竹島
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また自爆ですか?
投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 13:13 投稿番号: [15751 / 18519]
>「[日本]の海賊」の[日本]は、日本国のことである、
>なんて意味不明な説明は聞いていない。
解釈を間違えていますな。
日本の海賊が日本国を代表するならば、
日本の海賊の拠点は日本領土と解する余地もあるかもしれないが、
日本の海賊が占領しても、
日本の海賊は日本を代表していないから日本領土であるか否かとは無関係である。
ただし、日本の海賊は、日本に属している者たち(日本人)により構成される海賊ではある。
(日本と密貿易を行う海賊とすべきかもしれないが)
「屬於日本」は、何が属しているか書いていない。
台湾を拠点にした「海賊」が日本に属しているのであれば、「倭寇」の事であろう。
また、「屬於日本」の記述が、
オランダによる占領と鄭成功がオランダを追い払った事の間に記述されている事から、
「屬於日本」が上記期間内に限定されるのであれば、
日本−オランダ間の貿易を「朝貢」と認識して、「属国(朝貢国)」の意味として「屬」を用いた可能性もある。
これは メッセージ 15749 (adios_amigo66 さん)への返信です.
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自滅ですか?
投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 12:51 投稿番号: [15750 / 18519]
>屬に「拠点」なんて意味もない。
「領土」なんて意味もない。
「屬於日本」からは、【何かが】日本に属するとしか読めない。
>「倭寇の拠点だったから、[屬於日本]ではない」では意味不明。
都合の悪い部分は省略ですか?
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/daishin-1744/11.jpg
の表に「日本の地」と介すべき記述が見あたらない。
であれば、属しているのは「領土」ではなく、
歴史上、台湾に関係があり日本に属するものは、五島列島に拠点を有する「倭寇」。
「屬」が「朝貢国」を意味する「属国」であれば、日本と貿易を行っているオランダ人であるとも考えられる。
>[屬於日本]と書かれている以上、[屬於日本]である。
そうですね、「台湾」が領土として日本に属するなどとは書かれていない。
「日本の領土ではない事」は表の記述からわかるから、
領土ではない何かが日本に属しているとしか解釈できない。
これは メッセージ 15748 (adios_amigo66 さん)への返信です.
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Re: 「倭寇」の「倭は、」
投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 11:54 投稿番号: [15749 / 18519]
「倭」ではなく、「倭寇」を「日本」と称した用例。
「[日本]の海賊」の[日本]は、日本国のことである、なんて意味不明な説明は聞いていない。「[日本]の海賊」を「日本」と称した用例だ。
すり替えるなよ。
これは メッセージ 15747 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.
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Re: 「倭寇」の「倭は、」
投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 11:49 投稿番号: [15748 / 18519]
[屬於日本]を読み下してくださいな。屬に「拠点」なんて意味もない。
「倭寇の拠点だったから(推測)、[屬於日本]と判断したのであろう」
なら、わかるが、
「倭寇の拠点だったから、[屬於日本]ではない」では意味不明。
[屬於日本]と書かれている以上、[屬於日本]である。
これは メッセージ 15747 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.
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「倭寇」の「倭は、」
投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 11:22 投稿番号: [15747 / 18519]
元々、「日本」の意味。
鄭成功による台湾支配より前に、
日本が領有した事実があると立証できる資料があるなら示してください。
≫>「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述がある。
上記翻訳は句点のみ見ても明らかに間違っている。
「台湾は古より荒服の地である。中国と通じていない。」つまり、「蠻地」
「名は東蕃。」つまり、「東番地」
「天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。」つまり、「紅夷地」
「日本に属する」
≫>「台湾はもともと」
等と翻訳すべき部分が原文の何処にあるのか?
また、なぜ、「屬於日本」に対応する「日本の地」と介すべき記述が表にないのか?
日本が台湾に対して明らかに関係ある事例は、まず、「倭寇」であり、
他には、日本はオランダと貿易を行っている事から、
「オランダと貿易」→「朝貢」→「属国」とする考え方もあり得る為、
「属」は「台湾」ではなく「オランダ」にかかっている可能性もある。
これは メッセージ 15746 (adios_amigo66 さん)への返信です.
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Re: > 『大清一統志』 in 1744
投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 01:12 投稿番号: [15746 / 18519]
日本に属すとしか訳せんと思うが。
大清一統志で日本を「倭寇」とする用例でもあるのか?
これは メッセージ 15745 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.
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> 『大清一統志』 in 1744
投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/27 17:42 投稿番号: [15745 / 18519]
これは メッセージ 15743 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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竹島=独島問題のセミナー
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/26 20:55 投稿番号: [15744 / 18519]
セミナー「竹島(独島)問題、解決の方途をさぐる」案内
日時:9月1日(土)
14時〜16時
講師:内藤正中(島根大学名誉教授)
参加費:1000円(会員800円)
主催:韓人歴史資料館、土曜セミナー
場所:東京、韓人歴史資料館
月曜定休日、事前の申し込みが必要。
http://www.j-koreans.org/TEL:03-3457-1088
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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『大清一統志』 in 1744
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/25 06:50 投稿番号: [15743 / 18519]
これは メッセージ 15742 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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『明史』 in 1739
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/24 00:42 投稿番号: [15742 / 18519]
これは メッセージ 15741 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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恒藤規隆 『南日本の富源』
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/23 19:16 投稿番号: [15741 / 18519]
これは メッセージ 15739 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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政府、国連で‘東海’表記の正当性強調へ
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/08/22 12:53 投稿番号: [15740 / 18519]
政府は21−30日にニューヨークで開かれる第9回国連地名標準化会議で、東海(トンへ、日本名・日本海)表記の正当性を説明する計画だ。
外交通商部は20日、「地名標準化会議で韓国政府の首席代表演説を通じて東海表記の正当性に対する政府の立場を提起する予定」とし「しかしこの会議は地名表記の技術的側面を扱うもので、地名自体を決定するものではない」と明らかにした。
1965年に国連経済社会理事会の決議に基づき設置されたこの会議は5年ごとに開催され、各国の地名標準化政策、外来地名問題、単独主権下に属しない地形に関する問題、ローマ字表記問題などを主要議題として扱う。
2007.08.20 15:54:59
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笹森儀助 『南島探験』
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/20 23:45 投稿番号: [15739 / 18519]
これは メッセージ 15726 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判8
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 21:28 投稿番号: [15738 / 18519]
(注6)『竹島紀事』元禄六年九月四日条
同六年九月四日大目付内野九郎左衛門を以朝鮮人問情被仰付也
朝鮮人口書
一 我々両人之内壱人者釜山浦之者アンヨグト申候、壱人ハウルサン之者パクトラビト申者ニ而御座候、我々一艘ニ十人乗組候處 内壱人相煩申ニ付 寧海与申所ニ残置 九人乗竹嶋ニ罷渡候
・・・・・
一 彼嶋之名を朝鮮ニ而ムルグセム与申候
一 彼嶋之儀 日本ニ而御座候も朝鮮之地ニ而御座候も一円存不申候 日本ニ罷渡候而日本之地ニ而御座候由初而承申候
(注7)池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会、2006,P280
(注8)田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報』20,P24,1988(執筆は1960)
(注9)田川孝三「于山島について」『竹島問題研究資料』10、島根県図書館所蔵,1953,P100
(注10)前掲書、P23,1988
(注11)半月城通信<安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判>
http://www.han.org/a/half-moon/hm119.html#No.897(注12)『邊例集要』巻17「欝陵島」条
(〓は「かたへん、方」に「ム」、下に「小」)
甲戌(1694)正月
竹島被捉両人處 發問目推問 則朴於屯招内 癸酉三月 租二十五石 銀子九兩三銭等物 載持貿魚次 自蔚珍向三陟之際 漂風到泊於所謂竹島 而竹島至於伯耆州遠近事段 矣身留駐本島
第三日 倭人七八名 不意中乗船來到 執捉矣身 仍自其島 發船經三畫四夜之後 始達伯耆州爲白乎〓 竹島大小周回段 其大 較之於釜山前洋絶影島 則二倍有餘是白遣 周回則不能詳知 而所見極廣闊是白乎〓 山形段 山有三峯 高峻接天是白遣 其餘多是平廣之地 而川水 流出於海是白乎〓 樹木 芦竹 禽獣等物段 有柯重木 柄子木 香木 又有冬栢木是白遣 有大竹 其節甚大 而直聳參天是白遣 又有箭是乎〓 島中人戸居住事段 即今雖無居住之人戸 而遣基礎石相連 而空基 多有生蒜是處是白乎〓 本島去伯耆州水路里數事段 矣身被捉入去之時 得水疾 僵臥舶中、只記其三畫四夜之後 得達伯耆州 而水路里數 不能詳知是白乎〓 此島前後 更無他島云々
安龍福招内 山形草木辭䖝一様 而末端良中 矣身被捉入去之時 經一夜 翌日晩食後 見一島在海中 比竹島頗大云々 䖝由馳啓
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15737 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判7
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 21:13 投稿番号: [15737 / 18519]
(注1)(〓1、やまかんむりに業、ぎょう、〓2、てへんに掌、とう)
『東国文献備考』「于山島 欝陵島」条の影印リンク
www.kr-jp.net/rok/jiri/seungran-usan.pdf
(注2)『竹島紀事』元禄6年8付き23日条
(下記において、〓は「峠」のヤマヘンをテヘンに変えた字、以下同様)
八月廿三日
宋對馬守殿
〃(元禄六年)右御到来二付 竹嶋之儀 内々聞合のため 六月五日 杉村采女方より在館之通詞 中山加兵衛方江左之通相尋遣候
〃竹嶋之儀 朝鮮二而ハ ブルンセミト申候由 被申越候 竹嶋与書候而 朝鮮讀ニプルンセミト不申候哉 プルンセミとハ如何様二書申候哉 欝陵嶋与申嶋有之候 是を下々之詞ニブルンセミとハ不申候哉 日本二而者欝陵嶋之儀を磯竹と申候 欝陵嶋とブルンセミハ別之嶋二而有之候哉、プルンセミを日本人ハ竹嶋と申候与申儀者誰之咄二而被承候哉
〃竹嶋江ハ去々年より初而罷渡候哉 以前より渡候得共隠シ候而 去々年より罷渡候与申候哉 朝鮮人共自分之〓之為蜜々罷渡申事二候哉 又々
公儀より差図二而罷渡候哉 当年も又々罷渡たる事ニ候哉
〃竹嶋江日本より十二三端之船三艘宛毎歳罷わた渡 彼嶋江長小屋を三四軒茂掛置候由被申越候 干今其通ニ仕候哉 日本人者何之国之者共ニ而有之候哉
〃竹嶋者朝鮮国より何方江当り何之所より何風ニ而乗候与之儀 海路何程之大キサ如何程有之候哉 尤尤費殿より之口上書ニ書載有之候得共 又々得与可被承候
右之段々委細ニ承度候様子ニより
公儀江茂御案内被仰上事ニ候間 何とそ懇志之朝鮮人江密二相尋 書付早々可被差越 慥成咄二而無之候共 下々之咄ニ而茂被承候通 委書付可被差越候、此段為可申入如此候
通詞中山加兵衛方より六月十三日之書状を以右返答申越候付左記之
〃当年も彼嶋江為〓 釜山浦より商売船三艘罷越候由承届候付 ハンビチヤグ与申釜山之唐人相加 嶋之様子諸事具見届 海路ニ至迄入念候様ニ申付態右之者共二相加差越候 帰着次第具承 追而可申上候 先荒増承候通別紙書付差上候
乍恐口上之覚
〃プルンセミ之儀嶋違ニ而御座候 具承届候処 ウルチントウト申嶋ニ而御座候 プルンセミ之儀者ウルチントウト申嶋ニ而御座候、プルンセミ之儀者ウルナントウより北東ニ当かすかに相見申由承候事
〃ウルチントウ嶋の大サ一日半廻り程有之由ニ御座候 尤高山ニ而田畑大木等有之候由承及候事
〃ウルチントウ江者江原道之内エグハイと申浦より南風ニ出帆仕候由承及候事
〃ウルチントウ江通申候事 去々年より罷渡候儀 相違無御座候事
〃ウルチントウ江罷渡候儀 公儀江相知不申 自分之為〓密々二罷渡候事
右之外之儀 ハンビチヤグ帰着次第具承届重而委細可申上候
(注3)『竹島紀事』元禄六年11月1日条、12月5日のご返事
首譯中申談候ハ日本二竹嶋と申候ハ必定欝陵嶋之儀二候へとも左様朝廷方江申候而者至而大切成事二存候故彼方角三嶋有之候 一者欝陵嶋、一者干山嶋と申候 一者嶋之名不申候、此内いつれニ而も日本ニ而竹嶋与被仰候を竹嶋ニ相極候而 外之嶋を朝鮮国之欝陵嶋二用申候得ハ 朝廷方之存分茂立 日本向も御首尾能相済申事候故 右之通我々内談仕候而返答仕候
(注4)同上
質人爰許逗留之内 相尋候節申候ハ 今度参候嶋之名者不存候 今度参候嶋より北東当り大キ成嶋有之候 彼地逗留之内漸二度見江申候 彼嶋を存たるもの申候ハ 于山嶋与申候通申聞候 終ニ参りたる事ハ無之候 大方路法一日路余も可有之哉与相見江申候由申候 欝陵嶋与申嶋之儀者曽而不存候由申候 乍然質入之申分虚実難斗候得共 為御心得申進候 其元ニ而能御聞可被成候
(注5)『竹島紀事』六月条、「朝鮮人弐人 申由」
朝鮮国慶尚道之内東莱之郡釜山浦之安ヨクホキ 蔚山之朴トラヒ与申者ニ而御座候 我々儀 蔚山与申所より竹嶋与申所江蚫 若布〓ニ三月十一日ニ出帆仕、同廿五日ニ寧海与申所ニ参着仕、某所を同廿七日辰之刻ニ出帆仕 酉之刻竹嶋江参着仕 右之蚫 若布〓逗留仕居申候所ニ日本人四月十七日ニ我々罷在候所ニ罷出 則着物抔入置申候ひら包をおさめ 我々両人彼方之船ニ乗せ即刻午之刻ニ出帆仕 鳥取江五月朔日未刻偶着申候
・・・・・
此度我々共蚫取ニ参候嶋之儀 常ニ朝鮮国にてハムルグセム与申候 日本之内竹嶋与申所之
由ハ此度承申候御事
(つづく)
これは メッセージ 15736 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15737.html
于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判6
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 21:11 投稿番号: [15736 / 18519]
他方、安龍福は大谷船により米子へ連行される途中にも竹島=独島を見たことが『邊例集要』巻17「欝陵島」条に記録されました。同書は数百年にわたる日本との交隣関係をまとめた書ですが、「欝陵島」条に「竹島一件」が記されました。その書で朴於屯の詳細な尋問の後に安龍福の口述が簡単にこう記されました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
甲戌(1694)正月
竹島で捉えられた罪人である蔚山居住の朴於屯、安龍福を尋問した。朴於屯を内に招いた
・・・・・
安龍福を内に招いた。山の形や草木などの話の内容は(朴と)同じであった。末節なことであるが、身を捉えられて島を去る時、一夜を経た翌日の夕食の後、一島が海中にあるのを見た。竹島に比べすこぶる大きいという。云々(注12)。
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安龍福たちが捉えられた場所を欝陵島とせずに竹島として記録したのは、当時の朝鮮政府は欝陵島と竹島は別の島であるという立場をとったためでした。この時、安龍福が見た「一島」に関する証言は末節なこととして片付けられてしまったようです。
しかるに、欝陵島から一日の道のりにあるこの島こそが、まさしく竹島=独島でした。下條氏がいうような、欝陵島からわずか数kmしか離れていないチクトウ(竹島)ではあり得ません。当時、大谷船は竹島=独島を航路の目印として、あるいは漁撈のために往復の途中でかならず同島へ寄っていたのでした。
なお、朴於屯はこの時「水疾」をわずらって寝ていたため竹島=独島を見ることができず、他に島はなかったと口述しました。
安はその島を「竹島に比べすこぶる大きい」と表現しましたが、これは彼一流の誇張表現と思われます。かつて、下條氏はそのように「大きい島」は隠岐島しかないとして、安龍福が見たのは竹島=独島ではなく隠岐島であるという説を発表したことがありましたが、単なる揚げ足取りにすぎなかったようです。最近は変説してその説を言わなくなったことはすでに紹介したとおりです。
ともかく、ここで重要なのは、安龍福が実際に見たその島が于山島であり、日本で松島とよばれていることを彼が知ったことです。その認識を彼は連行船のなかで知るようになったのかどうかは不明ですが、その認識を強固にし、かつ同島などは朝鮮領であることを訴えるために、三年後、みずから進んで二度目の来日を実行したのでした。韓国で英雄視される由縁です。
(つづく)
これは メッセージ 15735 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15736.html
于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判5
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:44 投稿番号: [15735 / 18519]
然し乍ら于山島は、前掲の(B)、(C)であると云ふによれば、此の竹嶼は近きに過ぎる。北東と云ふ方位にこだわらずして当方に島を求むれば、東南に我が今日の竹島、往昔の松島即ちリヤンクール島が存するのみである。
而も之は東西二島よりなり西島は海抜約 157米、各島を併せて総面積 69.990坪の岩島である。従って(C)に云ふ如き「大いなる島」とは決して云はれない。然し乍ら 海島にあってかすかに遠望する際、その方位と云ひ、大きさと云ひ、誤り易いことは、当時の知識より判断すれば、先づあり得ることと云はねばなるまい。
欝陵島よりこの竹島(リヤンクール島)を望み得ることは、中井教授等の大正八年 欝陵島植物調査によれば、
欝陵島最高峰上峰より天気清澄の日 卵島(リヤンクール島)を遠望し得る。
とあるのである。(C)の言を全くの誤りでないとするならば、凡そこの條件に適い得るものとしては、この竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来ない。即ち、于山島はこの竹島に比定せねばならない(注9)。
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田川氏はこの論文では冷静な分析を記すのですが、「取扱注意」の警告印が押されていない書物では後半の「然し乍ら・・・」以降の文章をカットし、簡単に「兎もかく、決定的ではなく、依然混乱が見られるが、欝陵本島の別個に于山島なる島が知られ、且 位置は正確ではないが、或る一島に命名されたことは事実であったのである」とあいまいに記すのでした(注10)。
田川氏といえば、『隠州視聴合記』に書かれた一節「日本之乾地 此州為限矣」の州を無理に「シマ」と釈読して竹島・松島を日本の西北限界と解釈し、それが日本政府の公式見解になったことが思いおこされます。
その説は韓国政府に反論されるや、日本政府は再反論を放棄したようですが、そのように我田引水的な解釈をしてでも、何とか竹島=独島を日本領にしたいという願望が見え見えです。その田川氏すら、于山島は「竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来ない」と判断せざるを得なかった事実は万鈞の重みがあります。
田川氏は「海島にあってかすかに遠望する際、その方位と云ひ、大きさと云ひ、誤り易い」と述べましたが、これは的を射ています。方位ですが、竹島=独島は欝陵島の海辺からでは地球が丸いために見えず、その方角を知ることができません。
同島の方角を確認するにはふたつの方法があります。ひとつは「天気清澄の日」に欝陵島の高峰にのぼり、かすかに見える竹島=独島の方向を確認する方法です。その際、高価な羅針盤をわざわざ山へ携行しない限り、方角を正確に知るためには太陽の南中時の方向をきちんと知る必要があります。これを意図的におこなわない限り、正確な方向を知ることはできません。
もうひとつの方法は、欝陵島から竹島=独島寄りに10km以上離れた海上で方向を確認することです。安龍福などの漁夫が天気清澄の日に漁を休んで山登りするのは考えにくいので、かれらが竹島=独島を見たのは欝陵島から竹島=独島寄りに10km以上離れた所と思われます。
その場合、目撃地点の位置が両島を結ぶ直線上にあれば、携行したかも知れない羅針盤で竹島=独島の方角を確認できますが、それ以外の場所では三角測量の原理からいって、両島までのそれぞれの距離を正確に知らなければ、竹島=独島が欝陵島のどの方向に当るのかを割りだすことは不可能です。
このように海上でも離島の方角を正確に知るのはかなり困難なので、安龍福が竹島=独島の方角をズレて北東と見たのも無理はありません。同島の実際の方向を球面三角法などで計算すると、同島の方角は東から18度南寄りであり、北東とは63度のズレがあります(注11)。このような事情を考慮するとき、ブルンセミや安龍福が見た于山島は田川孝三氏がいうように竹島=独島に間違いないと思われます。
(つづく)
これは メッセージ 15734 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15735.html
于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:43 投稿番号: [15734 / 18519]
以上の史料をまとめると、于山島について日朝の間で下記のような認識があったことが読み取れます。
1.日本でいう竹嶋は、東莱府などの官衙では欝陵島と呼ばれ、対馬藩ではウルチントウと聞取っていた。しかし、安龍福など漁夫の間ではその名は通じず、ムルグセム(セミ)と呼ばれていた。この名は『世宗実録』の武陵(Mu Leung)島と発音が通じる。
2.東莱府では欝陵島の他に于山島、および名の知れぬ島を認識していた。
3.対馬の通訳が聞いた朝鮮人は、欝陵島の北東にかすかに見えるブルンセミという島があることを認識していた。
4.漁夫の間では欝陵島から一日の航路の所に大きな于山島があることが知られていた。安龍福はその存在を仲間から知らされた。かれはその方向を欝陵島の北東と認識している。
このように整理すると、ある共通点に気がつきます。于山島もブルンセミも欝陵島の北東に位置することです。しかも、于山島までの距離は一日の航路なので、かすかに見えるというブルンセムの記述にも合います。
このブルンセミは于山島と思われますが、これを研究者はどう考えているのか調べることにします。名古屋大学の池内敏氏はこう記しました。
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プルンセミ之儀嶋違ニ而御座候 具承届候処 ウルチントウト申嶋ニ而御座候(「おそれながら口上の覚え」第1条傍線部)
ブルンセミ之儀者ウルチントウより北東にかすかに相見申由承候事(第1条後半、上記のすぐ後に続く)
・・・・・
ブルンセミは欝陵島の北東に微かに見える島のこと(第1条後半)となり、ブルンセミは欝陵島とは別の島であって(「嶋違ニ而御座候」)欝陵島はウルチントウのことであるというのが第1条傍線部の趣旨であろうか。もっともこれでは竹島とブルンセミとの関係については何の返答にもなっていない。
・・・・・
ブルンセミの「セミ」とムルグセムの「セム」はおそらく「島」を意味する朝鮮語に間違いない。「ブルン」は「欝陵」ないし「武陵」の、またムルグは「武陵」の朝鮮読みと見て大過なかろうから、結局のところブルンセミにせよムルグセミにせよ欝陵島を指している(注7)。
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池内氏は「ブルンセミは欝陵島とは別の島」という趣旨を理解しながら、ただ単に「ムルグ」と「武陵」とが発音が似ているという理由だけで、いとも簡単にブルンセミは欝陵島であると結論づけてしまったようです。
次は田川孝三氏ですが、意外なことにブルンセミは于山島であると主張しました。意外と記したのは、同氏は日韓両政府の領有権論争において日本政府のブレーンとして活躍した人だからです。
その一環として、同氏は韓国政府が参照していた『粛宗実録』などを痛烈に批判しました。すなわち、同書における安龍福の証言を「犯罪者の供述書に出ずるものをとって、無批判にも適宜摘録転載したものに過ぎない」「供述者の虚構と誇張に満ちたものであった(注8)」などと批判しました。
その人が「取扱注意」の警告印が押された研究論文「于山島について」にて下記のように記したことは注目に値します。
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以上要するに高瀬八右衛門に語った朝鮮訳官の言にある彼の方角に三島あり、と云う所説と、安龍福の言と、及び中山通詞の尋ねた鮮人の言とこの三つが問題になるわけである。
(A)譯官の言は三島ありと云ふのみで、その遠近、方位は全く觸れてゐない。只ここで確なことは、三島の中 一は欝陵島、一は于山島と云ふことである。
(B)中山通詞の尋ねし鮮人の言では、その名稱は誤りと思はれるが、兎も角 欝陵島よりかすかに見える島が北東に存すると云ふこと
(C)安龍福等は、欝陵島の北東に現に二度目堵した島を于山島とあると聞かされ、その距離は大体一日路であり、大いなる島であると云ふことである。
・・・・・
もし、この三島(欝陵島、竹嶼、観音島)を以て前記訳官の言に比定するとせば、欝陵島は云ふまでもなく、于山島は竹島(竹嶼)に当てねばならない。
(つづく)
これは メッセージ 15733 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:39 投稿番号: [15733 / 18519]
この文では于山島がどこに位置するのか示されませんでした。しかし、この時すでに対馬藩は于山島に関する情報を、同藩へ連行されてきた「人質」である安龍福(An Yeong Bok)と朴於屯(Bak Eo Dun)の口述から得ていました。同日の記事はこう記しました。
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人質がここ(対馬)に逗留中に尋ねられた時に回答したのは、今回出かけた島の名は知らない、今回出かけた島の北東に当り大きな島がある、その地に逗留した間に二度見えた、その島を存じている者がいうには于山島というと聞いている、ついに行ったことはないが、大体一日の道のりに見えたといっています。
欝陵島という島の件はかつて知らないといっています。しかしながら、人質の申し分は虚実計りがたいので、ご参考のため申し上げます。そちらにてよく聞きとどけてください(注4)。
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この文において「人質」が「今回出かけた島の名は知らない」としたのは『竹島紀事』全体の文脈に合いません。というのは、かれらはその島の名前が「ムルグセム」であると数回も供述しており、それが同書に記録されているからです。たとえば、長崎奉行所で7月1日に次のように述べたことが『竹島紀事』六月条の「朝鮮人弐人 申由」に記録されました。
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朝鮮慶尚北道の東莱郡釜山浦の安ヨクホキ、朴トラヒと申す者です。我々は蔚山という所から竹嶋という所へ蚫(あわび)や若布(ワカメ)採りに3月11日に出帆し、25日に寧海という所に着きました。そこを27日朝8時ころ出発し、午後6時ころ竹嶋へ到着しました。
右の蚫や若布稼ぎに逗留していた所、日本人が4月17日に我々のいる所へ来て、着物など入れておいた平包みを収め、我々ふたりを彼らの船に乗せ、即刻午の刻に出帆し、鳥取へ5月1日未の刻に着きました。
・・・・・
今回、我々が蚫採りに行った島は朝鮮国ではムルグセムといいます。日本の竹嶋という所であることは今回知りました(注5)。
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さらに、安龍福と朴於屯のふたりは長崎から対馬へ送られ、そこでも尋問を受けました。その時の口上書がより詳細に『竹島紀事』9月4日条にこう記録されました。
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朝鮮人口書
一 我々二人の内、ひとりは釜山浦の者でアンヨグトと申します。ひとりはウルサンの者でバクトラビという者でございます。我々は一艘に10人乗組みましたが、内ひとりは患ったので、寧海(ヨグホイ)という所へ残して、9人が乗り竹嶋へ渡りました。
・・・・・
一 その島の名を朝鮮ではムルグセムと申します。
一 その島は、日本のものか、朝鮮の地であるのか一切知りません。日本へ渡って日本のものであるとのことを初めて聞きました(注6)。
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(つづく)
これは メッセージ 15732 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:37 投稿番号: [15732 / 18519]
元禄6(1693)年、対馬藩は幕府の命により、朝鮮人が竹島(欝陵島)へ入島しないように朝鮮政府に求める外交交渉「竹島一件」を始めました。その直前、朝鮮領の「磯竹」はよく知っていても「竹島」の名をよく知らない対馬藩は「竹島」の事前調査をおこないました。
6月5日、国元家老の杉村采女は、東莱の倭館に滞在していた通詞(通訳)の中山加兵衛に訓令を発し、下記事項を懇意の朝鮮人に内密に尋ねるよう命じました。それが『竹島紀事』8月23日条にこう記されました。
1.竹嶋は朝鮮でブルンセミと称している由であるが、ブルンセミはどのように書くのか、欝陵島という島があるが、これを下々ではブルンセミというのではないか。
日本では竹嶋のことを磯竹といっている。欝陵島とブルンセミは別の島なのか。ブルンセミを日本人が竹嶋といっているのは誰の話として聞いているのか。
・・・・・
1.竹嶋は朝鮮のどの方角にあたり、どこからどの方向の風に乗り、海路はどれくらいで、島の大きさはどれくらいか。
この質問に対し、通訳の中山は6月13日付の書付で下記のように回答しました。
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今年もその島へ稼ぎのため釜山浦より商売船が3艘出かけたと聞いています。ハンビチャグという異国の者を加え、島の様子や諸事を見届け、海路に至るまで入念にと申し付けましたので、右の者どもが帰着次第追って申し上げますが、先に聞いていることを別紙の書付で差し上げます。
「恐れながら口上の覚え」
1.ブルンセミの件は島違いです。聞いたところではウルチントウと申す島です。ブルンセミの件はウルチントウと申す島です。ブルンセミはウルチントウより北東に当りかすかに見えると聞いています。
1.ウルチントウ島の大きさは一日半廻りほどあるとのことです。もっとも高山にて田畑や大木などがあると聞いています。
1.ウルチントウへは江原道のエグハイという浦から南風で出帆すると聞いています。
1.ウルチントウへ通っている件、一昨年から出かけているのは間違いありません。
1.ウルチントウへ出かけている件、官衙では知らず、自分たちの稼ぎのためにでかけています。
右の外の件は、ハンビチャグが帰着次第聞いて重ねて委細を申し上げます(注2)。
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倭館の日本人通訳が、懇意にしている朝鮮人から聞いたという「ウルチントウ」は、発音からみてほぼ欝陵島(Ul Leung Do)をさすようです。次に「エグハイ」ですが、後の安龍福の口上書で彼の出発地である「寧海」にヨグホイとルビがふられたので、これは寧海(Yeong Hae)を指すとみられます。
中山が懇意にしている朝鮮人は、漁夫が寧海から欝陵島へ出かけていた事実などを的確につかんでいたようです。ただ、欝陵島に大木はあるにしても、同島には政府の空島政策がしかれていたので、田畑は荒廃して形をなさなかっただろうと思われます。この点ははずれているようです。
次にブルンセミですが、語尾のセミは島を意味する韓国語 Seom を聞取ったものと思われます。ブルンの意味や漢字表記は不明ですが、ブルンセミがウルチントウからかすかに見える島であるという証言は重要です。これは安龍福の証言とも微妙にからむだけに後述します。
この調査後「竹島一件」の交渉が始まるのですが、交渉相手である東莱府などは欝陵島付属の島をどうとらえていたでしょうか。それを示す資料が『竹島紀事』11月1日条に12月5日の記事として残されました。その資料は朝鮮の訳官が対馬藩の裁判・高瀬八右衛門に語ったのを記録したもので、こう書かれれました。
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首譯中(朝鮮訳官首席?)がこう云いました。日本で竹嶋というのは必ずや欝陵島のことであるが、そのように朝廷に言っては大事である。かの方角には三島があり、ひとつは欝陵島、ひとつは于山島という、ひとつは名前を言わなかった。この内いずれかを日本で竹嶋を云われている竹嶋と決め、他の島を朝鮮の欝陵島に用いれば、朝廷方のメンツも立つし、日本向けも首尾良く済むので、右の通り我々で相談して回答をした(注3)。
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(つづく)
これは メッセージ 15731 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:36 投稿番号: [15731 / 18519]
半月城です。
下條正男氏は、安龍福が大谷船により連行される途中で見た島は、欝陵島のすぐ近くにあるチクトウ(竹島)であると「最終報告書」の巻頭言で断定しました。しかし、論拠にしている『竹島紀事』からそのような解釈がはたして可能かどうか、ここでじっくり検証したいと思います。
同氏はこう記しました。
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安龍福は、欝陵島より「北東に当たり大きなる嶋あり」、彼島を存じたるもの申し候は于山島と申し候」と証言している。この証言から見ても、安龍福が主張する于山島は、今日の竹島ではない。安龍福が見たのは、地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹島)である。チクトウは安龍福が漁撈活動をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し、竹島は欝陵島の東南にあるからである。
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これに反論する前に、準備として当時の于山は朝鮮でどのように認識されていたのかを簡単に見ておきたいと思います。まずは最も重要な官撰地理志をひもとくことにします。
于山の名ですが、国名としての于山は『高麗史』「地理」に登場しましたが、島名としての于山は『世宗実録』が初めてでした。そこにこう記されました。
『世宗実録』地理志、江原道蔚珍縣(1454年)
于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云欝陵島 地方百里
この地理志に書かれた「二島はお互いに遠くなく、天気が清明なら望み見ることができる」という記述は、于山島が今日の竹島=独島であることを想起させます。天気が良い時にだけ見える島は竹島=独島しかないためです。
しかし、それから27年後の官撰地理志である『東国輿地勝覧』では于山島、欝陵島を別々の島にするものの、于山島が竹島=独島であることを想起させるような記述は消え、しかも一説として于山・欝陵の一島二名説がつけ加えられました。
『東国輿地勝覧』(略称『輿地勝覧』)江原道蔚珍縣(1481年)
于山島 欝陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵島本一島 地方百里(注1)
しかも付属の絵図では、なんと于山島が欝陵島の西に描かれました。実際は、欝陵島の西に島は皆無です。これは『東国輿地勝覧』の本文に于山島の名が欝陵島より先に書かれたので、それにつられて絵図で于山島を本土の近くに書いたとみられます。
そもそも、これは15世紀の絵図とあっては、離島の位置や大きさなどで正確さを望むべくもありません。ともあれ、同絵図は東海中に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識だけはしっかり表現しました。
このように『輿地勝覧』に書かれた于山島は現在のどの島をさすのか不明です。その後『輿地勝覧』は何度か改訂されましたが、于山島に関するかぎり改訂はされませんでした。したがって、同書において于山島は観念的な存在にとどまりました。
なお、この『東国輿地勝覧』は「竹島一件」交渉において重要な役割をはたしました。同書などに欝陵島が書かれたことが決め手になり、日本は最終的に同島を朝鮮の領土と認めました。もちろん、于山島も一緒です。
官撰地理志とは別に、朝鮮の官衙である東莱府などが于山島をどのように認識していたのかを史料に見ることにします。対馬藩が元禄期の「竹島一件」をまとめた書『竹島紀事』です。
この書は対馬藩士である越常右衛門により享保11(1726)年にまとめられたので「竹島一件」(1693-99)とほぼ同時代の記録といえる重要書です。同書が朝鮮人、なかんずく安龍福の于山島像をどのように記録したのかを精査したいと思います。
(つづく)
これは メッセージ 15722 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 竹島
投稿者: pup_poop_one 投稿日時: 2007/08/19 01:28 投稿番号: [15730 / 18519]
上沼恵美子の資産
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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韓国が拘る本当の理由
投稿者: mansuzunazonazo 投稿日時: 2007/08/18 00:52 投稿番号: [15729 / 18519]
韓国が日本海を東海へ改称したい本当の理由は
日本のEEZに眠る海底鉱物資源を少しでも掠め盗りたいからなのです。
竹島問題も同様。
日本固有の資源は狙われているのです。
日本は確かに「ジパング」だったのです。
これは メッセージ 15728 (mansuzunazonazo さん)への返信です.
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中国が大陸棚に拘る理由のひとつ
投稿者: mansuzunazonazo 投稿日時: 2007/08/18 00:36 投稿番号: [15728 / 18519]
コレ↓なんですかねぇ。。。
EEZと大陸棚の海底熱水鉱床とコバルト・リッチ・クラスト
金銀などの貴金属も結構あるらしいですよー。
ユダヤさんがタングステン目当てに
ルワンダの少数遊牧民族を操っているように
鉱物資源がある土地は狙われますからねぇ・・・
あっところで、ルワンダのジェノサイドは怪しいですからね。
「謎の人口統計」問題もありますからねぇ。
要は「南京大虐殺」の嘘とおんなじです。
ユダヤさん御用機関のハリウッドが、ルワンダ問題を映画化してますし、
最近ジェノサイドの生き残りと称してデヴューしたR&B歌手コルネイユも
唐突に強引に強力プッシュされてますからねぇ。
これは メッセージ 15727 (mansuzunazonazo さん)への返信です.
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日本領海の海底鉱物資源
投稿者: mansuzunazonazo 投稿日時: 2007/08/18 00:32 投稿番号: [15727 / 18519]
http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/166/a02.php
EEZと大陸棚の海底熱水鉱床とコバルト・リッチ・クラスト
日本のEEZと大陸棚には、世界第一位と世界第二位の潜在的賦存量を有する海底熱水鉱床とコバルト・リッチ・クラストが存在している※4。とくに、開発対象となる可能性が指摘されている、銅、鉛、亜鉛、金、銀の含有割合が高い黒鉱型海底熱水鉱床が、伊豆・小笠原海域や沖縄トラフで発見されている。コバルト、ニッケル、銅、マンガンの含有割合が高いコバルト・リッチ・クラストは、レアアース類の供給源となる可能性も示唆されている※5。
これらの深海底鉱物資源は、水深1,000mを超える深海に存在するため、開発が困難であると考えられてきた。しかし、「ちきゅう」や「しんかい6500」に代表される、深海における汎用技術の醸成が進み、ブラジル沖では水深約2,000mから石油が生産されている。深海に手が届く技術が完成されつつあるといえる。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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朝鮮史書「改ざん」説、下條批判4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:48 投稿番号: [15725 / 18519]
(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P100
(注2)半月城通信<『東国輿地勝覧』と于山島>
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.685(注3)半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説>
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785(注4)『東国輿地志』巻之七(江原道)
http://147.46.181.118/IMAGE/kyu00996.PDF(注5)『東国輿地志』「于山島欝陵島」条の影印リンク
http://www.kr-jp.net/rok/jiri/yojiji-usan.pdf
翻刻文(句読点、改行記号を挿入)
于山島、欝陵島。
一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌〓1〓2空。南峯稍卑。風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二日可到。一説于山、欝陵島本一島。地方百里。
新羅時恃險不服。智證王十二年。異斯夫為何琵羅州軍主。謂。于山國人愚悍。難以威服。可以計服。乃多以木造獅子。分載戦船。抵其國誑之曰。汝若不服。則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。
高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆。獻方物。
毅宗十三年。王聞欝陵地廣土肥。可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視。柔立回奏云。島中有大山。從山頂向東行。至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩。有村落基址七所。或有石佛鐵鍾石塔。多生柴胡藁本石南草。
後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃。多珍木海錯。遣使往觀之。有屋基破礎宛然。不知何代人居也。於是移東郡民以實之。及使還。多以珍木海錯進之。後屡爲風濤所蕩覆舟。人多物故。因還其居民。
本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨爲按撫使。刷出。空其地。麟雨言。土地沃饒。竹大如杠。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。
世宗二十年。遣縣人萬戸南邕。率數百人往捜逋民。盡俘金丸等七十餘人而還。
其地遂空。
成宗二年有告。別有三峯島者。及遣朴宗元往〓3。因風濤不得泊而還。同行一船。泊欝陵島。只取大竹大鰒魚。回啓云。島中無居民矣。
〓1、やまかんむりに業、ぎょう
〓2、てへんに掌、とう
〓3、不の下に見、べき
(注6)「輿地志云 欝陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注7)『英祖実録』1770年 閏5月16日記事
文獻備考 象緯考成 上親受崇政殿 賞編輯堂觔有差 上以備考之成 基於申景濬疆域志 特命加資
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15724 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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朝鮮史書「改ざん」説、下條批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:31 投稿番号: [15724 / 18519]
このあいまいな記述に明確な結論をくだしたのが申景濬でした。かれは 1756年に著わした歴史地理書である『疆界考』(別名『疆界誌』)において、上に書いたように、于山・欝陵の二島は于山国の地であり、そのうちの一島はいわゆる「松島」であると断定しました。
ここに「松島」の名が登場しましたが、これは安龍福が 1696年に日本へ渡って欝陵島と子山(于山)島は朝鮮の地であると主張し、子山島は松島であると確認したことに由来するようです。
以上のような歴史地理学の発展の成果を取り入れて記述されたのが問題の『東国文献備考』(1770)でした。同書は于山・欝陵についてこう記しました。
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『東国文献備考』「輿地考」(1770)
「輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり(注6)」
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しかし、引用元として書かれた「輿地志」からは上記のように読み取ることは困難です。何か手違いがあったようです。下條氏は、上に紹介したように<(『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界誌』が使われたことが分かっている>としましたが、どうやら、同書は引用文献を『疆界誌』とすべきなのに、粗忽に「輿地志」としてしまったようです。
下條氏によれば、<『東国文献備考』は編纂当初から「記載するところが疎略」>、<英祖が「速成を督」した>とされるので、引用文献の名を間違えることはあり得たのでしょう。
そうであれば、『東国文献備考』は単に文献名を誤っただけであり、それを「改ざん」などと仰々しくのたまうのは疑問です。著者が意図的に行なうのが「改ざん」であり、意図的でないのは単なるミスです。
『東国文献備考』の場合、引用文献名を『疆界誌』のかわりに意図的に「輿地志」としなければならない理由は何も見当たりません。むしろ、当時は申景濬の『疆界誌』が積極的に引用されるような状況でした。実際、かれはそうした貢献で王から褒美をもらったほどでした(注7)。
ま、下條氏の「改ざん」説はともかくとして、史実として、于山島は松島であることが安龍福の日本での訴訟事件をとおして日本と朝鮮で確認され、その認識が朝鮮の官撰図書に強固に反映され、後世の官撰図書などに何度も記録された事実はきわめて重要です。
(つづく)
これは メッセージ 15723 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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朝鮮史書「改ざん」説、下條批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:29 投稿番号: [15723 / 18519]
しかしながら、「輿地志」の記述は一島説なのか二島説なのか、原書が見つからない限り永遠の謎と思われていたのですが、存在しないと思われていた「輿地志」の写本が見つかりました。そして「輿地志」は柳馨遠の『東国輿地志』(1656)であることが判明しました。
同書はソウル大学校の奎章閣からインターネットで影印版が公開されていましたので(注4)、その中から「于山島 欝陵島」条の影印版リンクおよび翻刻文を(注5)に掲げます。同時にその冒頭部分の口語訳を次に記します。
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于山島、欝陵島
一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
一説によると于山、欝陵島は本来一島という
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この文は、先の『輿地勝覧』(『東国輿地勝覧』)と完全に同じです。といっても剽窃ではありません。元来『東国輿地志』は、その「凡例」に断り書きがあるように、目的は『輿地勝覧』の「増修」にありました。名著の『輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、その間に変動が多々あったので、その増補を目的に『東国輿地志』が書かれたのでした。したがって、于山島のように変動がない記述はそのままにされました。
つまり、同書は『輿地勝覧』の認識を受けついで、于山島と欝陵島を別々の島とし、一島説を一説として書きとどめたのでした。したがって、下條氏の「于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としている」という主張は誤った我田引水であることが明白になりました。
同時に『フォトしまね』に記された「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」という記述も明らかな錯誤だったことが判明しました。
このような事実が明らかになっても、下條氏は「輿地志」では二島説が本来の説である事実を伏せたままでした。それどころか、依然として最終報告書において「輿地志」の「一説に于山欝陵本一島」という断片的な一節のみの引用をしつづけたのでした。
そうすることにより「輿地志」が一島説であると読者に思いこませようとするのなら、それはトリックであり、恣意的な我田引水といわざるをえません。
これは『春官志』の解釈も同様です。『春官志』は1744年に李孟休が王命により編纂を始め、1781年に李家煥が補充して完成した官撰図書でした。この書は国家機関である礼曹の法令や事例などを編纂した書でした。そして編纂の一環として対日関係を収録し、「欝陵島争界」すなわち「竹島一件」を記述しました。
同書は基本的に地理書ではないので、欝陵島の地理的記述に関しては、二島説を本来の説としている上記の『輿地勝覧』の一部を次のように引用しました。
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欝陵島 在江原道海中 属蔚珎縣 輿地勝覧曰 一云武陵 一云羽陵 在蔚珎正東海中。三峰岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵島本一島
(〓1、やまかんむりに業、ぎょう、〓2、てへんに掌、とう)
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『輿地勝覧』と異なる点は、『春官志』は欝陵島のみを小項目のタイトルにしたので、『輿地勝覧』に書かれた「二島は県の真東の海中にある」との部分から「二島」の語を抜き「蔚珎の真東の海中にある」と記述しました。
それ以外は『輿地勝覧』の記述を「于山欝陵本一島」の語句を含めてそのまま引用しました。こうした引用方法からわかるように、同書は専門書である『輿地勝覧』の記述に異議をとなえたものではありません。したがって、問題の「于山鬱陵本一島」も含めて『輿地勝覧』の認識と同じです。すなわち、于山・欝陵の二島説を本来の説にした上で、参考に一島説を記したにすぎなかったといえます。
以上のように、朝鮮では『世宗実録』地理志以降、ほとんどの地理志が于山・欝陵は二島であるとの認識をもっていました。しかし、どの書もそれは本当に二島なのかどうか確信が持てず「一説に于山欝陵本一島」との記述も付加したのでした。
(つづく)
これは メッセージ 15722 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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朝鮮史書「改ざん」説、下條批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:28 投稿番号: [15722 / 18519]
半月城です。
竹島問題研究会の最終報告書は、太政官「竹島外一島」の見解を中間報告書から180度変えましたが、他にも引っかかる所があります。そのひとつが「朝鮮史書の改ざん」説です。
昨年、中間報告書を要約し、島根県の全家庭に配布したパンフレット『フォトしまね』161号にはこう記されました。
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韓国側は現在の竹島を于山島とし、歴史的に鬱陵島の属島だったとする根拠として、「東国文献備考」にある「輿地志によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山島はいわゆる日本の松島(現在の竹島)だ」との記述を挙げる。
だが、東国文献備考の下地になった「疆界考」には、「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」と記されている(P4)。
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この見解を最終報告書がどのように扱ったのかは後述するとして、先にこの文章の妥当性を考察したいと思います。この文章は、研究会の座長を務めた下條氏の見解そのものと思われますので、くわしいことは同氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』をみることにします。下條氏はこう記しました。
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(『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界考』が使われたことが分かっている。底本となったその『疆界考』には、鬱陵島に触れたくだりに、按記(分註)として柳馨遠の『輿地志』からの引用がある。・・・
申景濬が編著した『疆界考』の按記は次のようなものである。
按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり。
ここで申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用しているのは、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」だけで、「而るに」以下は申景濬の私見である。つまり、この按記から言えることは、オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注1)。
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このように下條氏は、元の「輿地志」は一島説であり、于山・欝陵は同島異名だとしましたが、これは妥当でしょうか?
かつて、私は下記のように疑問を呈しました。
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「輿地志に云う、一説に于山 欝陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?
ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。
于山島、欝陵島
一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
一説によると于山、欝陵島は本来一島という(注2)
この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だけを切りとれば、『輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、『輿地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、一島説は参考程度にとどめました(注3)。
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(つづく)
これは メッセージ 15711 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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漂民救助の史料をアップ
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/12 23:41 投稿番号: [15721 / 18519]
これは メッセージ 15714 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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竹島・松島に関する正院地誌課の結論
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/12 23:25 投稿番号: [15720 / 18519]
半月城です。
ararenotomoさん、No.15715
>半月城さんは『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかったと述べましたが(No.15674)、塚本明毅には、「松島竹島」を隠岐の属島とし、日本領とする意図があったと思います(Nos.15675, 15677)。
塚本明毅は、内務省地理局において明治初期の日本地図の製作を監修しました。もし、かれに竹島・松島を日本領にする意図があったのなら、地理局発行の『大日本國全圖』(1890)や『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方などに竹島・松島を載せたのではないでしょうか。
竹島・松島を本土外と記述した『日本地誌提要』「隠岐」条の編纂は太政官 正院地誌課(1871-74)によりおこなわれましたが、その時、すでに竹島・松島を日本領にするのが無理だという調査結果が出ていたと思われます。
島根県「竹島問題研究会」の最終報告書に「幕府関係者が編修した『磯竹島事略』には・・・」と記されていますが、幕府が竹島(欝陵島)を放棄した事情を記した『磯竹島事略』(磯竹嶋覺書)を正院地誌課は知っていたか、あるいはもしかすると自ら編纂したのではないかと思われます。
その上で、竹島・松島を日本領とする無責任な地図に警鐘を鳴らす意味で、両島が日本の領土外であることを明確にしたのではないでしょうか。
ともあれ、地理担当部署である地誌課による『日本地誌提要』の記述は相当なインパクトがあったようで、地理学者の田中阿歌麻呂はその影響を『地学雑誌』にこう記しました。
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明治の初年に到り正院地誌課に於て其(竹島=独島、半月城注)の本邦の領有たることを全然非認(ママ)したるを以て、其の後の出版にかかる地圖は多く其の所在を示さざるが如し、明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全圖には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず、又 我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコールト岩と題し、リアンコールト號の發見 其他外国人の測量紀事を載するのみなり(注1)。
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地理局が地図で竹島・松島を扱わなくなったため、逆に竹島・松島の島名混乱を招いてしまったようです。竹島・松島は日本領でないとの結論なので、それもやむを得ないところです。
(注1)田中阿歌麻呂「隠岐國竹島に關する舊記」『地学雑誌』第200号,1905,P594
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15715 (ararenotomo さん)への返信です.
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1月8日の文章起し完成
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/12 19:20 投稿番号: [15719 / 18519]
これは メッセージ 15718 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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1月11日の文章起し完成
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/12 11:14 投稿番号: [15718 / 18519]
これは メッセージ 15710 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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竹島行き
投稿者: tachstone 投稿日時: 2007/08/11 13:44 投稿番号: [15717 / 18519]
竹島に一度も行ったこともなく竹島問題を論じているようだが、そんなことではいけない。
机上の討論・論議は誰でもできる。
一度竹島の土を踏んで論議すべきだ。
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Re: 『日本地誌提要』『大日本史』の松島竹
投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2007/08/10 21:14 投稿番号: [15716 / 18519]
これは メッセージ 15715 (ararenotomo さん)への返信です.
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『日本地誌提要』『大日本史』の松島竹島
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/08/08 22:28 投稿番号: [15715 / 18519]
明治初期に書かれた日本地誌の「松島竹島」の記事について述べます。
和銅の風土記につぐ日本全土の官撰地誌とされる『日本地誌提要』は、隠岐國島嶼の項に「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡蘄浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町。」と記しました(No.15672)。この記事のある『日本地誌提要』「山陰道」(複刻, 臨川書店, 1982)は明治11(1878)年1月刊行となっていますが、明治7年8月刊の日本地理の教科書、南摩綱紀『内地誌略』に殆んど同じ表現があるので、隠岐國のこの項は1874年には成立していたと思われます。『内地誌略』は次で読むことができます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006611&VOL_NUM=00003&KOMA=12&ITYPE=0『日本地誌提要』は、1873年ウイン万国博出陳の天保図・伊能図から輯製した日本地図の説明として、紅葉山文庫・旧幕府昌平坂学問所の資料から、塚本明毅の下で河田羆らが編纂したのが始まりとされています(No.12262)。塚本明毅は、長崎海軍伝習所で学び、文久元(1861)年幕府が初めて派遣した外国奉行水野忠徳を長とする小笠原巡視に、田辺太一らと共に加わり、母島とその離島の現在と殆んど変らない正確な地図を作りました。1871年西周の後任の沼津兵学校頭取から太政官地誌課長となり、1872年地誌事業の傍ら「改暦の詔書」を書き上げました。
極めて有能なテクノクラートであった塚本明毅は、日本海西部沿岸地方の人々が竹島を日本領と信じ朝鮮からの抗議も受けずに渡航しているのを見て(No.15679)、寛永20(1643)年の林羅山『本朝地理志略』の例に倣い(No.10197)、至極当然の事として、「松島竹島」を隠岐國条に配したのかもしれません(No.15278)。半月城さんは『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかったと述べましたが(No.15674)、塚本明毅には、「松島竹島」を隠岐の属島とし、日本領とする意図があったと思います(Nos.15675, 15677)。
『大日本史』(1906年完成)は隱岐國の項に「別有松島、竹島屬之、(割注:隱岐古記、隱岐紀行、○按自隠地郡蘄浦、至松島、海上六十九里、至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、巳曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智者而知也、附以備考、)」と記し、「松島竹島」を明確に隠岐の属島としました。これは、半月城さんがNo.15609で述べたように、長久保赤水の認識が色濃く反映していた水戸藩の見解を踏襲したからでしょう(No.15627)。
栗田寛から『大日本史』「国郡志」の校訂を委嘱された、邨岡良弼が著した『日本地理志料』(1903, 複刻, 臨川書店, 1966)の「隠岐國」条には、『大日本史』に基づき「別有松島竹島、松島距隠地郡蘄浦、在六十九里三十五町、竹島在百里四町 - -」とあります。しかし、彼は「別有松島竹島」の後に「屬之(隠岐)」とは書きませんでした。
塚本明毅と交友のあった大槻修二の『日本地誌要略』(1875)は、「松島竹島」の現状を次の様に記しました。「其(隠岐)西北洋中ニ、松島竹島ノ両島アリ、共ニ朝鮮地方ニ接近スレドモ、亦居民統屬ナク、各方ノ人、時ニ來リテ、海獵ノ場トナスト云フ、」。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006670&VOL_NUM=00004&KOMA=26&ITYPE=0 しかし大槻修二は、1886年の『改正日本地誌要略』では、「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」と書き、朝鮮領との認識を示しました。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006672&VOL_NUM=00005&KOMA=17&ITYPE=0 明治初年、「松島竹島」は統属なき地との認識が一部にありました(No.15612)。1877年3月、日本の領域を定めるため内務省は、江戸時代の文書を調べ、「竹島外一島本邦関係無之」として、太政官に伺いました。吉田松陰は桂小五郎に安政5(1858)年7月11日次の書簡を送っています「竹島論、元禄度朝鮮御引渡しの事に付き六ヶ敷くもあらんと此の地にても議し申し候。- - 竹島・大坂島・松島合せて世に是れを竹島と云ひ、二十五里に流れ居り候。」(『吉田松陰全集』9巻, 岩波書店, 1939)。参議木戸孝允は竹島と松島を版図外とするも已むなしと考えていたでしょう。
これは メッセージ 15679 (ararenotomo さん)への返信です.
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『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉批判4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/06 22:57 投稿番号: [15714 / 18519]
他方、水路部は誤った西洋の地図などに惑わされて、『朝鮮水路誌』において欝陵島を松島と記述しましたが、内務省や外務省、長崎県などは1877年の太政官指令に書かれたとおりの、竹島=独島の古来の名称である「松島」をこの時にいたるまで使用していたことは注目されます。
この「韓国 松島沖」の件は釜山の日本領事館へも伝えられたので、同領事館は当然の職務としてその情報を朝鮮政府へ伝えたことでしょう。それを受けた朝鮮政府が「松島」をどのように判断したのか、資料の発掘が望まれます。于山島に結びつく資料でも見つかれば大きなニュースになりそうです。
以上のように、欝陵島民の遭難事件をきっかけに内務省も外務省も韓国領の「松島」を改めて確認したことは注目されます。この記憶はその後も持続されたとみえます。内務省は中井養三郎からの「りやんこ島領土編入 並 貸下願」が提出されたとき、同島は「韓国領地の疑いある」として中井の請願書を一旦は却下したくらいでした(注7)。当然の成りゆきです。
(注1)原著注は、<半月城通信121号(2006年8月)「太政官指令後の竹島=独島認識」
http://www.han.org/a/half-moon/hm121.html>
(注2)公文類聚・第二十九編・明治三十八年・第一巻
「隠岐島ヲ距ル西北八十五哩ニ在ル無人島ヲ竹島ト名ヶ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為ス」
(注3)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987,P105
(注4)半月城通信<明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』>
http://www.han.org/a/half-moon/hm103.html#No.754(注5)池内敏、講演会「竹島考ー近世日本の西北限界ー」2007.2.24
(注6)『困難船及漂民救助雑件』朝鮮国之部、第八巻、外務省外交史料館、請求記号:3-6-7-1-10
中房第八〇五號
韓国漂民送還報告
韓国江原道平海欝陵島人
白汝玉
金乃益
・・・・・・
内人七名
小児七名
右ハ韓暦三月十五日 釜山ヨリ平海欝陵島ヘ航行ノ途 風波ノ為メ韓国松島沖ニ漂流中 四月十四日 同所ヲ通過シタル露国汽船「ピータスボルグ」號ニ救助セラレ候由ニテ 当港駐箚露国領事ヨリ右漂民韓国ヘ引渡方依頼シ来リ候ニ付 内務大臣ニ伺出候処 漂民取扱手続ニ準ジ取計フヘキ旨 指令相成候ニ付 去六日 右漂民本廳ニ引受ノ 露国領事ト協議ノ上 同国ノ費用ヲ以テ 翌七日出帆ノ露国汽舩「バイカル」號ニテ本国ヘ送還候事ニ相定メ 且 露国領事ノ依頼ニ依リ 在釜山帝国領事ニ宛テ右漂民ヲ韓国政府ニ引渡方 可取計旨ノ書面ヲ作リ バイカル號船長ニ託シテ 同釜山領事ニ送付ノ為メ 当廳ヨリ露国領事ヘ送致致候条 此段及御報告候也
追テ 漂民 当廳引受後 バイカル號ヘ引渡迄ニ要シタル費用ハ日本政府ニテ負担スヘキモノト思考致候条 此段為念申添候
明治三十一年五月十六日
長崎縣知事 小松原英太郎
外務大臣男爵 西徳二郎殿
(注7)半月城通信<竹島=独島の領土編入>
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6985
これは メッセージ 15713 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/06 22:40 投稿番号: [15713 / 18519]
1898(明治31)年、「韓国 松島沖」で遭難した漂民に関する公文書が長崎県知事より外務大臣などへ送られました。その翻刻文を(注6)に掲げますが、口語訳は次のとおりです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
中房第八〇五號
韓国の漂民送還報告
韓国江原道平海欝陵島人
白汝玉
金乃益
・・・・・・
内人七名
小児七名
右は韓暦三月十五日、釜山より平海欝陵島へ航行の途中、風波のため韓国松島沖に漂流中、四月十四日、同所を通過した露国汽船「ピータスボルグ」號に救助されたとのことで、長崎港の駐箚ロシア領事より右の漂民を韓国へ引渡すようにとの依頼が来たので、内務大臣に伺い出たところ、漂民取扱手続に準じて取りはからうべき旨の指令があったので、去る六日、右の漂民を本庁に引きうけることでロシア領事と協議の上、同国の費用を以て、翌七日に出帆のロシア汽船「バイカル」号で本国ヘ送還する事に決めた。
かつ、ロシア領事の依頼に依り、在釜山の帝国領事に宛てて右漂民を韓国政府に引渡すことを取りはからう旨の書面を作り、バイカル号の船長に託して、同釜山領事に送付の為、当庁よりロシア領事ヘ送致する件に関し、この段をご報告します。
追って 漂民を当庁にて引受後、バイカル号ヘ引渡す迄に要する費用は日本政府で負担すべきものと思考することを念の為に申し添えます。
明治三十一年五月十六日
長崎県知事 小松原英太郎
外務大臣男爵 西徳二郎殿
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同様の文面の公文書が長崎県から内務省へも送られました。しかも、内務省警保局長の牧朴真は長崎県からの文書を外務省へ転送しました。牧朴真は後に農商務省に移りましたが、竹島=独島の「領土編入」に深くかかわった三羽がらすのひとりでした。そのかれが「韓国 松島」を確認したことは重要です。
長崎県からの公文書に対し、外務省は日本政府が負担する費用に関して意見をつけました。両者間で費用問題をめぐってやりとりが何回かおこなわれましたが、それらの公文書において「韓国 松島」については何らの疑問もだされませんでした。
ここで「韓国 松島沖」の位置ですが、釜山と欝陵島とを結ぶ航路において遭難しそうな「松島沖」は現在の竹島=独島沖以外には考えられません。もっとも、朝鮮半島沿岸に松島の名称を持った小さな島はいくつかありますが、いずれも遭難に結びつくような場所ではないし、また、日本の公文書で「松島沖」と書かれだけで場所が特定できるような島ではありません。沿岸の松島の場合だったら、場所の記述を松島沖とせず、場所を特定できるように浦項沖とか港の名前を書くのが一般的です。
したがって外務省の公文書に書かれた「韓国 松島」は現在の竹島を=独島をさすと見て差しつかえありません。池内教授もそのような見方でした。
それにしても不思議なのは、「松島」の名は誰の口から出たのでしょうか?
それは欝陵島民の口から出たとも思えません。おそらく、長崎県の担当者が遭難場所を聞いて、それを日本名に置きかえたのでしょうか。その際、欝陵島民は「松島」を何と呼んでいたのか、興味のあるところです。
(つづく)
これは メッセージ 15712 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/15713.html
『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉批判2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/06 22:26 投稿番号: [15712 / 18519]
その水路部が作成した『日本水路誌』は、対象は厳密に日本領に限られました(注3)。『日本水路誌』において記述されなかった島嶼は日本領とは認識されませんでした。
その好例が竹島=独島です。同島は「領土編入」以前に作成された『日本水路誌』第四巻では何ら記述されなかったのですが、「領土編入」後の同巻第一改版で“竹島[Liancourt rocks]”の名称で初めて記述されました。
そのうえ、同島が日本領になったことを明確にするため、文末にわざわざ「明治三十八年島根縣ノ所管ニ編入セラレタリ」との説明を加えられました(注4)。水路部がこの時に初めて同島を日本領と認識したことは明らかです。
それ以前の竹島=独島に対する認識はどうであったのか、その回答が『朝鮮水路誌』におけるリアンコールト(竹島=独島)の記述です。同島を『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に組み入れたのは、同島は朝鮮領という認識をもっていたからと解されます。
竹島=独島海域は歴史的には、舩杉氏も記した『長生竹島記』や『石見外記』などに見られるように日本では江戸時代末期の北前船にかなり利用されていました。幕末、かの高田屋嘉兵衛の千石船は速い海流などを利用すべく、竹島=独島と欝陵島の間を通った逸話などはよく知られているとおりです。
そのため、この時期の多くの地図は松島(竹島=独島)のみか竹島(欝陵島)までも日本領として描かれました。もっともそれらは例外なく日本の地理担当部署が作成した公的な官撰地図ではないので無責任であり、領有権を論じる場合にはほとんど無価値です。
それはともかくとして、もし『日本水路誌』が海図と同様、単純に日本の水路を扱う性質の書であれば、過去の経緯から竹島・松島は同書に載せられてしかるべきでした。そうならなかったのは、両島の記載が、『日本水路誌』は日本領だけを扱うという方針に反したからではないでしょうか。
一方、『朝鮮水路誌』は基本的に外国のことを記した水路誌なので、そこで領土をすべて正確に取り扱うのは困難です。また、水路部はそのような作業をおこなう機関でもないし、そうした実力がないことも明白です。ここが『日本水路誌』との大きな違いです。そのため、『朝鮮水路誌』に書かれた領土範囲の規定は不正確で当然です。
実際、同誌は朝鮮の北限を北緯42度25分としましたが、そこには朝鮮と清国で領有権をめぐってもめていた間島地域を考察した形跡がまったくみられません。また、その必要性もほとんど皆無です。したがって、そのような北限の緯度の数値は概略値と理解すべきです。
また、同誌は朝鮮の南限を北緯33度15分としましたが、そこに馬羅島(北緯33度7分)が抜けているのは明白です。その理由として舩杉氏は、馬羅島が済州島の付属島であるからとかいうような言い訳めいたことを書いていますが、その前に『朝鮮水路誌』の性質から南限の緯度も概略値と理解すべきではないでしょうか。
また、同誌がナホトカ南東のワイオダ岩を記述したとしても、同誌が外国領土の所属を正確に規定する性質の書ではないので、単純に水路の安全上の観点から記したものと自然に理解されます。
以上の考察からすれば、舩杉氏が、同誌の総論にごく簡単に書かれた朝鮮の東限の経度をもとに、竹島=独島が朝鮮領と認識されていなかったと書いたのは、木を見て森を見ずの類ではないでしょうか。
くれぐれも視野狭窄に陥らないよう、視点を広げてみることにします。水路部以外の日本政府の竹島=独島に対する認識はどうだったでしょうか。当時、同島が朝鮮領という認識は、かつて「竹島外一島」を版図外とする太政官指令を受けた、地理部門を有する内務省はいうに及ばず、外務省も同様の認識でした。そうした両者の共通認識を確認できる資料が外交史料館にあります。
その資料は「韓国 松島沖」で遭難してロシア船に救助された46名の欝陵島民を漂民として扱い、日本が長崎から韓国へ送還した一件の記録ですが、それは最近では名古屋大学の池内敏氏により公開されました(注5)。その資料を紹介します。
(つづく)
これは メッセージ 15711 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/06 22:25 投稿番号: [15711 / 18519]
半月城です。
舩杉氏は最終報告書において『朝鮮水路誌』の性格をどうとらえているのか、どうも矛盾しているようです。同氏は、『朝鮮水路誌』は朝鮮の「領土の範囲」を規定しているとみるのか、それとも単に朝鮮沿岸の水路を記述したにとどまっているとみるのか、それらがゴチャゴチャになっているようです。同氏はこう記しました。
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③『朝鮮水路誌』。明治27年(1894)水路部刊行。・・・
この史料では、第一編総論の形勢のところで、朝鮮国の範囲を記している。朝鮮国の範囲、東限は東経130度35分と記している。『朝鮮水路誌』では、鬱陵島(中心)は東経130度53分・リアンコートルト列岩(現在の竹島)は東経131度55分としていることから、朝鮮国の東限は鬱陵島であり、現在の竹島は入っていないことが分かる(P153)。
・・・・・・
また朝鮮国の東限は鬱陵島としており、現在の竹島は属島ではなく、単独の岩として記載しているのである。こうしたことから、水路部、ひいては日本政府は、竹島を朝鮮領とは認識していなかったことが分かる。海図や水路誌の作成目的は、航行の安全確保のためであった。「日本水路誌」には初期(明治初期から中期)の水路測量の項目で、海図、水路誌の作成目的を以下のように記している。「水路測量の業務は、その関係することが大きく、有事の際には艦の進退・兵備に過誤のないように、平時においては航路の安全に備えて、海図および水路誌を刊行することを目的とする。そのため有形・無形の水路を詳明し、諸種の海難を防ぎ、安心して航行・停泊を可能にする要具としたい」(海上保安庁水路部、1971)とある。
また「水路部こそ日本の国境画定機関」との指摘(朴炳渉2005)や、水路部は「水路誌の編纂をとおして、日本における国境画定機関に成長しました」(注1)が、上記文献や海上保安庁での調査によれば、水路部は島嶼、岩礁など海図作製のための調査機関であり、「国境画定機関」ではないことは明白である。
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舩杉力修氏は、水路部を「国境画定機関」ではないと考えるなら、水路誌から「日本政府は、竹島を朝鮮領とは認識していなかった」などと、領土と関連づけるような読みとり方をなぜするのでしょうか?
しかもその論理には飛躍があります。明治「初期から中期」における水路誌の作成目的を単純に明治後期にまで延長し、水路部は<「国境画定機関」ではないことは明白である>と短絡的にとらえました。明治後期における水路部の役割には目もくれないようです。
実は、水路部は東アジアでの測量をとおして水路や島嶼を熟知するようになった実績に立ち、明治後期である日清戦争のころには帝国主義国家の先兵として領土拡張に一役買うようになったのでした。
その実例が竹島=独島の「領土編入」時における水路部の役割です。よく知られているように、島根県の中井養三郎が「りやんこ島領土編入 並 貸下願」を内務省などに提出する時にリヤンコ(竹島=独島)の所属を確かめた先が水路部でした。
また、中井の請願書を紆余曲折の末に受けつけた内務省は「領土編入」を閣議にはかる際、関係書類として「水路部長の回答」を添付しました(注2)。この一連の過程において、水路部が竹島=独島を「無主地」と強弁したからこそ「領土編入」の閣議決定が可能になったのでした。このようにして水路部は日本の「実質的な国境画定機関」に成長したのでした。
(つづく)
これは メッセージ 15696 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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