竹島
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
>なるほど
投稿者: llllowollll 投稿日時: 2005/06/13 13:54 投稿番号: [9837 / 18519]
>ここで愚生の正論に刃向かえない国際法ゴロ共が、おこちゃま掲示板で暴れているわけですね。
正論というのは根拠に基づく必要がありませんが、いまだかつて、AHO君は必要な根拠を提示したことがありません
つまり、それは正論ではなく、単なるAHO論に過ぎないわけです
少なくともこのトピで放置されているのはAHO君の方ですよ(w
君はマスコットらしく振舞えばいいんですよ。
これは メッセージ 9834 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9837.html
無理ですね
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 13:00 投稿番号: [9836 / 18519]
1905年島根県編入は、その翌年、日本政府の統治機関である統監府が実権を握る内部(内務省に相当)が事実無根と指令したことにより、効力を失っています。
その後、日本が実権を握る大韓帝國の諸機関に於いて、例えば農水商工部にしても、一貫して朝鮮所属の島嶼として取り扱っており、反対にその後島根県の管轄とした地図が一枚もないことや、内地の府県境界の法的根拠を網羅した本にも島根県編入の事実は記されていないことから、1905年の島根県編入は失効したものと見なされるでしょう。
分かりやすく言えば、日本が一旦事実無根と云っておきながら、後から勝手にぎゃあぎゃあと蒸し返しているのがこの問題の構図でしょう。
これは メッセージ 9835 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9836.html
「韓国水産誌」に竹島を朝鮮所属の島嶼
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/13 12:54 投稿番号: [9835 / 18519]
>統監府統治下の1907年に「韓国水産誌」に竹島を朝鮮所属の島嶼として記載しており
Okino:
1905年,日本政府は島根県に竹島名にて,県に所属させているから,この事を日本政府が破棄しない限りは,「韓国水産誌」に竹島を朝鮮所属の島嶼として1907年に記載しても,これは無効である
これは メッセージ 9832 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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なるほど
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 12:42 投稿番号: [9834 / 18519]
ここで愚生の正論に刃向かえない国際法ゴロ共が、おこちゃま掲示板で暴れているわけですね。
構わないから放置してやって下さい。
これは メッセージ 9833 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9834.html
引用: 論争,石島 ー2ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/13 12:31 投稿番号: [9833 / 18519]
参考
引用:
397 :386−387:2005/05/10(火) 20:30:45 0
>>395、>>396
国際司法裁判所で
「石島=獨島」説に反対するなれば、
「石島=獨島」を反証しなければならないのは日本側。
さて反証できるか?
>日本が韓国にある無人島に「ウリ島」と勝手に名付けて「ウ
>リ島は日本のもの」と官報に掲載して10年後に領有権を主張す
>るようなものだ。
1900年10月25日前は竹島は無主地ですよ。
>重要なのは、他国が当事国の権力の発現を知
>りうる状況であったということ
勅令第41号は韓国内で公表されていますから
在韓日本公館に知れ渡っていたはずですが
鬱陵島は日本漁民やら日本伐採業者らが利害関係を有する
重大な島でした。
日本人の権益を守るために存在する在韓日本公館が
これに関する情報を得ていないほうがおかしい。
399 :392:2005/05/10(火) 22:13:08 0
>「石島=獨島」を反証しなければならないのは日本側
「石島=獨島」を主張しているのは韓国側ですね。
「no doubt as to their specific reference to the
islands」。想像ではなく、「specific reference」で
立証願いします。
400 :392:2005/05/10(火) 22:19:48 0
>在韓日本公館に知れ渡っていたはずですが
国際的に通じる呼称ではなく(当時の一般的な呼称はリ
アンクルロック)、緯度・経度も不明な「石島」として
公表したところで、竹島のことだと誰が気が付くのですか?
他国は全くわからないし、知りうる状況にない。即ち、
external signsではありません。
401 :386−387:2005/05/11(水) 09:22:21 0
>>399
「石島=獨島」説を反証しなければならないのは
「石島=獨島」説に反対する側かつ韓国の竹島占拠に反対する側です。
>>400
位置不明は紛争の要因にはなっても「石島=トクド」の領有宣言性を
崩すものではありません。
402 :392:2005/05/11(水) 11:38:02 0
> 「石島=獨島」説を反証しなければならないのは
石島=獨島「説」。「説」では駄目なのです。
「no doubt as to their specific reference to
the islands」
国際法が要求する証拠を提示できないのであれば、
石島=獨島を立証できていないということです。
> 位置不明は紛争の要因にはなっても「石島=トクド」の領有宣言性を
崩すものではありません。
国際法の実効支配や実効的な先占の要件を満たして
いないことは、400での指摘のとおり。他国が知りうる
ものではないということです。
403 :386−387:2005/05/11(水) 14:15:03 0
>>402
韓国の竹島占拠や韓国の石島=獨島主張に異議を申し出たり
抗議する方が異議がある根拠、裏づけを説明(=反証)してね!
404 :386−387:2005/05/11(水) 14:41:18 0
ある国家が、ある土地を最初から絶対的に使用できる場合に
放棄の意思がなければ、占有は実行されたとみる
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page042.html ある国家(韓国、フランス)がある土地(石島=トクド、
クリッパートン島)を最初から使用できる場合(石島=
トクドの鬱陵島郡守管轄宣言、クリッパートン島の
ナポレオン三世とその後継者領有宣言)、放棄の意思がなければ
先占が完成したとみなされる
405 :392:2005/05/11(水) 16:18:13 0
>韓国の竹島占拠や韓国の石島=獨島主張に異議を申し出たり
主張の根拠が、国際法の要件を満たしておりませんが?
>ある土地を最初から絶対的に使用できる場合
竹島を絶対的に使用できる立場だったことが立証
されてませんが?
これは メッセージ 9831 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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脱線しちょる
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 12:22 投稿番号: [9832 / 18519]
>フランス・メキシコ間のクリッパートン号事件
正:島
誤:号
>「領有の意思表明」↓
鬱陵島郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島、竹島、石島を管轄すること
勅令の目的を歪曲してはいかんな。
先占の法理は、列強間の領土獲得競争に適用されたルール。
1.先ず、朝鮮王国がそのルールに従って領土を獲得したり、しようとしたことはないので適用対象外。
2.勅令の目的は地方制度上の統治方法を記したものであり、新たな領土獲得を目的としたものではない。
3.仮に獨島が直接石島でないとしても、統監府統治下の1907年に「韓国水産誌」に竹島を朝鮮所属の島嶼として記載しており、竹島を放棄する意志は示されていないし、竹島を日本領とすることを黙認してもいない。
「韓国水産誌」には韓国農水工部の日本人次官やらがご立派な序文を寄せて居る。
日本政府も竹島を放棄しない韓国政府の意志を公認しましたね。
これは メッセージ 9831 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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参考 引用: 論争,石島 ー1ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/13 12:04 投稿番号: [9831 / 18519]
参考
引用:
フランス・メキシコ間のクリッパートン号事件
「この仲裁判決では、実効的占有の必要を認めながら、領有の意思表明
だけで先占の完成を認めた」
「領有の意思表明」↓
鬱陵島郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島、竹島、石島を管轄すること
*石島:ウルルン島読みでトクドとよむ、現地では獨島の別名
394 :386−387:2005/05/10(火) 09:54:24 0
軍艦「新高」行動日誌、()は引用者
『明治三十七年
九月廿五日
松島(鬱陵島の日本別名)ニ於テ「リアンコルド」岩實見者ヨリ
聴取シタル情報
韓人之ヲ獨島(ウルルン島では石島とも書く)ト書シ』
395 :392:2005/05/10(火) 15:44:23 0
>>393
石島:ウルルン島読みでトクドとよむ、現地では獨島の別名
それを証明する史料は、存在しない。竹島が石島と表記され
た事例も存在しない。存在するのはシン・ヨンハの希望的な
推定。1899年の大韓帝国の調査でも竹島は捕捉されてない。
同年の大韓帝国作成の大韓全図には竹島は描かれてない。
存在を認識していたことも証明できない。ちなみに、鬱稜島
には亭石浦(現在は石浦)という地名があるが、獨浦という
表記はされない。
精密な地理明細を伴ったフランスと同列に扱うことは不可能。
396 :392:2005/05/10(火) 16:05:24 0
>> 394
>聴取シタル情報
韓人之ヲ獨島(ウルルン島では石島とも書く)ト書シ』
当時、竹島を「石島」と表記していていた記録は存在しない。
「石島」が出てくるのは後にも先にも勅令41号のみ。思いこみ
で挿入しないように。必要なのは、「公的機関による疑いのな
い具体的な記述」である。
また、仮に「石島=竹島」と仮定しても緯度・経度も不明。
名称も国際社会で一般的に流通していたものではない。国際法
で要求される「external signs」に該当しない。
日本が韓国にある無人島に「ウリ島」と勝手に名付けて「ウ
リ島は日本のもの」と官報に掲載して10年後に領有権を主張す
るようなものだ。重要なのは、他国が当事国の権力の発現を知
りうる状況であったということ。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9831.html
もう一つの可能性
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 11:46 投稿番号: [9830 / 18519]
さて、賢明なる読者諸君には既にお気づきの方もおられるでしょうけれども、17世紀以前の二島を日本がどう認識していたか、全く論じられていない可能性が一つある。
室町時代から江戸時代初期にかけて、現在の獨島を竹島と呼称していたのではないか。
即ち、『籌海図編』に記された「竹島」、『日本分野図』に記された「竹嶌」は、何れも後年の「松島」ではないのか。
これは メッセージ 9829 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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つづき
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 11:33 投稿番号: [9829 / 18519]
これは メッセージ 9828 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9829.html
籌海図編について
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 11:04 投稿番号: [9828 / 18519]
明の胡宗憲が幕下の地理学者鄭若曽に編纂されたものですが、この中の日本図は、倭寇の大頭目である王直への使者が、五島列島や薩摩藩などで蝟集した資料に基づいていると考えて良いでしょう。
面白いのは、どうやら鄭若曽は対馬を日本領と見ていなかったようで、これは当時朝鮮に取り締まられていた倭寇側の認識を反映したのかもしれませんね。
所謂「応永の外寇」などの際にも、室町幕府が朝鮮に抗議した形跡が見られないので、倭寇の取締に関しては、対馬は朝鮮の勢力圏と見ていたのでしょう。
反面、後年大屋仁吉が「発見」したはずの竹島が伯耆州因幡州の沖に記されているのが大変興味深い。
日本には天啓4年版(1624年)などが移入されているようですが、17世紀の日本にも「中国の本にも書いてある。竹島は因幡伯耆に属しているではないか」と考えるものが居たかもしれませんね。
これは メッセージ 9789 (te2222000 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9828.html
妄言?
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 09:45 投稿番号: [9827 / 18519]
>「竹島一件」の際も松島についての領有は争われていませんし、「竹島事件」の際の口上を見ても松島への渡航は何ら問題がないものであったのは明らかであり、
何故、何ら問題なかったのかには言及されないのですね。
「竹島之内松島」であったからですね。
>これは鬱稜島への渡航が禁止された以降も竹島への渡航が禁止されていない証拠です。
何の証拠ですって?(笑)
愚生が母島と書いたのは、当時の呼称「子山」にちなんで勝手にそう呼びました。それは事実です。
でもまあ、古典をお読みになる方でしたら「山」は「島」の略字であることはご存じのことでしょうと思い、「子山=子島」にひっかけて洒落てみました。
これは メッセージ 9822 (VIVA_VIVA_21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9827.html
歪曲ねえ
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/13 09:36 投稿番号: [9826 / 18519]
>まあ、地図すら持たない島について領有権を強弁せざるを得ない苦しい立場はお察しします。
「地図すら持たない」
「領有権を強弁せざるを得ない」
「苦しい立場」
興味有りませんな。
>そうではなくて鬱稜島、竹島とも日本の領土であると確信していたということです。
その時は確信していたのでしょう。
要するに「幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。」と云うことですね。
>ではなくて、私は日本政府の立場を確固たる信念で支持している立場なのです。
日本政府の立場も、韓国政府の立場も、確固たる信念を持って支持するつもりはまったくありません。
愚生は是々非々で行きますので、そのような下らないことは貴方お一人で勝手におやりになれば宜しい。
これは メッセージ 9821 (VIVA_VIVA_21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9826.html
逃亡者・半月城へ
投稿者: kos200572 投稿日時: 2005/06/13 02:03 投稿番号: [9825 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9825.html
>明治政府、竹島=独島の版図外確認
投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/06/12 23:44 投稿番号: [9824 / 18519]
転写開始
>〜ヴィトゲンシュタインは、「語りうることは明瞭に語られうるが、言いえないことについては沈黙せねばならない」、「示すことができるものは、語るわけにはいかない」と書いた。〜
>〜「語りうることは明瞭に語られうる」というのは、ちょっとでも言葉をふやせるという意味になる。ということは、そこには必ず同義性のような要素がいっぱい潜んでいて、いったん出始めると、その潜在的な同義性が次々にあらわれてきて、その関係を出尽くさせることができるだろうというのである。それゆえヴィトゲンシュタインはときどき、論理学はトートロジーをあきらかにするための学問だと言っていた。〜
転写終わり
#9776でkikousidayoさんが語られていたこと・・・・
「語りうることは明瞭に語られうる」というのは、ちょっとでも言葉をふやせるという意味になる」。
でも、「言いえないことについては沈黙せねばならない」を忘れないでね。
でないと論理学はトートロジーを明らかにするどころか単に絶対矛盾的自己同一に終わるのでないかしら。
文献史学的に江戸時代多数ある日本の文書から、竹島(独島でもいいわよ)に何らかの朝鮮国の「未成熟の権限」の痕跡を求めようとしても、我が国の実効支配を追認するだけよ。
「示すことができるものは、語るわけにはいかない」のよ。領有権の問題は絶対命題じゃなくって、titleの問題でしたわね。rightではないのよ。つまり韓国人は rightとtitleの区別ができないのよね。ホントに、ご苦労様だわ。
これは メッセージ 9816 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9824.html
竹島が韓国の領土というのなら
投稿者: nekomaru4 投稿日時: 2005/06/12 23:08 投稿番号: [9823 / 18519]
なんで無人島だったところに軍隊を駐留させているのかな。
べつに日本は竹島なにもしてませんが。
戦後焼け野原で朝鮮人はバラ線で土地を囲い自分のものにした。なんでそんなことができたかというと当時の土地紛争は戦後のどさくさで役所の資料もなくなっていたので喧嘩両成敗ということで半分づつにわけられてお終いとなったからである。この情報は朝鮮人コミュニティーのなかでひろまり全国でおなじような方法で土地を収得していった。
竹島の場合も同様に争議になっても韓国としてはだめもとで失う物はない。国際的に折半となれば実質的には韓国の領土となるだろう。
いまもむかしも国も人も朝鮮のやることはおなじである。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9823.html
歪曲の次は妄言ですか?
投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/12 23:02 投稿番号: [9822 / 18519]
>竹島から松島を見る場合に比べて遙かに巨大に母島を仰ぎ見ることになるでしょう。
鬱稜島と竹島はまったく別の島ですよ。どこをどう見れば「母島」になるのか不思議です。
「竹島一件」の際も松島についての領有は争われていませんし、「竹島事件」の際の口上を見ても松島への渡航は何ら問題がないものであったのは明らかであり、これは鬱稜島への渡航が禁止された以降も竹島への渡航が禁止されていない証拠です。
理由なき韓国による竹島海洋侵略を正当化しようと必死になっている論者が見受けられますが、さすがに次々に論拠が崩れていく中、最近は牽強付会の説の垂れ流しが増えてきていますので注意が必要です。
これは メッセージ 9779 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9822.html
これは大きな歪曲ですね!(笑)
投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/12 23:01 投稿番号: [9821 / 18519]
まあ、地図すら持たない島について領有権を強弁せざるを得ない苦しい立場はお察しします。
しかし、それにしても歪曲の度が過ぎるのではないでしょうか?
>要するに「幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。」と云うことなのでしょう。
そうではなくて鬱稜島、竹島とも日本の領土であると確信していたということです。
よって、
>現在の日本政府が主張している16世紀半ばの実効支配に基づく云々という主張に対して、VIVA_VIVA_21さんは実証的立場から否定的な論考をされておられると理解しています。
ではなくて、私は日本政府の立場を確固たる信念で支持している立場なのです。
どこをどう歪曲すれば貴兄のような解釈になるのか不思議です。
「竹島一件」で領有権を争うくらいなので、幕府が鬱稜島を朝鮮領土と見なしていたというのは無理がありますよ。まして朝鮮は鬱稜島への渡航を厳禁して主権すら放棄していたわけですから。
さらに鳥取藩からの回答で幕府は鳥取藩領ではないと回答を得た後も「武威」を用いて鬱稜島を死守するという判断まで選択肢にしていたことを見ると鬱稜島を我が国の領土と見ていたのは確実でしょう。幕藩体制下にあるので一部の例外を除いて基本的にすべての土地は公儀権力の支配下に置かれますので、鳥取藩が我関せずと逃げてしまった後は自動的に政権担当者である幕府領となるわけです。鳥取藩がおっくうをしなければ丸投げも可能だったのでしょうが、直轄地になってしまったため、幕府としては武力を用いて島を維持するかという選択肢まで出てきたわけです。
なお、松島(=現竹島)については幕府、朝鮮双方ともに帰属を争っていません。さらに幕府は竹島(=現鬱稜島)のみ渡航禁止にしたので、松島については両国ともに日本領であるとの認識だったのは間違いないところです。
これは メッセージ 9772 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9821.html
資料の恣意的利用はやめましょう。
投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/12 22:58 投稿番号: [9820 / 18519]
正直、あまりに我田引水な資料価値の利用に驚きます。
貴兄の場合は、竹島について、正確な地図すら持たず、古来、経営記録もない韓国に領有権があるという結論を導こうとしている意図が見えるので強弁せざるを得ない点については理解します。
もともと領有権に根拠がない韓国側の妄言を是とするわけですから、どこかで無理が生じるわけです。しかし、心情は理解しても同意はできません。
tinopureさんからご指摘があったところですが、「通航一覧」は1853年に成立した資料です。竹島=鬱稜島が朝鮮領だという認識は1853年の幕府の認識ですね。
そもそも「通航一覧」は外国から日本への接触が頻繁になった時期に幕府の鎖国期の外交状態を記したものですので、当然、それまでの外国との折衝は記録され、その結果は反映されるのが当然です。
この場合の認識とは1696年に「竹島一件」と呼ばれる朝鮮と幕府の交渉の結果を反映したものであるのは間違いありません。これは両国の領土紛争の走りとも言えるもので、結果は対朝鮮関係を配慮した幕府が鬱稜島を正式に朝鮮領として認めました。逆に言えばそれまでは領有権を認識していたことの裏返しでもあります。最初から(1696年以前から)鬱稜島を朝鮮領と見なしていたのであれば争う理由などないわけです。
なお、このとき松島(現竹島)は、1836年の「竹島事件」においても、会津屋八衛門が松島へ渡航する名目で竹島へ渡航したため死罪を申し渡されているという記録があることから、松島への渡航は問題なく依然として幕府は日本領であることを意識していた証拠になります。
また、竹島一件で朝鮮側も帰属について何ら争っていないことからも朝鮮側も日本側も松島の領有権が日本側にあったことが理解できます。もっとも朝鮮は竹島の存在すら知らなかった可能性が強いのですが。
このことは享保8年(1724年)に鳥取藩の作成した鳥取藩差出図に竹島とともに松島が位置関係もほぼ正しく記載され、航路距離が示されていることなどからも実際に何らかの経営が行われた可能性が強いことも伺えます。ここから先はまったく違う分野での伝聞ですが米子で海驢の動物油の売買が行われていたそうですから、もし事実なら、これが松島産であった可能性もあります。
まあ、
>その幕府の意図をどう理解すべきでしょうか?
と聞かれれば、「国内渡航と見なしていたからこそ対馬藩を通さなかったし、後に竹島一件で領有を争った。」と答えることにしますか?(笑)
これは メッセージ 9769 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9820.html
議論の始まり
投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/12 22:55 投稿番号: [9819 / 18519]
そもそも議論の始まりは「斎藤豊仙及び幕府の認識は鬱稜島渡航を海外と見なしていたか否か」という点にあるのはお互いに異論がないと思います。
そして貴兄は、No.9347(
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=9347)において、
「私の論点は、斉藤豊仙が『隠州視聴合記』で「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す」と記録したのは、村川家の大船を「朱印船」のごとく考えたためではないだろうかという点にあります。」と述べて、
さらに「これ(渡海免許)は朱印状ではなく奉書です。この違いは重要とみえて、鳥取藩が竹島渡海事業に関して幕府に提出した答弁書では、わざわざ渡海が御朱印ではなく御奉書であることを強調しました。」として、朱印ではなく奉書であることが海外渡航である理由にしています。
続いて、これを補強する論として内藤正中氏の指摘を引用して、奉書のみで朱印状が出ていないのは鬱稜島が海外であるという認識を斎藤豊仙が持っていた理由に挙げています。
これに対し、私は内藤氏の当時の貿易制度、外交制度の無知を指摘して、その誤りを指摘しました。(内藤氏は極左思考の持ち主と拝察しますので、意図的に歪曲した可能性もあると思います。)
私の説明で朱印状でなく奉書が発出されたことでは海外という認識だったとは言えず、むしろ国内と見ていた可能性が強いことを指摘しております。
つまり、貴兄や内藤氏の「幕府が鬱稜島を海外と見なしていた」という主張は、
①朱印状が出ておらず、鳥取藩主宛の奉書のみで渡航が認められていた。②海外へ渡航するための奉書は当時の常識では渡航者本人に渡されるものだが、これは異例の措置だった。③朝鮮への渡航は釜山が公認ルートにもかかわらず、公式の海外渡航の扱いではなかったためにこのような措置になったのだ。④よって鬱稜島への渡航は海外渡航であった。
というものであると理解しましたが、これに対して私は、
①鳥取藩主宛の奉書のみで渡航が認められたのであれば、開発許可であったと言えることを説明し、
②藩主宛の開発許可であれば、枚挙に暇がないほど例がある。(杉の伐採等の例)さらに奉書での渡航は奉書に基づき行動した船は官船、民船ともに枚挙に暇がない点を挙げ、幕府が鬱稜島への渡航を国内渡航と見ていたと言える証拠ともなる点を指摘し、
③当時の対外外交ルート(対朝鮮外交は対馬藩が担当し、奉書船制度の枠外)と対外情勢(対朝鮮関係修復を目指していた)を説明の上、幕府も斎藤豊仙も鬱稜島を国外と見なしていないことを制度面から説明し、
④「鬱稜島=海外」ありきのあまりに我田引水が過ぎる論になっている。
と批判したわけです。
隠州視聴合記における「此州」が隠岐島を指すものではないことは説明済みですし、他の方からも意見が出されているので、貴兄の指摘は成り立っておりません。もう一度、過去ログをご確認ください。
なお、内藤氏については左翼系月刊論壇誌「世界」6月号においても当時の政治制度を無視した妄言や、これも以前に在日の方の妄言を斬り捨てたのですが、藩名について揚げ足取りにすらならない意味不明な妄説を展開しており、全体としてあまりに我田引水、牽強付会に満ちあふれすぎており、正直に申しまして失笑すら禁じ得ませんでした。もっとも日本経済史がご専門ということで国際法と政治史は専門外のようですから、無知であったとしても過度に責めることはできません。
「正論」、「諸君」らの保守系論壇誌が一気に10万部を突破する勢いの中で「世界」、「論座」などの左翼系論壇誌が発行部数2万部を割り込みそうなのを見ると妄言に耳を傾ける人も少なくなったのかなという感想です。これは蛇足でしたね。失礼しました。
これは メッセージ 9818 (VIVA_VIVA_21 さん)への返信です.
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>『大日本史』
投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/12 22:52 投稿番号: [9818 / 18519]
hangetsujohさん、お返事どうも。
さて、ご指摘の点ですが、貴兄の指摘は論点をずらしているような気がしています。
大日本史において、両島(現鬱稜島及び現竹島)は日本領と断じているわけで、これは私の主張に沿うものであり、私の論を成立させるために批判する必要はないと思いますが?
>斉藤豊仙が、江戸幕府から朱印をもらった大船が島の開発にあたる実例を知っていたのなら、
これは、むしろ朱印、奉書など公儀権力のお墨付きがなければ開発できないのを知らないはずがないと考えるが普通でしょう。
朱印もなく勝手に開発するのが御法度であったのを斎藤豊仙が知らなかったというのは牽強付会の説と断じるほかありません。
幕府も自身の臣下であり朝鮮側も日本側の交渉窓口であることを認めている対馬藩を通さずに渡航許可を出しているのであれば国内という認識だったからということです。
また、後に「竹島一件」で帰属をめぐり争っていることからも鬱稜島が日本領であるという意識があったことが分かります。竹島一件の後、サツマイモで有名になった青木昆陽は古来、日本領であった鬱稜島を放棄した幕府の判断を非難しているほどです。幕政に関与する人の中にも鬱稜島が日本領であるという認識が根付いていたことを示す一端になりそうです。
幕府が朝鮮領土と認識していたなら、竹島一件で争ったりせず、対馬藩を通じてアクションを起こすはずです。また、秀吉の朝鮮進出以後、幕府は朝鮮との関係修復を目指しており、また、鎖国政策を進める中で他国を侵すという正反対の行為を取ることはあり得ません。
私は朱印、奉書が国内の開発許可に発出された例は数多くあるのを指摘した上での解釈を主張しました。件数としては新田開発がもっとも多いようです(確認はしてませんが)。島の開発許可なら鎌倉幕府による伊豆大島開発も朱印状で行われています。また佐渡金山開発は大久保長安が家康の朱印状を持って佐渡島に渡航して開発を行った例があります。海を越えての開発はそう珍しいことではなかったと言えます。当時は幕府の財政強化と同時に貿易統制に見られるように諸藩が経済的に力を付けすぎるのを防ぐのが公儀の政策テーゼになっていますので、許可なく勝手な開発はできなかったのは繰り返しですが言うまでもありません。
また別の投稿で書いたところですが、当時は国内の移動にも厳しい制限がありました。当然、八丈島や佐渡島も勝手に渡航することができない地域でしたから、鬱稜島も同じだと考えられます。
江戸期は人の定住している島の一部に定期航路があっただけで、大部分は渡航許可が必要か渡航禁止でした。鬱稜島は朝鮮人も空島と呼ばれる現代で言う主権放棄をしているくらいなので、定期航路などあろうはずがありません。
この場合は、渡航、開発を許可する奉書だったと見ればこの辺の疑問がすっきりするのがお分かりいただけると思います。
これも繰り返しですが、そもそも幕府が鬱稜島を朝鮮領と見ていたなら、鎖国を政策テーゼとしているにもかかわらず、それに矛盾する渡航許可を出すわけがありませんし、「竹島一件」で領有を争うわけもないのです。
幕府が日本領と信じていたから争う必要があるわけで、この点からも貴兄の指摘の論拠が崩壊しております。
朱印状を対外政策のみで発出されると言わんばかりの歪曲がありましたが、これについては以前に妄言であるとすでに斬り捨てています。実際には公儀権力の意思表示の手段というのが正しい解釈になります。この公儀権力の伝達を対馬藩を通じて行わなかったという点は大きいと思います。このことだけでも幕府の鬱稜島を日本領と見ていた認識が読み取れます。
これは メッセージ 9640 (hangetsujoh さん)への返信です.
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観音島の写真
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/12 20:33 投稿番号: [9817 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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明治政府、竹島=独島の版図外確認6
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 20:06 投稿番号: [9816 / 18519]
これは メッセージ 9815 (hangetsujoh さん)への返信です.
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明治政府、竹島=独島の版図外確認5
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 20:06 投稿番号: [9815 / 18519]
(注8)幕府「渡海禁制令」
先年、松平新太郎が因幡(いなば)国と伯耆(ほうき)国を治めていたとき、伺いのあった伯耆国米子の町人、村川市兵衛・大屋甚吉が竹島へ渡海し、今に至るまで漁をしていたが、今後、竹島へ渡海の件は禁制を申しつけるべきむねが(徳川綱吉から)仰せつけられたとの由。そのおもむきは保持されるべきである。謹んで申し上げる。
元禄9年(1696)1月28日
土屋相模守
戸田山城守
安部豊後守
大久保加賀守
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566(注9)島根県「あとがき」
元和4年丁巳(1618)より元禄八年乙亥(1695)にいたるまで、およそ78年である。
・・・
当時、伝えられるように柳沢氏の変があり、幕府は外事をかえりみることができず、ついにここにいたったという。今、大谷家に伝わる享保年間(1716-30)の製図を縮写して添える。なお、両家所蔵の古文書などは後日、謄写されるのを待って全備する。
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565(注10)『公文録』内務省之部 一(未完成)
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_koubun.pdf(注11)内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」附属文書
(2)第一号「旧政府評議の主旨」現代語訳
「一号」
元禄九年(1696)正月二十八日
天龍院公が江戸城へおいとま乞いで登城されたおり、白書院の間で老中4人が列座した席にて、(老中)戸田山城守様が竹島(鬱陵島)の件で覚書一通を渡され、先年来、伯耆(ほうき)米子の町人ふたりが竹島に行き漁をしたところ、朝鮮人もその島へ行き漁をしており、日本人と入りまじるは無益なので、今後は米子の町人の渡海を差し止めるとの件を仰せつかった。
同年、これより前の正月九日、三沢吉左右衛門方より直右衛門に用があるのでまかり出るようにとのことだったので参上したところ(老中)阿部豊後守様が逢われ、すぐ聞かれたのは竹島の件で中間(ちゅうげん)衆の出羽守殿、右京大夫殿にも内談があった。
元来、竹島に関してはよくわからない。これまで伯耆から出かけて漁をしてきたいきさつから松平伯耆守殿に尋ねたところ、因幡(いなば)や伯耆に附属するというものでもないという。先年、米子町人ふたりが渡海したいとの申し出があったので、そのときの領主・松平新太郎殿より案内があったように以前は渡海するよう新太郎殿へ奉書をもって申しわたした。そのときは酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃守殿が連判したので、考えてみればおおかた台徳院様の時代だったように思う。先年といっても、年数は不明である。
以上のような首尾で渡海し、漁をしたまでであって、朝鮮の島を取ろうというものでもない。島には日本人は居住していない。島への道のりをたずねると、伯耆から160里(640km)ほど、朝鮮へは40里(160km)ほどあるので、したがって朝鮮国の蔚陵島(鬱陵島)であるようだ。
それとともに、日本人居住者がいるならこちらへ取るべき島であり、いまさら渡しがたいのだが、そのような証拠もなく、こちらからはかまえて言いださないようにしたらどうなるだろうか。
または、対馬守より蔚陵島(を朝鮮の書簡から削除するように願う)と書き入れた件は、返書を差し除くよう仰せられたが、返事がないうちに対馬守が死去したため、その返書は朝鮮に差し置かれたとのことである。そうなら、刑部殿より蔚陵島の件は申し入れてしまっているのでもう言うべきではない。あるいはとかく竹島の件についてひととおり刑部殿から書簡にても申し入れるべきと考慮されるのはどうか。
以上の三通りの了見を考慮され、よりくわしく仰せ聞かされたく存じる。アワビ取りに行ったまでで無益な島であるところに、この件が決着し年来の通交が絶えてもどんなものだろうか。ご威光あるいは武威をもって談判におよぶのも筋違いといえるので事をすすめるわけにはいかない。
竹島の件はきっぱりすすめないことになった。例年行かないことになった。異国人が渡海するので、かさねて渡海しないように申し渡すよう(老中)土屋相模守殿から申し渡された。基本的に禁止することにした。無益
これは メッセージ 9814 (hangetsujoh さん)への返信です.
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明治政府、竹島=独島の版図外確認4
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 19:58 投稿番号: [9814 / 18519]
指令案は稟議(りんぎ)に回され、右大臣・岩倉具視、参議・大隈重信、同じく寺島宗則、大木喬任らにより承認、捺印されました(注12)。ただし、この文書は太政官内部の事務処理用です。対外的には『太政類典』に収められた「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム(注13)」という文書が効力をもつようです。
これらの文書は、国立公文書館に下記のように所蔵されています。
1.『公文録』内務省之部 一
2.『公文録』太政官稟議書
3.『太政類典』「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」
これらの文書で私が入手したものは下記に掲載しました。
<半月城通信「日本の古文書、資料」>
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/shiryou/shisho_jpn/jmokuji.html
これらの資料から明らかにように、明治時代の最高国家機関たる太政官は内務省が上申したとおり、松島、竹島をセットにする理解にもとづいて、両島を日本領でないと公的に宣言したのでした。
(注1)半月城「日本の竹島=独島放棄と領土編入」
『姜徳相先生 古希・退職記念、日朝関係史論集』新幹社、2003
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.698(注2)原文は<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.564
原本の筆写影印文は(注12)参照、(注13)の資料は本文のみでタイトル等は省略
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004,P123
(注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号,1996,P5
(注5)「由来の概略」の全文は
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565
原本の筆写影印文は(注12)、(注13)参照
(注6)幕府「渡海許可書」の口語訳、原文は(注5)に同じ
伯耆国の米子から竹島へ先年船で渡りたいとのこと、そして今度はその
ように渡海したいとの件に関し、米子町人の村川市兵衛・大屋甚吉からの申し
出をお上に達し聞いたところ、異議がないとの仰せがあり、渡海の件はその
意がかなえられるとの仰せつけがあったので謹んで申し上げる。
五月十六日
永井信濃守 尚政
井上主計頭 正就
土井大炊頭 利勝
酒井雅楽頭 忠世
松平新太郎殿
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565
原本の筆写影印文は(注12)参照、(注13)の資料は本文のみでタイトル等は省略
(注7)島根県「渡海禁制のいきさつ」
当時、米子同町に村川市兵衛なる者がいた。大屋氏と同様に阿部四郎五郎氏と懇意だったので、両家に竹島(鬱陵島)への渡海許可がだされた。されど、竹島の発見は大屋氏である。両家はこれより毎年継続して渡海し、漁労をおこなった。
幕府は、この遠隔の地が本邦の版図に入ると称して船旗などをあたえたが、とくに両家を幕府に出仕、謁見させ、しばしば葵(あおい)の御紋がはいった服をあたえた。その後、大屋甚吉は同島で亡くなった。その墓は今もあるという。
元禄7年(1694)になり、島に上陸した朝鮮人が若干いた。かれらの感情はおしはかれない。そのうえ、こちらの船の人数がすくなかったので帰り、お上にこれを訴えた。
翌年、幕府の許可を得て武器を積み、島に渡航したところ、朝鮮人はおそれて逃げた。残ったふたり、アヒチヤン(安龍福)とトラヱイを捕らえ縛って帰った。命令により、江戸幕府に知らせ朝鮮に送還した。
同年、朝鮮から竹島は朝鮮に接近しているので、朝鮮に属しているとの申し出がしきりにあった。幕府で協議して、日本管内たるべき証書があれば、以後は朝鮮に漁労の権利をあたえるべきとの命があった。朝鮮はこれを奉じた。これにより元禄9年(1696)正月、竹島への渡海を禁制とした。
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566(つづく)
これは メッセージ 9813 (hangetsujoh さん)への返信です.
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明治政府、竹島=独島の版図外確認3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 19:57 投稿番号: [9813 / 18519]
これらは(7)図面を除き『公文録』内務省之部一(注10)でみることができます。この伺書を受けた内務省は独自に元禄時代の「竹島一件」に関する江戸幕府の記録などを調べ、竹島外一島を本邦に関係ないと判断しました。
そのうえ「版図之取捨ハ重大之事件」との認識から右大臣に下記の伺書を、翌年3月に提出しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日本海内 竹島外一島の地籍編纂方法の伺い書(口語訳)
竹島所轄の件について、島根縣から別紙の伺いがあったので調査したところ、該当の島は、元禄五年に朝鮮人が入島して以来、別紙書類に抜き書きしたように、元禄九年正月、第一号 旧政府の評議の主旨や、第二号 訳官への達し書き、第三号 当該国(朝鮮)からの書簡、第四号 本邦回答および口上書などからして、元禄12年にそれぞれ書簡の往来が終わり、本邦は関係ないと聞いていますが、版図の取捨は重大事件なので別紙書類を添付し、念のためにこの件をお伺いします。
明治十年三月十七日
内務卿 大久保利通代理
内務少輔 前島密
右大臣 岩倉具視殿
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このときの付属文書は下記のとおりです。
内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」付属文書一覧
(1)島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」本文(上記)及び付属文書一式
(2)第一号「旧政府評議の主旨」(注11)
(3)第二号「訳官への達し書き」
(4)第三号「当該国(朝鮮)からの書簡」
(5)第四号「本邦回答および口上書」
右大臣に提出された伺書は太政官により審査されました。太政官とは 1868年(慶応4)政体書により設置された明治政府の最高官庁で、翌年官制改革により民部省以下6省を管轄しました。今日の内閣に当ります。
太政官調査局では、内務省の見解を認める形で太政官の下記指令案が作成されました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
明治十年三月二十日
大臣
本局
参議
卿輔
別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋 地籍編纂之件 右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府 該國ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段 申立候上ハ伺之趣御聞置 左之通 御指令相成可然哉 此段相伺候也
御指令按
(伺之趣)
書面竹島外一嶋之義 本邦関係無之義ト可相心得事
(明治十年三月二十九日)
(現代語訳)
別紙、内務省からの伺い書「日本海内竹島外一島 地籍編纂」の件ですが、これは元禄五年、朝鮮人が入島して以来、旧政府(江戸幕府)が朝鮮とやりとりした末、ついに本邦とは関係ないと聞いているという申し立てに関して、伺い書のおもむきをお聞きになり、下記のように御指令をくだされるよう、この段をお伺いします。
御指令案
伺い書のおもむき、書面「竹島外一島」の件は、本邦と関係ないと心得るべきこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 9812 (hangetsujoh さん)への返信です.
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明治政府、竹島=独島の版図外確認2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 19:56 投稿番号: [9812 / 18519]
ここで注目されるのは、島根県が地理寮の照会にはなかった「外一島」をつけ加えて内務省に伺書を提出したことです。「竹島外一島」について、「竹島日本領派」の塚本氏はこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この“竹島”は鬱陵島のことであり“ほか一島”は同じく江戸時代に渡海した松島すなわち今日の竹島のことである。島根県が両島を地籍に編入する方向で指示を仰いだのは、“竹島”については、現地(大谷家)では元禄9年の渡海禁止(前記3)を、朝鮮から“竹島”(鬱陵島)の日本領であることを認める証文を取り付けた上での措置であったと認識していたこと(上記『公文録』収録の文書、また『竹島渡海由来記抜書控』)によると考えられ、“ほか一島”について地籍を編制するなら松島も忘れてはならないというような考えであったと思われる(注4)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
島根県がわざわざ「外一島」をわざわざつけ加えたのは、古来の資料に「竹嶋近辺松嶋」とか「竹嶋之内松嶋」とか記されているので、松島は竹島と一対であるという認識が強かったためとみられます。
そもそも松島(竹島=独島)はその名前に反して松の木はおろか木が一本も生えていないにもかかわらず「松島」とよばれたのは、竹島と対をなすという発想だったとみられます。
なお、「外一島」が松島(竹島=独島)であることは、島根県伺書に添付された下記の文書「由来の概略」から明白です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
島根県「由来の概略」の現代語訳(注5)
磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
・・・
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地(竹島=鬱陵島)に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の阿部四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安部氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
余談ですが、下條正男氏はこの資料の存在を知ってか知らずか<「竹島外一島」の「一島」が今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としない(注3)>などと途方もないことを記しました。
その理由は、単に<今日の竹島を日本領とする「書留」がすでにいくつもあったからである>とするのみで、上記の資料は不都合でもあるのか引用すらしませんでした。同氏のいう「我田引水的」文献引用の見本です。資料を取捨選択すれば、いかなる結論も可能です。
ただし、そうして得られた結論は砂上の楼閣であることはいうまでもありません。ひとたび大波がくるともろく崩れさります。
さて、本論に戻りますが、島根県が提出した付属文書は下記のとおりです。
島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の付属文書一覧
(1).第28号「地理寮の伺い書」(上記)
(2).島根県「由来の概略」(上記)
(3).幕府「渡海許可書」、原文は(注6)
(4).島根県「渡海禁制いきさつ」(注7)
(5).幕府「渡海禁制令」(注8)
(6).島根県「あとがき」(注9)
(7).大谷家「図面」
(つづく)
これは メッセージ 9811 (hangetsujoh さん)への返信です.
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明治政府、竹島=独島の版図外確認1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 19:55 投稿番号: [9811 / 18519]
***様、半月城です。
明治政府が竹島=独島を日本領外と判断した資料はいろいろありすぎて、戸惑うことが多いものです。かつての私もそうでした。また、私のホームページではそれらがきちんと整理されてないので、この際、改めてそれらの資料や経緯を整理してみることにします。
なお、これまで私は論文などで、<明治政府の竹島=独島「放棄」>と書いてきたのですが(注1)、おっしゃるとおり明治初期の日本政府は、外務省といい、内務省や太政官といい、竹島=独島を「本邦の版図」と考えたことも、また領有を意図したこともなかったので「放棄」という語はたしかに不適当です。これを「日本領外の確認」と訂正します。
竹島=独島を日本領外とする太政官指令の発端は、内務省地理寮係官の伺書からでした。1876(明治9)年、地理寮の田尻らは島根県を巡回したおりに竹島(鬱陵島)の情報に接し、同県の地籍編制係へ竹島を照会しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
内務省の地理寮から島根県宛の伺い書(口語訳、注2)
(島根県伺い書の添付文書・乙第28号)
ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があると聞いております。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺い書のおもむきは、口頭で調査依頼およびご協議を致しました。
加えるに、地籍編制に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、なお念のためご協議をお願いします。以上の件、五条の適用となります。
かくなる次第で、古い記録や古地図などを調べていただき、内務省本省へお伺いを立てていただきたく、ここにご照会致します。
明治九年十月五日
地理寮第十二番出仕
田尻賢信
地理大属
耵山栄蔵
島根縣地籍編纂係御中
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これをうけて、島根県令(代理)は竹島(鬱陵島)へ渡海していた大谷家の記録などを添え、同年10月16日、内務卿あてに「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「日本海内にある竹島外一島の地籍編纂方法に関する伺い書」
(口語訳、注2)
貴省(内務省)の地理寮職員が地籍編纂確認のため本県を巡回したおり、日本海内にある竹島調査の件で別紙乙第28号のような照会がありました。
この島は永禄年間(1558-1569)に発見されたそうですが、旧鳥取藩のとき、元和4年(1618)から元禄8年(1695)までおよそ78年間、同藩領内伯耆(ほうき)国の米子町の商人・大谷九右衛門と村川市兵衛が江戸幕府の許可を得て、毎年渡海し、島の動植物を持ち帰って内地で売却していました。これについては確証があります。現在まで古書や古い書状が伝えられていますので、別紙のように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげます。
今回、全島を実検のうえ、詳細をそえて記載すべきところですが、もとより本県の管轄に確定したものでもなく、また、北海百余里を隔て船路もはっきりせず、ふつうの帆船ではよく往復できないので、上記の大谷、村川家の伝記など詳細を追って申し上げます。
しかして大勢を推察するに、管内の隠岐国の北西に位置し山陰一帯の西部に付属するとみられるなら本県の国図に記載し地籍に編纂しますが、この件はどのように取りはからうべきか御指令をお伺いします。
明治九年十月十六日
島根県参事 境二郎
内務卿 大久保利通殿
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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chukdoには水があるのか?
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2005/06/12 18:44 投稿番号: [9810 / 18519]
昔、どこかで「chukdoには水があり人が住める」という記述を見た記憶があるが、どなたか知りませんかね?
人が住めれば、太宗や成宗の私の唯一の疑問点が解消するのだが。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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>>T脳
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/12 06:42 投稿番号: [9809 / 18519]
ご返答ありがとうございます。
まず、kikousidayo さんのご主張を以下のように理解しました。私なりに言葉を補いましたので、お考えと異なってしまった可能性もあります。おかしいと思う点はご指摘ください。
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「此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣」において、「見高麗如自雲州望隠州」の記述が竹島のみに関するものであることから分かるように、この文章は決して竹島と松島を一まとめに扱ってはいない。
また、西北の国境を示すならば西北端にある竹島だけを記述することが自然であり、一日行程も離れた二島をひとまとめにして国境とする解釈には無理がある。
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一応この理解に基いて続けます。
まず私は「此州」が「竹島+松島」だと主張している訳でないことはご承知おきください。以前の小論中に書いた疑問 b-1, b-2 について、私はまだ完全に納得していません。
その上で私の考えを書いておきます。
イ)斎藤豊仙が、松島から高麗が見えると考えていた可能性は否定できない。
竹島と松島については直接出掛けて見聞した訳ではないので、伝聞情報に基いた不正確な知識しか持たなかったとしても不思議はない。
隠州視聴合紀の文章を読む限りは、「此二島」から高麗が見えると解釈する方が自然である。仮に隠州視聴合紀以外に竹島と松島に関する情報を持たない江戸時代の知識人がいたとすれば、松島から高麗が見えると判断するだろう。
ロ)#9708 で shuku_remus さんがご指摘くださったように、日本の国境を記述するに当たり、日本の行政区域であるとの意味を込めたくて、あえて「州」を使った可能性がある。その場合は、「此州」が、行政区域として一つにまとめるに相応しい「竹島+松島」のことになるだろう。
ハ)日本政府もかつて「此州」が「竹島+松島」であると解釈した。
ニ)「此州」が竹島のみを指すことについては、小論中に書いた疑問 a-1, a-2 が解決していない。
これは メッセージ 9808 (kikousidayo さん)への返信です.
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>>T脳
投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/06/12 01:03 投稿番号: [9808 / 18519]
>>・一日行程も離れている竹島と松島をまとめて一つの州と考えてよいか・・・
>>これは竹島一件の解釈とも関連するので Am I Aho さんは重視されているのかもしれません・・・
>>私自身は隠州視聴合紀には「此二島」という書き方で二つの島をひとまとめにした記述がある・・・
>一応この理解が正しいとしてお答えすると、「できるとは思えない」となります。
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此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、
然則日本之乾地、以此州為限矣
------------------------------------
此二島無人之地で、竹島と松島は一日行程も離れている。
従って竹島(鬱陵)から朝鮮国は「見高麗如自雲州望隠州」であるが、松島(現・竹島)からは「見高麗如自雲州望隠州」は、"「できるとは思えない」となります。"
此の文書の特色は、隠岐島を中心にして、それぞれの地を、東西南北に放射状に記述している点にある。「然則日本之乾地」を承け、一日行程も離れている二島を「以此州為限矣」で国境線とするには無理がある。
以上
これは メッセージ 9807 (te2222000 さん)への返信です.
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>T脳
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/11 23:45 投稿番号: [9807 / 18519]
kikousidayo さん
>>・一日行程も離れている竹島と松島をまとめて一つの州と考えてよいか
>
>>これは竹島一件の解釈とも関連するので Am I Aho さんは重視されているのかもしれません。しかし、私自身は隠州視聴合紀には「此二島」という書き方で二つの島をひとまとめにした記述があることや、日本政府もかつてこの考えを支持したことなどから、全く疑問に思っておりません。
>チミがどう思おうと、竹島から朝鮮を歴々と仰ぎ見るれるか?
日本語が少し変ですが、以下の意味だと理解しました。誤解があればご指摘ください。
−−−−−−−−−−−−−
君がどう思おうと君の勝手だ。
しかし、そのような意見を書くならば次の質問に答えてみるがいい。
竹島から朝鮮半島を歴々と仰ぎ見ることができるか?
−−−−−−−−−−−−−
一応この理解が正しいとしてお答えすると、「できるとは思えない」となります。
ただ、この質問が私の意見とどう関係するのかが分かりません。よろしければご説明いただけませんか。
>論理よりイメージのテーノー。。。w
イメージよりも論理を重視したご返答をいただけることを期待しています。
これは メッセージ 9796 (kikousidayo さん)への返信です.
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石島
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/06/11 22:12 投稿番号: [9806 / 18519]
henchinさん、有難うございます。しかし、鬱陵島の地図を拝見しますと、小島近くの集落には「石」の名のつくものが多いようで気になります。
また、AHOさんには、御教授有難うございます。発掘を待つしかないのは、非常に残念です。でも、最近のOKINOさんの投稿資料を拝見すると、勅令に至る経緯がよくわかるようになりました。勅令の伺い文などが発見されないと、「石島」の唐突性が際立ってしまいます。このまま資料発掘されないと、観音島説が俄然有利ですね。
これは メッセージ 9785 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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尖閣諸島は台湾の附属島嶼では無かった
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/11 18:05 投稿番号: [9805 / 18519]
尖閣諸島は東経123度30分27秒から124度34分9秒、北緯25度44分25秒から25度56分21秒の間に分布する
北緯25度44分25秒〜25度56分21秒
尖閣
北緯21度45分25秒〜25度38分台湾の島嶼
確認の為,比較してみたら確かに尖閣は台湾の附属島嶼として含まれていませんでした
これは メッセージ 9803 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9805.html
米国国立公文書館
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2005/06/11 14:58 投稿番号: [9804 / 18519]
田中様
以下の依頼は物理的に合理的ではないので勧めていません。
理由その1:
1.英文の1000ページの資料に目を通す作業は最低でも3日はかかる。
2.NYからメリーランドまで車で4〜5時間かかる。
3.作業日、往復を計算すると最低でも4泊5日になる。ホテル代、ガソリン代等を支払うとそれだけで5万円を越す。
・・・だったら、5万〜6万円かかっても全部をコピーして送ってもらった方が資料の全てが手に入るので良いと思われる。
理由その2:
NY近辺に住んでいる学生は車を持っていない。
メリーランドで行動をするには車が必要。
そこで、コピーする量を減らせないものかとNARの担当者に目次とか索引とかがないのかと聞いてみました。
竹島らしき単語があれば、その部分だけコピーを依頼したいからと理由を説明しました。
返事は、目次や索引はないそうで、Folder Listに「Take-island」の語彙は見当たらないとの事でした。
そこで、Folder Listをコピーしてもらえないかとのメールを5月9日に送り、その後返事がありません。
5月末に催促メールも送ったのですが、まだその回答は得られません。
Folder Listが手に入れば、一部のFolderのみのコピー依頼が可能になり、ページが削減できると期待しているのですが。
1ヵ月になるので一応現状報告です。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9804.html
「台湾省5市16県詳図」
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2005/06/11 14:30 投稿番号: [9803 / 18519]
台湾内政部が作成した「台湾省5市16県詳図」(1960年)は、台湾の附属島嶼として
76島嶼を明記しており、それには「北緯21度45分25秒」(基隆彭佳嶼)から25度38分
(恒春七星岩)にある」としていて、尖閣諸島はこれには含まれていない。
尖閣トピがないので、ここに記載しました。(後日HPに転載予定)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9803.html
禹用鼎,鬱陵島報告の総括 ー4ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/11 13:51 投稿番号: [9802 / 18519]
禹用鼎の調査目的が,
つまり大韓政府の調査目的が鬱陵島入島不法日本人,日本人による森林伐採の調査ですから,当然日本人が居そうな所はひらみつぶしに探索しただろう,それは2万6000坪ある観音島,地味豊かなチクト(竹嶋)も調査対象に入ってるはずだ,この 禹用鼎報告を元にして1900年10月41号勅令発布が出されました
其の中に鬱陵島の属島として,石島,竹嶋が記されました。今日,韓国当局はこの石島はトクトだと主張してます,はたしてそうであろうか,この時松島(トクト)は調査されていなかったのです,あくまでも41号は禹用鼎,鬱陵島報告を元にして公布したのです,当然調査された観音島は記されるべきです,石島とは観音島でしょう
これは メッセージ 9800 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9802.html
禹用鼎,鬱陵報告 ー3ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/11 12:32 投稿番号: [9801 / 18519]
次ぎに調査目的である日本人について述べられている,
日本人の潜入残留者は57間に男女144名であり、停泊している日本の船舶
は11隻で、往来する商船は一定でなく、正確な数は把握できない。
昨年以来、日本人が不法伐採した槻木は71周で、その他に香木と雑木を盗
伐したのは枚挙が困難なほど多い。また、過去1年間に日本人が甘湯木の皮を
はぎ、生汁を運んだのが1000余桶にもなるが、かれらがさらに数年間住めば山
にあふれる樹木が必ずや枯渇してしまうであろう。
また、日本人たちは暴動と乱行がはなはだしい。しかし島監は単身素手で
これを禁じようとしてもできない状況である。日本人が鬱陵島に1日来て泊ま
れば、1日分の害があり、2日泊まれば2日分の害がある。
今回の調査時にかれらは渋々退去すると答えたが、元来日本人の潜入は条
約違反であり、日本公使に要求して撤去させた後にはじめて島民を保護し、森
林を守ることができる。
本調査委員の巡視中にも日本の商船4隻が入ってきたので、翌日聞き取り
をおこなったところ、オノやノコギリなどを装備した伐木の人夫40名とその他
に工匠など計70余名が上陸したという。
日本領事と議論して日本人が盗伐できないよう厳命をくだしたが、われわ
れの船が戻った後はどのような侵略と暴行を繰りひろげるのか心配であり、今
やすべて撤帰させなければならない。
Okino;
ここで禹用鼎は日本人をメチャ非難している,一人残らず日本人を追い出さない限りは 鬱陵島移住朝鮮人の未来は無いと云っている。
これは メッセージ 9792 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9801.html
禹用鼎,鬱陵島報告 ー2ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/11 12:11 投稿番号: [9800 / 18519]
禹用鼎一行は1900年5月31日に鬱陵島へ到着し、6月1日から5日間鬱陵
島の実態を調査した後、帰京して調査報告書を提出した、
その報告の中で,鬱陵島は樹木がうっそうとしていて,土壌は肥沃であり、こやしをやらなくても穀物がよく育ち,農耕地の面積は7700斗落あまりであり、戸数は400余、人口は男女合わせて1,700余名であると記し,大麦、小麦、黄豆、甘藷などを収穫し、綿花、麻布、紙屬なども
自給している。かように豊かな島である,
さもあろう443年間空島政策で人手が入らず,腐葉土が山積し土地が肥えているからだろう。
これは メッセージ 9792 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9800.html
禹用鼎調査団結成の背景 −1ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/11 11:42 投稿番号: [9799 / 18519]
1896年5月,ロシアは鬱陵島森林伐採権を手中にする,そして
1899年9月15日付でロシアは,大韓帝国の外部大臣に公文を送り,日本人が鬱陵島に不法に入島して森林を伐採してるから,日本人たちを刷還するよう日本公使館へ強力に要請するよう大韓政府に圧力を加えた。鬱陵島にいる日本人をなんとかしろと,ロシアからの再々の抗議を受けて,大韓政府は禹用鼎調査団を結成させる,鬱陵島への日本人不法入島,不法森林伐採の調査目的の為出発する事に成る
これは メッセージ 9792 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9799.html
大日本全国略図
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/06/11 00:44 投稿番号: [9798 / 18519]
その通りです。これにより確認できることは以下の通りです。
1.大日本全国略図では前年明治13年の天城の調査が反映されていないこと。
2.竹島・松島がそれぞれアルゴノート・ダジュレーの位置にあること。
3.竹島・松島が島根県の地図には含まれず、全国略図に示されていること。(朝鮮のものとの意識は見られない)
内務省地理寮がそもそも太政官判断の前の島根県の地籍の確認における当事者であったことを考えると、この地図が太政官判断を反映していないことは考えにくく、とすれば3の意味するところは太政官が「本邦関係無し」とした意味するところは文字通り本邦の管轄ではないがかといって「朝鮮に属する」との認識を示したものでもないとの見方の裏づけにもなりましょう。
1と2から考えられるのは、この地図の認識はおそらく明治10年あたりの地理的な把握を反映していること、そして太政官の判断においても竹島・松島は、ほかでもなくアルゴノート・ダジュレーの位置において本邦関係無しとの判断が下された可能性が高いということです。なにしろ内務省地理寮の判断です。
これは メッセージ 9786 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9798.html
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