>『大日本史』
投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/12 22:52 投稿番号: [9818 / 18519]
hangetsujohさん、お返事どうも。
さて、ご指摘の点ですが、貴兄の指摘は論点をずらしているような気がしています。
大日本史において、両島(現鬱稜島及び現竹島)は日本領と断じているわけで、これは私の主張に沿うものであり、私の論を成立させるために批判する必要はないと思いますが?
>斉藤豊仙が、江戸幕府から朱印をもらった大船が島の開発にあたる実例を知っていたのなら、
これは、むしろ朱印、奉書など公儀権力のお墨付きがなければ開発できないのを知らないはずがないと考えるが普通でしょう。
朱印もなく勝手に開発するのが御法度であったのを斎藤豊仙が知らなかったというのは牽強付会の説と断じるほかありません。
幕府も自身の臣下であり朝鮮側も日本側の交渉窓口であることを認めている対馬藩を通さずに渡航許可を出しているのであれば国内という認識だったからということです。
また、後に「竹島一件」で帰属をめぐり争っていることからも鬱稜島が日本領であるという意識があったことが分かります。竹島一件の後、サツマイモで有名になった青木昆陽は古来、日本領であった鬱稜島を放棄した幕府の判断を非難しているほどです。幕政に関与する人の中にも鬱稜島が日本領であるという認識が根付いていたことを示す一端になりそうです。
幕府が朝鮮領土と認識していたなら、竹島一件で争ったりせず、対馬藩を通じてアクションを起こすはずです。また、秀吉の朝鮮進出以後、幕府は朝鮮との関係修復を目指しており、また、鎖国政策を進める中で他国を侵すという正反対の行為を取ることはあり得ません。
私は朱印、奉書が国内の開発許可に発出された例は数多くあるのを指摘した上での解釈を主張しました。件数としては新田開発がもっとも多いようです(確認はしてませんが)。島の開発許可なら鎌倉幕府による伊豆大島開発も朱印状で行われています。また佐渡金山開発は大久保長安が家康の朱印状を持って佐渡島に渡航して開発を行った例があります。海を越えての開発はそう珍しいことではなかったと言えます。当時は幕府の財政強化と同時に貿易統制に見られるように諸藩が経済的に力を付けすぎるのを防ぐのが公儀の政策テーゼになっていますので、許可なく勝手な開発はできなかったのは繰り返しですが言うまでもありません。
また別の投稿で書いたところですが、当時は国内の移動にも厳しい制限がありました。当然、八丈島や佐渡島も勝手に渡航することができない地域でしたから、鬱稜島も同じだと考えられます。
江戸期は人の定住している島の一部に定期航路があっただけで、大部分は渡航許可が必要か渡航禁止でした。鬱稜島は朝鮮人も空島と呼ばれる現代で言う主権放棄をしているくらいなので、定期航路などあろうはずがありません。
この場合は、渡航、開発を許可する奉書だったと見ればこの辺の疑問がすっきりするのがお分かりいただけると思います。
これも繰り返しですが、そもそも幕府が鬱稜島を朝鮮領と見ていたなら、鎖国を政策テーゼとしているにもかかわらず、それに矛盾する渡航許可を出すわけがありませんし、「竹島一件」で領有を争うわけもないのです。
幕府が日本領と信じていたから争う必要があるわけで、この点からも貴兄の指摘の論拠が崩壊しております。
朱印状を対外政策のみで発出されると言わんばかりの歪曲がありましたが、これについては以前に妄言であるとすでに斬り捨てています。実際には公儀権力の意思表示の手段というのが正しい解釈になります。この公儀権力の伝達を対馬藩を通じて行わなかったという点は大きいと思います。このことだけでも幕府の鬱稜島を日本領と見ていた認識が読み取れます。
さて、ご指摘の点ですが、貴兄の指摘は論点をずらしているような気がしています。
大日本史において、両島(現鬱稜島及び現竹島)は日本領と断じているわけで、これは私の主張に沿うものであり、私の論を成立させるために批判する必要はないと思いますが?
>斉藤豊仙が、江戸幕府から朱印をもらった大船が島の開発にあたる実例を知っていたのなら、
これは、むしろ朱印、奉書など公儀権力のお墨付きがなければ開発できないのを知らないはずがないと考えるが普通でしょう。
朱印もなく勝手に開発するのが御法度であったのを斎藤豊仙が知らなかったというのは牽強付会の説と断じるほかありません。
幕府も自身の臣下であり朝鮮側も日本側の交渉窓口であることを認めている対馬藩を通さずに渡航許可を出しているのであれば国内という認識だったからということです。
また、後に「竹島一件」で帰属をめぐり争っていることからも鬱稜島が日本領であるという意識があったことが分かります。竹島一件の後、サツマイモで有名になった青木昆陽は古来、日本領であった鬱稜島を放棄した幕府の判断を非難しているほどです。幕政に関与する人の中にも鬱稜島が日本領であるという認識が根付いていたことを示す一端になりそうです。
幕府が朝鮮領土と認識していたなら、竹島一件で争ったりせず、対馬藩を通じてアクションを起こすはずです。また、秀吉の朝鮮進出以後、幕府は朝鮮との関係修復を目指しており、また、鎖国政策を進める中で他国を侵すという正反対の行為を取ることはあり得ません。
私は朱印、奉書が国内の開発許可に発出された例は数多くあるのを指摘した上での解釈を主張しました。件数としては新田開発がもっとも多いようです(確認はしてませんが)。島の開発許可なら鎌倉幕府による伊豆大島開発も朱印状で行われています。また佐渡金山開発は大久保長安が家康の朱印状を持って佐渡島に渡航して開発を行った例があります。海を越えての開発はそう珍しいことではなかったと言えます。当時は幕府の財政強化と同時に貿易統制に見られるように諸藩が経済的に力を付けすぎるのを防ぐのが公儀の政策テーゼになっていますので、許可なく勝手な開発はできなかったのは繰り返しですが言うまでもありません。
また別の投稿で書いたところですが、当時は国内の移動にも厳しい制限がありました。当然、八丈島や佐渡島も勝手に渡航することができない地域でしたから、鬱稜島も同じだと考えられます。
江戸期は人の定住している島の一部に定期航路があっただけで、大部分は渡航許可が必要か渡航禁止でした。鬱稜島は朝鮮人も空島と呼ばれる現代で言う主権放棄をしているくらいなので、定期航路などあろうはずがありません。
この場合は、渡航、開発を許可する奉書だったと見ればこの辺の疑問がすっきりするのがお分かりいただけると思います。
これも繰り返しですが、そもそも幕府が鬱稜島を朝鮮領と見ていたなら、鎖国を政策テーゼとしているにもかかわらず、それに矛盾する渡航許可を出すわけがありませんし、「竹島一件」で領有を争うわけもないのです。
幕府が日本領と信じていたから争う必要があるわけで、この点からも貴兄の指摘の論拠が崩壊しております。
朱印状を対外政策のみで発出されると言わんばかりの歪曲がありましたが、これについては以前に妄言であるとすでに斬り捨てています。実際には公儀権力の意思表示の手段というのが正しい解釈になります。この公儀権力の伝達を対馬藩を通じて行わなかったという点は大きいと思います。このことだけでも幕府の鬱稜島を日本領と見ていた認識が読み取れます。
これは メッセージ 9640 (hangetsujoh さん)への返信です.
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