于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:39 投稿番号: [15733 / 18519]
この文では于山島がどこに位置するのか示されませんでした。しかし、この時すでに対馬藩は于山島に関する情報を、同藩へ連行されてきた「人質」である安龍福(An Yeong Bok)と朴於屯(Bak Eo Dun)の口述から得ていました。同日の記事はこう記しました。
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人質がここ(対馬)に逗留中に尋ねられた時に回答したのは、今回出かけた島の名は知らない、今回出かけた島の北東に当り大きな島がある、その地に逗留した間に二度見えた、その島を存じている者がいうには于山島というと聞いている、ついに行ったことはないが、大体一日の道のりに見えたといっています。
欝陵島という島の件はかつて知らないといっています。しかしながら、人質の申し分は虚実計りがたいので、ご参考のため申し上げます。そちらにてよく聞きとどけてください(注4)。
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この文において「人質」が「今回出かけた島の名は知らない」としたのは『竹島紀事』全体の文脈に合いません。というのは、かれらはその島の名前が「ムルグセム」であると数回も供述しており、それが同書に記録されているからです。たとえば、長崎奉行所で7月1日に次のように述べたことが『竹島紀事』六月条の「朝鮮人弐人 申由」に記録されました。
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朝鮮慶尚北道の東莱郡釜山浦の安ヨクホキ、朴トラヒと申す者です。我々は蔚山という所から竹嶋という所へ蚫(あわび)や若布(ワカメ)採りに3月11日に出帆し、25日に寧海という所に着きました。そこを27日朝8時ころ出発し、午後6時ころ竹嶋へ到着しました。
右の蚫や若布稼ぎに逗留していた所、日本人が4月17日に我々のいる所へ来て、着物など入れておいた平包みを収め、我々ふたりを彼らの船に乗せ、即刻午の刻に出帆し、鳥取へ5月1日未の刻に着きました。
・・・・・
今回、我々が蚫採りに行った島は朝鮮国ではムルグセムといいます。日本の竹嶋という所であることは今回知りました(注5)。
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さらに、安龍福と朴於屯のふたりは長崎から対馬へ送られ、そこでも尋問を受けました。その時の口上書がより詳細に『竹島紀事』9月4日条にこう記録されました。
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朝鮮人口書
一 我々二人の内、ひとりは釜山浦の者でアンヨグトと申します。ひとりはウルサンの者でバクトラビという者でございます。我々は一艘に10人乗組みましたが、内ひとりは患ったので、寧海(ヨグホイ)という所へ残して、9人が乗り竹嶋へ渡りました。
・・・・・
一 その島の名を朝鮮ではムルグセムと申します。
一 その島は、日本のものか、朝鮮の地であるのか一切知りません。日本へ渡って日本のものであるとのことを初めて聞きました(注6)。
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(つづく)
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人質がここ(対馬)に逗留中に尋ねられた時に回答したのは、今回出かけた島の名は知らない、今回出かけた島の北東に当り大きな島がある、その地に逗留した間に二度見えた、その島を存じている者がいうには于山島というと聞いている、ついに行ったことはないが、大体一日の道のりに見えたといっています。
欝陵島という島の件はかつて知らないといっています。しかしながら、人質の申し分は虚実計りがたいので、ご参考のため申し上げます。そちらにてよく聞きとどけてください(注4)。
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この文において「人質」が「今回出かけた島の名は知らない」としたのは『竹島紀事』全体の文脈に合いません。というのは、かれらはその島の名前が「ムルグセム」であると数回も供述しており、それが同書に記録されているからです。たとえば、長崎奉行所で7月1日に次のように述べたことが『竹島紀事』六月条の「朝鮮人弐人 申由」に記録されました。
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朝鮮慶尚北道の東莱郡釜山浦の安ヨクホキ、朴トラヒと申す者です。我々は蔚山という所から竹嶋という所へ蚫(あわび)や若布(ワカメ)採りに3月11日に出帆し、25日に寧海という所に着きました。そこを27日朝8時ころ出発し、午後6時ころ竹嶋へ到着しました。
右の蚫や若布稼ぎに逗留していた所、日本人が4月17日に我々のいる所へ来て、着物など入れておいた平包みを収め、我々ふたりを彼らの船に乗せ、即刻午の刻に出帆し、鳥取へ5月1日未の刻に着きました。
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今回、我々が蚫採りに行った島は朝鮮国ではムルグセムといいます。日本の竹嶋という所であることは今回知りました(注5)。
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さらに、安龍福と朴於屯のふたりは長崎から対馬へ送られ、そこでも尋問を受けました。その時の口上書がより詳細に『竹島紀事』9月4日条にこう記録されました。
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朝鮮人口書
一 我々二人の内、ひとりは釜山浦の者でアンヨグトと申します。ひとりはウルサンの者でバクトラビという者でございます。我々は一艘に10人乗組みましたが、内ひとりは患ったので、寧海(ヨグホイ)という所へ残して、9人が乗り竹嶋へ渡りました。
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一 その島の名を朝鮮ではムルグセムと申します。
一 その島は、日本のものか、朝鮮の地であるのか一切知りません。日本へ渡って日本のものであるとのことを初めて聞きました(注6)。
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(つづく)
これは メッセージ 15732 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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