とりあえずの資料3
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/12/03 04:32 投稿番号: [3153 / 7270]
「日本文明77の鍵」より「48植民地」
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〜略〜
軍事力を背景に、他民族を支配することに、一九世紀はおどろくほどに無反省であり、日本も、西洋の列強と同様に、その例外ではなかった。
もしも、理想の植民地経営があるとすれば、それは、いったい、どのようなものであろうか。現地人の反抗する力を最小限にし、効率的に、物的・人的資源を収奪できるものが、それであろう。日本の植民地経営におおきな足跡をのこした後藤新平は、イギリスのインド支配の方式に理想をみた。かれは、台湾の民生長官となるや、それまでの、軍事力一点ばりの統治をあらため、要所要所を政治的にコントロールし、後は現地人の風俗・習慣・制度などを尊重する方式にきりかえた。現地の実情を正確にしることは、植民地経営の成否を決するカギであったために、大学の研究者など専門家による調査が徹底してなされ、植民地経営におおきな成果をあげた。後藤は、一九〇六年には、南満州鉄道の初代総裁となる。それは、ロシアからゆずりうけた長春以南の鉄道、鉄道付属地、旅順・大連などの租借権を土台に設立された、半官半民の巨大会社であった。満鉄は、イギリスの東インド会社をモデルにつくられた、日本の中国大陸進出の中心となった会社である。その事業は、交通・鉱業(撫順炭坑)・工業(鞍山製鉄所)・拓殖・調査など、広範なものであった。満鉄の影響下にある満洲は、一九三二年に日本の完全な傀儡政府によって建国が宣言されるまでは、日本の植民地とはいえなかったが、満鉄に競合するような鉄道の施設などの禁止をとおして、実質的な植民地化がすすめられていた。
後藤は、日本の植民地経営の基礎を確立する一方で、台北・大連・奉天・長春などの都市では、国内ではできないような大胆な都市改造をすすめた。これらの都市の改造は、医者であり、公衆衛生の専門家であったかれの体験にもとずくものであり、植民地での都市改造の体験は、やがて、後藤を中心とした関東大震災によって焼失した東京の復興計画にいかされていくのである。しかし、植民地での体験の本国への反映は、このような幸運なものばかりではなかった。「帝国の復讐」という有名なことばがある。植民地での、本国政府にあまり束縛されない政治的実験が本国にはねかえり、本国そのものの政治を変化させるという周知の傾向性を表現したことばである。植民地での日本の体験は、最悪のかたちで日本本国にはねかえった。中国大陸での植民地的経営は、満鉄の民政能力と関東軍の軍事力によってささえられていたが、やがて関東軍はその力を背景として、つぎつぎに、中国東北部の満洲とよばれた地域の植民地化を工作した。満洲国建国にいたるプロセスのなかで顕著になった、軍部の政治分野への進出は、日本本国における政党政治の終末と軍人の政治への大量進出という帰結をもたらした。超国家主義的思想のとりこになった軍人主導の政治や思想的動向は、日本を絶対化した、排外主義的傾向をおびるようになってきてしまった。
植民地経営の方針も、このような動向を反映し、従来にいわば一種の理性的合理的植民地支配から、日本の文化を絶対化する精神主義的・非合理的政策が台頭してくる。一九三九年、日本語の強制、日本の神社参拝の強制、姓名の日本化などの方針が、あたらしい植民地政策としてうちだされたのである。植民地というものが、経営的搾取を本来の目的としているならば、このような政策は、植民地政策という概念からの逸脱ですらあった。一九世紀の植民地主義は、植民地の富をできるかぎり収奪しようとする残酷さをもっていたが、それらは一種のクールな合理的思考に裏うちされていた、ところが、最後の植民地帝国となろうとした日本は、その性急な軍国主義においても失敗者となったと同様に、植民地経営においても成功者とはならなかった。
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〜略〜
軍事力を背景に、他民族を支配することに、一九世紀はおどろくほどに無反省であり、日本も、西洋の列強と同様に、その例外ではなかった。
もしも、理想の植民地経営があるとすれば、それは、いったい、どのようなものであろうか。現地人の反抗する力を最小限にし、効率的に、物的・人的資源を収奪できるものが、それであろう。日本の植民地経営におおきな足跡をのこした後藤新平は、イギリスのインド支配の方式に理想をみた。かれは、台湾の民生長官となるや、それまでの、軍事力一点ばりの統治をあらため、要所要所を政治的にコントロールし、後は現地人の風俗・習慣・制度などを尊重する方式にきりかえた。現地の実情を正確にしることは、植民地経営の成否を決するカギであったために、大学の研究者など専門家による調査が徹底してなされ、植民地経営におおきな成果をあげた。後藤は、一九〇六年には、南満州鉄道の初代総裁となる。それは、ロシアからゆずりうけた長春以南の鉄道、鉄道付属地、旅順・大連などの租借権を土台に設立された、半官半民の巨大会社であった。満鉄は、イギリスの東インド会社をモデルにつくられた、日本の中国大陸進出の中心となった会社である。その事業は、交通・鉱業(撫順炭坑)・工業(鞍山製鉄所)・拓殖・調査など、広範なものであった。満鉄の影響下にある満洲は、一九三二年に日本の完全な傀儡政府によって建国が宣言されるまでは、日本の植民地とはいえなかったが、満鉄に競合するような鉄道の施設などの禁止をとおして、実質的な植民地化がすすめられていた。
後藤は、日本の植民地経営の基礎を確立する一方で、台北・大連・奉天・長春などの都市では、国内ではできないような大胆な都市改造をすすめた。これらの都市の改造は、医者であり、公衆衛生の専門家であったかれの体験にもとずくものであり、植民地での都市改造の体験は、やがて、後藤を中心とした関東大震災によって焼失した東京の復興計画にいかされていくのである。しかし、植民地での体験の本国への反映は、このような幸運なものばかりではなかった。「帝国の復讐」という有名なことばがある。植民地での、本国政府にあまり束縛されない政治的実験が本国にはねかえり、本国そのものの政治を変化させるという周知の傾向性を表現したことばである。植民地での日本の体験は、最悪のかたちで日本本国にはねかえった。中国大陸での植民地的経営は、満鉄の民政能力と関東軍の軍事力によってささえられていたが、やがて関東軍はその力を背景として、つぎつぎに、中国東北部の満洲とよばれた地域の植民地化を工作した。満洲国建国にいたるプロセスのなかで顕著になった、軍部の政治分野への進出は、日本本国における政党政治の終末と軍人の政治への大量進出という帰結をもたらした。超国家主義的思想のとりこになった軍人主導の政治や思想的動向は、日本を絶対化した、排外主義的傾向をおびるようになってきてしまった。
植民地経営の方針も、このような動向を反映し、従来にいわば一種の理性的合理的植民地支配から、日本の文化を絶対化する精神主義的・非合理的政策が台頭してくる。一九三九年、日本語の強制、日本の神社参拝の強制、姓名の日本化などの方針が、あたらしい植民地政策としてうちだされたのである。植民地というものが、経営的搾取を本来の目的としているならば、このような政策は、植民地政策という概念からの逸脱ですらあった。一九世紀の植民地主義は、植民地の富をできるかぎり収奪しようとする残酷さをもっていたが、それらは一種のクールな合理的思考に裏うちされていた、ところが、最後の植民地帝国となろうとした日本は、その性急な軍国主義においても失敗者となったと同様に、植民地経営においても成功者とはならなかった。
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これは メッセージ 3152 (usagigamemaimai さん)への返信です.
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