竹島
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半月城氏は韓国政府の公務員1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/07 21:56 投稿番号: [16103 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:52 投稿番号: [16102 / 18519]
朝鮮王朝の竹島=独島領有意識
朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは欝陵島と于山島ですが、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれました。両島は15世紀の官撰地理誌である『世宗実録』地理志にこう記されました。
于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる。新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云う。その地の大きさは百里という。
欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけ望見できる島は竹島=独島しかありません。したがって、この文章における于山島は竹島=独島とみることができますが、その位置や大きさなどは記載されませんでした。
さらに、当時の欝陵島には倭寇などを避けるために空島政策がしかれ、渡海が禁じられていました。そのため、于山島の認識はあいまいで、いわば書物の上だけの観念的な存在でした。
ところが、1696年に一大転機が訪れました。韓国で英雄とされる漁民の安龍福が鳥取藩へやって来ました。かれは、3年前に欝陵島で日本の大谷船により拉致されたことがありましたが、今度はみずから来日しました。その目的は鳥取藩への訴訟であり、朝鮮の官吏を装って、船に「朝欝両島 監税将 臣 安同知騎」と書いた旗を立ててやって来ました。
旗の意味を日本では「朝鮮の欝陵、子山両島の監税将、臣、安同知が乗務」と解されました。子山は于山島であり、同知は職名です。この時の安龍福は訴訟のために「朝鮮八道の図」まで用意しました。その地図で欝陵島と子山島が朝鮮の江原道に属するとされました。
しかも欝陵島は日本でいう竹島、子山島は松島であり、両島は朝鮮領であるとされました。この事件は、鳥取藩のみならず、幕府や対馬藩に衝撃を与えました。紆余曲折の末、対馬藩は当初の主張とは逆に日本人の渡海禁止を朝鮮へ伝達して「竹島一件」交渉を終結させました。
この安龍福の第2次渡日事件により、朝鮮の官撰史書である『東国文献備考』や『萬機要覧』などに「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島なり」と記されるようになり、于山島に対する領有意識が確立しました。
しかし、離島に対する空島政策がその後も継続されたため、于山島の存在は次第にあやふやになり、1900年の勅令41号では于山島の名が消え、竹島=独島は石島とされました。その詳細は文末の参考書に譲ることにします。
(つづく)
これは メッセージ 16101 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:47 投稿番号: [16101 / 18519]
日本が竹島や松島をいかによく知っていようとも、それだけでその地が日本領になるわけではありません。また、その地で頻繁に漁労や竹木の伐採等を行なうことは、もしその地が外国領であれば、その行為は密漁ないしは略奪行為であり、許されるものではありません。欝陵島がその典型例でした。
1620年、江戸幕府は対馬藩に命じて、竹島(欝陵島)で密貿易を行なっていた弥左衛門・仁右衛門親子を「潜商」の罪で捕えました。そのことが幕府の外交資料集である『通航一覧』に記されましたが、その記事において欝陵島は「竹島、朝鮮国属島」と記述されました。幕府は竹島を明確に朝鮮領と認識していたのでした。
それにもかかわらず、幕府は「潜商事件」の5年後、外務省が説明するように、竹島への渡海免許を鳥取藩の大谷・村川両家に与えました。幕府に竹島奪取の意図があったのかどうか疑われるところです。このように幕府や対馬藩が朝鮮領と考えていた竹島へ大谷・村川両家が出漁したのですから、朝鮮漁民との「遭遇」は必然でした。
元禄期の1693年、二度目の遭遇を契機に、幕府は朝鮮との通商をまかせていた対馬藩に対し、竹島へ朝鮮人が渡海しないように朝鮮へ要求する交渉を命じました。外務省のホームページに述べられた「竹島一件」の始まりですが、これは無理難題でした。朝鮮領である欝陵島へ朝鮮人の渡海を禁じるという途方もない要求だっただけに、朝鮮が受けいれるはずがありません。交渉はたちまち暗礁に乗りあげました。
その時になって、幕府はやっと竹島問題を本格的に調査し始めました。まず、鳥取藩へ7か条の問い合わせをおこないました。その第1条を意訳すると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころから両国の付属か?」となります。当時の幕府は、竹島が因伯両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。
しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。
幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の他に両国へ付属の島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。実はこの時、幕府は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。
外務省のホームページは、欝陵島への渡航禁止後も松島への「渡航は禁じませんでした」と記しましたが、これは明らかに我田引水です。竹島が鳥取藩所属でない、ひいては日本領でないという理由で同島への渡海を禁止したのですから、同じく鳥取藩所属でない松島もひいては日本領ではないので、渡海が当然禁止されたとみるべきです。
さらに当時、松島は竹島と一対ないしは竹島の付属島と考えられており、史料に「竹島近辺松島」「竹島の内松島」などと記されました。そもそも、松島はその名前に反して松の木はおろか、木が1本も生えていない岩の島でした。それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島と対をなすという考えから自然に名づけられました。そのため、多くの「地図や文献」で両島は一対に扱われました。しかし、公的な地図や文献で両島が日本領として記載されたことは一度たりともありませんでした。
地図でいえば、外務省は沈黙していますが、江戸時代に発行された唯一の官撰地図「官版 実測日本地図」に竹島・松島は記述されませんでした。この地図は伊能忠敬の地図を元に作られたのですが、伊能図にも竹島・松島はありません。官撰地図や官撰絵図からも江戸幕府は竹島=独島を日本領と認識していなかったことがわかります。
(つづく)
これは メッセージ 16100 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:45 投稿番号: [16100 / 18519]
半月城です。雑誌『もう一つの世界』第12号から転載します。
竹島=独島は固有領土か、強奪領土か
はじめに
竹島=独島問題は日韓間に突きささったトゲのようなもので、事あるごとに両国の民族心を刺激し、過去にはそれが高じて銃撃戦にまで発展したこともありました。一昨年も竹島=独島周辺の調査船問題がこじれて、一時は日韓両国の警備艇同士が衝突する事態も懸念されたほどでした。
もともと竹島=独島問題の根は深く、日韓両国が正反対の見解で角突き合わせているだけに、今後も同じような騒動が繰り返される恐れがあります。昨年も韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は対日政策に関する異例の特別談話を発表し、竹島=独島問題は「日本が朝鮮半島の侵略で最初に奪い去った歴史の土地だ」と述べ、激しく日本を非難しました。
これに対する日本政府も一歩も後へ引かないようです。その核になっているのは、半世紀以上も外務省が言いつづけてきた「竹島は日本の固有領土」という主張です。このように日韓両国は竹島=独島の歴史を根拠に強硬な主張を繰り返していますが、その割には竹島=独島の歴史が、特に日本ではよく知られていないのが現状です。そこで、この稿では主に歴史に重点をおき、江戸時代から明治時代を概観することにします。
江戸時代の竹島=独島領有意識
日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化してきたのですが、その詳細は省き、最近の主張を同省のホームページにみることにします。竹島=独島を固有領土とする根拠として下記の3項目を掲げました。
(1)竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(2)竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
(3)鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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毛玉大先生(朝鮮人)吼える!
投稿者: jalopy2005 投稿日時: 2008/01/06 22:03 投稿番号: [16098 / 18519]
わしは南朝鮮生まれ育ちの朝鮮人である。
ここでの名前は毛玉である。
わしは、竹島問題に関して、それにまつわる古い文献を読んだりの深い知識は全然もっておらんのだが、
一言いわしてもらおうやないけ。
もうええ加減にせえよ、おまえら!(毛玉先生、早くもキレちゃった)
わし、わりと最近まで、竹島問題に関してはあんまり関心がなかったし、99.999%の韓国人と同じように韓国側の主張が正しいのかなと思ってた。
それが、外務省のHPの説明を読んで、初めて韓国側のこの問題についての認識というより姿勢に問題アリやなと考えるようになった。
単純にいえば、イルボン側の主張は論理的なのに対し、ウリナラの主張は感情丸出しの強引なこじつけ、ウソ、詭弁ではないか。
「正論」2月号の記事を読んだ(立ち読みだけど)。
半月城氏など、日韓の「独島はウリタン(我が領土)倶楽部」の先生方が東大でシンポジウムをやったとか。
ほんで、記事の筆者が肝心なところについてパネラーの一人に質問したら、全然返事が返ってこなかったそうじゃないか。
竹島問題をわかり易くいおう。要するに韓国側の主張は、拉致問題は解決済みだとかいって逆ギレしてる北朝鮮の態度に似てるといえようーまあ、ほとんどの一般国民は政府やメディアのウソに騙されているわけだが。それだけ次元の低い話なんよ。
南朝鮮のそのようなモーラルのなさは置いといて、何よりも嘆かわしいというか情けないのは、半月城とやらの在日知識人の姿勢である。
本来なら、祖国の人々のそういった間違った認識や態度を叱り、正しい方向に導かなけりゃならん立場なはずやのに、
なんで南朝鮮政府の提灯持ちをやっとんねん。生計を立てていくためか。
半月城とやらのおっさんよ。
わしが、このイルボンに長年住んでおって、祖国に一対して一番望んでるのは「品格」やねん。
邪魔せんといてや。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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何やってんだ日本! 『大日本国全図』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 21:27 投稿番号: [16097 / 18519]
これは メッセージ 16095 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 半月城さんへ
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/06 20:50 投稿番号: [16096 / 18519]
久しぶりに投稿します。
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話は変わりますが半月城さんは自著『竹島=独島論争』のなかで『東国文献備考』の「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」の解釈について、
たとえ下條説の史書改ざん説を認めたとしても、朝鮮の于山島=松島に対する領有意識はその時期が単に1770年にずれるのみで大勢に影響はありません。
竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(1)
http://www.han.org/a/half-moon/hm110.html#No.805とお書きになっています。半月城さんもよくご存知のように、最近になって輿地志には「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」の記述が存在しないことが判明しました。
[2007年10月2日]
『諸君!』2007年9月号(文藝春秋刊)記事
「日本の領土『竹島』の歴史を改竄せし者たちよ」 下條正男
(PDF 1.16MB)
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/ということは半月城さんは少なくとも1770年より前に完成した地図や地誌その他の記録にある于山島は竹島=独島ではないと論説を修正されたと解釈してもよろしいですよね?
半月城さんは竹島問題に関しては自他共に認めるオピニオンリーダーであり、私は半月城さんは民団における竹島問題関連の最高責任者ではないかと考えています。論説を修正されるのであれば説明責任を果たしていただきたいと思います。(15994より抜粋)
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いまだに回答ありませんね。
これは メッセージ 15994 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 『三国史記』 『大日本史』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 13:56 投稿番号: [16095 / 18519]
>『三国史記』の口語訳において、文の末尾の「国人恐懼則降」の訳が書きもれのようです。
chaamieyさん、ご指摘頂き、ありがとう御座います。早速修正致しました。chaamieyさんも麻生さんを応援して下さい。言い遅れましたが、今週の竹島掲示板エンディングテーマを掲載します。
next, coming up
『日本外交文書』 18巻 534-5、573-6
『日本外交文書』 23巻 531、532、574-5
『日本水路史』海上保安庁S46
160-161
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『陸軍省 大日記』
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
新春から始まる「新シリーズ・韓国直送資料」
『皇城新聞』1900年9月23日
『皇城新聞』1906年5月9日
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
今週の竹島掲示板エンディングテーマ
「"とてつもない日本"解放への戦火/麻生太郎」
http://jp.youtube.com/watch?v=yE6DSTDA0vY&feature=related
これは メッセージ 16094 (senkaku_islands さん)への返信です.
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『新増東国輿地勝覧』 『増補文献備考』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 13:44 投稿番号: [16094 / 18519]
これは メッセージ 16091 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 『三国史記』 『大日本史』
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/01/06 06:59 投稿番号: [16092 / 18519]
継続的な資料収集の御努力に敬意を表します。
ところで、『三国史記』の口語訳において、文の末尾の「国人恐懼則降」の訳が書きもれのようです。
これは メッセージ 16091 (senkaku_islands さん)への返信です.
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『三国史記』 『大日本史』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 00:03 投稿番号: [16091 / 18519]
これは メッセージ 16090 (senkaku_islands さん)への返信です.
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迎春 『世宗実録地理志』 『通航一覧』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/05 01:54 投稿番号: [16090 / 18519]
これは メッセージ 16067 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/04 05:39 投稿番号: [16089 / 18519]
続きです。
金正浩の大東地志に「鬱陵島在本縣正東海中
(中略)
自本縣天晴而登高望見則如雲氣」
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1863-description-of-ulleungdo-from-kim.h
tml
とあるのは、それまでの世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」・『西渓雑録』の「盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」をより具体的かつ正確に描写したものではないでしょうか。
大東地志に「本(蔚珍) 県より高い所に登って望見する」とあるのをみれば『西渓雑録』の「登最高頂」も朝鮮半島から高い所に登ったということですよね。
半月城さんも
かれ(金正浩)は『世宗実録』地理志や『東国輿地勝覧』など地理志の伝統を受けついだことだけはたしかで、そうした趣旨がかれの著書『大東地誌』『輿國備志』『東輿圖地誌』などにうかがえます。
朝鮮の近代地図「大東輿地図」
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.htmlとお書きになっています。半月城さんは官撰ではない『西渓雑録』を持ち出していらっしゃいますから、私が官撰ではない地誌や地図を持ち出しても構いませんよね。
『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」
そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがないのではないでしょうか。
使いまわしですいません。。。
これは メッセージ 16088 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/04 05:29 投稿番号: [16088 / 18519]
半月城さんへ
>>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。
半月城さんは長々と文章をお書きになりましたが私と下條氏が提示した疑問に全くお答えになっていません。半月城さんは建設的な議論をするお気持ちがあるのでしょうか。最近2ちゃんねるにあれこれ書き込んでいらっしゃるようですが、疑問にちゃんとお答えにならないと半月城さんの意図とは逆の結果になってしまいますよ。。
そんなわけで半月城さんには改めて質問にお答えいただきたいと思います。
「云盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」
私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、半月城さんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、
「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」
という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。
「中宗実録」
中宗 六年(1511年) 5月 21日の項に
「謂臣曰, 寧海居軍官朴自範云, 江原道武陵島, 與此相望, 夜有火光, 疑是倭船隱接, 或我國逋亡人潛寓。」
とあるのを見れば「去此」の「此」が朝鮮半島(寧海) を指していて世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」の「相去不遠」は「于山と欝陵はお互いに遠くなく」ではなく「(蔚珍) 県と于山欝陵二島はお互いに遠くなく」であって、朝鮮半島から鬱陵島が見えると理解すべきではないでしょうか。
これは メッセージ 16083 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/03 23:23 投稿番号: [16087 / 18519]
>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり
そんな認識はありません。
相去るは半島からの話しであるのがフォーマットですから、此処を去ることと
入れなくても二島が半島から遠くないと読むのが基本です。
この掲示板でその話しは出てますよ。
仮に二島間の関係なら、渚や木が見えるということが決定的に矛盾します。
100mしか離れて無くても、天気が雨なら見えません。
すでに何度も出たことですが、rom専の方のために書いておきます。
すくなくともそれらの記述を読んだ当時の人間の解釈は地図の位置です。
これは メッセージ 16086 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 22:10 投稿番号: [16086 / 18519]
両書の前後関係はともかく、ここで重要なのは「欝陵島」の記述が性質も時代も違う二書に記述されたことです。これは取りも直さず、その話が17世紀半ば以降は広く知れわたっていたことを意味します。
しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。
(注1)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?>
http://www.han.org/a/half-moon/hm064.html#No.412(注2)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1969、P456
(注3)韓国「王室図書館蔵書閣デジタルアーカイブ」の「臥遊録解題」によれば、『臥遊録』は2種類が知られており、「欝陵島」が記載されている蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの史料のみが掲載されているとのこと。
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/HajeView.jsp?aa10up=kh2_je_a_vsu_24513_0
00&keywords=%E8%87%A5%E9%81%8A%E9%8C%84%20AA50(注4)朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)
朝鮮中期の学者、文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は播南。1660(顕宗1)年、増広文科に首席で及第し、成均館典籍に叙授された後、兵曹正言などを経て、1664年に副修撰、黄海道の暗行御使になった。1667年に修撰、翌年に吏曹佐郎になったが、就任せずに杖刑を受けた後、同年に冬至使書状官として清を往復した。
その後、礼曹、刑曹の参議を勤め、1694(粛宗20)年の甲戌喚局以後に少論が重用されるや、承旨に特進し、翌年、工曹判書を経て吏曹判書を勤めた。1703年に判中樞府事として耆老所に入ったが、『思辨録』を書いて朱子学を批判し、独自の見解を発表したため、斯文乱賊の烙印を押されて官職を剥奪され、配流途中に玉果で死ぬ。
・ ・・・
実学派の先駆的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点から出発したが、自主意識が強く、自由奔放な独創性を帯びている。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/(追記)(1)に下記の「
」を追加します。
その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。「その僧が欝陵島へ行ったとする丙午年は、僧の年令から考えて 1606年と思われます。」
また、前回の書き込みで「購読」は「講読」の間違いでした。また「韓文」は間違いではないので、念のため。
これは メッセージ 16084 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 半島から鬱陵島の2つの頂が
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/03 22:08 投稿番号: [16085 / 18519]
なるほど、将に三峰島ですね。
真ん中の峰と右の峰で2つの島に見える以外に、
一番低い左端の峰が一つ、真ん中と一番右の二峰があわせて一つ、
その間の谷が水平線に隠れるという可能性もありますね。
う〜。半島から見た写真がほしい。
これは メッセージ 16082 (chaamiey さん)への返信です.
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「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 21:50 投稿番号: [16084 / 18519]
弥左衛門は歳役を納めていたので、やはり竹島(欝陵島)で公認の事業をしていたようです。しかも、かれは公儀から御朱印をもらっていたようで、中村栄孝は「柚谷記に曰、磯竹島は、昔、鷺坂弥左衛門父子、渡此島 陰(ママ)居、自公儀以御朱印」と紹介しました(注2)。
磯竹島に倭人が入り込んでいたことは朝鮮史書『芝峰類説』にもあり、「壬辰變後 人有往見者 亦被倭焚掠 無復人煙 近聞倭奴占據 礒竹島 或謂礒竹 即蔚陵島也」と記されました。すなわち、壬辰の変以後、倭人が礒竹島(蔚陵島)を占拠したとされました。これは弥左衛門親子の居住をさすものと思われます。
そうした実績に立ち、対馬は欝陵島を自国領にすべく、1614年、朝鮮に対して竹島(欝陵島)は日本領であると言いだしました。これを『通航一覧』は「宗對馬守 義智より朝鮮國東莱府使に書を贈りて、竹島は日本屬島なるよしを諭せしに、彼許さず、よて猶使書往復に及ぶ」と記しました。ただし、同書はこれを慶長17(1612)年のこととして書き、注で『朝鮮通交大紀』では慶長19年のこととしていると記しました。
これに対応する記事が『光海君日記』1614年9月2日条に見えるので、対馬の申し入れは慶長19年が正しいようです。朝鮮は対馬の主張をもちろん受けいれるはずはありません。東莱府使の尹守謙は「いわゆる磯竹島は、これ我国の欝陵島なり・・・・・貴国の我国に来往するは、ただ釜山一路を除くのほか、皆海賊をもって論断せり」と回答したことが『通航一覧』巻137に記されました。
以上のように、弥左衛門親子は慶長年間に豊臣秀吉や対馬国の公認のもとに竹島(欝陵島)で活動していたことは史料からも裏付けられます。したがって、その時に『西渓雑録』に登場する僧が対馬から弥左衛門親子にしたがって欝陵島へ渡航したことは充分あり得ます。僧は日本人と行動した時のことをこう語りました。
「(欝陵島で)倭人が竹を伐り、薬草を採っていた。自分が船に残り留守番をしていたところ、横の船に同じような俘虜が七人いたので、夜、一緒に語り合った。ちょうど暁どきに船を出して以来、日が申時(午後3-5時)にはもう寧海の地に着いたと云う」(韓国人研究者訳)
この伝聞によると、僧は俘虜7人とともに欝陵島から寧海へ行ったとされますが、それが可能かどうか疑わしいところです。俘虜の送還は対馬から朝鮮の東莱府へなされているので、俘虜を欝陵島経由で送ることは考えられません。ただ、俘虜たちが欝陵島から逃げて寧海へ行ったとするなら、まだ少しは可能性があるかもしれません。
いずれにせよ、僧の話には多少の脚色があるようです。ま、僧が俘虜として日本へ行った話だけは信じられるとしても、欝陵島から寧海へ行ったという話は、実は倭人に随った時のことではなく、別な機会に朝鮮から往復していたのかも知れません。
そこで思い当たるのは、弥左衛門親子が「潜商」であった事実です。彼らは欝陵島で単に木の伐採だけを行なっていたのではなく、交易の途絶えた朝鮮とは欝陵島を中継地点にして密貿易をおこなっていたのではないかと想像されます。
ところで、話はかわりますが、下條正男氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである」としていますが、朴世堂が僧から直接話を聞いたかどうかは疑問です。
ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は同書だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』のほうが古いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱っており、その中に「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成していたと見られます(注3)。
それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載せているので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。したがって、朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本があったと見られます。朴世堂の経歴からすると(注4)、そのころの朴世堂は種々の情報を容易に得られる立場にあったようです。そのために「蔚陵島事蹟」の転載も可能だったと思われます。
(つづく)
これは メッセージ 16083 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 21:47 投稿番号: [16083 / 18519]
半月城です。
『西渓雑録』に書かれた僧の記事はなかなか興味を引きます。特に僧が「壬辰の乱で日本へ俘虜として入り、丙午年に倭船にしたがって欝陵島へ至った」とするくだりは歴史の生き証人としての証言だけに注目されます。
僧は欝陵島の情景を詳細に語っていることなどから、上記の一節に関するかぎり、ほぼ信頼できそうです。これが史書からも裏付けられるのかどうか考察したいと思います。
まず、壬辰の乱とはいうまでもなく、1592年に豊臣秀吉が朝鮮を侵略した無謀な文禄の役を指しますが、日本軍は慶長の役とあわせて、朝鮮人を5万人ないし7万人も日本へ拉致しました。薩摩焼の沈寿官さんや、戦時中の東郷外相などはそうした子孫の一人として有名ですが、拉致された人びとのほとんどは日本に残りました(注1)。
それも無理ありません。何しろ戦後処理の遅れから、被虜を連れ戻す公式の刷還使が日本へ派遣されたのが、なんと10年も経た1607年であり、その時は被虜本人もほとんどが日本に定着して帰国を望まなかったのでした。また、被虜の主人や藩も被虜が帰国するのをほとんど望まなかったのでした。
しかし、対馬だけは別でした。対馬は侵略戦争により朝鮮との交易を完全に断たれたので、糧道を断たれたも同然でした。良田の少ない対馬は、魏志倭人伝の時代から交易が命でした。宗義智は朝鮮との交易を再開すべく懸命な努力をしました。その一環として、朝鮮へ誠意を示すべく、被虜人の送還を積極的に行ないました。
1600年、対馬にいた被虜 300余名、翌年には250名を朝鮮へ送り届けましたが、これらの努力が功を奏し、朝鮮もやや軟化し始めました。05年に朝鮮から講和のさきがけとして松運大師を招き、徳川家康と対面させるまでにこぎつけました。松運大師は加藤清正と戦った義兵僧でした。
その時の話し合いで被虜の送還が決まり、対馬はさっそく手始めに被虜 1200人を送還しました。その後も、対馬は被虜人を積極的に各地から集めるのに躍起でした。その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。
一方、対馬と欝陵島とのかかわりですが、古くは室町時代 1407年にさかのぼります。宗貞茂は、朝鮮の太宗が欝陵島を空島にしたことをかぎつけたのか、朝鮮に土産物を献上し、倭寇の被虜を送還して、茂陵島(欝陵島)に対馬島民を移住させたいと申し出ました。これに対して太宗は、それを許すと、幕府と対立する謀反人を入れることになるという理由で許可しませんでした。
その後、対馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の先導をになうのですが、そのころ、対馬から欝陵島へ渡航していた人がいました。それは鷺坂(磯竹)弥左衛門・仁右衛門親子ですが、幕府の『通航一覧』によれば、元和6(1620)年に竹島(欝陵島)で潜商の罪で捕えられました。ただし『通航一覧』は続けて『対州編稔略』を引用し「潜商の事とも定めがたく」と記しました。どうやら親子の活動は公認の事業であったようです。
関連記事は、1617年に朝鮮使節の従事官として来日した李景稷の旅行記である『李石門扶桑録』にも記されました。それについて中村栄孝はこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(『李石門扶桑録』)記事のなかで、対馬の老臣 柳川調興が、伏見で、土井大炊助利勝と朝鮮のことを語ったさい、利勝から、磯竹弥左衛門のことをのぼらせたとあるのは、注目すべきところである。秀吉の許可をえて、「礒竹島」へ渡り、材木などを取ってかえり、その縁故で「礒竹弥左衛門」とよばれた日本人があった。かれは、その後、この島への渡航によって生活し、歳役を納めていたというのである(注2)。
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(つづく)
これは メッセージ 16064 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 半島から鬱陵島の2つの頂が
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/01/03 21:31 投稿番号: [16082 / 18519]
これは メッセージ 16081 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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半島から鬱陵島の2つの頂が見えるのでは?
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/03 20:41 投稿番号: [16081 / 18519]
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Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/03 14:09 投稿番号: [16080 / 18519]
続きです。
>>于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」
そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがありません。
それに朴世堂は「麋鹿熊シヤウ徃徃越海出來」とありえないことを書いているわけですから実際には見えない島を見えると書いたとしても不思議ではありません。
>>朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
「日本人と思しき」とあります。ararenotomoさんの話を総合すると朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧侶は鬱陵島が物産豊富な島と聞き、1666年大谷家の船に乗って欝陵島に渡りあわびやあしかを捕まえて、日本に戻る途中で遭難して朝鮮半島に漂着し、日本に帰らずに韓国に帰化し韓国語を覚えて僧侶として活動し、さらに欝陵島とは何回も往来し欝陵島の自然地理に関して詳しいにもかかわらず、朴世堂に欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っていると有りもない話を語ったということになります。。。
ararenotomoさん自身も No.16054 で「非常に大胆な推測です」とお書きになっているようにこの僧侶の冒険譚には好意的に表現しても信憑性が高くないと思います。私は確実な根拠からは確実な結論を導くことはできるが、信憑性の薄い根拠からは信憑性の薄い結論しか導きだすことができないと考えます。にもかかわらずararenotomoさんはこのような信憑性の薄い根拠から于山島が竹島なのは客観的な事実であるかのような結論を導き出してしまいました。これはいかがなものでしょうか。
これは メッセージ 16079 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/03 13:52 投稿番号: [16079 / 18519]
ararenotomoさん
新年早々ご苦労様です。ararenotomoさんはあくまでも于山島は竹島(独島)であると主張されていますが、ararenotomoさんの主張にはいくつか疑問があります。
>>下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。
確かに「来日」という単語は存在しますが、「以来」という単語の方がよりメジャーですから「發船以來・日」と分けるべきか「發船以・來日」と分けるべきか私にはよく分かりません。いずれにせよ寧海と鬱陵島との間が近いということであって、半日か一日半かは本質的な議論ではありませんね。
>>朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。
ararenotomoさんは欝陵島の高所から鬱陵島の低所にある「衆峰攢青岩壑呈露沙汀樹木」を見たと解釈されていますが、私はそうは思いません。「風恬浪靜則
可指」(風がおだやかで波が静かならば
見える)という文言があります。これは水平線の間際に鬱陵島があるので波が高いと波が邪魔で見えないということであり、海を隔てたどこかから鬱陵島を見たとしか解釈できません。欝陵島の高所から眼下の「衆峰攢青岩壑呈露沙汀樹木」を見たのであれば波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。
>>朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません
私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、
「盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」
の部分は
「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」
という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。
これは メッセージ 16073 (ararenotomo さん)への返信です.
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Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/02 20:23 投稿番号: [16078 / 18519]
訂正します。
>おそらく韓国の学者でさえ、「大韓輿地図」における欝陵島と于山島の位置関係を「ほぼ正しい位置関係」とする人は、少数派ではないでしょうか。
韓国の学者の間では、「大韓輿地図」における欝陵島と于山島の位置関係を「ほぼ正しい位置関係」とするのが、大勢です。少数派ではありません。
なお、半月城さんも言及していたと思いますが、大韓輿地図も大韓全図も、鬱陵島と于山島に関してはほとんど同様の描き方です。
以下の画像をご参考ください。上から三番目、左が大韓全図、右が大韓輿地図です。これが、堀和生氏によれば、古地図としては鬱陵島と于山島がほぼ正しい位置関係ということになるそうです。
個人的には、古地図として正しい位置で書かれたのは鬱陵島だけで、于山島=独島は、規定不能だと思いますが(むしろ竹嶼としてであれば正しい位置で描いています)。対馬や済州島、その他の近隣の島などと比較して、そう言わざるを得ません。
ttp://dokdo.naezip.net/Dokdo/Dokdo12f.htm
これは メッセージ 16076 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16078.html
やっぱり・・・・
投稿者: boshind 投稿日時: 2008/01/02 15:13 投稿番号: [16077 / 18519]
反論は
見ない書かない
聞こえない...nida
これは メッセージ 16062 (boshind さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16077.html
Re: 証拠としての竹島=独島地図、舩杉批判
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/02 00:27 投稿番号: [16076 / 18519]
部分的な話ですが、堀和生氏の論文から半月城さんは、以下の部分を引用しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
19世紀末、朝鮮政府が欝陵島の開発に着手すると、于山島への認識はより正確になった。その時点の朝鮮側の認識を示すものが、図1に掲げた大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年 奎章閣所蔵)であり、古地図としては欝陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画がかれている(注4)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
正直な所、この一文で、堀和生氏の論文の価値は、半分以下に落ちていると言ってもいいほどに、無茶な記述です。
引用していらっしゃる所を見ると、半月城さんはこの記述に一定の価値を見出しているのかもしれませんが、それはひいきの引き倒しというものでしょう。
大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年 奎章閣所蔵)を「古地図としては欝陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画がかれている」などと言える神経を私は疑います。ましてや、堀氏は学者です。
おそらく韓国の学者でさえ、「大韓輿地図」における欝陵島と于山島の位置関係を「ほぼ正しい位置関係」とする人は、少数派ではないでしょうか。
これは メッセージ 16044 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/02 00:08 投稿番号: [16075 / 18519]
横から失礼いたします。
>次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。
鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。
そうでもないのでしょうか。
ちなみに、朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。文章がどう読めるか。その一点が問題かと。
これは メッセージ 16073 (ararenotomo さん)への返信です.
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Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/01 23:06 投稿番号: [16074 / 18519]
これは メッセージ 16029 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16074.html
『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/01 22:50 投稿番号: [16073 / 18519]
yabutarou01さん
『西溪雑録』についての説明を有難うございます。
『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。
yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。
朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。
于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。
朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。
于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。
これは メッセージ 16070 (ararenotomo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16073.html
Re
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:42 投稿番号: [16072 / 18519]
No.16071の投稿は文字化けしてしまいました。
削除して下さい。大変失礼しました。
これは メッセージ 16070 (ararenotomo さん)への返信です.
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〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々噐表\x8Duは防\x8Du
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:26 投稿番号: [16071 / 18519]
yabutarou01さん
〆廉露\xEBj\xE5h〇についての\xD5h苧を嗤\xEByうございます。
〆廉露\xEBj\xE5h〇についてyabutarou01さんは肝に\x98\x94に\x95琛ǂ譴泙靴拭\xA3
﹅仝囑匯筆徭\xB7Q班浬岻\x81y々參週は匯粁和げて\x95琛ǂ譴討い董△海譴茲蠻阿⓱称弔任△辰討海賻埆気⓱称弔砲弔い討倫a怎\xD5h苧であることが蛍かります。
﹅云猟にあたる\xB9w侭をよく\xD5iむと1530定撹羨の〆仟\x89\x88\x96|忽\xDD\x9B仇\x84搜E〇とほとんど揖じ坪否であって\xDF`っているのは〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では仝噐表\x8Du\xF4d相\x8Du匯堝冷相匯堝嚼相屈\x8Du壓\xB1h屎\x96|今嶄眉\x8Do式\x98I嫺腎掴\x8Do敏碓\xEFL晩賠苧\x84t\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As?辛\xD2\x8A\xEFL宴\x84t屈晩辛欺匯\xD5h孤表\xF4d相云匯\x8Du仇圭為戦々にあたる何蛍が、〆廉露\xEBj\xE5h〇では仝\xF4d相\x8Du\xF4d相賜垰冷相呀垰嚼相鞠互李岻眉桁瓰\x98I嚇腎遇掴桁不詰晩兜竃\x95r\xEFL厄惜\xECo\x84t\xD0\桁\x94\x80\xECi冫柆格其紐諭\x98篦\xBE\x9As\x9As辛峺々になっている侭だけです。つまり〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では噐表\x8Duと\xF4d相\x8Duについて屈\x8Du\xD5hと匯\x8Du\xD5hとを\x81穩\x9Bしていたのが〆廉露\xEBj\xE5h〇では匯\x8Du\xD5hのみに\x89篁唎靴討い襪里❹錣ǂ蠅泙后\xA3
yabutarou01さんが峺姜されたように、〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々の恷兜の何蛍は〆仟\x89\x88\x96|\x87癭\x9B仇\x84搜E〇とほとんど揖じ坪否で、\xDF`っているのは丹\xEE^の\x99鸛\xEA\x8Duの\xD5h苧です。個佩して\x95琛ǂ譴拭\xB8\x87L囑匯筆徭\xB7Q班浬岻\x81y拳々參週の猟嫗は、念の云猟についての\xD1a怎\xD5h苧というよりは、鏡羨の嫗として筆からの\x81斬\x84を\xD3\x9B\xE5hしたものと房います↙No.16065⇄。そして、酉弊銘は筆あるいは\x99鸛\xEA\x8Du局砂宀から\xC2\x84いた\xD4\x92によって、〆仟\x89\x88\x96|\x87癭\x9B仇\x84搜E〇の\x95畸舛△襪い浪師鋿_な\xD3\x9B並を\xD3\x86屎しました。
酉弊銘は、〆廉露\xEBj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々の丹\xEE^で、仝\x99鸛\xEA - - 鞠互李岻々と互く鞠り岻↙\x99鸛\xEA\x8Du⇄を李めば仝眉桁キフゲフ↙キフ表の和に式とゲフ表の和に\x98I⦿表の\xEA\x93しく互き嘆⇄- - 掴桁不詰々と、互侭から\xD2\x8Aた\x99鸛\xEA\x8Duの仇侘を\xD5h苧しています。肝に、仝晩兜竃\x95r\xEFL厄惜\xECo\x84t\xD0\桁\x94e楳冫柆格其紐諭\x98篦\xBE\x9As\x9As辛峺々と、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇の仝\xEFL晩賠苧\x84t\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As\x9As辛\xD2\x8A々の何蛍を\xD4\x94峰し、恷瘁に\x99鸛\xEA\x8Duの互侭からは仝紐諭\x98篦勝垢❶\xB8\x9As\x9As辛峺々峺さして幣せるほど苧らかに\xD2\x8Aえる、と\xBDYんでいます。この恷瘁の何蛍は〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇の仝\x8Do\xEE^\x98篦昭杏集秞割\xBE\x9As\x9As辛\xD2\x8A々に屢輝しますが、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇は採\x84Iから\xD2\x8Aたかを\x95琛ǂ覆ǂ辰燭里如△海譴漏婷r云輿から\xD2\x8Aた\x99鸛\xEA\x8Duの徊との盾\xE1\x8Bも伏れました。しかし140kmも\xEBxれた云輿から、\x99鸛\xEA\x8Duの\x8Do\xEE^の\x98篦召簓集硑良割召\xAC\x9As\x9Asと\xD2\x8Aえるはずはありません。匯圭、〆廉露\xEBj\xE5h〇の\x99鸛\xEA\x8Du仇\x84櫃林\x9B峰は\x98Oめて醤悶議で、〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇に曳べ、はるかに措く尖盾できます。
噐表\x8Duについては〆\xDD\x9B仇\x84搜E〇では仝孤表\x99鸛蟇紹\xBB\x8Du々とする匯\x8Du\xD5hも\x81穩\x9Bしております。しかし、酉弊銘は\x99鸛\xEA\x8Du局砂宀の\xD4\x92を\xC2\x84き、泳らは孤表\x8Duと\x99鸛\xEA\x8Duを\x84e?の\x8Duと\xD5J\xD7Rしていることを岑り、仝匯\xD5h孤表\x99鸛蟇紹\xBB\x8Du々を嵭茅しました。また、瘁でもっと\xD4\x94しく峰べているので、仝屈\x8Du壓\xBFh屎\x96|今嶄々や仝\xEFL宴\x84t屈晩辛欺々も嵭茅しました。
酉弊銘は、筆からの\x81斬\x84として、噐表\x8Duを仝堝固屈\x8Du↙噐表と\x99鸛蝪Ñゴ鵬刺栝h匯ハン↙\xF1R陶に\xEFL⇄\xEFL辛崛噐表\x8Du\x84蘖芦子鮑\xA3\x9A\xE2\x98O\x9C[席音鞠恷互\xED\x94\x84t音辛\xD2\x8A々とさらに\xD4\x94しく\xD3\x9B峰しました。この\xD3\x9B峰からは、噐表\x8Duは晩云繁が各する防\x8Duを峺しているとしか深えようがありません↙No.16054⇄。
噐表\x8Duは\x99鸛\xEA\x8Duの\x96|2 kmにある幢\x8EZ↙Chukdo⇄を峺すこともあります。しかし幢\x8EZは、劾\xF5r云輿からは畠く\xD2\x8Aえず、\x99鸛\xEA\x8Duからは、爺\x9A櫃ⅲ燃◀砲茲\xA4\x95rでなくとも、また、\x98妨澆臨遒盡澆い箸海蹐泙乃任蕕覆唎箸癲⊖\x8Aることの竃栖る\x8Duですから、この噐表\x8Duが幢\x8EZを燕しているとは房えません。
酉弊銘は謹くの繁から\x99鸛\xEA\x8Duの秤\x88鵑鮗唎瓩燭任靴腓Α◀修琳个波娜照砲繁爾靴①姑紐瞬\xAE\x81yの拳↙の徨\x8CO◦⇄々と徭各する筆をインフォ\xA9`マントとして恷も互く\xD4u\x81鈇掘◆採焠ɮj\xE5h〇仝\x99鸛\xEA\x8Du々で匯嫗を護き掲械に\xD4\x94しく泳の\xD4\x92を\xD3\x9B\xE5hしたことを、寄\x89篥d龍侮く湖じました。
これは メッセージ 16056 (yabutarou01 さん)への返信です.
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朴世堂「欝陵島」下條氏見解への異見
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/12/31 21:20 投稿番号: [16070 / 18519]
yabutarou01さん
yabutarou01さんが、下條氏の「半日の航程」とした解釈によって、欝陵島と寧海との距離を最初の「翌日」から「当日」に変更した経緯はよく分かりました。2ちゃんねらー自称漢文専攻の院生氏も「天將曉發船以來日纔ホ(日偏に甫:日暮れ)已到寧海地面」を「夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いた」と、初めは「翌日」と正しく訳しました。ただし後で、「「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。」と解釈しなおしたようです。しかし、太陽が出たとたん日付が替わるわけではありませんから、その日に着いたのなら、「以其日纔ホ(日偏に甫)已到 - -」と書くはずです。
下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。
下條氏は、朴世堂に欝陵島のことを話した僧侶は、「文禄の役で捕虜」となり、「丙午(1606年)の年、日本船で朝鮮に送還され、欝陵島を経由して半日で慶尚道の寧海に着岸していた。」としています。しかし私は、朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます(No.16054)。
朴世堂は「自稱壬辰之亂の俘」である僧から聞いた話を基に欝陵島のことを記しました。この僧は特に、欝陵島の自然地理に関して詳しいように見えます。恐らく欝陵島にかなりの長期間滞在し、欝陵島とは何回も往来していたと思われます(No.16054)。従って、yabutarou01さんが述べられたように、僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。ただし、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」は勇み足でしょう。これを除いて、朴世堂の記述は殆んど間違ってはいないと思います。
なお、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」に関して、前提の院生氏は、「「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。」としていますが、海洋島と見做せる欝陵島に大型哺乳類は棲んでいません。
下條氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文した」と書いています。朴世堂は、確かに下條氏が云われるように、『東國輿地勝覧』の記事に加えて僧侶や欝陵島渡航者の伝聞から『西溪雑録』「欝陵島」を書きました。その記事は当時としては出色の豊富な情報量を盛り込んでいるように見えます。そして朴世堂は、『新増東國輿地勝覧』の曖昧な記述を、もっと明瞭な表現に改めたことを、次に示します。
これは メッセージ 16061 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/12/30 01:50 投稿番号: [16069 / 18519]
半月城さんへ
>>下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳されます。
すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきかも知れません。
どうか落ち着いて下さい。。半月城さんは重大な勘違いをされていますよ。下條氏が、
朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
と翻訳した部分は朝鮮日報の記事をこのように訳したのではなくて自分で原文を読んで訳したもので間違いないですよ。下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と朝鮮日報には載っていない部分を引用されていますよ。「『東国輿地勝覧』の記事を基に」とあるのも原文を読まないと判断出来ません。「海洋水産動向」1250号を入手出来ていたのかどうかどうかは分かりませんが少なくとも『西溪雑録』と『臥遊録』のどちらかの原文を入手出来ていたのは間違いありません。
下條氏は自分の訳と朝鮮日報にある柳博士の訳を比較した上で、
柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である。
と判断されているのではないでしょうか。
>>柳博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読みくだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。
下條氏は柳博士が「此」が寧海である事実を無視して訳したことを指摘されているのであって、柳博士が「去此」を読みくだしてないと判断されているわけではないと思いますよ。
>>柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先刻承知済みでしょうが。
。。。
柳博士と半月城さんがまずなすべきは自説が正しくて下條氏の説が間違っていることを論証することではないでしょうか。
これは メッセージ 16064 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2007/12/30 00:52 投稿番号: [16068 / 18519]
半月城さんの論<朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1〜3>にはいくつか疑問があります。
まず半月城さんは、下條氏の指摘について、「下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした。」として下條氏が原典にあたっていないと断言しておられますが、下條氏の文章からは、彼が「海洋水産動向」1250号を読んだか読んでいないかは明らかではないと思いますよ。
次に、本件の核心部分である「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」の解釈についてですが、下條氏が、柳美林氏は「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と読み誤った、と指摘していることに対して、半月城さんは、柳美林氏は「ここからさほど遠くなく」と正確に読んでいるから、下條氏の指摘は見当はずれだという御意見のようです。しかし、そうでしょうか。
半月城さんの紹介するところによれば、柳美林氏は、朴世堂の『鬱陵島』のうち、
「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとたび大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていないとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」
という部分が重要であるとした上で、それから分かる重要な事実の2つ目として、
「第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており」
と言っていますね。
「ここからさほど遠くなく」という言葉は、もともと朝鮮半島から欝陵島、于山島を見ての表現であったはずなのに、あっという間に2島(欝陵島と于山島)間の距離の問題にすりかわっているのではないですか。
こういう矛盾があるから、下條氏が「柳美林氏は読み誤った」と言ったのは間違っていないように思います。
これは メッセージ 16065 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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2008年度の竹島問題 ラインナップ
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/29 22:36 投稿番号: [16067 / 18519]
先ずは下記をご覧下さい。文句なく面白いです。
http://www.youtube.com/watch?v=57EyaVI5NWcこれを竹島に例えるなら、以下のようになります。
半月城氏「安龍福が言ったことは、デタラメじゃないんだけどね、正確でもないんだよね」
kunitaka「正確じゃないことをデタラメって言うんだろ(笑)」
半月城氏「于山島には15戸、86人が住んでいました。これが証拠の太宗実録です」
kunitaka「于山島って良い所ですね〜。これホントに于山島ですか?」
半月城氏「于山島・・・に似てる島です」
掲示板一同「え?!話が違うじゃないか(笑)」
まだまだ私と半月城氏とのバトルは続きます。今年後半は尖閣諸島問題に力を入れてきましたが(その性で竹島サイト構築があまり出来ませんでしたが)、来年上半期は竹島問題をドーンとやります。
next, coming up
『日本外交文書』 18巻 534-5、573-6
『日本外交文書』 23巻 531、532、574-5
『日本水路史』海上保安庁S46
160-161
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『陸軍省 大日記』
『通航一覧』
『大日本史料』
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
2008年度から始まる「新シリーズ・韓国直送資料」
『三国史記』
『世宗実録地理志』
『増補文献備考』
『新増東国輿地勝覧』
『皇城新聞』1900年9月23日
『皇城新聞』1906年5月9日
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
今年の書き込みは今日で終了します。半月城さん、皆さん、良いお年をお迎え下さい。
これは メッセージ 16063 (senkaku_islands さん)への返信です.
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朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:34 投稿番号: [16066 / 18519]
これは メッセージ 16065 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:18 投稿番号: [16065 / 18519]
下條氏は「海洋水産動向」1250号をきちんと確認せずに、新聞記事を誤読し、柳博士が「誤謬」をおかしたなどと書くのは余りにも独善的ではないでしょうか。同書にて柳博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読みくだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。つぎに同書の関連部分を紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「海洋水産動向」1250号
「于山島は独島」を立証する朝鮮時代の史料を発掘
・・・・・
朴世堂(注3)の「欝陵島」(注4)は大きく四部から構成されている。
第1部は『新増東国輿地勝覧』を引用した部分
第2部は、壬辰倭乱の時に捕虜として捕えられ、日本の船に乗り、欝陵島へ行って帰った僧侶から聞いた話を記録した部分
第3部は 1694年9月2日に張漢相が軍官の報告を元に備辺司へ報告した内容
第4部は同年の1694年9月20日から10月3日まで張漢相が捜討した状況を備辺司へ報告した内容からなる。
この中で第4部は張漢相の『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じである。朴世堂は第2部、前述の僧侶から聞いた話を伝え、自分の意見を加えたが、ここで于山島が独島であることを物語る重要な記述が次のように含まれている。
「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとたび大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていないとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」
このような内容がまさに于山島が独島であることを証明する重要な根拠といえる。上の文章をつうじて我々は次のような事実を知ることができる。
第1にこの文で欝陵島と于山島が明らかに違う島と区分される点である。
第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており、これから于山島は少なくとも欝陵島近隣の島を指すものではないという点が明らかになったのである。
第3に于山島が欝陵島より少し低いところにあるので、欝陵島からは簡単に見ることができないということを知ることができる。欝陵島が于山島より少し高いので、天候が晴れているとか、高いところへ登って初めて于山島が見えるとしたためである。
第4に上に述べたように、朴世堂の記録は張漢相が于山島に対し、「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」と表現したこととぴったり合う点である。
張漢相は聖人峰から東南方向に島が一つかすかに見えるとしたが、朴世堂の記録は于山島は非常にくっきり晴れた日に欝陵島の高いところだけで見えるとした。こうした事実を考慮すると、朴世堂が語る「于山島」は張漢相のいう、まさに「かすかな島」に該当する。
欝陵島から離れていて、くっきり晴れた日に高いところだけから見える島は現在の独島以外にないためである。したがって、結論をいうと朴世堂のいう于山島と、張漢相のいう東南方向の島は現在の独島をさすのは明らかである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
余談ですが、柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を購読してきた方です(注6)。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めないための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょうか。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらいは先刻承知済みでしょうが。
(つづく)
これは メッセージ 16064 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16065.html
朴世堂『西渓雑録』の誤読、下條正男批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/12/29 10:16 投稿番号: [16064 / 18519]
半月城です。
下條正男氏の「事実求是」を読んで、どうしてもコメントを書かずにはいられない心境です。同氏は、Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是」第1回、「朴世堂の『鬱陵島』 」において韓国海洋水産開発院の柳美林博士が「漢文が読めないための誤謬」をおかしたと断言し、こう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
に もかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と 読み誤った。柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である(注1)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No.16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳されます。
すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理な訳しました。これは下條氏が「韓文が読めないための誤謬」というより「故意」の我田引水をおこなったというべきかも知れません。下條氏は記事を『世宗実録』地理誌と結びつけて、こう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は「二島相去ること遠からず」に次いで「歴々見える」の一文があるため、欝陵島から竹島が「見える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてきた(注1)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
下條氏は、柳博士が韓国側の旧来の説を繰り返すために、朴世堂の『西渓雑録』を誤読して引用したと主張しているようです。しかし、そのような重大な指摘をする元ネタが新聞記事とは情けない話です。その記事には取材源が次のように記されました(yabutarou01さんの訳)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム(柳美林) 博士は最近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世堂・1629〜1703)」が書いた「鬱陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかにされた」と述べた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 16058 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16064.html
『日本水路誌 第2巻下』 文章起し完了
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2007/12/28 20:57 投稿番号: [16063 / 18519]
これは メッセージ 16041 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 半月城さんへ
投稿者: boshind 投稿日時: 2007/12/28 14:11 投稿番号: [16062 / 18519]
ニフティのパソ通時代から、自分に都合の悪い質問や反論には殆ど答えないというのが彼の定評でしたが、検索すれば半月城氏への批判はまだ出てくるんじゃないでしょうかね?
特に半月城通信への一方的記載には批判が多かったように思います。
討論の相手の反論は著作権の問題とか(?)で一切載せない事に対する批判は当時からあったように記憶しております。
例えば、半月城通信では、今では有名になったラスク書簡ですら彼にとっては日本に有利とはならないようですw
1951.8.10
外交文書
ラスク書簡
米国政府はこの岩島は1905年から日本の島根県の管轄下にあり、韓国から自国の領土であるとの主張がなされたことはない
半月城通信記載による反論
1952.10.3
内部文書
Korians on Liancourt Rock(在日米大使館>米国国務省)
国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、それをここで詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部であった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もちろん朝鮮の残りの領土とともに併合された。
とお書きになり、外交文書を無視して単なる内部文書を「アメリカも竹島=独島は朝鮮王朝の一部であったとの結論を出した事実は、今後の領有権論争に大きな影響を与えそうです。」と言い切ってしまうところが凄いです^^
でまぁ、実際には上の文書より後に
1952.11.27
外交文書で、韓国政府に対し駐韓米国大使館が「竹島の地位に関する合衆国の理解はラスク書簡のとおりである」と再度韓国外交部宛てに通牒を行う訳なんですがw
どのへんが半月城氏の仰る結論なんでしょうかねぇ。お馬鹿な私にはさっぱり解りませんがw
ということで返答は期待されない方がよろしいのではないでしょうか^^
これは メッセージ 16053 (kkgwsthm さん)への返信です.
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