朝鮮史書「改ざん」説、下條批判1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:28 投稿番号: [15722 / 18519]
半月城です。
竹島問題研究会の最終報告書は、太政官「竹島外一島」の見解を中間報告書から180度変えましたが、他にも引っかかる所があります。そのひとつが「朝鮮史書の改ざん」説です。
昨年、中間報告書を要約し、島根県の全家庭に配布したパンフレット『フォトしまね』161号にはこう記されました。
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韓国側は現在の竹島を于山島とし、歴史的に鬱陵島の属島だったとする根拠として、「東国文献備考」にある「輿地志によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山島はいわゆる日本の松島(現在の竹島)だ」との記述を挙げる。
だが、東国文献備考の下地になった「疆界考」には、「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」と記されている(P4)。
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この見解を最終報告書がどのように扱ったのかは後述するとして、先にこの文章の妥当性を考察したいと思います。この文章は、研究会の座長を務めた下條氏の見解そのものと思われますので、くわしいことは同氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』をみることにします。下條氏はこう記しました。
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(『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界考』が使われたことが分かっている。底本となったその『疆界考』には、鬱陵島に触れたくだりに、按記(分註)として柳馨遠の『輿地志』からの引用がある。・・・
申景濬が編著した『疆界考』の按記は次のようなものである。
按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり。
ここで申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用しているのは、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」だけで、「而るに」以下は申景濬の私見である。つまり、この按記から言えることは、オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注1)。
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このように下條氏は、元の「輿地志」は一島説であり、于山・欝陵は同島異名だとしましたが、これは妥当でしょうか? かつて、私は下記のように疑問を呈しました。
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「輿地志に云う、一説に于山 欝陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?
ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。
于山島、欝陵島
一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
一説によると于山、欝陵島は本来一島という(注2)
この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だけを切りとれば、『輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、『輿地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、一島説は参考程度にとどめました(注3)。
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(つづく)
竹島問題研究会の最終報告書は、太政官「竹島外一島」の見解を中間報告書から180度変えましたが、他にも引っかかる所があります。そのひとつが「朝鮮史書の改ざん」説です。
昨年、中間報告書を要約し、島根県の全家庭に配布したパンフレット『フォトしまね』161号にはこう記されました。
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韓国側は現在の竹島を于山島とし、歴史的に鬱陵島の属島だったとする根拠として、「東国文献備考」にある「輿地志によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山島はいわゆる日本の松島(現在の竹島)だ」との記述を挙げる。
だが、東国文献備考の下地になった「疆界考」には、「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」と記されている(P4)。
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この見解を最終報告書がどのように扱ったのかは後述するとして、先にこの文章の妥当性を考察したいと思います。この文章は、研究会の座長を務めた下條氏の見解そのものと思われますので、くわしいことは同氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』をみることにします。下條氏はこう記しました。
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(『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界考』が使われたことが分かっている。底本となったその『疆界考』には、鬱陵島に触れたくだりに、按記(分註)として柳馨遠の『輿地志』からの引用がある。・・・
申景濬が編著した『疆界考』の按記は次のようなものである。
按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり。
ここで申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用しているのは、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」だけで、「而るに」以下は申景濬の私見である。つまり、この按記から言えることは、オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注1)。
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このように下條氏は、元の「輿地志」は一島説であり、于山・欝陵は同島異名だとしましたが、これは妥当でしょうか? かつて、私は下記のように疑問を呈しました。
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「輿地志に云う、一説に于山 欝陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?
ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。
于山島、欝陵島
一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
一説によると于山、欝陵島は本来一島という(注2)
この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だけを切りとれば、『輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、『輿地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、一島説は参考程度にとどめました(注3)。
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(つづく)
これは メッセージ 15711 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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