幕府の『通航一覧』
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/05 22:41 投稿番号: [9769 / 18519]
半月城です。
VIVA_VIVA_21さん、RE:9500
>つまり幕府は鬱稜島を自国領と見なし開発許可を与えたということです。
この考えは、結局はVIVA_VIVA_21さんの希望的観測ですか? 書き忘れていましたが、「竹島渡海免許」発給以前に同島を日本領とみなす史料は存在しません。それを具体的にみることにします。
幕府が「竹島(鬱陵島)渡海免許」を与えたのは、川上健三説では元和4(1618)年とされますが、近年の研究では寛永2(1625)年とするのが有力なようです(注1)。いずれにせよ、そのころ幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と認めていました。
史料ですが、幕府の外交文書を集めた記録『通航一覧』に竹島(鬱陵島)がこう記されました。
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『通航一覧』巻之百二十九
朝鮮國部百五
○貿易(潜商罪科、耶蘇禁制告諭、商賣金高并銅渡方)
元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)、・・・
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ここに書かれたように、元和6(1620)年、幕府は竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」と明確に認識していたことがはっきりしています。そうした認識のなかで「竹島渡海免許」が発給されました。したがって、免許は日本国内の開発許可ではありえません。
それでは「竹島渡海免許」はいかなる性質を有するのでしょうか? すぐ思い当たるのが外国との交易許可ですが、竹島(鬱陵島)の場合、それは諸事情で許されません。
というのも、朝鮮との交易は対馬藩の専任であるので、米子の商人が朝鮮へ行くことは許されません。しかも、朝鮮の窓口は東莱の倭館にかぎられ、それ以外の地に向かう船は朝鮮から海賊と見なされました。
それにもかかわらず、幕府は「朝鮮属国」と認識している竹島(鬱陵島)へ渡海免許を発行したのですが、その幕府の意図をどう理解すべきでしょうか?
幕府は、1620年に朝鮮通信使への配慮から、上に書いたように竹島(鬱陵島)へ渡海していた対馬藩の潜商を捕えましたが、この事件をきっかけに、幕府は同島へ食指を伸ばしはじめたようです。宝の島をあわよくば日本領にする意図もあってか、米子の商人に利権を与えたとみられます。
その利権は、対馬藩の商人に与えるのは対朝鮮関係から不可能であるのはいうまでもありません。それが米子の商人なら、バレた場合いくらでも言い訳が可能です。そうした意図で朱印船とは違う幕府の奉書が鳥取藩を通じて米子の商人、大谷・村川両家にだされたのではないかと思われます。
そうした事情を『隠州視聴合紀』の著者である出雲藩士・斉藤豊仙はどこまで知っていたのか不明ですが、竹島(鬱陵島)へ渡海する村川家の大船を、朱印がないのにもかかわらず朱印船のごとく考えていたことから、やはり竹島(鬱陵島)を異国の地と理解していたのではないでしょうか。
その場合、日本の北西の限りである「此州」は隠州であり、竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)は幕府の認識どおり日本領に含まれないのはいうまでもありません。
(注1)池内敏「竹島一件の再検討」『名古屋大学文学部 研究論集、史学47』2001,P61
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
VIVA_VIVA_21さん、RE:9500
>つまり幕府は鬱稜島を自国領と見なし開発許可を与えたということです。
この考えは、結局はVIVA_VIVA_21さんの希望的観測ですか? 書き忘れていましたが、「竹島渡海免許」発給以前に同島を日本領とみなす史料は存在しません。それを具体的にみることにします。
幕府が「竹島(鬱陵島)渡海免許」を与えたのは、川上健三説では元和4(1618)年とされますが、近年の研究では寛永2(1625)年とするのが有力なようです(注1)。いずれにせよ、そのころ幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と認めていました。
史料ですが、幕府の外交文書を集めた記録『通航一覧』に竹島(鬱陵島)がこう記されました。
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『通航一覧』巻之百二十九
朝鮮國部百五
○貿易(潜商罪科、耶蘇禁制告諭、商賣金高并銅渡方)
元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)、・・・
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ここに書かれたように、元和6(1620)年、幕府は竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」と明確に認識していたことがはっきりしています。そうした認識のなかで「竹島渡海免許」が発給されました。したがって、免許は日本国内の開発許可ではありえません。
それでは「竹島渡海免許」はいかなる性質を有するのでしょうか? すぐ思い当たるのが外国との交易許可ですが、竹島(鬱陵島)の場合、それは諸事情で許されません。
というのも、朝鮮との交易は対馬藩の専任であるので、米子の商人が朝鮮へ行くことは許されません。しかも、朝鮮の窓口は東莱の倭館にかぎられ、それ以外の地に向かう船は朝鮮から海賊と見なされました。
それにもかかわらず、幕府は「朝鮮属国」と認識している竹島(鬱陵島)へ渡海免許を発行したのですが、その幕府の意図をどう理解すべきでしょうか?
幕府は、1620年に朝鮮通信使への配慮から、上に書いたように竹島(鬱陵島)へ渡海していた対馬藩の潜商を捕えましたが、この事件をきっかけに、幕府は同島へ食指を伸ばしはじめたようです。宝の島をあわよくば日本領にする意図もあってか、米子の商人に利権を与えたとみられます。
その利権は、対馬藩の商人に与えるのは対朝鮮関係から不可能であるのはいうまでもありません。それが米子の商人なら、バレた場合いくらでも言い訳が可能です。そうした意図で朱印船とは違う幕府の奉書が鳥取藩を通じて米子の商人、大谷・村川両家にだされたのではないかと思われます。
そうした事情を『隠州視聴合紀』の著者である出雲藩士・斉藤豊仙はどこまで知っていたのか不明ですが、竹島(鬱陵島)へ渡海する村川家の大船を、朱印がないのにもかかわらず朱印船のごとく考えていたことから、やはり竹島(鬱陵島)を異国の地と理解していたのではないでしょうか。
その場合、日本の北西の限りである「此州」は隠州であり、竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)は幕府の認識どおり日本領に含まれないのはいうまでもありません。
(注1)池内敏「竹島一件の再検討」『名古屋大学文学部 研究論集、史学47』2001,P61
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 9500 (VIVA_VIVA_21 さん)への返信です.
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