入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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12月25日 石川達三南京へ向け出発

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/20 18:34 投稿番号: [250 / 2250]
12月25日   石川達三は南京への取材のため、東京を発った。

『生きている兵隊』 中公文庫の後ろの方の “「解説」 半藤一利” 204p より引用


《各雑誌は作家の現地特派という企画で競い合うことになる。
『中央公論』 は七月にもう尾崎士郎、林房雄を中国に派遣している。

同じく 『主婦の友』 は吉尾信子を送った。九月には 『日本評論』   から
榊山潤がでかけ、その報告がそれぞれの誌面を派手に飾った。

負けてはならじと 『文藝春秋』『改造』 などの各誌がそれにつづいた。

厳しい検閲のもとに、がぜん戦意を高める現地報告、従軍記、
ルポルタージュが、主流という情勢になっていく。


このとき、その二年前に第一回芥川賞を受けた気鋭の作家石川達三が
「俺が全然こんなのとは違った従軍記を書いてみせる」 と、

ひそかな野望を抱いたとしても、なんら奇怪 (おか) しいことではない。


「毎日読む記事が画一的なんで腹が立ちました。
戦争というものは、こんなものではない。

自分の目で確かめたいと思っているところへ、
中央公論特派員の話があったのです」


と、石川は語っているが、とにかく、こうしてかれは中国戦線へ従軍することになる。
十二年十二月二十五日に東京を発ち、神戸から軍用貨物船で出港、・・・》


石川達三は、どうも、他の人達の穏和な記事が気に食わず、
残虐な光景を描きたかったようですね。

彼の小説は、最初から、そういう意図で取材され、まとめられていたのなら、
上海・南京戦の実態を表わしているとは言えないでしょう。


半藤氏は、石川達三の南京行きを 「従軍」 と書いていますが、
これは、従軍ではないでしょう。

別に、派遣軍にくっついて行ったわけでもないし、
彼が、行った時には、上海戦も南京戦も終わっていた。

彼は、適当に、現地で話しを聞き、破壊の後を見、死体を見ただけでしょう。
あとは、最初の構想のままに残虐話を作り上げたというべきです。

12月25日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/19 18:31 投稿番号: [249 / 2250]
  十二月二十五日
・・・

クレーガーとシュペアリングは平倉巷のアメリカ人の家へ向かった。
そこのクリスマスディナーに招待されていたのだ。が、私は家を空けられない。

六百二人の難民を保護者なしでおいていくわけにはいかない。
ただ、仲間がとちゅうでしばらく交代してくれることになっていた。

そうすれば私もアメリカ人の同志たちとしばし楽しい時が過ごせる。
入れちがいに、福井氏がやってきた。

目下この人が日本大使館で一番上のポストにいる。高玉氏もいっしょだ。
・・・

日本人はとても花が好きだ。わが家の難民のために、この人たちとある程度
親しくなっておきたい。なにしろ発言権があるからだ。

・・・

ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。
果てしない闇、死体だらけの道を。もう十二日間も野ざらしになっている。

仲間たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。
ただ暖炉の赤い小さな旗に、使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。

私たちは難民登録というさしせまった問題について話し合った。心配でたまらない。
難民は一人残らず登録して 「良民証」 を受けとらなければならないということだった。

しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、
二十万人もいるのだから大変だ。早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。

登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられたのだ。
行き着く先は強制労働か、処刑だ。

若い娘も選別された。兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。
そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分などふきとんでしまう。


半時間ほどして、また悪臭ふんぷんたる道を戻る。
だが私の小さな収容所には平和とやすらぎがあった。

見張りが十二人、交代で壁づたいに歩き回り、ときどきささやきあっている。

眠っている仲間を起こさないよう、ちょっとした合図をしたり、
とぎれとぎれの言葉をかわすだけだ。ミルズは家に帰った。私もやっと眠れる。

いつものように、そのまま飛び出せるかっこうだが。
日本兵が入ってきたら、すぐに放り出さなければならない。

だがありがたいことに、今晩は平穏無事だった。苦しそうな息づかいや
いびきがほうぼうから聞こえてきて、なかなか寝つかれなかった。合間には病人の咳。

12月24日 兵民分離の住民登録始まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/18 18:46 投稿番号: [248 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 233〜235p

南京陥落から二週間にして、事態はほとんど沈静化したことになる。
では、何が、事態の沈静化をもたらしたのか。

その一つの要因として、国際委員会の日本軍批判が挙げられよう。
それに対する日本側の 「厳重」 すぎる処罰も、その一つの要因であったであろう。

しかし、それ以上に、決定的な要因が二つ考えられるのである。

一つは、十二月二十二日に布告され、二十四日から一斉に開始された住民登録である。
これにより市民は、日本軍の指定する登記所に 「各自」 出頭を要請された。

代理申請は不可能であった。「良民票」 交付と言われるこの住民登録により、
日本軍は兵士と市民の分離を図ったのである。


もう一つが、住民登録と同時に始まった査問工作であった。
「兵士と、市民とを、分離しつづけることができなかった」(二号文書)

とは、国際委員会の告白であった。そのため、安全地帯に潜伏する
敗残兵の摘出作業が、南京住民立ち会いのもとに始まったのである。

この兵民分離の査問工作を担当したのが、『南京戦史資料集Ⅰ』 の
「佐々木到一少将私記」にもあるように、歩兵第三十旅団長の佐々木少将であった。

第十六師団司令部の内田義直通訳官は、その査問工作に立ち会った感想を、
次のように回想する。以下は 『南京戦史』 からの引用である。


《中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、広東、広西、
湖南の兵隊で南方訛りであって、言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。

しかし身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、

一般市民を狩り立てるようなことはなかった。
上衣だけが民服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。》


恐らく、内田通訳官の回想に間違いはないであろう。
『南京安全地帯の記録』 には、あること無いことを含めて、

様々な日本軍批判が収録されているが、被害者の実名を挙げて、
兵民分離工作が市民に累を及ぼしたという記録は一つもない。

こうして約二千の敗残兵と武器が摘発されたと 「佐々木到一少将私記」 は記す。
従って、国際委員会十号文書 (十二月十八日付) が

「武装解除された支那兵集団すら存在しない」と主張したのは、誤りであった。


昭和十三年一月十日付の 『読売新聞』 は、「難民調査は暮から始められて、
七日漸く一段落を告げて、敗残兵一千六百名とその他のものは安民居住の

所を与へられ、今では大手を振って城内を歩けるやうになった」 と記す。

潜伏に困難を来し、自ら出頭して市民登録を許可された支那兵もいたのである。
このため、潜伏兵が急減し、あわせて撹乱工作も減少した。

そしてまた、潜伏兵の出頭により、人口数が増加した。

12月24日までの安全区掃蕩での鹵獲品

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/17 18:40 投稿番号: [247 / 2250]
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』184〜186p

《第七連隊の 「南京城内掃蕩成果表」(十二月十三日より十二月二十四日まで) は、
軍規があるとはとても思えない支那軍の実態を示している。

それは次のように記録していた。

一、消耗弾   小銃       五、〇〇〇発

         重機関銃    二、〇〇〇発

二、刺射殺数 (敗残兵)    六、六七〇

三、鹵獲 (ろかく) 品

         十五糎(センチ) 砲   二門     同弾薬      約六〇〇発

         二十糎級砲       八門     同弾薬    約一、〇〇〇発

         小銃         九六〇挺     同実包       三九万発

         水冷式重機関銃   一二挺     軽機関銃       三三挺

         拳銃        一〇三挺     同弾薬   二六一、三五〇発

         高射砲         一門     高射機関銃       一挺

         山砲          六門     同弾薬        八二発

         迫撃砲        一〇門     同弾薬    五七、二一八発

         戦車砲弾   三九、〇〇〇発     銃剣        三二〇挺

         手榴弾    五五、一二二発     青竜刀     二、〇二〇振

         対戦車砲        二門     戦車          四台

         機関砲         一門     自動貨車       一六台

         便衣服     二、三〇〇着     夏衣袴    二五、三〇〇着


これは第七連隊だけの 「成果」 である。しかも押収品は、
全ての項目を羅列すると、右の三倍近くになる。

あまりに多いので他は省略したが、
それでも戦車四台と戦車砲弾三万九〇〇〇発が鹵獲された。

同じく、手榴弾五万五一二二発や、小銃九六〇挺に同実包三九万発、
迫撃砲一〇門と同弾薬五万七二一八発などが鹵獲された。

降伏の意思表示なく兵士が軍服を脱ぐこと自体、明らかな戦時国際法違反であった。
その上、あろうことか、安全地帯の将兵は大量の武器まで隠匿 (いんとく) していた。

これも明らかな戦時国際法違反であった。》


*   ラーベ達は、路上で武器を捨てた中国兵を市民と見なしていたが、
   とんでもない事だった。

   もともと、中国軍は安全区の中に軍事施設を作っていて、
   日本軍突入前に撤去をしていない。従って、有って当り前。


午後六時、第七連隊は掃蕩の任務を解除される。

東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 187〜188p

《「爾今(じこん) 掃蕩ノ任務ヲ解除ス」(歩七作命甲第一一七号)と命じられる

十二月二十四日午後六時まで、安全地帯の掃蕩を任務としていた。しかし、
実際には十二月十四日、十五日、十六日の三日間でほとんど掃蕩を完了していた。》


*   ここに於いて、彼らも移動の準備を開始する。

12月24日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/16 18:47 投稿番号: [246 / 2250]
十二月二十四日

《昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、
ジーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。

女性たちへのクリスマスプレゼントだ。


ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。
顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。

下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。
ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。

この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、
明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。

地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、
それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。


なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。
やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃剣の傷が四つ。

ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。
痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。

この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。
だから、こういうむごたらしい姿を見ても、もはや目をそむけはしない。

クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。
いつの日か目撃者として語ることができるように。

これほどの残忍な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!


私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。
まだ当分は兵隊たちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。

うちの難民は三百五十人から四百人くらいだとばかり思っていた。
だが、今では全部で六百二人。

なんとこれだけの人間が庭 (たった五百平方メートル) と事務所に寝泊まり
しているのだ。韓によると男三百二人、女三百人とのこと。

そのうち十歳以下の子どもが百二十六人。
ひとりは、やっと二カ月になったばかりだ。

これにはジーメンスの従業員やわが家の使用人、またその一族は入っていないので、
全部入れると六百五十人くらいになるのではないだろうか。

・・・・

神、ただ神だけが、この恥ずべき輩、人を辱め、殺し、
火を放っている無法集団から我々をお守りくださるだろう、と。

今日、新たな部隊が着任するという知らせが届いた。
これでようやくいくらか混乱がおさまるだろう。

法にそむく行為はすべて、みせしめのために罰せられるにちがいない。
ぜひそうであってほしい!   その時が来ているのだ!   我々はじきに力尽きてしまう!

神よ守りたまえ。私たちがいま味わっている苦しみを、
いつの日かおまえたちが味わうことのないように!

この祈りを胸に、今日の日記を終えよう。ここに残ったことを悔いてはいない。
そのために、多くの人命が救われたのだから。

だが、それでも、この苦しみはとうてい言葉につくせはしない。》



*「神だけが、この恥ずべき・・・無法集団から我々をお守りくださるだろう」
  とラーベは言っている。

   しかし問題は   「その無法集団が一体誰なのか」   なのだ。
   ラーベは、すべてが日本兵の犯行と信じて疑わないようだ。

12月24日 支那事変対処要綱(甲)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/15 16:14 投稿番号: [245 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 469p

支那事変対処要綱 (甲)   の閣議決定   その後、和平交渉条件の検討と並行して、
前記 「事変対処要綱」 の二 「現中央政権否認ノ場合」 の検討が進められ、

十二月二十四日の閣議で、次のように決定した。

     支那事変対処要綱 (甲)

事変勃発以来   帝国政府ハ   南京政府ニ於テ   速ニ其ノ抗日容共政策ヲ棄テ

帝国ト提携シテ   東亜ノ安定ニ寄与センコトヲ   切望シ居ルヲ以テ   同政府ニ於テ

反省スルニ於テハ   之ト共ニ   時局ノ収拾ヲ計ルヘキモ   同政府ニシテ

猶   長期ノ抵抗ヲ標榜シ   毫モ反省ノ色ヲ示ササル   場合ニ対処スル為ト

他方我軍事行動ノ進展ニ伴ヒ   帝国ノ占拠区域広汎トナリ   至急之カ処理ヲ行フノ

要アルニ至レルトニ鑑ミ   今後ハ必スシモ   南京政府トノ   交渉成立ヲ期待セス

之ト別個ニ   時局ノ収拾ヲ計リツツ   事態ノ進展ニ備へ   軍事行動ト相俟 (ま) チ

南京政府ノ長期抵抗ニ   対応スル為   北支   及   中支方面ニ於テハ   左記方針ニ依リ

措置スルコトトス

  右趣旨ハ   適当ノ機会ニ   之ヲ中外 (ちゅうがい) ニ闡明 (せんめい) ス〔以下略〕


以下、その方策として、北支では防共親日満政権の成立、日満支不可分の経済関係の
設定を目途としてこれが促進を図り、北支政権を漸次拡大強化して更生新中国の

中心勢力であるよう指導する政治措導方針と、
一国策会社の設立を含む経済開発の細目を定めている。


また上海方面でも、機の熟するをまって、北支新政権と連結のある新政権の
樹立を考慮するが、当分は治安維持会及びその連合会で治安に当たらせることとし、

租界を除きその周辺について、上海特別市を作ることを含む租界周辺処理方針と、
国策会社の設立を含む中支の経済的権益設定策などにつき詳細な方針を定めた。

以上のねらいは、新政権の樹立及び経済開発の両方面において、
日本軍の占拠地域の安定及び復興繁栄を図りもって民心をわが方に引きつけ、

蒋介石政権を打倒しようとする趣旨にあった。

なお本要綱起草当時は、中支那方面軍がようやく上海周辺を占拠した際であったので
「上海方面処理方針」 とされた。その後、占拠地域の拡大により

「中支那方面処理方針」 とするのが適当となったが、
同様趣旨で工作を進めることができるので原案どおりに決定された。

中国が和平拒否の場合の対案

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/14 15:58 投稿番号: [244 / 2250]
事変対処要綱の策定

戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 467〜468p

参謀本部第二課戦争指導班では、十二月一日、現国民政府との直接交渉により
事変を解決する方策として 「支那事変解決処理方針」 を策定していたが、

・・・
中国側が条件を受諾せぬ場合の考案を同時に取り扱う必要に迫られたので、

十二月六日、大臣随員を加え、大本営陸軍部案とするよう
「事変対処要綱」 案を合同起案した。その方針は次のとおりである。

一   対現中央政府解決ノ場合

   (一)   現戦果ヲ   拡張強化シツツ   速ニ   現中央政権ト   日支全般問題ヲ

     一括解決スルコトニ   諸般ノ措置ヲ統合ス

   (二)   比間 爾後   持久戦争ニ移行ノ為ニ   必要ナル考慮ト   準備措置ノ実行トヲ

     併セ行フ   但シ   之カ為   方針第一項ノ   達成ヲ阻害スル   コトナシ

   (三)   持久戦争移行   ノ為ノ決意ノ時機ハ   方針第一項ノ   目的ヲ達成スルコト

     能ハサル実情ヲ   確認シタルトキ   又ハ   現中央政権カ   実力上一方地方

     政権タルニ   至リタル時トシ   其 (その) 時機ハ   南京攻略前後トス

二   現中央政権否認ノ場合

   (一)   従来ノ支那中央政権ヲ否認シ   北支ニ   親日満防共ノ政権ヲ樹立シ

     之ヲ   更正新支那ノ   中心勢力タラシムル   如ク指導シ之ト連繋シテ

     各方面共親日(又ハ非抗日)反共政権ヲ樹立シ   支那全局面ニ於テ

     抗日共産政権ニ対スル   圧縮壊滅ヲ策ス

   (二)   所要地域ニ於テ   我兵力ヲ以テスル   軍事的占拠   其地域内ニ於ケル

     画期的善政指導   及   新樹立政権ノ勢力拡大等ニ依リ   之ニ伴フ領土喪失感ト

     抗日共産領域内住民ノ   困窮トニ依リ対抗政権   及   某所属民衆ヲシテ

     抗日容共ノ非ヲ   悟ラシメ   時ト共ニ依日救国ノ大勢ニ   順応スルニ至ラシム

   (三)   成ルヘク速ニ   全支ノ自然的統一状態ヲ誘致シ   無期分裂抗争ニ基ク

     支那ノ赤化   又ハ   欧米勢力侵襲ノ罅隙 (カゲキ:すきま)   ナカラシム

   (四)   全期間ヲ通シ   我国防国策ノ主脈ヲ   依然   対蘇反共ニ置キ   其以外

     数正面ニ亙ル   戦争準備ノ余儀ナキ情勢ニ   立チ至ラサル如ク   政戦両略ニ

     亙リ   運用施策ス

   (五)   我国家総力   就中 (なかんずく) 国防力ノ培養強化   及   統整ヲ促進スルト

     共ニ支那ニ対スル我国カノ   消耗ヲ制限シ   且   対 「ソ」 作戦ノ準備ヲ強化整頓ス


右両案は時期的段階をつけるべきと思われるが、当時の空気はこれを並立して
掲げねばならぬほど切迫したものであった。

しかし、あたかもトラウトマン工作が進展してきたのに乗じ、戦争指導班としては本案
審議の遷延策をとったので、これが大本営陸軍部案となったのは十二月十五日であった。

この間に現地における作戦は進展し、十三日南京は陥落した。十四日、政府は
「南京攻撃は、中国側に日支提携の大道に返ることを求めたものである。

しかるに国民政府になんら反省の色なきにおいては、日本は親日政権との提携、
抗日政権の徹底的膺懲によって日支問題の根本的手術を決意し、それがためには

真の持久戦はこれからだという覚悟に徹すべきである」 と声明した。
もちろん、これは表向きのものであり、政府は和戦両用の構えをとっている

のであるから、今こそ真に強力な政戦略一致が望まれるときであった。
しかし、事変の終息、和平工作をぶちこわすかのように戦果の獲得、

拡充方策が着々と進められていた。
前記の政府声明発表の日に、北支に中華民国臨時政府が成立した。

12月23日 日本側和平条件の伝達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/13 18:31 投稿番号: [243 / 2250]
(戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p)

  駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、
二十三日これを漢口のトラウトマン大使に伝達



児島襄著 『日中戦争4』 258p

大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。

ドイツ外相C・ノイラートは、覚書の語調と内容から 「最後通告」 にひとしい
との印象をうけ、とっさに中国側への伝達は和平仲介の趣旨に反する、と考えた。

しかし、駐支大使トラウトマンに転電するとともに、中国大使程天放の来訪をもとめ、
日本側条件をつたえながら、このさいは、隠忍して受諾してはどうかと勧説した。

12月23日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/12 18:40 投稿番号: [242 / 2250]
十二月二十三日

昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。
外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。

なんと今日の昼までに、という。
そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。

我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。
さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、

地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。
それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。

うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。
だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。

リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。


日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、
二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。

クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。
金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。

昼食のとき、兵隊が三人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、
どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。

おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。
私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。

今度は六人。今回もやはり塀越しにご退場願った。
思えば、こういう目にあうのもそろそろ二十回ちかくになる。


午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を二度とわが家に踏みこませない。
命がけでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じるようすもない。

肩をすくめ、それで一件落着だ。
「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができないんですよ」


六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。
ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。

同じころ、上海商業儲蓄銀行の裏からも火の手があがっていた。
これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。

しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。

わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、おそろしくも美しく
燃えさかる炎を息をのんで見つめていた。

もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。
かれらにとっての最後の希望、それは私だけなのだ。

(中略)

今日、シンバーグが棲霞山から持ってきてくれた手紙には
(彼は、江南セメント工場〜南京間をふつう一時間半で往復する)、

棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。
あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。



*   南京には、日本兵は殆どいなくなっているのに、
   “日本兵” の犯行が一向に減らないとは、実に不自然な事だ。

12月22日 独逸大使への和平条件案回答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/11 18:35 投稿番号: [241 / 2250]
日本は、独逸大使への回答の和平条件案が、
21日にやっとまとまったので22日独逸大使に回答しました。


戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p

《新和平交渉条件の提示と中国側の反応   二十二日、広田外相は、ディルクセン
独大使と会談し、十二月七日同大使からなされた連絡に対する正式の回答を行った。

大使は 「これらの条件は、十一月二日のものをはるかに越えており、
私は中国政府による受諾は極めて難しいと思う」 と述べた。

外相は 「軍事情勢の変化と世論の圧力により、
これ以外に各方面の意見をまとめることができなかった」 と述べた。

また大使は 「余日の少ない年内に中国側の回答を期待するのは無理だから、
一月五、六日ころまで延期してはどうか」 と申し出たので、外相はこれを承諾した。》


同じ事を児島襄氏の 『日中戦争4』 257〜258p は 23 日の事として書いています。


《広田外相は、十二月二十三日、駐日ドイツ大使H・ディルクセンをまねき、
前文と四条件を列記した英文覚書をわたした。

「和ヲ乞フノ態度」 なる表現は、さすがに不適当とみなされたものか、
英文では 「インディケイト……ア・デザイア・ツー・メイク・ピース」

(媾和意思の表明) となっていた。

広田外相は、また、四条件の説明の形で細目九項を概括的に読みあげ、
大使ディルクセンに筆記させた。

大使ディルクセンが、条件加重を指摘して、「中国政府が受諾する可能性は
極度に少ないと思う」 旨を述べると、広田外相は、「戦況の変化」 と

「世論の圧力」 でこれ以外の条件は認められない、と応えた。

さらに外相は、交渉妥結までは日本側は作戦をつづける、
中国側の回答は年内に期待する、といった。

「それは無理でしょう。本使はベルリンに打電し、
ベルリンが漢口の駐支大使に電報して、また逆の経路をたどるほかに、

中国側の検討の時間も必要です。まず一月五、六日までは待たねばなりますまい」

「その程度なら……結構です」 広田外相は大使の勧告をうけいれ、
大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。》

12月22日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/10 18:54 投稿番号: [240 / 2250]
十二月二十二日

軍事警察本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。
日本側でも難民委員会をつくることになった由。

従って難民はすべて登録しなければならない。
「悪人ども」(つまり中国人元兵士) は特別収容所に入れることになったといっている。

登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。


そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、
つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。

あのあたりはもう安全区に入っている。
そうなったらわが家も危ない。


仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのを
みつけた (たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。

中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。


わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。

オフィスと庭も見わたすかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされて
だれもが血のように赤く染まっている。今数えただけでも、七カ所で火災がおこっている。

私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には
発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。

ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ!
それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。

政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、
おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、

その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。


今日の午後、酔っぱらった日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。
それを知って助けにいったクレーガーとハッツの二人も襲われた。

ハッツは椅子を使って身を守った。だが、
クレーガーのほうは日本兵にしばられそうになった。

やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうはならなかっただろうが。
フィッチと私が車でかけつける途中、むこうから二人がもどってくるのに出くわした。

フィッチと私は二人をのせてただちに現場にむかった。
するとその兵隊は、偶然通りかかった日本の将校から平手打ちを食っていた。

そばには日本大使館の田中氏もいた。
その日本兵はどうやらクレーガーたちに不利になるような報告をしたらしい。

しかし、将校はかまわずなぐり続け、ついにそいつは目に涙をためた。
この事件は我々にとって悪い結果にはならなかった。

だが、いつもそうなるとはかぎらない。


*   「安全区の中・・・、市民の死体がたくさん沼に・・・
(たった一つの沼だけで三十体あった)。

ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられて」

   これを見て、ラーベ達は疑わないのだろうか?
   日本軍は便衣兵を摘発して連行し、別の所で処刑していたはず。

   安全区の中でそんな事をしたら市民に見られるだろう。
   かつ、それでは何人殺したか上層部が確認できないから、戦果として計上できない。

   果たして、誰がやったものやら。

12月21日 和平案の独逸大使宛回答文2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/09 18:47 投稿番号: [239 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 465〜466p

    日支媾和交渉条件細目

一   支那ハ   満洲国ヲ   正式承認スルコト

二   支那ハ   排日及反満政策ヲ   放棄スルコト

三   北支及内蒙ニ   非武装地帯ヲ   設定スルコト

四   北支ハ   支那主権ノ下ニ於テ   日満支三国ノ   共存共栄ヲ   実現スルニ

   適当ナル機構ヲ設定   之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ   特ニ日満支経済合作ノ

   実ヲ挙クルコト

五   内蒙古ニハ   防共自治政府ヲ   設立スルコト   其ノ国際的地位ハ

   現在ノ外蒙ニ同シ

六   支那ハ   防共政策ヲ確立シ   日満両国ノ   同政策遂行ニ   協力スルコト

七   中支占拠地域ニ   非武装地帯ヲ設定シ   又   大上海市区域ニ就テハ

   日支協力シテ   之カ治安ノ維持   及   経済発展ニ当ルコト

八   日満支三国ハ   資源ノ開発、関税、交易、航空、通信等ニ関シ   所要ノ協定ヲ

   締結スルコト

九   支那ハ   帝国ニ対シ   所要ノ賠償ヲナスコト


  附   記

  (一)   北支内蒙   及   中支ノ一定地域ニ   保障ノ目的ヲ以テ   必要ナル期間

    日本軍ノ駐屯ヲナスコト

  (二)   前諸項ニ関スル   日支間ノ協定成立後   休戦協定ヲ開始ス

支那政府カ   前記各項ノ約定ヲ   誠意ヲ以テ実行シ   日支両国   提携共助ノ

我方理想ニ   真ニ協力シ来ル   ニ於テハ帝国ハ   単ニ右約定中ノ   保障条項ヲ解消

スルノミナラス進テ   支那ノ復興   及   其ノ国家的発展   国民的要望ニ

衷心協力スルノ   用意アルコトヲ茲 (ここ) ニ闡明 (せんめい) ス


  別紙

(一)   媾和交渉条件中   保障条項タルモノ左ノ如シ

   一   第三項ノ非武装地帯

   二   第四項ノ折衝ニ当リ   保障ノ目的ヲ以テ   設定セラルヘキ特殊権益   及

    之カ為存置ヲ 必要トスル機関

   三   第七項ノ非武装地帯

   四   附記 (一) 及之ニ伴フ軍事施設、主要交通ノ管理拡充ニ関スル権益

  (二)   媾和ニ関連シテ廃棄スヘキ約定

   一   梅津・何應欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、上海停戦協定

   二   保障事項ノ解消ト同時ニ従来ヨリ有スル対支特殊権益

    (例へハ治外法権、租界、駐兵権等ノ如シ)ノ廃棄ヲ考慮ス



*   ここでは、梅津・何應欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、
   上海停戦協定や治外法権、租界、駐兵権なども廃棄しようと言っている。

   中国側や反日日本人は、この時の条件を過酷と言っているが、
   こんなお人好しの条件があるだろうか。

   付加した条件としては、賠償金が加わった事くらいだろう。
   あとは、前の条件とほとんど変わらない。

12月21日 和平案の独逸大使宛回答文1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/09 18:39 投稿番号: [238 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 464〜465p

日華和平交渉ニ関スル在京独逸大使宛回答文
          昭和十二年十二月二十一日閣議決定

本月七日   貴大使ヨリ   本大臣ニ対スル   口頭御説明   並ニ   同日附覚書ニ依 (よ) ル

日支事変ノ   和平直接交渉ニ対スル   貴国政府ノ好意的御配慮   及   在支貴国大使ノ

御努力ハ   本大臣ノ感佩 (かんはい) スル所ナリ   然ルニ最近   戦局急速ニ発展シ

事態ニ大ナル変転ヲ   見タル情勢ニ鑑ミ   帝国政府ノ提示セントスル基礎条件ハ

左記ノ如キモノニシテ   支那側カ之ヲ媾和ノ原則トシテ   総括的ニ承認シテ

帝国ニ和ヲ乞フノ態度ヲ   表示シ来ルニ於テハ   帝国トシテモ之ニ応シ

日支直接交渉ヲ   開始スルノ用意アリ   若シ右原則ニシテ   受諾セラレサル場合ニハ

帝国トシテハ遺憾 乍(なが) ラ   従来ト全ク新ナル見地ニ立チ   事変ニ対処スルノ

己 (や) ムナキニ至ル   ヘキコトヲ   含ミ置カレ度 (たし)


     左   記

一   支那ハ   容共抗日満政策ヲ放棄シ   日満両国ノ防共政策ニ   協力スルコト

ニ   所要地域ニ   非武装地帯ヲ設ケ   且   該各地方ニ   特殊ノ機構ヲ   設定スルコト

三   日満支三国間ニ   密接ナル   経済協定ヲ   締結スルコト

四   支那ハ   帝国ニ対シ   所要ノ賠償ヲナスコト


    口頭説明

(一)   支那ハ   防共ノ誠意ヲ   実行ニ示スコト

(二)   支那ハ   一定ノ日限内ニ   媾和使節ヲ   日本ノ指定スル地点ニ   派遣スルコト

(三)   我方トシテハ   大体本年中ニ回答アルモノト   考へ居ルコト

(四)   蒋介石カ   只今内示ノ原則   承認ノ意ヲ表明シタル上ハ   独逸側ニ於テ

    日支双方ニ対シ   停戦ノ慫慂 (しょうよう) ニアラスシテ   日支直接交渉方ノ

    慫慂ヲ   為サルル様致度 (いたしたし)

(五)   独逸大使ノ質問ニ応シ   只今内示ノ原則ヲ   一層具体化セル条件トシテ

    我方ニ於テ   考慮シ居ル所ヲ   御参考迄ニ   申上クレハ   別紙ノ通ナリ

   (極秘トシテ)

つづく

和平案改訂会議で異論続出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/08 16:16 投稿番号: [237 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 256〜257p

参謀本部の思想は、政府、陸海軍省の大勢的考えとは相違し、
こんごの政略方針の確立にあたっては、基本的な立場で対立せざるを得なかった。

まっさきに、政府側との衝突が具現したのは、
ドイツを仲介にする対中国和平条件についてである。

和平交渉は、蒋介石側が北支の宗主権、領土保全、第三国との協約尊重などを
前提にして原則的にドイツのあっせんを受諾し、

日本側が提示した条件にもとづいて交渉に応ずる意向を表明している。

南京陥落は、この和平条件も大きく湾曲させた。

   「かかる条件で国民が納得するかね」

と、内相末次信正海軍大将が戦闘にたって条件の加重的修正を主張した。

   「犠牲ヲ多ク 出シタル 今日、斯クノ如キ 軽易ナル条件ヲ 以テシテハ、

   之ヲ 容認シ難シ」

外相広田弘毅がそうあいづちをうつと、同意、と陸相杉山元大将も応じ、
首相近衛文麿が、つけ加えた。

   「大体、敗者トシテノ 言辞 無礼ナリ」


このような雰囲気で、十二月二十一日、「日華和平交渉ニ関スル在京独逸
大使宛回答文」 の形で和平条件が閣議決定された。

南京からは、主力攻撃部隊のほとんどが転進したころである。

条件は、防共政策の採用、非武装地帯の設置、経済協定の締結、賠償の支払いの
四つを主軸にし、満州国承認をふくむ細目九項が付属していた。

前文には、戦局の 「進展」 と事態の 「変転」 によって前回の条件を
修正した旨を述べ、次のように強調されていた。

   「支那側ガ 之ヲ 媾和ノ条件トシテ 総括的ニ 承認シテ、 帝国ニ和ヲ

   乞フノ態度ヲ示シ来ルニ 於テハ……日支直接交渉ヲ 開始スル用意アリ」




*    和平案本文は次で。

戦争長期化へのあきらめ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/07 16:10 投稿番号: [236 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 254〜256p

南京陥落をむかえた日本では、しきりに戦勝ムードが強調されたが、
政府、軍幹部の多くは、一致して別の想いにさそわれていた。

「戦争長期化へのあきらめ」   −   であったというのが、
陸軍省軍事課長田中新一大佐の回想である。

たとえば、内閣書記官長風見章によれば、当時の首相近衛文麿は、こんごの
「日中戦争」 の見とおしについて、次のような判断をくだしていた、という。

「国民政府はやがて一地方政権に転落するであろうから、日本が長期戦にひきずり
こまれる心配は少なく、新政権の育成により時局収拾の道がひらかれる」

だが、かりに新政権による時局収拾が可能になるにしても、
それは、一地方政権に転落した蒋介石政権が完全に崩壊するか、降伏するか、

どちらかになる場合であり、それまでは戦争はつづかざるを得ない。
つまりは、「長期戦」である。

軍事課長田中大佐も、新政権育成に賛成する、長期戦論者である。


ただし、近衛首相とその意見に同調する政府の大部分が、南京攻略で〝勝った〟との
楽観にたっていたとすれば、大佐は、むしろ、悲観を前提にして考えていた。

世界は、明らかに第二の世界大戦にむかって歩をはやめている。

ドイツ、イタリヤにたいする米、英、ソ連という陣営がはっきりしており、
日本が前者のグループ寄りであれば、中国は後者の陣営にくみこまれている。

「究極するところ、容共抗日をあくまで固守する国民政府は、
ソ連および米英の傀儡政権であり……国際連盟や米国の態度は、

日中抗争を長期化する有力な背景をなしていた」
いいかえれば、蒋介石は 「日中戦争」 を中止できない環境にあるとも、いえよう。


となると、日本が中国に地歩を確保するためには、
すでに中国が 「西北共産支那」 と 「国民政府支那」 にわかれていると考えれば、

占領地を 「親日支那」 にして持久する以外に道はないであろう。

「百年かかっても新興支那を建設して、これと日支関係を根本的に調整することが、
基本的目標とならざるを得ない」

この近衛首相の〝楽観的新政権論〟と、田中大佐に代表される〝悲観的新興支那論〟は、
いちはやく、南京陥落の日に、北京に誕生した「中華民国臨時政府」

(行政委員長王克敏)として実現していた。

政府、企業、さらには一般国民も、戦勝と新政権の発足によって北支が
〝第二の満州国〟 になるものとみこみ、進出をきそいはじめている……。


参謀本部、とくに次長多田駿中将と第二課 (作戦、戦争指導) は、しかし、
日本の国力にそぐわない長期戦に反対であり、新政権の育成などというまわり道をせず、

現に中国の統一政権である蒋介石政府と講和して事変を終結すべきだ、と判定していた。

「此ノ時機ヲ失シタラ   愈々長期戦ニ陥ルカラ、 多少ノ不満ヲ忍ンデモ、
媾和成立ニ導クベシ」

というのが、次長多田中将の 「信念」 でもあった。

角良晴のとんでも証言

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/06 18:31 投稿番号: [235 / 2250]
松井大将の副官角良晴はユウ江門や下関にある大量の死体を見て、
日本軍が虐殺したと勝手に思い込み、戦後とんでもない証言をしました。


それを、板倉由明氏がまとめられていますので、引用します。
『本当はこうだった南京事件』 288〜290p

《角証言とは、どんな内容であろうか。角の書簡数通 (昭和五十八年末より) 及び
編集長・高橋登志郎氏との問答 (昭和五十九年十一月) から、簡単に要約してみよう。

①   南京大虐殺は確かにあった。それは自分の証言するこれ一つだけで、
   他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。

②   日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。

③   日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。

④   揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
   避難民の城内から下関への通行は自由であった。

⑤   渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
   最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。

⑥   結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。

⑦   十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
   下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。

   課長・長勇中佐は簡単に 「ヤッチマエ」 と命令した。

⑧   角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。

⑨   一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。
   角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。

⑩   十七日、十八日、十九日と角は三度下関を視察したが、ユウ江門から揚子江に出て
   (中山碼頭) 右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、

   ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。

⑪   二十日、松井軍司令官と角は自動車で下関に行き、右折して河岸道の死体の上を
   静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。

⑫   最初の電話は第六師団参謀から、二度目は殺害命令を不審に思った
   下野一霍参謀長からと思う。下野の回想録 (未発見) には

   「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、このことで
   谷寿夫師団長の死刑は間違いである」 と述べられているはずである。》


これの間違いは、これまで私が書いてきた事を読んでおられる方には一目瞭然でしょう。

②は言うまでもなく間違い。彼はこの時、蘇州にいて南京を知らない。
③は、中国軍兵士が船を求めて下関を右往左往したのであって住民ではない。

④   門は通行不自由だった。
⑤   船がないので渡し賃も何もない。

⑦   17日は入城式   方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
   そして、この時   第6師団は下関にはいない。

   第6師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
   仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?

   そもそも、長勇は上海派遣軍の参謀で、第6師団は第十軍所属、
   第6師団が上海派遣軍にお伺いを立てる事自体あり得ない。

従って、この話は全くのナンセンス。長勇の 「ヤッチマエ」 も成り立たなくなる。


彼は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に解釈し、罪の意識から、
このような虐殺話を夢想したのでしょう。   戦後のいい加減な人の作り話も加えて。


愚か!

12月21日 松井大将中国兵の死体に涙す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/05 18:42 投稿番号: [234 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』142〜143p

《松井方面軍司令官が下関とユウ江付近を視察したのは、十二月二十一日朝十時である。
下関やユウ江付近及び市内視察は十八日に予定していた。

しかし、角は 「治安が悪く警備に責任がもてない」 と偽って、外に出さなかった。
本当は市内に沢山の死体が遺棄されていて、松井に見せたくなかったのである。

二十一日になって、業をにやした松井はついに怒り、
「おれは一人でも行く。車を用意せよ!」

と副官の角に命令した。やむなく車を出して乗せるが、
角はなるべく死体が見えない位置に座って同行した。


それでも死体が見える。
そのとき、角は傍にいる松井方面軍司令官のようすに気づいた。

彼は遺稿集の中で、

「総司令官は、モノを言わず、ただ泣いておられた。
下剋上の思想が、このような事態になったと思う」

と書いている。
また、松井は二十一日の日記の中に、視察した感想をこう記している。

「狼藉の跡のままにて死体などそのままに遺棄せられ、今後の整理を要するも、
一般に家屋の被害は多からず、人民もすでに多少ずつ帰来せるを見る」


松井がつぎの作戦のため南京をはなれることになるのは二十二日である。
入城したのが十七日で、わずか五日間の滞在だった。

あとは派遣軍が治安にあたった。
特務部や領事官たちに政治工作、治安工作を頼んでいる。》



*   松井大将も角副官も勘違いしている。
   彼らは、ユウ江門や下関にある大量の死体を日本軍が殺したものと錯覚している。

   本当は中国軍が脱出の時の混乱で殺しあって出来たものなのだけど。
   それを誰も知らないから、てっきり日本軍がやったと勝手に決め込んでいる。

   そして 「下剋上の思想が、このような事態になったと思う」 と書いてしまう。

   角副官はこの思い違いから、戦後とんでもない証言をしてしまう。

12月21日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/04 18:38 投稿番号: [233 / 2250]
午後二時、ドイツ人やアメリカ人全員   −
つまり外国人全員が鼓楼病院前に集結して、日本大使館ヘデモ行進を行った。

アメリカ人十四人、ドイツ人五人、白系ロシア人二人、オーストリア人一人。
日本大使館あての手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の三点を要求した。


一、街をこれ以上焼かないこと。

二、統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること。

三、食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序がもどるよう、必要な措置をとること。

デモ参加者は全員が署名した。


われわれは日本軍の松井石根 (いわね) 司令官と会談し、全員が彼と握手した。
大使館では私が代表し意見を言い、田中正一副領事に、

日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。

領事は微笑みながら否定したが、
書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束してくれた。

だが第三点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、
われわれのことなど知ったことではないというのだろう。


そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。
彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ピーに乗っているのだが、

まだ上陸を許されていない。

これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。ローゼンはじめ、
シャルフェンベルク、ヒュルターの両人がどうしてピーに乗っているのかわからない。

福田氏にそのことをいうと、ジャーディン社の船が爆撃されて、
沈没したのではないかと心配していた。


  ローゼン書記官よりジョン・ラーベあての手紙
  南京を目前にして、一九三七年十二月十九日

  イギリス砲艦ピー船上より

  親愛なるラーベ氏、

  昨日から南京市を目の前にしながら上陸することができません。
  皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうか、お知らせください。

  なお、ここからは大使あてに無線で連絡がとれます。
  当方にもいろんなことがありました。

  このことはいずれお目にかかった折にお話しします。

  この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、
  とにかくやってみます(願わくは私への返事もうまくいくといいのですが)。

  よろしく。ハイル・ヒトラー!             敬具
                              ローゼン

12月21日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/03 18:38 投稿番号: [232 / 2250]
十二月二十一日

日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。
たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市中の六カ所で火が出た。

夜中の二時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。
わが家と中山路の間にはもう一ブロックしか家が残っていない。

もうすこしでそこに燃え拡がるところだったが、運良く難をのがれた。   ただし、
火花が舞い、飛び散っているので、藁 (わら) 小屋とガソリンはますます危険な状態だ。

気が気ではない。何としても、ガソリンだけはどこかほかへ移さなくては。


アメリカ人の絶望的な気分は次の電報をみるとよくわかる。

   南京、一九三七年十二月二十日、在上海アメリカ総領事館   御中。
   重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。

   状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。   マギー、ミルズ、
   マッカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。

   一九三七年十二月二十日南京日本大使館   御中。
   海軍基地無線を通じて転送を要請します。
                            M・S・ベイツ

ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。
だがこれでは何もかもつつぬけだ。日本は承知するだろうか?

それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。

私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、家と車のドイツ国旗を
これ見よがしにつきつければ、いちおうのききめはあったが、

アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。

今朝早く、日本兵に車をとめられたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、
相手はすぐに道を空けた。


それにひきかえ、トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。
運良く弾はそれた。

だが、我々外国人に銃口が向けられたということが、そもそも言語道断だ。
これでは、アメリカ人の堪忍袋の緒が切れてしまうのもむりはない。

しかもかれらは何千人もの婦女子を自分たちの大学に収容して面倒を見ているのだ。

昨日、スマイスはこんなことをいっていた。
いったいいつまで、ハッタリをきかせていられるのだろうか。

その気持ちはよくわかる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、
妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。

安全区は血の海になるだろう。

つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否された
という知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。


*   ラーベは日本軍が街を焼きはらっていると思い込んでいるが、
   もはや、日本兵は殆どいない。

   南京からは、殆どの兵が去って、居るのは警備の第16師団と安全区掃蕩の任務が
   解除されていない第9師団歩兵第7連隊とこれから去る部隊のみ。

   夜中に放火して、日本軍に何の利益があるだろうか?
   ラーベ達の思い込みは激しい。


*   「トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃された」

   日本軍が外国人を狙撃して何の意味があるのか?
   日本兵が少なくなったから、便衣兵が活動しやすくなったのかも知れない。

12月20日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/02 18:36 投稿番号: [231 / 2250]
陸軍
第十軍の杭州作戦

第百一師団、・・・・師団長は歩兵一大隊から成る捜索隊をして、二十日湖州を
出発してシンガー山付近を捜索させ、主力を二縦隊及び左側支隊に区分・・・

(戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 431P)


幕府山の山田支隊   浦口へ移動

両角業作   手記
二十日   晴   九時半出発下関を経て浦口に渡河。

山田メモ
二十日   下関より浦口に向う。途中死体累々たり、十時浦口に至り国東支隊長と会見。

(鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 旧195p)


*   下関より浦口に向う途中の累々たる死体は、
   山田支隊が関与していない事は、明白だろう。

   勘違いしている者は、山田支隊が、下関から浦口へ、捕虜を送ろうとして、
   国東支隊に撃たれて、下関で虐殺した、としている。

   が、だったら、山田旅団長はこんな書き方をしないだろう。
   第一、彼らは、前日死体を片づけている。

   この死体は、基本的に中国軍の同士討ちによって生じたもの。


海軍

『ドイツ外交官が見た南京事件』 114pより

ドイツ外務省 (ベルリン) 宛、発信者 ---- ローゼン (署名)
一九三八年一月二〇日付南京ドイツ大使館分館第二号

(略)
  12月18日から20日にかけて、われわれが南京城手前の英国軍砲艦ビー号に
  乗船していたおり、日本海軍の近藤少将が英国軍ホールト提督にたいし、

  「南京から長江を下った先の大きな中州 (八卦洲) にまだ3万人の中国兵がおり、
  かれらをこれから一掃せねばならない」 と通告してきた。

  日本側が 「一掃」 ないし 「掃討」 と称するこの行為は、武装解除された敵の
  殺害を指しており、人道的な戦争遂行の原則に反する。


*   海軍の中州掃蕩は、恐らく、山田支隊が17日夜、幕府山北岸から八卦洲へ
   中国人捕虜を逃がそうとして、撃たれた事から、

   武装中国兵の存在が判り、検討されたのだろう。

   武装解除されてない敵の掃蕩だから、戦闘行為であり、
   人道的な戦争遂行違反とは関係ない。

12月20日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/01 16:09 投稿番号: [230 / 2250]
十二月二十日

委員会本部に日本人将校がきていた。
南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。

このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。
私は十六人世話した。

昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、
五中国ドル支払われるという約束だった。

これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。
中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。


寧海路に着いてから、棲霞山の江南セメント工場のシンバーグ氏と知り合った。
けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。

ラジオで、南京は完全に落ち着いており、
電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。

いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。
日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。

それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを、
日本軍のトラックに拾われたという。

おそらく北門から入ったのだろう。問題は、どうやって帰るかだ。


午後六時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。
守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。

さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、
一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。

守山氏はいった。
「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」

いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。
そのなかにはYMCA会館も入っている。

これは故意の、というよりむしろ当局の命令による放火ではないだろうか。


ブリキをうちつけておいたわが家の正門を、留守中に日本兵が銃剣でこじ開けようと
したらしい。結局開かなかったものの、銃剣の傷が残っているのと

ブリキ板の四隅が歪んでいるのがなによりの証拠だ。
できるだけまっすぐになるよう、扉をハンマーでたたかせた。

銃剣のあとは残しておくことにしよう。これも何かの記念だ。


クレーガーがシンバーグをつれて、韓の車を貸してもらえないかと頼みにきた。
シンバーグを送っていくつもりなのだ。

韓は承知したが、私は内心よせばいいのにと思っていた。
車がダメになるとはいわないまでも、タイヤがすり減ってしまうにきまってるからだ。

中国人の訴えを信用するな2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/31 16:24 投稿番号: [229 / 2250]
つづき

衆怨が沸騰するに及んでは、則ち一面の詞 (ことば) を摂 (と) りて、
教士 (せんきょうし) を慫慂 (そそのか) して官に謁 (めんかい) して

剖白 (べんめい) せしめ、あるいは情節を添砌 (つみかさ) ねて
教士に (官に) 手紙で申し送るよう求めるのである。

教士は性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、教民が実在 (じっさい) に
いじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。

そのじつ、ひとたび対質 (といただし) を経れば、事みな虚無なり、》


とあります。   ようするに、官憲は

  「宣教師は、心が素直なので、中国人の嘘・デタラメが分らず、
  それを信じて、役所に言いつける、困ったものだ」

とまー、こう言っているわけです。


この宣教師を   南京のラーベたちに

訴えているキリスト教徒を   南京の中国人に

何とかしろと言われている清国官憲を   日本軍当局に置き換えて見れば

全く同じパターンだという事が判ります。

清国官憲は   訴えているキリスト教徒 (中国人) は   嘘つきだから   信用するな
と言っているのです。

同様に考えると、ラーベたちに訴えている南京の中国人の言も信じてはいけない
ということになります。


>教士は性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、教民が実在 (じっさい) に
いじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。

そのじつ、ひとたび対質 (といただし) を経れば、事みな虚無なり<


これを南京に応用しますと

外国人は、性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、南京市民が実在 (じっさい) に
いじめられたと思って、遂に日本軍と難を為す。

という所でしょう。

  そして、現在の日本人も性直で善人心満載ですから、疑うことを知りません。

  清国の官憲ですら、「信じるな」 と言っていた事を信じて、
  未だに間違いを繰り返しているわけです。

「嗚呼!」


かくして、宣教師が正しいと思って 「悪いキリスト教徒」 を庇い、
本当の被害者を処罰させたりした事が、一般民衆の恨みを買い、

被害者らが反キリスト教団体を結成、それが拡大して義和団へと発展していったのです。

中国人の訴えを信用するな1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/31 16:14 投稿番号: [228 / 2250]
12月19日のラーベの日記には、難民からの訴えが載っていました。
こういうのを見ると、我々日本人や西洋人は素直に信じてしまいます。


同じ様な訴えは義和団事件の前にもありました。


キリスト教徒が、「酷い目に遭わされています、助けて下さい」 と宣教師に訴え、
宣教師が地方の役人に談判して、キリスト教徒を助けようとします。

ところが、調べてみると、事実は逆だったのです。


佐藤公彦著 『義和団の起源とその運動・中国民衆ナショナリズムの誕生』
の 342P〜343P によりますと、

《   宣教師のビュッカーは、エン城県で衆人五百余が掲帖 (ビラ) を貼り出して教会を襲い、
教民を拉致殴打し、物品を破壊、掠奪して、教民に圧迫を加え、

婦女には自殺する者まで出た、沂水県王荘教会 (フライナデメッツ、バーテルス担当)
も以前に被害に遭っているが、ここにも不穏な動きがある、と訴えてきた。


官側が調査をしてみると、こうした事実はなく、むしろ中国人教民の側が、
賭博のかたに相手の息子の嫁を取ろうとして、この女性を自殺に追い込んだり、

作物や物品が失くなると、平民に罪をきせて銭を罰したりしていて、
平民と教民との間の怨念が積もり積もっていたこと、それで平民側が、

『天主教はエン邑北郷の荘家店などの処で教堂を設立し、妖言をもって衆を惑わし、
勢 (力) を倚 (かさに) きて人を訛(あざむ) いている。

(やつらは) 倫常ともに無く、男女 (の間) は混乱している。おのおの団練義勇を
興して賊窩を剿除し、もって妖気を靖んじよう』 という掲帖を出しただけであった。

こうした事態が、「通事(つうやく)」 によって歪曲増幅されてドイツ人宣教師の耳に
伝えられ、ビュッカーによる前述の如き訴えになったらしい。


官側の言い分によると、これらはみな

「通事と教民がひとたび西教 (カトリック) に入るや、目に官・長も無くなり、
中より洋人を播弄 (まるめこん) で官と難を為さしめ、

以てその勢力をかさに着て人を欺く計りごとを遂げ」 るためである。

「民人がひとたび洋教に入るや、……およそ戸婚・田産・銭債の細故で、
たまたま一度その欲を遂げざることがあると、司に告げずして通事に告げるのである。

通事はまたまた本国の民人に係るが、洋人をもって護符となし、ただちに出でて
平民を恫嚇 (おど) し、必ずや教民の欲を遂げて而してのちやむのである。

これをもって強者はあるいは言に怒り、懦者はあるいは色に怒る。

つづく

12月19日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/30 18:37 投稿番号: [227 / 2250]
十二月十九日

わが家では静かに夜が更けていった。寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、
二十人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。

ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。
広州路八十三〜八十五号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。


   南京安全区国際委員会   御中

   ここに署名しました五百四十人の難民は、広州路八十三〜八十五号の建物の中に
   ぎゅうぎゅうに押しこまれて収容されています。

   今月の十三日から十八日にかけて、この建物は三人から五人の日本兵のグループに
   何度も押し入られ、略奪されました。

   今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、
   現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。

   比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。
   トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。

   これまでに三十人以上が暴行されました。
   女性や子どもたちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。

   この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!
   どうか、われわれをお助けください!

      南京にて、一九三七年十二月十八日
                                   難民一同


いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。
これでは発電所を復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。

今日そのことでまた菊池氏がやってきた。私はいってやった。
「作業員は逃げてしまいましたよ。そりやそうでしょう、

私たちヨーロッパ人さえひどい目にあっているというのに、
自分たちが安全なわけがないと思ってるんですよ」

  すると菊池氏はいった。
「ベルギーでもまったくおなじ状態でした!」


  十八時
日本兵が六人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。
なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。

だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、
すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。

おまえらにはそれで十分だ。なにも扉を開けてやることはない。

わが家の南も北も大火事になった。水道はとまっているし、
消防隊は連れていかれてしまったのだから、手の打ちようがない。

国府路ではどうやら一ブロックがそっくり燃えているようだ。空は真昼のように明るい。
庭の難民は、三百人だか四百人だか正確にはわからないのだが、

筵(むしろ)や古いドア、ブリキ板で掘ったて小屋をつくって、
少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。

だがこまったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。
禁止しなければ。大きい石油缶が六十四個もおいてあるので、気が気ではない。

けっきょく二カ所だけ、料理をしても良い場所をきめることにした。


*   大量の日本兵が去って行ってるというのに、南京では、不埒な“日本兵”が
   沢山徘徊しているとは。   不思議な現象だ。

   では、警備に残っている第16師団が犯人なのだろうか?
   しかし、後に、彼らは天谷支隊と入れ替えられる、それでも、状況は変わらなかった。

   では、この“日本兵”は?

12月19日 陸軍の移動と幕府山の後始末

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/29 18:34 投稿番号: [226 / 2250]
南京退去

児島襄著『日中戦争4』244p

以上 (慰霊祭終了) −で、南京占領の儀式は終了し、上海派遣軍も第十軍も、
翌 (19) 日から南京をはなれはじめ、

十二月二十二日には、南京の日本軍は警備担当の第十六師団だけとなった。


戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』430p

十九日、軍は、第十八師団は安吉−余坑道方面から、第百一師団は武康、徳清方面から、
第一後備歩兵団は嘉興−杭州道方面から、杭州に向かい攻撃するよう命令を下達した。

431p
第百一師団主力は、十九日湖州付近に集結した。



幕府山の山田支隊

鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 194p
十九日には、山田旅団は浦口に移動せよとの命令が届いた。


山田メモ (鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 195p)

十九日   捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始末せしむ、
軍から補給あり、日本米を食す。


山田支隊第65連隊大寺上等兵の陣中日記

[12月19日]
午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。

石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、
午後二時までかかり業を終わる。昼食は三時だ。


両角業作   日記
  昭和十二年   十二月   十九日   次期宿営地への出発準備

委員会が記録する日本軍の暴状

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/28 18:21 投稿番号: [225 / 2250]
12月13日から18日まで

児島襄著『日中戦争4』249〜250p

《「安全区」 委員会が記録する日本軍の暴状は、
ほとんどが強姦と掠奪にかんするものであり、

中国側がいう 「大屠殺期」 にあたる十二月十二日から十二月十八日までの間に、
委員会が耳にした日本軍によって殺された中国人数は、十四人だけである。

  強姦例は、強姦致死二人をふくむ百三十六人の被害報告をうけている。

  掠奪として記録されているのは、

「自動車五輌、自転車六輌、オートバイ数輌、牝牛二頭、ブタ一頭、小馬数頭、

米三袋、フトン五百枚、手袋二、牛乳一びん、砂糖ひとつかみ、鍋一個、

ゴミ箱一、万年筆六本、灯油半缶、ローソク若干」


なんとも、中国側が 「悪虐非道」 と強調し、また占領軍として〝全権〟をふるえる
日本軍の〝掠奪〟としては、みみっちさ(?)を感得させられる品目である。》


*   ラーベの日記には、もっと多く書かれていたような気もするが、
   公式記録はこうなのかも知れない。

   という事は、ラーベ達外国人は日本軍による捕虜処刑や便衣兵処刑を、
   不法な殺人とは見ていないということか。

   気に食わないけれど、市民虐殺とは別と見ているという事なのだろう。

12月18日 和平案改訂会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/27 18:40 投稿番号: [224 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 463〜464p

《十八日の臨時閣議でも、再び各閣僚から強硬な意見が出されたので、
結局、原案を事務当局で再検討することになった。

このようにして時日を遷延し、かつこの間、日本政府が強硬な声明等を発していたので、
トラウトマン大使が非常に心配している旨の情報がオット少将からもたらされた。


注 (原文注)   当時、文相であった木戸幸一の覚書によれば 「十七日の閣議に出席し、
   提案された和平条件案をみると、あまりにも詳細なので、

   これをそのまま相手方に示すことは、逆用され暴露されるおそれがあると
   述べたのが契機となり種々の論議に発展した。

   十八日の閣議では、これを数項目にまとめ、
   これで蒋の意向を探らせることに決定した」 と。また、


   「事変の早期解決には誰も異存ないが、和平達成の案件、
   その手段などについては必ずしも意見が一致しておらず、

   陸軍内部においても強気と弱気が相錯綜しており、
   部外からはその真意を捕捉し得ない有様であった。

   トラウトマン工作に対しても、   外部から見ると
   陸軍省と参謀本部では必ずしも足並が揃 (そろ) っておらず、


   参謀本部においては多田次長を中心に是が非でもこの機会に
   和平を成立させたいと熱心に画策しているように見えたが、

   陸軍省は必ずしもこれに同調せず、それが会議の論議等にも現れているようにも
   思われ、この間に処して政府は政策の決定に十分な自信を得ることができず、

   苦しんで荏苒 (じんぜん) 時を過すに至ったのが実情であった」 と。》



*注    荏苒:   ジンゼン     歳月が長引くさま。のびのびになる事。

12月18日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/26 18:42 投稿番号: [223 / 2250]
十二月十八日

最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、
残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。

塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。
なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。

私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだ
いくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。

兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがあった。
そのたびに近所の家に駆けつけた。

日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。
その家はすでに根こそぎ略奪されていた。


日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、
目と鼻の先で車が盗まれたこともあった。

何とか苦労して取り戻すことができたが。
将校の言うことになど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。


中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。
言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!

私は発電所の復旧の件で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。
するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。

さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に戻った。
家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。

すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。
妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。

われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。
将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。


ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。
私の留守に押し入られ、物をとられたという。

私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。
「一人で先にいってください」。

次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。
しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。

「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。
一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」


  十八時

危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人は
すでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。

私はこいつをただちにつまみ出した。
もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。

夜八時にハッツがきた。日本の警部といっしょだ。
かなりの数の警官をトラックにのせてつれてきている。

金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。
日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。

・・・・
もらった貼り紙はあまり役に立たない。兵士たちはほとんど気にしないのだ。



* この日は慰霊祭をやっているというのに、
  勝手に出回って悪さをしている日本兵がいるとは、実に不思議だ?

  翌日から、第十軍も上海派遣軍の大部分も南京を去りだす。
  その準備をしなければならないのに、そんな悪さをしてる暇があるとは?

  犯行をやってるやつは移動命令とは無縁なのだろうか?

12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/25 16:28 投稿番号: [222 / 2250]
松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな間違いが生じたのだろうか。


板倉由明著 『本当はこうだった南京事件』 305〜308p

《よく読めば 『上海時代』 での慰霊祭の描写には十二月のものと二月のものが
混合している。松本氏が出席していない十二月の描写は、

前田氏など出席した同盟記者からの伝聞であろう。

その前田氏の 『戦争の流れの中に』 には、日記にもないこの場面が、同様に、
見てきたように記されている。

ジャーナリストの面目躍如だが、同盟系記者の錯誤だけを責めてはいけない。
張本人の松井大将自身が両者を混同しているのである。


昭和二十三年十二月九日、巣鴨拘置所で処刑を控えた松井大将は
教諭師・花山信勝氏に次のように語ったという。

「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、せっかく、

皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。
ところが、このあとでみなが笑った。

はなはだしいのは、ある師団長の如きは 『当り前ですよ』
とさえ言った。」(花山信勝・『平和の発見』)


この文の中での間違いは、二月には柳川中将など第十軍関係者は参列しておらず、
「ある師団長」 とは巷間中島中将と目されているが、すでに北支に移動しており、

これは一月二十四日、上海での転進挨拶の際の暴言の混同であろう。
・・・

言うまでもなく、松井大将は昭和二十三年十二月二十三日に処刑されており、
『上海時代』 の出版はその二十数年後のことである。

順序で言えば松本氏の錯覚は、松井大将の錯覚から誘導された可能性もある。
つまり松井大将自身が慰霊祭を一回だけ、と錯覚 (半ば故意?) していたのかもしれない。


その最大の原因は、東京裁判対策の誤算であろう。
松井大将は裁判に出頭する前に弁明資料として 「支那事変日誌抜粋」 を書き、

基とした日記を始末したという。しかし、この日記の中で、なぜか残った
昭和十二年十一月一日以後の分は、田中正明氏が発見されて、

御殿場の自衛隊に保管されている。

「日誌抜粋」 は戦後の執筆で、申し開きの目的で書かれたものであるから、
南京事件解明には直接役にたたない。


しかし東京裁判に臨むにあたっての、松井大将の 「傾向と対策」 を探る上での
資料としては貴重である。この中で最も力点の置かれているのは、

第三国権益の侵害に対して松井大将のとった措置の弁明で、量として
約四十%を占めている。つまり松井大将は、裁判に於いて

ここが最も攻撃目標にされると考えたのであろう。
中国人に対する日本軍の非行としては、「暴行・掠奪」 が、

ぐっと減って十五%程度に落ちるが、「虐殺」 に至っては全く無いといってよい。
・・・

その 「日誌抜粋」 の 「五、我軍ノ暴行、奪掠事件」 の中では次のようになっている。


「因 (よっ) テ予ハ南京入城翌日(十二月十七日)特ニ   部下将校ヲ集メテ

厳ニ   之ヲ叱責シテ   善後ノ措置ヲ要求シ、犯罪者ニ対シテハ   厳格ナル処断ノ法ヲ

執ルヘキ旨ヲ   厳命セリ。」
・・・この括弧内の日付は一日違う。・・・

推理すれば、全くの記憶違いでなければ、この部分は自己の処置に手抜かりが
無かったことを強調するため、二月の慰霊祭後の訓示を流用したものと考えられる。

・・・
無論、二月に諭した 「非行」 が 「大虐殺」 でなかったことは後述のように明瞭である。

しかし、この錯誤は定着し、その 「意味」 は当初の松井大将の意図と逆に、
あたかも 「大虐殺」 の存在証明と》


されてしまったようです。

12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/24 16:16 投稿番号: [221 / 2250]
板倉由明著『本当はこうだった南京事件』299〜304p

ところで、慰霊祭はもう一回あった。翌昭和十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭
(十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる) である。松井日記は次のように記す。

「嚢 (さき) ノモノハ   戦勝ノ誇ト気分ニテ   寧 (むし) ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、今日ハ只々悲哀其 (その) 物ニ   捉 (とら) ハレ

責任感ノ太ク胸中ニ   迫ルヲ覚エタリ。

蓋 (けだ) シ   南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト   ソノ後地方自治、政権工作等ノ
進捗 (しんちょく) セサルニ起因スルモノナリ。

仍 (よっ) テ 式後参集諸隊長ヲ集メ   予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭 (かいちょく) ヲ促セリ。」


この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)日記にも記されているが、

飯沼日記によればその内容は 「南京入城ノ時ハ誇ラシキ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭又
其気分ナリシモ本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。其レハ此 (この) 五十日間ニ幾多ノ

忌 (いま) ハシキ事件ヲ起シ、戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ此英霊ニ見 (まみ) へンヤ」という趣旨であった。

しかし、この訓示に対する軍人一般の評判はあまり良くなく 「凱旋気相当ニ横溢
シアルハ怪シカラヌトノコトモアリ」 といった批判があり、その夜の晩餐会での

「宣撫ハ兵十人ニ一人ノ支那人ヲ難有ク思ハセヨ」 という要望にも、
「日本兵より支那人が可愛いのか」 という声があったようである。

・・・・
この日、松本氏が深堀 (遊亀、上海派遣軍報道部長) 中佐と南京に居たことは、
『南京新聞』 発行と関連して、前田雄二氏の日記及び 『戦争の流れの中に』

に記されている。
・・・

「南京戦史」 の編集メンバーが初めて松本氏に会ったのは昭和六十一年暮であった。
このとき確認したのは次の四点である。

①   十二月十七日の入城式には参列していない。

②   そのころ南京へ行ったのは一回だけ。

③   汽車で往復した。

④   参列者は五百人から一千人くらい。

これでほぼ二月説が立証されたとみてよい。

①はジャーナリストがメインイベントたる入城式を抜かして、
慰霊祭だけ参列するはずがない。

マスコミ関係者はもちろん、多くの文化人たちが南京に急行した。

②は前田日記によれば二月七日の確証がある。松本は慰霊祭前に、同盟支局で
支局員たちに会えなかった、と 「上海時代」 に記しているが、

これは翌日から発行の 『南京新聞』 の準備に忙殺されていたのである。

③は汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため十二月二十二日からで、入城式、
慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して揚子江を遡行して下関から上陸した。

④の参列者数は十二月十八日には三千人以上は確実だが、二月七日は各部隊が
長以下数名の代表で参列したためほとんどが将校で、五百人程度であった(石松政敏氏談)。


しかし決定的な確証は、防衛研究所戦史部・原剛氏によってもたらされた。

原氏が発見した二月八日の 『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』『チャイナ・プレス』
には正に相当する同盟配信の記事があったのである。

・・・
昭和六十二年三月十六日、この新聞コピーを持参しての再度の訪問で、松本氏は
「間違いなくボクの記事だ」 と記憶違いを率直に認められた。

しかし、松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな大きな間違いが生じたのであろうか。

続く。

12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/23 18:36 投稿番号: [220 / 2250]
多くの本が、松井大将が慰霊祭のあと、

「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、
一挙にして、皇威を墜してしまった」 と

泣いて叱ったと書いています。
そして、「ある師団長などはせせら笑った」 とも。

こういう記述から、松井大将はこの時期南京大虐殺を知っていた。
だから訓示したのだ、と大虐殺の証拠にされているわけです。


ところが、板倉由明氏の調べによると、これは間違いだということです。
彼は、その著 『本当はこうだった南京事件』 日本図書刊行会で

慰霊祭後の松井大将の 「涙の訓示」 は無かった。と言っています。

同書299p

《しかし不思議なことに、参列者の記憶や一次資料によればこの日、
慰霊祭の後に訓示は無い。

例えば 「次イテ軍司令官以上ノ玉串奉奠ヲ以テ式ヲ終ル。
時ニ午後二時四十五分頃ナリ」(第十軍参謀・山崎正男少佐日記)

と泣くも泣かぬもない至極アッサリしたものである。
ご本人の書いた松井日記はもちろん、派遣軍参謀長・飯沼守少将日記、

参謀副長上村利道大佐日記、その他すべて集めた限りの日記にこの 「訓示」
は無い。また、掲載されたはずの英字新聞も、松本氏が 「絶対にあるはず」

とはいうものの、今まで発見されていなかった》

と書いています。


「チョット待て、お前の書いた 『12月18日   慰霊祭と訓示』 の中に、早瀬利之著
『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』 140〜142p   の引用として、

“飯沼守参謀長は、この朝の松井訓辞を、日記にこう記している。”
とあるではないか。」

と言われるかもしれません。


ところが、飯沼守少将日記を子細に調べてみると、これは午前二時の参謀長会議での話で、
日記からは、松井大将の言葉なのか、どうかも、判りません。


原文は

◇十二月十八日
  午前二・〇〇より首都飯店にて参謀長会同。

殿下より方面軍参謀長に伝へよとのこと、
師団長と共に訓示を与へらるることの其内容如何に依りては軍司令官の顔立たす。

(伝ふ) 司令官より老婆心として談話。

とあり、この後に、「例の訓示」 と同じ文章が続きます。

これは、朝香宮殿下が飯沼参謀長に、「師団長と一緒に訓示を与えられたら、
内容次第では軍司令官の顔が立たん」 と方面軍参謀長に伝えよ、と言う話です。

殿下も松井大将もこの場にいたら、こんな言い方にはならないでしょう。

その後に 「(伝ふ)司令官より老婆心として談話」 と来れば、
この場合の司令官は、朝香宮上海派遣軍司令官とも取れます。

仮に松井大将の伝言だとしても、
この場には、松井司令官も殿下もいないのですから、訓示にはなりません。

これは、早瀬氏が、先入観から、訓示と勘違いしたものでしょう。

つづく

12月18日 松本重治氏の慰霊祭参列

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/22 18:37 投稿番号: [219 / 2250]
松本重治著『上海時代・下』246〜249p

翌十八日朝、南京に着いた。・・・
まず 「同盟」 の南京支局を訪れたが、一両日中に再開というので、

「同盟」 の従軍記者たちが臨時に中山路のある空家を占拠していたので、
そこを訪ね、同僚たちを労 (ねぎら) おうとしたが、

居合せたのは連絡員だけで、記者やカメラマンの多くは、取材のため、
八方飛びまわっていて、残念ながら会えなかった。


慰霊祭定刻二時の半時間前に入場せねばならぬので、探堀報道部長とともに、
急ぎ祭場の故宮飛行場へ行った。

その日は曇りで、風は強くはなかったが、膚を刺すような寒さであった。
夜来の小雨が雪と変じ、式場は薄化粧をしていた。

参列部隊は定刻までに整列を終えつつあった。
見れば、祭場の中央には東面して、白布の祭壇がしつらえられ、

祭壇の上には神酒を中に、海の幸、山の幸の供物の数々が供えられ、
その後方には高さ数メートルの四角の白木に

「中支那方面軍陸海軍戦病没将士霊標」 と認 (したた) められていた。
戦役した従軍記者、従軍カメラマンたちも合せ祀られていたのであった。

周囲には白布を垂らした真榊が立ち並び、野戦斎場の簡素な情景の中に、
森厳たるものがあった。


斎主としては、陸軍を代表して松井最高指揮官、
海軍を代表して長谷川 「支那方面艦隊」 司令長官。

両氏が定刻に喇叭の音とともに別れ、祭壇近くに着席した。

一段後方に朝香中将宮、柳川中将、近藤戦隊司令官、
さらに後方に各部隊首脳部将士約五百名が参列していた。

式は神式に則って進められ、松井・長谷川両指揮官の祭文が厳粛に読まれ、
ついで日高参事官が川越大使の弔辞を代読、両斎主の玉串奉奠があり、

その間、陸海軍の喇叭手が吹き鳴らす 「国の鎮め」 のうちに、
参列将士一斉に捧げ銃を行い、慰霊祭はいともおごそかに終った。


私はそれで終ったかと思っていると、松井最高指揮官が、つと立ち上り、
朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説を始めた。

深堀中佐も私も、何が始まったのかと、訝りながら聴いていると、

「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、
一挙にして、皇威を墜してしまった」 という叱責のことばだ。

しかも、老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている。

「何たることを、おまえたちは、してくれたのか。
皇軍として、あるまじきことではないか。

おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、
絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。

それが、また戦病没者への供養となるであろう」 云々と、
切々たる訓戒のことばであった。


私は、心に 「松井さん、よくやったなあ」 と叫び、深堀中佐を顧みて、
「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。

何とかして松井大将の訓戒のニューズを世界に撒きたいのだ。
ぜひとも報導部長の同意を得たい」 と頼むと、深堀中佐は、

「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀からOKをとってくるから、
ちょっと待っていてくれ」 という。

二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、
「参謀は、あまり賛成しないといっている」 というので、私は、

「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、報導部長として、
日本のための最大の貢献になるのですよ。

これを許可しないというほうが報導部長の責任になるのだと考えられないですか」
と詰め寄る。

深掘中佐は、しばし考えていたが、「松本君、君の考え方が正しい。
参謀が何といおうとかまわない。自分は報導部長の責任において、

ニューズの発表、打電を許可する」「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、
少なからず聞いてはいたが、松井大将の話を聞いてみると、現実に、

ずいぶんわるいことをやったらしいではありませんか。
日本軍の名誉回復の一助としたいのです。

ぜひこの電報をやりましょうや」「松本君、やってくれ」。
私は、深掘中佐の手をとって、握手をした。

12月18日 慰霊祭と訓示

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/21 18:39 投稿番号: [218 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 243〜244p

午後二時から故宮飛行場で陸海軍の合同慰霊祭がおこなわれた。

上海から南京まで、日本軍の損害は戦死 「二万千三百余人」、
傷病者 「約五万人」 をかぞえている。

正面にたてられた高さ八メートルの白木の墓標には、
「中支那方面陸海軍戦病没将士の霊標」 と書かれ、

白布をかけた祭壇には、上海からはこんだ供物がならんでいた。

各部隊の代表将兵が整列するころには、白雪が南京を白く化粧し、
式場にも雪片が舞った。

あらためて上官、戦友、部下の死をいたむ一同は、吹く風も降る雪も、
ともに天が示す哀悼の悲風、悲雪に想え、愁然かつ粛然として佇立していた。



早瀬利之著 『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』 140〜142p

翌十八日の慰霊祭では、松井は方面軍の参謀たちに、

「中国軍の戦没者もあわせて祈り慰霊するようにせよ。
これが日支和平の基調である」

と伝達した。

しかし、日時の余裕がなく、翌十八日の日中合同慰霊は行なわれず、
日本軍だけの慰霊祭に終わった。この日は寒く、全員寒さに震えている。

松井の、中国人への思いは、十八日の慰霊祭で、祭文を読んでいるうちに声が詰まり、
涕泣したことや、また、十八日の朝の参謀長会で、軍紀風紀の振粛、

中国人軽侮思想の排除、国際関係について話したことにもうかがえる。

派遣軍の飯沼守参謀長は、この朝の松井訓辞を、日記にこう記している。


「今後、奥地に敵を窮迫すべきか否かは大本営の指示によるものにて不明なるも、
我個人の考えにては現在の命令範囲にては不十分。

江北、浙江省方面にも軍の地歩を広く獲得するは、
支那人に新しき決心を催すに必要なりと考えありゆえに意見を具申したく思いあり。

ゆえに一時後方に移駐する師団も、さらに前進する機会あると考えあるを要す。

要は武威に懼服 (くふく) せしむると共に、皇軍に心服親和せしめ、
日支一体の必要を感ぜしむる以外、出征の目的達成の途なし。

これがため、二、三注意をバイシ (数倍) したい。
軍紀風紀の粛正、支那人に対する軽侮の念多し。

これが禍いをなし、今日の事変を生起したるとも言い得、かつ軍人は満州の、
または北支の支那人に対したる観念をもってこの地方の漢民族を同一視するは

まぬかれざるところなり。

漢民族、とくに南方の支那人を個人的に観 (み) るときは、気力、
経済力共に侮るべからざる実質を有す。国民性の欠陥は統制と団結なかりしにあり。

ゆえにこれを加うれば恐るべき力をなす。しかして現今これが実を結びつつあり。
軽侮するは誤りなるを銘心せよ。

国際関係に対する自分の信念としては、支那人にはあまねく親切に、
英米その他諸外国に対しては正しく強く、言うあり。

外国人に対し日本が恐れずと認めしむるか、支那人を反省せしむる途なりと考えあり。
ただし感情的に諸外国に不快の観念をあたゆるは不可なり。

英米政府は極東における日本の勢力を認識しあり。
したがって、彼らは日本と協調的方針を採るべしと見透しあるも、

彼らの国民に対する政策上その通り実行し得ざる点あり。
ことに英国政府しかり。大国の襟度をもって裕々迫らざる態度にて接するを可とす」

このことを、松井は全将校に伝えるように参謀長会議で強調した。



児島襄著『日中戦争4』250〜251p

松井大将も次のように述懐している。

「慰霊祭の直後、私は皆を集めて泣いて怒った。・・・ところが、このあとで、
みなが笑った。甚だしいのはある師団長の如きは 『当り前ですよ』 とさえ、いった」

幕府山捕虜射殺状況と翌日の調査

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/20 18:37 投稿番号: [217 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 243p

・・・
捕虜たちも、また、日本側が自分たちを江上で処刑するのだ、と誤解したのである。

いっせいに喚声をあげて第一大隊におそいかかり、たちまち七人があるいは殴殺され、
あるいは銃をうばわれて射殺された。

大隊長田山少佐は射撃を下令し、包囲した機銃がうなり、
解放のはずが銃殺による 「始末」 になってしまった。

それでも、〝闇夜の鉄砲〟 の俗諺どおりに、夜間射撃の命中率は悪かったとみえ、
夜が明けると、江岸にのこる捕虜の死体は 「千人を上回った程度」 で、

その他の約三千人は逃亡した、と判定された。



鈴木明著 『「南京大虐殺」 のまぼろし』 旧196〜197p

朝、すべてが明るみに出た時、千あまり (数千ともいう) の捕虜の死体に交って、
日本兵八名と日本軍将校一名の死体があった。

その人の名を書くのは失礼だから、ここには記さない。六十五連隊将校名簿をみると、
戦死者はすべて 「上海劉家行西方にて戦死」 になっているが

(その数は、ナント全将校の半分以上にも上るが) たった一人だけ、
戦闘が行なわれなかったはずの「南京北方地区で戦死ししている人がいる。

この事件が、単に 「捕虜への一方的虐殺」 ではなかったことを、
この一人の将校の戦死の記録が、充分に物語っている。

199p
平林氏の証言

江岸に集結したのは夜でした。
その時、私はふと怖しくなってきたのを今でも憶えています。

向うは素手といえども十倍以上の人数です。
そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。

とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を
運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。

捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。
突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。

日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。
それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。

一挙に、われわれに向ってワッと押しよせて来た感じでした。
殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。

なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。
次の日、全員で、死体の始末をしました。

ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく、
悲痛な思いをしたことはありません。

我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の目的が、日本軍を〝殺す〟ことではなく、
〝逃げる〟ことだったからでしょうね。

向うの死体の数ですか?   さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。
三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……」


200p
  鈴木氏の証言

「兵隊は、本当に一生懸命メシを作ったんですよ。
本当に殺 (や) るつもりなら、何であんなに、こっちが犠牲になってやるもんですか。

それに、本当に殺るつもりなら、こちらが殺られるはずがない。
月日は入城式の夜です。私が入城式から帰ると、ちょうどいいところに帰ってきた。

今から護送しろといわれたので憶えているんです。
捕虜は対岸に逃がすといっていました。

しかし、舟が来ないんです。
捕虜は、だまされたといって、騒ぎはじめたんじゃないでしょうか」


山田メモ

十八日   捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。

(鈴木明著 『「南京大虐殺」 のまぼろし』 旧195p)

幕府山 捕虜逃がしに失敗射殺

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/19 18:26 投稿番号: [216 / 2250]
両角業作   手記より

十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。
万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは

「俘虜のものどもを“処置”するよう」 ・・・山田少将に頻繁に督促がくる。
山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。

私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、
大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。
ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。

しかし私にはどうしてもできない。
いろいろ考えたあげく

「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、
ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」

− 田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。


「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、
夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。

これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。


十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。
馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。

信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、
この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。

新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、
次いで戦勝を祝する乾杯があった。

この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。
もどったら、田山大隊長より

「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」 の報告を受けた。
火事で半数以上が減っていたので大助かり。

日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、
解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。
さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。


そのいきさつは次の通りである。

軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、
前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、

舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、
次第に押し流されるという状況。

ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、
日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、

静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。


二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、

大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、
翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。

すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に

報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、
さも 「我が意を得たり」 の顔をしていた。


解放した兵は再び銃をとるかもしれない。
しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。

自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、
少数といえども射殺したことは

<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが> ・・・

なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。

12月17日 松本重治氏の南京行

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/18 16:05 投稿番号: [215 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 245〜246p

私は、スウェター二枚の上に、「同盟」 本社が送ってよこした冬用の従軍服を着用し、
リュックに身廻り道具をぶち込み、ジョン・ケジックが贈ってくれた

ホワイト・ホースの小壜も忘れずに持って、約束の時間に北停車場に行った。


探堀報導部長は、この夏ごろ着任して以来、幾度か私ら記者たちと語り合ったり、
いっしょに前線の視察に行ったりした、気の置けぬ人柄であった。

彼は九州の殿様の末裔とのことで、小さな深堀城址がまだ熊本か長崎の附近にあると
聞いたが、何となくおっとりしており、親切な、かつユーモアたっぷりの人物でもあった。

車中で、隣席にいた若い軍医が 「上仲軍医中尉です」 と自己紹介する。
友人捕松佐美大郎の夫人のふきさんの弟で、

聖路加病院勤務中であったのを徴用されたという人であった。

名前を聞けば、以前にも、東京で、一、二度だけ会ったことのある人だが、戦地では、
友人知人と会うと、とくに人懐こく感ぜられるのは、私ばかりではないだろうと思った。


深堀中佐が、私のため、缶詰類や、その他の食料品を車中に持ち込んでくれたので、
私もホワイト・ホースを出して、お互いに飲みながら、

四方山 (よもやま) の雑談で愉しく時を過した。

夜になると車中はひどく寒いので、毛布を六枚ももらって寝た。
汽車はときどき停車したり、またゆっくりと走り出したりするわけで、

翌十八日朝、南京に着いた。


「同盟」 の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、
当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。

着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると探堀中佐が知らせてくれたので、
「ぜひ特別に参列させてもらいたい」と申し込んだ。

松井最高司令官の顔も見たかったからであった。


*   松本氏は汽車で行ったと言うが、この時期汽車でいくのは無理だった。


   汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため12月22日からで、入城式、
   慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して下関から上陸している。

   (板倉由明著『本当はこうだった南京事件』303pより)

12月17日 司令部の移動と和平案改訂

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/17 16:08 投稿番号: [214 / 2250]
戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』431p

方面軍司令部は十二月十七日、南京に移動した。




和平案改訂会議
戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』

463p

十七日にも (大本営政府) 連絡会議が開かれ、
広田外相から一部の条件緩和について提案があったが、採択されなかった。

十七日午後、定例閣議が開かれ、和平工作の経緯、独大使に対する回答案が審議された。
連絡会議に参加しなかった閣僚は、本案は軟弱であるとして反対した。

・・・
464p

  注   当時、文相であった木戸幸一の覚書によれは
  「十七日の閣議に出席し、提案された和平条件案をみると、あまりにも詳細なので、

  これをそのまま相手方に示すことは、逆用され暴露されるおそれがあると
  述べたのが契機となり種々の論議に発展した。・・・」

12月17日ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/16 18:35 投稿番号: [213 / 2250]
軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。
きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。

日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかり
きれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。

午後六時、庭にいる難民たちに莚 (むしろ) を六十枚持っていった。みな大喜びだった。
日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。

三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へ
やってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。

やつらは外へでたとたん、駆け出した。
ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。


アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ!」
あるいは「ヒトラー!」と叫ぶだけでよかった。

すると日本兵はおとなしくなるからだ。


きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。
それを読んだ福井淳 (きよし) 書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。

いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。

私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、
リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。

行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。
私は上海に電報を打った。


ジーメンス・中国本社   御中。上海市南京路二四四号。「日本当局は当地の
発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。

戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」
ラーベ


日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、
円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。

私は最高司令官に、次のようにことづけた。
「『市長』 の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」


*   公用以外は日本兵の外出が禁止されているのに、なぜラーベの家に出没できる。

第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は

私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、各隊は衛兵を立て
兵の外出を禁止したので、公用の将校以外は、各個に外出した兵はない。

(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』210p)

と証言している。


それに停電しているから、夜は真っ暗、南京に不案内な日本兵は、
ウロウロしたら道が判らなくなって帰れなくなるだろう。

そんな事になったら、便衣兵に虐殺される。危なくてウロつけない。
それに、翌日は慰霊祭、その次の日より、南京を去らなければならない。

その準備があるので、悪さをしている暇はないのだが。
こういう犯罪が出来るのは、南京を知り尽している中国人では?

12月17日ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/15 18:46 投稿番号: [212 / 2250]
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。
私が出ていくと 「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」 とかなんとか言い訳した。

ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。

塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。
このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。

運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。
・・・

アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」

当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。
金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。

いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。
見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。

仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、
アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。

そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。


きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、
店を開くように、との指示があった。

店?   店なんかとっくに開いてるじゃないか。
こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。

驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。
クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。

なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。
きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。


クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。
ついに、中に乗っていた日本兵は、

“We friend … you go !”(俺たち友達ね……さあ行けよ!)
と言って返してよこしたのだった。

このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、
今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。

「『お客』 を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」
すると、韓は本当にもらっておいたのだ。

“I thank your present! Nippon army K.Sato.”
(プレゼントどうも!   日本軍、K・サトウ)

  ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!



*   実に不思議な話だ

  松井大将や朝香宮殿下・長谷川中将などが参列して、式典が行われている最中に、
  式典から外れた区域で悪行三昧をやらかす日本兵がいるとは。

  最近は式典をぶち壊す、不埒な日本人が増えているが、昭和45年頃まではいなかった。
  これらの“日本兵”は本当に日本人なのだろうか?

*   韓は受け取りをもらっているが、彼は日本語ができたのか?
   学のない日本人は英語ができない。かつ日本人は英語を文法から習う。

   しかしてこの英語は文法通りではない。


児島襄著『日中戦争4』240p

第十軍、上海派遣軍の主力は、その (慰霊祭) 直後に次期作戦のために
南京退去が指示されているので、その用意にも繁忙であった。

兵隊は、式典の参加・警備だけでなく、移動の準備もしなければならないので、
悪さなどしている、暇はない筈だが。

12月7日 松井大将と柳川中将の喧嘩

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/14 18:47 投稿番号: [211 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』139〜140p

この入城式典直後のことである。
首都飯店の方面軍司令官室で、松井と柳川との大喧嘩が起きた。

柳川平助は参謀長の田辺と二人だった。松井司令官室で二人だけの話となると、
田辺はとなりの角良晴副官室でようすをうかがっている。

そのとき、となりの松井の部屋で、突然、
松井にしては珍しく大声で怒鳴る声が聞こえた。


二人のようすが変なので、田辺は角副官に、「なんとかしてくれ」 と心配そうに言う。
角は、日ごろから、柳川平助の、方面軍司令官を無視した行動といい、

直接東京の下村定第一部長と連絡して南京攻撃に出たことといい、
腹にすえかねていたことも多く、松井の気持ちがよく分かっていた。

田辺の慌てぶりに、女房役の角は、「弱い参謀長殿だな」 と思いながら、
「大将と中将です。二人が取っ組み合いのケンカをするはずもないし、

軍政の根本問題ですから、しばらくやらしておきましょう」
と言って、ほっとくことにした。


このとき角が耳にした松井の声とは、
「支那のことは支那人にまかせ、日本軍はオブザーバーになれ」 だった。

これに対し柳川平助は、
「皇軍が血を流して取ったところである。

日本みずから、軍政を敷いてやるのが当然である」
と反論した。

この二人の激論から、占領後の南京をめぐり、軍政を敷くという柳川と、
中国人の自治体づくりによる政権、国際的視野を広げることとする松井との、

対立だったことが推測できる。


大激論がひとまずおさまった頃合いを見て、角はコーヒーを持って入った。
すると、二人とも黙り込んでいた。角はそのとき、「話し合いは決裂だな」 と直感した。

このときの会談は、柳川の方から申告されていて、
それに対して松井方面軍司令官が持論を曲げずに、柳川を説き伏せた形である。

頭ごしの 「軍政」 と 「中国人の自治政権」 との意見の相違だった。
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