番号: [340 / 2250]
《クリスティアン・クレーガーよりラーベへの手紙一九三八年一月二十八日
於上海
親愛なるラーベ先生!
ようやく人心地がつきました。けっこうきつい旅でしたが、
まず、グログ酒 (ラム酒に砂糖を入れ、お湯で割ったもの) を立て続けにひっかけ、
それから温かい湯につかって内と外の両側から暖まりました。
それから、今週はひさしぶりに人間とつきあいました。
きちんと服を着た、平和的な人々とです。南京のように獣とではなく、ね。
・・・
常州 (武進) までは、あたりの風景も荒涼たるものでしたが、
ここを過ぎると一変しました。畑にはお百姓の姿も見えました。
耕しているのです。さすがの 「掃討」 もここまでは及ばなかったようです。
けれども略奪のほうはどこでも同じように行われています。
途中の駅でも、兵士が大きな荷物をかかえて乗りこんできました。
将校さえ、ぶんどってきたものを部下にひっぱらせていました。
ほかにはあまり見るべきものはありませんでした。
道路はあまり安全ではなく、とくに夜は危険だという話です。
それでも、自分の車でくるほうがずっと良かったのですが。
今日、ラーベさんの奥さんにお目にかかりました。とても心配なさってました。
ラーベさんも、遅くとも一カ月後にはこちらにきてドイツへ向かわれた方がいいと思いますよ。
プロープスト氏ともゆっくり話しました。ぼくの話を熱心に聞いてくれました。
仕事の上でいまラーベさんが必要だというわけではないと思います。
そうではなく、交代させて休暇で里帰りさせようというのです。
その資格は十分すぎるほどなんですから。
交代に一人送るといってますが、むだだと思いますがね。あそこじゃだれがいっても
つとまらないでしょうし、これから先、かなり長い間商売にならないですから。
というわけで、まず、おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。
ひれ伏して助けを求めるでしょうが、それよりなにより、もう一度外気を吸わなければ。
奥さんのこと、それからラーベさん自身の健康を気づかう方が先決です。
もう一つ別の提案があります。ぼくの事務所にはクルップのディーゼル車があるんですが、
これはカルロヴィッツ社のものです。
いずれ、ディーゼル車を運転できる人間はいなくなります。
どっちにしてもハッツはこの車で上海に来たがっていました。
ですからぼちぼち荷造りを始めて、ハッツに運んでもらってください。
三月半ばまでは大丈夫だと思います。
ラーベさんの気持ちもわかりますが、ここはひとつ、思いきって肚を決めてください。
奥さんのことも考えてあげないと。
さもないと、日本軍にくっついて、そちらまで押しかけかねませんよ。
ラーベさんのためなら、なんでもなさるんじゃないんでしょうか。
クレーガー》
*
「おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。
ひれ伏して助けを求めるでしょうが、」
南京に居た時と違って、クレーガーの態度が変化している。
全体の文面を見ても、日本軍に強制されて言わされているようには見えない。
上海に行ってから、南京の不自然さに何か気付いたのかも知れない。
これは メッセージ 339 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月5日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/09 18:33 投稿番号: [339 / 2250]
二月五日
金陵大学付属中学からの手紙
(省略)
十四時十五分
またもや中国機が上空を飛んでいる。
とにかく飛行機に中国の印がついていることだけはたしかだ。
パイロットがどこの国の人間かはわからない。 ロシア人でないといいが。
ロシア人だとすると、ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効きめはないだろうから。
収容所を二月八日に閉鎖するという新たな指令が出た。
大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出ていった。
残ったのは大半が女の人だ。ここから出ていきたくないのだ。
今日、鼓楼病院から連絡があった。脚気の患者が二人運ばれてきたという。
米飯だけのかたよった食事ではふしぎはない。
上海に 「薬を送れ」 と電報を打つことにした。
*
「パイロットが・・・ロシア人でないといいが」
ソ連は中国軍の上海攻撃の後、「 中ソ不侵略条約 」 を結び、
大量の飛行機やパイロット送りました。
田中正明著 『 東京裁判とは何か 』 267pに
《 この時期ソ連は、
「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに全力をつくした 」
とダリン ( David J. Dallin ) はその著 『 ソ連と極東 』 の中で次のように述べている。
「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、直ちに
飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、ソ連士官が中国軍に配備された。
チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。
三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、
戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った 」》
とあり、戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 310〜311pにも
《八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、
「 中ソ不侵略条約 」 を締結調印・・・
注二
《…ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって総額二億五千万ドル( 約九億円 )
のクレジットを中国に提供し、これにより購入された兵器は、飛行機八〇〇機以上、
弾薬、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などであった。
航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。
このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》
とあります。ソ連も早くから、非公式に日本と戦争をしていたのです。
これは メッセージ 338 (kireigotowadame さん)への返信です.
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2月2日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/08 18:40 投稿番号: [338 / 2250]
二月二日
《韓の調べによると、うちの難民は総勢六百人、百三十五家族だという。
そのうち、二十四家族は家を焼かれ、帰るところがない。
昨日、泣きながら出ていった人もいた。だれも日本軍を信頼していない。あたりまえだ。
ふたつの収容所の報告から、まだ安全でないことがよくわかった。
昨日、本間少将到着。
南京の混乱を鎮めるため、日本政府から全権をあたえられているそうだ。
ここには二日しかいないというが、それで足りるのだろうか。
ローゼンは、一月三十日付けの私の手紙をもとに、
難民がどんなに因っているかを詳しく説明した結果、
あまり本間には期待できないだろうという意見だ。
今日、上海日本大使館の日高信六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。 我々が
記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでもなんと八十八件もある。
これはこの種のものとしては、今まででいちばんひどかった十二月を上回っている。
報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、
部隊が交代するときには往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。
「前の部隊は評判が悪く、一月二十八日に離任させられたんですが、
撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」
この事の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている事件が
実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。
難民が二月四日に力ずくで追い立てられるというのは本当かと聞くと、
自分が知る限りでは、ぜったいにそんなことはないと日高氏はいった。
「それに、二月四日以前に収容所を出れば、
もとの家に戻るにあたって多少補償があるはずです。
つまり、家が焼けている場合は別の家を与えられることになっています。
いままでにもう、八万人以上が戻るといってきましたよ」
私は念を押した。「近いうちに我々も収容所を解散したいと考えています。
ですからなおのこと、いくども難民に家へ帰るようすすめました。
けれどもそのためには、一にも二にも安全であることが条件になります」
日高氏は、強制執行しないということは中国人には黙っていてくれといった。
すんなりいかないと困るというのだ。私は約束した。
漢口のトラウトマン大使から、孔祥煕国民政府行政院長が、
私あてに委員会への謝意を伝えてよこしたといってきた。
これを、公式に委員会に伝えることにしよう。》
*
〉「前の部隊は評判が悪く、一月二十八日に離任させられたんですが、
撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」
この事の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている事件が
実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。〈
もう、南京攻略時からの兵は一人もいない。
しかしながら、南京の状態は何も変わらない。
ラーベ達は、日本兵全員が犯罪者と見ているが、犯人は日本兵ではなく、
南京にいる別の者という発想はできないのだろうか。
犯人が日本兵以外の者である為、日本軍に抗議しても、
兵を入れ替えても変わらないのだ、とは、考えられないのだろうか。
これは メッセージ 337 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/338.html
1月30日 天野中尉軍法会議に送致
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/07 16:12 投稿番号: [337 / 2250]
アリソン事件の続き
飯沼守日記
◇一月三十日
曇
天野中尉以下十二名軍法会議に送致。
(『南京戦史資料集』
P244)
*
天野中尉らは売春婦を買っただけなのに、狡猾な中国人の讒言により、
女性を連行・強姦した様にされてしまいました。
事情を知らない外国人達の訴えで、日本軍も立場上軍法会議に掛けざるを
得なくなったようです。
しかし、日本が善意で譲歩しても、それは逆効果しかもたらさないでしょう。
「本当に悪い事をしたから裁かれたのだ。」
「これは氷山の一角に過ぎない。
これで、お茶を濁す気か。」
と言われるだけでしょう。
現在、日本の 「善人でありたいと願う」 人達が、一生懸命譲歩して、中韓の
ご機嫌をとっても、次から次へと難癖をつけられ
「反省が足らない」 と言われているように。
これは メッセージ 332 (kireigotowadame さん)への返信です.
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夏淑琴事件の疑問点
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/06 16:12 投稿番号: [336 / 2250]
マギーが聞いた所の話が事実なら悲惨なことです。
ただ、この話には、不審な点がいくつかあります。
「1月29日のラーベの日記」 では、「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。
親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。
近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいた」
となっていました。
これだけを読めば、少女の家族が殺されたのは 「1月の15日か」 と思えますが、
仔細に話をうかがうと12月13日なのですね。
少女らを発見して、どうして一カ月以上も報告しなかったのでしょうか?
死体も何もかも片づけて、一カ月も経った後から見に行っても、よく判らないでしょう。
また、ラーベの日記では、「親族は十一人」 となっているのに、case 219では
「a family 十三人のうち十一人が殺され」 と変化し、
『南京難民区の百日』 では 「十三名を殺害した」 となっています。
戦後60年過ぎての証言なら、ボケて勘違いと言う事もあるでしようが、
これは事件からそう月日の経たない時の証言です。
そして、事件は13日、場所は東南部です。ここは激戦地区です。
城門の外では戦闘があり、大砲の弾が城内に飛び込んで来ていました。
殆どの人が、安全区に避難しているのに、この家族だけ、なぜ、
そんな危険な所に留まっていたのでしょうか?
ドイツ大使館公文書綴によると、日本兵はドアを開けさせ、
いきなり「マアを拳銃で殺した」となっています。
しかしながらが、日本の陸軍歩兵は拳銃を持っていません。
将校は持っていますが、これは軍支給ではなく自前ですので、
弾薬の補給ができませんから、むやみには撃てません。
だから、非武装の市民を拳銃で撃つ、などは基本的にあり得ないのです。
次に、「この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を
食べて生きた。」 とありますが、南京は断水していたはずです。
おまけに、「兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来た」
とあります。日本兵が一番必要としたのは食糧です。
彼らは毎日、物を取りにやってきていながら、どうして米に気づかなかったのでしょうか?
ドイツ人の店など荒らされて、食糧が奪われたと、ラーベは言っていました。
二人の少女は、「シーツの下に隠れて発見されなかった」 と言いますが、
兵隊が気づかぬ筈はありません。
そんな間抜けだったら、彼らはとっくにゲリラに殺されています。
それは、いいとしても、日本兵は食糧を全部持って行くだろうし、
水も14日は持たないから 「米をふかす」 など無理では?
おまけに火を焚けば、日本兵に見つかります。
その他にも、『南京への道』・「マギーの遺言」・「来日での証言」・
「許伝音の証言」などで、証言が、それぞれ異なっています。
どれが、本当なのでしょう?
これは メッセージ 335 (kireigotowadame さん)への返信です.
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夏淑琴事件2 別の証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/05 18:53 投稿番号: [335 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 より
240p
事例二一九 (case 219) で語った、マギーの夏淑琴事件
《ジョン・マギー氏が説明してもらったところによれば、
十二月十三日から十四日にかけて、城南のある家族 a family 十三人のうち
十一人が日本兵に殺され、女たちは強姦されて手足を切断された。
この話は生き残った二人の小さな子供が語った。(マギー)》
括弧のなかにマギーという名前が見える。それはマギーが聞き書きしたことを意味する。
247p
『南京難民区の百日』 に出てくる、夏淑琴がマギーに語った話。
《日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、八歳と三歳
あるいは四歳の二人の子供を残してその家にいた者全員、十三名を殺害した。》
248〜249p
本多勝一 『南京への道』 に出てくる夏淑琴の話
事件が発生したのは十二月十三日の 「朝九時ごろ」 であった。夏淑琴は、
恐怖のあまり叫び声をあげた途端、体の三ケ所を銃剣で刺され、気絶した。
やがて息を吹き返した夏淑琴は、妹と、「家主の内庭にある防空壕」 の方へ行った。
防空壕といっても地下壕のような地下の穴ではなく、
内庭の上に 「頑丈な机を四個ならべて上に戸板をのせ、下に干し草を敷いた」
ほどのものであった。その机の前に行くと、母と赤子の死体があった。
日中は怖いので 「机の下」 からほとんど出なかった。水は共同炊事場の大きな
水ガメから、箱を踏み台にして、「重傷」 ながらも、水を汲んで飲んだ……。
249 p
「マギーの遺言」 に登場する夏淑琴
インターネット上で、「マギーの遺言」 を見ていると、そこにマギーの撮影した
フィルムが映し出された後、夏淑琴が登場する。そして、次のように語る。
《新路口五番地
それは私が住んでいたところです。日本兵たちは父を追いかけ回し、
後から撃ち殺したんです。彼らは隣の家に住んでいた二人の両親と子供も殺しました……。》
250p
夏淑琴来日での証言
戦争犠牲者を心に刻む会編
『南京大虐殺と原爆』 に出ている夏淑琴の証言によれば、
同じ敷地内に住む十五人のうち、日本軍にたいして家の扉を開けた夏淑琴の父 (即ちシア)
が殺されたのを皮切りに、夏淑琴の六十歳を過ぎた祖父母と、
十五歳、十三歳の二人の姉を含めた十三人までが殺されたが、
当時八歳であった夏淑琴と四歳の妹が助かって、二人は事件から
一週間後に死体を収容しに来た人たちに発見された、と言うのであった。
250p
許伝音の証言
許伝音が戦後、東京裁判に出廷した。
そして、先の現場を、マギーと一緒に見に行ったと語った。
・・・許伝音は、〈十七歳 (十六歳の間違い) と十四歳の少女の死体が
「テーブルノ上ノ血ノ海ノ中」 と 「ベッドノ血ノ中」 に横たわっていた〉 と証言した。
これは メッセージ 334 (kireigotowadame さん)への返信です.
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夏淑琴事件1 マギーの説明文
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/04 18:34 投稿番号: [334 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 240〜242p
この事件にかんするマギーのもう一つの記録が、ドイツ大使館のローゼンの手にも渡った。
各種の 「事件」 にかんするマギーの説明文 (英文七枚) と、
マギー自身の撮影になるフィルム四本とを、本国外務省へ送付するよう、
ローゼンは南京から上海のドイツ大使館に依頼している。
それは (マギーが八歳の少女を発見した一月二十九日から約十日後の)
昭和十三年二月十日のことであった。
そこで右の 「事件」 にかんするマギーの説明文を、
南京ドイツ大使館公文書綴 「日支紛争」 から全訳する
《十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、
中に入れるよう要求した。
玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、
ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、
マアの死体に脆 (ひざまづ) いて頼むシアさん Mr. Hsia をも殺した。
なぜ夫を殺したのかとマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。
シアの妻は一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、
そこから引きずり出された。
そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、
銃剣で胸を刺されて殺された。
その上、陰部に茎を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。
それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。
そこには、シアの妻の七十六歳と七十四歳になる両親、
それに十六歳と十四歳になるシアの娘がいた。
この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、阻母が娘を守ろうとして拳銃で殺された。
祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。
それから、二人の少女が裸にされた。
上の少女は二、三人に強姦され、下の少女は三人に強姦された。
その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。
下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。
それから、兵士たちはもう一人の七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。
同じくその部屋にいたからである。
この家の最後の殺人は四歳と二歳になるマアの二人の子供 children
(筆者註・性別不明)の殺人であった。
上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。
その八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、
母の死体のある隣の部屋に這 (は) って行った。
無傷で逃げおおせた四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、
この子はここに十四日間居残った。
この二人の子供はふかした米を食べて生きた。
写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、
上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚
a relative から語ってもらって、確認と訂正ができた。
兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、
二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この人歳の少女は語った。
このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。
それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性 the old woman が近所に戻って、
二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋
an open space where the bodies had been taken afterwards に、
写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんの弟
(または兄) Mrs. Hsia’s brother と、この小さな女の子にたいする質問を通じて、
恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。》
つづく
これは メッセージ 333 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月29日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/03 18:44 投稿番号: [333 / 2250]
プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝九時にピー号で出発した。
私の日記帳もお供した。
フィッチが近いうちに戻れるなどと、だれも信じてはいない。
日本人との緊張感は日増しに高まっている。
委員会を解散して、新たに救援委員会を組織し、
新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。
目下真剣に検討しているところだ。
日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。
委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。
それにむこうが同意するかどうかもまったくわからないのだから。
ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。
時機を逸してしまったのではないだろうか。
そうかといって、脅した通り、
日本軍が二月四日に難民を強制的に立ちのかせて収容所に入れ、
この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。
ドイツ大使館は日本軍から覚え書を受け取った。
そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、
二月四日に収容所を閉鎖するように、とあった。
私は会議を開いて、それぞれの大使館につぎのことを確認、
ないしは調べてもらうことにした。
一、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも
難民を立ちのかせることができるのか?
(収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。ジーメンス・キャンプと
いわれるラーベの収容所もその対象になる。ドイツ人の庭にあるからだ)
二、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?
三、我々の立場を明らかにするまで、
各大使館に本件に関する日本側の返事を待ってもらいたい。
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。
親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。
近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。
姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。
*
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた」
これは、有名な夏淑琴の話に関係しますので、次は夏淑琴の話をとりあげます。
これは メッセージ 331 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月29日 アリソン殴打事件つづき
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/02 18:32 投稿番号: [332 / 2250]
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』168p
《一月二十九日、駐日アメリカ大使グルーは、外務次官堀之内との会談において、
被害女性はリッグズとベイツに対し、連れてゆかれたところは
以前カトリック司祭が住んでいた家で、
現在は日本兵が占領しているところである、と証言した。
174p
飯沼守日記
〈一月二十九日
小山憲兵隊長来リ
天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、
事件送致ニ就キ 軍ノ意向ヲ聞ク、依 (よっ) テ中尉以下同宿ノ者 全部ヲ
送致スベキヲ希望シ、殿下ニモ報告セリ。〉
〈天野中尉出発ヲ差止メラレ 何トカ穏便ノ 取計ヒヲトテ来リシモ、
男ラシク 処理セヨト諭シテ帰ヘス〉(偕行社編纂 『南京戦史資料集』 243頁)》
*
第16師団は南京から出て行かなければならないが、
天野中尉以下の者は出発を差し止められたため、哀願したもよう。
しかし、状況から見て、彼らは、女性を連行強姦したというよりも、
売春婦を買っただけに見える。
「買春」 を 「女性の強制連行強姦」 として外国人に訴え、
事件にする、中国式の狡猾なやり方には舌を巻く。
そして、これに騙される善人の如何に多いことか。
これは メッセージ 329 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月28日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/02/01 18:40 投稿番号: [331 / 2250]
一月二十八日
フィッチが今日、なんの前ぶれもなく田中領事から上海へ行く許可をもらった。
イギリスの砲艦ビーでいき、一週間後にアメリカの砲艦オアフで戻るといっている。
なんだか妙な話だ。証明書とか旅券、あるいはそういう類(たぐ)いのものを
一切よこさないだけに、なおさら変な気がする。
昨日の晩、福井氏に、フィッチのために上海へ行く許可を出してもらえないかと
いったときにはにべもなく断られたのに。
ひょっとすると、昨日の件で、アメリカ人に対して弱腰になったのかもしれない。
なにしろアメリカと日本の間には、ここのところ、
それからそれへと不愉快な事件が続いたから。
昨日、アメリカ大使館の南京責任者、アリソン書記官が、
なんと日本兵に横面を張られるという事件が起きた。
ただちにこれはワシントンに報告され、今日、ロンドン発の最新ニュースとして
ラジオが伝えたばかりだ。
日本はアリソン氏に謝罪することはしたが、氏が日本語でけしからんことをいって
兵士たちを怒らせたからだ、という立場をあくまでも崩そうとしない。
それにしてもローゼンにも困ったものだ。昨日、いっしょに街をまわったとき、
日本軍から配属された衛兵を連れていこうとしなかったのだ。
言葉をつくして説得したがだめだった。この件はすぐに日本大使館に報告され、
今日、私のところに次のような声明文が届けられた。
南京にはなお平服の中国兵(便衣兵)がいる。
日本兵は、疑わしい人物はすべて撃つよう、命令されている。
それゆえ大使館員には日本人の衛兵がつきそい、保護することになっている……
おっと、ここで一言言わせてもらおう。
もし本当にまだ便衣兵がいたとしても、絶対に我々外国人に手出しはしない。
いまや我々が中国人を保護するために残ったのを知らないものはないからだ。
難民収容所を二月四日に強制的に解体する、との通達。
難民たちはいやおうなしに瓦礫(がれき)の町へ戻らなければならない。
帰るところがあろうがあるまいが知ったことか、というわけだ!
惨憺たることになるのは目に見えている。
だが、だからといって手の施しようがないのだ。
なんといおうと、権力を握っているのは日本軍なのだから。
これは メッセージ 330 (kireigotowadame さん)への返信です.
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