入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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満洲に於ける日本人迫害2の2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/17 19:00 投稿番号: [1396 / 2250]
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
2の1からのつづき
116p
八、南満洲鉄道沿線の日中共同鉱山事業に関する詳細な規定の交渉を拒否。
一九〇九年九月の
「満洲における鉱山・鉄道に関する協定」
の第四項は、
そのような規定の採用を承認。
九、大連の中国港湾関税局によるタバコヘの差別的な高輸入税の割り当て。
これは一九〇七年五月の
「大連に港湾関税局を設置することに関する
協定」
の第一二項への違反。
一〇、鉄道建設に必要な土地を南満洲鉄道に売却するのを拒否。
これによって南満洲鉄道は石、砂利、その他鉄道の修繕と椎持に必要な物を
沿線の土地から得ることは不可能。
これは一八九六年九月の中露協定第六項に違反。
その条項は、一九〇五年一二月に日中間で締結された北京条約の下では、
現在でも南満洲鉄道に適用可能。
一一、南満洲の鉄道区域外に日本人が居住し旅することを不可能にしてしまう
ような秘密命令の発布。これは一九一五年五月の
「南満洲に関する条約」
の
第三項への違反。
一二、朝鮮人への迫害。これは一九〇九年九月の
「間島に関する協定」
の第三項への違反。
一三、南満洲鉄道沿線区域内での不法を税金の取り立て。
これは一八九六年九月の中露協定の第六項への違反。
この協定は南満洲鉄道にも適用可能。
一四、タオナン・アンガンチー鉄道の管理部門に日本人の交通スタッフまたは
顧問を任命することを拒否。
これは満洲国 (?) 政府と南満洲鉄道の間に締結された借款協定への違反。
一五、日本が資金を出して中国が経営しているその他の鉄道に勤務している
日本人の交通スタッフや会計係が、借款協定で定められた監督権を
行使するのを不可能にしてしまう。
一六、撫順産出の石炭を用いて南満洲鉄道が頁岩油を製造することに抗議。
一七、日系資本の鉄道の売上金の着服。
これによって日本の借款業務に対する支払い停止が発生。
これらの売上金は、日本所有の南満洲鉄道に平行して走る鉄道建設のために使用。
その目的は南満洲鉄道の勢力を弱めるため。
*
1に
《幣原外交の問題点は、中国人の物の考え方、
とりわけ彼が外相をしていたあの数年間における中国人の発想方法を
全く理解出来なかったことである。
今一度ロドニー・ギルバート氏の著書から引用させてもらうと、
「根っからの先祖代々の敵が寛大な態度を示すということは、
中国人の目から見れば弱さの徴…」なのだ。》
とありましたが、
これなんか、今の民主党外交批判にピッタリでしょう。
*
十四に「満洲国 (?) 政府と南満洲鉄道の間に・・・」
とあるのは判らない。
この時、満州国は未だない。何か別の事の勘違いかも知れない。
信用できる人の文献でも、こういう間違いは多々ある。
だから、一部の文章を切り取って、「あの人がこう言っているから。」
と単純にやってはならないのです。
これは メッセージ 1394 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月18日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/17 18:43 投稿番号: [1395 / 2250]
一月十八日
《 ほうぼうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気良く放火が続いているのだ。
九時ころ、難民収容所の管理者が集まって、本部で会議が開かれることになっている。
日本軍に妨害、いや、禁止された場合のことを考えて、手は打ってある。
衛兵を一人、塀の外に立たせておいたのだ。
この前のように、警察官に包囲されたら、ただちにドイツ大使館に通報することに
なっている。うれしいことに、ローゼンをはじめ、クレーガー、シュペアリングもきてくれた。
日本軍がなにか言ってくるのではないかと気がかりだったが、会議はつつがなく進行した。
午後、スマイスとフィッチがきた。米だけでなく、ほかの食料品も倉庫から
市内に運びこんではいけないことになったというではないか。
上海からとりよせることも禁じるという。
どうやら日本軍は難民を飢え死にさせるつもりらしい。
だが、断じてそんなことはさせないからな。
そこで我々は上海の基督教総会に電報を打った。
幸か不幸か、アメリカ大使館はワシントンの国務省にまたぞろ 「事件」 を
報告することができた。当地のアメリカンスクールが今日また略奪にあったのだ。
ピアノを運び出すため、壁に大きな穴まであけられて。
だが、残念ながら大使館の職員は間に合わず、現場を押さえられなかった。
ふたたび大使館が置かれた以上、日本軍がよもやこんな恥さらしなことを
やらかすとは思っていなかったのだ。
どうやって事務所を閉鎖したらいいのだろう。私は頭をかかえてしまった。
中国本社から 「事務所をたたむように!」
という電報が届いた。
荷造りしようにも木箱が手に入らない。
木箱をつくる職人もいないし、運送業者もいない。
どうやって荷造りすればよいのだろう?
そうかといって一切合切このまま置いていくわけにはいかない。
ということは、なくなるということだからだ。
私が引き揚げたら、上海に行ってしまったら、家屋敷はどうなってしまうのだろう?
たぶん日本政府は私に旅券を出してくれるだろう。
いやそれどころか、私を厄介払いできて、せいせいするのではないだろうか。
だが、ここにいる六百五十人の難民はどうなる?
血のにじむような苦労をしたあげく、こんなに厳しい結末を迎えようとは!》
*
「アメリカンスクールが今日また略奪にあったのだ。
ピアノを運び出すため、壁に大きな穴まであけられて。」
日本軍がこんなもの盗んで何になる。必要なら
「貸せ」
と言えば済む。
もう20年も前になるが、福岡市天神の新店町の宝石店に
中国人窃盗団が壁を破って侵入し、宝石を盗む事件があった。
それまで、日本では、壁を破って入る窃盗などなかったから、非常な驚きだった。
以後、こういう荒っぽい窃盗がふえ、珍しくもなくなったが。
第16師団はまもなく移動するから、ピアノを盗んでも意味がない。
天谷支隊は、来たばかりで、南京の様子・地理がわからない。
だとしたら、犯人は中国人であろう。
壁に穴をあけてピアノを盗むなど、日本人のやり口ではない。
これは メッセージ 1389 (kireigotowadame さん)への返信です.
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満洲に於ける日本人迫害2の1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/16 18:59 投稿番号: [1394 / 2250]
K・カール・カワカミ氏は、中国の反日は満洲事変よりずっと前、
日本が友好的政策を取っていた時から醸成されたと言っています。
そこで中国の反日や迫害を紹介する前に、K・カール・カワカミ氏の意見を紹介します。
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
114p
《 中国の意欲的な排外主義の真っ只中にあっては日本の自由政策は無駄となり、
幣原
(しではら)
男爵は盲目的な楽観主義者であるかのように見なされるようになった。
これまで我々が見てきた良識的な宥和
(ゆうわ)
発言を彼が行っている時でさえ、
中国国民党は満洲から日本企業を除去しようという計画を推し進めていた。
幣原外交の問題点は、中国人の物の考え方、とりわけ彼が外相をしていた
あの数年間における中国人の発想方法を全く理解出来なかったことである。
今一度ロドニー・ギルバート氏の著書から引用させてもらうと、
「根っからの先祖代々の敵が寛大な態度を示すということは、
中国人の目から見れば弱さの徴
(しるし)
か、あるいは収賄しようと
しているかのどちらか」
なのだ。》
115p
《 中国は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしているまさにその時に、
日本と結んだ条約を全面的に侵害するという手段に訴えてきたのである。
次に掲げるのはこの期間に侵害された日中協定の一部のリストである。
一、商業及び農業の目的のために土地を借りる権利を日本人に与えた、
南満洲と東内モンゴルに関する一九一五年
「条約」
の第二項と
第四項の遵守を拒否。
二、日本人の経営する撫順及び煙台の鉱山産出の石炭に対してかかる輸出税を、
トン当たり一〇パーセントから四〇パーセントへの勝手なつり上げ。
これは一九一一年五月に定められた
「撫順及び煙台鉱山に関する詳細規定」
への違反。
三、南満洲鉄道に平行して走る鉄道の建設。
これは一九〇五年の北京条約議定書への違反。
四、一九〇九年九月の
「間島地域に関する協定」
条項
(この協定によって中国は長春・吉林鉄道を朝鮮国境まで延長することに同意)
の
発効の拒否。この協定は一九一八年と一九二七年の新協定によって補足。
五、満洲の中国の鉄道で輸送される日本商品への差別。
これは一九二二年二月のワシントン九ケ国条約への違反。
六、大連港の返還を要求することによって、満洲に関する一九一五年条約の無視。
七、日本の警備兵が鉄道沿線地域から撤退することを要求。
これは一九〇五年の協定の無視。》
2に続く
これは メッセージ 1392 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月17日 新しい和平工作
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/16 18:52 投稿番号: [1393 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
259〜260p
《 昭和十三年(一九三八年)一月十七日正午少し前に、
満鉄南京事務所の西
(義顕)君からの電話があった。
「今、パレス・ホテルで董道寧君と話をしているんだ。
董君は、今、日本に行くことを考えている。僕が勧めたのだが、君はどう思うかね」
「董君が上海に来ていることは、川越大使から聞いているが、
彼が日本に行くというなら、僕は大賛成だ」
「そうか。君も賛成というなら、それで決定としよう。
とにかく、今すぐに来てくれないか。三人で話をしようや」「すぐ行く」。
パレス・ホテルの西君の部屋へ入ると、
董君が
「松本さん、お久しぶりです」
といいつつ握手をする。
「董君、積る話を聞きたいが、まず、お元気で何よりだ」
と、
挨拶もいい加減にしておいて、私は矢継ぎ早に、どうして漢口から来られたのか?
高
(宗武)
君は、元気かねで上海にはどうして来たのか?
などと質問を連発した。
董君は、
「高さんの指令で、上海に来て、川越大使に会い、トラウトマン独大使の
和平斡旋に対し、日本側の要求条件の緩和方につき大使に協力を要請したのです。
中国側は、まず停戦ができれば、和平条件には、あまり拘っていないようだ。
東京のほうは、南京陥落で有頂天になり、苛重な条件を押しつけてきたので、
残念ながら、お流れになったようです。 昨日の日本政府の内閣発表でも、
『爾後国民政府を対手にせず』
といって高飛車の態度です」
と、いかにも残念だという顔をしている。
「して、どうして日本へ行くのですか?」
と尋ねると、
西君が、
「僕が説明しよう」
といって、私に、董君の赴日の決意を事細かく説明してくれた
(西義顕著
『悲劇の証人』
九〇−九八ページ参照)。
私は、董君に対して、
「まず第一に、董君の勇気に感銘した。
第二に、こんどの訪日旅行は、両国のために重大な意義があると思う。
このまま絶縁状態に置くことは、日中両国のために、よろしくない。
南京での日本軍の暴状を知って、私は、日本人として恥かしい限りで、
中国人たる董君に謝ることばもない。
戦争が長引けば、日本は日一日と堕落してゆく。一日も早く停戦をと祈っているが、
君の訪日は、日本を救うための第一歩となるかも知れない。東京でも馬鹿ばかりはいまい。
董君が、しかるべき人に会ってくれれば、お土産話はふんだんにあるだろう。
中国のためにも役立つだろうことを、私は信じて疑わない。
高君のほうは、私が何とか話をつけよう。
オイ、西君、この際は、外務省はあまり役に立たぬだろうから、
カーさん
(影佐禎昭大佐)
には、すぐ連絡して、万般の準備をしたら?」
というと、西君も、
「僕もそう考えていたところだ。明後十九日に連絡船で長崎へ行くつもり。
そして、僕がカーさんには直接談判をやるよ」
と引き受けてくれた。
私が
「昨年八月に上海で影佐さんとゆっくり話をしたが、石原氏の感化のためか、
中国の民族主義を再評価するようになったためか、彼のほうから
『日中戦争をできるだけ早くやめねばならん』
といっていて、僕も大いに共鳴できた」
と話すと、董君も、嬉しそうに、うなずいて聴いていた。
みんな、あまり話に熱中していたので、
部屋にランチをもってこさせることまで忘れていた。》
これは メッセージ 1391 (kireigotowadame さん)への返信です.
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満洲に於ける日本人迫害1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/15 15:32 投稿番号: [1392 / 2250]
張作霖が列車爆破により殺害されたあと息子の張学良が後を継ぎました。
現在は、ロシアから、 「張作霖を殺したのは自分達だ」
と言う文献が出ていますが、
それ以前は、日本の関東軍が犯人と想われていました。
当然、張学良は日本人に、反感を抱き、嫌がらせをします。
田中正明著
『東京裁判とは何か』
大手町ブックス
日本工業新聞社発行
152〜153p
《 張作霖が爆死したのち、張学良が実権を握るや、
彼は蒋介石と結び、党部 (国民党) 勢力を招きいれ、党部官憲の指導のもとに、
排日運動は組織化し、満州で一層熾烈 (しれつ)
化した。
さらに張学良は、国民党軍の副司令に任ぜられた。
学良は二十二万にのぼる常備兵を持ち、
奉天工兵廠の規模を拡大し、戦車、飛行機等の近代兵器の装備や、
訓練、さらには機関の強化等、量質共に充実をはかった。
当時、在満の日本軍に比して、兵力装備ともに卓越していたばかりでなく、
その軍隊配置は、ちくじ、満鉄沿線の日本軍駐屯諸地域を包囲するかたちとなり、
その将兵の抗日意識の高揚と相まって、関東軍は脅威にさらされた。
これに対して、関東軍は、兵力僅
(わず)
か一万余、装備は劣弱、
しかも、長春以南一〇〇〇キロの鉄道沿線と、居留民を守らなくてはならない。
兵力の増強を意見具申しても、陸軍中央部はこれを認めてくれない。
微弱なる日本軍は、平時態勢のまま、われに二十倍する
優勢にして抗日意識旺盛な、支那大軍
(学良軍)
の包囲下におかれた。
排日侮日行為は、ますます組織的となり、わが軍に対する妨害行為や、
在満邦人に対する投石や、暴行などの事故が瀕発
(ひんぱつ)
するようになり、
軍はもとより、邦人あげて憤激のきわみであった。
在満日鮮の居留民に対する暴行事件、その他二百余件の懸案を平和的に解決すべく、
日本政府は外交々渉を重ねてきたが、中国側は平和交渉に少しも誠意を見せず、
ただ口先のみの、形勢緩和策が叫ばれるのみで、
日支両軍の関係は、まさに一触即発の事態にあった。
つづく
これは メッセージ 1386 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月17日 駐支独大使に打切り通告届く
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/15 15:21 投稿番号: [1391 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
278p
《 ドイツは、既述したように、
中国の抗戦能力を
「長くて六カ月間」
と推算している。
駐支大使ら O ・ トラウトマンは、日本側の交渉打ち切り通告を
十七日にうけとったが、すかさず外相 C ・ ノイラートに打電した。
「中国にいま一度再考の機会を与えるため、同通告は行政院長孔祥煕に伝達せず」
実際には、日本側通告はベルリンからの訓令によって中国側につたえられるが、
大使トラウトマンの電文には、中国の将来への悲観的見とおしがにじみでている。
「日中間の戦争は、新しい章のはじまりを記録することになった」
駐日ドイツ大使ディルクセンは、和平仲介が不成功に終ったあと、
ベルリンにそう報告している。》
これは メッセージ 1387 (kireigotowadame さん)への返信です.
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生きたまま焼き殺された日本兵
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/14 15:30 投稿番号: [1390 / 2250]
児島襄著
『日中戦争』
文春文庫4巻
125ページ
《 北支
平型関の戦闘
(1937年)
9月25日
午前10時30分ごろ
輜重隊がぬかるみにはまって動けないところを、共産党林彪の軍隊に襲われた。
第六兵站自動車隊の損害は、トラック75両、新庄中佐以下戦死43人、
負傷34人であった。
翌日、戦場に急行した師団野戦倉庫の島尾又治郎主計大尉は、
次のような情景を記述している。
「焼け爛れた車のまわりにも、背後の丘の斜面にも、
痛々しい兵士たちの屍が数知れず横たわっていた。・・・
中でも思わず顔を背けたのは、手足を針金で車体に縛りつけられ、
ガソリンをぶっ掛けられて車諸共火炙りにされた無残な焼死体であった。」》
上海派遣軍第九師団山砲連隊第七中隊
中隊長代理大内義秀氏の宣誓供述書
冨士信夫著『「南京大虐殺」はこうしてつくられた』展転社
210頁
《 (1937年)
12月13日午後、私達は光華門の城壁を占領したが、
入城は許されず、憲兵と一部の小部隊が入城した。
その日、城壁付近で彼我不明の焼死体を発見、まだかすかに息をしていた。
これを見た大隊長芳賀少佐は激怒し犯人の捜索を厳命した。私の部下に犯人はいなかった。
死体を検死した軍医は、これは少なくとも十時間以前の犯行であるから、
日本軍の入城前であり、日本兵が捕虜となり、
支那軍によって焼かれたものであろうと判定した。》
第三師団野砲兵第三連隊第一大隊観測班長・大杉浩の宣誓供述書より
《十二月十三日夕刻頃、南京の南方の城門から城内に入ったが、
そこには彼我の戦死体が点々と散在して居ましたが、
その中に一人の日本兵が手足を立木に縛られた儘(まま)、
身に数弾を受けて死んでゐました。
私は一見して、俘虜となった日本兵が支那軍によって虐殺されたものと感じ、
縄を切って地上に下ろしておきました。城壁の近くには支那軍の戦死体が
相当数ありましたが、常民の死体は見なかった。》
(冨士信夫著
『「南京大虐殺」
はこうしてつくられた』
175p)
ラーベの日記12月15日
《 だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。》
*
捕虜を生きたまま焼き殺す、これは虐殺じゃないのか?
中国軍も日本兵捕虜を虐殺しているが、取り上げない。
日本兵がやったという話なら、嘘でも取り上げるのに。
これは メッセージ 1388 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月17日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/14 15:22 投稿番号: [1389 / 2250]
一月十七日
《 ローゼンと話し合いをしたとき、
すでに岡崎総領事は先日のいさかいの調停に乗り出していた。
ベルリンや東京が何もいってこなければ、一件落着となる。
そうなれば大変ありがたい。
とにかく日本人と折り合っていかなければならないのだから。
昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。
すっかり気が滅入ってしまった。
日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。
近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。
かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、
南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。
無傷の家など一軒もない。行けども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、
茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。
瓦礫 (がれき)、また瓦礫だ! いったいだれが元通りにするというんだ!
帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。
ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。
南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだった
のではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、
三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。
日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、
私は逆にどんどん人が増えているような気がする。
上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。
いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。
そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、
なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。
難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。
増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。
かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。
*
「道の両側に・・・ありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、
なかには盗まれた故宮宝物もまじっている」
これを見て、ラーベは自分の思い込みの間違いに気づかないのだろうか。
露店で売られている物の中に、「盗まれた故宮宝物もまじっている」
という事は彼らこそが、本当の略奪者ではないか。
南京の外から、衣料品など仕入れて来れないのだから。
彼らが、略奪して、証拠隠滅のために放火したと言うべきであろう。
*
「増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。」
王固盤が20万人と言った時、 難民区も廃墟もまだ無かったのだけど。
城内全域で20万だったはず。
ラーベは話をすり替えている。
五万人増えたのは、潜伏中国兵が市民として登録されたからだろう。
これは メッセージ 1380 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国内戦 捕虜収容所がない、虐殺
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/13 18:57 投稿番号: [1388 / 2250]
ラルフ・タウンゼント著
『暗黒大陸中国の真実』
64p
《 苦力は実に悲惨である。兵隊でさえ嫌がるところへ回される。
もし
「敵方」(一時的に抗争する、ならず者の集団)
に捕まったら、
強制されての従軍だということは無視され、とにかく戦果を上げるため射殺される。
捕虜の圧倒的多数はこういう風に徴発された苦力である。
戦闘記録にある
「捕獲捕虜」
とは
「敵方で虐殺された者」
と読み替えてよい。
勝者の気分次第で敗者は
「屠殺」
されることがごく普通である。
数百万単位の軍隊が抗争を断続的に繰り広げながら、
捕虜収容所が全くないということは注目に値する。
捕虜の給食施設が全くないのだ。
食料や施設が欠乏しており捕虜などに回す余裕などなく、
万が一潤沢にあったとしても無用な敵に何かを提供するなど考えられない。》
65p
《 ある晩のこと、夕食会に招かれた。来賓の中には中国の
「精鋭軍」
の
お偉方も列席されていた。日本に留学した者も二、三人いた。
つい最近まで日本が知識階級の教育の場であったのである。
私の中国語は覚束ないので英語で説明してくれる者もいた。
その話によれば、最近のある戦闘で捕まえた敵方の将校の一団を
どう殺そうかと議論になった。
そして、ばらばらの釘を飲ませてやろうということになった。
飲ませてから、効果観察のため整列させた。約二時間後に死亡したそうである。》
*
南京で日本軍が捕虜を殺したと、得意げに言いたてる者もいるが、
中国軍が捕虜をどうしたかを理解する者はいない。
終戦後の捕虜扱いだけが特別にもてはやされているが。
支那事変では、日本軍が追撃するたびに、中国軍は敗走したが、
捕虜を連れて逃げたという話は聞かない。
釈放の話もないから、全員虐殺したということだろう。
第二次上海事変の前、中国軍が上海閘北駅に続々降りて来たので、
上海憲兵隊の大前軍曹と熊野通訳が偵察に行ったら捕まり、
後でわかった事だが、殺され埋められていた。
(『ある情報将校の記録』197p〜より要約)
これは メッセージ 1386 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月16日 間に合わなかった口上書
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/13 18:48 投稿番号: [1387 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
478〜479p
《 中国では、十五日、孔祥煕行政院長がトラウトマン大使に、
十三日の口上書よりも、さらに妥協的に表現した口上書を
日本側に伝達してくれるよう求めた。
孔祥煕は、中国政府は日本側提案に対し決して回避的態度をとろうと
したのでない、と熱心に述べた。
しかし、ディルクセン大使が本書を日本側に手交する前に、
日本側から交渉打ち切りの通告があった。
一方、参謀本部は、十六日夕、ドイツ武官から、右の孔祥煕の口上書を受けた。
(第十回情報という)
十六日朝、東京のドイツ大使館に到着したが、
暗号がとけなかったため夕刻となった。
参謀本部では、右口上書によれば、脈のあることはもちろん少ないが、
文面には和平の誠意を有している。
従って内閣が
「脈なし」
としたことは重大な誤判断であるとし、
上聞に達することなども含め種々の方策を検討したが、
結局、しばらく今後の情勢の推移をみることとした。》
*
こう書いてあると、いかにも中国側がまだ、和平の意思を有していて、
打ち切った日本が悪いかの如くとれるが、
そもそも、蒋介石は和平を望んでいなかったし、
孔祥煕が勝手に、文書を出しただけだから、何の解決にもならないだろう。
応じても、中国側の時間稼ぎになるだけの可能性大。
これは メッセージ 1378 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐7
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/13 18:43 投稿番号: [1386 / 2250]
臼井勝美著
『満洲事変
戦争と外交と』
中公新書
5p
《長沙在留の二五名の日本人は二十七日夜十一時五十分までに中の島に収容され、
その大部分九一名 (婦女子全部七三、男子一八) がガン江丸で
漢口に引き揚げた
(三十一日漢口到着)。
彭徳懐軍は二十七日夜から市内に進入を始め、二十八日正午までには約一万が入城した。
長沙市内には処々に火災が起こり、掠奪などで市中は混乱状態におちいった。
翌二十九日にかけて、省政府や国民党党部の建物、イギリス、アメリカ系の教会などが
焼き払われ、日本領事館、館員宿舎をはじめ、一般日本商店も焼き毀された。》
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
34〜35p
《中国の現代史を描いた本で
「殺戮、虐殺」
等の文字の見えぬ本は一冊もない。
一九二七年、蒋介石の政権獲得から七年間にわたるはげしい
「剿共戦」
で、
かなりの一般民衆が
「虐殺」
をうけた・・・
エドガー・スノーの
『中共雑記』
をみよう。
「個人的逮捕、処刑は別にしても、
今日までに約三百万人が揚子江南北の全五回にわたる反共戦で、殺害されていた。
江西省ソビエト地区は、隆盛期には、二百五十万の人口を有していたが、
最後の反共戦で紅軍が止むなく撤退してのちの人口は、百五十万に過ぎなかった。
湖北、河南、安徽のソビエト地区では、国民党部隊の占領後、
人口が六十万人も減少した。
江西、湖南、湖北辺境地区では、
五十万人が
(粛清)
によって殺された」
ロバート・ペイン
『長征への道』
から。
「海陸豊地方は、国民党軍に包囲され、朱徳将軍率いる軍を歓迎した女たちは、
何一つ容赦されず、村はことごとく焼かれ、大部分の女は暴行をうけ、
ほとんど皆、銃剣で殺傷された」
アグネス・スメドレー
『中国紅軍は前進する』
から。
「紅軍が長沙の町を占領した瞬間から、国民党と帝国主義者どもは大恐慌におちいった。
戒厳令が海岸および河川流域の都市にしかれた。
漢口、上海、広東、天津で〝嫌疑者〟の大量逮捕がはじまり、
速射銃をもった特別警察が各工場に配置された。
そして、これら揚子江流域の姉妹都市は、連日大量虐殺の舞台となった」
そして、更にスメドレーは続ける。
「都市の外国新聞や国民党新聞は、気が狂ったのではないかと思われた。
長沙の街に焼き打ちをかけたのは紅軍だというのだ。
〝紅軍はすべての教会や商社、全住民の家を焼き払った〟
〝紅軍は数万の民衆を屠殺した!〟〝長沙にはもう処女はいない!〟
〝紅軍は略奪し、中国文化を破壊している!〟」
「尼さんのひとりがいった。〝紅軍は何百という金持を射殺しました!〟》
*
ここではエドガー・スノーの記述だけでも 300 万人が虐殺されています。
便衣兵 (共匪) 狩りや、強姦、毒ガス、大量虐殺
中国が
「日本軍がやった」
と言っている内容は、そっくり、ここにあります。
数から行くと、南京の30万の方がはるかに少ないですけどね。
その30万も、人口20万の所で30万殺したというのですから何をか言わんです。
これは メッセージ 1383 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐6
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/12 18:59 投稿番号: [1385 / 2250]
臼井勝美著
『満洲事変
戦争と外交と』
中公新書
5p
《 長沙在留の二五名の日本人は二十七日夜十一時五十分までに中の島に収容され、
その大部分九一名
(婦女子全部七三、男子一八)
がガン江丸で漢口に引き揚げた
(三十一日漢口到着)。
彭徳懐軍は二十七日夜から市内に進入を始め、二十八日正午までには約一万が入城した。
長沙市内には処々に火災が起こり、掠奪などで市中は混乱状態におちいった。
翌二十九日にかけて、省政府や国民党党部の建物、イギリス、アメリカ系の教会などが
焼き払われ、日本領事館、館員宿舎をはじめ、一般日本商店も焼き毀された。》
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
34〜35p
《 中国の現代史を描いた本で
「殺戮、虐殺」
等の文字の見えぬ本は一冊もない。
一九二七年、蒋介石の政権獲得から七年間にわたるはげしい 「剿共戦」 で、
かなりの一般民衆が 「虐殺」 をうけた・・・
エドガー・スノーの
『中共雑記』
をみよう。
「個人的逮捕、処刑は別にしても、
今日までに約三百万人が揚子江南北の全五回にわたる反共戦で、殺害されていた。
江西省ソビエト地区は、隆盛期には、二百五十万の人口を有していたが、
最後の反共戦で紅軍が止むなく撤退してのちの人口は、百五十万に過ぎなかった。
湖北、河南、安徽のソビエト地区では、国民党部隊の占領後、人口が六十万人も減少した。
江西、湖南、湖北辺境地区では、五十万人が (粛清) によって殺された」
ロバート・ペイン
『長征への道』
から。
「海陸豊地方は、国民党軍に包囲され、朱徳将軍率いる軍を歓迎した女たちは、
何一つ容赦されず、村はことごとく焼かれ、大部分の女は暴行をうけ、
ほとんど皆、銃剣で殺傷された」
アグネス・スメドレー
『中国紅軍は前進する』
から。
「紅軍が長沙の町を占領した瞬間から、国民党と帝国主義者どもは大恐慌におちいった。
戒厳令が海岸および河川流域の都市にしかれた。漢口、上海、広東、天津で
〝嫌疑者〟 の大量逮捕がはじまり、速射銃をもった特別警察が各工場に配置された。
そして、これら揚子江流域の姉妹都市は、連日大量虐殺の舞台となった」
そして、更にスメドレーは続ける。
「都市の外国新聞や国民党新聞は、気が狂ったのではないかと思われた。
長沙の街に焼き打ちをかけたのは紅軍だというのだ。
〝紅軍はすべての教会や商社、全住民の家を焼き払った〟
〝紅軍は数万の民衆を屠殺した!〟〝長沙にはもう処女はいない!〟
〝紅軍は略奪し、中国文化を破壊している!〟」
「尼さんのひとりがいった。〝紅軍は何百という金持を射殺しました!〟》
*
ここではエドガー・スノーの記述だけでも 300 万人が虐殺されています。
便衣兵
(共匪)
狩りや、強姦、毒ガス、大量虐殺
中国が
「日本軍がやった」
と言っている内容は、そっくり、ここにあります。
数から行くと、南京の30万の方がはるかに少ないですけど。
その30万も、人口20万の所で
「30万殺した」
ですから何をか言わんです。
これは メッセージ 1383 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月16日 国民政府ヲ対手トセズ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/12 18:47 投稿番号: [1384 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
275p
《 一月十六日。
午前十時十分すぎ、広田外相はドイツ大使ディルクセンの来訪をもとめ、
これまでの和平仲介の労に感謝したあと、中国側には和平意思がないと認めるので
これ以上の交渉は中止する、ドイツの仲介も謝絶する、と通告した。
大使ディルクセンは、日本側の決定は過早ではないか、と首をかしげ、
次のように指摘した。 「中国側の引きのばし的不満足な姿勢にたいし、
日本側が待ちきれなかったことは理解できるが、世界の人々の眼には、
日本側に交渉決裂の責任があるように、うつるのではなかろうか」
大使ディルクセンは、前述したように、
交渉を決裂させたのは蒋介石側だと観察している。
大使の発言は、その意味で、日本側から交渉拒否をいいだすのは
自ら不利をまねくことになる、との忠告であったわけである。
広田外相は、しかし、反応せず、そのあと、正午に日本政府は声明した。
「……仍 (よっ) テ帝国政府ハ、 爾後
(ジゴ;今後)
国民政府ヲ対手トセズ。
帝国ト 真ニ提携スルニ足ル
新興支那政権ノ 成立発展ヲ期待シ、
是
(これ)
ト 両国国交ヲ調整シテ、 更生新支那ノ 建設ニ協力セントス」
世にいう
「蒋介石ヲ対手トセズ」
声明
―
である。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
476p
《 政府は十六日次のような声明を発した。
帝国政府ハ 南京攻略後
尚ホ支那国民政府ノ反省ニ
最後ノ機会ヲ
与フルタメ 今日ニ及ヘリ
然ルニ国民政府ハ 帝国ノ真意ヲ解セス
漫
(みだ)
リニ抗戦ヲ策シ
内
民人塗炭ノ苦ミヲ察セス
外
東亜全局ノ和平ヲ 顧ミル所ナシ
仍
(よっ)
テ 帝国政府ハ
爾後 国民政府ヲ対手トセス
帝国ト真ニ 提携スルニ足ル
新興支那政権ノ 成立発展ヲ期待シ
是ト両国国交ヲ調整シテ
更生新支那ノ建設ニ協力セントス
元ヨリ帝国カ
支那ノ領土及主権 竝 (ならび) ニ
在支列国ノ権益ヲ 尊重スルノ
方針ニハ 毫
(ゴウ;少し)
モカハル所ナシ
今ヤ東亜和平ニ対スル 帝国ノ責任愈々
(いよいよ)
重シ
政府ハ国民カ 此ノ重大ナル任務遂行ノタメ
一層ノ発奮ヲ冀望
(きぼう)
シテ止マス
これは御前会議で和戦両様の方策を定めた
「支那事変処理根本方針」
の
「支那現中央政府カ
和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ
帝国ハ爾後 之ヲ相手トスル事変解決ニ
期待ヲ掛ケス」
の項によるものであるが、
この声明では
「爾後国民政府ヲ対手トセス」
と断定的に否認したものであった。
これに対し、国内の表面的世論は政府のこの声明をもって英断なりと共鳴した。
しかし
「対手にせず」
とは文字どおり国民政府と和平の話はしないという意味で、
この用語の持つ俗語味のために多少の融通性を感じさせ
(外務省の提案当事者は、
これがねらいであり、とくに
「相手」
を
「対手」
に換話したという)
後日になって、あるいは国民政府と和を談ずることもあろうかという
いちまつの含蓄を務めるような印象をも内外に与えた様子であった。》
これは メッセージ 1376 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐6
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/11 18:44 投稿番号: [1383 / 2250]
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫
52p
《 長沙が奪回されると、主席何鍵は、東方に
「紅軍」
を追撃するとともに、
市内では大規模な 〝赤狩り〟 を実施した。
そのさい、 「赤色分子」
の識別手段にされたのは、腕や首に残る赤色のしみであった。
赤布をまいて
「長沙暴動」
に参加した労働者、農民、 「紅軍」
兵士の一部は、
前述したように、その赤布をすてて潜伏していたが、
汗が赤色染料をとかして痕跡を皮ふに残したのである。
だが、 〝赤狩り〟
の対象は、皮ふが赤い者だけにとどまらず、
多少とも疑わしい者は容易に銃殺され、新聞も
「白色テロリズムの如き」
と論評するほどであった。
長沙奪回後の一週間で、 「銃殺されたもの一千名」
に達した、と報道されている。》
*
これなど南京で日本軍が安全区に潜伏した便衣兵を摘発したのと同じでしょう。
日本軍は非難されても、こっちは非難どころか、採り上げもされません。
53p
《 主席何鍵個人が総商会に
「四十万元」、省政府も一般市民に
「五十万元」
の
軍費献金を強制した。
「紅軍」
と中央軍によってくり返して戦禍をうけ、
街も廃墟にひとしくなった長沙市民に、それだけの献金能力はない。
・・・
八月二十七日、 「紅軍」
は東方から長沙にせまった。》
*
この時、蒋介石軍は毒ガスを使っています。
共産党軍をやっつける為、市民もろともに。
55〜56p
《 糟谷領事の報告によれば、
「十二日、 (省政府秘書)
楊宜誠ガ極秘トシテ
語ル処ニヨレバ、
十一日ニハ
飛行機ヲ以テ
毒瓦斯
(ガス)
ヲ使用シ
共匪軍ニ相当ノ打撃ヲ
与ヘタルガ、尚退却セズ。 蒋介石ヨリ……長沙ヲ
死守スベキ旨
電報アリタリ」
57p
閻錫山は、・・・ 「下野」
を通電・・・通電は十四日付で、・・・
蒋介石軍が毒ガス弾を使用して地方人民を惨害しているので、
人民を救うために下野して戦争を休止する、と述べていた。》
62p
《 江西省における被害は最もめだち、この年十一月までに
「紅軍」
におそわれた
市町村は六十八カ所、判明した被害だけで次のような数字が報告されていた。
▽
焼失家屋=八万七千二百二十四戸。
▽
死者=十二万八千七百五十人。
▽
難民=百六十一万五千百人。
▽
被害金額=三億八千六百九十四万九千九百元。》
つづく
これは メッセージ 1381 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月16日 南京警備は天谷支隊に交代
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/11 18:36 投稿番号: [1382 / 2250]
ラーベ達、外国人が日本軍の犯罪を訴えつづけるため、
第16師団は南京警備から外され、代わりに天谷支隊が南京警備に入りました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
432p
《 天谷支隊は、司令部、歩兵第十旅団主力を揚州、各一部を儀徴、
仙女廟、邵伯鎮に配備していた。
支隊は一月八日揚州付近の警備を第三師団と交代し、
一月十六日、南京に到着、第十六師団に代わり同地の警備に任じた。》
これは メッセージ 1380 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/10 18:43 投稿番号: [1381 / 2250]
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫
45〜46p
《 結局は、 「革命闘争」
という名の掠奪に参加することになるが、
すでに市内の目につく建物は掠奪ずみである。
範囲は拡大され、この日、それまで手をつけなかった汽船会社も襲撃目標に加えられて、
英国汽船会社
『恰和洋行』
の倉庫がおそわれ、同社の繋船も焼かれた。
そして、翌日、七月三十一日には、湘江にうかぶ外国砲艦を攻撃し、
事態を一挙に急転させることに
・・・
女性記者A・スメドレーによれば、 「紅軍」
政治部はこの各国砲艦を
「中国人民を搾取する列強そのもの」
とみなし、
「帝国主義者と一戦をまじえねばならぬ」
と声明した。
なんとなく、長沙市内に襲撃対象が見当らなくなったので、
あえて新目標を設定したようでもある
47 p
砲艦
『小鷹』、つづいてイタリヤ砲艦が現場に近づくと、 「紅軍」
側は堤防に
「機関銃十挺ヲ備へ」
て射撃してきたので、こんどは日伊両艦も本格的に応戦・・・
50〜51p
午後九時、中国砲艦二隻は
「猛砲撃」
を開始し、長沙市街は炎上した。
八月五日午前三時、第三十一師、第十六師第四十八旅、
第十五師第四十五旅は二手にわかれて小舟、ボートで渡河をはじめ、
午前七時には長沙市北端に攻めこみ、市街戦となった。
「紅軍」
側は、すでに東方に脱出をはじめていた。記者スメドレーによれば
―
「数千の労働者農民を率いた紅軍は、補給品や奪いとった銃や弾薬、負傷者や
救い出されたが歩行のできない囚人を運びながら、長沙の街をひき払いつつあった。
ここにとどまり、敵のなかで革命的な工作を続行する任務を帯びた人々は、
腕や首にまきつけた赤い布をひきちぎって待機していた」
午前十時三十分、市街戦は終り、中央軍は長沙を奪回した。
・・・
これで、 「紅軍」
による
「長沙大暴動」
は終熄したわけだが、
長沙の街は、まさに暴動の跡にふさわしく、文字どおりに瓦礫
(がれき)
の
集積に変化していた。
長沙の日本資産についても、次のように報告されている。
▽掠奪および焼失
=
領事公館、領事館事務所及付属家屋、
▽全部掠奪
=
郊外領事館員宿舎、同仁医院、石井写真館、日豊洋行、
大石洋行、塩川洋行、一力亭、山本洋行、日本人小学校、陶山写真館、
▽一部掠奪
=
杏林堂、広貫堂、日清倉庫B、戴生昌、海軍宿舎、薄洋行。
「損害ハ七千万ドルヲ
下ラザルベク、同地ノ復興ニハ
少クトモ四ケ年ノ
日子ヲ
要スベシ」
とは英商社筋の被害見積りである》
つづく
これは メッセージ 1379 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月16日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/10 18:36 投稿番号: [1380 / 2250]
一月十六日
《 日本大使館での晩餐会はいともなごやかな雰囲気のうちにすぎていった。
我々外国人は全部で十三人。大使館の人たちのほか、委員会から九人。
ヴォートリン、バウアー、ベイツ、ミルズ、スマイス、トリマー、クレーガー、
それから私。マギーは食事が始まってからやってきた。
遅刻癖はあるが、それを除けば愛すべき仲間だ。
この席でクレーガーは、上海への旅行が許可されたとの知らせを受け取った。
やれやれ、本当に良かった。なにしろ、クレーガーは結婚を控えているのだから。
代わりの人をどうするかが問題だ。
クレーガーは財務担当だが、そう簡単には見つからないだろう。
食事は素晴らしくおいしかった。私はテーブルスピーチを頼まれていたが、
なにぶん微妙な状況なので、あらかじめ原稿を用意しておいた。
ご臨席の皆様!
本日の温かいお招きに対し、南京安全区国際委員会を代表しまして、
日本大使館の皆様に心から感謝の意を表明します。
(中略)
サムライは数々の戦で非常に勇敢にお国のために戦いながらも、
もはや身を守る力のない敵に対しては、 「武士の情け」
を示した、
つまり寛容だったと聞き及んでおります。
日本大使館の皆様、皆様は、私たちの願いを辛抱づよく聞いてくださった。
そして数多くの苦情にもつねに進んで耳を貸してくださいました。
また、力の及ぶ限り、私たちを助けようとご尽力くださいました。
ありがたくうけたそのご助力に対し、国際委員会を代表しまして、
ここに深く感謝の意を表します。
アメリカ人たちがこれをどう思ったかはわからない。
心にもないことをいったことぐらい、百も承知だ。
だが、そうしておいたほうが得策だと思ったのだ。 「嘘も方便」
というではないか。
とにかく、たとえわずかでも日本大使館の役人が助けてくれたことはたしかなのだ。
我々の被害報告を軍部に渡してくれ、ほんのすこしとはいえ、取りなしてもくれた。
つまり我々に力を貸すことのできた唯一の人たちであることにかわりはない。
成果がなかったのは、日本の外交官は軍部に従わなければならないからだ。
今日、日本政府を牛耳っているのは軍部なのだから。
それを考えれば、大使館の人々、福井、田中、福田の三氏は、
それなりによくやってくれたということができるのかもしれない。
けれどもこれだけ辛酸をなめたいまとなっては、
とてもそんな気持ちにはなれなくなった。
帰る少し前、福田氏は、 「ローゼン氏事件」
で大使館側が頭を痛めていると
ほのめかした。十三日にローゼンは城壁の外へ出たところを日本軍に見とがめられ、
一悶着あったのだ。「なんらかの歩み寄りの姿勢をみせるよう、
ローゼン氏を説得していただけないでしょうか。
日本大使館に立ち寄って、二言三言愛想の良い言葉を
(謝罪の言葉を、とはいわなかった)
かけるとか……」
ともかくあたってみよう。
だが、あの人のことだ、頭から受けつけないような気がする。》
これは メッセージ 1368 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/09 17:23 投稿番号: [1379 / 2250]
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫
42〜44p
七月二十九日
―
・・・
この日は、まず国民党員五人が、放火の罪で銃殺され、
・・・
長沙ソヴィエト政府の樹立にかんする宣言が発表された。
そのソヴィエト政府は、全人民のものであり、すべての銀行、交通、通信機関、
会社、外国の公共施設、軍閥・地主の財産もソヴィエト政府のものになる……。
群集は、歓呼した。
あるいは、この宣言を、すべてはソヴィエトのもの、ソヴィエトは自分たちのもの、
ゆえになんでも自分たちのもの、と誤解したのかもしれない。
午前九時ごろ、それまで襲われなかった日本領事館に 「多数ノ暴徒」 が
乱入して、器物をうばったのち、領事公邸に放火して焼きはらった。
領事館事務所は焼かれなかったが、その掠奪ぶりは徹底していた。
「門扉窓枠ニ至ル迄
破壊掠奪セラレ 、一物ヲ留メズ」
と、糟谷領事も報告するが、外国人宅の物はすべて
「金目
(かねめ)」
と思うのか、床板もはぎとっていった。
外交公館の施設の中で、暗号通信を扱う電信室はとくに重要な存在である
が、暴徒の乱入が突然であったため、無電機は送信機だけを搬出できた。
しかし、暴徒は、掠奪をきそい、設備と機械を文字どおりにバラバラにして持ち去り、
機械として利用される可能性は失われたと判断され、領事たちを安堵させた。》
45p
《 長沙市内には、付近の村々にも貼布された
「大暴動」
に参加をすすめる
ビラにこたえて、続々と農民があつまってきた。
就職できて食える、との誘いは、よほどに魅力と説得力をもっていたにちがいない。
その様子を、記者スメドレーが記述している。
「長沙の街には、はるか南の村々からも何千という農民が流れこんできた……
田舎道をかけ足でやってくるものもあれば、
ジャンクやサンバンで湘江を下ってくるものもいた……。
彼らは大衆集会で発言し、ほかに何もすることがないときには、
路上で古い中国の拳法の型を演じてみせ、紅軍兵士を感心させた」
ということは、長沙にあつまった農民たちにとっては、
呼びかけられた
「就職」
の機会はほとんど無く、
もっぱら集会参加と太極拳演武だけであったらしい。》
つづく
これは メッセージ 1377 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月15日 中国 妥協的口上書を出す
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/09 17:15 投稿番号: [1378 / 2250]
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
478p
《 中国では、十五日、孔祥煕行政院長がトラウトマン大使に、
十三日の口上書よりも、さらに妥協的に表現した口上書を
日本側に伝達してくれるよう求めた。
孔祥煕は、中国政府は日本側提案に対し決して回避的態度をとろうとしたのでない、
と熱心に述べた。》
*
もう遅い。
と言うか、いくら、ほかの者が表現を妥協的にしても、
蒋介石が講和する意思がない限り、意味ないだろう。
単なる、時間稼ぎにしかならない。
これは メッセージ 1376 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/08 15:08 投稿番号: [1377 / 2250]
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫
41〜42p
《 ビラには、そういったこんごの行動や政策を示唆する標語が書かれ、
署名者は次のようになっていた。
「紅軍第五軍農工革命委員会主席彭徳懐、常務委員訒乾元、
同李燦
(りさん)。 暴動委員会」
放火、掠奪はなおもつづき、市内に人影は少なかった。
糟谷領事は、聞知した情報にもとづき、この日の市街の状況を次のように報告している。
「朝来、 引続キ主ナル官署
其ノ他ノ焼払ヒヲ断行シ、
数個所ヨリ黒煙濠々
(もうもう)
トシテ天ニ沖
(ちゅう)
スル様
(さま)
物凄ク、民家ハ赤旗ヲ掲ゲ
普通商家ハ門戸ヲ開キタルモ、
通行人ハ労働者風ノ者ノミニテ、市内寂莫
(せきばく)
ヲ極ム」
学校、医院、商店は、ほぼしらみつぶしに掠奪の対象になり、
総商会は、献金による掠奪防止を考えた。
だが、 「紅軍」
側の要求は二百万元。総商会は必死の値下げ交渉で
「七十万元」
に
値切り、手付金
「四万元」
を支払って掠奪放火の中止を要請した。
だが、 「紅軍」
側の回答は、相変らずの 〝暴行〟 の継続と
「革命裁判」
の実施であった。
革命裁判所は、労働組合本部の中に開設され、
「労働組合連合」「豊民同盟」「紅軍」
の中から裁判官がえらばれた。
地主、商人、役人、国民党員など三百人が裁判され、うち三十五人が
「積極的反革命分子」
として処刑された、と記者スメドレーは、つたえる。
商人の罪状の多くは、食糧、商品を隠匿して
「紅軍」
の供出命令に
したがわなかったため、であった。
記者スメドレーによれば、ある地主は、
「眼鏡をかけている者、ロヒゲをはやしている者、長い着物をきている者は殺される」
というデマを流したので射殺された、という。
だが、実際には、この地主の発言は、デマとはいいきれなかった。
市内には、約三百人の
「黒殺隊」(暗殺隊)
なる一団がうろつき、
これはという
「反革命分子」
の 〝処理〟 を担任していたが、
対象になるのは地主が指摘する風姿の者が多かったからである。
つづく
これは メッセージ 1375 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月15日 和平交渉打切り決定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/08 15:02 投稿番号: [1376 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
273 〜274p
《 政府側は、この二度目の休憩時間を利用して、多田中将の説得工作を推進した。
まず陸相秘書官山本茂一郎中佐、ついで陸軍省軍務局長町尻量基少将が、
参謀本部総務部長中島鉄蔵少将をたずね、このまま多田中将ががんばりつづければ
内閣は総辞職せざるを得ない、と指摘して、中将を説得するよう頼んだ。
中島少将は次長室にむかい、多田中将は、
第二部長本間雅晴少将、第二課長河辺大佐もまねいて、相談した。
河辺大佐は、中島少将にたいする陸軍省側のアプローチは、
政府側の 〝威嚇〟 ではないかと、うたがった。
ここで内閣総辞職となれば、強硬論をはいた政府が統帥部の消極論に
おしきられたことになる。そうなれば、国内世論は統帥部を批判するだろう。
辞職、辞職というのは、そうなってもいいのかとの意をこめて、
おどしているのではないのか。
「いや、そうではないらしいな」
参謀次長多田中将は、会議の次第を回想しつつ、渋い表情で語った。
「近衛
(首相)
は本当に嫌になっているらしい。
なにかきっかけをつくって罷
(や)
めたいらしい。
外務大臣は、やめることにきめた、と、いっていたなァ」
そりゃ、まずい、と中島少将が即応し、
結局、このさい政府と統帥部との対立がおおやけになるのは
「頗
(すこぶ)
る不適当」
である、政府に一任する、との結論に達した。
この参謀本部の 〝屈服〟 または譲歩を得て、大本営政府連絡会議は、
午後七時三十分に三たび開催され、蒋介石政府との和平交渉打ち切りを議決した。
―
だが、
参謀本部第二課戦争指導班の高嶋中佐、堀場少佐は、なおも
〝抵抗〟 をあきらめなかった。二人は、次長多田中将から譲歩した旨を聞くと、
統帥部が天皇に直属している憲法上の規定
(統帥権独立)
を
「妙用」
すべきだ、と主張した。
参謀総長閑院宮と軍令部総長伏見宮から、本日の会議の決定に不同意である、
ただ内閣崩壊をさけるために政府に一任した、と天皇に上奏する。
そうすれば、天皇から政府にたいして再考をもとめられるか、
あるいは御前会議召集が指示されるであろう……。
―
しかし、
この参謀本部の 〝巻き返し工作〟 は、効果を発揮しなかった。
次長多田中将は、高嶋中佐と堀場少佐の主張に同意して、
参謀総長の上奏文を作案させるとともに、軍令部次長古賀中将にも連絡し、
軍令部総長も同様の上奏をするよう、うちあわせた。
だが、午後九時四十分の首相上奏につづき、午後九時二十分に参謀総長閑院宮、
午後十時五分に軍令部総長伏見宮の上奏がおこなわれたが、
参謀本部が期待するような天皇の意見は表明されなかった。
参謀総長は予定どおりに政府決定に反対である旨を述べたが、軍令部総長は、
次長同士のうちあわせとは逆に、政府に同意する見解を上奏したからである。
参謀本部は、文字どおりに
「孤立無援」
の立場にたち、
それ以上の 〝抵抗〟 は断念せざるを得なかった。》
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国共内戦における中国の暴虐2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/07 14:26 投稿番号: [1375 / 2250]
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫38〜39p
《 七月二十七日
―
午後四時ごろ、第十五師と第十九師の一団は長沙市内を通過して西南方の
益陽方面に走り、主席何鍵をはじめ要人とその家族も逃散した
「共匪軍」
は、まだ城外に位置していたが、糟谷領事は午後八時、
在留邦人全員に
『海軍倶楽部』
への避難を命じた。
その避難がおこなわれはじめた午後九時ごろ、突然、
省政府建設庁の前に機関銃がすえられた。
発砲と同時に建設庁に火の手があがり、その発火を合図のように、
街には、半裸体の肩に弾帯をかけ、小銃をにぎった
「共匪」
がとびだした。
難民として潜入していた
「紅軍」
便衣隊の蜂起である。
銃声がひびき、官庁は次々に襲撃され、 「紅軍」
便衣隊につづいて、
市内の無頼漢たちが槍をかかえて横行し、民家、商店を掠奪しはじめた。
長沙暴動の開幕
―
である。
午後十時すぎ、市の北端に位置する小呉門から、約千五百人の
「紅軍」
が
市内に進み、刑務所、公安局などを焼きはらった。
刑務所の場合、女性記者A・スメドレーによれば、約五百人の囚人を釈放したあと、
建物に放火し、外壁はダイナマイトで粉砕した、という。
「紅軍」
は、労働者、窮民の参加を呼びかけ、
主席何鍵の邸宅をはじめ銀行、富商宅などを襲撃させた。
火炎が夜空をなめ、銃声と叫声が市内に満ち、市民たちはあるいは逃げまどい、
あるいは屋内にひそみ、混乱と恐怖が長沙を支配した。
40〜41p
七月二十八日
−
夜明け前に、長沙市を五分割して各地区委員会が設けられ、
「労働者義勇軍」 「赤衛軍」
も組織された。
労働者、貧困階級者、そして毛沢東がいう
「ルンペン」、 ヤクザ者などをふくみ、
いずれも腕、首に赤布をまきつけて、 「家から家をまわり、商人、地主、
役人を狩り出した」
と、記者スメドレーは記述する。
「紅軍第三軍団」
主力は、正午までに長沙市内に入城した。
すかさず、 「まるで魔法のように 」
と記者スメドレーが形容するように、
街中の壁に宣伝ビラがはられた。
「ソヴィエト政府成立」「帝国主義的財産ノ没収」「大企業、銀行、交通機関ノ管理」
「友邦ソヴィエト・ロシヤト提携」「各官衙
(かんが)
機関ノ破壊」「農工兵ノ解放」
「閻錫山、蒋介石等軍閥ノ打倒」「不平等条約ノ取消シ」「租界回収」……。
註
:
官衙 (かんが)
とは役所の事
つづく
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1月15日 大本営政府連絡会議 午後の部
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/07 14:02 投稿番号: [1374 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
271〜272p
《 会議は、午後三時に再開されたが、閑院官と伏見官の両総長は出席しなかった。
午前中の会議では、二人の皇族がいたのでいくぶん遠慮もあったらしいが、
皇族不在となると、政府側の論調は、がぜん激化した。
参謀次長多田中将が、午前中と同様に、 「即断」
はさけて、
右か左かの確答を中国側からひきだすべきだ、と主張すると、
「期限マデ返電無キハ、 和平ノ誠意無キ証左ナリ。
蒋介石ヲ
(交渉の)
相手ニセズ、 (蒋が)
屈服スルマデ作戦スベシ」
陸相杉山大将が、そう反論したのにつづいて、広田外相も語気をつよめて反駁した。
「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、 支那側ノ応酬ブリハ
和平解決ノ誠意ナキコト
明瞭ナリ。 参謀次長ハ外務大臣ヲ
信用セザルカ」
首相近衛文麿は、カン高い声で、論戦に終止符をうつ形で発言した。
「速
(すみやか)
ニ和平交渉ヲ打切り、 我ガ態度ヲ
明瞭ナラシムルヲ要ス」
しかし、それでも参謀次長多田中将は自説をまげず、
軍令部次長古賀中将も、多田中将を支持する発言をこころみた。
海相米内大将は、不満をあらわにした表情で、その古賀中将の発言を制止して、
「政府ハ外務大臣ヲ信頼ス。 統帥部ガ外務大臣ヲ信用セヌハ、
同時ニ政府不信任ナリ。 政府ハ辞職ノ外ナシ」
一説には、米内海相のこのときの発言は、
「かくなる上は、参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」
というものだった、といわれるが、いずれにせよ、辞職を口走ったことは
間違いなく、とたんに、多田中将の反撥をさそった。
「明治大帝ハ朕ニ辞職ナシト宣 (のたま) ヘリ。
国家重大ノ時期ニ政府ノ辞職云々ハ、 何事ゾヤ」
中将は、双眼を涙でうるませて強調した。
が、政府側は譲らず、中将も譲歩せず、会議は再び休憩となった。》
*
広田外相の
「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、支那側ノ応酬ブリハ
和平解決ノ誠意ナキコト明瞭ナリ。」
との洞察は正しい。
1月1日
に蒋介石は、〝和平派〟
の交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰を解任し
1月2日には、王寵恵部長に
「応即厳詞拒絶」 (断乎として拒絶せよ)
と命令し
1月3日には、国民政府は、 「否認将派代表赴南京與日方講和」(日本側との
和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)
と決定している。
*
ここでは、軍部が和平を求め、文民が和平交渉打ち切りを主張するという、
世間常識とは逆の状態が出現している。
世間では、軍部が戦争を起こし、政府が止められなかったかのように
言われているが、事実は逆。
しかし、多田中将がいかに和平を求めようとしても、
中国にその気がなければ、無理だろう。
つづく
これは メッセージ 1372 (kireigotowadame さん)への返信です.
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国共内戦における中国の暴虐1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/06 18:48 投稿番号: [1373 / 2250]
中国では国民党軍や他の軍閥・そして民衆が、略奪や暴虐の限りを
尽くしましたが共産党もまた同じでした。
児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫
28〜29p
《「共産土賊軍」 は、実際には、一九二七年いらい湖南・江西省境の井岡山で
毛沢東ら共産党指導者が育成していた
「工農紅軍」
の一部・・・
・・・
『東京朝日新聞』
も、大冶に進入した
「紅軍」
を
「土賊軍」
の俗称で呼び、
その状態を次のように報道している。
「(六月)
十三日午後七時四十分、赤地に黄のギザギザを施した
例の旗を立てた土賊軍の一部が、大冶に入った。
彼ら土賊軍は十二日朝、大冶県城を占領すると同時に、お手のものの大掠奪を試み、
監獄を破壊して囚人を解放する等、遺憾なく暴れまわった。
すでにこの報道を得ていたので、土賊軍が大冶に迫ったころには、
内外人は全部避難してガラ空きになっていた。
無産階級の擁護を宣伝しつつ、鉄鉱並に石炭会社に各二十万元、
セメント会社にも二十万元を要求している。
邦人住宅は無事なるも、支那民家の掠奪され人質となったものも多い……」
兵力はわずかに約二千人、また
「土賊軍」
の呼称をあたえられるほどに
装備もおとっているが、ともかくも
「紅軍」
は、すでにその接近だけで
一都市をガラ空きにさせるほどの
「威勢」 (?)
を具備していたことが、うかがえる。
33 p
いわゆる
「共匪軍」、正確には
「紅軍第三軍団」(彭徳懐)
は、
いつしか大冶をはなれて南下し、長沙をめざしていた。
長沙は、既述したように、広西軍がひきあげたあと、
中央軍も撤退してほぼ
「ガラ空き」になっていた。
36 p
七月二十五日、 「共匪軍」
は長沙東北方約四十二キロに接近した。
長沙には、百十五人の日本人居留民がいる。
領事糟谷廉二は、その夜、在留邦人にたいして警戒と避難準備を指示しておき、
翌日、七月二十六日、主席何鍵を訪ねて情報をもとめた。
37 p
長沙市内には、 「赤から逃げてきた」
と称して、
大荷物をかついだ難民がしきりに流入していた。
実際には、この難民の多くは
「紅軍」
便衣隊であり、
その荷物の中には武器もひそませていて、
いずれもかねて指示されたアジトに潜伏、あるいは武器をかくして待機した。》
つづく
これは メッセージ 1371 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月15日 大本営政府連絡会議 午前の部
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/06 18:42 投稿番号: [1372 / 2250]
この大本営政府連絡会議では、
文民である政府が、和平交渉打ち切りを提唱し、
軍部である参謀本部が和平交渉の継続を主張します。
児島襄著
『日中戦争4』
270〜271p
《 大本営政府連絡会議は、
一月十五日、午前九時三十分すぎから首相官邸でひらかれたが、
次長多田中将は、参謀本部を出発するとき、決然たる口調で言明した。
「本日ノ会議ハ必ズ
決定ヲ保留セシムベシ」
そして、この言葉どおりに、会議での中将の
「奮闘」
はめざましかった。
政府側は、すでに
「交渉打ち切り」
を決定しているので、経緯を説明して、
陸海軍統帥部の同意をもとめた。
参謀総長閑院宮載仁元帥は、中国側が条件細目の提示を要求しているのだから、
それを知らせてやって期限付き回答をもとめてはどうか、と述べた。
次長多田中将は、中国側の口上書には交渉打ち切りは
明言されていないではないか、と指摘して、
「この回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである」
駐日・中国大使許世英を通じて中国側の
「真意」
をたしかめることも、
こころみる価値があろう。
とにかく、 「僅
(わず)
カノ期日」
をあらそい、
それだけで
「前途暗澹
(あんたん)
タル長期戦ニ移行」
するのは
あまりに危険であり、承服できない、と多田中将は、強調した。
海軍側の軍令部総長伏見宮博恭元帥、次長古賀峯一中将も、
参謀本部側に同調する意見を述べた。
政府側は、しかし、陸相杉山元大将、海相米内光政大将も、
もはや交渉は無用である、と主張しつづけた。
なんとなく、政府対大本営のほかに、省部
(陸海軍省と参謀本部、軍令部)
の対立も
加味された形となり、会議は、午前十一時四十分、昼食のための休憩にはいった。
多田中将が参謀本部に帰ると、第二課長河辺大佐と戦争指導班の高嶋辰彦中佐、
掘場一雄少佐らが、次長室をたずねた。
中将は、会議の模様と自身の決意を語り、堀場少佐は、記述している。
「(次長は)
最後迄
初志ヲ固執スル旨意志表示アリ。 戦争指導班安堵ス」》
つづく
これは メッセージ 1364 (kireigotowadame さん)への返信です.
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昭和3年5月 中国の反日教育
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/05 18:58 投稿番号: [1371 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
121〜122p
《 幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、
日本に対する敵意を幼児や若者の心に注入するために利用された。
これは国民党が蒋介石の指導の下に一九二七年南京に政府を樹立した時、
とりわけ顕著になった。
一九二八年五月、南京の国民教育会議は次の決議を採択した。
「一、国家の屈辱に関する豊富な資料を、中学校及び小学校の教科書に載せること。
二、我らの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、どの国が中国の最大の敵であるかを
国民に印象づけるために、あらゆる機会を用いて学校を利用すること。
三、国家の屈辱を描いている地図と絵を用いること。そしてあらゆる機会を
利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。
四、中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒は共に学ぶこと」
この計画の中にある中国の
「最大の敵」
とは日本を意味していた。
この計画が採択される以前においてさえも、
幼稚園の本には次のような言葉が載っていた。
「日本は敵国だ!
日本は中国から澎湖諸島と台湾を奪い、遼東半島を奪った。
日本は侵略国だ。国民政府は、日本の侵略を阻止し
これらの領土を取り返すことを目的とする政府だ」
これと同じ話はあらゆる学校や大学の教科書で、別の言葉で繰り返し述べられている。
実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を付けたことは
それまで一度も無かったのである。》
*
澎湖諸島と台湾は満州族の国・清国から割譲されたのであって、
所有者でもなかった中国人にとやかく言われる筋合いはない。
清国以前の中国はこれらを領有していなかった。
満洲人の王朝清国が初めて領有した。
中国の理屈は泥棒の理屈。
120p
《 一九二八年六月、南京政府の資金援助を受けた反日連盟国民大会は次の宣言を発表した。
「我々の反日運動の目的は、日本との経済断交を引き起こすことによって
彼らを打倒することである。
その余波はやがては他の全ての帝国主義国家に及ぶだろう。
その最終目的は全ての不平等条約を取り消すことにある」
一九二九年八月までに、政府の資金援助を受けた
「不平等条約撤廃連盟」
は、
日本商品を扱っている中国人の商人を直接処罰することによって、
反日ボイコットを公然と強行した。これは日本との外交上の紛糾を引き起こした。
日本の抗議をかわすために国民政府は一九二九年八月、
そのような公然たる直接の行動を停止した。その代わりに国民政府は
「あらゆる地域の商人連盟
(政治的な協会ではない)
は、
祖国を外国の経済的侵略から扱うために自ら責任を負うべし」
という命令を出した。
国民政府は
「個々の商人による日本商品の取引の全ての事件を調査し
かつ適切に処分しないような商人連盟は処罰の対象になる」
という訓辞を掲げた。この指令は当然の事ながら秘密に流された。》
*
済南事件の最中もしくは直後にこんな決議や宣言をしている。
自分達の悪逆非道を棚に上げ、被害者の日本を悪者に仕立てている。
これは メッセージ 1369 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月14日 ベイツの報告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/05 18:43 投稿番号: [1370 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
展転社 164p
《 南京アメリカ大使館員のアリソン宛に、ベイツから一月十四日付で出された手紙がある。
〈 昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。
彼らの行動の詳細は十分には分かりません。
というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。
とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。それらの日本人たちは憲兵で、
少なくともその一部は、中学校の門に配備された衛兵たちでした。
彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。
(中略)
この手紙の執筆は、漢口路一九号のアメリカ人の家から
(家にはアメリカ国旗が掲げられ、アメリカ側と日本側の布告文が門に貼ってあります)
憲兵
(特務機関から支給された憲兵の腕章をしている兵隊)
を追い出すために
三〇分間中断されました。 その憲兵は塀を越えて入り、
大学教師と大学病院のブラディ
(Brady)
博士の個人的財産を略奪しようと、
一時間にわたって物色しまわっていたのです。
その家は、上記の
(引用者註・小粉橋三二号)
日本軍の地区事務所から
およそ二五〇ヤード
(約二二九メートルのところにあります。)〉 (①155〜156頁)
一連の事件を支那人が起こしているとの噂に対して
「馬鹿か狂人」
と表現した
外国人グループのリーダー格だったベイツは、ここに書かれている犯人達の服装を、
支那人に変装した日本兵のものと断定してはばからない。》
注:
①は青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
*
中国人の布靴を履き、中国服を着ているのを目撃しながら、
ベイツは、飽くまでも、犯人を日本軍にしなければ、気が済まないようです。
尤も、彼も、後に真相に気づくようになりますが。
167p
《 三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に次のような一節がある。
資料名 「E八八 − 一〇〇」 についての注意である。
〈もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。
彼らは、たびたび私たちを困らせました。
アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。…〉》
これは メッセージ 1342 (kireigotowadame さん)への返信です.
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済南事件9 日本人居留民虐殺
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/04 18:41 投稿番号: [1369 / 2250]
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
190p
《 日本人居留民のうけた被害は、掠奪された戸数百三十六、被害人員四百人、
被害見積額三十五万九千円のほかに、中国兵の襲撃による死者二人、
負傷者三十余人、暴行をうけた女性二人と記録されている。
ただし、館駅街の邦人十二人の行方がわからなかった。
裸体にされ後手に縛られて中国兵に連行されるのを見た、
という情報もあり、捜索がつづけられた。》
197〜198p
《 館駅街居留の行方不明邦人十二人については、
天津歩兵隊第六中隊が捜索していたが、中国人市民の通報によって、
同街北側の十王殿付近の膠済鉄道線路沿いの土中から死体が発掘された。
死体は、次のように酸鼻をきわめたものであった。
▽藤井小次郎 (土産物商) = 頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。
陰茎切除。
▽斎藤辰雄 (桐材商) = 顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。
▽東条弥太郎(土産物商) = 両手を縛られて地上をひきずられた形跡。頭骨破砕。
小脳露出。眼球突出。
▽同妻きん = 両腕を紐帯 (しごき) で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。
肋骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。
▽鍋田銀次郎 (雑貨商 )= 左脇腹から右脇に貫通銃創。
▽井上国太郎 (雑貨商) = 顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
上膊部に刺創、左股に貫通銃創。
▽宮本直八 (土産物商) = 胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。
頭部に鈍刀による切創。陰茎切除。
▽多比良貞一 (土産物商) = 頭部にトビ口様のものを打ちこまれたらしい突創。
腹部を切り裂かれて小腸露出。
▽中里重太郎 (土産物商) = 顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。
▽高熊うめ =
肋骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
右脚の白足袋で婦人と判明した。
他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能であった。》
208p
《 堤口部落を通過するころ夜明けをむかえ、午前六時、
同部落東北約四百メートルの日本人墓地についた。
見ると、墓の多くはあばかれ、葬儀場や火葬室も破壊されていた。
あばかれた墓の周囲は、砕かれた骨壺の破片や骨片が散乱して、
将兵はあらためて中国兵の 「暴虐」 ぶりに憤怒した。
「惨状視ルニ忍ビズ、士卒ノ敵愾心
(てきがいしん)
ヲ
刺戟
(しげき)
セルコト
大ナルモノアリ」》
*
この事件について、華北の有力外字紙
「京津タイムス」
は
「日本軍がいなければ外国人はことごとく殺戮されただろう」
と報じ、
英紙
「デイリー・テレグラフ」
は
「支那人は略奪と殺人を天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」
「日本人の忍耐にも限度がある」
と書いています。
これは メッセージ 1367 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベの日記 1月14日 2 返書
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/04 18:31 投稿番号: [1368 / 2250]
《 ラーベの返書
一九三八年一月十四日
於南京
W・マイアー社長の一九三八年一月三日付の書状に関して
ドイツ大使館を通じてお手紙いただきました。
昨年、漢口へ行くようにとのご連絡をいただきましたが間にあいませんでした。
電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでにクトゥー号で発ったあとだったのです。
また韓さん一家をはじめ、中国人従業員はみなオフィスに避難しておりましたので、
彼らを見捨てることはできないと考えておりました。
あのときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した
国際委員会の代表を引き受けました。
現在ここは二十万人もの中国人非戦闘員の最後の避難場所になっています。
これを組織するのは必ずしも容易な仕事ではありませんでした。
しかも日本から全面的には承認を得られず、
中国軍上層部が、ぎりぎりまで、つまり南京から逃げ出すまで
部下と共にここに駐留していたために、いっそう困難になりました。
今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、
安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか養ってこられました。
ところが今度、
「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」
との命令が日本軍から出されたのです。
市内に秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。
今までのところ、申請はすべて却下されています。
安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許し下さいますよう、
遅ればせながらお願い申し上げます。というのも、わずかとはいえ、
我々外国人の存在が大ぜいの人々の禍福を左右するからです。
十二月十二日以来、私の家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。
たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べて生きています。
ナチ式敬礼をもって
ジョン・ラーベ 》
*
ラーベに会社から、南京から引き揚げて来いという指令が来たようですね。
彼は、会社の職員として南京に駐在していた事を忘れているようです。
これは メッセージ 1366 (kireigotowadame さん)への返信です.
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済南事件8 佐々木中佐の遭難2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/03 17:02 投稿番号: [1367 / 2250]
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
186〜187p
《中佐は、両脚をふんばって頑張り、なおも身体じゅうにおそいかかる拳の雨にも
耐えた。中には、腕をのばして指を中佐の両眼に近づける者もいる。
眼をえぐってやる、といわんばかりで、中佐が汗にかすむ両眼をむいてにらむと、
ケケ、と奇怪な笑声を残して後退した。
坐ってはならぬ、倒れてはならぬ、そのときは殺される……。
中佐は汗まみれになって中国人群集にこづきまわされ、
殴打されながら直立姿勢を維持していたが、ようやく、乗馬で通りかかった
顔見知りの国民革命軍将校が気づき、驚いて下馬してきた。
「ニイ放心罷」(安心されよ)
将校は中佐に叫び、中佐をしばった縄を持つ中国兵にささやき、
再び馬にとびのると、馬腹をけって城内に疾走した。
中国兵が中佐の回りに人垣をつくり、いずれもモーゼル一号拳銃をかまえた。
拳銃の垣根で中佐を 〝保護〟 するかの如くだが、
とびこんで中佐をなぐる兵士を阻止することもなかった。
顔を肩にこすりつけて汗をぬぐい、冷静をとりもどした中佐は、周囲の民家の窓に
鈴なりになった中国人市民がくり返すシュプレヒコールに、気づいた。
「殺 (シャー)」 (殺せ)、 「シャー」 「シャー」 ……。
自動車が走り寄り、一人の士官が演説した。
日本帝国主義、銃殺などの単語が中佐の耳に聞こえ、そのたびに
蝟集
(いしゅう)
した群集は拍手し喝采した。中佐は安堵した。
「予を宣伝の材料に使っている……支那人特有の芝居気たっぷりの所作をやって、
結局予の安全を期するつもりだ」
―
と、推察できたからである。
この中佐の推理は的中し、士官の演説が終ると、中佐は普利門に連行された。
普利門にたどりつくと、第四軍団長方振武が自動車でむかえ、
中佐を総司令部に輸送した。
中佐は、両脇をかかえられて総司令部内の一室にはこばれたが、
ベッドに横になったとたんに失神した。
打撲をうけた全身が激痛でたわむうえに、呼吸も困難になっていたのである。
191p
午前十一時すぎ、南京駐在武官佐々木到一中佐が城内から
日本総領事館に送りとどけられてきた。
右腕、下顎骨の挫傷に加えて全身打撲というほうたいだらけの姿は、
文字どおりにふくろ叩きにあった事情を告げている。
*
佐々木中佐のように、中国側に立って行動している人でも、
こういう扱いを受ける。
親中の日本人は、自分は中国人に良くしてるから大丈夫と
思っているだろうが甘い。
松井大将ように、日中友好に尽力し、日本では蒋介石の身元引受人になり、
戦争では、中国人を愛護せよと命令を出していても、
南京大虐殺の汚名を着せられ処刑されるのだ。
つづく
これは メッセージ 1365 (kireigotowadame さん)への返信です.
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ラーベの日記 1月14日の1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/03 16:49 投稿番号: [1366 / 2250]
《 一九三八年一月十四日、南京にて
(次の手紙を)
受け取る。
ジーメンス中国本社からの手紙一九三八年一月三日
於上海
ラーベ様!
まずは新年おめでとう。
激動の日々を過ごされ、大変な経験をなさったようですね。お元気だとよいのですが。
そちらにもっと残るおつもりかどうか、あのとき連絡していただきたかったと思います。
先日カルロヴィッツ社のバウアー氏とお話ししたのですが、
氏も、これ以上南京にいてももう意味がないのでは、というご意見でした。
ですからこちらとしては、ラーベさんが時機を逸することなく、
つまり陥落の前に南京を去って漢口へ行き、
大使館と連絡をとるとばかり考えていたのです。
それで三回も電報を打ったのですよ。
プロープスト氏は目下、香港です。
ラーベさんを香港に配属したらどうかと思い、問い合わせました。
返事がありしだいお知らせします。
お宅の家具調度がどういう状況かは知りませんが、
荷物の梱包を早いうちに済ませてあればいいと思っています。
もしまだでしたら、大使館に置かせてもらうことはできないでしょうか。
上海へくる件については、そう簡単ではないにしても、いずれ打つ手はあるでしょう。
できることならすぐにお返事をいただきたいと思います。
敬具
W・マイアー》
つづく
これは メッセージ 1361 (kireigotowadame さん)への返信です.
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済南事件7 佐々木中佐の遭難1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/02 17:06 投稿番号: [1365 / 2250]
日本側の軍使による停戦伝達は失敗しましたので、
今度は佐々木中佐が行く事にしました。
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
184〜185p
《 同じころ、城内から停戦勧告をこころみようと出かけた南京駐在武官
佐々木中佐も、同様の危急を体験した。
中佐は、国民革命軍総司令部の中国人少佐とともに、 「済南特機」 (済南特務機関)
と
貼紙した乗用車で、城内から普利門外の商阜地にはいった。
日本軍、すなわち東地区担任の天津歩兵隊三個中隊は、既述したように
一応の戦闘を終え、重点警備地域に結集しているので、
中佐の車は、しばらくは中国人の
「人海」
をすすまねばならない。
中佐は、そこで、日本軍第一線に到達したさいの用意の小型日章旗を
「尻の下にかくし」
いたが、普利門西方約三百メートルの中国軍陣地前で停車させられた。
「不要緊」(構わぬ)
同行した中国人少佐が運転手を激励して発進を命じたが、とたんに数人の
中国兵が自動車にとびつき、運転手につづいて中佐と少佐をひきずりだした。
日章旗を目にした兵が叫声をあげると、わらわらと中国兵が押しかけ、
その騒ぎに気づいてわやわやと中国人市民も集まった。
中国兵も中国人市民も、のしかかるように中佐にせまり、
頭、顔、身体をなぐり、腕をねじあげては、またなぐった。
「驚きにたえぬことには、もみ合う間に、予の身辺に密着してはポケットを
さぐり、時計、財布、手帳、ハンカチ等すべての所持品を奪ったことである」
あとで気づくと、上着、ズボンのポケットは全部切り裂かれていて、
中佐は、さすが、と〝中国式掠奪法〟 のす早さと巧みさに感嘆した。
が、そのような事情に気づくのも後日のことである。
中佐は、必死に体当りで抵抗したが、文字どおりに
「衆寡敵せず」
の形になり、
腕をしばられて身動きができなくなった。
一人の中国兵が近づき、拳銃を中佐の肩胛骨
(けんこうこつ)
にあて、
左手で中佐をひざまずかせようとした。
まわりは群集である。射弾が仲間にあたらぬよう、中佐をひざまずかせ、
肩に垂直に射撃して中佐を殺す意図が、察知される。》
つづく
これは メッセージ 1362 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月14日 中国の返答に反発する日本
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/02 17:00 投稿番号: [1364 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
267〜270p
《 王部長の口上書は、一月十四日午後四時すぎ、
駐日ドイツ大使H・ディルクセンから外相広田弘毅に伝達された。
「一九三七年十一月五日、日本側提案になるいくつかの和平条件が、
貴大使 (註、トラウトマン) の好意によって南京で提示された……」
広田外相は、まずこの口上書の書き出しに眉をひそめた。
和平条件をドイツを通じて提示したのは、たしかに日本側である。
だが、それは、国際紛争を鎮静させ、とくに中国を
「破滅から救おう」
という
ドイツの意向があり、中国側の和平意思も確認されたからである。
それなのに、口上書の語調は、
いかにも日本側から中国に
「和ヲ請ウ」
たかの印象をあたえる。
読みすすむにつれて、広田外相は眉のひそみを深めていたが、大使ディルクセンに、
「これは明らかに逃げ口上ですな。中国側は、諾否いずれにせよ、
回答するために必要な材料をあたえられたはずです。
だいいち、敗けて和平をもとめるのは中国であって、日本ではない」
大使ディルクセンも、内心では、広田外相の論評に同感であった。
「和平交渉の機会をとらえなかったのは、むしろ中国側であったといえる。
蒋介石がトラウトマンに会おうとしなかったこと、中国政府が日本側条件に
ついての正式会議をひらかなかったことなどが、その事情を告げている」
大使ディルクセンは、のちに、そう外相Cノイラートに報告するが、口上書を
うけとったときも、それが中国側の
「拒否回答」
であることを感得していた。
それでも、大使ディルクセンは、日本側の四条件はともかく、細目条項は
文書では中国側に伝達していない、書面にして提示してはどうか、と、進言した。
広田外相が、おりから首相官邸で開催中の閣議にことの次第を報告すると、
閣僚たちも中国側の口上書を
「遷延策」
とみなし、御前会議決定の
「支那事変処理基本方針」
にもとづく措置をとることに、意見がまとまった。
口上書は、蒋介石政府が
「和ヲ求メ来ラザル」
表意だと判断できるので、
日本は、こんごは蒋政府を
「対手トスル事変解決ニハ期待セズ」
という
声明を発表し、 「新興支那政権」
の育成にはげむ……。
参謀本部は、しかし、軍令部と連絡して、政府だけの決定にせず、
統帥部をまじえた大本営政府連絡会議での討議を要求した。
参謀本部としては、既述したように、 「支那事変」
を
「日中戦争」
にせずに
早く終らせて、本来の主敵であるソ連にそなえたい。
中国との戦いが長期化する場合は、ソ連にたいする配慮もふくめて、
「挙国的決意」、明確な理念、見通し、方針、計画が必要である。
そのうえでの長期戦突入なら、まだ良い。
ところが、政府は、それらの必須要件をぬきにして、
長期戦を必至にする
「蒋介石との絶縁」
にふみきろうとする。
しかも、その主張は、いわば蒋介石の態度が悪い、 「言い方が怪しからん」
など、
いかにも皮相的、粗雑な論拠にもとづいている。
こんなことで国家を長期、大規模な戦争になげこまれてはたまらないし、
政府がその音頭取りをするのもおかしなことである。
「軍人が長期持久戦を心配する以上に、文官が之に関して深思熟考すべきではないか」
第二課長河辺虎四郎大佐が首をひねると、参謀次長多田駿中将も、
「強硬ナルベキ統帥部ガ反
(かえ)
ッテ弱気ニテ、
弱気ニナルベキ政府ガ強気ナリ……奇怪ニ感ゼラル……」
これも議会対策のためか。あるいは中国進出をいそぐ財界に
しりをたたかれているおかげか。》
これは メッセージ 1358 (kireigotowadame さん)への返信です.
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チ○カス北朝鮮工作員カルト発見やで〜
投稿者: momentheight 投稿日時: 2012/01/02 12:20 投稿番号: [1363 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部出身岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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済南事件6 日本の停戦軍使撃たれる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/01 16:22 投稿番号: [1362 / 2250]
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
178〜179p
《 蒋介石は、急いで随行している南京駐在武官佐々木到一中佐に要請した。
「革命軍にすぐ停戦を命ずる。白旗をたてて歩かせる。
日本軍も停戦するよう尽力をお願いしたい」
その十分後、午前十一時ごろ、国民革命軍第四十軍長副官を名のる人物から、
総領事館警察署に電話がかかってきた。
「中国軍ニ対シテハ
射撃ヲ中止セシムベキ ニツキ、
日本軍ニ於テモ
即時射撃ヲ中止セラレタシ」
第六師団参謀長黒田周一大佐は、 「日本軍ノ射撃ハ自衛」
のためである。
中国側が射撃を中止すれば
「自ラ停戦」
になる、と返答した。
しかし、中国側は実際には
「射チ方止メ」
を命令しないのか、
命令が到達しないのか、それとも受令した出先き部隊が承服しないのか、
そのいずれにせよ、銃撃を中止する気配はなく、日本軍も応戦をやめなかった。
180p
午前十一時三十分、蒋介石は、総領事代理西田畊一を通じて再び停戦を要望してきた。
師団長福田中将は、中国側の優勢と、乱戦気味に連絡困難になっている指揮下
部隊の状況とを考えあわせて、師団の態勢立て直しのために停戦に応ずることにした。
西田総領事代理に承知の旨を中国側につたえさせ、正午、停戦を下令した。
・・・
181p
中国兵は路地と民家の庭内を右往左往してはやみくもに発砲し、銃声はより一層に激化した。
旅団司令部
(横浜正金銀行済南支店)
では、参謀菊池門也中佐が、中国側に
停戦を勧告すべく、捕えた国民革命軍外交処弁事康明震を派遣することにした。
午後一時二十分、康明震は同じく捕えられた国民革命軍士官二人とともに、
白旗をふりながら二馬路を西進した。
憲兵伍長田中新ほか三人が護衛として同行した。
中国側は、白旗を左右にふる一行に容赦なく射撃を加え、
康明震らは立ちどまったまま前進を拒否した。
182p
田中伍長が先頭に立ち、 「不打」 (射つな) 「不打」
と叫んで
一行を引率していたが、緯五路二馬路の交差点にさしかかったとき、
南側民家に潜伏する中国兵の機銃射撃をうけた。
田中伍長は戦死し、一行は遺体を収容して旅団司令部にひき返した。
184p
斎藤少将は、とりあえず装甲自動車の
「上面及ビ周囲ニ停戦文ヲ大書」
して、
通訳将校河野又四郎中尉に宣伝ビラを散布しながら停戦勧告をさせることにした。
しかし、中国側に接近した装甲自動車は、たちまち猛射撃をうけ、
勇敢に身をのりだしてメガホンで叫ぶ河野中尉も負傷して、計画は頓挫した。》
*
蒋介石が狡猾なのか、中国兵が命令に従わないのか、信じた日本人がバカなのか、
停戦を要求した、中国側が射撃を止めず、日本の軍使が撃ち殺されている。
つづく
これは メッセージ 1360 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月13日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/01 16:16 投稿番号: [1361 / 2250]
一月十三日
《「安全区国際委員会を国際南京救済委員会に変更する」
という私の提案は
委員会で否決された。せっかくいま、日本から事実上認められているのに、
もし自発的に解散したりしたら、これ幸いと黙殺されるおそれがある、というのだ。
私が多数派の意見に従ったのはもちろんだ。
つねに足並みをそろえて行動しなければ。
イギリス海軍を通して上海の中国本社からの無線電報を受け取った。
一月十日づけで、ここをたたみ、韓をつれてできるだけ早く上海へくるように、とある。
明日
「外国人も中国人もいまは街から出られない」
と返事をしよう。
クレーガーも何度か上海へいく許可をもらおうとしたがだめだった。
今日、ローゼンとクレーガーが城壁の外へ出た。
戦災孤児院の近くにあるシュメーリング家と、
中山陵記念公園地区にあるユッケルト家の様子を見にいったのだ。
大使館の車で戻る途中、福田氏や日本の将校たちに停められた。
将校たちは、なぜ城壁の外に出たのか、どうして日本軍の命令に従わないのかと
問いただしたそうだ。話しながら双方ともしだいに興奮していった。
ローゼンは言った。私は日本軍の命令に従うなどと約束したことは一度もない。
私には外交官として職務をきちんと果たす権利と義務がある。
ちょうどいま、ドイツ人の財産の被害状況を確認しようと思っているところなのだ。
すると日本側は、その旨を文書にしろと言ってきたので、ローゼンはそれを書いて渡した。
そして帰るとすぐに上海のドイツ大使館に電報を打ったという。
さて、どうなることやら……。
十六時
国際赤十字の会議が鼓楼病院で開かれ、ジョン・マギー、マッカラム、
クレーガー、ロウ、それに牧師の沈玉書さんたちが出席した。
赤十字から委託されている入院患者を無料で治療するかどうか、
今後はマッカラムが決めることになった。
いままでマギーが担当していたのだが、ここのところ無償で治療する患者を
受け入れすぎたからだ。なかには、全くの無一文だと申告していたのに、
ベッドに三百ドル隠していた女の人もいた。
張のかみさんが退院するので、車で迎えに行った。病院に払うにも、
先月の給料の三十ドルしかないというので、残りは私が払った。》
*
「無一文だと申告していたのに、ベッドに三百ドル隠していた」
これだけ騙されても、まだ、ラーベ達は中国人を信用するのを、やめない。
これは メッセージ 1356 (kireigotowadame さん)への返信です.
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済南事件5 電話線を切られた日本軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/31 17:00 投稿番号: [1360 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
175p
《 兵舎に利用された民家は、強固な土塀の中に数家屋が密集していて、
出入口は一個所しか無く、二人の中国兵が立哨していた。
久米川小隊が、岡田巡査にたいする暴行犯人をつかまえるために近づくと、
歩哨は発砲し、屋内からも射撃してきた。
久米川小隊は応戦し、二人の歩哨を射殺するとともに、
小隊長は中隊主力の出動を意見具申すべく、伝令を送った。
・・・
銃声を合図のように、国民革命軍兵士は商阜地内の随所で掠奪と射撃を開始した。
天津歩兵隊第四中隊本部には、久米川小隊からの伝令が到着する前に、
今度は緯一路三馬路交差点付近で中国兵多数が日本人民家をおそっている、
国旗を破棄している、という急報がつたえられた。》
176〜177p
《 斎藤少将は、ほぼ総領事館到着と同時に天津歩兵隊第四中隊長
難波大尉の電話で、日中軍交戦を知った。
少将は、ただちに参謀菊池門也中佐に現場偵察を命じ、また旅団司令部
(横浜正金銀行済南支店) の装甲車を出動させることにした。
だが、中国兵はいち早く日本側の軍用電線を切断したとみえ、
旅団司令部にも師団司令部
(潘公館)
にも電話は通じない。
天津歩兵隊は、旅団司令部に近い朝鮮銀行に本部を置いているが、
難波大尉は市内電話で連絡してきた。
その市内電話も、いまや話し中や混線、あるいは交換手が出たと思うと
プツリと切れて、用をなさない。
師団長福田中将は、幕僚と連絡がとれないとわかると、むっつりと黙りこみ、
斎藤少将も、副官中西昌音大尉をオートバイで旅団司令部に走らせたあと、
憮然
(ぶぜん)
と天井をあおいで瞑目した。
聞こえなかった銃声が、風にのってひびいてきた。戦闘が激化した証拠である。
・・・
押取刀 (おっとりがたな) ― というが、日本軍部隊はその表現そのままに、
次々に済南・商阜地東部の日中軍衝突現場に急行した。
東地区担任の天津歩兵隊は、所属三個中隊のうち、第四中隊が総出勤したのに
つづいて、第五中隊(石井民恵大尉)、第六中隊(高久伸一大尉)も
それぞれ第一、第二小隊を出動させた。
・・・
街路の両側に小路が入り組み、密集した民家の土塀越しに射弾が集中し、
おまけに強風が砂塵を吹きつけるので、攻撃前進は困難であった。
それでも、中国兵がたむろする民家を一軒ずつ掃討して進んだが、
もともと両軍の衝突はこの麟趾門街での中国兵の掠奪に発起しているように、
占領する中国人民家のほとんどが掠奪、暴行されていた。
「支那人民ノ柱ニ縛ラレアル等、惨状目も当テラレズ」
といった光景も、少なくなかった。》
つづく
これは メッセージ 1357 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月13日 中国の返答と日本の会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/31 16:34 投稿番号: [1358 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
266〜267p
《 国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。戦ってさえいれば、
「日本亦終必帰於失敗也」
蒋介石は、かねての持論をくり返し、
適宜に (日本側に) 対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。
―
唖然、あるいは呆然、
という表現があてはまる表情で、駐支ドイツ大使O・トラウトマンは、
外交部長王寵恵を注視した。
王外交部長は、前日、閣議で検討したうえで日本側への回答をつたえる、と述べ、
さっそく一夜あけたこの日、一月十三日、その回答を大使トラウトマンに提示した。
閣議がひらかれた様子もなかったので、大使がその点をたしかめると、
じつは回答は前夜にできていた、と、王部長は、涼しい顔で返答した。
大使トラウトマンは、そう述べたときの外交部長王寵恵の唇のゆがみに、
ふと不審感をさそわれたが、手渡された口上書を一読して仰天した。
口上書は、これまでの大使トラウトマンの日中間の 〝伝書使〟 的業績を
回顧したあと、日本側の
「改変された条件」
は範囲がひろすぎる、と
指摘して、次のように結文していた。
「ゆえに、中国政府は、慎重な検討と明確な決定をおこなうために、
新たに提議された条件の性質と内容を確定されることを望む」
それだけである。
日本側の条件については、全体としても、各個にも、諾否も修正要求も示されていない。
大使トラウトマンは、さんざんに待ち、かつ、催促をかさねて得た回答が、
たったそれだけであったことに驚くとともに、不安を感じた。
「外相閣下、閣下は、日本側がこの回答をいいのがれとみなす懸念があるとは、
お考えになりませんか。私には、この回答は、
(日本側条件を)
理解する意思がない旨の表明と思えます」
大使トラウトマンは、既述したように、戦争がつづけば中国は敗北すると
信じこんでいる。いま日本と講和するのが、
中国と国民政府が生きのびるためのまたとないチャンスであろう。
そのチャンスを逃がすのか
―
との意をこめての大使トラウトマンの発言であったが、
外交部長王寵恵は、日本側条件の詳細を知るまではなにもいえない、というだけであった。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
473〜474p
《 一方、日本では、十三日の閣僚会合で
「いつまでも便々として中国側の回答を待っておるわけにもいかないから、
十五日中に中国側から確答がない場合には、
直ちに、国民政府との交渉に期待をかけず、
事態処理の第二手段をとる旨の声明を出すべきである。
これは明十四日の閣議で決定する」
という話し合いが成立した。》
これは メッセージ 1353 (kireigotowadame さん)への返信です.
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済南事件4 防備撤去で掠奪開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/30 16:32 投稿番号: [1357 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
170p
《 福田中将は、・・・到着後、前述した蒋介石の申し入れを
酒井隆少佐から聞くと、ただちに反駁の書簡をとどけさせた。
「本司令官ハ……貴見ニ依リテ
行動ヲ左右セラルベキモノニアラズ……
本司令官ノ軍統率ノ目的ハ……一ニ 居留民ヲ保護スルニ在リ。
従テ、承ルガ如キ 事項ノ要望ハ
受取ルベキ筋合ノモノニアラズ」
にべもない拒否回答である。
が、斎藤少将は、少なくとも警備態勢の緩和は必要だ、と考えた。
171〜172p
午後三時三十分、斎藤少将は師団長福田中将には連絡することなく、
同夜の防禦物撤去作業を各部隊に命令した。
・・・
日本側が徹夜で防禦物の撤去作業をしていると、あるいは中国兵の一団が
その作業を妨害したり、あえてその前で中国人市民に反日演説をおこなう者もいた。
そして、阻止されないとわかると、ぞろぞろと商阜地内に流れこみ、
中国人民家に強制民宿した。
斎藤少将の処置にたいする批判の適否はともかく、
五月二日夜、商阜地にはこれまで以上に中国兵が増え、
日本人の居住家屋は軍民を問わずに中国兵の宿舎に隣接する環境になった。
174〜175p
午前九時二十分ごろ、国民革命軍の暴兵約三十人が、麟趾門街の
『満州日報』
取次販売店吉房長平宅に乱入して、掠奪をはじめた。
付近の緯二路派出所に急報され、総領事館警察巡査岡田静雄、
同山下茂一が佩剣
(はいけん)
をにぎりしめて現場に走った。
ほぼ同時に、旧朝鮮銀行社宅の天津歩兵隊本部に
『済南日報』
社から電話がかかった。
事件を知らせて、現場に案内するから来社を乞う、という。
隊長小泉中佐は西田総領事代理に随行して蒋介石を訪ねている。
隊長代理・第四中隊長難波元吉大尉は、即座に第一小隊長
久米川好春中尉に出動を命じた。
天津歩兵隊は、ほぼ四月三十日から不眠不休で警戒態勢を維持し、
既述したように、国旗損傷その他の中国側の
「侮日」
言動を視認
かつ体験して、血圧上昇度と興奮度を高めていた。
「うぬッ」 「野郎ッ」
など、思わず洩れる怒声と罵声を吐き散らしながら、久米川小隊は
『済南日報』
社を経て現場に急行した。
吉房長平宅に到着してみると、先着した二人の巡査のうち、岡田巡査が
暴兵にふくろ叩きにされ、佩剣をうばわれて射殺される寸前であった。
久米川小隊は吶喊
(とっかん)
し、暴兵はあわてて東方的百メートルの
〝民宿〟 に逃げこんだ。》
つづく
*
南京でも済南でもそうだが、防備を外した後から襲撃されている。
日本の平和主義者は
「軍備があるから攻撃される、無くせば攻撃されない」
と言うが、それは日本人の発想であり、中国人相手では逆効果になる。
中国は防備の無い所を攻める。
孫子の兵法
虚実篇に曰く、
「攻めて必ず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり」
計篇に曰く
「兵とは詭道(きどう) なり。故に、・・・・其の無備を攻め、其の不意に出ず。」
これは メッセージ 1355 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月12日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/30 16:20 投稿番号: [1356 / 2250]
一月十二日
《 南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。
私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、
竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。
ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、
ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。
この件について、全員の意見が一致した。
すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ
事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。
こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった!
米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。
日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。
肝心の家が焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、
てんでおかまいなしなのだ。
日本人と友好的にやっていくにはどうするかとあれこれ考えた末、あることを思いついた。
南京安全区国際委員会を解体して、国際救済委員会を設立し、
日本人にも出席してもらうのだ。やってみよう。
これがうまくいくかどうかはやってみなければわからない。
まずはじめに仲間と各国大使館の人たちに相談しなくてはならない。》
これは メッセージ 1347 (kireigotowadame さん)への返信です.
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