明治政府、竹島=独島の版図外確認5
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/12 20:06 投稿番号: [9815 / 18519]
(注8)幕府「渡海禁制令」
先年、松平新太郎が因幡(いなば)国と伯耆(ほうき)国を治めていたとき、伺いのあった伯耆国米子の町人、村川市兵衛・大屋甚吉が竹島へ渡海し、今に至るまで漁をしていたが、今後、竹島へ渡海の件は禁制を申しつけるべきむねが(徳川綱吉から)仰せつけられたとの由。そのおもむきは保持されるべきである。謹んで申し上げる。
元禄9年(1696)1月28日 土屋相模守
戸田山城守
安部豊後守
大久保加賀守
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566
(注9)島根県「あとがき」
元和4年丁巳(1618)より元禄八年乙亥(1695)にいたるまで、およそ78年である。
・・・
当時、伝えられるように柳沢氏の変があり、幕府は外事をかえりみることができず、ついにここにいたったという。今、大谷家に伝わる享保年間(1716-30)の製図を縮写して添える。なお、両家所蔵の古文書などは後日、謄写されるのを待って全備する。
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565
(注10)『公文録』内務省之部 一(未完成)
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_koubun.pdf
(注11)内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」附属文書
(2)第一号「旧政府評議の主旨」現代語訳
「一号」
元禄九年(1696)正月二十八日
天龍院公が江戸城へおいとま乞いで登城されたおり、白書院の間で老中4人が列座した席にて、(老中)戸田山城守様が竹島(鬱陵島)の件で覚書一通を渡され、先年来、伯耆(ほうき)米子の町人ふたりが竹島に行き漁をしたところ、朝鮮人もその島へ行き漁をしており、日本人と入りまじるは無益なので、今後は米子の町人の渡海を差し止めるとの件を仰せつかった。
同年、これより前の正月九日、三沢吉左右衛門方より直右衛門に用があるのでまかり出るようにとのことだったので参上したところ(老中)阿部豊後守様が逢われ、すぐ聞かれたのは竹島の件で中間(ちゅうげん)衆の出羽守殿、右京大夫殿にも内談があった。
元来、竹島に関してはよくわからない。これまで伯耆から出かけて漁をしてきたいきさつから松平伯耆守殿に尋ねたところ、因幡(いなば)や伯耆に附属するというものでもないという。先年、米子町人ふたりが渡海したいとの申し出があったので、そのときの領主・松平新太郎殿より案内があったように以前は渡海するよう新太郎殿へ奉書をもって申しわたした。そのときは酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃守殿が連判したので、考えてみればおおかた台徳院様の時代だったように思う。先年といっても、年数は不明である。
以上のような首尾で渡海し、漁をしたまでであって、朝鮮の島を取ろうというものでもない。島には日本人は居住していない。島への道のりをたずねると、伯耆から160里(640km)ほど、朝鮮へは40里(160km)ほどあるので、したがって朝鮮国の蔚陵島(鬱陵島)であるようだ。
それとともに、日本人居住者がいるならこちらへ取るべき島であり、いまさら渡しがたいのだが、そのような証拠もなく、こちらからはかまえて言いださないようにしたらどうなるだろうか。
または、対馬守より蔚陵島(を朝鮮の書簡から削除するように願う)と書き入れた件は、返書を差し除くよう仰せられたが、返事がないうちに対馬守が死去したため、その返書は朝鮮に差し置かれたとのことである。そうなら、刑部殿より蔚陵島の件は申し入れてしまっているのでもう言うべきではない。あるいはとかく竹島の件についてひととおり刑部殿から書簡にても申し入れるべきと考慮されるのはどうか。
以上の三通りの了見を考慮され、よりくわしく仰せ聞かされたく存じる。アワビ取りに行ったまでで無益な島であるところに、この件が決着し年来の通交が絶えてもどんなものだろうか。ご威光あるいは武威をもって談判におよぶのも筋違いといえるので事をすすめるわけにはいかない。
竹島の件はきっぱりすすめないことになった。例年行かないことになった。異国人が渡海するので、かさねて渡海しないように申し渡すよう(老中)土屋相模守殿から申し渡された。基本的に禁止することにした。無益
先年、松平新太郎が因幡(いなば)国と伯耆(ほうき)国を治めていたとき、伺いのあった伯耆国米子の町人、村川市兵衛・大屋甚吉が竹島へ渡海し、今に至るまで漁をしていたが、今後、竹島へ渡海の件は禁制を申しつけるべきむねが(徳川綱吉から)仰せつけられたとの由。そのおもむきは保持されるべきである。謹んで申し上げる。
元禄9年(1696)1月28日 土屋相模守
戸田山城守
安部豊後守
大久保加賀守
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566
(注9)島根県「あとがき」
元和4年丁巳(1618)より元禄八年乙亥(1695)にいたるまで、およそ78年である。
・・・
当時、伝えられるように柳沢氏の変があり、幕府は外事をかえりみることができず、ついにここにいたったという。今、大谷家に伝わる享保年間(1716-30)の製図を縮写して添える。なお、両家所蔵の古文書などは後日、謄写されるのを待って全備する。
<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>
http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.565
(注10)『公文録』内務省之部 一(未完成)
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_koubun.pdf
(注11)内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」附属文書
(2)第一号「旧政府評議の主旨」現代語訳
「一号」
元禄九年(1696)正月二十八日
天龍院公が江戸城へおいとま乞いで登城されたおり、白書院の間で老中4人が列座した席にて、(老中)戸田山城守様が竹島(鬱陵島)の件で覚書一通を渡され、先年来、伯耆(ほうき)米子の町人ふたりが竹島に行き漁をしたところ、朝鮮人もその島へ行き漁をしており、日本人と入りまじるは無益なので、今後は米子の町人の渡海を差し止めるとの件を仰せつかった。
同年、これより前の正月九日、三沢吉左右衛門方より直右衛門に用があるのでまかり出るようにとのことだったので参上したところ(老中)阿部豊後守様が逢われ、すぐ聞かれたのは竹島の件で中間(ちゅうげん)衆の出羽守殿、右京大夫殿にも内談があった。
元来、竹島に関してはよくわからない。これまで伯耆から出かけて漁をしてきたいきさつから松平伯耆守殿に尋ねたところ、因幡(いなば)や伯耆に附属するというものでもないという。先年、米子町人ふたりが渡海したいとの申し出があったので、そのときの領主・松平新太郎殿より案内があったように以前は渡海するよう新太郎殿へ奉書をもって申しわたした。そのときは酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃守殿が連判したので、考えてみればおおかた台徳院様の時代だったように思う。先年といっても、年数は不明である。
以上のような首尾で渡海し、漁をしたまでであって、朝鮮の島を取ろうというものでもない。島には日本人は居住していない。島への道のりをたずねると、伯耆から160里(640km)ほど、朝鮮へは40里(160km)ほどあるので、したがって朝鮮国の蔚陵島(鬱陵島)であるようだ。
それとともに、日本人居住者がいるならこちらへ取るべき島であり、いまさら渡しがたいのだが、そのような証拠もなく、こちらからはかまえて言いださないようにしたらどうなるだろうか。
または、対馬守より蔚陵島(を朝鮮の書簡から削除するように願う)と書き入れた件は、返書を差し除くよう仰せられたが、返事がないうちに対馬守が死去したため、その返書は朝鮮に差し置かれたとのことである。そうなら、刑部殿より蔚陵島の件は申し入れてしまっているのでもう言うべきではない。あるいはとかく竹島の件についてひととおり刑部殿から書簡にても申し入れるべきと考慮されるのはどうか。
以上の三通りの了見を考慮され、よりくわしく仰せ聞かされたく存じる。アワビ取りに行ったまでで無益な島であるところに、この件が決着し年来の通交が絶えてもどんなものだろうか。ご威光あるいは武威をもって談判におよぶのも筋違いといえるので事をすすめるわけにはいかない。
竹島の件はきっぱりすすめないことになった。例年行かないことになった。異国人が渡海するので、かさねて渡海しないように申し渡すよう(老中)土屋相模守殿から申し渡された。基本的に禁止することにした。無益
これは メッセージ 9814 (hangetsujoh さん)への返信です.
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