竹島

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Re: 「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/21 07:17 投稿番号: [15615 / 18519]
  ちよっとだけですがお返事いただきありがとうございます。

  >個人のインターネットは出版物と違っていつでも削除可能なので、研究者の批判対象にはならないというのが通例です。これまで私は気軽に、いわば下書きのつもりで書いてきました。誤字や考え違いが多くて当たり前です。

  まあ半月城さんのように大量に長文を書いていれば主張に考え違いが生じてしまうのはよくあることで、それをいちいちあげつらうつもりは最初からないわけですが、今回の『「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海』は矛盾に気がついた後につじつまが合うように修正した上で書き込んだはずなので、これに矛盾があれば大問題です。そんなわけであれこれ検討してみましたが、どうもおかしな箇所があるようでいくつか紹介してみましょう。

  >この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。

  『隠岐古記集』と『隠岐国古記』が同じ内容なのに『隠岐古記』が異なる史料であると主張するのはあまりにも無理があります。文脈に合わないのは『隠岐古記集』に「日本の乾地 此国を以て限りとする」とあるのを竹島・松島は隠岐に属さないと理解したからであって、「此州」であれ 「此国」であれ竹島・松島は隠岐に属していると理解すれば何の問題もありません。『隠岐古記』は『隠岐古記集』の略称であって、「此州」の『隠州視聴合紀』も「此国」の『隠岐古記集』も歴史的に竹島・松島は隠岐に含まれると解釈されてきたということではないでしょうか。
  私の考えでは『隠岐国古記』と『隠岐古記』が同じものかどうか客観的に検証する方法が二つあります。一つめは『大日本史』に引用された『隠岐古記』の記述と『隠岐古記集』の記述が一致しているかどうかを比較する方法です。半月城hpにある『大日本史』の資料を読むと、『隠岐古記』には「始国府在島後当時派吏於此以治島前二郡故曰別府」・「有宇類美地即駐蹕之処」・「皇居址曰宇類美坊曰仁天里坊二寺尚存」と判断とできる記述があるのがわかります。もしこれと同じ意味の記述が『隠岐古記集』にあれば、『隠岐古記集』と『隠岐古記』は同じものであると判断できます。
  二つ目は『大日本史』の長久保赤水の草稿に『隠岐古記』についての記述があるか確認する方法です。半月城hpにはこのようにあります、

   『大日本史』の地理志草稿は赤水自筆の漢文体が10数冊残っている。天明6年(1786)に赤水(70歳)は、地理志編修に従事し「彰考館編修」の職名で致仕(退官)する81歳まで10年余りを侍講の傍ら、日本68か国の各郡村の由来・名所旧跡などの地誌を 諸資料を閲覧して要約した。十数冊に及ぶ草稿は、詳し過ぎて『大日本史』には不採用となった。明治時代にはいり栗田寛(彰考館編修のち東京大学教授)の新たな編修で、「国郡誌」の名称で、大日本史に集録された。

   竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
 
赤水自筆の草稿が十数冊あるわけですから隠岐の草稿も現存している可能性があります。長久保赤水は1801年に死去していて『隠岐国古記』の成立が1823年なわけですから、赤水自筆の草稿に『隠岐古記』の記述があれば 『隠岐古記集』と『隠岐古記』が異なる資料であるという半月城さんの主張は正しいことが証明できます。もし草稿に記述がなければどうなるでしょうか???ただし私は一介のねちずんにすぎないわけですから、これを調べるのは荷が重過ぎます。ぜひ有志の皆さんにお任せしたいと思います。
  もう一つ半月城さんの主張によれば竹島松島は日本領であるという『大日本史』の認識は長久保赤水の認識ということになります。長久保赤水といえば言うまでもなく『改正日本輿地路程全図』を刊行した人物です。となると赤水が『日本輿地路程全図』で竹島松島を無彩色にしたのは決して竹島松島を日本領と認識していなかったからではない、ということになります。『日本輿地路程全図』についての下條教授の主張に対する半月城さんの批判は全くの筋違いですね。

Re: 出版の新たな形態として大きな力

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/20 20:17 投稿番号: [15613 / 18519]
  学者の先生達は、或る意味で、間違いを犯しているように思います。
  どの先生も、要するに、島は誰のものかを論じて居られるわけで、そのために切り捨てられている大事なことがあるのではないでしょうか。
  朝鮮王朝時代、日本では江戸時代には、一応朝鮮の役人が数年に一度の見回りをしていたと云うことですが、結局は密漁を黙認していたわけですね。
  これは、朝鮮の民も、日本の民も、特に諍いを起こしさえしなければですが、同じ漁場に通って同じ島に渡って生活の糧にしていた訳なんですね。
  そして朝鮮の王も、庶民の生活のためなのだから黙認せよと云っていたわけです。
  今津屋八右衛門の例をみてもお判りのように、竹島へ渡る日本人は朝鮮名を名乗り、結構現地で仲良くやっていたわけで、そこには島が朝鮮のものか日本のものかなどと云う観点は差して重視されていない世相があったわけです。そして福浦の人々は、八右衛門が処刑された後も、度重なる幕府の禁止もお構いなしに、「桂島」へ渡るのだと称して逞しく渡海事業を継続していたのでしょう。
  正直に申し上げますと、もう島が誰のものかには、余り興味も湧かなくなってきています。
  隠岐の人達が獨島で漁をしたいのならば、昔のように、させてやればよいのです。そこに法の保護が必要ならば、無条件で韓国に帰化して貰い、明日から直ちに韓国政府の保護下で漁をしてもらいましょう。
  それで手っ取り早く全面解決じゃありませんか。

Re: 「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/20 19:50 投稿番号: [15612 / 18519]
半月城さん、お返事有り難うございます。
Am I AHOです。

  貴台が粟田と赤水が同じ水戸藩士であったことを重視し、粟田の「国郡誌」には、赤水の認識が色濃く反映しただろうと考えられた旨、了解致しました。
  しかし尚も愚生は、むしろ粟田は当時の世相に影響された可能性が高いだろうとの立場を維持しようと思います。
  このことはまた、以前にも少し書きましたが、太政官布告の必要性にも或いは繋がるのではないかと考えるからでもあります。
  明治9年5月23日内務省達丙第35号「地籍編製地方官心得書」が発せられて、各県ではいよいよ本格的に地籍編纂の大事業に取りかかるわけですが、ご承知のようにこれは多年に亘り多額の費用をかけて行われた国家事業であります。
  その僅か数ヶ月の後に、内務省から島根県へ宛てて伺い書が発せられた背景には、当然にかの島が日本の地であるのか否かを明確にし、爾後の地籍編纂事業で取扱うことの是非を決しておく必要性があり、またそこには、或いは日本の島なのかもしれないとする世相が厳然と存在していたために、調査する必要性が確かにあったのだと考えることが妥当と思えます。
  また、このような当時の状況下で粟田が「国郡誌」を著したことを考え合わせれば、彼が赤水の全的な影響から脱していないとするには、更なる究明が必要でしょう。

出版の新たな形態として大きな力

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:49 投稿番号: [15611 / 18519]
   半月城です。

   yabutarou01さんは、インターネットの書き込みと出版物を同列に見ているのでしょうか?
   個人のインターネットは出版物と違っていつでも削除可能なので、研究者の批判対象にはならないというのが通例です。これまで私は気軽に、いわば下書きのつもりで書いてきました。誤字や考え違いが多くて当たり前です。
   ところが、そんな私のホームページが研究者の批判対象になりました。世の中、変わったものです。国会図書館の塚本孝氏は、島根県竹島問題研究会の最終報告書に下記のように書いているようです。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   近年、新たな米国の秘密外交文書が見つかったとし、米国がその後態度を変えて韓国領であることを認めたというような主張が、インターネット上で行われている(2)。
先に平成17年9月27日の第3回竹島問題研究会で報告した際こはこのことについて特に触れなかったが、インターネットは今や出版の新たな形態として大きな力を得ているので、事実関係の正確な理解に資するため、ここで、以前の記事(及び研究会の報告)で紹介しなかった若干の米国外交記録を追加して紹介しておきたい。

(駐日米国大使館の1952年10月3日付け報告)
  米国の態度の変更としてインターネット上に紹介されている文書は、駐日米国大使館のステイーヴス(Joh M.Steeves)一等書記官が・本国(国務省)へ送った「リアンクール岩に韓国人(Koreans on Liancourt Rocks)」と題する1952年10月3日付け報告である。
  当時、竹島が駐留米軍の射爆場として使用されていたことを在韓米海軍当局が知らなかったため、「学術調査隊」を鬱陵島及び独島に派遣したいとの韓国政府の申し出を同当局が許可した結果、空爆に遭遇した(より正確には、独島に出漁していた鬱陸島漁民が米軍機の爆弾投下に遭遇し、洞窟に逃れて事なきを得た旨の報告を、学術調査隊の長が帰国後に行った)という事件があり、この事件を1952年9月・21日付けの韓国紙『東亜日報』が報じ、それをきっかけとして駐日米大使館から国務省へ報告が送られた。
  ・・・・
(2)半月城通信 No.111(2005.6.1 目次12)http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.822
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この塚本論文にはいずれ反論したいと思います。

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:29 投稿番号: [15610 / 18519]
   これらの史料を見ても、「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はないようです。後年の『竹嶋雑誌』には、享保年間(1716-35)に浜田の漁夫がしばしば竹島へ渡海したとの記事があるので、そのあたりから情報を得たのかも知れません。
   いずれにしても、1837(天保8)年の渡海禁止以降は竹島(欝陵島)への密航もほとんど途絶えたでしょうし、ましてや紀行など証拠になるような資料は残さなかったでしょうから、参考になるような史料に乏しく、『大日本史』の「隠岐國四郡」記述は天保以前に骨格が定まったと見られます。

   ところで、幕府は天保8年の竹島渡海禁止令で竹島(欝陵島)を下記のように朝鮮領と判断しましたが、『大日本史』がそれにふれないのは大きな疑問です。禁止令は全国規模の布告だったので、水戸藩も知っていたでしょうし、さらに、この布告の経緯について書かれた書物は『天保雑記』など多数ありました。また江戸市中でも話題になり、『甲子(かっし)夜話』にも書かれました。
   それにもかかわらず『大日本史』で竹島を日本領としたのは、天保以後の史料をまったく見直さかったか、あるいは Am_I_AHO_1stさんが示唆したように天保の史実を「隠蔽」したのかも知れません。
   天保の渡海禁止令ですが、これを受けて、たとえば加賀藩では次のような「ふれ書」(口語訳)が「郡方御觸」として記録されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。
  すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
  右の趣御料は、ご代官私領は領主・地頭より浦方の村や町など洩らさず触れて知らせるべきである。また、触書の趣旨は立て札にして高札場などに懸け置くよう申しつける。
  (天保8年)2月
右の通り、触れられるべきである(注3)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   上のふれ書で注目されるのは、下記の3点です。
(1).元禄期に竹島(欝陵島)を朝鮮へ渡した。
(2).竹島(欝陵島)のみならず、なるべく遠い沖へ出てはならない。
(3).元禄時代とは違って、禁止令は全国への布令であった。

   (2)の「遠い沖」の中には、隠岐から40里(160km)とも60里ともされる松島(竹島=独島)が入るのはいうまでもありません。結局、幕府は竹島および松島への渡海を実質的に禁止したのでした。元禄時代、幕府は竹島・松島を日本領ではないと確認していただけに当然の措置でした。

(注1)http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
(注2)北〓通〓、きたもとつうあん
  「もと」は「クニガマエ」に元、「あん」は「葬」の死を合に置換。
(注3)お触れの原文、(竹島=独島論争)
  (引用は「郡方御触 14」『加賀藩農政経済史料』第2期13回、1966)
  http://www.kr-jp.net/edo/tenpou8hure.pdf
一 今度 松平周防守元領分 石州濱田松原浦ニ罷在候 無宿八右衛門 竹嶋江渡海いたし候一件 吟味之上 右八右衛門其外 夫々厳科ニ被行候 右嶋往古ハ 伯州米子之者共 渡海魚漁等いたし候得共 元禄之度 朝鮮國江御渡ニ相成候以来 渡海停止仰付候場処ニ有之
  都而異國渡海之義者重キ御製禁ニ候条 向後右嶋之義も同様ニ相心得 渡海いたし間敷候 勿論國々之廻船等 海上ニおゐて 異國船不出合様 乗筋等心かけ可申旨 先年も相觸候通り弥相守以来者可成たけ遠沖乗不致様 乗廻り可申候
  右之趣御料者御代官私領者 領主地頭より浦方村町共 不洩様可觸知候 尤觸書之趣 板札ニ認 高札塲等ニ懸置可申者也
二月
右之通可被相觸候

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/17 22:28 投稿番号: [15609 / 18519]
半月城です。

   Re:15602,Am_I_AHO_1stさん
>『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。

   たしかに私は<竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』>でそのように書いています(注1)。ただ、赤水の原稿が不採用になったといっても、かれの草稿や、かれが集めた資料は同じ水戸藩の粟田寛によって『大日本史』を書く際に参考にされたでしょうから、赤水の認識が色濃く反映していたと見るべきです。
   『大日本史』は、竹島=独島論争においては部外者の立場なので、さして重要な資料ではないのですが、やはり下記の「隠岐国4郡」の記述は世相を反映した記事として気になります。

  別に松島、竹島があり、これ(隠岐国)に属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。

   この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用された史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
   一方、『大日本史』の「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はどこから来たのでしょうか?   これは『大日本史』の認識はいつ頃生まれたのかを知る手がかりになるかも知れません。これまで私は江戸時代の史料をきちんと整理してこなかったので、この際、竹島・松島関係の主な史料にあたって、再度『大日本史』を考えたいと思います。

   さて、江戸時代の主な史料は下記のとおりでしょうか。

1667(寛文7)年、斉藤豊宣『隠州視聴合紀』
1696(元禄9)年、(幕府の竹島渡海禁止令、1回目)
1742(寛保2)年、松岡布政『伯耆民諺記』つづいて『伯耆民談記』
1751−63(宝暦)年、北〓通〓『竹島圖説』、因人某に伝記するを編集(注2)
           米子と竹島間160里、福浦と松島間60里、竹島と松島間40里
1779(安永8)年、長久保赤水「日本輿地路程全図」
1795(寛政7)年、安部恭庵『因幡志』
1801(享和元)年、矢田高当『長生竹島記』、竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞
           隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、松島「本朝西海のはて」
1823(文政6)年、大西教保『隠岐古記集』、(1)を底本に隠岐の漁夫の実見談など
           隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里
1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』
           高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
1828(文政11)年、岡嶋正義『竹嶋考』
1837(天保8)年、(幕府の竹島渡海禁止令、2回目)
1842(天保13)年、岡嶋正義『因府年表』つづいて『因府歴年大雑集』
1830 -43(天保)年、『天保雑記十八』、竹島にて異国人と交易の記事
          『竹嶋渡海一件記 全』、竹島事件の供述調書の抄録
1854(安政元)年、松浦武四郎『竹嶋雑誌』
1868(慶応4)年、大谷勝廣『竹島渡海由来記抜書控』

年代が特定できないか、多岐にわたる資料
『朝鮮竹嶋渡航始末記 全』
『大谷家由緒實記』
『朝鮮通交大紀』
『竹島紀事』
『通航一覧』
池田家文書他
松浦静山『甲子夜話 続編三』
(つづく)

今週日曜日のサンプロを見て下さい

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/06/14 21:22 投稿番号: [15608 / 18519]
郵政民営化の特集があります。
私の専門分野です。
http://www.tanaka-kunitaka.net/post/

あと、竹島の重要資料は下記のサイトに自分用に作成しました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1834648&tid=cddegldbja4rf6bba1a49a4k&sid=1834648&mid=1
上記サイトは永久保存版ではないので、ヤバイ資料やシリーズ「竹島の車窓から」などを掲載します。

画像加工をして下さい JAPON 1873

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/06/14 20:43 投稿番号: [15607 / 18519]
先日は画像を加工して頂き、ありがとう御座います。今日は第三段です。

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/149-1.JPG
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/149-2.JPG

大きさはこのままで、上と下の図を一つにくっ付けて下さい。
よろしくお願いします。

Re:Re: Re:江戸時代の地図の彩色3

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/13 19:41 投稿番号: [15606 / 18519]
>   『獨島韓国領派』、『竹島日本領派』、〜派といったものに興味はありませんので、悪しからず。

なんでもかんでも韓国領、なんでもかんでも日本領、と考える人間は確かに存在するわけで、ご自身がそうではないとお考えならばそんなにむきになる必要はないと思いますが、お気に障ったのでしたら謝ります。ただ実りのある議論ができないのは残念です。

>    かつて崔書勉先生も功名に走らず真摯な態度で研究せよと述べておられますが

  大変素晴らしい言葉です。ただし私ならば「態度で」と「研究せよ」の間に「真実を」の三文字を加えます。
  それから私は正体を明かさずに議論に参加しているわけですから、決して功名に走っているわけではありません。私は竹島研究会から竹島饅頭の一つも受け取ったことはないし、半月城氏のように印税が入ってくるわけではありません。そこのところをお忘れなきように。

Re: Re:江戸時代の地図の彩色3

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/13 13:45 投稿番号: [15605 / 18519]
>   独島韓国領派の論者は、竹島編入以前の明治時代には日本人は竹島松島は韓国領と認識していたと主張しているわけで、『大日本史』の隠岐の記述が成立当時の認識を反映しているとなると困ったことになりますね。

  『獨島韓国領派』、『竹島日本領派』、〜派といったものに興味はありませんので、悪しからず。
  かつて崔書勉先生も功名に走らず真摯な態度で研究せよと述べておられますが、誰が困るとか、へちまとか、そう云う下らないことには係わるつもりはありませんので、そちらさまで勝手になさって下さいね。
  よろしく。

Re:下條正男批判、江戸時代の地図の彩色

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/12 20:30 投稿番号: [15604 / 18519]
  いくつか質問させていただきます。半月城さんのhpには以下の記述がありますね。

   『大日本史』は、1823年以前の「竹島渡海事業」がたけなわのころ、つまり松島、竹島が日本領と思われていたころの古記や紀行を元にしたのかもしれません。そうでなければ、あるいは『大日本史』は水戸藩の歴史書にしかすぎず、幕府史料を入手できず、事情を知悉できなかったためかもしれません。そうであれば「不待智者而知也」は当然です。

    于山国の歴史、『大日本史』1
    http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.650

これは竹島一件以前の領有意識が『大日本史』の記述に反映しているとしか読めないわけですが、今回の投稿には、

    無人島の竹島(欝陵島)は宝の島だったようで、日本と朝鮮の漁民が朝鮮政府の捜討官の目をかいくぐって竹島(欝陵島)へ密航し、両者がせめぎあっていたようです。そうした密航者の竹島・松島紀行が伝わり、水戸藩による『大日本史』で両島は隠岐国の所属と認識されるようになったようです。

とあります。これは竹島一件以後の領有意識が『大日本史』の記述に反映している、という主張ですよね。どうも半月城さん自らの論説を修正されたようですが、どういう事情があって修正されたのか教えてください。

  あと、ちょっと前の投稿には、
  
    なお、池内氏自身 2005年まで著者を斉藤豊仙としていましたが、それを修正した形になりました。このように、学者は自らの論説を修正するときはその理由を明らかにするのが学者なりの「作法」といえます。下條正男氏も見習ってほしいものです。

とありますが、半月城さんが自らの論説を修正するときにその理由を明らかにしなかったのはなぜでしょうか?

  ついでに「松島、竹島が日本領と思われていたころの古記や紀行」、「そうした密航者の竹島・松島紀行」とは具体的にどのような文献を指しているのか教えてください。

  最後に私は『隠岐古記集』を改めて読み直してみましたが、「今は朝鮮人来て住すと言ふ」の記述があります。ここから考えると、例えば「『隠岐古記(集?)』は竹島松島は日本領と認識していたが、これは竹島一件以後の日本人の活動が反映されたものである」といったような主張をするのは難しいような気がします。この私の推論について半月城さんはどのようにお考えでしょうか?

『大日本史』は領有権論争にはあまり影響がなさそうな資料ですが、半月城さんがどのような姿勢で竹島=独島論争に臨んでいらっしゃるのか理解することは大変有意義なことだと思います。よろしくお願いします。

Re: Re:江戸時代の地図の彩色3

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/12 19:08 投稿番号: [15603 / 18519]
>   『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。

  独島韓国領派の論者は、竹島編入以前の明治時代には日本人は竹島松島は韓国領と認識していたと主張しているわけで、『大日本史』の隠岐の記述が成立当時の認識を反映しているとなると困ったことになりますね。

>   確証はありませんが、隣国を積極的に侵略しようとする明治の雰囲気もあったでしょうし、知りつつ隠蔽した可能性もゼロではありません。

  「可能性もゼロではありません」とはいろんな意味で的確な表現です。まあ歴史を歪曲しようとする人間が「すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える」などと真っ正直なことを書くとは到底思えません。

Re: 下條正男批判、江戸時代の地図の彩色3

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/11 13:54 投稿番号: [15602 / 18519]
  『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘れですか。
  ですから、天保8年以前に完成された原稿による可能性は薄いと思いますし、当時の日本国内に広く蔓延っていた鬱陵島・獨島(竹島・松島)を一括して隠岐の範囲に含むとする俗信を、19世紀に表された紀行文などを引く形で記したと考えたわけです。
  天保6年生まれの栗田が浜田藩の密貿易事件を知らなかったとしても不思議はないですが、一方で、確証はありませんが、隣国を積極的に侵略しようとする明治の雰囲気もあったでしょうし、知りつつ隠蔽した可能性もゼロではありません。

下條正男批判、江戸時代の地図の彩色3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 22:01 投稿番号: [15601 / 18519]
   分類Bの無彩色の地図には赤水の「日本輿地路程全図」が含まれるのですが、池内説によれば、竹島・松島を記載しても無彩色に彩色したのは18世紀前半とのことなので、すでに長久保赤水以前にそのような地図が存在していたことになります。赤水はみずから実地検証をしたわけではないので、それは当然のことです。
   つぎに、分類Cの彩色された地図には、AM_I_AHOさんの言う「日本輿地路程全図」の劣化コピーなどが含まれるのですが、これは長久保赤水の晩年にはすでに始まっていたようです。それは竹島(欝陵島)へ密航して密漁などをする輩が後を絶たなかった史実を反映したようです。そうした密航の事情を内藤正中氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   日本からも、幕府の渡航禁止令が出されたにもかかわらず、渡航する者が跡を絶たなかった如くで、『朝鮮王朝実録』のなかに「倭船がしばしば漁採することは真に嘆かわしい」という1710年(宝永7)の関係記事を見ることができる。日本側の資料のなかでも幕府の『通航一覧』に次のような記事が出ている。
  「むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚た大にしてよき竹也と云ふ、近来その島へ渡す時は、朝鮮人多く来て、此方の船を見れば鳥銃を打て船を近づけずと云ふ、この島果して日本の島なれとも、遂に朝鮮に取られたり」(注8)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   無人島の竹島(欝陵島)は宝の島だったようで、日本と朝鮮の漁民が朝鮮政府の捜討官の目をかいくぐって竹島(欝陵島)へ密航し、両者がせめぎあっていたようです。そうした密航者の竹島・松島紀行が伝わり、水戸藩による『大日本史』で両島は隠岐国の所属と認識されるようになったようです。したがって、同書が公式記録でそれが確認できないのは当然です。

   しかも、『大日本史』は天保8年の幕府による竹島(欝陵島)渡海禁止令すら知らなかったようです。幕府は、浜田藩の今津屋(俗称、会津屋)八右衛門が竹島(欝陵島)で行なっていた密貿易を摘発し、改めて「異国航海之儀は重き御制禁に候条」を全国に布達しました。
   その中で竹島(欝陵島)については「元禄之度、朝鮮国へ御渡しに相成候以来、航海停止被仰出候場所に有之」と渡海禁止を述べたのでした。この事件は江戸市中でも話題になるほど有名だったのですが、『大日本史』がその事実を知らないとなると、同書の竹島・松島関連の「隠岐國四郡」条は天保8年以前に原稿が完成していたのかも知れません。
   ま、『大日本史』は幕府や竹島・松島関連の国家機構に無関係な史料であるだけに、その内容がどうあれ、領有権論争にはあまり影響がなさそうです。

  『大日本史』が事情をよく知らないまま、竹島・松島を隠岐国に含めても、江戸時代の隠岐国図に竹島・松島が実際に描かれることはなかったようで、池内敏氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   江戸時代に描かれた四点の隠岐国図に竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)が描かれることはないが、いずれにも島後・福浦に竹島(鬱陵島)にかかわるほぼ同一の記述【此湊船懸吉、竹島江之渡海此湊ニ而 天気見合候】が見える(注7)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   これらの隠岐国図は、竹島・松島をよく知る人によって描かれたようですが、竹島・松島を含めなかったのは妥当な見識と思われます。

(注1)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/hori1987.pdf
(注2)長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」『歴史地理学』127号,1984,P33
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P174
(注4)神戸市博物館『古地図セレクション』(第2版)神戸市体育協会,2000,P37
(注5)http://www2.library.tohoku.ac.jp/kano/kochizu/CJA08342001/CJA08342001-6.html
(注6)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』2005,P164
(注7)池内敏「竹島考ー近世日本の西北境界」講演レジメ(2007.2.24)
(注8)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P123

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

下條正男批判、江戸時代の地図の彩色2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 21:42 投稿番号: [15600 / 18519]
   下條氏が見たという「日本輿地路程全図」は引用先が不明なので、彩色に関して下條氏の反論が有効かどうか、さらなる検証が必要です。初版本でも多少の異同があるので、それらを総合的に検証する必要があります。たまに、私的な一枚の地図だけをとりあげて、領有権の決定的資料と喧伝する人が日韓両国にいますが、それに踊らされないよう心がけたいものです。
   ともかく、下條氏は神戸図書館の初版本を見ていないようですが、先行研究に反論するからには文献批判を綿密に行ない、慎重な態度で臨むべきでした。そうした彼は、堀氏へのさらなる反論をこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描かれた鬱陵島(図では竹島と表記)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むがごとし」という付記があることである。この付記は齊藤豊仙(ママ)の『隠州視聴合記』からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたことは明らかである(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   下條氏は『隠州視聴合記』において斉藤豊宣が竹島・松島を日本領に解釈していると断定していますが、これは我田引水のようです。池内敏氏の詳細な研究によれば「この史料(『隠州視聴合記』)をもって、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていたとするのは妥当(注6)」とされるからです。この池内氏の論文に対し、下條氏からの反論はまだないようです。
   長久保赤水は下條氏も認めるように『隠州視聴合記』を踏襲しているので、当然、赤水も斉藤豊宣同様に竹島・松島を日本の版図外と認識していたということになり、下條説は成り立ちません。
   下條氏の我田引水はこれだけにとどまらないようです。堀説への反論をこう書き加えました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  この例から言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたかどうかは、彩色の有無だけでは判断ができない、ということである。
  そのことは、一八五二(嘉永五)年、鈴木驥園が長久保赤水の『日本輿地路程全図』を改訂して刊行した『増訂 大日本国郡 輿地路程全図』からも裏づけられる。そこでは竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色い彩色がほどこされているからである(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この文に下條氏特有の論法を見る気がします。長久保赤水の竹島・松島認識を問題にしているのに、なぜ長久保赤水が亡くなって 50年後の、しかも他人の地図をわざわざ持ちだすのでしょうか?   私には単なる論点ずらしにしか受け取れません。しかも、鈴木驥園の地図は私的なものなので、資料価値に乏しいことはいうまでもありません。
   下條氏は今年3月まで竹島問題研究会の座長を務めましたが、そのような人だからこそ島根県によって選ばれたのかも知れません。最初から「竹島は日本領」という結論ありきの会では、島根大学の内藤先生のような方が選ばれないのは当然と思われます。

   余談はさておいて本論にもどりますが、下條氏が例示した地図のように、竹島・松島を一対にして隠岐と同色に彩色される地図が出現するようになったのはいつごろからでしょうか?   この変遷を池内敏氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   江戸時代の日本図における竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)記載や彩色の有無に関する年代的な特徴とは、「A.記載無し -- -> B.記載あり無彩色 -- -> C.記載あり彩色」とする変化。AからBへの変化は概ね18世紀前半に、BからCへの変化は18世紀末(注7)。
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下條正男批判、江戸時代の地図の彩色1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/10 21:38 投稿番号: [15599 / 18519]
半月城です。

   Re:15592
>   それでも『大日本史』なぞは二島は隠岐の一部と書きながらも、慎重を期して、どういう経緯でそうなったか分からないと注記したわけですよ。
>   つまり、当時の人も、なぜ急に二島が隠岐の一部とされるようになったのか、その原因が分かっていないわけですから、「日本輿地路程全圖」の変質も原因不明のミスプリントであると結論せざるを得ないでしょう。

   まず、江戸時代の地図において竹島=独島がどのように彩色されているのか、先人の研究を確認したいと思います。この問題の草分けである堀和生氏は崔書勉説を踏襲してこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「竹島一件」以後の幕府の領土意識を示す資料として、その官撰地図があげられる。日本の官撰地図のなかで、松島=独島を最初に画いたのは、長久保赤水の「日本輿地路程全図」(1773年)である。この地図は経緯線を使用した最初の地図でもあった。長久保は、更に木版彩色刷りの「日本輿地路程全図」(1778年)を刊行した。
   この地図で特に注目されるのは、日本本土とその付属地にはすべて彩色をほどこしているが、竹島と松島は、朝鮮半島とともに彩色していないことである。つまり、「竹島一件」を踏まえた後の官撰地図は、竹島、松島をともに日本領として取扱っていないのである。
   また、古地図の段階を完全に脱皮したといわれる官撰地図、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(1821年)には、竹島、松島ともに含まれていないのである。つまり、一七世紀半ばにはやや曖昧であったが、元禄期の朝鮮政府との交渉を経た後には、幕府は松島=独島の存在を認知していながら、それを日本領だとは見ていなかったのである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   堀和生氏は「日本輿地路程全図」の初版を1778年としていますが、長久保赤水の子孫によれば1779年とのことです(注2)。それはさておき、この堀説に異議を唱えたのが下條正男氏であり、こう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ところが、実際に『日本輿地路程全図』を見ると、崔書勉氏の主張には根拠がないことが分かる。日本の付属地で彩色がほどこされていないのは、鬱陵島や竹島に限らないからである。鬱陵島や竹島と同様、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島などにも彩色がほどこされていない。しかも沖永良部島には、「是より南百二十里、琉球国」とする付記があり、長久保赤水が沖永良部島を日本領として認識していることが分かる(注3)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   下條氏は「日本輿地路程全図」において竹島=独島が朝鮮と同様に無彩色とされたことを認めたうえで、沖永良部島は日本領にもかかわらず無彩色なので、崔書勉・堀説は成り立たないと主張しました。
   しかし、沖永良部島が初版本で本当に無彩色なのかどうかは検証を要します。「日本輿地路程全図」初版本の写真が神戸市立図書館から出版されましたが、そこでは沖永良部島は大隅半島と同色に彩色されているようです(注4)。
   ただ、東北大学の狩野文庫にある「日本輿地路程全図」(初版)ですが、これは傷みや変色がはげしく、インターネットで見た限りでは、九州南部の竹島、黒シマ、永良部が薩摩半島と同色かどうか断定は微妙です(注5)。ちなみに、それらの島は後世の「日本輿地路程全図」では航路が大隅半島ではなく、薩摩半島と結ばれました。
(つづく)

画像加工をして下さい 山陰新聞記事

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/06/09 23:00 投稿番号: [15598 / 18519]
先日は画像を加工して頂き、ありがとう御座います。今日は第二段です。

下記はpdf形式の資料ですが、これをjpgがgifにして下さい。資料の大きさはpdf形式で150%の状態でお願いします。文字が読めるように150%です。

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/03.pdf

よろしくお願いします。

Re: Re×4: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: quo_vadis256 投稿日時: 2007/06/09 22:47 投稿番号: [15597 / 18519]
自分からAHOだとか
愚生だとか   言ってるものは
構わないほうが   いいのジャマイカ

Re×4: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/08 22:25 投稿番号: [15596 / 18519]
>   仰りたいことは解りますが、厳密にそこだけを見てしまうと、『大日本史』の著者は「竹島一件」を知らなかったとも云えてしまうわけです。

  AHOさんが 『大日本史』の著者は「竹島一件」を知らなかった、つまりもし「竹島一件」を知っていたら竹島松島を日本領にはしなかったであろうが、知らなかったので竹島松島を日本領にしたのであって、『大日本史』の記述は「竹島一件」以後の認識を表したものではない、と主張しても私は一向に構いません。私はもともと「竹島一件」以後に日本人が竹島松島を日本領と認識していたことを主張したかったわけではなく、半月城氏の記述がいわゆるダブルバインド(相矛盾する二つのメッセージ受け取った者が   行動不能に追い込まれた状態・二重拘束)の状態であることを指摘したかったわけですから。
  「竹島記載の日本図屏風見つかる」の記事で、同じ作者の物なのに 日本図の竹島松島は無彩色で世界図のほうは鬱陵島とみられる島が日本と同じ色であるということは、無彩色であることが日本領ではないことを意味しているわけではない、と解釈できます。
  まあ「屏風」の記事が唐突に出てきたのは、AHOさんにとって運が悪かったとしか言いようがありませんね。

Re:Re: Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/08 19:50 投稿番号: [15595 / 18519]
>   これは『大日本史』が底本にした『隠岐古記』や『隠岐紀行』から竹島松島が隠岐の所属であることは読み取れたけれども、隠岐の所属になった経緯までは読み取れなかったのでこのような注記をつけたものと考えます。

  仰りたいことは解りますが、厳密にそこだけを見てしまうと、『大日本史』の著者は「竹島一件」を知らなかったとも云えてしまうわけです。
  勿論「日本輿地路程全圖」が唯一の原因でなかったことは"その原因の一つが「日本輿地路程全圖」の変質であった"と書いたとおり、解っていますが、当時の日本地図の定番と云うべき「日本輿地路程全圖」の影響力(それを参考にしたものも含めて)は『大日本史』の著者にも影響したと考えます。
  藪太郎さんも御指摘のように、19世紀以降の日本には鬱陵島・獨島(竹島・松島)の二島を一括して隠岐の一部とみる認識が確かに存在していたのです。
  「日本輿地路程全圖」については、いつか、順を追って見直してみましょう。
  或いは単なるミスプリントではなく、何らかの根拠のあることなのかもしれませんが、当面は、オリジナルが書き換わってしまったことを重視して、原因不明のミスプリントと考えても差し支えないと考えます。

  大分以前に書きましたが、民間の関与があったのならば、たとえ現在の領有権に影響しないとしても一定の考慮はされて然るべきとするのが愚生の一貫した考えです。
  多分、この考えは変わらないでしょう。

Re:Re: Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/07 22:05 投稿番号: [15594 / 18519]
>   それでも『大日本史』なぞは二島は隠岐の一部と書きながらも、慎重を期して、どういう経緯でそうなったか分からないと注記したわけですよ。

  これは『大日本史』が底本にした『隠岐古記』や『隠岐紀行』から竹島松島が隠岐の所属であることは読み取れたけれども、隠岐の所属になった経緯までは読み取れなかったのでこのような注記をつけたものと考えます。
  『大日本史』はテレビの水戸黄門でイメージするように日本全国を行脚して情報を収集したわけではなく、薄暗い屋敷の中で膨大な資料と格闘しつつせこせこと書かれていたものであるので、資料に載っていないことまでは分からなかったんじゃあないでしょうか。決してお天道様の日の光の下で日がな一日働いている一般世間の人たちの認識が反映しているとは思えません。

  昨日投稿した 竹島問題研究会の舩杉氏の記述にも、

  (5)海運関係の絵図により、わが国では江戸時代中後期でも、松島は蝦夷地へ向かう北前船の目印として利用され、地理的に認識されていた。
  (多分下の地図だと思われる   大御国環海私図?)
  http://kago-ai-chan.net/uploader/img/naver6641.jpg

  とあります。竹島一件以後も竹島松島は日本人の経済活動のために積極的に活用されていたわけで、認識があやふやだったわけではありません。

  そもそもAHO さんが変質した=ミスプリントである(これまでの地図と異なり竹島松島が日本領として彩色された)と主張している地図は1846年に成立したものであるので、1823年に成立した『隠岐古記』にその認識が反映されているはずがありません。さっき投稿した「竹島記載の日本図屏風見つかる」の記事にある「鬱陵島とみられる島が日本領として彩色された世界図を模写した屏風 」の成立が1836−41年なのも変ですよね。

竹島記載の日本図屏風見つかる

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/07 20:00 投稿番号: [15593 / 18519]
   竹島記載の日本図屏風見つかる

  江戸時代の竹島(韓国名・独島)を表す「松島」と現在の韓国・鬱陵島を示す「竹嶋」を描いた日本図、鬱陵島を日本領と同じ赤色で表記した世界図の二架の屏風(びょうぶ)が、松江市内で見つかった。当時は両島を日本領と認識していたことを示す資料とみられる。

  屏風は、同市天神町の仏壇店・荒木文之助商店の蔵に保管されていた。大きさはともに高さ1・7メートル、幅3・8メートル。筆遣いが似ており、江戸時代後期の1836−41年に日本図と世界図を模写して作製されたとみられる。

  日本図は表題の記載はないが、緯度の表記から水戸藩の地理学者・長久保赤水が1779年に製作した「改正日本輿地路程全図」を基に加筆・修正したとみられ、隠岐島の北西に「松島」「竹嶋」が描かれている。作製者は不明。

  世界図は、イエズス会の宣教師マテオ・リッチが1602年に刊行した「坤輿(こんよ)万国全図」の記載がある。原本には「松島」「竹嶋」の記載はないが、屏風には隠岐島の北西に鬱陵島とみられる島が日本と同じ赤色で彩色されていた。

  島根県の杉原隆・竹島研究顧問は「坤輿万国全図を模写した屏風は全国的に貴重」と評価した上で、「当時の松江では、現在の竹島と鬱陵島を地図で知っており、日本領と認識していたことがうかがえる」と分析した。
  
   http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=406738006&from=top

ねらっていたかのごとくタイミングのよい記事だ。

Re:Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/07 13:30 投稿番号: [15592 / 18519]
>まず始めにAHOさんに訴えたいのは私自身は『隠岐古記』や『大日本史』が「幕府による竹島(鬱陵島)の版図外確認を知らなかった 」とも「竹島一件以前の領土認識に基づいているはず 」だとも思っていないということです。

  了解しました。

>   AHOさんが竹島一件に結びつけるまでもなく 竹島・松島が日本領という認識があったと認めていらしゃるのであればつっこみをいれる必要はないわけですが、あえて問えば、竹島一件以前の領土認識ではないのに、「19世紀以降の日本で竹島・松島を一括して日本領ではないかとする認識が広く蔓延していた 」理由について、「日本輿地路程全圖」の変質なるものが竹島・松島が日本領という認識の反映ではなくミスプリントが原因であるというのは単なるAHOさんの希望的観測にすぎないのではないでしょうか?

  正確には「竹島一件」以降、具体的には19世紀以降、世間一般にはそういう認識も存在していたわけで、当時の書物が二島を隠岐の中に含めても不思議はなく、むしろ当然なんですね。
  それでも『大日本史』なぞは二島は隠岐の一部と書きながらも、慎重を期して、どういう経緯でそうなったか分からないと注記したわけですよ。
  つまり、当時の人も、なぜ急に二島が隠岐の一部とされるようになったのか、その原因が分かっていないわけですから、「日本輿地路程全圖」の変質も原因不明のミスプリントであると結論せざるを得ないでしょう。

竹島問題研究会が最終報告

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/07 02:27 投稿番号: [15591 / 18519]
談論風発 : 竹島問題研究会が最終報告   韓国側の主張には多くの誤り

島根大法文学部准教授   舩杉力修

  島根県の竹島問題研究会が先日、最終報告書を知事へ提出した。二年前、県から研究会委員の就任依頼があった際、当初は断るつもりでいた。しかし委員の一人に相談したところ「県の最重要課題について、島根大が協力しないこととなるが、その覚悟はあるのか」と説得され、専門外であったが引き受けることにした。
竹島問題で活躍された外務省の川上健三氏は京都大で歴史地理学を学ばれ、一九六六年に『竹島の歴史地理学的研究』を刊行した。川上氏は文献資料だけでなく、日本、韓国、欧米の地図を歴史地理学の視点で分析されたことから、「日本海」呼称問題のように、地理学の視点から地図をすべて分析すれば、竹島問題の解決の一助になるのではと思い、引き受けることとした。
二年間はまさに悪戦苦闘の連続であった。特に、内外から全く根拠もないひぼう中傷を受けたことが精神的にこたえた。その結果体調を崩し、昨年秋から大学を休むこととなってしまい、現在も休養中である。同僚や学生に迷惑をかけているなかではあるが、研究者として二年間の取り組みを直接お伝えする必要があると思い、筆をとることとした。
委員就任後に求められたことは、これまでの竹島問題研究についての論点整理であった。しかし人文社会科学分野では、従来の研究のみでは、問題の本質を理解することは難しい。竹島問題に関する原史料にあたり、調査、整理、分析し、ひいては竹島に関する資料集を刊行することによって、問題の本質を理解でき、日韓両国で冷静な議論が初めて可能となる。そのためには二年間では難しく、最低でも五年から十年はかかると私を含めた複数の委員は指摘した。その結果、史料調査が認められ、県民の皆さまからも多くの貴重な史料の提供を受けた。以下、昨年秋までの時点であるが、二年間の成果について簡単に述べたい。これは一委員の個人的見解であり、研究会としての見解ではない。

    以下リンク先を参照してください。

    http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=406702035


内外から全く根拠もないひぼう中傷を受けたことが精神的にこたえた。その結果体調を崩し、昨年秋から大学を休むこととなってしまい、現在も休養中である。

ひどすぎ。。。

竹島は・・・

投稿者: hanasakababaa7 投稿日時: 2007/06/06 22:59 投稿番号: [15590 / 18519]
日本の島根県であります。
それ以外の事実はありません。
防衛省がどのようにするかが気にかかります。
外務省は機能していませんので・・いつもの事ながら

Re:Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/06 22:43 投稿番号: [15589 / 18519]
まず始めにAHOさんに訴えたいのは私自身は『隠岐古記』や『大日本史』が「幕府による竹島(鬱陵島)の版図外確認を知らなかった 」とも「竹島一件以前の領土認識に基づいているはず 」だとも思っていないということです。はっきりいって文面からそこまではわからないと思います。   半月城さんの著書「竹島=独島論争」の該当部分をもっと長く引用しみましょう。

   日本政府の解釈が無理であることは『隠州視聴合紀』を定本にして増補した『隠岐国古記』の記述をみても明らかです。同書は「日本の乾地 此国を以て限りとする」と書き、竹島・松島でなく、隠岐国を日本の乾の限りとしました。同様の指摘は名古屋大学の池内敏教授により『隠州視聴合紀』の徹底的な分析をつうじて綿密に論証されました。
   ところで『隠岐古記』や『大日本史』は竹島、松島を日本の領土と考えましたが、これは幕府による竹島(鬱陵島)の版図外確認を知らなかったとみられます。後に詳述しますが、幕府は対馬藩をつうじて朝鮮政府との間で「竹島一件 」とよばれる竹島の領有権交渉を行った結果、一六九八年に竹島を領土外であると確認したのでした。このとき、幕府は松島(竹島=独島)も暗に領土外と判断したとみられるだけに「竹島一件」は今日にもつながる重大事です。(引用終わり)

  『隠岐国古記』が竹島・松島でなく、隠岐国を日本の乾の限りとしたのに、「日本の乾地 此国を以て限りとする」と書いてある『隠岐古記(集?)』が竹島、松島を日本の領土と考えた理由はよくわかりませんが、それはともかくとして私は半月城さんの文章を読んで、彼は「竹島一件 」によって日本人には竹島・松島が日本領であるという認識が無くなったという物語をでっち上げるために、竹島一件以後に成立してなおかつ竹島、松島を日本の領土と考えた『隠岐古記』や『大日本史』については「幕府による竹島(鬱陵島)の版図外確認を知らなかった」と書いて竹島一件以前の認識であり竹島一件以後の認識ではないとごまかそうとしているのではないかと考えました。「日本輿地路程全圖」の竹島、松島に彩色が云々という引用もようするにそういうことでしょう。『隠岐古記』や『大日本史』の領土認識が竹島一件以前のものでも以後のものないならばいったいいつの認識なのかという話になるわけで、そのあたりを突いてみたわけです。まあこれは彼の弁を待ちましょう。
   AHOさんが竹島一件に結びつけるまでもなく 竹島・松島が日本領という認識があったと認めていらしゃるのであればつっこみをいれる必要はないわけですが、あえて問えば、竹島一件以前の領土認識ではないのに、「19世紀以降の日本で竹島・松島を一括して日本領ではないかとする認識が広く蔓延していた 」理由について、「日本輿地路程全圖」の変質なるものが竹島・松島が日本領という認識の反映ではなくミスプリントが原因であるというのは単なるAHOさんの希望的観測にすぎないのではないでしょうか?

Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2007/06/06 12:45 投稿番号: [15587 / 18519]
>   ところで『隠岐古記』や『大日本史』は竹島、松島を日本の領土と考えましたが、これは幕府による竹島(鬱陵島)の版図外確認を知らなかったとみられます。
>
>   とお書きになっています。『隠岐古記』も『大日本史』も竹島一件の後に成立した文書ですが、どちらの著者も竹島一件のことを知らなかったとすれば竹島、松島の領土認識は竹島一件以前のものであるはずですね。

  ここで挙げられた両書とも19世紀のものですね。
  何を根拠にこれらの図書が竹島一件以前の領土認識に基づいているはずだと結論づけられるのか、もう少し慎重な評価が必要でしょう。
  現に、19世紀以降の日本では、鬱陵島・獨島(竹島・松島)を一括して日本領ではないかとする認識が広く蔓延していました。
  その原因の一つが「日本輿地路程全圖」の変質であったことが知られています。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14969

  太政官指令以前の明治の初め頃には、文部省の地理教科書にさえも松島・竹島を一括して隠岐の領域に含めたものもあったくらいですから、民間の書籍である『大日本史』が同様の間違いを犯したとしても何ら不思議なことではありませんね。
  竹島一件に結びつけるまでもなく、当時の世情として、よくある話の類でしょうね。

Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/05 02:16 投稿番号: [15586 / 18519]
  私も「此州」は竹島、松島ではなく隠岐国だと考えます。実は私は始めて半月城さんのhpを見たときに「此州」を竹島、松島と解釈することがどうしてもできなくて、竹島問題について詳しく調べ始めるまでの約二年間、日本政府の主張はでっちあげで、竹島は韓国領ではないかと考えていました。

  半月城さんは自らの著書「竹島=独島論争」の31ぺージに、

   ところで『隠岐古記』や『大日本史』は竹島、松島を日本の領土と考えましたが、これは幕府による竹島(鬱陵島)の版図外確認を知らなかったとみられます。

  とお書きになっています。『隠岐古記』も『大日本史』も竹島一件の後に成立した文書ですが、どちらの著者も竹島一件のことを知らなかったとすれば竹島、松島の領土認識は竹島一件以前のものであるはずですね。
これは半月城さんが「竹島一件以前にも日本人は竹島、松島を日本の領土とみなしていた」ことを認めたと受け取ってもよろしいでしょうか?
そもそも日本政府が隠州視聴合記を持ち出したのは「竹島一件以前にも日本人は竹島、松島を日本の領土とみなしていた」ことを主張するためだったと思いますが。

  もうひとつ、「此州」について、

   この問題は、池内敏氏の研究がきっかけになり、内藤正中氏が自説を変更するにいたり、下條正男氏以外の存命中の学者は、日本の西北の限界を隠岐島とすることで意見が一致したようです。

  とありますが、「西北の限界を隠岐島とする」の部分は「西北の限界を隠岐国とする」の間違いではないでしょうか?「隠岐島」だと竹島、松島が日本の領土ではないことになりますが、内藤氏の主張は隠州視聴合記の著者が竹島、松島が隠岐国の一部であり日本の領土であると考えていた可能性を排除しているようには思えません。
半月城さんは池内氏が「竹島、松島は日本の領土ではない」と語っているのを直接耳にしたことがあるのでしょうか?池内氏から「そんなことは言ってない」などとクレームが来る心配はないのでしょうか?

  ついでに内藤正中氏が「日本輿地路程全図」について、「松島・竹島を外国領として彩色しているのである」「竹島(鬱陵島)の存在を認知していたことにはなっても、外国領と彩色されているものをもって、日本の領有権を確立していたとする根拠にならないことは明らかである。」
などと騙っているのもひどい話です。私の目には「日本輿地路程全図」の松島・竹島はいかなる色にも彩色しているようには見えません。韓国政府は于山島が竹島=独島であると主張していますが、張漢相の『蔚陵島事蹟』と朴昌錫の『鬱陵島圖形』とを考慮すれば、李朝の朝鮮人は竹島=独島と竹嶼とを別々の存在として認識した上で、竹嶼を于山島と呼んでいたことは明らかです。

Re: 最近の『隠州視聴合紀』研究2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/03 21:12 投稿番号: [15585 / 18519]
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   この(『隠州視聴合紀』の)記述は隠岐国についての位置関係を記したものであり、関連するかたちで西北にある竹島・松島に言及しているのである。というわけで末尾の「日本の乾地 以此州為限矣」の文言については、「此州」を隠岐国とみるか、鬱陵島(竹島一)みるかで意見が対立している。
   私は、幕府の特別許可を得て竹島領海事業を行なっていた時期であること、一八二三年の『隠岐古記集』で「今は朝鮮人来て住すと言ふ」の記述があることから、日本の西北境は竹島と考えると、二〇〇〇年刊行の拙著『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』のなかで記していた。
   しかし、最近の池内敏による詳細な検証(『大君外交と「武威」』参照)から、「此州」は隠岐国とみるべきであるとするのが正しいと思うに至った。ただし、隠岐国を日本の西北の限界であるとしても、竹島・松島が朝鮮国の島だということにはならない。この史料は、そのことについては何らの言及もしていないのであるから、領有権をめぐる論争に利用するのは誤っている。

   なお、一七七八(安永七)年に作成された長久保赤水の官許「日本輿地路程全図」のなかでは、竹島(鬱陵島)のところに「見高麗猶望雲州隠州」と記してある。これは明らかに『隠州視聴合紀』にある「見高麗如自雲州望隠岐」の記述を参照して記したものと思われる。しかもこの地図では、松島・竹島を外国領として彩色しているのである。この時期は幕府の竹島渡海禁止令によって、竹島が外国領であることが周知されていたためである。
   ところが外務省のホームページは、「日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた」といって、その例証として長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』をあげているが、その意図するところがわからない。竹島(鬱陵島)の存在を認知していたことにはなっても、外国領と彩色されているものをもって、日本の領有権を確立していたとする根拠にならないことは明らかである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   半世紀前、日本の限界とされた「此州」が、此島すなわち竹島(欝陵島)なのか、それとも隠州すなわち隠岐なのか、日韓間で外交論争になりました。この問題は、池内敏氏の研究がきっかけになり、内藤正中氏が自説を変更するにいたり、下條正男氏以外の存命中の学者は、日本の西北の限界を隠岐島とすることで意見が一致したようです。
   この問題に関する日韓論争は半世紀ぶりに決着がついたといえます。

(注1)池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会,2006,P398
(注2)内藤正中他『史的検証 竹島・独島』岩波書店,2007,P21

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

最近の『隠州視聴合紀』研究1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/06/03 21:10 投稿番号: [15584 / 18519]
   半月城です。
   『隠州視聴合紀』の著者を多くの人は斉藤豊仙としてきましたが、これは誤りのようです。実は、その親である斉藤豊宣が書いたとするのが正しいようで、池内敏氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   はじめ「斉藤豊宣」とされていたものが、川上健三以後は「斉藤豊仙」と表記するのが一般化していることがうかがえる。その一方で松浦康麿[1988]を受けてであろうか、島根県では「斉藤豊宣」とするのが一般的であった。斉藤豊宣と斉藤豊仙が親子であることは松浦康麿[1988]が初めて指摘したが、そのことと『隠州視聴合記』の著者との関係については、これまできちんと解明されてこなかった(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   なお、池内氏自身 2005年まで著者を斉藤豊仙としていましたが、それを修正した形になりました。このように、学者は自らの論説を修正するときはその理由を明らかにするのが学者なりの「作法」といえます。下條正男氏も見習ってほしいものです。
   この作法にしたがって、内藤正中氏も『隠州視聴合記』の解釈を変更しました。対象になったのは、国代記における日本の限界をめぐる解釈です。まずは、国代記の口語訳を記します。

国代記
   隠州は北海の海中にあるので隠岐島という。これより南は雲州美保関までは35里、東南は伯州赤崎浦まで40里、西南は石州温泉津まで58里、北から東は住むべき地がない。西北に一泊二日行くと松島がある。また一日ほどで竹島がある・・・
   この二島は無人の地である。高麗をみるに雲州より隠州を望むごとくである。しからば即ち日本の西北(乾地)は此州をもって限りとなす(注2)。

   内藤氏は、この文の最後に書かれた「此州」を「この島」と解釈する田川孝三説に賛成して、日本の西北の限界を竹島(欝陵島)としましたが、今回その説を改めてこう記しました。
(つづく)

Re: 実測日清韓軍用精図

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/06/02 23:45 投稿番号: [15583 / 18519]
詳細な地図データないかな。
検証シリーズに加えたい。
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/takeshima/eng/japan/map.html

Re: 実測日清韓軍用精図

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2007/06/02 12:34 投稿番号: [15582 / 18519]
こんにちは、
みなさん、いつも貴重な資料をありがとうございます。

実測っつうからには緯度経度の認識があるわけで、
地図を見比べてみれば、松島だろうが竹島だろうが、
そこある島はいま鬱陵島と呼ばれる島以外にないですね。

こういうのを見るたびに私は暗くなります。
自爆になるかもしれないと思わないところで、事実認識以前に認識方法そのものが異なってるとしか思えないからです。
白い物を見ても黒くしか見えない人と対話は成立しません。
この場合は灰色ぐらいに譲歩するとしても。

実測日清韓軍用精図

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/02 11:18 投稿番号: [15581 / 18519]
  驚くべき地図を発見しましたので紹介します。
  以下は東亜日報の2006年10月25日の記事です。

   1895年日本軍地図にも独島を韓国の地で表記

  鬱陵島と独島が韓国の国境線の中に含まれた 19世紀末日本軍用実測地図が公開された.世宗大保坂祐二教養学部教授が最近見つけた ‘実測日清韓軍用精図’は日本軍部が 10余年の間調査した内容を土台で民間である吉倉清次郎が1895年編集した地図.この地図は横約 105cm,縦約 75cmで緯度経度とともに朝鮮,清,日本とロシア一部が出ているし鬱陵島(竹島で表記)と独島(松島で表記)が朝鮮領海に位置している.保坂教授は “明らかに引かれた朝鮮国境線の中に独島の含まれた地図は今度初めて公開されたこと”と言いながら “日本が独島を島根県に編入させた 1905年以前の正確な地図が公開されて現在日本政府の主張が偽りなのを見せてくれている”と付け加えた.

   http://www.donga.com/fbin/output?n=200610250117

  保坂教授はこの地図の松島を現在の竹島=独島であると主張しています。しかしもしこれが事実なら地図の‘松島’と隠岐の島の中間に国境線がないとおかしいはずですが、私の目には鬱陵島と竹島=独島の中間の位置に国境線があるようにしか見えません。どう考えても地図の竹島は架空の島であるアルゴノート島であり松島は鬱陵島です。1905年の島根県編入以前にも竹島が日本領と見なされることがあったようです 。

Re: 画像加工をして下さい 竹島之書附

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/06/01 13:34 投稿番号: [15580 / 18519]
  画像加工の加工は大変手間のかかる作業なので、自分でやっていただきたいと思います。
pdf形式の資料をjpg画像にするには、pdfの資料をpcの画面に表示して、画面キャプチャーソフトを使って画面ごとjpg画像に変換して、不要な部分をトリミングするとよいでしょう。

  画面キャプチャーソフト
http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win/art/graphics/saver/
pcの画面より大きな資料は分割して画像にしてレイヤー合成機能のある グラフィックエディタソフトを使ってレイヤー合成するとよいでしょう。

  グラフィックエディタソフト
http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win/art/graphics/edit/
  PictBearがおすすめです。

ほかにも下のような方法があるようです。
http://q.hatena.ne.jp/1159202502

  ただ、pdf形式の資料は大変読みやすいので、わざわざ画像に変換せずにpdf形式のままアップロードしたほうがよいと思います。

画像加工をして下さい 竹島之書附

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/05/31 03:34 投稿番号: [15579 / 18519]
下記はpdf形式の資料ですが、これをjpgがgifにして下さい。資料の大きさはpdf形式で100%の状態でお願いします。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/04.pdf

Van Dykeの論文

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2007/05/29 12:43 投稿番号: [15578 / 18519]
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo1-cms1530.pdf
恐らくこれと、同じ主張であると思われる。
読めば、わかると思うが歴史史料の検証は、韓国側学者の寄せ集めが主体。
于山島が竹嶼である可能性は最初から切り捨て、于山島に人が済んでいる
という記録も切り捨て、安の証言を真実としている。
それより、国際法学者としてイタイのは判例において相手にもされていない
「歴史的権原」を主張していることです。

ちなみに、このVan Dykeは韓国が大恥をかいた2001年の日韓併合条約の合法
性に関する自称国際会議にも参加しており、「国際法はどうでもいい。償い
が必要だ」と主張された方です。

世界の碩学ら、韓国の独島領有権を主張

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2007/05/28 23:23 投稿番号: [15577 / 18519]
■世界の碩学ら、学術大会で「韓国の独島領有権認定を主張」

世界的な碩学たちが国際学術大会を通じて、韓国の独島領有権認定を主張する見解を表明するものと
見られ、注目を集めている。

仁荷大と北東アジア歴史財団は28日、ソウルのグランドヒルトンホテルで、世界の碩学たちを招待して
「独島問題の解法の模索」をテーマに国際学術大会を開催する。

学術大会には、米議会図書館のアジア専門家であるラリー・ニクシュ(Larry Niksch)氏と、米ハワイ大学
法学部のジョン・ヴァン・ダイク(Jon Van Dyke)教授、日本の愛知学院大学法学部の芹田健太郎(せりた・
けんたろう)教授が、それぞれ3セッションに分かれて主題発表を行なう。

第1セッションの発表者であるニクシュ氏は、「韓日関係の不和の原因としての韓日領土紛争」という論
文を通じて、韓国の独島政策の問題点を指摘し、その政策的な代案を提示する予定だ。<中略>

第2セッションではジョン・ヴァン・ダイク教授が発表者となり、「独島の主権に関する法的争点について
の研究」という論文を通じて、独島領有権問題の解決なくして周辺海洋境界区画設定の問題は解決で
きず、明確な海洋境界区画設定がなければ多様な紛争が持続的に発生する、との見通しを述べる。

ヴァン・ダイク教授は、韓国は独島に対する主権行使に関する歴史的証拠の面で日本より強いと評価し
たうえで、そうした歴史的評価に基づく韓国の主張が国際司法機関によって受け入れられるためには国
際法的な諸原則を説明する一層の努力が必要だ、と主張する。

ヴァン・ダイク教授はまた、現在韓国は独島紛争を国際司法裁判所に提訴することに対して非常に消極
的だが、国際司法裁判所は独島の韓国の領有権を認める可能性が非常に高い、と評価する。

こうした評価が今後の研究によって補完されれば、日本が独島の領有権主張を放棄する可能性もある、
と説明する。結論としてヴァン・ダイク教授は、独島の韓国領有権確保を強調して、日本のこれに対する
認識を促す。

最後の第3セッションの発表者である芹田健太郎教授は、「海の使用における歴史的変化と島嶼」という
論文を通じて、本人が中央公論2006年11月号に掲載した「日韓間領土問題の大胆な打開策」での立場
を再確認する。

芹田教授は独島紛争の解決について、「日本による過去の植民地支配に対する反省と省察」→「独島
の韓国領認定」→「鬱陵島・隠岐中間線画定」→「12海里漁業禁止水域設定/世界の科学者への開
放」→「韓日独島条約の締結」という解法を提示している。

すなわち、独島が韓国人にとって日本による植民地支配開始の象徴ならば、独島を成熟した韓日協力
関係の象徴へ切り替えなければならない、と主張する。韓日間の独特の歴史的背景と独島問題との関
係に対して戦略的にアプローチすることで、韓日関係定立のアイデンティティである独島領有権問題の
解法を試みるわけだ。

結局、独島問題の解決のためには、日本の過去の植民地支配に対する真の反省と省察が先行せねば
ならないことを強調する一方、日本の真の反省と省察に対する韓国の前向きな態度と対応も同じく求め
られることを韓国国民が認識せねばならない、と主張する。

今度の国際学術大会の発表者3人は、韓日間の独島問題の解法を模索するにあたり相異なる認識を
しているものの、「日本による韓国の独島領有権認定」という結論を等しく導出しているという点で、非常
に重要な学術大会として注目される。

仁荷大学の洪承湧(ホン・スンヨン)総長は、「結論に到る過程や認識に違いはあるものの、世界の碩学が皆
韓国の独島領有権認定を主張するという点に、この学術大会の重要性がある」と語った。

▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(Newsis配信記事)(韓国語)(2007/05/27 13:29)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=12&articleid=2007052713294634880&newssetid=470

干山国

投稿者: bojinyo 投稿日時: 2007/05/26 13:59 投稿番号: [15576 / 18519]
>朝鮮人民は他国の人より先に東海上の鬱陵島と独島を発見して開拓した時から全歴史的期間、一貫して独島に対する領有権を行使してきたと述べた。

干山国って倭人の国だったって説はないのかしら?

独島・東海表記に関する討論会

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/05/25 23:23 投稿番号: [15575 / 18519]
  独島および朝鮮東海表記に関する社会科学部門討論会が16日に行われた。

  討論会では、朝鮮民族による独島の発見と領有、朝鮮東海の開拓過程と伝統的な名称を科学的に論証し、日本の「独島(竹島)領有権」と「日本海」表記の不当性を明らかにした8件の論文が発表された。

  社会科学院の者希勝所長(教授、博士)は、「独島はわが民族が真っ先に発見し、領有してきた朝鮮固有の領土」と題する討論で、朝鮮人民は他国の人より先に東海上の鬱陵島と独島を発見して開拓した時から全歴史的期間、一貫して独島に対する領有権を行使してきたと述べた。

  金日成総合大学の金恩沢講座長(博士、副教授)は、「安竜福事件に見る独島の朝鮮領有権」と題する討論で、安竜福事件の資料は独島の領有権が朝鮮にあるということを証明する明白な歴史的根拠の一つになると述べた。

  社会科学院のファン・ミョンチョル研究士(修士)は「1905年の日本の独島『編入』は不法・非道なねつ造劇」、金亨稷師範大学のキム・ドクソン講座長(副教授、修士)は「日本の『独島領有権』主張は軍国主義的領土野望の表れ」と題する討論をそれぞれ行った。

  討論会では、「『東海』は高句麗−李朝時代の歴史文献資料によって考証されるわが国の海名」「大陸と半島を基準にして海名を表記するのはもっとも一般的な国際慣例」「中世以後の欧米学者の地図資料を通じて見た『朝鮮(高麗)海』の世界的公認」「『日本海』表記は日帝の朝鮮侵略と植民地支配の犯罪的所産」と題する討論も行われた。(朝鮮通信)

[朝鮮新報 2007.5.24]
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/04/0704j0524-00008.htm

ウィキペディア

投稿者: na_175 投稿日時: 2007/05/25 13:10 投稿番号: [15574 / 18519]
http://www.chosunonline.com/article/20070525000035

そうなんですか?
日本で「Liancourt Rocks」を公式名称にしようという主張をする人なんて
いますかね?

なんだか、「Dokdo」と決まらないと、正しく投票が行われた事に
ならないみたいですね。
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