初心者のための日韓議論場

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>Re: 朝まで①

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/12/04 21:53 投稿番号: [3171 / 7270]
金、土、本日まで、風邪で寝込んでいました。

田原も戦争総括物を書いているようですが、あまり読む気にはなりませんねー。
本人はよく「太平洋戦争のことを調べた」などというのですが、その中に「想像力」というものがはいっているかどうか。想像力がなければ歴史はわかりませんよね。

これが、韓国での「日韓友情年」

投稿者: dokusaiwotatake 投稿日時: 2005/12/04 21:38 投稿番号: [3170 / 7270]
http://wkorea.exblog.jp/2274399

これが、韓国での「日韓友情年」

いいかげん日本は本気で韓国に怒れ!!!

>Re: 朝まで

投稿者: hokori_takaki_monogoi_mindoku 投稿日時: 2005/12/04 03:34 投稿番号: [3169 / 7270]
trip_in_the_night 氏

力作有難うm(_ _)m

メモ帳に保存しました。

朝まで⑬

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 22:19 投稿番号: [3168 / 7270]
橋爪大三郎

「戦争責任」と東京裁判

  今回の番組では、「戦争責任」について触れることができなかった。この問題について、補足説明したい。
  もともと「戦争責任」という言葉は、確立したいい方ではない。戦争を始めたり、終えたりするのは、国家の行為であり、近代国家であれば、当然相応の手続きをへてから行なっている。つまり、合法的な行為である。合法的である以上、結果がどうであれ、法律上の責任は生じない。大勢の人民が予想以上に死亡した、などの場合には政治上の責任が生じるが、これは国内での問題である。
  国際法上の問題としては、ルールに基いているかぎり責任は生じない。たとえば民間人を殺さないなどのルールだ。だがこうしたルールを踏みにじって戦闘行為や作戦を命令した、あるいは命令に従って実行した――これらの者たちは「戦争犯罪人」となる。これは国際法の確立した法理である。
  かつてはこれを「戦争責任」といった。
  ところが、第二次世界大戦が終結してみたら、ナチスをこの法理では裁ききれない。
  とくにユダヤ人を数百万人殺害したのは、第二次世界大戦の被害と思われているが、よく考えてみると、これは「戦争の被害」ではない。ナチスが国内の、あるいは占領地のユダヤ人を、戦闘行為としてではなく、虐殺した。このようなことが起こるとはだれも予想していなかった。従来の法理では裁くことができない。
  そこで、この虐殺を「戦争の副産物」と捉えて、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を根拠に罰することにした。
  この論理は東京裁判にもそのまま適用された。いまでは、このようなケースも含めて、「戦争責任」といっている。
  東京裁判では、昭和天皇は起訴されることもなく、また証人として呼ばれることもなかった。つまり「免責」である。
  いったん起訴されればその有罪無罪を判断するのは裁判所だが、それ以前に起訴するかどうかを決めるのは検察官の役目である。東京裁判で主席検察官を務めたキーナンは、連合国軍司令官マッカーサーと密に連絡をとって起訴するかどうかを決定した。天皇の戦争責任を問わないことを実質的に決定したのはアメリカだったのである。
  「戦争責任」は、自虐史観や硬直した反動的言論がはびこる現在、もう一度根本から問い直したいテーマである。

(終了)

朝まで⑫

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 22:18 投稿番号: [3167 / 7270]
姜尚中

討論に参加して感じ考えたこと

  番組を終えて痛感したのは、新しい世紀になっても依然として前世紀の戦争の記憶に縛られている日本とアジアの現実の重さである。「未来志向」の美辞麗句をどんなに連ねても、戦争の記憶の重さがそれを許さないことにあらためて気づいた次第である。
  しかしここで考え直してみたいのは、果たして戦後の日本は、戦争の悲惨な現実にどんな責任をとろうと真剣に考え、苦闘してきたのか、ということである。厭戦気分がどんなに痛切であったとしても、やはり「他者」としてのアジアの多くの民衆を蹂躙した経験を我が身の悲惨に照らして追体験するよりは、ヒロシマ、ナガサキの記憶や満州引き揚げ、シベリア抑留など、戦争の結末がもたらした「被害者意識」の痛切さがなによりも際立っていたのではないか。その上、敗戦と占領体験が加わり、「被植民地化」に似た、あるいはそのよりももっと屈折し鬱積した「被害者意識」が蔓延し、そして戦後もそのトラウマをもたらした米国という「厳父」に逆らえない「息子」のいじましいほどのコンプレックスが近隣のアジア諸国に吐き出されている気がしてならない。
  日本の戦争を見直すとは、とりもなおさずそうした自分たちのねじれた意識――より上位の力に「被虐」的でありながら、足下の近隣諸国には「加虐」的で横柄な態度をとることを恥じない両義的な姿勢――を問い直すことでなければならない。しかし実際にはますますそうした自民族中心的な居直りが強くなっているように見受けられてしかたがない。しかもそれは結局より上位の権力に従属せざるをえないのであるから、表面の強がりとは裏腹に「従属的ナショナリズム」としかいいようのない代物である。たとえ、「ノーといえるニホン」と叫んでみても、その内実は変わっていないのである。そこに新しい世紀を迎えても、依然として新しい展望を開くことができない日本のジレンマがある。

朝まで⑪

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 22:17 投稿番号: [3166 / 7270]
辻元清美

日本はアジアでもう一度戦争する。そんなバカな?

  私は4年半前に国会議事堂に初めて入ったとき、強烈な実感をもって「この議事堂のこの会議室で国会議員が戦争遂行を了承し予算を決定したから、あの戦争があった」という事実を理解した。戦争をやったのは軍部だというけれど、もし国会が戦費予算を通さなかったらできなかった。先輩の国会議員がこの場で戦争遂行を決めたのだ。
  1925年の時点で20年後東京や大阪が焼け野原になる悲惨な戦争をやると誰が想像しただろう。36年にいまの議事堂が竣工したときの国会議員たちも、わずか9年後のあの敗戦を誰ひとり考えていなかっただろう。
  日本はアジア太平洋でもう一度戦争をするのではないか。
  私のこの懸念を杞憂だと笑い飛ばしていただけるようなものであったならありがたい。
  ところが、日本が再び戦争に参加する可能性は次第に大きくなりつつある。
  国会ではここ数年、戦争準備の議論と法的整備が着々と進んできている。日米新ガイドラインによる「周辺事態」法の成立と米軍の戦争のための後方地域支援活動への準備の具体化。盗聴法による国民監視システムの合法化とこれから成立させようとする個人情報保護法という名の言論封殺法案。小泉内閣になって首相と外相が大っぴらに推進を表明している集団的自衛権の行使と「有事立法」という名の戦争遂行維持法案。
  過去に戦争遂行を決めたそのまったく同じ予算委員会室で私は小泉さんの集団的自衛権の行使発言について糺した。
「日本近海で米軍と日本(自衛隊)が共同行動をしているときに米軍が攻撃を受けたら、日本はなにもしなくていいのか」という小泉答弁の論理にはゴマカシがある。
  その前に「周辺事態」が起きているのをすっ飛ばしている。日本の周辺で紛争が起きたらブッシュ政権は介入するだろう。とたんに日本はそれに「後方地域支援」という名目で参加させられる。それで日米が共同行動していたら、米軍は介入しているから攻撃される可能性がある。米軍が攻撃されたら日本は自国への攻撃がなくても参戦するのが集団的自衛権の行使なんだから、これでは周辺事態イコール戦争開始ということになってしまう。
  近い将来、日本周辺で紛争が起きる可能性はゼロではないと考えているあなた、あなたは私の「日本がもう一度アジアで戦争する」懸念を笑い飛ばすことはできますか?

朝まで⑩

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 22:16 投稿番号: [3165 / 7270]
猪瀬直樹

「日本の近代化」の過程と「戦後50年」の課題

  「なぜ日本は戦争に突入していったのか」ということは、ほとんど間違って理解されている。日本にはインドネシアから石油を採掘して運んでこなければならない事情があった。帰路「タンカーが撃沈されないためにはどうすればよいか」ということから、真珠湾攻撃に至るのである。この、一見単純に思われる経緯を、僕は20年ほど前に『昭和16年夏の敗戦』(『猪瀬直樹著作集』所収)で検証した。当時はなかなか理解されなかった。
  『昭和16年夏の敗戦』、そして約10年前の『黒船の世紀』(文春文庫)の調査で、僕は当時のさまざまな文献や関係者の証言を集め分析してみて、当時の日本の社会のあり方や、国民を巻き込んで成長していくメディアの動きを確認した。
  第二次世界大戦前の日本は、戦車・飛行機・毒ガスなど、あらゆる近代兵器が搭乗した第一次大戦をパスしてしまったため、その「総力戦」の凄まじさも悲惨さも体験することがなかった。世界の怖さ、大きさをみずからの血をもって知ることなしに、日米開戦への道を歩んだ――このことを、僕は第一次資料を駆使して表現したつもりである。
  ・・・・いわゆる「歴史」は、歴史学者の非常にイデオロギー的な論文に汚染されてしまっており、直接証言など一次資料によって検証するという作業がほとんどなされていない。このため、「戦後民主主義」イデオロギーに染まったまま、つまり「真相はどうだったのか」と自ら突き詰めて考える姿勢がないまま、思考を停止させている。イデオロギーや思い込みによって史実を見ていくだけでは、満足な歴史検証などできないだろう。
  番組を振り返りつつ日本の近代史を俯瞰してみると、当初の国家政策そのものはよいが、50年ほどたつと、どこかでベクトルが変わり、おかしな方向へ行ってしまうようだ。具体的にいえば、不平等条約を解消するため、明治の元勲たちが「富国強兵」「殖産興業」というスローガンを掲げ尽力したことは後年、軍事大国としての「傲慢さ」に変わってしまった。日本は、国際舞台で軍縮のイニシアチブをとるなど独自の新しい目標を探すべきだった。
  そして、高度経済成長をへて第二次大戦後50年を経過した現在、日本は国際経済戦争の渦中でどのような針路をもつべきなのか、改めて問い直さなければならないだろう。

朝まで⑨

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 21:57 投稿番号: [3164 / 7270]
イデオロギーに染まりすぎた戦後日本の歴史観

田原   いま姜さんから、いままでイデオロギーでやってきた、そのイデオロギーってなんですかって話が出たんで、ちょっとお答えしたい。じつはふたつ、私はここでいいたかった。秦さんたちが戦争中に神風志向があったと、でもこれはね、間違いだと思う。僕は現に神風志向なんかないですよ。なんにも。そんな神風が吹くなんて、全然思ってないですよ。思っていたとすれば、それはむしろエリートが思っていたんですね。一般大衆は思ってません。
  もうひとついえば、そのイデオロギー志向というのは何かっていえば、つまり戦後、市民革命が起こるべきだと、市民革命を起こして、日本は社会主義になるべきだと、これですよ。

姜    でもね・・・・。

田原   それは、ズーッとあったの。

姜    僕の個人的な経験からいってもね、僕はちいさいときにたとえば東宝映画で、東郷元帥うんぬんとか、いろんな戦争映画を見ましたよ、あるいは岡本喜八さんのなんとか愚連隊かとね。あるいは夕日と拳銃とか、あるいは司馬遼太郎もそうだけど、一般の庶民は、そんなマルクス主義のイデオロギーというよりは、じつは映画や小説やいろんなメディアを通じて、かなりそれては違うものを全面的に吸収していたわけで・・・・。

田原   あのね、一般人じゃなくてね。東京大学が悪いんですよ。姜さんね。今度の『日本の戦争』を書くために、いろんな教授に会って取材してわかったことは、とにかく80年代半ばまでは、つまり丸山真男さんの言葉に反することは、いえなかった。いえなかった。

姜    そんなことはないですよ。

田原   いやいや、そういってますよ、本人が。名前出してもいいですがね。それでつまり事実しか書けなかったと、歴史的な事実しか。

猪瀬   発掘した事実じゃない事実だよ、それは。

田原   まあ、事実。何にこう書いてある。何にこう書いてある。

猪瀬   それ、引用だよね。

田原   うん、引用。そして、もっといいたのは・・・・。

姜    僕は丸山さんの擁護するわけじゃないけれども、彼自身も、ある種の国民主義者でナショナリストですよ。

田原   いや、そりゃね、そんなこといったってね、とくかく僕なんか、まあこの本にも書いたけども、太平洋戦争についてなぜ負ける戦争をやったんだといったら、そんなこというな、そりゃ保守反動だっていわれましたよ、ずっと、で、それをいおうと思ってたら、いつのまにかあの戦争が正しいなんて議論がいっぱい出てきたんで、これは違うぞ!   と、やっぱりやんなきゃいけないと、こういう気持ちだったんですよ。

姜    あの戦争が正しいという議論はね、大東亜戦争肯定論以来。60年代でしたっけね。

田原   あれは少数派。大東亜戦争肯定論がなぜ売れたのかっていうとね、ごく少数で珍しかったから。

姜    珍しいけれども、知識人とか、いろんななかには結構いる。やっぱりシンパがいるわけですね。

田原   橋爪さん、どうですか?

橋爪   あのね、こういう構造になっているんじゃないでしょうか。まず私たちは戦争は悪かったと、戦争責任という枠組みで考えます。ですから、戦争を企画したA級戦犯というのは悪いと考える。ということは、逆にいうとですね、それ以外の人たちは戦争責任がなかったという意味になるんですよ。で、それでよかったという反面、釈然としないんです。
  どうしてかというと、大東亜戦争、太平洋戦争は総力戦だったんです。日本は第一次世界大戦をスキップしたけれど、この次もし戦争があれば、総力戦、ものすごい戦争になると予想し、準備した。実際そうなった。総力戦とは、国をあげて全身全霊、経済も政治もすべてが戦争目的に奉仕するということでしょう。そしたら、軍人が最後に大きな力を持つことは明らかだし、国民は軍人のいうことを聞かなきゃいけない、そういう体制になるわけですね。ですから、そのことを理解して、みんな協力したんです。みんな積極的に戦争に協力したという自覚があるし、それはそのときの考え方では正しかった。というこがあるでしょ。
  ところが戦後になって、それだけ努力してこれだのことをしたのに、そういう枠組みじゃなくて、この戦争は悪いことであり、その責任者はごく一部であると、つまり分断されたわけですよね。ここに大きな欺瞞があるんだけれども、このことを十分咀嚼できなかった。それがいま、尾を引いているんじゃないですか。

朝まで⑧

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 21:46 投稿番号: [3163 / 7270]
韓国のベトナムへの責任は?   ベトナムのカンボジアへの責任は?

姜   僕はね、ちょっと違うのは、冷戦が崩壊して、やっといままで語り合えなかった人たちが、語り合う時代が来たわけです。それは間違いない。

辻元   そうです。

姜   グローバル化というべきでしょう、それが今後どういう方向になるかは、まだ僕にもよくわかりませんよ。だから何か先見的にいっている価値観や歴史観があって、それもさっき猪瀬さんがいったように、ある種のイデオロギーになりかねない。むしろやっぱり、それはカオスかもしれないけれども、いままでいわば歴史の闇のなかに葬り去られたような人びとが、少しずつ話すようになったし、韓国で韓国軍を批判して、「ベトナムでこんなひどいことをやった」と発言することは、これは日本で発言してやられるのと、同じような状況があるわけですよ。
  だからそれぞれの国で歴史観をめぐって、じつは日本だけではない、いろんな国がいま、いろんな対立を起こしてるわけ。それがどうなるかは、僕にもまだよくわかりません。ただ間違いなくいえることはね、そうした多様な声が、いま、出てきたと。そこから何が出てくるのか。
  いまそういう段階にいるわけであって、日本だけがなんか歴史観の重みのなかで、打ちひしがれて大変だ大変だっていうのは、これは明らかに間違いであって、韓国のなかでも、世代間の葛藤や、ベトナム戦争をどう総括するのか――いろんな対立があるわけ。

田原   そこなんだけどね、僕はウエイトのかけ方が、ちょっと違うと思うの。つまりいままでの日本人は、侵略戦争だと、とっても悪い戦争をしたということをアメリカから押し付けられ、あるいはイデオロギーである種の学者たちが、とくに東大が多いんだけども、イデオロギーで押し付けてきて、それに対して日本人は、嗚呼悪い戦争したなあって思ってんの、じつは。でね、いまやっと、そういうものから解き放たれて、本当に見ようじゃないかという時代なんですよ。軽い時代なんだいまは、どっちかといえば。

辻元   田原さん、悪いとか軽いとかって話じゃないと思う。

田原   辻元さんね、いや、いま、あなたを責めるわけじゃないけれども、社会党なんてのはね、本当はそれ専門にやる党だよね。なんでやんなかったのかと。どうしてなんですか?

辻元   55年体制下での社会党の平和運動については、総括しなきゃいけないと思いますよ。

猪瀬   社会党はお題目で万歳っていってたんだよ。

田原   ソ連万歳、中国万歳って、いってたんだよ。

猪瀬   そこはっきりしないと、ダメなんだよ。

辻元   ところが戦後、戦争責任の問題――さっきの法案もそうだけど、ずっとやってきたのは社会党でもあったわけですよ。ですから、いいところも悪いところもあったと思います。社会党という存在がなかったらね、じゃあどうなってたかって考えたら、私はこの戦争について、一定の役割は十分果たしたと思います。

田原   僕はね、もっと乱暴にいいますよ、あのね、日本の55年体制がずっと続き、自民党1党支配が続いた最大の理由ってのは、自民党っていうのはすごい、いい構造を作ったなと思うんですよ、絶対に政権をとらない野党というのをつくった。それが社会党。そういう安全無害の野党をつくった。で、自民党のなかでは、首相になるのは帝大卒ですよ、旧帝大卒、東大か京大か。その帝大卒は汚いことができない。だから汚いことをやる専門のね、党人脈を雇って、名前というと悪いからいわないけど、これ(カネを渡す仕草)を野党の幹事長クラスにはするんですよ。で、自分は手を汚さない。これがね、55年体制なんです。
  55年体制ってのは1955年、左右両派に分裂していた社会党が統一され、これをきっかけに自由党と民主党が合同して自由民主党になった。これ以降、40年近く続いた自社共存の政治体制。保守と革新とはいえ、社会党の議席数は自民党の半分以下で、事実上の一党独裁体制だった。93年に自民党が分裂、細川護熙内閣が成立し、55年体制は崩壊した。
  それはいま、崩れたの。あなたは、まだ55年体制に毒されてる。

辻元   私たちはいま、変えようとしてるんじゃないですか(笑)。

朝まで⑦

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 21:43 投稿番号: [3162 / 7270]
国家賠償は終わった。個人補償はどうする?

田原   あのね、これもじつは東南アジアの人びとをお呼びして、やったことがあるんですよ。でね、ベトナムが独立するとにフランスから賠償金取ったかと。取ってないですよ。フィリピンが独立するときは、これはアメリカから少し出たかもしれない。インドネシアがオランダから独立するときにオランダは金払ったのか。払ってないんですよ。なんにも払ってないですよ、イギリスも。これはどう思う?

辻元   いや、払ったほうがいいでしょう。それは払ってない国が悪いんです。だからといって日本がね、よいということにはならない・・・・。

田原   いや、だから。

辻元   悪さくらべですよ、それは。

田原   ちょっとわかんない。むしろ、独立してみんな万歳っていってるんですよ。辻元さんは日本はカネを払えと。ほかの国は払わなくったって、いいことやったほうがいいんだと。こういう話ね。

辻元   そうです。

笠原   僕はね、国家賠償と個人補償は違うと思う。国家賠償については、確かに法的に解釈がついているところがあります。個人補償についてはいま、アジア太平洋地域の被害者から、個人の損害補償請求が出てきているでしょ。僕はやっぱり、個人補償請求については対応しないといけないと思うんですよ。

田原   このことをむしろ議論したかったんだけど、いまアメリカでね、日本の企業がどんどん訴えられてますよ。でも訴えられてる実態を見ると・・・・。ちょっと草野さん詳しいと思うからいってください。

草野   いえいえ、僕、詳しくないですよ。

田原   いい?   つまり弁護士がカネ儲けするためにやってるものが多いんですよ。反論あったらどうぞ。

朝まで⑥

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 21:01 投稿番号: [3161 / 7270]
国体思想が広がるなか国家理性が失われていく

姜    1935年(昭和10年)にいわゆる天皇機関説が、まあダメになります。いわゆる美濃部事件が起きて。

田原   天皇機関説ってのは、要するに、さっきのハンコを押すだけっていうことですね。

姜    国家の内部に天皇もいて、天皇は国家のひとつの機関に過ぎないと。

田原   国家のひとつの機関。最高機関ですね。

姜    ところが東京大学法学部の穂積八束さんとかいろいろ出てきてですね。いわば天皇っていうのは国家そのものであると。それに対して北一輝が反対するわけですけども。
  やっぱりこの国体思想というのは、たとえば江戸時代の水戸学から出てきて、それから明治憲法、教育勅語もそうですね。まあそこまでは百歩譲って、ある種の健全な国家の建設があったとしても、少なくとも1930年代になると、やっぱり国体明徴運動が出てきて、ある意味で、大衆を煽り立てたナショナリズムに逆にエリートたちが煽られていくというか、そういう構造があると思うんです。

田原   東大がやっぱりよくないね。東京大学ってのは日本にロクなことをしない。いまもそうだけど。まあいいや、どうぞ。

姜    そのとき大切なことは、国体という、なんかわけのわからないもののなかでみんなが動いていくわけです。それぞれのブロックのなかには確かにおっしゃるとおり、それなりにエリートで、ある程度理性的な判断のできる人がいたかもしれません。しかし構造的には国体のなかでみんな動いていくし、大衆はそのナショナリズムによって煽られていく。たとえば日比谷事件のように、そういうものはやっぱり全国的にある。

田原   日比谷事件というのは、日露戦争のときの話?   日露戦争を終らせたポーツマス講話条約に反対する民衆が、警察署や派出所などを焼き討ちした。

姜    そうです。そういう構造ですよね。

朝まで⑤

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 21:00 投稿番号: [3160 / 7270]
情報欠如の日本はアメリカにハメられた

田原   独協大学教授の中村さん。どうですか、そのへんは?

中村   うーん、非常にややこしい議論でね、僕はわかりにくいんだけども。そういうことだけじゃなくて、やはり僕は本音でちゃんと議論していたと思いますよ。だけど、みなさんが全然おっしゃらないような、いろんな事情があって・・・・。

田原   たとえば、どういう事情?

中村   たとえばね、日本としてもできるだけ戦争はやりたくないと、そういう空気があったことは事実ですよ。ところが昭和16年の9月ごろになると、これはもう石油が民間と軍需合わせて1年半か2年分しかないわけでしょ。そしてアメリカとの交渉が決着しない。だからそういうなかで日本が戦争をするならば、いまやらなければダメだと。

田原   早くしないと石油がなくなっちゃう、ある間にやっちゃおうと。

中村   いや、それもあるしね。戦争をするには上陸作戦をやるわけです。で、その上陸作戦の時期というものがあるわけですよ。これは11月か12月の初めの頃が限度で、それを過ぎるともうできなくなっちゃう。そうすると、ここでやっぱり和戦のどちらにするかということを、決めなきゃなんない。それで9月6日の御前会議を開いて、「帝国国策遂行要領」を決めたわけです。これは10月上旬までに交渉がまとまらなければ、10月下旬をメドとして対米英蘭戦争の準備を完成させるというもの。そのころ日本としては、アメリカとの関係を改善したいから、ルーズベルトと近衛のトップ会談を申し込んでいる(8月28日)んだけども・・・・。

田原   むこうは、やる気がない。

中村   うん、やる気がない。その後10月2日にアメリカのノートが来るわけです。ハル米国務長官が、ハル4原則の原則的了解と仏印・中国からの撤兵要求の覚書をよこした。これは11月26日に出て日本が最後通牒と見なしたハル・ノート以上に、このときもう戦争は決まったといわれてますけど。アメリカとしては、もう絶対に妥協の余地がないとね。あまり話すと複雑になるんだけれども、まあそうことがあった。

田原   あのね、妥協の余地がなくたって戦争しなきゃいいじゃないですか。ね、戦争はしないという選択はある。

中村   田原さんね、僕は誤解されてると思うんだけど、さっき開戦直前に妥協の余地がないっていったのは、日本のことじゃないですよ。アメリカがもう妥協しないってことですよ。

田原   アメリカが妥協しなくても、日本が戦争をしない選択はなかったのか。だって真珠湾に行かなきゃアメリカはやってこないでしょ。昭和16年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争は始まったんだから。

猪瀬   いや、その前にさ、日本軍はベトナム南部に出た。16年7月末に南部仏印進駐ってあったでしょ。ベトナムに行けばアメリカが石油を送ってくれなくなるということは、事前に予想すればよかったんだよね。

田原   ちょっとそれもね・・・・。

猪瀬   行かなきゃよかった。いろいろあるけれどもね。

朝まで④

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 20:58 投稿番号: [3159 / 7270]
日本はドイツを過信した。参謀本部の判断ミス

田原   この戦争をやるための主導権を誰がもったのかということを、いまここでは確認したい。明治大学教授の山田さん、どうですか?

山田   基本的にはやっぱり統帥部ですよね。統帥部が――。

田原   統帥部っていうのは大本営ですね、はい。

山田   戦時には大本営ですね。とくに陸軍の参謀本部と海軍の軍令部だと思うんですが、ただこの統帥部といえども、本当に日本がアメリカと戦争して打倒できるとは考えてなかったというところが重要なんです。つまり、いまわれわれが考えますとね、戦争っていうのはまあ勝つか負けるかだと思っているわけです。しかし、参謀本部や軍令部の彼らは、「負けないという選択肢があるんだ」っていうふうに、強く信じているんです。

田原   僕も秦さんにいろいろお聞きして書いたんだけど、じつは参謀総長も軍令部総長も勝てるとは思ってないですよね、両者とも。連合艦隊司令官の山本五十六だって「1年は暴れてみせる。あとはダメだよ」といっているんですね。みんなつまり石油が1年で終わりになるとわかってるんですね。

山田   田原さん、ちょっと待ってください。当時の参謀本部がどういう見通しだったか。これ昭和16年9月6日の参謀本部の判断なんですが、アンダーライン引いてちょっと読みます。「対英米戦争は長期大持久戦に移行すべく戦争の終結を予想することは甚だ困難にして」の次、ここです。「特に米国の屈服を求むるは先ず不可能と判断せらる」といってます。参謀本部は決して戦争反対派じゃないわけで、まさに推進派であるけれども、アメリカの屈服を求めるのはまず不可能だという。
  ならば、どうしてこの戦争に勝てるかというと、「我南方作戦の成果大なるか」――これは南方の資源地帯を取って持久戦をやっていればですね。「英国の屈服等に起因する」、つまりイギリスがヨーロッパで負けると。イギリスが負けると、アメリカの世論の「大転換に依り戦争終末の到来必ずしも絶無にあらざるべし」と見ている。
  どういうことかというと、まずドイツがイギリスをやっつれてくれるということが大前提になっているんですね。日本が単独でイギリスを降伏させることはできない。シンガポールを攻略したりビルマを攻略したりはできるかもしれないが、イギリスを完全にノックアウトすることは日本だけではできない。とすると、ヨーロッパでドイツが頑張ってくれてイギリスを降伏に追い込む。そうすればアメリカは単独で戦争に介入する、あるいは戦争を継続することを断念するだろうと、こういうシナリオなんです。

田原   あのね、ちょっとこれ、歴史を知らない人はなんにもわかんないと思います。太平洋戦争に至る前、1939年(昭和14年)9月にドイツがポーランドに侵入、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。その直後に日本はドイツとイタリアと組んで三国同盟をつくる。さらに松岡洋右という外務大臣がいろいろ努力して、ソ連も巻き込んじゃって、四国同盟にしようとする。

山田   そこが重要なんです。

田原   で、四国同盟ができれば、ドイツは当然イギリスを滅ぼすだろう。するとアメリカは孤立する。だからこれでいけると思ったら、昭和16年の6月にドイツとソ連が戦争を始めちゃった。これはヒットラーのハッタリもあって、ソ連なんて、こんなもの3か月でやっつけるぞといった。日本はそれを信じるわけですね。ところが、山田さんが紹介した日本の参謀本部の判断、これが出た昭和16年の9月の時点では、アメリカはソ連とドイツの戦争でどうもソ連が勝ちそうだと判断しているんですね。日本の参謀本部は馬鹿だったんですか?

山田   つまり、ドイツを過信したっていうことですよね。

田原   だってもうアメリカは、ドイツがどうも負ける、ダメだぞとわかって、このへんからアメリカは、もう日本と仲よくしなくていいよと考え出すわけですよね。それが日本はまったくわかってなかった。

朝まで③

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 20:40 投稿番号: [3158 / 7270]
開戦前に海軍は逃げた。首相兼陸相の東条英機は?

田原   東工大大学院教授の橋爪さん、このへんはどうですか?

橋爪   法律上でいいますとね、旧明治憲法下では、開戦の責任を持っているのは内閣です。

田原   え?   内閣?

橋爪   総理大臣個人ではなくて内閣。内閣全体が連帯して責任を負うのです。なぜかというと、戦争を始めるには開戦の詔勅という行為が必要です。これは天皇がハンコを押しますが、原案を作ったり決めたりするというのは、天皇の輔弼機関である内閣が全部責任を負うことになっています。終戦も同じです。ですから、本来はどんな結論も、正しい結論であろうと間違った結論であろうと、結論を下すのは内閣しかないわけですから、内閣の責任なんです。
  で、猪瀬さんがおっしゃったのは、成算がある戦争を始めるためには作戦計画を作らなくちゃいけない。その責任者は、大本営というか、統帥部というものなんですね。でもそれを認めてゴーサインを出すのは内閣なんです。
  東条英機のケースでは、東条は首相としてあるいは内閣としては、できれば戦争をやりたくなかった。しかし、統帥部が戦争をやるといって聞かなかった。そこで内閣と統帥部の力くらべになる。そのときに統帥部には切り札があるんです。どういう切り札かというと、いざとなれば大臣現役武官制といって、陸軍大臣と海軍大臣を引き上げてしまうことができるんです。

田原   だって、あのとき陸軍大臣は東条ですよ。海軍大臣も確か戦争には積極的じゃなかったはずですよ。だから引き上げないでしょ、それは。

橋爪   はい。それはそうですけれども。でも、最後の手段として統帥部には引き上げがある。そして海軍は、責任を取るのが嫌だから、戦争をしないとはいわなかったんです。

田原   逃げたんですよ。

橋爪   ええ、そうです。戦争をすることも責任ですが、戦争をしないことも大きな責任ですよね。これだけ国家予算を使って軍艦を持って、戦争をしないといったら海軍は袋叩きに遭ってしまう。それが怖くて、海軍は戦争をしないといえなかった。

田原   ちょっとね、開戦のいきさつなんかまったく知らない人でも、わかるように話したいと思っているんで。まず海軍は責任逃れをしたと。バブル経済の責任を取らない官僚とおんなじ責任回避だと。で、陸軍のほうは首相の東条が陸軍大臣。これ秦さん、東条はどうしたんですか?   自分で自分を降りるということはいわわないはずでしょ。

秦    東条英機は開戦の直前、総理大臣と陸軍大臣、それに内務大臣も兼ねたんです。開戦の2か月前までは第3次近衛内閣の陸軍大臣でしたが、そのとき東条は、日米交渉に際して、「中国から一兵たりとも引くわけにいかん。戦うあるのみ」と強硬論を主張したので、内閣が倒れちゃったわけです。ところが、今度は総理大臣になって、天皇から、いったん白紙に戻して検討し直せといわれます。そこで東条は、統帥部に対して戦争回避策を考えろと、要請するんですが、結局、避戦は無理だという結論になってしまう・・・・。

朝まで②

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 20:38 投稿番号: [3157 / 7270]
政府と統帥部のギャップ

猪瀬   簡単に説明すると、軍隊を統率している統帥部というものがあり、もうひとつはいまと同じく総理大臣がいて政府がある。このふたつを統一しているものは天皇の大権であると。すると、統帥部が勝手に走っていっちゃうと、政府のほうが困るわけですね。それを調停するのは天皇しかいない。だけど天皇はまあハンコを押す人ですから。そこで、戦争が始まる少し前に、政府と統帥部−−これは戦時には大本営ですね−−政府と大本営が、連絡を取り合い一緒に話し合わないと、戦争なんてできないじゃないかということで、政府大本営連絡会議(大本営政府連絡会議とも)というものができた。

田原   近衛(文麿)さんのときにできた。1937年。

猪瀬   これを開けば政府も統帥部もそれぞれの方向へ行かずに、ひとつの意思決定ができるんではないかということだった。けれどもそれがなかなかできなかった。ちょっと僕はね、そのことがずっと気になって調べていて、もう20年近く前に『昭和16年夏の敗戦』を書いた。昭和16年(1941年)にどういう問題が起きていたかと。

田原   ちょっと。聞きたい。昭和16年、天皇のどこに問題があったわけ?   太平洋戦争が起こるときに、どんな問題があった?

猪瀬   天皇が関与する意味では、政府大本営連絡会議というのは正式な会議ではなくて、正式な会議は御前会議です。で、御前会議というのは、政府大本営連絡会議で決まった事柄を天皇に報告する。報告すると天皇は、「ん」って顔しているという、まあ一種の形式的なかたちでできあがっているということがいえますね。天皇が個人的にどういったか、いわなかったかという問題はとりあえず置き、制度的な問題はそういうことになっていた。

田原   ちょっと聞きたいけど。昭和16年に戦争が始まった。あのときの責任者は誰だったんですか。本当の責任者は?   天皇がハンコを押すだけの人だとしたら、天皇にまあ責任はないという話になる。僕はそう思わないところがあるんだけど。

猪瀬   責任者は天皇ですよ。ハンコを押すんですから。

田原   ハンコを押すだけで実権がないとすれば、実権は誰にあったんですか?

猪瀬   それは当時の政府と統帥部。政府は、東条英機が最後のところで総理大臣になりますから、東条にひとつ責任があります。統帥部は陸軍と海軍ですね。大本営です。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部。それぞれトップが参謀総長と軍令部長(のちに軍令部総長)。つまり陸軍のいちばん中心になる人と、海軍のいちばん中心になる人。作戦を立てたり、いろんなこと決める人ですね。この人たちにも責任があります。
  政府と陸海軍のトップ、両方に責任がある。両方で話をしてうまくまとめることができなかったわけだから。話がきちんとまとまらないうちに、締め切りだってんで戦争を始めちゃったわけだから。そういう制度的な欠陥と、個人的な欠陥と、ふたつあったと考えたいと思いますね。

田原   個人的っていうのは?

猪瀬   それぞれの個人の問題と、人材的な欠陥ですね。つまりそれぞれの人がきちんと話し合う。で、論理的に詰めていって、やっぱこの戦争やめたほうがいいよという結論を、この不健全で不完全な制度の中でも、行なうことは論理的にできた。

田原   さっきの大本営と政府の連絡会議で、もしも首相の近衛さんがね、あるいは東条さんでもいい、「断固反対!」っていえば、これ通ったわけでしょ?

猪瀬   うーん。だから東条さんが政府の代表として断固反対といっても、統帥部はいや、やりたいといって、調整がつかなければ股裂き状態でしょ。

田原   だって東条英機は41年10月から、首相と陸軍大臣兼任でしょ。

猪瀬   陸軍大臣はあくまでも政府の中の陸軍大臣であって、大本営の偉い人ではないわけですね。統帥部の偉い人ではない。

田原   そうすると?   つまりあの戦争は、政府と統帥部の話し合いがつかなくて、バラバラなままで突入しちゃったということですか?

猪瀬   股裂き状態のまま、とりあえずある結論を出さないといけないというヘンな空気ができ上がってきまして、そして締め切り、時間切れというかたちに。

朝まで①

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 20:35 投稿番号: [3156 / 7270]
赤城艦長殿、意見交換も煮詰まってきましたので、勝手ながらここで休憩にしましょう。

日米開戦の12月8日も近いので、少し古いですが、2001年「朝まで生テレビ!   日本はなぜ負ける戦争をしたのか。」の討論と出演者のコメントの抜粋を掲載します。
13回に分けて、まとめて投稿する予定です。

出演者は、猪瀬直樹・笠原十九司・姜尚中・草野厚・小池百合子・辻元清美・土門周平・中村粲・橋爪大三郎・秦郁彦・山田朗ですが、全員出てこないかも知れません。悪しからず。ではオープニングから。


なぜいま、戦争について討論するのか?

田原   こんばんは、田原総一朗です。視聴者のなかには、なぜいまさら、あの戦争のことを議論するんだと思いの方もたくさんいらっしゃるでしょう。そこで、なぜいまこの議論なのかという提案理由を、少し説明したいと思います。
  第二次世界大戦、いや太平洋戦争−−当時は「大東亜戦争」といいました−−が始まったのは、私が小学校1年生のときだった。5年生のときに敗戦となり、まあ散々な敗戦だった。じつは当時「一億玉砕」なんて言葉が使われていて、私も当然死ぬんだと覚悟していた。それで負けた。散々負けて私には、「なぜこんな負ける戦争をしたんだろうか」という素朴な疑問が生じました。
  そのうち今度はアメリカ軍が進駐してきて、この戦争は日本が悪い戦争をやったんだ、侵略戦争だということになった。私は、しかし悪い戦争ならいっそう勝たなきゃいけないんじゃないか、悪い戦争して負けるんじゃ馬鹿じゃないかと思った。
  この戦争がもし悪い戦争ならば、あるいは間違った戦争であるならば、いったいどこで日本は戦略を間違えたんだろうという疑問を持った。ずっとこの疑問を持ち続けて、最近『日本の戦争』という本を書きました。
  この番組(『朝まで生テレビ』)でも、日本はなぜ負ける戦争をしたのかという疑問を持ち、1990年7月に広島で戦争問題を取り上げたことがある。広島には「二度と過ちを繰り返しません」という原爆慰霊碑があるわけですね。私は、高校で広島に行ったときはあんまり違和感がなかったんだけど、改めて行き、非常に違和感を感じた。なぜか。「二度と過ちを繰り返しません」とアメリカがいうならわかる。二度と残虐な原子爆弾なんて落とさないよと。なんでアメリカじゃなくて日本人が「二度と過ちは繰り返しません」というのかと。さらにいえば、過ちとはいったいなんなのか。

Re:やさしい日本人

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/03 19:54 投稿番号: [3155 / 7270]
>お二人とは素養の差があり過ぎです

誤解ですよ。ご覧の通り、私の方は学力不足、認識不足を露呈してボロボロです。(笑)

>>日本が、近代になってヨーロッパ文明からまなんだ最たるものは、軍隊であり、戦争そのものであった。

兎亀さん、資料ありがとうございます。
梅棹先生の文章ですね。
昔の高校の教科書を読んでいるような感じがします。
こういう視点は面白いし、学問的にどうこう批判するものではありません。
ただ、日本だけを記述しても、非常に片面的で理解しにくいと思います。
軍隊や戦争には常に仮想敵国を含めた相手がいて、世界情勢がある訳ですから、関係的に書いてくれないと。
それに、軍隊や帝国主義は、どこの国も失敗していると思います。
結局植民地を失い、アメリカ軍もベトナムで痛い目に遭っている訳ですから。

イラク統治について、アメリカ軍は日本の満州経営を研究しているという話がありますね。
馬賊による住民強奪、日本人殺害が相次いでいた満州の治安を現地住民と協力してあっという間に実現し、何百万人という中国移民も押し寄せた平穏な満州国をどうやって作ったのか、今頃になって勉強しているようです。

>日本に欠けていた(欠けている)ものは冷徹さかなぁ。

冷徹でなかったことは、当時の統治政策としては大成功だったでしょう。
しかし終戦後も優しいままであり続けたことが、中国や韓国の反日を育てたのかも知れませんね。
現在、日本が少し毅然としているだけで、大騒ぎですから。

 やさしい日本人

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 05:03 投稿番号: [3154 / 7270]
  とりあえずの資料2〜3

  >中国大陸での利益の獲得は多くの日本人の血であがなわれたものであった。

  >その全面的放棄は、センチメンタルな軍人たちには考えられないことであった。


  >経営的搾取を本来の目的としているならば、このような政策は、植民地政策という概念からの逸脱ですらあった。

  >一九世紀の植民地主義は、植民地の富をできるかぎり収奪しようとする残酷さをもっていたが、それらは一種のクールな合理的思考に裏うちされていた


  日本に欠けていた(欠けている)ものは冷徹さかなぁ。

  なまじ情けがあったばっかりに失敗した・・かな?

  情に棹さし流されて、流れ流れて滝壷へ〜   orz

  戦前は軍も国民もある意味でやさしすぎた(情にもろかった)のかもしれないです。  

 とりあえずの資料3

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 04:32 投稿番号: [3153 / 7270]
  「日本文明77の鍵」より「48植民地」
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〜略〜
軍事力を背景に、他民族を支配することに、一九世紀はおどろくほどに無反省であり、日本も、西洋の列強と同様に、その例外ではなかった。
  もしも、理想の植民地経営があるとすれば、それは、いったい、どのようなものであろうか。現地人の反抗する力を最小限にし、効率的に、物的・人的資源を収奪できるものが、それであろう。日本の植民地経営におおきな足跡をのこした後藤新平は、イギリスのインド支配の方式に理想をみた。かれは、台湾の民生長官となるや、それまでの、軍事力一点ばりの統治をあらため、要所要所を政治的にコントロールし、後は現地人の風俗・習慣・制度などを尊重する方式にきりかえた。現地の実情を正確にしることは、植民地経営の成否を決するカギであったために、大学の研究者など専門家による調査が徹底してなされ、植民地経営におおきな成果をあげた。後藤は、一九〇六年には、南満州鉄道の初代総裁となる。それは、ロシアからゆずりうけた長春以南の鉄道、鉄道付属地、旅順・大連などの租借権を土台に設立された、半官半民の巨大会社であった。満鉄は、イギリスの東インド会社をモデルにつくられた、日本の中国大陸進出の中心となった会社である。その事業は、交通・鉱業(撫順炭坑)・工業(鞍山製鉄所)・拓殖・調査など、広範なものであった。満鉄の影響下にある満洲は、一九三二年に日本の完全な傀儡政府によって建国が宣言されるまでは、日本の植民地とはいえなかったが、満鉄に競合するような鉄道の施設などの禁止をとおして、実質的な植民地化がすすめられていた。
  後藤は、日本の植民地経営の基礎を確立する一方で、台北・大連・奉天・長春などの都市では、国内ではできないような大胆な都市改造をすすめた。これらの都市の改造は、医者であり、公衆衛生の専門家であったかれの体験にもとずくものであり、植民地での都市改造の体験は、やがて、後藤を中心とした関東大震災によって焼失した東京の復興計画にいかされていくのである。しかし、植民地での体験の本国への反映は、このような幸運なものばかりではなかった。「帝国の復讐」という有名なことばがある。植民地での、本国政府にあまり束縛されない政治的実験が本国にはねかえり、本国そのものの政治を変化させるという周知の傾向性を表現したことばである。植民地での日本の体験は、最悪のかたちで日本本国にはねかえった。中国大陸での植民地的経営は、満鉄の民政能力と関東軍の軍事力によってささえられていたが、やがて関東軍はその力を背景として、つぎつぎに、中国東北部の満洲とよばれた地域の植民地化を工作した。満洲国建国にいたるプロセスのなかで顕著になった、軍部の政治分野への進出は、日本本国における政党政治の終末と軍人の政治への大量進出という帰結をもたらした。超国家主義的思想のとりこになった軍人主導の政治や思想的動向は、日本を絶対化した、排外主義的傾向をおびるようになってきてしまった。
  植民地経営の方針も、このような動向を反映し、従来にいわば一種の理性的合理的植民地支配から、日本の文化を絶対化する精神主義的・非合理的政策が台頭してくる。一九三九年、日本語の強制、日本の神社参拝の強制、姓名の日本化などの方針が、あたらしい植民地政策としてうちだされたのである。植民地というものが、経営的搾取を本来の目的としているならば、このような政策は、植民地政策という概念からの逸脱ですらあった。一九世紀の植民地主義は、植民地の富をできるかぎり収奪しようとする残酷さをもっていたが、それらは一種のクールな合理的思考に裏うちされていた、ところが、最後の植民地帝国となろうとした日本は、その性急な軍国主義においても失敗者となったと同様に、植民地経営においても成功者とはならなかった。

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 とりあえずの資料2(続き)

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 04:14 投稿番号: [3152 / 7270]
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  日露戦争は、日本が体験した戦争のなかで、最も輝かしいものであった。世界最強の陸軍国ロシアと互角にたたかい、日本海海戦でははるかヨーロッパから回航されてきたバルチック艦隊に、海戦史上に残る壊滅的打撃をあたえた。ロシアの東洋進出は、祖国日本の危機だとかんがえられた。日本はこの戦争に勝利する自信もなければ、戦費もなかった。戦費は外債にもとめられた。このような戦争が侵略戦争であろうはずがなく、大義名分のある防衛的戦争であったと、当時の人々は理解した。たしかに、ロシアに対しては、日本は防衛的であった。もしも、朝鮮半島がロシアの支配下におかれ、しかるのちに日本の独立がおびやかされるよりも、そのまえの段階で対露戦にたちあがるほうが軍事的合理性があったかもしれない。しかし、このことは、朝鮮・中国の対して侵略的であったことを帳消しにはしないであろう。日露開戦を決定した文書にも、「帝國政府は自衛のため並に帝國既得の権利を擁護するため」とあった。日露戦争は祖国防衛戦争的な性格と同時に、中国大陸・朝鮮半島での利権争いという性格をあわせもっているのである。日本が特別に侵略的であったわけではない。先輩のヨーロッパ列強がしていることを忠実に日本も踏襲したのである。
  日露戦争の一応の勝利によって、日本はますます本格的な帝国主義に成長していった。中国大陸での利権の拡大、国防上の拠点の獲得。そしてついに1932年には日本の傀儡国家である満州国の建国にまで至った。おくれて帝国主義国家となった日本は、性急で、未熟な膨張主義をとりつづけた。1937年の、宣戦布告なき中国との全面戦争の開始は、侵略とよぶにはあまりに無計画な冒険のはじまりであった。戦線の拡大は、つぎの戦線の拡大をよび、1941年には日本軍の南部仏印進駐にまでおよんだ。このことが、以前から日本の中国での軍事行動を抑止しようとしていたアメリカと決定的な対立点となった。アメリカは、イギリス、オランダとともに対日石油輸出禁止にふみきり、また日本軍の中国からの全面的撤兵を要求した。
  日本に残されたのは、従来の中国政策を根本的にあらためるか、軍事的冒険にかけるかであった。当時、日本とアメリカの石油・鉄鉱石・銑鉄・銅・アルミニウムなどの主要物資の生産高は、1対78であった。数字のわかる侵略者なら、対米戦争という軍事的冒険はしなかったであろう。しかし、中国大陸での利益の獲得は多くの日本人の血であがなわれたものであった。その全面的放棄は、センチメンタルな軍人たちには考えられないことであった。そして、彼等の心の底には、他国を植民地化することは、アメリカもイギリスもオランダもしていることではないか、おなじことをして日本だけが批難されるのは理不尽だ、という気持ちがあったにちがいない。
  たしかに、日本の軍事的行動は、その根本において西洋の国々と同一であった。日本の悪は、それを批難する国々の悪でもあった。ただひとついえることは、日本は、西洋の先輩たちほどに、じょうずな帝国主義的国家ではなかったということである。

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 とりあえずの資料2 

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 04:12 投稿番号: [3151 / 7270]
↓「日本文明77の鍵」より   「56戦争」

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  19世紀は平和な時代であったといわれている。たしかに、ヨーロッパでは、ナポレオン戦争の終結以来、1914年の第一次世界大戦まで、ヨーロッパ全土を巻き込むほどの大規模な戦争は起こらなかった。しかし日本では、19世紀こそは、戦争時代の幕あけとなった。1863年の薩英戦争を皮きりに、1864年の下関戦争と第一次幕長戦争。1866年には第二次幕長戦争が、そして、1868年には戊辰戦争とよばれた、東日本における一連の戦争が生じた。1877年には、日本で最後の内乱となった西南戦争。1894年には日清戦争、1904年には日露戦争と、戦争は時代を下るとともにその規模を大きくしていった。
  日本は1638年の島原の乱の終了以来、二百年余にわたる平和を享受していたために、戦争についての思想も、戦争の技術も無きに等しかった。日本は戦争の技術も思想も、ヨーロッパの文明から学ばなければならなかった。高木惣吉『現代の戦争』によれば、1480年から1941年までの四百六十年間に世界各国が体験した戦争の回数はいかのとおりである。イギリス七十八回、フランス七十一回、スペイン六十四回、ロシア六十一回、オーストリア五十二回、イタリア二十五回、ドイツ二十三回、アメリカ合衆国十三回、そして日本は九回であった。いかにヨーロッパ文明が戦争と共に発達した文明であるかが理解できよう。ヨーロッパのこのような戦争の文明が東洋にもたらされたとき、東洋の平和は根底からくつがえされることになった。
  古来、東洋の国際的平和は、文明のセンターとしての中国の絶対的な文化的・経済的・政治的実力を前提として、その周辺の国々は中国に恭順の意を表し、中国はこれらの国々の姿勢を是とし、不干渉主義をとることによってたもたれていた。中華思想という中国中心主義は、けっして軍事的な色彩をもたず、文明の感化力に信頼をおく思想であった。ところが、1840年のアヘン戦争によって中国がイギリスに敗北したため、このような東洋の国際的秩序の根本が、危ういものになりはじめた。中国への尊敬とその文明のセンターとしての実力に、疑義が生じてきたのである。
  日本はペリー来航以来、戦争の文明の信者となった。その技術と思想は、次第に日本の体質をかえていった。1875年の江華島事件は、ペリーが日本になしたのと同じことを朝鮮になした事件であった。すなわち、軍事的な恫喝による開国の要求である。日本の軍事力増強の出発点は、西洋列強からの独立を維持するためであった。しかし、ここでの行動は、消極的は独立の維持ではなく、他国への利権をもとめて進出しようとする野心のあらわれであった。日本の朝鮮への進出は、当然、伝統的に朝鮮の宗主国だとされていた中国のプライドと利害を傷つけた。こうして日清戦争がおこった。
  日清戦争における日本の勝利は、東アジアの伝統的国際秩序の終末を意味した。この勝利によって、文明のセンターであった中国に対する日本人の劣等意識は、優越感に転じた。日本の中国大陸への進出は当然視され、防衛のための軍事力は攻撃的色彩をつよめた。そして、そこには、ヨーロッパ列強の利権が待構えていたのである。

  〜続く〜
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 とりあえずの資料1 

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 04:05 投稿番号: [3150 / 7270]
  ↓「日本文明77の鍵」より   「49軍隊」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/416660435X/qid=1133549854/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-9843834-2789120
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  日本が、近代になってヨーロッパ文明からまなんだ最たるものは、軍隊であり、戦争そのものであった。
  〜略〜
  軍隊とは巨大な官僚制機構である。明治憲法によって、軍の頂点には大元帥としての天皇がたち、軍の統帥権は、政府にではなく、天皇に属することになった。天皇は実質的なことはなにもしないという伝統があるために、統帥権の独立は、軍隊は自己の一存で軍事行動を決定できるということを意味していた。政府のコントロールは、軍事予算などでしかありえなかった。この政府と天皇(実質的には陸軍参謀本部と海軍軍令部)という、軍隊のコントロールの二重性は、軍が自己抑制によって政府の間接的コントロールに服することをやめれば、たちまち破綻をおこしてしまう。1930年のロンドン軍縮条約の調印をめぐって、この制度の致命的欠陥が露呈された。この条約は補助艦の総保有量を対米約七割に制限し、主力艦数を米・英各15隻、日本9隻にするなどをきめたもので、第一次世界大戦後、アメリカを仮想敵国としていた海軍は、この条約の調印に不満で、政府は統帥権をおかしていると非難した。首相はこの年に狙撃され、この問題をきっかけとして、軍部の政治介入がはじまった。「軍人は政治を論ぜず」とした軍人勅諭の精神は、軍事に関連した政策は統帥権の範囲内のことであるという観点から、再解釈された。こうして、軍人の自己抑制に歯止めがなくなった。
  軍は、物理的暴力の手段を独占した、巨大な組織であり、国内には、これに対抗できるような勢力はどこにもなかった。近代日本の最大の失敗は、ヨーロッパ文明からまなんだ、軍隊というデーモンを、政治的にも、思想的にも、うまく飼いならすことに失敗したことであったといえよう。戦争は政治の手段であるというクラウゼヴィッツの戦争哲学は、日本では戦争の手段としての政治になってしまった。陸軍のソ連、海軍のアメリカという仮想敵国は、軍人の心のなかでいつしかひとりあるきをはじめ、日本の国力を無視した軍事的冒険に駆りたてられるほどに、リアリティーをもつにいたった。軍事行動には、冷静な分析と、その分析をささえるさめたつよい精神力が必要である。しかし日本人にとって、軍隊はあまりの劇薬であった。強大な軍隊をかいならすには、日本人はあまりに歴史的体験が不足しており、ナイーブすぎたというべきであろう。かくして、日本は西洋文明の摂取に失敗したのである。
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Re: >軍人が好戦的というのは

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 03:48 投稿番号: [3149 / 7270]
>気楽でいいなあ、兎亀さんは。

  素人の気楽さでございますです。

  お二人とは素養の差があり過ぎです(実はこれが悔しかったりしてます。笑)

  精進せねば(亀ならぬ蝸牛の歩みですけどね)


  >しかも論点をどんどん広げて下さる。

  >本旨の論点に沿った質問やまとめをお願いします。(笑)


   申し訳ないです。

  なにせ基礎が穴だらけなもので大まかな範囲での把握がやっとの状況で・・
  (論点に「沿ったつもり」の質問なら何とか出来そう・・・orz)

Re: 過激ということ

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/12/01 23:55 投稿番号: [3148 / 7270]
>開戦促進の、テロをも辞さぬ過激派の軍人グループというのもあまり聞きません。

その通りで、この時期の憲兵は、反東条派の動きを探知すべく働いていた感があります。
開戦直前、東京憲兵特高課長に着任した塚本誠の著書『ある情報将校の記録』では、すでに「非常時検挙計画書」が作成されていて鳩山一郎と中野正剛ら多数の政治家や自由主義者が挙げられおり、任務逸脱を理由にこのリストを焼却させています。付け加えると、左翼組織は壊滅状態となっています。
そして、塚本が把握した時代状況は、『東亜新秩序の確立と国防国家の建設が国策の中心で、聖戦完遂のためには米英らと戦うことも辞せずということである。そのためには軍事優先、思想教育はもとより産業経済、国民生活に至るまですべての施策はこの国策の方向に集中さるべきで、この国策を批判することは悪、というのである』と。
塚本自身は、『軍の中には、「大衆は引っ張ってゆけばついてくる」といった空気が強く、同期の優秀分子といわれて作戦の枢要の地位にある男で、こうした言辞を吐く者が一人、二人いた。(しかし)大衆あっての国防国家であり、東亜新秩序ではないのか。一億国民をして各々その所を得しめ、互いに相信じその総力を国策に結集させることこそ政治の要諦なのだ。』という意見です。
軍の過激派取締りを含む、軍の思想的健全性の確保も任務だったのですが、その点の記述はありません。

以上から、というのも断片的ですが、開戦反対・慎重派を打倒する過激派軍人グループは存在しない状況だったといえます。
というのも、2・26事件時と状況一変し、すでに日中戦争が継続され、国家総動員体制が働いており、既定の事実として対米英戦を想定している。
さらに軍部は対米英戦に備えて猛訓練に突入し、政治グループを作るどころではなかった。
陸軍も独ソ開戦の影響で、7月には満州に70万の兵力を動員した「関特演」を実施しています。

しかし、政権中枢が開戦回避に動けないというのは、外堀が埋められ、真綿で首を絞められた状況であったためで、本気で開戦阻止の活動をしていたら、そのリアクションは想像に難くないと思うのです。
開戦に対して優柔不断に見える東条を打倒せよという声も聞かれた軍部(もちろん、一部の軍人で、その逆もいたのですが)では、大変なことになっただろうと思います。
この無言の圧力を「国民の声」と表現しようが、「軍部の圧力」と言おうが同じことで、現実的にはテロやクーデターとなって現れます。
これを仮定の話だといえば、それまでなのですが。(苦笑)
なお開戦後、終戦まで、戦況や政治状況の変化で、過激派になるかどうかの解説は赤城艦長のご説明の通りと思います。

そして、重要なことは、この開戦前の時代状況もアメリカとの軋轢で生じたことです。
日本がひとりで暴走したという風には考えられません。

なあに、かえって免疫力がつく

投稿者: mikenekonomanma 投稿日時: 2005/12/01 10:23 投稿番号: [3147 / 7270]
http://www.tokyo-np.co.jp/00/hissen/20051124/col_____hissen__000.shtml

過激ということ

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/12/01 00:32 投稿番号: [3146 / 7270]
過激ということの相対性について考えてみたいと思います。

>あくまでも開戦に慎重な勢力(軍人も含む)に対する、過激な軍人による軍事テロの恐怖があったのではないかという意味です。
官僚や議員の中にも相当な対米強硬論者が数多くいたと考えます。

軍人といっても一般兵士ではないでしょうから、尉官クラス以上でしょうね。
問題は、では、具体的に名前を出せる過激派軍人がいたかということです。
尉官、佐官、将官は無数ではないのですから、実際過激であれば歴史書に過激派として名が残っていたのではないでしょうか。が、実際は、具体的な名前は挙がりませんし、また、開戦促進の、テロをも辞さぬ過激派の軍人グループというのもあまり聞きません。まあ、海軍の課長クラスは結構開戦派だったようですが(この場合、今のアメリカの禁輸が続けば日本がジリ貧になって、にっちもさっちもいかなくなる、ということが理由のようです)。「油のために戦争か」という問題が生じるのですが、油がなければ日本もその軍隊も成り立って以下なのですから、油を軽視してもいいということにはなりません。油にわい曲するのもゆきすぎでしょうけど。(油が特にそれまでの20年、30年にわたる日米外交の1つの象徴だということだと思います)。

過激派が穏健派になり、穏健派が過激派になるということについて。
過激派が常時過激派であるということではなさそうです。
2.26事件の安藤輝三大尉は、「自分には部下がいるからね」といって、部隊を使っての決起には消極的だったのですが、仲間に説得されて(事件終結直前に自決した野中四郎大尉の激が大きかったようですー日頃おとなしくて無口な野中が、安藤、何を躊躇しているかと叱った、と磯部浅一は獄中記でかいています)。

勅命が下り、他の部隊が帰順を始めたとき、最後まで抵抗したのが安藤部隊です。帰順を説得する同僚の青年将校にたいして、「私はこの決起には反対だった。しかし決起したのは最後までやり遂げるという覚悟ができたからだ・・・」

「日本の一番長い日」で有名な畑中中佐は、今の戦局が不利なのはロートル連中が軍をにぎっているからだ、一体やつらは戦争に勝つ気があるのか、ロートルを血祭りに上げて軍を改革しよう、粛軍が必要だ、といういわゆる「水特組」のクーデター計画には、過激すぎる、時期尚早として参加をことわり、腰抜け呼ばわりされたのですが、その畑中が、終戦時には、終戦に反対して、近衛師団長森中将を殺して、「狂した」わけです。日米開戦にはむしろ反対だった大西滝次郎が徹底抗戦派になりましたし。

過激というのは時間・空間、特に時間で見て相対的だという例だと思います。

これは直接本文には関係ありませんが、終戦工作には、2.26事件で軍をやめさせらりたり、左遷された連中が獅子奮迅の働きをしていたことはあまりしられていません。大岸頼好や明石寛などです(結構2.26事件関係では有名な人たちです。必ずしも日本を敗戦の形で終戦させようとしたわけではありませんが)。

Re: >昭和天皇が戦後述べられた

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/30 23:46 投稿番号: [3145 / 7270]
>軍部が国民をひっぱり、政府や天皇に圧力をかけて戦争に持っていった、という説には結構抵抗を感じます。
>軍部は戦争開始に躊躇しているが、国民の方が開戦に積極的。

昭和天皇のお言葉の「国民」の意味について、やや不明な点もありますが、これを解析しても不遜なので、一般的な話にしたいと思います。

開戦に対する軍部の圧力と言ったのは、国民が開戦に反対なのに、軍が無理に引っ張っていったという意味ではありません。
あくまでも開戦に慎重な勢力(軍人も含む)に対する、過激な軍人による軍事テロの恐怖があったのではないかという意味です。
官僚や議員の中にも相当な対米強硬論者が数多くいたと考えます。

昭和16年9月、すでに政府は、「帝国国策要綱」を作成し、戦争決意のもとに作戦準備と外交を並立させる段階に入っていたが、
11月1日の政府大本営連絡会議で、なお東郷茂徳外相や加屋興宣蔵相は外交優先の意を発言しています。
また、永野修身軍令部総長は、「本来、軍令部としては日米戦争は極力避けたいと考えていた。しかし今日となっては対米戦争もやむなを得ないと覚悟せる次第である」と述べています。
この席で塚田攻参謀次長も強硬論を述べながら、10月には、部下の瀬島龍三大尉に、「瀬島、油のために戦争せねばならんのかなあ」と漏らしています。
国民の開戦決意を醸成したのは、何なのでしょう。
政府が開戦回避の決断ができなかったのは、なぜでしょう。

日米開戦に沸き立つ国民というのも、多くの記録が残っていますが、その一部だけ。
作家伊藤整は、「私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいい、これで大丈夫だ。もう決まったのだ、と安堵の念の湧くのを覚えた。この開始された米英相手の戦争に、予想のような重っ苦しさはちっとも感じられなかった。方向をはっきりと与えられた喜びと、弾むような身の軽さとがあって、不思議であった」と書き、詩人三好達治は、「ああその恫喝   ああその示威   ああその経済封鎖   ああそのABCD線   笑うべし脂肪過多デモクラシー   大統領が   飴よりもなお甘かりけん昨夜の魂胆のことごとくは   アメリカ太平洋艦隊は全滅せり!・・・」との詩を綴っています。
そして開戦翌日には、後楽園球場で新聞・通信社8社共催による米英撃滅国民大会が開催され、各社社長が熱弁を振るっています。

もっともこの興奮も、緒戦の戦果がなければ、やや違った重圧感が記録されていたのではないかと思います。
当日、午前7時のラジオ・ニュースで有名な、「西太平洋上でアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」の発表。
そして、午後9時のニュースで、ハワイ空襲の戦果を発表。
この大戦果によって国民は一気に解放感や高揚感を憶えたのではないでしょうか。
再び10日には、マレー沖海戦の戦果発表。

>親の背中を見て育たなかった

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/11/30 04:24 投稿番号: [3144 / 7270]
これは赤城さんにもお話した記憶がありますが、阿南(出身地では「あなん」で、東京では「あなみ」と発音)大将の実家が、うちの母親の出身地の隣町で、終戦直後、大将の未亡人とお子さんらが、そこに住んでいました。(奥さんはもちろん東京出身。)

老母(当時小学生)によれば、「さすがは東京の奥様はきれいだな」と思ったそうです。
男の子が数人と、女の子が一人いたそうで(三男は戦死だったかな)、どの息子だったか、よく老母の実家に用事で来ていたとか。実に礼儀正しい少年だったと。
娘さんは「母親似できれい」だったそうで、老母の長兄(つまりワタシのオジキ。戦闘機乗りで特幹の中尉。故人)が、自宅に呼んでアタマを小突きながら勉強を教え、高校に入れてやったとかなんとか、老母が言っています。なんでも、今上陛下のお妃候補にも名前が挙がったの挙がらなかったのと。

なんで、大将のご家族とそういうつながりがあったのかは分かりませんが、オジキとの陸軍つながりだったのかも知れません。(オジキは陸士出ではないのですが。)

>彼らは大変な理想主義者ですね

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/30 03:37 投稿番号: [3143 / 7270]
満州事変の計画を国内で支援した橋本欣五郎も理想主義者でした。

満州と理想主義ということを別の面からちょっと見てみます。

「我々(青森の連隊)が進駐したことにより自治指導部ができ、奉天からは自治指導員として庭川辰雄らが派遣されてきた。

「庭川ら自治指導部に集まった青年達は満州に道義国家を建設しようという理想に燃えていた。そのため彼らは軍隊の進駐と共に、時には軍隊の進駐よりもはやく奥地にはいった。

「道義国家の建設のためには満州は矛盾をはらんだ日本の延長であってはならなかった。それだけに、日本での革新の胎動には期待をもっていた。

「あとで5.15事件の公判が開かれるに当り、このグループから蛸井元義等3人が被告の無罪を主張するために上京するのである。

「その中の蛸井がいかに満州の農民に愛情を持っていたかは、大牟羅良がその著書『ものいわぬ農民』(岩波新書)の中で感銘深く述べている。

「著者(大牟羅)が、在満時代、蛸井から口癖のように聞かされたことを、少しでも正しくお伝えしたいと念じて筆をとったものです、と著書の結びにしているが、この農民とは満州農民のことである。

「私(末松)が2.26事件で入獄中、私の家内をはるか満州から集団で手紙を寄せ、慰めてくれたのはこの蛸井の仲間だった。

「蛸井は満州の現状がすでに蛸井らの理想と反していることを知っていた。そうなればこその苦闘であり、その結果病を得たともいえる。

「蛸井は日本の敗戦を見ずに肺病で没したが、私が病床を見舞ったある日、蛸井はふと、満州で任地が変わるごとに一つづつ子供の墓を残してきた、ともらした。蛸井はきっと、愛児同様、満州の土となって彼にとっての道義国家の礎石となりたかったにちがいない。

北一輝は、歴史とは血と涙で書るべきものだといったが、もし北の説がゆるされるなら、満州建国を日本帝国主義の侵略と規定する世間通用の歴史のほか、蛸井らの満州建国史も書かれてよいはずである」(末松太平・私の昭和史)



大牟羅の「ものいわぬ農民」は、自己の満州経験、沖縄での兵役等が、郷里岩手の農民の生活と共に紹介されています。

阿南の息子の一人は

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/30 02:51 投稿番号: [3142 / 7270]
講談社の野間の家に婿養子にいり(その本人はかなり前に病死。その細君が社長)、その子供が将来の社長候補ですね。血族会社の講談社が反権力を売りにする「日刊ゲンダイ」を出しているのは、まあ商売なんでしょうが、お笑いです。

>昭和天皇が戦後述べられた

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/30 02:46 投稿番号: [3141 / 7270]
「もし自分が戦争を回避しようとすれば、自分は精神病院か何かに入れられて、自分の周りの人たちは殺されて、もっとひどい戦争になったろう」というように、軍部の威圧が相当に働いていた。
そうした方法で、時代を捻じ曲げていくことへの反発が強いのだろうと思います。


昭和天皇の昭和20年9月27日の言として、「もし私が(開戦を)ゆるさなかったら、きっと新しい天皇がたてられたでしょう」

ただし、続いて、「それは国民の意志でした。こと、ここに至って国民の望みにさからう天皇はおそらくいないのでありましょう」というところは注目すべきです。軍部が国民をひっぱり、政府や天皇に圧力をかけて戦争に持っていった、という説には結構抵抗を感じます。天皇も、もはや開戦やむなしと国民も思っている、と考えていたようです。   これは日露戦争前夜の状況を彷彿とさせます。軍部は戦争開始に躊躇しているが、国民の方が開戦に積極的。

Re: アメリカの動き

投稿者: sonoba_kagiri 投稿日時: 2005/11/30 02:38 投稿番号: [3140 / 7270]
「開戦前夜」は面白そうですね。読んでみたいです。
私は、半藤氏の「真珠湾の日」というのを読みました。
「トラ!トラ!トラ!」と、日本人だと「日本のいちばん長い日」(原作は半藤氏)もあわせてみると、感慨もひとしおかと思いまつ。阿南陸相(三船敏郎)の切腹、こちらも痛くなってきそうです。すべての責任をとったということですね。
瀋陽(奉天)の脱北事件の時、「阿南大使」とテロップででていて、ひょっとすると陸相の息子さん?と思ったのですが、やっぱりそうでした。息子さんは親の背中を見て育たなかったようです。

Re: 青年将校嫌い

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/29 23:50 投稿番号: [3139 / 7270]
>私は文人が青年将校嫌いというのは、戦争を経験した世代だからということではなくて、文人が軍人嫌いであるという傾向性の故ではと思っています。

なるほど、そうかも知れませんね。
青年将校嫌いでいうと、北や石原もそうですが、彼らは大変な理想主義者ですね。
北一輝の「日本改造法案大綱」で説明戴いたように、平等と社会福利を実現しようとする理想に燃えています。
ただ、理想主義であるが故に、手段を選ばず、革命を遂げようという性急さと過激さがある。
文人や知識人は自分の頭で物事の本質を考える能力のある人間ですが、そういう人から見れば、青年将校たちの真面目さ故の冷淡さや情勢判断の甘さが目に付いてくるし、何よりも暴力で他人を屈服させることに対する拒否反応があると思います。
過激な青年将校だけでなく、昭和天皇が戦後述べられた、「もし自分が戦争を回避しようとすれば、自分は精神病院か何かに入れられて、自分の周りの人たちは殺されて、もっとひどい戦争になったろう」というように、軍部の威圧が相当に働いていた。
そうした方法で、時代を捻じ曲げていくことへの反発が強いのだろうと思います。

ただ、彼らは右翼的軍国主義的だと批判されますが、左派共産党そのもののマルキシズムではないにしろ、日本型社会主義を目指し、その後、学生時代左派にかぶれたマルキシズム崩れの官僚や資本家が参加する。
そこに国粋主義者が便乗する形だと考えます。
つまり、常に日本の政治の中心はあまり右翼的ではないのですが、そこに最右翼が加わることで、右翼的に見えてしまうのではないかと思っています。
そして、最右翼が取り除かれた現在では、右翼の意味も消滅しつつあります。
未だに残る左派の視点から見ると、現在の政治の主流が右翼的に映っているだけで。

>児島襄の「開戦前夜」(文春文庫)

本の紹介、ありがとうございます。
勉強させて戴きます。
同氏には「朝鮮戦争」という著書もありますが、かの国の人にも読んで欲しいな。(笑)

アメリカの動き

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/29 03:04 投稿番号: [3138 / 7270]
私の拙文よりも、児島襄の「開戦前夜」(文春文庫)のほうがよく纏まっていると思います。これと、映画トラトラトラをあわせると結構よくわかります。トラトラトラについては最近ホンキーさん、サムライさん他の方々が参加して話が進みました。

青年将校嫌い

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/11/29 02:59 投稿番号: [3137 / 7270]
>ええ、やはりあの時代を経験した人にとっては、敗戦へと連なる軍部台頭の一大事件ですね。

もう一人上げるのを忘れましたが、作家有馬頼親は殺された内大臣斎藤実の親戚で、斎藤邸の向かいの家の窓から襲撃の模様を目撃していたそうです(「2.26事件暗殺の目撃者」・恒文社)。有馬ももちろん青年将校きらいです。朝日に掲載された本書の種原稿にたいして、河野司氏(湯ケ原の牧野伸顕暗殺計画で負傷し、後に自決した河野壽大尉の兄)が、あの事件は単なる人殺しではない、との反論を書いています(「革命か人殺しか」・「私の2.26事件・河出書房)。河野氏は事件後、勤め先をやめ、その後2.26事件関係の解明を仕事としていたひとです。「一度お話をお伺いしたい」と言ったところ、「なんでも話します」とのことでしたが、その後逝去されました。

私は文人が青年将校嫌いというのは、戦争を経験した世代だからということではなくて、文人が軍人嫌いであるという傾向性の故ではと思っています。「あの事件が成功していてれば後の日華事変はなかったはずだ」という仮説があるのですが(これは、北や皇道派の軍人を含め、親中国派が多かったことをその理由のひとつとしますが。北の中国への思い入れはよく知られていますー辛亥革命について、支那、印度七億の民の覚醒、実にこの時を以って始まる。戦なき平和は天国へ道にあらずー那革命外史)。

とすると、一応皇道派と統制派は分けて考える必要があるはずですが、ま、皇道派も統制派も軍人、皆きらいだ的発想だろうとおもうのですが。(皇道派に同情的だったということで、事件後予備役に編入された斎藤劉少将の娘が歌人として結構有名な斎藤史女史です。少女の頃青年将校たちとも交流があったそうで、刑死した将校たちについての和歌をいくつかのこしています)。

>2・26事件の時代背景を加味して単純化すると、経済政策に失敗し、資本家と結託し堕落した政治家を清廉な皇道派の軍人が打破し、それを引き継いだ統制派を若手官僚(革新官僚)と国民が支持する構図になってますね。

戦争がはじまると、皇道派とみなされていた将校たちも現役に復帰したものがおおかったのですが、やはり、仲間を殺した統制派に対しては何かしらの怨念はあったようです(事件に連座して後軍に復帰した小川中佐(事件当時中尉)とチャンドラ・ボースとの興味深いビルまでのかかわりあいのエピソードがあるのですが割愛)。

>たとえば2・26事件の皇道派青年将校のバックにいた北一輝の「日本改造法案大綱」

これは長文ではないので全文読みました。興味深いところを上げますと、
労働者の権利の擁護、児童の権利の擁護、婦人の権利の擁護、などがあります。
労働者の権利については、企業利益の半分は労働者に還元されるべし、としています。児童の権利擁護では、16歳未満の労働を禁止してます。
婦人の権利については、婦人の労働は男子とともに平等にして、自由なり、としています。

国民の権利については、国民の自由平等なる権利を侵害する官吏は別に法律の定むるところにより、三年以下の体刑に処す、としています。

朝鮮に関しては、日本と全く同じ行政下におく。朝鮮は日本の属邦にあらず、日本の植民地にあらず、帝国の一部なり、としています。

ざっと読んだ感じでは、ワイマール憲法と現行憲法を混ぜ合わせたような感じです。

>石原は2・26事件と同様に、日本改造の意図で満州事変を起こしたと考えます。

満州事変に関与した石原、橋本欣五郎達と、北派の青年将校たちは結局は袂をわかちましたが。ケマル・アタチュルクに心酔する橋本の話を青年将校たちは冷笑までは行かないまでも、あまり受け入れなかったようです。桜会グループと青年将校グループの対立は、一応佐官クラスと尉官クラスという世代の違いと、グループを構成する人員の性格の違いにあるのではと思っています。   簡単にいうと、桜会グループは、べらんめー調グループ、青年将校グループは、ですます調グループという感じです。これは偶然だとおもいます。桜会グループにはべらんめちょー人種が多く、青年将校グループにはですます調の生真面目な人員が多かったということだと思います。   この性格の違いで結局仲たがいしたということではと思います。



>言論統制は大部分、軍のお先棒を担いで国民を煽ったマスコミが、自己責任を逃れるために言い出したことのように思います。

軍事機密や軍事情報を別にすれば結構自由だったとおもいます(ま、特高による左翼取締りはよくいわれますが)。現在のマスコミの自主規制の方が言論の本質にとって悪質です。

Re: >軍人が好戦的というのは

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/29 00:55 投稿番号: [3136 / 7270]
>御二方のお話を興味深く拝読させていただいておりますので、よろしくお願い申し上げます。

気楽でいいなあ、兎亀さんは。
しかも論点をどんどん広げて下さる。
本旨の論点に沿った質問やまとめをお願いします。(笑)

ところで、赤城艦長には開戦に至るアメリカの動きを解説して戴きたいと思いますが、どうでしょうか。

Re: >統制派自身が

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/11/29 00:54 投稿番号: [3135 / 7270]
>2.26事件にもどりますと、現代の文人も、三島を除くと、大部分が、大正時代の文人が軍人を毛嫌いしたように、2.26事件の青年将校は嫌いみたいですね。渡部昇一、谷沢永一、山本七平などかぞえきれません。

ええ、やはりあの時代を経験した人にとっては、敗戦へと連なる軍部台頭の一大事件ですね。
しかし一連の流れは、その前からすでに始まっていたともいえます。
大正10年原敬首相暗殺、昭和2年金融恐慌、5年ロンドン軍縮会議、浜口雄幸首相狙撃事件、6年満州事変、7年五・一五事件、8年ヒットラー政権誕生、10年相沢事件、11年2・26事件、12年盧溝橋事件、日中戦争。

2・26事件の時代背景を加味して単純化すると、経済政策に失敗し、資本家と結託し堕落した政治家を清廉な皇道派の軍人が打破し、それを引き継いだ統制派を若手官僚(革新官僚)と国民が支持する構図になってますね。

たとえば2・26事件の皇道派青年将校のバックにいた北一輝の「日本改造法案大綱」は簡単に言えば軍民一体の全体主義、ソ連の社会主義の影響そのままの「国家社会主義」の実現にあるのですが、この考えはヒットラー政権、満州事件を起こした石原莞爾にも見られるもので、満州国の経営指針となったものです。
石原は2・26事件と同様に、日本改造の意図で満州事変を起こしたと考えます。
そして、それからは国家社会主義路線でずっと日本は突っ走ります。(ついでに韓国の朴政権も同様)
つまり、世界恐慌による資本主義経済の挫折、ソ連の建国と経済発展、ドイツの復興などの世界情勢の中で、日本を立て直す手段として「国家社会主義」を採用したと。
その実現手段を軍が握ってしまったと考えます。
もちろん、国家社会主義は自由経済体制に比較して、日本の産業発展を著しく遅らせた点で大失敗でした。
文化的豊かさ、自由さを失っていく「空気」を醸成した点で、文人や知識人には不評ですね。

「言論統制」でいうと、どうなんでしょうか。
兎亀さんの提示された資料、従軍した司馬遼太郎や山本七平などの著書から見て、当時の国民に情勢が分かっていたということは、情報入手し、マズイという意見を持てるほど、言論は統制されてなかったと言っていいのでしょうね。
マスコミは戦中以上の検閲を受けた戦後のGHQを、しばらくは反米サヨクの立場から批判していたと思うと、今は護憲だの戦犯だのとGHQ通りのことを主張しています。
何の信念もなく、ただ反対しているだけのように見えますね。
言論統制は大部分、軍のお先棒を担いで国民を煽ったマスコミが、自己責任を逃れるために言い出したことのように思います。

Re: なんでこんなことに・・・

投稿者: mikenekonomanma 投稿日時: 2005/11/28 12:37 投稿番号: [3134 / 7270]
>>成長した子供や成人した人間なんかもいるんだろうか。
>    おそらく、大勢いるのではないでしょうか。
>   日本でも50代以上では無資格の助産(取上げ婆さん)で生まれた人は結構多いはずなので、
>無資格=無知とは限りません。

いえ、そういうことではなく生まれた子供が何らかの籍を持っているのかと言うことです。
中国の無戸籍「黒孩子」のような人たちがいるかもしれないということです。

お互い面識がなかったということらしいが、容疑者はその道では名の知れた人なんだろう。
不法な子供が出産時、生と死の別れ道でこの容疑者と接点をもつ。

もし、大勢の生死に関わっているとしたら、鬼ですね。
籍ももたず、成長した人たちがいるとしたら、どうするべきなんだろうって。

Re: なんでこんなことに・・・

投稿者: akubi_shimasita 投稿日時: 2005/11/28 08:21 投稿番号: [3133 / 7270]
当初、子供は切り刻まれてゴミ袋に入れられていたとテレビで報道されていましたが、違法産婆に「韓国籍の」がついたら、そのことは言わなくなってしまいましたね。
いつものことのような気がしますが、わかりやすい対応です。

Re: なんでこんなことに・・・

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/11/28 03:38 投稿番号: [3132 / 7270]
  >他に方法はなかったのかな。

   何よりも不法滞在の摘発が怖かったのでしょうか・・・

  >この人、何人くらい、違法な助産をしたんだろ

  >成長した子供や成人した人間なんかもいるんだろうか。


   おそらく、大勢いるのではないでしょうか。

  日本でも50代以上では無資格の助産(取上げ婆さん)で生まれた人は結構多いはずなので、無資格=無知とは限りません。

  >出血多量で死亡

   これは設備のある病院でなければ対応できない例だったのでは・・・
  (出産後、鉛筆くらいの太さの血管が開いたままになったような場合、病院でも危険ですから)  


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