入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1月27日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/31 16:12 投稿番号: [330 / 2250]
一月二十七日

今日は皇帝ヴィルヘルム二世の誕生日だ。ちょっとくらい皇帝を偲んだところで
ナチ党員であるということに傷はつくまい。

私のように皇帝の時代に生まれた人間は、やはりそうすっぱりと忘れることはできない。

ただし、私が懐かしんでいるのは皇帝ではなく時代だ。
指導者としてはヒトラーのほうがいいと思っている。

だが、よくいうように、思い出というのは心の奥底にしみついている。

皇帝の誕生日がめぐってくるたび、色鮮やかな制服に身を包んで喜び勇んで
パレードしていた人々の亡霊が現れるからだ。

どの人もそれは誇らしげだった。いまではそのだれもが、
いやほとんどが土に帰っている。安らかに眠らんことを!


ラジオ上海によると、フランス政府は、ジャキノ神父に
レジオンドメール勲章を授けることにしたそうだ。

われわれの経てきた道のり、十五人ものメンバーが力を合わせ、
艱難 (かんなん) 辛苦に耐えてようやく克服できた数々の困難を思うにつけ、

この人が、ひとりきりでそれを成し遂げたと思うと信じられない気がする。
叙勲も当然だ。


今日、午前中にローゼンと車で東部地区をまわった。家という家は軒並み
略奪されてがらんとしており、しかもそのほぼ三分の一が焼けていた。

たった今、背筋が寒くなるような知らせが舞いこんだ。鼓楼病院の責任者マッカラムが、
押し入ってきた二人の日本兵に銃剣で襲われ、喉をけがしたのだ。

幸い命には別状ないらしいが、これは実にゆゆしき事件だ。
ただちにアメリカと日本の政府に電報が打たれた。


またまたHがこまったことをしでかした!

パンチェン・ラマといえばダライ・ラマにつぐチベットの権威者だが、
そのラマの使用人から、Hは素晴らしい車を二百ドルで買い取ったのだ。

いま自治委員会がこの車を買い取ろうとしているが、
Hの言い値の千九百ドルではなく、たった六百ドルでといっている。

Hが二百ドルで買ったのはわかっているからだ。おまけに自治委員会は、
使用人には国民政府の財産である車を売る権利はないといってきた。

今後も闇取引をやめないようなら、日本当局はHに赤恥をかかせて
そのうちに南京から追放するだろう。

(この後はラーベが妻にあてた手紙なので省略)


*   「今日は皇帝ヴィルヘルム二世の誕生日だ。」

   とラーベは皇帝を偲んでいるが、この皇帝こそが、ロシアに三国干渉をそそのかし、
   そのあと、膠州湾を占領して、列強の中国分割の口火を切り、

   それが原因で義和団蜂起となり、義和団鎮圧後はロシアが満洲に居座り、
   そのロシア皇帝に太平洋提督となれと言って、日露戦争を誘導した張本人だけど。

   「中国人が可哀そう」 と保護しながら、問題な皇帝を追慕していれば世話ない。
   その皇帝よりもっと悪質なヒトラーを礼賛。よくよく、見る目のない愚か者。


*   「ジャキノ神父にレジオンドメール勲章・・・ひとりで成し遂げた」

   とんでもない。ティンパーレ、松本重治氏、日高参事官、松井大将の協力があり、
   仏軍・日本軍の協力があってできたもの。

   南京を攻略した日本軍は上海を解放した日本軍。殆ど同じ人間。
   同じ日本軍の占領下で、上海は上手く行き、南京は酷くなった。

   その場合、問題は日本軍ではなく、別の何かにあると見るのが自然。

1月26〜27日 強姦事件の調査

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/30 16:04 投稿番号: [329 / 2250]
アリソン事件のつづき

松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 165〜166p

《この件は日本軍も重視した。アリソンが小粉橋三二号にあった 「日本軍本部」 に
無理に入ろうとして歩哨が殴ったために、日米間の外交問題に発展したからである。


ベイツの一月二十七日付アリソン宛書信は、「午後四時一五分現在、彼女が
『審問』 のため大使館に連れて行かれてから約二五時間が経過しているのに、

彼女についていまだなにも見かけていません」   (①166頁)と書いている。


前日の二十六日午後八時、リッグズが日本大使館を訪れた時には審問はまだ続いていた。
午後十一時に逆に大使館から人がきて、彼女は一晩大使館に留まることを伝えた。

この時、リッグズやスマイスは、脅迫などによって被害者が証言を
ひるがえさせられることを恐れていたらしい。

一月二十八日付の同様書信によれば、彼女は二十七日夜八時四十五分頃帰されてきた。

そこで、同行してきた大使館側の三人と女性、リッグズらの話し合いが行われ、
その内容が書かれている。


大使館では、強姦された部屋への階段、ランプ、入口の位置などの詳細を訊ね、実際とは
喰い違いが多いから、犯人が憲兵であるというのは嘘であると断定したことがわかる。

しかし、リッグズらがこれに猛反論したことはいうまでもない。
特に憲兵といっても、白っぽい腕章に黒字でそう書かれた補助憲兵が多く、

彼らこそが問題の集団で、彼らがかなりの期間、この建物を使ってきた証拠を
ふんだんに持っており、この三日間は腕章を外しているようだが、

今後一切かかることをしないように、と主張したのである。

もっとも彼が 「憲兵」 という字を識別できたかどうかは疑問である。
何か漢字らしきものが書かれている腕章さえつけていれば、どんな男でも、

少なくとも 「補助憲兵」 であると認識したらしいことは間違いない。


日本大使館では、四、五人の兵を呼んで面通しをさせたが、
そのなかにはいなかったと女性は答えたという   (①170頁)。

『資料集』 では、ベイツのこの件についての手紙はなぜかここで切れている。》

注:   ①は青木書店刊 『南京事件資料集』 のアメリカ関係資料編


174p
《飯沼守日記

〈一月二十七日   小山憲兵隊長、堀川新分隊長来リ、天野中尉調査ノ

概要ヲ聞ク。〉(偕行社編纂 『南京戦史資料集』 242頁)》

アリソン事件証言の食い違い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/29 18:45 投稿番号: [328 / 2250]
前日   アリソン殴打事件に関する、三つの記述を紹介しましたが、
その被害者に関する記述がそれぞれ異なっているように見えます。

タイムズ    被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる建物に
       いた難民。

笠原解説    金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。

飯沼日記    米人経営ノ農具店ニ二十四日夜十一時頃日本兵来リ、留守店ヲ
       銃剣ニテ脅シ女二人ヲ連行


さて、この事件には前段階があります。
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 165p

《ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、朝十時半、小粉橋三号の
小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、

好きなように各部屋を捜索していたが、見つけられてほぼ向かいの小粉橋三二号の本部へ
入ってゆくのを観察した (①157頁) 旨が書かれている。

この後に、大問題になった 「アリソン殴打事件」 が起きるのである。

一月二十五日、ベイツは二通の手紙をアリソンに送って、
この事件のきっかけとなった日本兵による婦人強姦事件を説明している。


それを要約すれば、一月二十四日午後十一時、白っぽい腕章をした日本兵が
胡家菜園の金陵大学農機具店に押入り、

店員を銃で脅し、彼らは婦人一人を連行して強姦し、二時間後に釈放した。

犯人は白い腕章から判断される特務兵ではなく、
恐らく憲兵の仕業と思われる(①161頁)と記す。

そして、追伸として、被害者の婦人を伴ってリッグズと共に調査したところ、
慎重に五回もチェックした結果、

「問題の建物は小粉橋三二号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした」
(①162頁)と特定したことをアリソンに報告したのである。》


ところが、あとで、とんでもない事実を明かしています。


松村俊夫著 『「南京虐殺」への大疑問』 167p

《『南京事件資料集①』   に、ティンパレーとベイツの間に交わされた
『戦争とは何か』の出版をめぐる往復書簡(352〜376頁)が掲載されている。
・・・
その中の三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に次のような一節がある。
資料名 「E八八 − 一〇〇」 についての注意である。


〈もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。
彼らは、たびたび私たちを困らせました。

アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。
殴打事件は彼らの巣窟で起きたのですが、

そこは、かつてバックが展示会をした語学学校(小桃園)の反対側のところです。
その語学学校では、一、二度君とも会ったことがあります。〉

注:   ①は青木書店刊 『南京事件資料集』 のアメリカ関係資料編


*   天野中尉がいたのは「小粉橋三二号」、ベイツの言う贋憲兵は「小粉橋三八号」
   要するに、略奪や強姦をやっていたのは「小粉橋三八号の贋憲兵」だと言って
   いるわけです。

   しかして、調査に突入したのは 「小粉橋三二号の日本軍兵舎」
   だから、殴られたのです。

   その間違いをベイツは隠しています。殴ったのは間違いなく本物の日本兵なのに。

   証言の食い違いといい、贋憲兵といい、杜撰な証言をもとに
   日本軍を非難しているようです。

1月26日 アリソン殴打事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/28 18:48 投稿番号: [327 / 2250]
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 123p

事件は一月二十六日に突発した。
リッグズと共に金陵大学に隣接する建物に入ろうとしたアリソンが、

警備していた日本軍の歩哨と押し問答の末、
無理に進入しようとして二人が殴られた・・・(①448〜452頁)。


事件の大要を、一月二十八日付の上海発アベンドの電報と、同二十九日付
「ニューヨーク・タイムズ」 の記事をもって描いてみる。

ある女性が日本兵に暴行されたとの訴えを受けたアリソンは、
その兵士を特定し得る証拠を掴もうとして、

リッグズと共にその兵士が入っていったと彼女が指し示した建物に入ろうとした。
被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる建物にいた難民だった。

兵士が入ったのは、日本兵の宿舎だったので、歩哨はアリソンの進入を許さず、
交渉半時間に及んだが、業を煮やしたリッグズが半開きの門から押し入ろうとしたために、

歩哨が二人の頬を一回ずつ平手打ちした。(①449〜451頁)

注:   ①は青木書店刊 『南京事件資料集』 のアメリカ関係資料編


171p
アリソン殴打事件の笠原解説

〈一月二四日の夜一一時ごろ、武装した日本兵が金陵大学農学部の作業場に侵入し、
女性一人を連れ去った。

その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、
同邸を占領していた日本兵に三回強姦されて、二時間後にもどってきた。

二日後、日本兵が侵犯したのが二つともアメリカ人の施設であったので、アリソン
書記官は金陵大学のリッグズと一緒に被害女性に案内させて現場へ調査にいった。

日本の領事館警察と憲兵が複数名同行した。

強姦がおこなわれた家の邸内に入ろうとしたところ、中から日本人将校があらわれ、
アリソンとリッグズに平手打ちをくれたのである。

止めに入った憲兵が 「こいつはアメリカ人だ」 というと、将校はさらに激昂して
リッグズに襲いかかり、衿を引き裂き、シャツのボタンを引きちぎったのである。

これが、日本軍将校がアメリカ政府の外交代表である外交官に平手打ちを
加えて侮辱した、アリソン事件である。〉

  (『南京難民区の百日』   294〜295頁)


173〜174p
偕行社編纂の 『南京戦史資料集』 に収められている当時の上海派遣軍参謀長、

陸軍少将飯沼守の日記に、アリソン殴打事件に関連すると思われる記述が見える。

〈一月二十六日、本夕本郷少佐ノ報告。   米人経営ノ農具店ニ 二十四日夜十一時頃

日本兵来リ、留守店ヲ銃剣ニテ脅シ 女二人ヲ連行強姦ノ上   二時間程シテ帰レリ、

依 (よっ) テ訴ヘニ依リ   其 (その) 強姦サレタリト云フ   家ヲ確メタルトコロ

天野中隊長 及 兵十数名ノ宿泊セル所 ナルヲ以テ、其屋内ヲ調査セントシタルニ

米人二人亦 (また) 入ラントシ、天野ハ兵ヲ武装集合セシメ   逆ニ 米人ヲ殴打シ

追ヒ出セリ、其知ラセニ依リ   本郷参謀現場ニ到リ、中隊長ノ部屋ニ 入ラントシタルモ

容易ニ入レズ、隣室ニハ   支那女三、四名在リテ   天野ノ部屋ニ入レバ

女ト同衾シアリシモノノ如ク、女モ寝台上ヨリ 出テ来レリト、依テ中隊長ヲ

訊問シタルニ 中隊長ハ其権限ヲ以テ 交ル女ヲ連レ来リ   金ヲ与へテ 兵ニモ姦淫

セシメ居レリ トノコト、依テ憲兵隊長小山中佐 及 33〔i〕(引用者註・iは歩兵)

第二大隊長ヲ呼ヒ 明朝ノ出発ヲ 延期セシメ   大隊長ノ取調ニ引続キ   憲兵ニテ

調ブルコトトセリ。〉(同書242頁)



*   飯沼日記から見るに、この女性は売春婦のように見え、とても連行されて
   強姦されている様には見えない。それでも、日本側は天野らを処罰した。

1月25日 チャイナ・プレスの記事

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/27 18:39 投稿番号: [326 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 276〜277p

『馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を煽動』

また、上海でアメリカ人の発行する
『チャイナ・プレス』(一九三八年一月二十五日号) も、同じことを報じている。

それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、
支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。

これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。
つづけて 『チャイナ・プレス』 一月二十五日号は、

その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。

《その報告書の主張するところによれば、
彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労 (ワンシンロウ:音訳) がいた。

彼は陳弥 (チェンミイ:音訳) と名乗って、
国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。

また、前第八十八師の副師長馬 (足+包) 香 (マーポーシャン:音訳) 中将や、
南京警察の高官密信喜 (ミシンシ:音訳) もいると言われている。

馬中将は安全地帯内で反日撹乱行為の煽動を続けていた、と言われる。
また、安全地帯には黄安 (ファンアン:音訳) 大尉のほか十七人が、

機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、
王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》


安全地帯に潜伏中の支那軍将兵が悪事を働いたのである。
上海派遣軍参謀長・飯沼守少将が昭和十三年元旦の日記に、

「他ノ列国公館ハ   日本兵ノ入り込ミタル 疑アルモ   番人ヨリ

  中国軍隊ノ仕業ナリ   トノ一札ヲ取リ置ケリ」 と書き、一月四日の日記に

「保安隊長、八十八師副師長」 を逮捕と記していることが、
右の記事の正しさを裏付けている。


注意すべきは、安全地帯の支那軍将兵たちは強姦の話を撒 (ま) き散らしただけ
ではなかった。それを証明すべく、自ら 「強姦に携わった」 か、

強姦未遂に携わったことである。


そのような舞台裏を知っていたのであろう、
支那人の中から、強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。

東京裁判に提出されたマッカラムの一九三八年一月の日記は、

「支那人ノ或ル者ハ   容易ニ   掠奪・強姦   及ビ   焼打   等ハ   支那軍ガヤツタノデ、

日本軍ガヤツタノデハ無イ   ト立証スラ致シマス」

というふうに記す。

1月25日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/26 18:44 投稿番号: [325 / 2250]
一月二十五日

外交部に設けられた病院で働く中国人の男女二人の看護人が、
マギーに連れられて本部へやって来た。

病院で働いていた苦力が一人、日本兵に刺し殺されたのだ。
我々はくわしい事情を聞き、極秘文書に記録した。

それと同時に、どうやらひどい状態らしい軍政部の病院について、
何人かに報告してもらうことにした。


我々が届けを出さなかった事件の一つにこういうのがある。
ある中国人が日本人のために一日中働き、お金の代わりに米をもらった。

疲れきって家族とともに食卓に着くと、テーブルには妻が今さっき置いたばかりの
鉢がのっており、おかゆがすこし入っていた。

これが一家六人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がってその鉢に放尿し、
笑いながら立ち去った。彼は何の罰も受けずに済んでしまった。


この話を聞いたとき、『奴隷となるよりは死を』 という
リリーエンクローンの詩が思いうかんだ。

だが中国人たちにあの自由人、リリーエンクローンのまねをしろと
いったところでどだい無理な話だ。

これでもかとばかりに踏みつけにされ、中国人はもう長いこと
ひたすら苛酷な運命に甘んじてきたのだ。

前にも言ったように、これなどほとんど気にもとめられないほどの小さな出来事なのだ。
もし強姦した人間が残らず仕返しに殴り殺されたら、日本軍はすでに全滅していることだろう。


ドイツ大使館を通じて、たった今妻のドーラから手紙を受け取った。
「いまならすぐに休暇でドイツへ帰れます。

いま逃げださないと、あと五年、待つことになりますよ」。
まあ、そこまでひどくなることはもうないと思うが。


三月一日までここに残ってもいいと会社がいってくれるかどうか、
とりあえず待つことにしよう。

もっともそのときになってもまだ片づいていないかもしれないが。
私としては、休暇は歓迎だ。

実際のところ、いま中国にはいいかげん嫌気がさしている。
けれど、だからといって逃げだすわけにはいかないのだ!


  二十二時十分

ラジオ上海によると、クレーガーが日曜日の晩、一月二十三日に、
屋根のない列車に十二時間揺られた末、無事に上海に到着したそうだ。


*   「食卓に着くと、・・・鉢がのっており、おかゆがすこし・・・
   これが一家六人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がって
   その鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。」

   かつて清国の官憲は、宣教師たちに、中国人の訴えを信用するなと言ったが、
   まさに、これは、それに相当するだろう。

   《教士(宣教師) は性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、教民が
   実在(じっさい) にいじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。
   そのじつ、ひとたび対質 (といただし) を経れば、事みな虚無なり》

   食事は家の中、日本兵が外を通っていても、食事中かどうかわからない。
   一軒一軒入って、調べるわけがない。

   ましてや、放尿など、その時、出るとは限らないだろう。

   届け出を出さなかったのは、ラーベ達も確証がなかったのでは。
   ラーベ達も、中国人の訴えを、少しは怪しみ出したのかも知れない。

1月24日 洗濯婦集めと買春の混同2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/25 18:49 投稿番号: [324 / 2250]
松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』181〜182p

四、高玉は、大学や安全区の保護徹底のために日夜努力しているのに、
   その行動について悪意ある攻撃が出たので、ひどく傷ついている。

五、安全区の悪意ある中国人による反日的な捏造の話を信じないように注意すべきこと。

六、あらかじめ、様々な礼儀正しさや保証が必要だということ。


この内容をよく読めば、一月八日、十日の事件と、一月二十四日の出来事とを同列に考えて、
小粉橋三八号と小粉橋三二号とを混同していたベイツの誤解がよく理解できると思う。

この後にアリソン事件が起きた。ベイツの訴状は一旦中断して二月二十二日に再開するが、
前記一連の手紙から浮かんでくることがある。そのキーワードが 「洗濯女」 である。


一月三日、日本兵の医療部隊に連行された五人の女性が洗濯女にさせられ、
夜は売春婦になることを強要されたと、怪我をした女性が訴えた。

一月八日には、日本大使館から荷物を持って出てきた洗濯女が難民のいる大学に戻って
きた話があった。そしてここに、高玉が洗濯女を連れていったとの言葉が出てきた。

現代と違って、重労働を伴う大量の洗濯は、金のために雇われて働く女性の仕事の一つだった。
ヨーロッパにも洗濯女の話は多い。

フランス革命の折、幽閉されていたマリーアントワネットの部屋に出入り
できたのも洗濯女だった。

日本軍が、将校などの洗濯物の始末などのために、難民所の女性のなかから
希望者を募ったことは、もちろん非難されるべきことではない。

それは、終戦後の日本の言葉でいえば 「メイドさん」 である。彼女たちは
米軍宿舎や将校の家で働き、そのなかには売春まがいのことをする者もあったろう。

それは、支那の女性とて同じだったと思う。日本兵に首を傷つけられたという先の女性も、
誰が傷つけたのか、その原因が何であったのかを知る者は当人しかいないが、

「四十歳」くらいの洗濯女の一人だった。


ただ、日本軍の洗濯女の集め方が、アメリカ人から見ると強制的で、
いかがわしいように映ったこともまた否定できない。

もし難民のなかから希望者を募るときに、管理者を自負している国際委員会を
通すなりして、常に彼らと協議すればよかったのかもしれない。

しかし、もはやそれをするには遅過ぎた。

日本軍は国際委員会を、日本軍を中傷誹謗する集団としてしか見ていなかったし、
国際委員会もまったく日本軍を信用していなかったからである。

難民劉文彬は、恐らく日本軍の説明を聞き、
洗濯女の実態を知って協力するようになったのではないかと考えられる。

しかしベイツは当初、彼を「立派な仕事をしている青年」と賞讃していたにもかかわらず、
掌を返すように、日本軍に協力する 「ゴロツキ」 と表現するようになった。

このような日本軍と国際委員会との亀裂を巧みに衝いて、
支那側ゲリラの活動する余地ができたのである。

いわば 「正式」 な洗濯女探しは正門から入り、ゲリラ達は塀を乗り越えて入った。

この事情がわかってくると、ベイツらの多くの手紙の内容の真の意味が、
まことに明確になってくる。それがこの問題の結論である。》


*   こういう背景があって、ラーベ達は、高玉の洗濯女集めを
   売春婦集めと思ったようです。

1月24日 洗濯婦集めと買春の混同1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/25 18:41 投稿番号: [323 / 2250]
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 179〜180p

《   支那人女性をめぐる問題は、日本兵が彼女達を求めるのは肉欲のためである
という先入観と、言葉による意志の疎通を欠いていたこと、

そして、日本側の説明も不足していたらしいという複合した原因で起きている。
以下、ベイツからアリソンへ出された手紙に従ってこの件をたどってみる(要約)。


一月八日、金陵大学付属中学校校門の衛兵が、難民所で中国語・日本語通訳の劉文彬
という立派な仕事をしている青年を捕え、小桃園の向かいの小粉橋三二号に連行した。
(①150頁)

一月十日、二人の兵が小桃園の反対側にある家に女二人を連行した。
そこには兵士二十人がいたが、女は隙を見て逃げ出した。

二人の女性は、小粉橋三二号の憲兵隊本部のビル、門、建物と、
憲兵の着る腕章付きの通常の軍服を認識できた。(①151頁)

一月十一日、劉文彬が、昨日の夕方、憲兵にひどい目に遭ったと恐怖の表情で逃げてきて、
かくまって欲しいと頼んだので、そのまま寝かせたが、

本日三時、再び憲兵がきて連行された。(①152頁)

一月十四日、劉文彬の夫人が、夫は山西路二一号で撃たれたといってきたが、
報告を受けとったばかりなので今はそれ以上のことはいえない。(①156頁)

一月十八日、劉文彬の件は、まだ日本当局から何の連絡もないので日本大使館を訪ねた
ところ、領事警察の高玉は狼狽し、明日、ベイツを訪ねるといったが音沙汰がない。(①158頁)

一月二十四日、昨日、兵士一名が中国人助手とともに大学正門を通って入り、
一緒に行きたいという女三人を見つけた。これは各寮を回る長い巡見だった。(①158頁)

二 (?一の間違いでは) 月二十四日、昨日の夕方、高玉ともう一人の日本人が、
大学付属中学の教師で難民区区長の姜正雲を探しに来た。

彼らは、姜がベイツに、高玉が中学から少女五人を得たと報告した件で来たといったが、
そのとき姜はいなかった。

彼らがやってきたのは劉文彬の報告に基づいているといい、
翌朝また来るとして立ち去った。(①159頁)


  三つの注(引用者註・一月二十四日の第二の手紙の中でつけられている注釈)

   〈第一に、姜は上述の報告を私に送ってはいません。
   第二、難民劉はゴロツキで、すでに難民所における彼の持場は解任され、

   ときどき日本人のために女捜しに来ているだけです。
   第三、夕方も朝も私はずっと中学にいましたが日本人には会いませんでした。〉(①159頁)


この日、ベイツが日本大使館に行き、高玉と話し合った内容(①160〜161頁)を
要約すると次のようになる。

一、高玉は、彼と友人四人のために洗濯婦を得ようという善良な意図が理不尽な
   中傷にあって悩んでいる。

二、彼らは手続きや不法侵入に問題は認めていない。

三、アメリカ大使館からの手紙が高玉を悪人と非難しているというが、出所はベイツだ。
   しかしベイツは、高玉の洗濯婦獲得のやり方は、最近の南京婦人の経験

   からすると疑いを招きやすいので反対だといっただけである。

つづく

注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊『南京事件資料集』の事
   ①はアメリカ関係資料編

1月24日 日本兵女性連行強姦の訴え

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/24 16:02 投稿番号: [322 / 2250]
外国人たちに日本兵が女性を連れ去り強姦したとの訴えがありました。

松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 165p

《一月二四日の夜一一時ごろ、武装した日本兵が金陵大学農学部の作業場に侵入し、
女性一人を連れ去った。

その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、
同邸を占領していた日本兵に三回強姦されて、二時間後にもどってきた。》

(『南京難民区の百日』   294〜295頁)


松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問 173〜174p

《米人経営ノ農具店ニ 二十四日夜十一時頃日本兵来リ、留守店ヲ銃剣ニテ 脅シ
女二人ヲ連行 強姦ノ上二時間程シテ帰レリ、》

(飯沼守の日記より)


*   これは、「1月26日   アリソン殴打事件」 の前段階です。
   訴えを受けて調査に行ったアリソン氏が殴られる事件に発展します。

1月24日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/23 16:16 投稿番号: [321 / 2250]
一月二十四日

高上校のボーイが突然やってきた。何も食べるものがないというので五ドルやった。
主人の高上校は漢口へ逃げてしまったという。

委員会は基督教総会を通してジーメンス洋行中国本社に打電し、
三月一日まで私をここにおいてくれるよう、頼んでみるという。

だから、上海行きの旅券を申請するのは当分の間差し控えることにした。


  数時間後

我々も堕ちたものだ。心の支えも節操も失ってしまった!
パットナム・ウィールの 『北京からの書簡集』 は

一九〇〇年の北京包囲について記したものだが、ウィールはそのなかで、
自分をはじめとする他のヨーロッパ人の略奪を赤裸々に綴っている。

我々だって堕ちてしまった。いまや五十歩百歩だ。今日、張が電気扇風機を買ってきた。
「たったの一ドル二十セントでしたが、本当なら三十八ドルはしますよ」 と手柄顔だ。

マントルピースの上には一個一ドルの明時代の花瓶がすでに並んでおり、
そろって咎めるような視線を向けている。

その気になれば、盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられるだろう。
なんせ闇で二束三文で売られているのだから。

いま高いのは食料品だけだ。例えばニワトリ一羽が二ドルもする。
ということは明時代の花瓶きっかり二個分だ。


今日また高玉が本部へやってきた。中国語のできる警察の高級将校がいっしょだ。
高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところを
ベイツに見つかってしまった。

だから、収容所で 「洗濯や料理をする人」 を捜していたのだ、
といいにきたというわけだ。

「洗濯や料理をする人」 だと?   いったい誰がそんなたわごとを信じると思ってるんだ。
中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。

そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。
つまり、この男は名誉回復をしようというのだ。

スマイスは一部始終しっかり書きとめた。「さっそく、各国の大使館に報告しましょう」。
高玉がますますご機嫌ななめになったのはいうまでもない。

奴さん、あてが外れてすごすごと帰っていった。
ただ 「そんなつまらんことで大使館を煩わせるものではありませんぞ!」 と、

いやに力をこめてつけ加えるのだけは忘れなかった。
本部にいた連中はみな、いい気味だといって喜んだ。


マギーは書状一通と日本の銃剣一丁を私の机の上に置いた。それには、中国人女性を
銃剣で脅していたところへ、委員会のメンバーが三人ふいに姿を現したため、

その日本兵はあわてて武器をとり落とし、そのまま逃げたとあった。
目撃者がアメリカ人だったので、スマイスが勇んでアメリカ大使館に報告した。

アリソン書記官が日本大使館への報告役を肩代わりしてくれたので、感謝している。
アリソン氏はあっけにとられ、不思議だ、びっくりした、を連発した。

そこで、ローゼンはさっそく 「不思議の国のアリソン」 と命名した。


*   高上校はラーベが匿った中国軍の将校。

*   「盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられる」

   売っているのは中国人、だったら誰が略奪犯か判りそうなものに。

*   「高玉は、…若い娘を手に入れようと…収容所で 「洗濯や料理をする人」 を
   捜していたのだ、といいにきた…誰が…信じる…。中国では洗濯と料理は男の

   使用人の仕事だ。そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。」
   とラーベは言っているが、

   日本では 「洗濯と料理は女の仕事」 中国の習慣なぞ、子供どころか大人も知らない。
   日本はアジアじゃないのだろう。ラーベ達の偏見は甚だしい。

1月23日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/22 18:40 投稿番号: [320 / 2250]
一月二十三日

予定通り今朝六時にクレーガーは上海へ向かった。
シンバーグがまた南京にやってきて、卵六個と生きたあひる二十羽をもってきてくれた。

勤務中なのでやむをえず袋に入れっぱなしにしておいたところ、三羽も死んでしまった。
コックは 「大丈夫、食べられますよ!」 と言っているが。

八人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。

二、三日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、
アメリカ大使館はワシントンに打電した。

さっそく東京から 「ただちにピアノを元へ戻すように」 との指令がきたのだという。
ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。

どうせとっくに薪にされてしまったのだろう。私はそのままお引き取り願った。
そんなことまでいちいちいってくるな!


  十六時三十分

平倉巷での礼拝。ミルズの説教は素晴らしかった。
幾度となく彼はドイツと総統、及び総統の平和への努力について語った。

  十八時

ローゼンを訪ねた。きょうは城門の外まで足を伸ばしたそうだ。
ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。

  十九時

フィッチの五十五歳の誕生日。みなで食事をした。私のプレゼントはあひる二羽。
生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。



*   〉高玉が・・・「ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか」
   ・・・そんなことまでいちいちいってくるな!〈

   ピアノを盗んだのは日本兵ではないから、所在が判らないのだろう。


*   「幾度となく彼はドイツと総統、及び総統の平和への努力について語った。」

   ドイツ人は無邪気にヒットラーを平和の使者とあがめている。
   ヒットラーがどれだけ残虐な人間かも知らず。

   返す刀で、日本軍を残虐無比と罵っている。
   彼らは人を見る目がなく、簡単に騙されてしまうようだ。

1月22日 第16師団申し送り

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/21 18:44 投稿番号: [319 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 276p


《   昭和十三年一月二十二日ごろ、第十六師団参謀長・中沢三夫の作成した

「南京ニ於ケル申送リ要点」 は、

「先日モ八十八師 (註・師団) ノ大隊長ヲ捕縛セリ」 と書き、

「特ニ注意スベキハ   各国外交機関内ニ 隠匿シアル   相当階級ノ人物 アル

コトナリトス、右八十八師ノ大隊長ノ 自白ニヨレバ   米大使館内ニ

団長 及 営長尚 (なお) 隠レアリ」 と申し送っていた。》


*   まだ時たま、便衣兵の潜伏が発覚しているようです。

   本の註に、中国の八十八師を師団としてありますが、
   これは必ずしも正しくありません。

   中国の軍組織では、「師」 の下に 「団」 がありますので、
   日本の 「師団」 のような物とすべきです。

   その下には「連」、「営」もあります。
   「団長」 とは第〇〇団の長と言う事であり、「営長」 とは第〇〇営の長と言う事です。

1月22日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/20 18:32 投稿番号: [318 / 2250]
一月二十二日

竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてきた。
十二月十三日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。

死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、
請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。

しばっていた縄が切れて、竹の担架が二メートルほど先にころがっただけだ。
いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。

日本は、ヨーロッパ列強とならぶ大国だと認められたい、そのように扱われたいと
望んでいる。だがその一方で、こういう粗雑さ、野蛮さ、残忍さを見せつけているのだ。

これではまるでチンギス=ハーンの軍隊と変わらないではないか。
もうこれ以上、この哀れな男の埋葬を気にかけるのはやめることにした。

ただ、ときどき、あの兵士が死んだまま、まだこの世にいることを思い出すことにしよう。


(字数の都合で省略)

マギーがまたしても悪い知らせをもってきた。
日本兵が食用の家畜を追いかけ回し、手当たりしだい運んでいってしまったというのだ。

ちかごろは、中国人の若者を使って豚をつかまえさせている。なかなかつかまえ
られなかったり、一匹もつかまえることができなかった若者は、銃剣で突き殺された。

なかの一人は内臓がはみだして垂れ下がっていたという。これはみな目撃した人の話だ。
こんなことばかり聞かされていると、気分が悪くなってくる。

そうだ、やつらは犯罪者のよせ集めだと思えばいいんだ。
ふつうの人間にこんなことができるはずがない!


今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。
どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。

ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。


高玉がやってきた。この人は総領事館警察の責任者だが、そのまま日本大使館付きに
なっていた。私は車を一台工面してやったことがある。

徴用証書をもらおうとすると、署名するかわりに無言でそれをポケットにねじこんだ。
がっかりした。

(以下も省略)


*   「トラックが数台、・・・下関へ・・・どれも中国兵で満員だ。
   おそらく捕虜だろう。

   ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。」


   と言っているが、20日の日記の 「外交部のなかにある赤十字病院で中国兵が
   治療されていた」 事との矛盾に気づかないのだろうか。

   捕まえた中国兵を全部殺すのなら、治療など必要ない。
   治療してるのに、「片っ端から殺す」 と考えるのも、不自然。

   それに、揚子江岸で殺して河に死体を流すのなら、別に、南京でやる必要はない。
   蕪湖で殺せば、うるさい外国人に感づかれなくてすむ。

   南京まで運ぶのは、燃料の無駄、かつ、タイヤがすり減る。
   彼ら外国人は先入観に凝り固まっている為、論理的には考えられないようだ。

1月21日 参謀本部 持久戦研究

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/19 18:30 投稿番号: [317 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 481p

第二課戦争指導班 (第一班) 長高嶋辰彦中佐は、一月二十一日、研究課題

「持久態勢ニ応スル為 陸軍省 乃至 内閣ニ対シ 大本営陸軍幕僚部ノ要望事項」 として

(一)   十六日声明ヲ段階トスル 日支間 客観的情勢 ニ関スル見解ノ統一、

(二)   蒋政権ノ潰滅ト 傘下統合ニ関スル見解ノ統一、

(三)   各地新興政権ノ 連繋 (れんけい) 統一ニ関スル問題、

(四)   新段階ニ応スル 戦争目的ノ確立 (新政権ヲ助ケルノカ主カ、

    直接蒋政権潰滅カ主カ)

(五)   北支政権ト 日満両国政府トノ権限関係ノ設定、非武装地帯 及 駐兵ノ件、

(六)   新段階ニ於ケル 武力戦指導ノ根本方針、

(七)   対支持久戦争 解決ノ為ノ 政略約手段 就中 (なかんずく) 現地政権ヲ

    如何 (いか) ニ利用スルカノ方策、

(八)   今後ニ於ケル総力戦指導 ニ関シ長期ニ亙ル 計画腹案、

(九)   対 『ソ』 情勢判断ニ関スル当局見解ノ統一、

(十)   昭和軍制改革


などを部内に提案しているが、当時の問題点を示すものといえよう。

この日 (二十一日) 第二課では部員全員が参集し
「今後ノ持久戦争指導方策」 につき研究した。広東作戦の要否が第一の論点となった。

1月20日 長期戦に備えた大綱作成

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/18 18:44 投稿番号: [316 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 482p

戦争指導班の掘場一雄少佐は、一月二十日 「昭和十三年以降ノタメノ戦争指導
計画大綱案」 第一案を起案し各方面関係者との調整に入った。
・・・・

この計画の方針は

「先ツ当面ノ対支 持久戦争ヲ指導シツツ   速(すみやか) ニ 昭和軍制ノ建設 及

国家総力ノ増強整頓ヲ 強行シテ 対 『ソ』 支二国戦争準備ヲ完成ス

此ノ間 『ソ』 邦ノ動向ニ対処シツツ   政戦両略ノ運用ニ依リ 速ニ

対支戦争ヲ終局ニ導ク」「本計画ノ期間ハ昭和十三年ヨリ 同十六年ニ亙ル

概(おおむ) ネ四年間ト予定ス   爾後近キ将来ニ予想スヘキ 国際情勢ノ一大転機ニ

備フル為ノ戦争準備ハ 右ニ引続キ之カ完成ヲ期ス」

というものであるが、その具体策となると実行の可能性に問題が多く、各案とも
成案とならなかったが、長期持久戦について、各部局の注意を喚起するものがあった。

・・・・
次いで一月二十日、陸軍大臣名により

「形而上下ノ万般ニ亙リ 長期持久戦ノ準備ト 対策トヲ要スルノ秋

全軍将兵一致結束 特ニ 堅忍持久ノ精神ヲ以テ 職分ニ最善ノ努力ヲ 傾注スヘシ」

という訓示が全軍に出され、長期戦に臨む将兵の心構えを説いた。



*   中国大使はこの日、横浜を出帆し帰国した。

戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 479p

日支両国の国交は事実上断絶した。

日本政府は、一月十八日、川越大使に帰朝命令を発し、
(二十八日上海発、三十一日東京着)、

許世英駐日大使は、一月二十日、横浜を出帆して上海に向かい、日本を退去した。


注   駐日大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は昭和十三年六月十一日まで在留した。

   日本側も伊藤述史公使が昭和十二年十月から翌年三月まで、谷正之公使が
   三月から同年十二月まで、森島守人参事官は同年三月から翌十四年七月まで

   上海に出張駐在し、対中国及び第三国との接触に当たった。

1月20日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/17 16:08 投稿番号: [315 / 2250]
一月二十日

(前の数行   日本軍の悪と関係ないので省略)

この間、近所の作りかけの家からレンガを二、三千ばかり失敬してきて、テントや
小屋のあいだに細長い通路を作った。こうしておけばすこしは泥よけになる。

そのほか、仮設便所のまわりにレンガで壁を作ったので、いくらか見栄えがよくなった。
もっともこんなことをしたところで、焼け石に水だが。

依然としてあたり一面泥の海にかわりはない。そこらじゅうでせき込んだり、
吐いたりしているが、さもあらんと思う。一番心配なのは伝染病だ。


われわれの国際赤十字代表のマギー牧師が、外交部のなかにある
赤十字病院の中国人看護婦から聞いた話を伝えてくれた。

ここは我々外国人は立ち入り禁止だが、看護人は買い物のためにときどきは外出できる。
あるとき、看護婦が本部に立ち寄ってこんな報告をしていったという。


一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言ったらしい。給食は小さなお椀で
一日おかゆ三杯だそうだ。するとその兵士は監視の日本兵に殴られた。

さんざん殴られたあとで、腹が減っているのがいけないのかと言ったところ、
中庭にひきずり出されて、銃剣で突き殺されてしまったというのだ。

この処刑の様子を看護婦たちは窓から見ていた。


難民の誰ひとり、安全区から出ていこうとしない。

もとの家に戻ろうとした人たちが大ぜい、日本兵から石を投げつけられて
追い払われたり、あるいはもっとひどい目にあったりしたからだ。

それなのに、街には日本軍のこんなポスターが貼られている。

「家へ帰りなさい!   食べものを支給します。
日本軍を信用しなさい。我々はみなさんを保護します」


*   「近所の作りかけの家からレンガを二、三千ばかり失敬して」

   結局、ラーベも略奪している。どうして日本軍の徴発を非難できるのか。

*   「一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言・・・殺されてしまった」

   ラーベ達の話では、見つかった中国兵は片っ端から処刑されていた筈。
   兵どころか市民までも殺されたと。

   ところが、この中国兵は病院で治療されていた。話が違うのでは。
   もっとも、これは、日本側の 「中国兵を治療する写真」 とは合ってるが。


*   「もとの家に戻ろうとした人たちが大ぜい、
   日本兵から石を投げつけられて追い払われたり」

   そもそも、日本軍が「もとの家に戻れ」と言っているのに、
   それを日本兵が妨害して、何の意味がある?

   日本兵に化けた中国兵が、中国人が日本軍に従うのに腹を立て、
   妨害するのなら意味があるが。

1月19日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/16 16:15 投稿番号: [314 / 2250]
一月十九日

ラジオによると、あるベルリンの新聞がこれ以上中国に侵攻するなと日本に
警告したそうだ。さらに、名誉ある平和を中国に申し出るよう勧めたとか。

いやはや、いい気なもんだ。日本がいわれたとおりにするとでも思ってるのか。

隴海鉄道沿線での大規模な戦闘が間近に迫っている。
国民政府軍はおよそ四万人の兵力を擁し、編成し直されたとの話だ。

少なくともラジオではそう言っている。無能な将校は一掃されたとも聞く。
だが、残念ながら、中国が勝つという希望はこれっぽっちももっていない。

山東省の司令官韓復腧と二人の将官が、即決裁判によって、
蒋介石の命により射殺されたそうだ。

抵抗が十分ではなかったということらしい。

こちらでは、韓復腧が現金をそっくり日本の銀行に投資したと、もっぱらの噂だ。
そうに決まっている。おそらく日本からもらった金だろう。


青島も日本に占領された。済南も。芝罘では、日本側の報告によると、
中国警察が反乱をおこし、略奪したそうだ。

今日、また新たなニュースが入る。
張作霖の息子で西安事件の首謀者、張学良が射殺されたのだ(注・これは誤り)。

彼は一年前に西安で蒋介石を捕虜にした。

漢口から出発した防毒部隊はいっこうに到着しない。
まだ役に立つかどうか、あやしくなってきた。


今日、解雇通知を書いた。中国本社の指示で、事務所を閉鎖しなければならないからだ。
上海の決定 “Wind up business!” そうとしか解釈できない。

一月分の給料を全額支払おう。だが正月の心づけはなし。
思えばこれはひじょうにむごいことだ。

中国の正月は二月一日からなので、もう目の前に迫っている。
正月だからというので、食料品の価格は(まだ手に入ればの話だが)、

とてつもなくあがってしまった。もっとも、ここの何十万人もの人たちだって、
かれらよりましなくらしをしているわけではないのだが。

従業員はみな、事務所に住んでいるが、それも私がここにいられる間の話だ。
食料を買う金が足りなくなったら、国際委員会の給食所に厄介にならざるをえない。

どっちみち、すでに六百五十人のほとんどがそこから食糧をもらっている。
一日、米二袋だ。

家主の代理人も家主も逃げてしまったが、やはり解約通知を書いておこう。
契約により、解任の際にはこの家を手放していいことになっている。


以下

・ジーメンス中国本社にあてたジョン・ラーべの手紙
・韓にあてた解雇通知

の内容は省略します。

1月18日 参謀本部第一部長に橋本少将

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/15 18:40 投稿番号: [313 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 481p

持久戦に応ずる陸軍側の研究

陸軍中央とくに参謀本部は、長期持久戦を回避するため、事変当初から
不拡大方針の堅持につとめ、あるいは和平交渉の機会をうかがっていたが、

今や、いよいよ長期持久戦を覚悟しなければならなくなった。


しかし、いまだ対ソ準備についての危惧 (きぐ) の念は去っていないので、
今までのように中国に兵力を増加できないし、政府は強気なことをいうが、

どのようにして事変を処理しようとするのか、という疑念もあった。

従って、軍としては、この際、徹底した持久すなわち大規模な計画を立てて
本当の持久戦にとりかかろうという気分になった。


一月十八日、前第一軍参謀長橋本群少将が参謀本部第一部長に着任し
(下村定少将は病気のため、一月十一日、更迭) 第一部は特発な研究を開始した


*   橋本少将は盧溝橋事件の時の支那駐屯軍の参謀長で、停戦協定締結に尽力した人物。
   下村定少将は南京進撃を進めた人物だが、橋本少将は和平派の人物

   長期戦決定になってから、橋本少将とは皮肉な成り行き。

1月18日 近衛首相会見と国交断絶

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/14 18:40 投稿番号: [312 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 479〜480p

《政府の対支方針と国家総動員体制の推進

一月十八日午後、近衛首相は内閣記者団との会見において
「帝国政府の対支方針は、国民政府の潰減を期するにあり」 と前提し

「(一)   国民政府を対手にしないということは、国交調整をなすべき対手としない
という意味であって、戦いの対手としないというのではない。

今後は、国民政府を壊滅に導くため、軍事行動はもとより、
あらゆる手段を講じなければならぬ。

しかし第三国の権益は尊重しかつこれらとの友好関係をより一層増進するためには、
外交工作が極めて重要である。

なお国民政府が屈服し、今までの抗日政策を捨てて新興政権の傘下に入ることもあり得るが、
それは中国内の問題であり、こちらの関知したことではない。


(二)   新興政権に期待するものは、東洋平和のため真に提携できるという点にあり、
満州国に求めるような国防的意味は新政権には全くない。

今日では、必ずしも北支政権をそのまま中央政府にしなければならぬという
考え方ではない。しかし現在の北支政権が中心となり、

しだいに各地の政権が合流吸収されて統一政府に発達するだろう。
その政権が真に提携できる政権ならば、われわれが国民政府に要求したよりも

さらに寛大な条件で交渉に入ることができよう。


(三)   占領地の経済回復は強力に推進せねばならぬ。
これがため内地資本家をはじめ、中国や外国資本家の進出も歓迎する。

しかし、ある程度の国家的統制もやむをえぬので、一種の国策会社ができるだろう」

などと、今後の新情勢に臨む政府の決意を述べた。


  注   当時内閣書記官長であった風見章は

   「近衛首相の判断では、国民政府はやがて一地方政権に転落するであろうから、
    日本が長期戦に引きずり込まれる心配は少ない。

    また新政権の育成により時局収拾のみちが開かれるという認識に
    基づいたものであったのはいうまでもない」

   と述べている。》


《479p
このようにして、日支両国の国交は事実上断絶した。
日本政府は、一月十八日、川越大使に帰朝命令を発した。》

1月18日 政府の捕捉説明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/13 18:35 投稿番号: [311 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 275〜277p

二日後 (18日)、日本政府は、さらに次のような 「補足的声明」 を発表した。

「爾後国民政府ヲ対手トセズト云フノハ、同政府ノ否認ヨリモ強イモノデアル」

それというのも、外務省は 「対手トセズ」 声明を発表するさい、なお将来の
交渉の可能性を考えて、「相手」 とすべきところを 「対手」 にかえた、という。

「相手」 を 「対手」 にすればその意味になるかどうかは、はっきりしないが、
いずれにせよ、声明にたいしてはその 「軟調子」 を批判する声が高まった。


明確に蒋介石政権を否認したらどうか。
すでに北支に誕生している臨時政府は、いわば 「漢奸」 になる覚悟で日本に

協力している。まだ同政府を正式承認できないのであれば、なおのこと、
激励の意味からも蒋否認ぐらいは声明すべきではないか……。

そこで、政府の再声明となり、「補足的声明」は、次のようにも強調していた。
「今回ハ……之(国民政府)ヲ抹殺セントスルモノデアル」


   ―   ところで、
この 「対手トセズ」 声明については、しばしばその意義の重大さが指摘される。

日中両国大使の召還をともなって実質的な国交断絶をまねき、軍事課長田中大佐が
指摘する 「三つの支那」(西北共産支那、国民政府支那、親日支那) の並存をきそい、

つまりは 「日中戦争」 の泥沼化の 「元兇」 だ   ―   という。

のちに、首相近衛文麿も、

「この声明は、識者に指摘されるまでもなく、非常な失敗であった……従って……
再び重慶との撚 (よ) りを戻すことに種々手を打ったのであるが、成功せず……」

と、遺憾の意をこめて手記している。
だが、はたしてそうであろうか   ―   。


問題は、「対手トセズ」 声明そのものよりは、この声明を生みだした
「母体」 にあったはずである。

これまでに述べたように、声明は、参謀次長多田中将が 「奇怪」 に感じたほどの
政府の強腰が推進力となり、参謀本部も結局は同調して、誕生した。

そこには、必至の長期戦にたいする用意はさらになく、あるのは 「政治的興奮」
だけであり、眼前に横たわるのは、政戦略の裏付けを欠く 「暗澹タル前途」 である。

そして、中国側は、とっくに和平拒否、抗戦継続を決定して、戦備にはげんでいる。

となれば、南京攻略にともなう和平条件の加重が、そもそもの発端であり、
声明発表までの内部論争も、声明を「失敗」だとみなす反省も、

すべては日本側の 「一方的空転」 にすぎなかった、といえる。


  一方、

蒋介石は、「対手トセズ」 声明を知ると、まずは 「有一笑而己」 と述べ、
日本側がいう 「新興支那政権」 の樹立は、

要するに中国の領土主権を破壊する意図を宣言するものであり、かえって、
国際世論を反日親中国におしやる結果になる、との判断を示した。

ついで、蒋介石は、軍事委員会組織を、これまでの秘書庁と第一ないし
第六部であったのを、より戦時体制に適合する

軍政、軍訓、軍令、政治の四部に変え、次のような人事を発令した。

1月18日 アリソン事件への前段階

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/12 18:22 投稿番号: [310 / 2250]
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 165p

《ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、
朝十時半、小粉橋三号の小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、

好きなように各部屋を捜索していたが、見つけられてほぼ向かいの
小粉橋三二号の本部へ入ってゆくのを観察した (①157頁) 旨が

書かれている。この後に、大問題になった
「アリソン殴打事件」 が起きるのである。


注:   ①は青木書店刊 『南京事件資料集』 のアメリカ関係資料編


*   一月十四日と同じ憲兵は

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=298

を参照の事

1月18日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/11 16:14 投稿番号: [309 / 2250]
《一月十八日

ほうぼうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気良く放火が続いているのだ。
九時ころ、難民収容所の管理者が集まって、本部で会議が開かれることになっている。

日本軍に妨害、いや、禁止された場合のことを考えて、手は打ってある。
衛兵を一人、塀の外に立たせておいたのだ。

この前のように、警察官に包囲されたら、
ただちにドイツ大使館に通報することになっている。

うれしいことに、ローゼンをはじめ、クレーガー、シュペアリングもきてくれた。
日本軍がなにか言ってくるのではないかと気がかりだったが、会議はつつがなく進行した。


午後、スマイスとフィッチがきた。米だけでなく、
ほかの食料品も倉庫から市内に運びこんではいけないことになったというではないか。

上海からとりよせることも禁じるという。
どうやら日本軍は難民を飢え死にさせるつもりらしい。

だが、断じてそんなことはさせないからな。
そこで我々は上海の基督教総会に電報を打った。


幸か不幸か、アメリカ大使館はワシントンの国務省にまたぞろ 「事件」 を
報告することができた。当地のアメリカンスクールが今日また略奪にあったのだ。

ピアノを運び出すため、壁に大きな穴まであけられて。
だが、残念ながら大使館の職員は間に合わず、現場を押さえられなかった。

ふたたび大使館が置かれた以上、日本軍がよもやこんな恥さらしなことを
やらかすとは思っていなかったのだ。


どうやって事務所を閉鎖したらいいのだろう。私は頭をかかえてしまった。
中国本社から「事務所をたたむように!」 という電報が届いた。

荷造りしようにも木箱が手に入らない。木箱をつくる職人もいないし、
運送業者もいない。どうやって荷造りすればよいのだろう?

そうかといって一切合切このまま置いていくわけにはいかない。
ということは、なくなるということだからだ。

私が引き揚げたら、上海に行ってしまったら、家屋敷はどうなってしまうのだろう?

たぶん日本政府は私に旅券を出してくれるだろう。
いやそれどころか、私を厄介払いできて、せいせいするのではないだろうか。

だが、ここにいる六百五十人の難民はどうなる?
血のにじむような苦労をしたあげく、こんなに厳しい結末を迎えようとは!》



*   「アメリカンスクールが今日また略奪にあったのだ。
   ピアノを運び出すため、壁に大きな穴まであけられて。」

   日本軍がこんなもの盗んで何になる。必要なら 「貸せ」 と言えば済む。

   もう20年近く前になるが、福岡市新店町の宝石店に中国人窃盗団が
   壁を破って侵入し、宝石を盗む事件があった。

   それまで、日本では、壁を破って入る窃盗などなかったから、非常な驚きだった。
   最近では、こういう荒っぽい窃盗がふえ、珍しくなくなっているが。

   第16師団はまもなく移動するから、ピアノを盗んでも意味がない。
   天谷支隊は、来たばかりで、南京の様子・地理など判らない。

   だとしたら、犯人は中国人であろう。
   壁に穴をあけてピアノを盗むなど、どうみても中国人のやり方でしかない。

1月17日 駐支独大使に打切り通告届く

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/10 16:06 投稿番号: [308 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 278p


《ドイツは、既述したように、中国の抗戦能力を 「長くて六カ月間」 と推算している。

駐支大使0・トラウトマンは、日本側の交渉打ち切り通告を十七日にうけとったが、
すかさず外相C・ノイラートに打電した。

「中国にいま一度再考の機会を与えるため、同通告は行政院長孔祥煕に伝達せず」

実際には、日本側通告はベルリンからの訓令によって中国側につたえられるが、
大使トラウトマンの電文には、中国の将来への悲観的見とおしがにじみでている。

「日中間の戦争は、新しい章のはじまりを記録することになった」

駐日ドイツ大使ディルクセンは、和平仲介が不成功に終ったあと、
ベルリンにそう報告している。》

1月17日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/09 16:37 投稿番号: [307 / 2250]
一月十七日

ローゼンと話し合いをしたとき、すでに岡崎総領事は先日のいさかいの調停に
乗り出していた。ベルリンや東京が何もいってこなければ、一件落着となる。

そうなれば大変ありがたい。
とにかく日本人と折り合っていかなければならないのだから。


昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。
すっかり気が滅入ってしまった。

日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。
近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。

かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、
南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。

無傷の家など一軒もない。行けども行けども廃墟が広がるだけ。
大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。

瓦礫 (がれき)、また瓦礫だ! いったいだれが元通りにするというんだ! 帰り道、
国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。

南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、
あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。

まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、
三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。


日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、私は逆にどんどん人が
増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。

いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。
そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、

なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。


難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。
増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。

かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。


*   >道の両側に・・・ありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、
   なかには盗まれた故宮宝物もまじっている<

    これを見て、ラーベは自分の思い込みの間違いに気づかないのだろうか。
    露店で売られている物の中に、「盗まれた故宮宝物もまじっている」

    という事は彼らこそが、本当の略奪者という事になるのだが。
    彼らが、南京の外から、衣料品など仕入れて来れるわけがない。

    彼らは、略奪したあと、証拠隠滅のために放火したであろう。


*   「増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。」

   王固盤が20万人と言った時、まだ難民区も廃墟も無かった。
   城内全域で20万だったはず。   ラーベは話をすり替えている。

   増えた五万人は、中国兵が市民として登録された可能性が高い。

1月16日 間に合わなかった口上書

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/08 18:39 投稿番号: [306 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 478〜479p

中国では、十五日、孔祥煕行政院長がトラウトマン大使に、十三日の口上書よりも、
さらに妥協的に表現した口上書を日本側に伝達してくれるよう求めた。

孔祥煕は、中国政府は日本側提案に対し決して回避的態度をとろうと
したのでない、と熱心に述べた。

しかし、ディルクセン大使が本書を日本側に手交する前に、
日本側から交渉打ち切りの通告があった。


一方、参謀本部は、十六日夕、ドイツ武官から、右の孔祥煕の口上書を受けた。

(第十回情報という) 十六日朝、東京のドイツ大使館に到着したが、
暗号がとけなかったため夕刻となった。

参謀本部では、右口上書によれば、脈のあることはもちろん少ないが、
文面には和平の誠意を有している。

従って内閣が 「脈なし」 としたことは重大な誤判断であるとし、
上聞に達することなども含め種々の方策を検討したが、

結局、しばらく今後の情勢の推移をみることとした。


*   こう書いてあると、いかにも中国側がまだ、和平の意思を有していて、
   打ち切った日本が悪いかの如くとれるが、

   そもそも、蒋介石は和平交渉を拒否していたし、孔祥煕が勝手に、
   文書を出しただけだから、何の解決にもならないだろう。

   応じても、中国側の時間稼ぎになる可能性が高い。

1月16日 国民政府ヲ対手トセズ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/07 18:37 投稿番号: [305 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 275p

一月十六日。

午前十時十分すぎ、広田外相はドイツ大使ディルクセンの来訪をもとめ、
これまでの和平仲介の労に感謝したあと、

中国側には和平意思がないと認めるのでこれ以上の交渉は中止する、
ドイツの仲介も謝絶する、と通告した。


大使ディルクセンは、日本側の決定は過早ではないか、と首をかしげ、
次のように指摘した。

「中国側の引きのばし的不満足な姿勢にたいし、
日本側が待ちきれなかったことは理解できるが、

世界の人々の眼には、日本側に交渉決裂の責任があるように、
うつるのではなかろうか」

大使ディルクセンは、前述したように、
交渉を決裂させたのは蒋介石側だと観察している。

大使の発言は、その意味で、日本側から交渉拒否をいいだすのは
自ら不利をまねくことになる、との忠告であったわけである。


広田外相は、しかし、反応せず、そのあと、正午に日本政府は声明した。

「……仍 (よっ) テ帝国政府ハ、爾後 (ジゴ;今後) 国民政府ヲ対手トセズ。

帝国ト 真ニ提携スルニ足ル   新興支那政権ノ 成立発展ヲ期待シ、

是 (これ) ト 両国国交ヲ調整シテ、更生新支那ノ 建設ニ協力セントス」


世にいう 「蒋介石ヲ対手トセズ」 声明   ―   である。



戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 476p


政府は十六日次のような声明を発した。

帝国政府ハ 南京攻略後 尚ホ支那国民政府ノ反省ニ 最後ノ機会ヲ 与フルタメ

今日ニ及ヘリ   然ルニ国民政府ハ 帝国ノ真意ヲ解セス 漫 (みだ) リニ抗戦ヲ策シ

内 民人塗炭ノ苦ミヲ察セス

外 東亜全局ノ和平ヲ 顧ミル所ナシ

仍テ 帝国政府ハ 爾後 国民政府ヲ対手トセス

帝国ト真ニ 提携スルニ足ル 新興支那政権ノ 成立発展ヲ期待シ

是ト両国国交ヲ調整シテ   更生新支那ノ建設ニ協力セントス

元ヨリ 帝国カ支那ノ領土及主権 竝 (ならび) ニ在支列国ノ権益ヲ 尊重スルノ

方針ニハ 毫 (ゴウ;少し) モカハル所ナシ   今ヤ東亜和平ニ対スル 帝国ノ責任

愈々 (いよいよ) 重シ   政府ハ国民カ 此ノ重大ナル任務遂行ノタメ

一層ノ発奮ヲ冀望 (きぼう) シテ止マス

これは御前会議で和戦両様の方策を定めた 「支那事変処理根本方針」 の

「支那現中央政府カ 和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ 帝国ハ爾後

之ヲ相手トスル事変解決ニ 期待ヲ掛ケス」

の項によるものであるが、この声明では 「爾後国民政府ヲ対手トセス」 と断定的に
否認したものであった。

これに対し、国内の表面的世論は政府のこの声明をもって英断なりと共鳴した。

しかし 「対手にせず」 とは文字どおり国民政府と和平の話はしないという意味で、
この用語の持つ俗語味のために多少の融通性を感じさせ (外務省の提案当事者は、

これがねらいであり、とくに 「相手」 を 「対手」 に換話したという)

後日になって、あるいは国民政府と和を談ずることもあろうかという
いちまつの含蓄を務めるような印象をも内外に与えた様子であった。

1月16日 南京警備は天谷支隊に交代

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/06 18:28 投稿番号: [304 / 2250]
ラーベ達、外国人が日本軍の犯罪を訴えつづけるため、
第16師団は外され、代わりに天谷支隊が南京警備についた。


戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 432p


天谷支隊は、司令部、歩兵第十旅団主力を揚州、

各一部を儀徴、仙女廟、邵伯鎮に配備していた。

支隊は一月八日揚州付近の警備を第三師団と交代し、

一月十六日、南京に到着、第十六師団に代わり同地の警備に任じた。

1月16日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/05 18:40 投稿番号: [303 / 2250]
一月十六日

日本大使館での晩餐会はいともなごやかな雰囲気のうちにすぎていった。
我々外国人は全部で十三人。大使館の人たちのほか、委員会から九人。

ヴォートリン、バウアー、ベイツ、ミルズ、スマイス、トリマー、クレーガー、
それから私。マギーは食事が始まってからやってきた。

遅刻癖はあるが、それを除けば愛すべき仲間だ。
この席でクレーガーは、上海への旅行が許可されたとの知らせを受け取った。

やれやれ、本当に良かった。なにしろ、クレーガーは結婚を控えているのだから。
代わりの人をどうするかが問題だ。

クレーガーは財務担当だが、そう簡単には見つからないだろう。
食事は素晴らしくおいしかった。

私はテーブルスピーチを頼まれていたが、なにぶん微妙な状況なので、
あらかじめ原稿を用意しておいた。


ご臨席の皆様!

本日の温かいお招きに対し、南京安全区国際委員会を代表しまして、
日本大使館の皆様に心から感謝の意を表明します。

(中略)

サムライは数々の戦で非常に勇敢にお国のために戦いながらも、
もはや身を守る力のない敵に対しては、「武士の情け」を示した、

つまり寛容だったと聞き及んでおります。
日本大使館の皆様、皆様は、私たちの願いを辛抱づよく聞いてくださった。

そして数多くの苦情にもつねに進んで耳を貸してくださいました。
また、力の及ぶ限り、私たちを助けようとご尽力くださいました。

ありがたくうけたそのご助力に対し、国際委員会を代表しまして、
ここに深く感謝の意を表します。


アメリカ人たちがこれをどう思ったかはわからない。
心にもないことをいったことぐらい、百も承知だ。

だが、そうしておいたほうが得策だと思ったのだ。「嘘も方便」 というではないか。
とにかく、たとえわずかでも日本大使館の役人が助けてくれたことはたしかなのだ。

我々の被害報告を軍部に渡してくれ、ほんのすこしとはいえ、取りなしてもくれた。
つまり我々に力を貸すことのできた唯一の人たちであることにかわりはない。

成果がなかったのは、日本の外交官は軍部に従わなければならないからだ。
今日、日本政府を牛耳っているのは軍部なのだから。

それを考えれば、大使館の人々、福井、田中、福田の三氏は、
それなりによくやってくれたということができるのかもしれない。

けれどもこれだけ辛酸をなめたいまとなっては、
とてもそんな気持ちにはなれなくなった。


帰る少し前、福田氏は、「ローゼン氏事件」 で大使館側が頭を痛めているとほのめかした。
十三日にローゼンは城壁の外へ出たところを日本軍に見とがめられ、一悶着あったのだ。

「なんらかの歩み寄りの姿勢をみせるよう、
ローゼン氏を説得していただけないでしょうか。

日本大使館に立ち寄って、二言三言愛想の良い言葉を
(謝罪の言葉を、とはいわなかった) かけるとか……」

ともかくあたってみよう。だが、あの人のことだ、
頭から受けつけないような気がする。

1月15日 中国 妥協的口上書を出す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/04 16:23 投稿番号: [302 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 478p


中国では、十五日、孔祥煕行政院長がトラウトマン大使に、

十三日の口上書よりも、さらに妥協的に表現した口上書を

日本側に伝達してくれるよう求めた。


孔祥煕は、中国政府は日本側提案に対し決して回避的態度をとろうと

したのでない、と熱心に述べた。

1月15日 和平交渉打切り決定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/03 15:45 投稿番号: [301 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 273 〜274p


政府側は、この二度目の休憩時間を利用して、多田中将の説得工作を推進した。
まず陸相秘書官山本茂一郎中佐、ついで陸軍省軍務局長町尻量基少将が、

参謀本部総務部長中島鉄蔵少将をたずね、このまま多田中将ががんばりつづければ
内閣は総辞職せざるを得ない、と指摘して、中将を説得するよう頼んだ。


中島少将は次長室にむかい、多田中将は、第二部長本間雅晴少将、
第二課長河辺大佐もまねいて、相談した。

河辺大佐は、中島少将にたいする陸軍省側のアプローチは、
政府側の〝威嚇〟ではないかと、うたがった。

ここで内閣総辞職となれば、強硬論をはいた政府が統帥部の消極論におしきられた
ことになる。そうなれば、国内世論は統帥部を批判するだろう。

辞職、辞職というのは、そうなってもいいのかとの意をこめて、
おどしているのではないのか。


「いや、そうではないらしいな」
参謀次長多田中将は、会議の次第を回想しつつ、渋い表情で語った。

「近衛 (首相) は本当に嫌になっているらしい。
なにかきっかけをつくって罷 (や) めたいらしい。

外務大臣は、やめることにきめた、と、いっていたなァ」
そりゃ、まずい、と中島少将が即応し、

結局、このさい政府と統帥部との対立がおおやけになるのは
「頗 (すこぶ) る不適当」 である、政府に一任する、との結論に達した。

この参謀本部の〝屈服〟または譲歩を得て、大本営政府連絡会議は、
午後七時三十分に三たび開催され、蒋介石政府との和平交渉打ち切りを議決した。


   ―   だが、
参謀本部第二課戦争指導班の高嶋中佐、堀場少佐は、なおも〝抵抗〟をあきらめなかった。

二人は、次長多田中将から譲歩した旨を聞くと、統帥部が天皇に直属している
憲法上の規定(統帥権独立)を「妙用」すべきだ、と主張した。

参謀総長閑院宮と軍令部総長伏見宮から、本日の会議の決定に不同意である、
ただ内閣崩壊をさけるために政府に一任した、と天皇に上奏する。

そうすれば、天皇から政府にたいして再考をもとめられるか、
あるいは御前会議召集が指示されるであろう……。


   ―   しかし、

この参謀本部の〝巻き返し工作〟は、効果を発揮しなかった。
次長多田中将は、高嶋中佐と堀場少佐の主張に同意して、

参謀総長の上奏文を作案させるとともに、軍令部次長古賀中将にも連絡し、
軍令部総長も同様の上奏をするよう、うちあわせた。

だが、午後九時四十分の首相上奏につづき、午後九時二十分に参謀総長閑院宮、
午後十時五分に軍令部総長伏見宮の上奏がおこなわれたが、

参謀本部が期待するような天皇の意見は表明されなかった。

参謀総長は予定どおりに政府決定に反対である旨を述べたが、軍令部総長は、
次長同士のうちあわせとは逆に、政府に同意する見解を上奏したからである。

参謀本部は、文字どおりに「孤立無援」の立場にたち、
それ以上の〝抵抗〟は断念せざるを得なかった。

1月15日 大本営政府連絡会議 午後の部

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/02 15:52 投稿番号: [300 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 271〜272p


会議は、午後三時に再開されたが、閑院官と伏見官の両総長は出席しなかった。

午前中の会議では、二人の皇族がいたのでいくぶん遠慮もあったらしいが、
皇族不在となると、政府側の論調は、がぜん激化した。

参謀次長多田中将が、午前中と同様に、「即断」 はさけて、
右か左かの確答を中国側からひきだすべきだ、と主張すると、

「期限マデ返電無キハ、和平ノ誠意無キ証左ナリ。

蒋介石ヲ (交渉の) 相手ニセズ、(蒋が) 屈服スルマデ作戦スベシ」

陸相杉山大将が、そう反論したのにつづいて、広田外相も語気をつよめて反駁した。

「永キ外交官生活ノ 経験ニ照シ、支那側ノ応酬ブリハ 和平解決ノ誠意ナキコト

明瞭ナリ。参謀次長ハ   外務大臣ヲ信用セザルカ」

首相近衛文麿は、カン高い声で、論戦に終止符をうつ形で発言した。

「速(すみやか) ニ和平交渉ヲ 打切り、我ガ態度ヲ 明瞭ナラシムルヲ 要ス」

しかし、それでも参謀次長多田中将は自説をまげず、軍令部次長古賀中将も、
多田中将を支持する発言をこころみた。


海相米内大将は、不満をあらわにした表情で、その古賀中将の発言を制止して、

「政府ハ 外務大臣ヲ 信頼ス。統帥部ガ 外務大臣ヲ 信用セヌハ、同時ニ

政府不信任ナリ。政府ハ辞職ノ外ナシ」

一説には、米内海相のこのときの発言は、
「かくなる上は、参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」

というものだった、といわれるが、いずれにせよ、辞職を口走ったことは間違いなく、
とたんに、多田中将の反撥をさそった。

「明治大帝ハ 朕ニ辞職ナシト宣 (のたま) ヘリ。

国家重大ノ時期ニ 政府ノ辞職云々ハ、何事ゾヤ」

中将は、双眼を涙でうるませて強調した。
が、政府側は譲らず、中将も譲歩せず、会議は再び休憩となった。


*   広田外相の「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、支那側ノ応酬ブリハ和平解決ノ
   誠意ナキコト明瞭ナリ。」との洞察は正しい。

   1月1日   に蒋介石は、〝和平派〟 の交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰を解任し
   1月2日には、王寵恵部長に「応即厳詞拒絶」(断乎として拒絶せよ) と命令し

   1月3日には、国民政府は、「否認将派代表赴南京與日方講和」(日本側との
   和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)と決定している。


*   ここでは、軍部が和平を求め、文民が和平交渉打ち切りを主張するという、
   世間常識とは逆の状態が出現している。

   世間では、軍部が戦争を起こし、政府が止められなかったかのように
   言われているが、事実は違っている。

   しかし、多田中将がいかに和平を求めたくても、中国にその気がなければ、
   無理な話だろう。

つづく

1月15日 大本営政府連絡会議 午前の部

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/01/01 16:05 投稿番号: [299 / 2250]
この大本営政府連絡会議では、文民である政府が、和平交渉打ち切りを提唱し、
軍部である参謀本部が和平交渉の継続を主張した。


児島襄著 『日中戦争4』 270〜271p

大本営政府連絡会議は、一月十五日、午前九時三十分すぎから首相官邸でひらかれたが、
次長多田中将は、参謀本部を出発するとき、決然たる口調で言明した。

「本日ノ会議ハ必ズ決定ヲ保留セシムベシ」

そして、この言葉どおりに、会議での中将の 「奮闘」 はめざましかった。

政府側は、すでに 「交渉打ち切り」 を決定しているので、
経緯を説明して、陸海軍統帥部の同意をもとめた。

参謀総長閑院宮載仁元帥は、中国側が条件細目の提示を要求しているのだから、
それを知らせてやって期限付き回答をもとめてはどうか、と述べた。

次長多田中将は、
中国側の口上書には交渉打ち切りは明言されていないではないか、と指摘して、

「この回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである」


駐日・中国大使許世英を通じて中国側の 「真意」 をたしかめることも、
こころみる価値があろう。

とにかく、「僅 (わず) カノ期日」 をあらそい、それだけで 「前途暗澹 (あんたん)
タル長期戦ニ移行」 するのはあまりに危険であり、承服できない、と多田中将は、強調した。

海軍側の軍令部総長伏見宮博恭元帥、次長古賀峯一中将も、
参謀本部側に同調する意見を述べた。

政府側は、しかし、陸相杉山元大将、海相米内光政大将も、
もはや交渉は無用である、と主張しつづけた。

なんとなく、政府対大本営のほかに、省部 (陸海軍省と参謀本部、軍令部) の
対立も加味された形となり、会議は、午前十一時四十分、昼食のための休憩にはいった。


多田中将が参謀本部に帰ると、第二課長河辺大佐と戦争指導班の高嶋辰彦中佐、
掘場一雄少佐らが、次長室をたずねた。

中将は、会議の模様と自身の決意を語り、堀場少佐は、記述している。

「(次長は) 最後迄初志ヲ固執スル旨意志表示アリ。戦争指導班安堵ス」


つづく

1月14日 ベイツの報告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/31 16:22 投稿番号: [298 / 2250]
松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 展転社 164p


《南京アメリカ大使館員のアリソン宛に、ベイツから一月十四日付で出された手紙がある。

(昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。
彼らの行動の詳細は十分には分かりません。

というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。
とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。

それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、
中学校の門に配備された衛兵たちでした。

彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。

(中略)

この手紙の執筆は、漢口路一九号のアメリカ人の家から
(家にはアメリカ国旗が掲げられ、アメリカ側と日本側の布告文が門に貼ってあります)

憲兵 (特務機関から支給された憲兵の腕章をしている兵隊) を追い出すために
三〇分間中断されました。その憲兵は塀を越えて入り、

大学教師と大学病院のブラディ (Brady) 博士の個人的財産を略奪しようと、
一時間にわたって物色しまわっていたのです。

その家は、上記の (引用者註・小粉橋三二号) 日本軍の地区事務所からおよそ
二五〇ヤード (約二二九メートルのところにあります。) (①155〜156頁)


一連の事件を支那人が起こしているとの噂に対して 「馬鹿か狂人」 と表現した
外国人グループのリーダー格だったベイツは、ここに書かれている犯人達の服装を、

支那人に変装した日本兵のものと断定してはばからない。》

注:   ①は青木書店刊『南京事件資料集』のアメリカ関係資料編



*   中国人の布靴を履き、中国服を着ているのが目撃されていながら、
   ベイツは、飽くまでも、犯人を日本軍としなければ、気が済まないようです。


   尤も、彼も、後に真相に気づくようになります。

松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 展転社 167p

《三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に次のような一節がある。
資料名 「E八八 − 一〇〇」 についての注意である。

(もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。
彼らは、たびたび私たちを困らせました。

アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。・・・)》

ラーベの日記 1月14日 (13日の記述)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/30 16:25 投稿番号: [297 / 2250]
一九三八年一月十四日、南京にて (次の手紙を) 受け取る。
  ジーメンス中国本社からの手紙一九三八年一月三日   於上海

   ラーベ様!
まずは新年おめでとう。激動の日々を過ごされ、大変な経験をなさったようですね。
お元気だとよいのですが。

そちらにもっと残るおつもりかどうか、あのとき連絡していただきたかったと思います。

先日カルロヴィッツ社のバウアー氏とお話ししたのですが、
氏も、これ以上南京にいてももう意味がないのでは、というご意見でした。

ですからこちらとしては、ラーベさんが時機を逸することなく、つまり陥落の前に
南京を去って漢口へ行き、大使館と連絡をとるとばかり考えていたのです。

それで三回も電報を打ったのですよ。
プロープスト氏は目下、香港です。

ラーベさんを香港に配属したらどうかと思い、問い合わせました。
返事がありしだいお知らせします。

お宅の家具調度がどういう状況かは知りませんが、
荷物の梱包を早いうちに済ませてあればいいと思っています。

もしまだでしたら、大使館に置かせてもらうことはできないでしょうか。
上海へくる件については、そう簡単ではないにしても、いずれ打つ手はあるでしょう。

できることならすぐにお返事をいただきたいと思います。     敬具
                      W・マイアー



ラーベの返書   一九三八年一月十四日   於南京
  W・マイアー社長の一九三八年一月三日付の書状に関して

ドイツ大使館を通じてお手紙いただきました。
昨年、漢口へ行くようにとのご連絡をいただきましたが間にあいませんでした。

電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでにクトゥー号で発ったあとだったのです。

また韓さん一家をはじめ、中国人従業員はみなオフィスに避難しておりましたので、
彼らを見捨てることはできないと考えておりました。

あのときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した
国際委員会の代表を引き受けました。

現在ここは二十万人もの中国人非戦闘員の最後の避難場所になっています。
これを組織するのは必ずしも容易な仕事ではありませんでした。

しかも日本から全面的には承認を得られず、中国軍上層部が、ぎりぎりまで、つまり
南京から逃げ出すまで部下と共にここに駐留していたために、いっそう困難になりました。


今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、
安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか養ってこられました。

ところが今度、「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ。
よって米販売所を閉鎖すべし」 との命令が日本軍から出されたのです。

市内に秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。
今までのところ、申請はすべて却下されています。

安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許し下さいますよう、
遅ればせながらお願い申し上げます。

というのも、わずかとはいえ、我々外国人の存在が大ぜいの人々の禍福を左右するからです。
十二月十二日以来、私の家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。

たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べて生きています。
  ナチ式敬礼をもって                  ジョン・ラーベ



*   ラーベに会社から、南京から引き揚げて来いという指令が来たようです。
   彼は、会社の職員として南京に駐在していた事を忘れているかのようです。

1月14日 中国の返答に反発する日本

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/29 16:26 投稿番号: [296 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 267〜270p

王部長の口上書は、一月十四日午後四時すぎ、駐日ドイツ大使H・ディルクセンから
外相広田弘毅に伝達された。

「一九三七年十一月五日、日本側提案になるいくつかの和平条件が、
貴大使 (註、トラウトマン) の好意によって南京で提示された……」

広田外相は、まずこの口上書の書き出しに眉をひそめた。
和平条件をドイツを通じて提示したのは、たしかに日本側である。

だが、それは、国際紛争を鎮静させ、とくに中国を 「破滅から救おう」 という
ドイツの意向があり、中国側の和平意思も確認されたからである。

それなのに、口上書の語調は、いかにも日本側から
中国に 「和ヲ請ウ」 たかの印象をあたえる。


読みすすむにつれて、広田外相は眉のひそみを深めていたが、大使ディルクセンに、

「これは明らかに逃げ口上ですな。中国側は、諾否いずれにせよ、
回答するために必要な材料をあたえられたはずです。

だいいち、敗けて和平をもとめるのは中国であって、日本ではない」
大使ディルクセンも、内心では、広田外相の論評に同感であった。

「和平交渉の機会をとらえなかったのは、むしろ中国側であったといえる。
蒋介石がトラウトマンに会おうとしなかったこと、中国政府が日本側条件に

ついての正式会議をひらかなかったことなどが、その事情を告げている」

大使ディルクセンは、のちに、そう外相Cノイラートに報告するが、口上書をうけとった
ときも、それが中国側の 「拒否回答」 であることを感得していた。

それでも、大使ディルクセンは、日本側の四条件はともかく、細目条項は文書では
中国側に伝達していない、書面にして提示してはどうか、と、進言した。


広田外相が、おりから首相官邸で開催中の閣議にことの次第を報告すると、
閣僚たちも中国側の口上書を 「遷延策」 とみなし、御前会議決定の

「支那事変処理基本方針」 にもとづく措置をとることに、意見がまとまった。
口上書は、蒋介石政府が 「和ヲ求メ来ラザル」 表意だと判断できるので、

日本は、こんごは蒋政府を 「対手トスル事変解決ニハ期待セズ」 という声明を発表し、
「新興支那政権」 の育成にはげむ……。

参謀本部は、しかし、軍令部と連絡して、政府だけの決定にせず、
統帥部をまじえた大本営政府連絡会議での討議を要求した。

参謀本部としては、既述したように、「支那事変」 を 「日中戦争」 にせずに
早く終らせて、本来の主敵であるソ連にそなえたい。

中国との戦いが長期化する場合は、ソ連にたいする配慮もふくめて、
「挙国的決意」、明確な理念、見通し、方針、計画が必要である。

そのうえでの長期戦突入なら、まだ良い。


ところが、政府は、それらの必須要件をぬきにして、長期戦を必至にする
「蒋介石との絶縁」 にふみきろうとする。

しかも、その主張は、いわば蒋介石の態度が悪い、「言い方が怪しからん」 など、
いかにも皮相的、粗雑な論拠にもとづいている。

こんなことで国家を長期、大規模な戦争になげこまれてはたまらないし、
政府がその音頭取りをするのもおかしなことである。

「軍人が長期持久戦を心配する以上に、文官が之に関して深思熟考すべきではないか」
第二課長河辺虎四郎大佐が首をひねると、参謀次長多田駿中将も、

「強硬ナルベキ統帥部ガ反(かえ) ッテ弱気ニテ、
弱気ニナルベキ政府ガ強気ナリ……奇怪ニ感ゼラル……」

これも議会対策のためか。
あるいは中国進出をいそぐ財界にしりをたたかれているおかげか。

1月13日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/28 18:41 投稿番号: [295 / 2250]
一月十三日

「安全区国際委員会を国際南京救済委員会に変更する」 という私の提案は
委員会で否決された。せっかくいま、日本から事実上認められているのに、

もし自発的に解散したりしたら、これ幸いと黙殺されるおそれがある、というのだ。
私が多数派の意見に従ったのはもちろんだ。つねに足並みをそろえて行動しなければ。


イギリス海軍を通して上海の中国本社からの無線電報を受け取った。
一月十日づけで、ここをたたみ、韓をつれてできるだけ早く上海へくるように、とある。

明日 「外国人も中国人もいまは街から出られない」 と返事をしよう。
クレーガーも何度か上海へいく許可をもらおうとしたがだめだった。


今日、ローゼンとクレーガーが城壁の外へ出た。
戦災孤児院の近くにあるシュメーリング家と、

中山陵記念公園地区にあるユッケルト家の様子を見にいったのだ。
大使館の車で戻る途中、福田氏や日本の将校たちに停められた。

将校たちは、なぜ城壁の外に出たのか、どうして日本軍の命令に従わないのか
と問いただしたそうだ。話しながら双方ともしだいに興奮していった。

ローゼンは言った。私は日本軍の命令に従うなどと約束したことは一度もない。
私には外交官として職務をきちんと果たす権利と義務がある。

ちょうどいま、ドイツ人の財産の被害状況を確認しようと思っているところなのだ。
すると日本側は、その旨を文書にしろと言ってきたので、ローゼンはそれを書いて渡した。

そして帰るとすぐに上海のドイツ大使館に電報を打ったという。
さて、どうなることやら……。


  十六時

国際赤十字の会議が鼓楼病院で開かれ、ジョン・マギー、マッカラム、
クレーガー、ロウ、それに牧師の沈玉書さんたちが出席した。

赤十字から委託されている入院患者を無料で治療するかどうか、
今後はマッカラムが決めることになった。

いままでマギーが担当していたのだが、
ここのところ無償で治療する患者を受け入れすぎたからだ。

なかには、全くの無一文だと申告していたのに、
ベッドに三百ドル隠していた女の人もいた。

張のかみさんが退院するので、車で迎えに行った。
病院に払うにも、先月の給料の三十ドルしかないというので、残りは私が払った。


*   「無一文だと申告していたのに、ベッドに三百ドル隠していた」
   これだけ騙されても、まだ、ラーベ達は中国人を信用している。

1月13日 中国の返答と日本の会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/27 16:11 投稿番号: [294 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 266〜267p

国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。

戦ってさえいれば、「日本亦終必帰於失敗也」 蒋介石は、かねての持論をくり返し、
適宜に (日本側に) 対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。

   ―   唖然、あるいは呆然、

という表現があてはまる表情で、駐支ドイツ大使O・トラウトマンは、
外交部長王寵恵を注視した。

王外交部長は、前日、閣議で検討したうえで日本側への回答をつたえる、と述べ、
さっそく一夜あけたこの日、一月十三日、その回答を大使トラウトマンに提示した。

閣議がひらかれた様子もなかったので、大使がその点をたしかめると、
じつは回答は前夜にできていた、と、王部長は、涼しい顔で返答した。

大使トラウトマンは、そう述べたときの外交部長王寵恵の唇のゆがみに、
ふと不審感をさそわれたが、手渡された口上書を一読して仰天した。

口上書は、これまでの大使トラウトマンの日中間の〝伝書使〟的業績を回顧したあと、
日本側の 「改変された条件」 は範囲がひろすぎる、と指摘して、次のように結文していた。

「ゆえに、中国政府は、慎重な検討と明確な決定をおこなうために、
新たに提議された条件の性質と内容を確定されることを望む」

それだけである。


日本側の条件については、全体としても、各個にも、諾否も修正要求も示されていない。

大使トラウトマンは、さんざんに待ち、かつ、催促をかさねて得た回答が、
たったそれだけであったことに驚くとともに、不安を感じた。

「外相閣下、閣下は、日本側がこの回答をいいのがれとみなす懸念があるとは、
お考えになりませんか。

私には、この回答は、(日本側条件を) 理解する意思がない旨の表明と思えます」
大使トラウトマンは、既述したように、戦争がつづけば中国は敗北すると信じこんでいる。

いま日本と講和するのが、中国と国民政府が生きのびるためのまたとないチャンスであろう。

そのチャンスを逃がすのか   ―   との意をこめての大使トラウトマンの発言であったが、
外交部長王寵恵は、日本側条件の詳細を知るまではなにもいえない、というだけであった。


戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 473〜474p

一方、日本では、十三日の閣僚会合で 「いつまでも便々として中国側の回答を
待っておるわけにもいかないから、十五日中に中国側から確答がない場合には、

直ちに、国民政府との交渉に期待をかけず、事態処理の第二手段をとる旨の声明を
出すべきである。これは明十四日の閣議で決定する」 という話し合いが成立した。

1月12日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/26 16:06 投稿番号: [293 / 2250]
一月十二日

南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。私の家から約五十メートルほどはなれた
道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。

ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、
ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。

この件について、全員の意見が一致した。

すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ
事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。


こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった!
米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。

日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。 肝心の家が
焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、てんでおかまいなしなのだ。

日本人と友好的にやっていくにはどうするかとあれこれ考えた末、あることを思いついた。
南京安全区国際委員会を解体して、国際救済委員会を設立し、
日本人にも出席してもらうのだ。やってみよう。

これがうまくいくかどうかはやってみなければわからない。
まずはじめに仲間と各国大使館の人たちに相談しなくてはならない。

1月12日 回答期限と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/25 18:36 投稿番号: [292 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 264〜266p

外務次官堀内謙介は、
十二日に駐日ドイツ大使館参事官G・シュミーデンに 「十五日期限」 をつたえ、

中国側の回答は具体的なものが必要だ、なお考慮中式のものはだめだ、と付言した。
報告を受けたドイツ外相ノイラートは、

前日にも駐支大使トラウトマンに中国側を督促するよう訓令していたが、
堀内次官の言明を伝達するとともに、かさねて中国側に早期回答を勧告させた。


大使トラウトマンは、蒋介石との会見を申しいれたが、多忙との理由で会えず、
かわりに外交部長王寵恵が応接した。

大使トラウトマンは、日本側はしびれをきらしている、
中国側に回答する気持があるなら早いほうがよい、と力説した。

「まだ遅すぎるとはいえないかもしれません。しかし、いまや十二時五分前です」


王外交部長は、至急に閣議をひらいて返事をすると述べたが、
王部長からことの次第を聞いた蒋介石は、閣議招集の指示もあたえなかった。

蒋介石は、前述したように、すでに和平拒否の方針を確立し、
前日は、陳誠を武漢衛戍総司令に任命するとともに開封に飛び、

第一、第五戦区の団長以上の指揮官をあつめて、
「抗戦検討與必勝要訣」と題して訓示した。

こんごの抗戦の重心を武漢におき、そのためには津浦鉄道と、
新郷で平漢線を横断する道清鉄道の確保が最重要である旨を強調する内容であった。

また、同時に八項目の誓いをとなえ、一同に唱和させた。

「服従命令……厳守紀律……尽忠職守……実行主義……研究学術……抗戦到底
……貫徹始終……恢復『智信仁勇』的固有武徳……」

この『八誓』をうらがえせば、中国軍の内部には、命令にしたがわず、軍紀を守らず、
職務に不忠実であり、有言不実行、勉強不足などの傾向があることがうかがわれる。

が、いずれにしても、蒋介石にとっては、戦う以外に 「生存」 の道はない。


王部長は、日本側の回答期限通告を報告するとともに、
日本政府と大本営が連日の会議をくりかえしているとの情報も、蒋介石に報告した。

「倭 今日 始知 対華戦争 非長期 不可乎!」

それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気づいたのか。

蒋介石は、とっさにそう感想を述べ、
もしそうであれば中国はますます有利な地位にたてる、と指摘した。

国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。戦ってさえいれば、

「日本 亦終 必帰 於失敗 也」

  蒋介石は、かねての持論をくり返し、適宜に (日本側に) 対応せよ、
と、外交部長王寵恵に指示した。



*   蒋介石は 「日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ない
   ことに気づいたのか」 と言っている。

   これでは、日本がいくら和平案を出しても、ムダだろう。
   中国に和平の意思が無いのだから。

1月11日 支那事変処理根本方針決定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/12/24 18:41 投稿番号: [291 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 470〜471p

一月十一日、御前会議が開催された。
この種御前会議は日露戦争以来初めてのことである。

陸海統帥部の両総長、次長、総理、陸、海、外、内、蔵各大臣及び特旨により
平沼枢密院議長が出席、外相が原案を説明、両総長が意見を陳述、

枢院議長が賛意及び希望を述べ、次のように決定し会議を終了した。


    支那事変処理根本方針

帝国不動ノ国是ハ 満洲国 及 支那ト提携シテ   東洋平和ノ枢軸ヲ形成シ

之ヲ核心トシテ 世界ノ平和ニ貢献スルニアリ   右ノ国是ニ基キ 今次ノ

支那事変処理ニ関シテハ   日支両国間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ   両国国交ヲ

大乗的基礎ノ上ニ再建シ   互ニ主権及領土ヲ尊重シツツ   渾然融和ノ実ヲ

挙クルヲ以テ 窮極ノ目途トシ   先ツ事変ノ再起防遏 (あつ) ニ必要ナル

保障ヲ   確立スルト共ニ   左記諸項ヲ両国間ニ確約ス。

  (一)   日満支三国ハ   相互ノ好誼ヲ 破壊スルカ如キ政策、教育、交易其他

   凡 (あら) ユル手段ヲ全廃スルト共ニ   右種ノ悪果ヲ招来スル虞 (おそれ)

   アル行動ヲ禁絶スルコト。

  (二)   日満支三国ハ   互ニ相共同シテ   文化ノ提携防共政策ノ 実現ヲ期スルコト

  (三)   日満支三国ハ   産業経済等ニ関シ 長短相補有無相通ノ趣旨ニ基キ

   共同互恵ヲ約定スルコト

  右ノ方針ニ基キ   帝国ハ特ニ 政戦両略ノ緊密ナル運用ニ依リ   左記各項ノ

   適切ナル実行ヲ期ス

  (一)   支那現中央政府ニシテ   此際反省翻意シ 誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ

   別紙 (甲)   日支媾和交渉条件ニ   準拠シテ交渉ス

   帝国ハ将来 支那側ノ媾和条項   実行ヲ確認スルニ至ラハ   右条件中ノ

   保障条項別紙 (乙)   ヲ解除スルノミナラス   更ニ進ンテ 支那ノ復興発展ニ

   衷心協力スルモノトス。

  (二)   支那現中央政府カ 和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ   帝国ハ爾後

   之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス   新興支那政権ノ成立ヲ助長シ

   コレト両国国交ノ調整ヲ協定シ   更正新支那ノ建設ニ協力ス   支那現中央政府ニ

   対シテハ   帝国ハ之カ潰滅ヲ図リ   又ハ新興中央政権ノ傘下ニ

   収容セラルル如ク施策ス

(三)   本事変ニ対処シ 国際情勢ノ変転ニ備ヘ   前記方針ノ貫徹ヲ期スル為

   国家総力 就中 (なかんずく) 国防力ノ急速ナル培養整倫ヲ促進シ

   第三国トノ友好関係ノ保持改善ヲ   計ルモノトス

  (四)   第三国ノ権益ハ   之ヲ尊重シ専ラ自由競争ニヨリ   対支経済発展ニ

   優位ヲ獲得スルコトヲ期ス

  (五)   国民ノ間ニ 事変処理根本方針ノ趣旨ヲ   徹底セシムル様 国論ヲ指導ス

   対外啓発ニツキテモ亦同シ


  別紙甲   日支媾和交渉条件細目
   〔十二月二十一日の独大使あて回答文細目に同じ〕

  別紙乙
   〔別紙甲のうちの保障条項、講和に関連して廃棄する約定〕


右会議において参謀総長は、とくに、本事変出兵の目的、事変処理の根本理念、
交渉による早期解決の期待、国防力の充実整備の必要について陳述し、

軍令部総長はこれに同感の意を表したほか、国防力の急速な培養を強調した。

平沼枢府議長は、現中央政府との和議が成立した場合現地新政権をいかにするか、
事変処理根本方針徹底のため世論指導をどのようにするか、などについて意見を陳述した。


注   ;   防遏   ボウアツ    防ぎとめること
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