竹島

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明治政府、竹島=独島の版図外確認2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 19:56 投稿番号: [9812 / 18519]
   ここで注目されるのは、島根県が地理寮の照会にはなかった「外一島」をつけ加えて内務省に伺書を提出したことです。「竹島外一島」について、「竹島日本領派」の塚本氏はこう記しました。
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   この“竹島”は鬱陵島のことであり“ほか一島”は同じく江戸時代に渡海した松島すなわち今日の竹島のことである。島根県が両島を地籍に編入する方向で指示を仰いだのは、“竹島”については、現地(大谷家)では元禄9年の渡海禁止(前記3)を、朝鮮から“竹島”(鬱陵島)の日本領であることを認める証文を取り付けた上での措置であったと認識していたこと(上記『公文録』収録の文書、また『竹島渡海由来記抜書控』)によると考えられ、“ほか一島”について地籍を編制するなら松島も忘れてはならないというような考えであったと思われる(注4)。
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   島根県がわざわざ「外一島」をわざわざつけ加えたのは、古来の資料に「竹嶋近辺松嶋」とか「竹嶋之内松嶋」とか記されているので、松島は竹島と一対であるという認識が強かったためとみられます。
   そもそも松島(竹島=独島)はその名前に反して松の木はおろか木が一本も生えていないにもかかわらず「松島」とよばれたのは、竹島と対をなすという発想だったとみられます。
   なお、「外一島」が松島(竹島=独島)であることは、島根県伺書に添付された下記の文書「由来の概略」から明白です。
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島根県「由来の概略」の現代語訳(注5)
   磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
  ・・・
   次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
   永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地(竹島=鬱陵島)に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の阿部四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安部氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である。
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   余談ですが、下條正男氏はこの資料の存在を知ってか知らずか<「竹島外一島」の「一島」が今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としない(注3)>などと途方もないことを記しました。
   その理由は、単に<今日の竹島を日本領とする「書留」がすでにいくつもあったからである>とするのみで、上記の資料は不都合でもあるのか引用すらしませんでした。同氏のいう「我田引水的」文献引用の見本です。資料を取捨選択すれば、いかなる結論も可能です。
   ただし、そうして得られた結論は砂上の楼閣であることはいうまでもありません。ひとたび大波がくるともろく崩れさります。

   さて、本論に戻りますが、島根県が提出した付属文書は下記のとおりです。
島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の付属文書一覧
(1).第28号「地理寮の伺い書」(上記)
(2).島根県「由来の概略」(上記)
(3).幕府「渡海許可書」、原文は(注6)
(4).島根県「渡海禁制いきさつ」(注7)
(5).幕府「渡海禁制令」(注8)
(6).島根県「あとがき」(注9)
(7).大谷家「図面」
(つづく)
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