竹島

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于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:36 投稿番号: [15731 / 18519]
   半月城です。

   下條正男氏は、安龍福が大谷船により連行される途中で見た島は、欝陵島のすぐ近くにあるチクトウ(竹島)であると「最終報告書」の巻頭言で断定しました。しかし、論拠にしている『竹島紀事』からそのような解釈がはたして可能かどうか、ここでじっくり検証したいと思います。
   同氏はこう記しました。
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   安龍福は、欝陵島より「北東に当たり大きなる嶋あり」、彼島を存じたるもの申し候は于山島と申し候」と証言している。この証言から見ても、安龍福が主張する于山島は、今日の竹島ではない。安龍福が見たのは、地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹島)である。チクトウは安龍福が漁撈活動をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し、竹島は欝陵島の東南にあるからである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   これに反論する前に、準備として当時の于山は朝鮮でどのように認識されていたのかを簡単に見ておきたいと思います。まずは最も重要な官撰地理志をひもとくことにします。
   于山の名ですが、国名としての于山は『高麗史』「地理」に登場しましたが、島名としての于山は『世宗実録』が初めてでした。そこにこう記されました。

  『世宗実録』地理志、江原道蔚珍縣(1454年)
  于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云欝陵島 地方百里

   この地理志に書かれた「二島はお互いに遠くなく、天気が清明なら望み見ることができる」という記述は、于山島が今日の竹島=独島であることを想起させます。天気が良い時にだけ見える島は竹島=独島しかないためです。
   しかし、それから27年後の官撰地理志である『東国輿地勝覧』では于山島、欝陵島を別々の島にするものの、于山島が竹島=独島であることを想起させるような記述は消え、しかも一説として于山・欝陵の一島二名説がつけ加えられました。

  『東国輿地勝覧』(略称『輿地勝覧』)江原道蔚珍縣(1481年)
  于山島 欝陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵島本一島 地方百里(注1)

   しかも付属の絵図では、なんと于山島が欝陵島の西に描かれました。実際は、欝陵島の西に島は皆無です。これは『東国輿地勝覧』の本文に于山島の名が欝陵島より先に書かれたので、それにつられて絵図で于山島を本土の近くに書いたとみられます。
   そもそも、これは15世紀の絵図とあっては、離島の位置や大きさなどで正確さを望むべくもありません。ともあれ、同絵図は東海中に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識だけはしっかり表現しました。

   このように『輿地勝覧』に書かれた于山島は現在のどの島をさすのか不明です。その後『輿地勝覧』は何度か改訂されましたが、于山島に関するかぎり改訂はされませんでした。したがって、同書において于山島は観念的な存在にとどまりました。
   なお、この『東国輿地勝覧』は「竹島一件」交渉において重要な役割をはたしました。同書などに欝陵島が書かれたことが決め手になり、日本は最終的に同島を朝鮮の領土と認めました。もちろん、于山島も一緒です。

   官撰地理志とは別に、朝鮮の官衙である東莱府などが于山島をどのように認識していたのかを史料に見ることにします。対馬藩が元禄期の「竹島一件」をまとめた書『竹島紀事』です。
   この書は対馬藩士である越常右衛門により享保11(1726)年にまとめられたので「竹島一件」(1693-99)とほぼ同時代の記録といえる重要書です。同書が朝鮮人、なかんずく安龍福の于山島像をどのように記録したのかを精査したいと思います。
(つづく)
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