入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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豊台事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:55 投稿番号: [1443 / 2250]
寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊   40〜41p


《 馮治安は河北省の出身で、当年四十四歳、馮玉祥の旧部下ではあったけれど、

抗日の鼻息荒く、する事なす事、宋の意に反するところが多かった。

そこで遠く手離しておくと、何を仕出かすかわからないというので、

一番手近な北京周辺の要地に配してあった。



ある日私が万寿山の方に車をとばせて行くと、

ちょうど西宛の兵営から出て来た馮治安の部隊、歩兵の一ヶ連が私の車とすれ違った。

この時、彼等が歌っていた軍歌は


  打倒日本   打倒日本     除軍閥   除軍閥

  努力革命成功        努力革命成功

  去奮闘    去奮闘


というのだった。この歌詞はもともとは、打倒列強   打倒列強   というのだが、

三十七師はそれをわざわざ打倒日本と置き換えて歌わせていた。



黒塗り厳めしい西苑の兵営は、昔、独逸人技師の設計監督の下に建てられた

という事だが、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、

さきに梅津・何応欽協定で華北から逐   (お)   われた、二十五師長関麟徴なども、

しばしばここに姿を現わして兵を煽動し、

また中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗して

この方面に顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。

師長馮治安が徹底的に日本嫌いな男であってみれば、

上の行なうところ下これに倣   (なら)うのも、またやむを得ないところではある。



話は少々遡   (さかのぼ)   るが、昭和十一年九月十八日、豊台事件というのが勃発した。

満州事変柳条溝の一発から、満五年の記念日である。

こういう日には日華双方、お互いが余程気をつけ慎み合わないと、

とかく不慮のゴタゴタを引き起しがちである。

この日の夕刻、豊台駐屯一木大隊の一ケ中隊が、駅前近くを通りかかったところ、

折りから演習帰りの中国軍一ケ連とすれ違った。

ところが中国兵の一人が、穂積中隊最後尾の兵を、

故意に路外に押し出すような行動をとった。



部隊の後から乗馬でやって来た年少血気の小岩井光夫中尉、

やにわに中国兵の群に躍り込んで連長に対し、鋭く彼の不法を難詰した。

中国兵の一人が小岩井中尉の馬の尻をたたき、馬が驚いて跳ね上った。

中国兵は即座に銃に弾を込め、自分達の兵営の前に散開して、

対応の姿勢をとったので、日本軍も直ちにこれと相対峙   (たいじ)   し、

睨   (にら)   み合いの態勢に移った。



北京から特務機関の浜田補佐官や桜井徳太郎軍事顧問がとんで来た。

もちろん牟田口廉也連隊長もやってくるし、

中国側の副師長許長林少将や外交専員林耕宇などもかけつけて来た。


河辺旅団長が即刻、隷下日本軍に発砲禁止を命じたので、彼我の交渉は、

その翌日の明け方まで続けられたが   両軍干戈を交えるまでには立ち至らず、

結局中国側の陳謝と、関係者の処罰、ならびに中国軍部隊の豊台撤去を条件として、

一応この問題に終止符が打たれた。》

アリソン事件証言の食い違い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:45 投稿番号: [1442 / 2250]
アリソン殴打事件に関する、三つの記述を紹介しましたが、

その被害者に関する記述がそれぞれ異なっているように見えます。



タイムズ    被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる

       建物にいた難民。

笠原解説    金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。

飯沼日記    米人経営ノ農具店ニ   二十四日夜十一時頃日本兵来リ、

       留守店ヲ銃剣ニテ脅シ   女二人ヲ連行




さて、この事件には前段階があります。

松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   165p


《 ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、

朝十時半、小粉橋三号の小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、

好きなように各部屋を捜索していたが、見つけられてほぼ向かいの

小粉橋三二号の本部へ入ってゆくのを観察した (①157頁) 旨が書かれている。



この後に、大問題になった   「アリソン殴打事件」   が起きるのである。

一月二十五日、ベイツは二通の手紙をアリソンに送って、

この事件のきっかけとなった日本兵による婦人強姦事件を説明している。

それを要約すれば、一月二十四日午後十一時、白っぽい腕章をした日本兵が

胡家菜園の金陵大学農機具店に押入り、店員を銃で脅し、

彼らは婦人一人を連行して強姦し、二時間後に釈放した。



犯人は白い腕章から判断される特務兵ではなく、恐らく憲兵の仕業と思われる(①161頁)

と記す。そして、追伸として、被害者の婦人を伴ってリッグズと共に調査したところ、

慎重に五回もチェックした結果、

「問題の建物は小粉橋三二号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした」(①162頁)と

特定したことをアリソンに報告したのである。》



ところが、あとで、とんでもない事実を明かしています。


松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   167p


《 『南京事件資料集①』   に、ティンパレーとベイツの間に交わされた

『戦争とは何か』   の出版をめぐる往復書簡   (352〜376頁)   が掲載されている。

・・・

その中の三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に

次のような一節がある。

資料名   「E八八 − 一〇〇」   についての注意である。



〈 もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。

彼らは、たびたび私たちを困らせました。

アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。

殴打事件は彼らの巣窟で起きたのですが、

そこは、かつてバックが展示会をした語学学校   (小桃園)   の反対側のところです。

その語学学校では、一、二度君とも会ったことがあります。〉



*   天野中尉がいたのは   「小粉橋三二号」、ベイツの言う贋憲兵は   「小粉橋三八号」

   要するに、略奪や強姦をやっていたのは   「小粉橋三八号の贋憲兵」   だと

   言っているのです。

   しかして、調査に突入したのは   「日本軍兵舎」

   だから、殴られたわけです。

   やっと彼らも、撹乱する贋日本兵がいることに気づき始めたようです。

梅津・何応欽協定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:56 投稿番号: [1441 / 2250]
満洲事変のあと、中国はテロ行為だけでなく満洲への再侵略も執拗に試みていました。

そのため、日本側は対応を迫られます。


寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊   昭和45年発行


19p

《 前年   (昭和9年)   十一月、彼   (宋哲元)   の部下、馮治安   (ひょうちあん)   の

部隊が突如、熱河省を侵犯し、大灘   (だいなん)   西方二十キロ、

断木梁という部落に進出して来た。 》


21〜22p

《 この年   (昭和10年)   の四月、・・・、五月三日、天津の日本租界で、

国権報の社長胡恩傅   (こおんふ)   と、振報社長白逾桓   (はくゆかん)   の

二人の親日分子が白昼何者かに襲撃され命をおとした。

こえて五月二十四日には、孫永勤という抗日匪軍が熱河を犯し、

続いて非武装地帯に侵入するという新たな事態が引き起された。



このところ華北の空気はめまぐるしいまでに物情騒然、混沌模糊として、

不安な日が続くようになった。

由来、天津軍本来の任務は、北京、山海関間の鉄道の保全、

ならびにこの間に在住する居留民の保護にあったが、

現状ではこの任務さえも、とかくおびやかされがちだった。



− こんな事では全く困る。華北の明朗化を妨げるやからは、

この際抜本的に荒療治してしまうんだな。−

気の早い酒井参謀長は、起案紙に一気呵成、華北粛清対策案をなぐり書きした。

これが梅津・何応欽協定の骨子となったのであるが、その内容は概ね次の通りである。


    通   告

一、   最近華北に頻発しつつある排日侮日の諸現象は、方   (ひと)   しく

   塘沽   (タンクー)   協定の破壊行為たると共に、

   また北清事変議定書の精神をも蹂躙するものなり。

   我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基き、

   今後自衛上必要と信ずる行動に出づる事あるを通告す。


二、   これを未然に解決せんがため、左記各項の即時実行を要求す。

   イ   軍事委員会北京分会、憲兵第三団、国民党部、政治訓練所、

     藍衣社   (らんいしゃ)   等の一律華北退去。

   ロ   黄杰   (おうけつ)   の第二師、関麟徴   (かんりんちょう)   の

    第二十五師等、中央直系諸軍の華北撤退。

   ハ   河北省政府主席于学忠、憲兵第三団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の

     罷免ないし処罰。

   ニ   排日侮日行為徹底取締りの確約。

                    以   上 》



そして、6月28日、断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、

土肥原少将が新たに   《 京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する 》

という協定を秦徳純に結ばせました。

これが土肥原・秦徳純協定です。


*   善人心の人達は、『梅津・何応欽協定』 や 『土肥原・秦徳純協定』 を

   押しつけた事を非難しますが、なぜ、そうなったのを見ようとはしません。

1月26日 アリソン殴打事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:46 投稿番号: [1440 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』
173〜174p


《 偕行社編纂の   『南京戦史資料集』   に収められている

当時の上海派遣軍参謀長、陸軍少将飯沼守の日記に、

アリソン殴打事件に関連すると思われる記述が見える。



〈 一月二十六日、本夕本郷少佐ノ報告。

米人経営ノ農具店ニ   二十四日夜十一時頃 日本兵来リ、

留守店ヲ鉄剣ニテ脅シ   女二人ヲ連行強姦ノ上   二時間程シテ帰レリ、



依 (よっ) テ訴ヘニ依リ   其   (その)   強姦サレタリト   云フ家ヲ

確メタルトコロ   天野中隊長   及   兵十数名ノ宿泊セル所   ナルヲ以テ、

其屋内ヲ調査セントシタルニ   米人二人亦   (また)   入ラントシ、

天野ハ兵ヲ武装集合セシメ   逆ニ 米人ヲ殴打シ追ヒ出セリ、



其知ラセニ依リ   本郷参謀現場ニ到リ、

中隊長ノ部屋ニ   入ラントシタルモ   容易ニ入レズ、

隣室ニハ   支那女三、四名在リテ

天野ノ部屋ニ入レバ   女ト同衾シアリシモノノ如ク、

女モ寝台上ヨリ 出テ来レリト、



依テ中隊長ヲ 訊問シタルニ   中隊長ハ其権限ヲ以テ

交ル女ヲ連レ来リ   金ヲ与へテ 兵ニモ姦淫セシメ居レリ

トノコト、依テ憲兵隊長小山中佐 及 33〔i〕(引用者註・iは歩兵)

第二大隊長ヲ呼ヒ   明朝ノ出発ヲ延期セシメ   大隊長ノ取調ニ引続キ

憲兵ニテ調ブルコトトセリ。〉(同書242頁)》



注 : 同書とは   青木書店刊   『南京事件資料集』   のアメリカ関係資料編


*   飯沼日記から見るに、ここにいる女性は売春婦のように見え、

   とても連行されて強姦されている様には見えない。

   それでも、日本側は天野らを処罰した。

満州再侵略への反撃から塘沽停戦協定へ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/05 15:29 投稿番号: [1439 / 2250]
昭和7年7月17日午後1時ごろ、

満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が

両省の境に近い南領〜朝陽寺間にさしかかった所、

一隊の武装兵が停車を命じ、乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。

犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。



熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。

満州を追われた張学良は、

4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。

そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。

関東軍は昭和 8 年熱河作戦を行い、

結果、本来の満州の領域である熱河省の回収に成功しました。



この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。

ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、

結局、長城の南にも行かざるを得なくなります。

その時、関東軍は、天津・北平   (北京)   に迫る勢いを見せます。

これは不都合だからやめさせなければなりません。



長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、

南に行くと侵略とすり替えられ、防衛の主張が通らなくなります。

だから止めなければならないのです。

ところが現場が止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、

関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。

だから “もっと遠くへ” とやっている内に、こうなったわけです。

しかしこれでは際限がありません。



そこで “ 中国軍が二度と満州を侵略できないようにと

《 北京北方から密雲以東、長城線から約五〜六十キロの深さの河北省 》

を非武装地帯にする ” という

塘沽停戦協定を中国に結ばせて、関東軍は長城の北に引き揚げました。


(児島襄著   『日中戦争』   文春文庫   2巻287p〜3巻106p 要約)



これにて、満州事変は終了します。しかし中国側は納まりません。

つねに満州再侵略を試み、また中国国内で排日運動を激化させます。


つづく

1月26日 アリソン殴打事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/05 15:11 投稿番号: [1438 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   123p


《 事件は一月二十六日に突発した。

リッグズと共に金陵大学に隣接する建物に入ろうとしたアリソンが、

警備していた日本軍の歩哨と押し問答の末、

無理に進入しようとして二人が殴られた・・・(①448〜452頁)。



事件の大要を、一月二十八日付の上海発アベンドの電報と、

同二十九日付   「ニューヨーク・タイムズ」   の記事をもって描いてみる。

ある女性が日本兵に暴行されたとの訴えを受けたアリソンは、

その兵士を特定し得る証拠を掴もうとして、リッグズと共に

その兵士が入っていったと彼女が指し示した建物に入ろうとした。



被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる建物にいた難民だった。

兵士が入ったのは、日本兵の宿舎だったので、歩哨はアリソンの進入を許さず、

交渉半時間に及んだが、業を煮やしたリッグズが半開きの門から押し入ろうと

したために、歩哨が二人の頬を一回ずつ平手打ちした。(①449〜451頁)



171p

アリソン殴打事件の笠原解説


〈 一月二四日の夜一一時ごろ、

武装した日本兵が金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。

その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、

同邸を占領していた日本兵に三回強姦されて、二時間後にもどってきた。

二日後、日本兵が侵犯したのが二つともアメリカ人の施設であったので、

アリソン書記官は金陵大学のリッグズと一緒に被害女性に案内させて現場へ調査にいった。

日本の領事館警察と憲兵が複数名同行した。



強姦がおこなわれた家の邸内に入ろうとしたところ、

中から日本人将校があらわれ、アリソンとリッグズに平手打ちをくれたのである。

止めに入った憲兵が 「こいつはアメリカ人だ」 というと、将校はさらに激昂して

リッグズに襲いかかり、衿を引き裂き、シャツのボタンを引きちぎったのである。

これが、日本軍将校がアメリカ政府の外交代表である外交官に

平手打ちを加えて侮辱した、アリソン事件である。〉

  (『南京難民区の百日』   294〜295頁)》


注 : ① は   青木書店刊   『南京事件資料集』   のアメリカ関係資料編


つづく

馬賊の聖域となった錦州を爆撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/04 15:45 投稿番号: [1437 / 2250]
この部分は外そうと思っていたのですが、

嘘しか教えられていない哀れな中国人が、つっかかって来ましたので、

かわいそうな彼のために一応触れておく事にします。

私としては、同じ事を書くのは疲れるのですが、やむを得ません。



満洲事変の結果、満洲国を建国しても、

出来たばかりの満洲国に自衛能力は有りません。

いきおい関東軍が肩代わりする事になります。

中国が、つねに再侵略を試みますので。



満州事変では、いくつかの地域が独立をしましたが、他は手つかずでした。

最初、関東軍は中国東北辺防軍のいる錦州は攻撃しませんでした。

それは、日本政府が中国と全面戦争になることを避けていたからです。


関東軍は馬賊の討伐もやっていますので、これを追撃すると錦州に逃げ込みます。

関東軍が手を出せないので、錦州が馬賊の聖域となっていました。

そしてこの馬賊は中国東北辺防軍の別働隊でもあったのです。

また錦州政権の存在は関東軍占領下の小軍閥の動きにも影響を与えていました。

そこで、関東軍は錦州を何とかしなければと考え、錦州を爆撃する事にしました。



といっても爆撃機ではなく偵察機で、しかも人が手でもって落とすという

原始的なやりかたでです。だから、効果は知れています。

しかも、日本政府の意思を無視してです。

何でそんな事をしたのかというと、目的は軍事効果ではなく、

それによって、お目出度い政治家の頭を吹き飛ばす事にあったそうです。


後になって日本は交渉で張学良軍を山海関の外に移動させます。


(児島襄著   『日中戦争2』   文春文庫148〜153p 要約)


しかし、これで、満州国が安定したわけではありません。


つづく

1月25日 チャイナ・プレスの記事

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/04 15:36 投稿番号: [1436 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   276〜277p


〈 『馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を煽動』

また、上海でアメリカ人の発行する 『チャイナ・プレス』

(一九三八年一月二十五日号)も、同じことを報じている。

それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、

支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。

これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。


つづけて   『チャイナ・プレス』   一月二十五日号は、

その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。



《 その報告書の主張するところによれば、

彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ:音訳)がいた。

彼は陳弥   (チェンミイ:音訳)   と名乗って、

国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。



また、前第八十八師の副師長   マーポーシャン   中将や、

南京警察の高官密信喜   (ミシンシ:音訳)   もいると言われている。

馬中将は安全地帯内で反日撹乱行為の煽動を続けていた、と言われる。

また、安全地帯には黄安   (ファンアン:音訳)   大尉のほか十七人が、

機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、

王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》



安全地帯に潜伏中の支那軍将兵が悪事を働いたのである。

上海派遣軍参謀長・飯沼守少将が昭和十三年元旦の日記に、


「他ノ列国公館ハ   日本兵ノ入り込ミタル疑アルモ   番人ヨリ

  中国軍隊ノ仕業ナリトノ   一札ヲ取リ置ケリ」   と書き、


一月四日の日記に   「保安隊長、八十八師副師長」   を逮捕と

記していることが、右の記事の正しさを裏付けている。



注意すべきは、安全地帯の支那軍将兵たちは強姦の話を

撒   (ま)   き散らしただけではなかった。それを証明すべく、

自ら   「強姦に携わった」   か、強姦未遂に携わったことである。

そのような舞台裏を知っていたのであろう、

支那人の中から、強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。

東京裁判に提出されたマッカラムの一九三八年一月の日記は、


「支那人ノ或ル者ハ   容易ニ掠奪・強姦及ビ焼打等ハ

  支那軍ガヤツタノデ、日本軍ガヤツタノデハ無イト   立証スラ致シマス」


というふうに記す。〉



*   結局、南京での掠奪・強姦・放火などは、潜伏中国兵のしわざだったんですね。

   それを、さも日本軍がやっているかのように見せかけていたわけです。

   すべては、中国の自作自演。

   中国人が証言しているのに、外国人は聞く耳をもたなかった。

   今の中国人は、嘘しか教えられていない憐れな人たち。

   もっとも、彼らに真実を知るすべはないから、我々が発信して行くしかない。

Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし

投稿者: takagi101nejp 投稿日時: 2012/02/04 09:52 投稿番号: [1435 / 2250]
チャンコロ何て行き物は、自分勝手で見栄張りで、面子をけなされると

火が付いたタコの様に、顔を赤くしてチャンコロナマリの聞きにくい

日本語で、

皆さん   日本に外人で長く住んでいる方は、皆さんそれなりに日本語

が上手に成り、発音も良く成る方が多いが、

チャンコロだけは、馬鹿何だか向上心が無いのか、チャンコロの話す

日本語は、長く在住して居てもチャンコロ独特のナマリの日本語で

中華思想で面子を前面に出して話すると、思わず隣にそのチャンコロが

居たら、カ〜ァときて、殴り殺すだろー

先日の中国海軍が沖縄近海を、堂々と通る   軍も違反は承知しての

行動、その図太い考えこそ   チャンコロ行動   常識や世界ルールを無視

こんな国は、北と、ロスケだけ   {ロスケは、ロシア人の事}

チャンコロは反省しないのか。

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/03 19:00 投稿番号: [1434 / 2250]
お前らが、攻撃したから、日本軍は反撃したのだ。

お前らに   「復讐」   など口にする資格はない。

日本は何度も停戦や和平を持ちかけたのに、蒋介石が蹴って無理やり戦争をした。

その上で侵略されたと嘘を言っていたのだ。



恨むなら、盧溝橋事件を仕掛けた中国共産党を恨め。

そして、上海を攻撃して、戦線を拡大させた蒋介石を恨め。

蒋介石は全てを犠牲にして戦争すると関頭宣言したのだ。

だから、日本の出す、温和な和平案をけった。



中国人民を虐殺し、犠牲にしたのは、毛沢東であり、蒋介石だ。

日本は被害者に過ぎない。

復讐したいなら、天安門に行って、毛沢東の画像を焼いて来い。

中国人による無数の暴虐事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/03 18:44 投稿番号: [1433 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社

127〜129p
※   南   支

一、一九三六年一月六日、汕頭で二千人の中国人の中学生が日本に対する

   戦争を要求しつつデモを行った。

二、一九三六年一月二一日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が

   自宅から出勤途中、中国人に射殺された。

三、一九三六年一月、中国警察と税関警備兵が広東の三六ヶ所の

   中国人事務所を襲い、日本商品を没収した。



四、一九三六年七月三日、広東の中国人商店は反日組織により、

   日本商品ボイコット相互組合に加入することを余儀なくされた。

五、一九三六年九月六日、汕頭でもう一つの反日デモが行われ、

   日本人経営の商店で働く中国人に退職を余儀なくさせた。



六、一九三六年九月三日、広東省バクホイで中野という名前の日本人薬局経営者

   (薬剤師)   が、一九路軍の中国人兵士によって惨殺された。

   暴徒が薬局を急襲した時、中野の家族は夕食を食べていた。

   中野は街路に引きずり出され、そこで蹴られ、殴られ、そして殺された。

   その間、彼の中国人の妻は筆舌に尽くしがたい程の虐待を受けた。

   店は完全に略奪された。



   広東の日本領事館員が調査のため汽船でバクホイに赴いたが、

   一九路軍は力ずくで彼らの上陸を妨げた。

   彼らはいったん広東へ戻らねばならず、そこで二〇日間待たされたあげく、

   ようやくバクホイに入ることを許された。



七、一九三七年三月、広西省当局は反日感情を煽り立てるためのただ

   それだけの理由で、全ての日本人を広西省から追放した。

八、一九三七年五月二二日、汕頭の日本領事館に勤務する警官が

   中国警察に滅多打ちにされた。



このリストは、南京政府が十年間に渡って資金を援助し、

煽動してきた反日宣伝活動が、蒋介石自身が予期したよりも

はるかに決定的な効果を及ぼしたことを示している。》

1月25日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/03 18:36 投稿番号: [1432 / 2250]
一月二十五日


《 外交部に設けられた病院で働く中国人の男女二人の看護人が、

マギーに連れられて本部へやって来た。

病院で働いていた苦力が一人、日本兵に刺し殺されたのだ。

我々はくわしい事情を聞き、極秘文書に記録した。

それと同時に、どうやらひどい状態らしい軍政部の病院について、

人かに報告してもらうことにした。



我々が届けを出さなかった事件の一つにこういうのがある。

ある中国人が日本人のために一日中働き、お金の代わりに米をもらった。

疲れきって家族とともに食卓に着くと、テーブルには妻が今さっき

置いたばかりの鉢がのっており、おかゆがすこし入っていた。

これが一家六人の夕食だった。

そこへ通りかかった日本兵が面白がってその鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。

彼は何の罰も受けずに済んでしまった。



この話を聞いたとき、 『奴隷となるよりは死を』   という

リリーエンクローンの詩が思いうかんだ。

だが中国人たちにあの自由人、リリーエンクローンのまねをしろと

いったところでどだい無理な話だ。

これでもかとばかりに踏みつけにされ、



中国人はもう長いことひたすら苛酷な運命に甘んじてきたのだ。

前にも言ったように、

これなどほとんど気にもとめられないほどの小さな出来事なのだ。

もし強姦した人間が残らず仕返しに殴り殺されたら、

日本軍はすでに全滅していることだろう。



ドイツ大使館を通じて、たった今妻のドーラから手紙を受け取った。

「いまならすぐに休暇でドイツへ帰れます。いま逃げださないと、

あと五年、待つことになりますよ」。

まあ、そこまでひどくなることはもうないと思うが。



三月一日までここに残ってもいいと会社がいってくれるかどうか、

とりあえず待つことにしよう。

もっともそのときになってもまだ片づいていないかもしれないが。

私としては、休暇は歓迎だ。

実際のところ、いま中国にはいいかげん嫌気がさしている。

けれど、だからといって逃げだすわけにはいかないのだ!



  二十二時十分

ラジオ上海によると、クレーガーが日曜日の晩、一月二十三日に、

屋根のない列車に十二時間揺られた末、無事に上海に到着したそうだ。》



*   「食卓に着くと、・・・鉢がのっており、おかゆがすこし・・・

   これが一家六人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がって

   その鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。」


   食事は家の中、日本兵が外を通っていても、食事中かどうかわからない。

   一軒一軒入って、調べるわけがない。

   ましてや、放尿など、その時、出るとは限らないだろう。


   かつて清国の官憲は、宣教師たちに、中国人の訴えを信用するなと言ったが、

   まさに、これこそが、それだろう。


  《 教士   (宣教師)   は性直にして、詭譎   (あやしげ)   な情形を知らず、

   教民が実在   (じっさい)   にいじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。

   そのじつ、ひとたび対質   (といただし)   を経れば、事みな虚無なり》


   届け出を出さなかったのは、ラーベ達も確証がなかったのでは。

そんな態度か?

投稿者: jinyang729 投稿日時: 2012/02/02 21:42 投稿番号: [1431 / 2250]
歴史に真面目に対する勇気はないのか?    ドイツのように   それは本当に感心ですね    日本はそうではない    どうして??

お前倭奴ら

投稿者: jinyang729 投稿日時: 2012/02/02 21:39 投稿番号: [1430 / 2250]
それは事実だ     きっと復讐するぜよ!

Re: 生きたまま焼き殺された日本兵

投稿者: jinyang729 投稿日時: 2012/02/02 21:34 投稿番号: [1429 / 2250]
日本人の侵略のせい    中国人は何千万が死んでた!!お前してるか?    なぜお前言ったようににほんじんが殺されたか?侵略よ!倭人

『丸一洋行』 店主惨殺事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/02 18:48 投稿番号: [1428 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫    225〜226p


《九月三日、またしても日本人殺害事件が発生した。

現場は、広東省雷州半島の西方の北海市。

被害者は、同市第七区泰華鎮珠海中路第九十号の   『丸一洋行』   店主・

中野順三であった。



北海市には、八月二十四日、反蒋介石を主張する第十九路軍の一部、

フン照垣指揮の   「抗日救国軍第一師」   約千五百人が進駐し、

随行してきた学生約三百人とともに、 「打倒日本賊」 「打倒蒋介石漢奸」

などのビラをまき、市内要所にたむろしていた。



中野順三の店は、なかなかの盛業ぶりを示し、家族は第一、第二夫人、

男児四人、女児一人であった。

なぜ   『丸一洋行』   が対象になったかは不明だが、師長フン照垣は、

進駐してくると、商務局をつうじて立ち退き要求をくり返し、

中野順三も、やむなく承知して店じまいの準備をすすめていた。



すると、九月三日午後七時ごろ   ―

『丸一洋行』   に三十歳前後の男二人がはいってきて、

はじめは買物客の風情で店内を歩きまわっていたが、

店番をしていた中野順三の長男清に、いきなり拳銃をつきつけた。

「(ここは)   日本人ノ店ナルベシ」



拳銃をむけられた長男清は、二人の質問に答える余裕もなく、

「オ父サン」 「オ父サン」   と連呼しつつ、二階にかけのぼった。

二人は拳銃を発射した。その発砲音が合図であったらしく、

いずれも十七、八歳の青年四、五人が   「ジャック・ナイフ」   を

ふりまわしながら乱入してきた。



中野一家のうち、第二夫人は年少の男児三人をつれて外出中で、

店には中野当人のほかは第一夫人、長男清、長女千鶴子がいた。

第一夫人と長女千鶴子は、長男清のあとを追おうとしたが、

乱入してきた一味につきとばされた。

二階に殺到した一味は、食事中の中野順三におそいかかり、

猿グツワをして壁におしつけ、

ナイフで右胸部、腹部、頸部を刺して、殺害した。



長男清は、その間に二階の裏窓からとびおりて逃げ、

階段をはいのぼってきた長女千鶴子が、なかば気失しながら、

父親が刺殺される状況を目撃していた。》

1月24日 日本兵 女性連行強姦の訴え

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/02 18:41 投稿番号: [1427 / 2250]
国際委員会に日本兵が女性を連れ去り強姦したとの訴えがありました。


松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   165p


《 一月二四日の夜一一時ごろ、武装した日本兵が

金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。

その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、

同邸を占領していた日本兵に三回強姦されて、二時間後にもどってきた。》

(『南京難民区の百日』   294〜295頁)



松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問 』   173〜174p


《 米人経営ノ農具店ニ   二十四日夜十一時頃日本兵来リ、

留守店ヲ銃剣ニテ脅シ   女二人ヲ連行強姦ノ上   二時間程シテ帰レリ、》

(飯沼守の日記より)



*   これは、 「1月26日   アリソン殴打事件」   の前段階の話です。

   これよりアリソン殴打事件に発展します。

日本人記者惨殺事件4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/01 18:49 投稿番号: [1426 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
221〜222p


《 田中武夫の記憶によると、部屋には安楽椅子二脚が壁際におかれ、

壁を背にして左の椅子の前に田中、右の椅子の前に渡辺、渡辺の前に瀬戸、

二脚の椅子の間に深川が立っていた。

群衆は、前回とちがって、 「殴れ」 「殴れ」   と叫びながら四人に殺到し、

たちまち、深川経二が異様なうめき声をあげて倒れた。



そのもがく姿を見たあとの田中武夫には、自身のことしか記憶に残っていない。

夢中で、眼前によろめいてきた中国人警官の腰にしがみつき、

警官を楯にして棍棒、鉄拳の攻撃をさけようとした。

警官はあわててふりはなそうとする。田中武夫はなおもしがみついていたが、

隣室に逃げこむ警官は大きく腰をふって、ふりきった。



田中武夫は、群衆の中に孤立したことを自覚すると、抵抗を断念し、

暴徒が電灯線をひきちぎって両手をしばろうとするときも、すすんで手をさしだした。

両手をしばられたあと、財布、時計その他身につけた物を掠奪され、

外にひきずりだされた。

旅館の庭、周辺は男女の群衆でうずめつくされ、のちにその数は約一万人と

推算されたが、多数の中学生、さらには小学生もあつまって、口々に田中をののしった。



現場には、警備司令部から派遣された武装兵士約二百人が到着していたが、

発砲して群衆を解散させることもなく、傍観するだけであった。

いや、田中が学生に連行されてくると、兵士が学生から引きつぎ、

田中をひきまわしさえした。

田中は、次々に群衆の殴打をうけながら夜の街を歩かせられていたが、

右耳を棍棒で強打されて倒れた。

警官が、この男は死んだ、と叫んで、なおも殴ろうとする群衆を制止し、

人力車でカナダ人経営の   『四聖病院』   にはこばせた。



気がついた田中が看護婦に時刻をたずねると、午後九時とのことであった。

群衆はなおも病院内におしかけ、さすがに乱暴はしなかったが、

いれかわり立ちかわりに、懐中電灯で田中の顔を照射した。

午後十一時ごろ、田中は担架で督弁公署にうつされ、軍医の手当をうけて、

ようやく安堵した。

瀬戸尚も督弁公署にはこばれていて、二人は無事を喜びあい、

同時に、残る二人の安否を気づかった。



田中武夫が、特派員渡辺洸三郎と記者深川経二の死を知ったのは二日後だが、

実際には、翌日、八月二十五日午前五時ごろ、二人の死体が

王府街の火神廟前で発見されている。

二人ともに全裸にされ、さんざんに殴られて殺されたとみえ、

顔もぐしゃぐしゃにつぶれ、酸鼻をきわめた死にざまであった。》



*   この被害者達には酷な言い方だが、日本人には平和憲法的感覚が多すぎる。

   こういう結果になりそうな事は、行く前から想像がつきそうなものに。

   昔の日本人も今の日本人と同じで、

  「話せばわかる」、 「同じ人間じゃないか」 「武器を持たない者を攻撃しないだろう」

   と言う、甘い幻想と美しい心で出かけて行き虐殺される。

   なぜ、日本人は歴史に学ばないのか。


つづく

洗濯婦調達と買春の混同2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/01 18:41 投稿番号: [1425 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   181〜182p


《 四、高玉は、大学や安全区の保護徹底のために日夜努力しているのに、

   その行動について悪意ある攻撃が出たので、ひどく傷ついている。

五、安全区の悪意ある中国人による反日的な捏造の話を信じないように

   注意すべきこと。

六、あらかじめ、様々な礼儀正しさや保証が必要だということ。



この内容をよく読めば、一月八日、十日の事件と、一月二十四日の出来事とを

同列に考えて、小粉橋三八号と小粉橋三二号とを混同していた

ベイツの誤解がよく理解できると思う。


この後にアリソン事件が起きた。

ベイツの訴状は一旦中断して二月二十二日に再開するが、

前記一連の手紙から浮かんでくることがある。

そのキーワードが 「洗濯女」 である。



一月三日、日本兵の医療部隊に連行された五人の女性が洗濯女にさせられ、

   夜は売春婦になることを強要されたと、怪我をした女性が訴えた。

一月八日には、日本大使館から荷物を持って出てきた洗濯女が

   難民のいる大学に戻ってきた話があった。

   そしてここに、高玉が洗濯女を連れていったとの言葉が出てきた。

現代と違って、重労働を伴う大量の洗濯は、金のために雇われて働く女性の

仕事の一つだった。ヨーロッパにも洗濯女の話は多い。



フランス革命の折、幽閉されていたマリーアントワネットの部屋に

出入りできたのも洗濯女だった。

日本軍が、将校などの洗濯物の始末などのために、難民所の女性のなかから

希望者を募ったことは、もちろん非難されるべきことではない。

それは、終戦後の日本の言葉でいえば 「メイドさん」 である。



彼女たちは米軍宿舎や将校の家で働き、

そのなかには売春まがいのことをする者もあったろう。

それは、支那の女性とて同じだったと思う。

日本兵に首を傷つけられたという先の女性も、誰が傷つけたのか、

その原因が何であったのかを知る者は当人しかいないが、

「四十歳」くらいの洗濯女の一人だった。



ただ、日本軍の洗濯女の集め方が、アメリカ人から見ると強制的で、

いかがわしいように映ったこともまた否定できない。

もし難民のなかから希望者を募るときに、管理者を自負している国際委員会を

通すなりして、常に彼らと協議すればよかったのかもしれない。

しかし、もはやそれをするには遅過ぎた。日本軍は国際委員会を、

日本軍を中傷誹謗する集団としてしか見ていなかったし、

国際委員会もまったく日本軍を信用していなかったからである。



難民劉文彬は、恐らく日本軍の説明を聞き、洗濯女の実態を知って

協力するようになったのではないかと考えられる。

しかしベイツは当初、彼を「立派な仕事をしている青年」と賞讃していたにも

かかわらず、掌を返すように、日本軍に協力する 「ゴロツキ」 と表現するようになった。



このような日本軍と国際委員会との亀裂を巧みに衝いて、

支那側ゲリラの活動する余地ができたのである。

いわば 「正式」 な洗濯女探しは正門から入り、ゲリラ達は塀を乗り越えて入った。

この事情がわかってくると、ベイツらの多くの手紙の内容の真の意味が、

まことに明確になってくる。それがこの問題の結論である。》



*   こういう背景があって、ラーベ達は、高玉の洗濯女集めを売春婦集めと思ったようです。

日本人記者惨殺事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/31 19:00 投稿番号: [1424 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫
220〜221p


《食堂にいた田中、深川の二人は、

学生たちが護衛の警官と大声で押問答をかさね、

次第に市民たちも内庭にあつまってくる様子をみると、

不安を感じて、三階の二人に合流した。



警官は、しっかりカギをかけてくれ、絶対に外に出るな、と指示し、

用便のときはどうするのだ、と質問すると、

それでも部屋を出てはいけない、と答えた。



田中武夫によると   −

「宿屋の庭や   (隣接した)   空地で荒々しい演説の声がすると思うと、

拍手、そして叫喚。熱した群衆の凄い空気が、部屋の中まで伝わって来る」

扇風機はあるが、扉も窓もしめきっているので、室内は文字どおりに

「蒸し風呂」   にはいっている暑さであった。

四人は、とにかく警官が警戒しているので、いずれデモ群衆も退散するものと思い、

汗まみれになりながら談笑していた。



ところが、午後五時ごろ   −

階下からガラスが割れる音、家具をうちこわす音がひびき、

その音が一階から二階に上昇してきた。

これは……と、四人は危険を感じ、室内の机、椅子をドアにあてがって防禦物にした。

とたんに、そのドアをたたく音、叫声がひびき、

ドアの下半部は机、椅子でおさえられているので、

上半部に打撃が集中し、メリメリと板が破られた。



破孔から一人の中学生がのぞきこみ、叫んだ。

たぶん、日本人がいたぞ、とでもわめいたものと、田中武夫たちは想像したが、

その中学生の叫びを合図に体当り攻撃が加えられ、

ドアの破片とバリケードがわりの机、椅子をけちらして、十数人が乱入してきた。

四人は、「護照」 を提示し、日本総領事館開館には無関係である旨を説き、

ようやく、相手は納得して部屋を出た。


旅館の各階に充満していた群衆は、なおも   「打倒」 「打倒」   と連呼していたが、

午後六時三十分ごろ、旅館の前から姿を消した。



  −   だが、

ものの三十分間もすると、再び群衆は旅館におしよせ、

前回にも増して激しく   「打ちこわし作業」   を開始した。

中国人警官は、この間に約四十人が増員されていたが、

やはり丸腰なので制止できず、群衆はまたもや四人の部屋に乱入した。》


つづく

洗濯婦集めと買春の混同1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/31 18:52 投稿番号: [1423 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   179〜180p


《 支那人女性をめぐる問題は、

日本兵が彼女達を求めるのは肉欲のためであるという先入観と、

言葉による意志の疎通を欠いていたこと、

そして、日本側の説明も不足していたらしいという複合した原因で起きている。

以下、ベイツからアリソンへ出された手紙に従ってこの件をたどってみる   (要約)。



一月八日、金陵大学付属中学校校門の衛兵が、難民所で中国語・日本語通訳の

   劉文彬という立派な仕事をしている青年を捕え、

   小桃園の向かいの小粉橋三二号に連行した。(①150頁)


一月十日、二人の兵が小桃園の反対側にある家に女二人を連行した。

   そこには兵士二十人がいたが、女は隙を見て逃げ出した。

   二人の女性は、小粉橋三二号の憲兵隊本部のビル、門、建物と、

   憲兵の着る腕章付きの通常の軍服を認識できた。(①151頁)



一月十一日、劉文彬が、昨日の夕方、憲兵にひどい目に遭ったと恐怖の表情で

   逃げてきて、かくまって欲しいと頼んだので、そのまま寝かせたが、

   本日三時、再び憲兵がきて連行された。(①152頁)


一月十四日、劉文彬の夫人が、夫は山西路二一号で撃たれたといってきたが、

   報告を受けとったばかりなので今はそれ以上のことはいえない。(①156頁)


一月十八日、劉文彬の件は、まだ日本当局から何の連絡もないので

   日本大使館を訪ねたところ、領事警察の高玉は狼狽し、

   明日、ベイツを訪ねるといったが音沙汰がない。(①158頁)



一月二十四日、昨日、兵士一名が中国人助手とともに大学正門を通って入り、

   一緒に行きたいという女三人を見つけた。

   これは各寮を回る長い巡見だった。(①158頁)


一 月二十四日、昨日の夕方、高玉ともう一人の日本人が、大学付属中学の教師で

   難民区区長の姜正雲を探しに来た。彼らは、姜がベイツに、高玉が中学から

   少女五人を得たと報告した件で来たといったが、そのとき姜はいなかった。

   彼らがやってきたのは劉文彬の報告に基づいているといい、

   翌朝また来るとして立ち去った。(①159頁)


三つの注(引用者註・一月二十四日の第二の手紙の中でつけられている注釈)



〈第一に、姜は上述の報告を私に送ってはいません。

第二、難民劉はゴロツキで、すでに難民所における彼の持場は解任され、

ときどき日本人のために女捜しに来ているだけです。

第三、夕方も朝も私はずっと中学にいましたが日本人には会いませんでした。〉(①159頁)



この日、ベイツが日本大使館に行き、高玉と話し合った内容(①160〜161頁)を

要約すると次のようになる。


一、高玉は、彼と友人四人のために洗濯婦を得ようという善良な意図が

   理不尽な中傷にあって悩んでいる。

二、彼らは手続きや不法侵入に問題は認めていない。

三、アメリカ大使館からの手紙が高玉を悪人と非難しているというが、出所はベイツだ。

   しかしベイツは、高玉の洗濯婦獲得のやり方は、最近の南京婦人の

   経験からすると疑いを招きやすいので反対だといっただけである。》



注 : 松村俊夫氏の言う資料集とは、 青木書店刊   『南京事件資料集』   の事
   ① はアメリカ関係資料編


つづく

日本人記者惨殺事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/30 18:53 投稿番号: [1422 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫
218〜220p


《 岩井領事代理には、上海から四人の同行者がいた。

『大阪毎日新聞』   上海特派員渡辺洸三郎、 『上海毎日新聞』   記者深川経二、

南満州鉄道上海事務所員田中武夫、 漢口の   『瀬戸洋行』   店主瀬戸尚の四人である。

四人は、 「兎ニ角」   成都に行くことにした。

瀬戸尚は商用もあったが、他の三人は取材および視察が目的である。

総領事館開館には関係がないので、 「護照」   もあっさりと発給され、

一行は、八月二十一日、バスで成都にむかった。



八月二十三日   −

重慶では、商工会、学生その他各種団体が成都総領事館開館に反対する集会をひらき、

組織された宣伝隊は、市内に 「反対日本在蓉設領」 「阻止岩井西上」 などの

ビラをはり、糾察隊は、商船   『 萬懸号』   ではこばれてきた岩井領事代理の

乗用車を荷揚げしようとする労働者を   「漢奸」 (売国奴)   とののしり、

作業を中止させた。



特派員渡辺洸三郎ら四人は、午後二時三十分ごろ、成都に到着した。

街は平静な雰囲気につつまれ、一行は、公安局に   「護照」   を提示し、

『大川旅館』   に投宿した。

中国側は、非武装の警官約二十五人を旅館周辺の警戒にあたらせた。



翌日、八月二十四日   −

成都市内では、午前中に小城公園で   「日本総領事館開館反対民衆大会」   が

ひらかれたが、演説とシュプレヒコールがくり返されただけで、

デモ行進もなく、散会した。



四人は、午前十一時ごろ、 『大川旅館』   を出た。

『瀬戸洋行』   店主瀬戸尚は商用をはたすため、他の三人は市内見物のためである。

街は、前日と同様に平穏であったが、電柱、壁には、 「岩井領事は即刻四川を去れ」

「岩井と合作する漢奸を除け」   などのビラがべたべた貼られている。

三人は、なにがなし異常を感得しながら、午後一時半ごろ、旅館に帰り、

つづいて、瀬戸尚も帰館した。



午後三時ごろ、満鉄社員田中武夫は   『上海毎日』   記者深川経二をさそい、

食堂で四川名物の   「タンタン麺」   を食べた。

「タンタン麺」   は、唐辛子を大量に使い、その辛さで名高い。

盛夏の熱風が吹きこむ食堂で、すさまじい辛さの麺を食べるのだから、

たちまち二人は汗みずくになった。



それでも、いや夏はこのほうが良い、などとヤセ我慢してお代りを注文していると、

窓越しに制服姿の中学生約十五人がビラ貼りをしているのが、みえた。

「あんな子供まで動員されているとなると、あんまり良い空気じゃないなァ」

田中武夫がつぶやき、深川経二がうなずいていると、その中学生たちは旅館に

はいってきて、二階から三階にのぼり、やがて、降りて来ると、外に出ていった。



四人は、三階の大部屋に同宿している。

中学生たちはその部屋におしかけ、

在室していた特派員渡辺洸三郎と瀬戸尚の二人の前でビラの文句を読みあげ、

二人を   「凄い目でにらみ」   つけて立ち去った、という。》


つづく

1月24日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/30 18:44 投稿番号: [1421 / 2250]
《 今日また高玉が本部へやってきた。

中国語のできる警察の高級将校がいっしょだ。

高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところを

ベイツに見つかってしまった。だから、収容所で

「洗濯や料理をする人」   を捜していたのだ、といいにきたというわけだ。



「洗濯や料理をする人」   だと?

いったい誰がそんなたわごとを信じると思ってるんだ。

中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。

そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。

つまり、この男は名誉回復をしようというのだ。

スマイスは一部始終しっかり書きとめた。



「さっそく、各国の大使館に報告しましょう」。

高玉がますますご機嫌ななめになったのはいうまでもない。

奴さん、あてが外れてすごすごと帰っていった。

ただ   「そんなつまらんことで大使館を煩わせるものではありませんぞ!」   と、

いやに力をこめてつけ加えるのだけは忘れなかった。

本部にいた連中はみな、いい気味だといって喜んだ。



マギーは書状一通と日本の銃剣一丁を私の机の上に置いた。

それには、中国人女性を銃剣で脅していたところへ、

委員会のメンバーが三人、ふいに姿を現したため、

その日本兵はあわてて武器をとり落とし、そのまま逃げたとあった。



目撃者がアメリカ人だったので、スマイスが勇んでアメリカ大使館に報告した。

アリソン書記官が日本大使館への報告役を肩代わりしてくれたので、感謝している。

アリソン氏はあっけにとられ、不思議だ、びっくりした、を連発した。

そこで、ローゼンはさっそく 「不思議の国のアリソン」 と命名した。》



*   「高玉は、…若い娘を手に入れようと…収容所で

   「洗濯や料理をする人」   を捜していたのだ、といいにきた…

   誰が…信じる…。中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。

   そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。」



   日本じゃ   「洗濯と料理」   は女の仕事。

   中国の習慣なんぞ、子供どころか大人も知らない。

   日本はアジアじゃないのだろう。ラーベ達の偏見は甚だしい。

日本人記者惨殺事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/29 15:53 投稿番号: [1420 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫


215p

《 (1936年)   八月二十四日、

四川省の首都成都で、日本人二人が市民に惨殺されるという予想外の事件が、突発した。

事件は、日本側が一九三一年いらい閉鎖していた成都の日本総領事館を

再開しようとしたことにからんで、発起したものであった。

・・・

日本政府は、五月二十二日に外務書記生岩井英一を領事代理に任命して

成都総領事館再開のために派遣した。


216p

ところが、領事代理岩井英一が上海に到着した七月二十七日、

国民政府外交部国際司長呉頌皋は、「各国領事の成都駐在は認め難い」 と言明した。

三日後、七月三十日、外交部は上海にいる亜州司長高宗武あてに成都総領事館の

再開は不承認である旨を通報し、駐支大使川越茂につたえさせた。



川越大使は、しかし、

かねて四川省政府主席劉湘が反蒋介石派といわれていることもあって、

あるいは現地は別の反応を示すかもしれぬと思い、領事代理岩井英一に指示した。

「兎ニ角、行ケ」

上海から成都に行くには、重慶まで揚子江を船でのぼり、

重慶から飛行機を利用するのが、一般的な方法である。



岩井領事代理も、このコースをえらび、八月一日、上海を出発した。

この岩井領事代理の出発にあわせて、重慶、成都の各新聞、

とくに   『新蜀報』 『人民日報』 『商務日報』 『済川公報』   などは、

いっせいに日本総領事館の再開と岩井領事代理の赴任に反対するキャンペーンを展開した。


217p

岩井領事代理は、八月十七日に重慶に到着した。

十七日間の船旅であったが、途中では何事もなく、

岩井領事代理も有名な三峡の風光を楽しむなど、のんびりした気分ですごした。

岩井領事代理は、重慶領事糟谷廉二と協議して、

八月二十一日に飛行機で成都にむかうことにした。



ところが、外交部川康特派員呉沢湘は、岩井領事代理の赴任を阻止する態度を示した。

もし総領事館開館のために成都に行くのであれば、「護照」(通行証) は発給しない。

私人の資格でなら差しつかえないが、

その場含も、岩井領事代理が開館事務をとったら責任をもって召還することを、

糟谷領事が文書で保証してもらいたい   ―   と、いう。

こころみに、中国航空公司で成都行の航空券を買おうとすると、

すでに   「官憲ノ指示」   をうけているとみえ、空席があるにもかかわらず、発売しない。


218p

岩井領事代理は、とりあえず成都行をあきらめ、東京に事情を打電して、

訓令を待つことにした。》


つづく

1月24日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/29 15:41 投稿番号: [1419 / 2250]
一月二十四日


《 高上校のボーイが突然やってきた。

何も食べるものがないというので五ドルやった。

主人の高上校は漢口へ逃げてしまったという。


委員会は基督教総会を通してジーメンス洋行中国本社に打電し、

三月一日まで私をここにおいてくれるよう、頼んでみるという。

だから、上海行きの旅券を申請するのは当分の間差し控えることにした。



  数時間後

我々も堕ちたものだ。心の支えも節操も失ってしまった!

パットナム・ウィールの   『北京からの書簡集』   は

一九〇〇年の北京包囲について記したものだが、ウィールはそのなかで、

自分をはじめとする他のヨーロッパ人の略奪を赤裸々に綴っている。

我々だって堕ちてしまった。いまや五十歩百歩だ。



今日、張が電気扇風機を買ってきた。

「たったの一ドル二十セントでしたが、本当なら三十八ドルはしますよ」   と手柄顔だ。

マントルピースの上には一個一ドルの明時代の花瓶がすでに並んでおり、

そろって咎めるような視線を向けている。

その気になれば、盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられるだろう。

なんせ闇で二束三文で売られているのだから。


いま高いのは食料品だけだ。例えばニワトリ一羽が二ドルもする。

ということは明時代の花瓶きっかり二個分だ。》



*   高上校はラーベ達が匿った中国軍の将校。


*   「盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられる」

   売っているのは中国人、だったら略奪犯人が誰か判りそうなものに。


つづく

中国人による無数の暴虐事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/28 14:27 投稿番号: [1418 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社


125〜127p
《 ※中   支


一、一九三五年一一月九日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。

二、一九三五年一二月二〇日、漢口での大規模な反日デモ。

三、一九三五年一二月二一日、約一千名の中国人学生が   「日本帝国主義を倒せ」

   「全ての日本人を上海から追い出せ」 と叫びながら、

   上海国際租界の中心部を行進した。彼らは反日ビラを配布した。


四、一九三五年三月二六日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に

   爆弾が投げ込まれた。


五、一九三六年一月七日、三千人の学生が南京の孫文墓地に集まり、反日デモを行った。

   さらにまた、南京の日本総領事館の前でもデモが行われた。


六、一九三六年七月二〇日、世界的に有名な東京三井物産の上海支店の

   日本人社員が国際租界で射殺された。



七、一九三六年七月一八日、中国人の暴漢が日本人の通行人を殴打し、重傷を負わせた。

   日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行う暴力行為は、

   日を追うにつれて頻繁になった。

   短期間にそのような事件が二〇件以上も報告されている。


八、一九三六年八月七日、南京の日本総領事館の松村秘書官が上海に到着した際、

   彼の外交上の地位を知っていたにもかかわらず、

   中国人の税関職員は彼の携行していた革カバンの中を調べた。



九、一九三六年八月二四日、四川省の成都で大阪毎日及び東京日々の特派員と

   もう一人の日本人の新聞社特派員が一万人の中国人の暴徒

  (その大部分は幼い少年少女だったのであるが) に襲われ、

   最も残忍なやり方で殺された。   他の二人の日本人が重傷を負った。

   中国の地方当局は暴動を抑えるための何の手段も講じなかった。



   南京の中央政府も同様に無関心だった。

   四川省当局は必死で証拠を隠滅しようとし、

   日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害した。

   日本の度重なる抗議の後八月二六日、国民政府は行政部門の特別会議を招集し、

   日本国籍を持つ者に適切な保護を与えるよう各地方長官に命令を出した。



一〇、一九三六年九月元日、漢江の日本領事館の警官が中国人に射殺された。


一一、一九三六年九月二三日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。

   他の二人の水兵は重傷を負った。


一二、一九二六年九月二六日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に

   中国人の暴徒が放火した。

   一九三六年九月二九日、長沙の日本総領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。


一三、一九三六年一〇月、上海の中国警察による日本人の女や子供の気紛れで

   不法な逮捕と拘留の事件が増加。


一四、一九三六年一一月一一日、日本の汽船会社に雇われた日本人の船乗りが

   上海で射殺された。


一五、一九三七年二月三日、漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。》


つづく

1月23日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/28 14:13 投稿番号: [1417 / 2250]
一月二十三日


《 予定通り今朝六時にクレーガーは上海へ向かった。

シンバーグがまた南京にやってきて、卵六個と生きたあひる二十羽をもってきてくれた。

勤務中なのでやむをえず袋に入れっぱなしにしておいたところ、三羽も死んでしまった。

コックは   「大丈夫、食べられますよ!」   と言っているが。



八人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。

二、三日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、

アメリカ大使館はワシントンに打電した。さっそく東京から

「ただちにピアノを元へ戻すように」   との指令がきたのだという。

ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。

どうせとっくに薪にされてしまったのだろう。私はそのままお引き取り願った。

そんなことまでいちいちいってくるな!



  十六時三十分

平倉巷での礼拝。ミルズの説教は素晴らしかった。

幾度となく彼はドイツと総統、及び総統の平和への努力について語った。


  十八時

ローゼンを訪ねた。きょうは城門の外まで足を伸ばしたそうだ。

ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。


  十九時

フィッチの五十五歳の誕生日。みなで食事をした。

私のプレゼントはあひる二羽。生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。

かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。》



*   〉高玉が・・・「ピアノがどこにあるのかわからないのだが、

   心当たりはないか」・・・そんなことまでいちいちいってくるな!〈


   ピアノを盗んだのが日本兵ではないから、在り場所が判らないのだろう。


*   「幾度となく彼はドイツと総統、及び総統の平和への努力について語った。」

   ドイツ人は無邪気にヒットラーを平和の使者とあがめている。

   ヒットラーがどれだけ残虐な人間かも知らず。

   返す刀で、日本軍を残虐無比と罵っている。

   彼らは人を見る目がなく、嘘に簡単に騙されてしまうようだ。

中国人による無数の暴虐事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/27 18:45 投稿番号: [1416 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社


123〜125p

《 宣伝活動の結果、事態は絶望的となった。

殆どの中国の都市が日本人の住民にとってもはや安全ではなくなった。

日本人はもはや安心して家の外を歩けなくなった。

中国人の商人は反日組織の側からの報復を恐れて日本の商品を扱おうとはしなかった。

日本に対して友好的な中国人、または日本人と商売したりつきあったり

している中国人は脅迫され、恐喝され、襲撃され、時には殺されさえもした。



中国の全国土は日本への憎しみで燃えさかっていたが、

しかしそれは自然発生的に燃え上がったものではなくて、

国民政府自身が火つけ役となった大火だったのである。

当然のことながらここ数年間に反日的な事件が次から次へと目まぐるしく発生した。

次に掲げるのはその中の一部のリストである。



  ※北   支


一、一九三五年五月、日本贔屓の傾向のある二人の中国人の新聞編集者が

   天津で殺害された。


二、一九三五年一二月一七日、天津の日本軍守備隊総司令官である多田陸軍中将の

   邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人の召使いが負傷した。


三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国

   国際列車が匪賊に襲撃された。

   調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。

   約二〇名の乗客が殺害された。



四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が

   中国軍正規兵によって略奪された。


五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、

   豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。

   それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が

   中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。



六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。


七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、

   天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。

   一人は殺され、もう一人は重傷を負った。



八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が

   天津の日本語学校を襲撃して略奪し、

   日本人の教師に暴行を加えて拉致した。



九、一九三六年一〇月、反日組織に煽動されたストライキのおかげで、

   山東省青島の日本人経営の紡績工場が二週間閉鎖された。


一〇、一九三七年五月二三日、各々四九トンの二隻の日本の漁船が

   満洲国の大連沖で操業中に、中国の税関パトロール船に発砲された。

   中国人の税関警備兵がこの日本の漁船に乗船して捜索したが、

   犯罪に関する物は何も発見出来なかった。



一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の

   日本人経営の農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、

   多くの日本人従業員が負傷した。》


つづく

1月22日 第16師団の申し送り

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/27 18:36 投稿番号: [1415 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   276p


《   昭和十三年一月二十二日ごろ、第十六師団参謀長・中沢三夫の作成した

「南京ニ於ケル申送リ要点」   は、


「先日モ八十八師   (註・師団)   ノ大隊長ヲ捕縛セリ」   と書き、

「特ニ注意スベキハ   各国外交機関内ニ   隠匿シアル   相当階級ノ人物

アルコトナリトス、

右八十八師ノ大隊長ノ   自白ニヨレバ   米大使館内ニ   団長   及   営長

尚   (なお)   隠レアリ」

と申し送っていた。》



*   まだ時たま、便衣兵の潜伏が発覚しているようだ。


   本の註に、中国の八十八師を師団としてあるが、これは果たして正しいのか?

   中国の軍組織では、「師」 の下に 「団」 があるので、

   日本の 「師団」 のような物とすべきかも知れない。

   その下には「連」、「営」もある。

   「団長」 とは第〇〇団の長と言う事であり、「営長」 とは第〇〇営の長と言う事。

   「連」   は   「連隊」   かも知れない。

上海で日本人僧侶が殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/26 18:45 投稿番号: [1414 / 2250]
児島襄著   『日中戦争2』   文春文庫
169p


《 上海居留民団の記録によれば、前年の   「満州事変」   から年末までの

三カ月間で、商社、商店、個人がうけた掠奪、暴行などの被害件数は

二百件をこえ、とくに通学児童にたいする妨害、悪戯は七百余件にも達して、

日本側の反撥を強めていた。》



174〜176p

《 一月十八日   −

上海で日本人僧侶が中国人暴徒に殺害されるという、

より一層に日中関係を悪化させる事件が突発した。

この日、上海郊外の屈家橋に草庵を設けて布教中の   『日本山妙法寺』

上海布教主任天崎啓昇は、楊樹浦方面に寒行に出かけることにした。

ウチワ太鼓をたたき題目をとなえて、街を行脚してまわるのである。



僧天崎啓昇は、僧水上秀雄、信者後藤芳平、同藤村国吉、同黒岩浅次郎と

ともに、午後三時、草庵を出発した。

僧二人は白の法衣、信者三人は洋服姿であった。

一行は、虹口   (ホンキュ)   方面から匯山路に出て、華徳路を東に進んだ。



じつは、先頭に立つ僧天崎啓昇は、この華徳路を平涼路と誤解し、

公大紡・第一廠工場付近に出るつもりであったが、道は馬玉山路に通じ、

やがて午後四時すぎ、一行は同路のタオル工場   『三友実業社』   横にさしかかった。

工場付近には、工員らしい中国人がたむろしていて、一行が近づくと、

朝鮮人だ、朝鮮人だ、と口走った。



だが、一行は 『日本山妙法寺』 と墨書した提燈をもち、

たたくウチワ太鼓にも寺名が明記してあった。

「日本人だ」 「日本人だ」   との叫びが起り、次いで   「殺   (や)   れ」

「殺せ」   の叫びにかわり、中国人群集約三百人が一行に大小の石塊を乱投した。

一行五人は、太鼓と腕で投石を避け、ひときわ高声で題目をとなえながら、

通りぬけようとした。



中国人群集は、一行に抵抗の意思がないことを察知すると、

喚声をあげておしよせ、棍棒と石、瓦、コンクリート杭などで五人を乱打した。

僧二人と信者後藤芳平は、法衣と服を血だらけにして倒れ、信者藤村、黒岩両人は

必死で逃れ、工部局警察の楊樹浦   (ヤンジッポ)   署によろめき込んで救援をもとめた。

楊樹浦署員は、二人を北四川路の日本人病院   『福民医院』   に送り、現場に急行した。



現場では、中国人暴徒は、信者二人が逃走したあとすぐに四散し、

遠望していた中国人巡警が付近に住む   『東華紡』   社員檀宗三郎とともに、

三人を亭国路のフランス病院   『聖心病院』   にはこんでいた。

三人は、翌日、『福民医院』 に移されて手当をうけたが、僧天崎は全治六カ月、

信者後藤は全治一カ年の重傷で、僧水上秀雄は二十四日、死亡した。》



*   ところでこの事件は田中隆吉が関東軍に頼まれて仕組んだと言っていますが、

   僧天崎は、道を間違えたのに、その間違えた道で襲われたのです。

   雇われた襲撃者が、予定のルートから外れた所で待ち伏せするでしょうか。

   田中隆吉は自然発生的事件を自分の手柄のように宣伝しているようです。

1月22日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/26 18:36 投稿番号: [1413 / 2250]
一月二十二日


《 竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてきた。

十二月十三日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。

死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、

請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。

しばっていた縄が切れて、竹の担架が二メートルほど先にころがっただけだ。

いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。



日本は、ヨーロッパ列強とならぶ大国だと認められたい、そのように扱われたいと

望んでいる。だがその一方で、こういう粗雑さ、野蛮さ、残忍さを見せつけているのだ。

これではまるでチンギス=ハーンの軍隊と変わらないではないか。

もうこれ以上、この哀れな男の埋葬を気にかけるのはやめることにした。

ただ、ときどき、あの兵士が死んだまま、まだこの世にいることを思い出すことにしよう。


(字数の都合で省略)


マギーがまたしても悪い知らせをもってきた。

日本兵が食用の家畜を追いかけ回し、手当たりしだい運んでいってしまったというのだ。

ちかごろは、中国人の若者を使って豚をつかまえさせている。



なかなかつかまえられなかったり、一匹もつかまえることができなかった若者は、

銃剣で突き殺された。なかの一人は内臓がはみだして垂れ下がっていたという。

これはみな目撃した人の話だ。こんなことばかり聞かされていると、気分が悪くなってくる。

そうだ、やつらは犯罪者のよせ集めだと思えばいいんだ。

ふつうの人間にこんなことができるはずがない!



今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。

どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。

ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。



高玉がやってきた。

この人は総領事館警察の責任者だが、そのまま日本大使館付きになっていた。

私は車を一台工面してやったことがある。徴用証書をもらおうとすると、

署名するかわりに無言でそれをポケットにねじこんだ。がっかりした。》


(以下も省略)


*   「トラックが数台、・・・下関へ・・・どれも中国兵で満員だ。

   おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで

   処刑されることになっているのだ。」



   と言っているが、20日の日記の

   「外交部のなかにある赤十字病院で中国兵が治療されていた」

   事との矛盾に気づかないのだろうか。

   捕まえた中国兵を全部殺すのなら、治療など必要ない。

   片方で治療してるのに、 「片っ端から殺す」   と考えるのも、不自然。



   それに、揚子江岸で殺して河に死体を流すのなら、別に、南京でやる必要はない。

   蕪湖で殺せば、うるさい外国人に感づかれなくてすむ。

   南京まで運ぶのは、燃料の無駄、かつ、タイヤがすり減る。

   彼ら外国人は先入観に凝り固まっている為、論理的には考えられないのだろう。

満洲事変後の反日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/25 18:45 投稿番号: [1412 / 2250]
孫文が中国の独立闘争をしていた頃、孫文にとって満洲は夷狄の地でした。

だから、満洲の売却に何のためらいも有りませんでした。

ところが中国は、清国を滅ぼすと、清国の全領土が欲しくなりました。

そこで侵略に乗り出すわけです。   当然、満蒙独立運動が起こります。



中国は、世界の協力を得て独立運動をつぶし、侵略にある程度成功しました。

しかし、満洲に先にいた日本人と関東軍を怒らせたため、

引っ繰り返され、土地を満洲人に取り返えさせられたわけです。

中国は自分達が泥棒である事を理解しませんから、

取り返させた日本を逆恨みし、泥棒と罵り、反日を激化させます。



児島襄著   『日中戦争2』   文春文庫
127〜129p


《 中国内での反日運動は日ごとに勢いを強め、

長沙、南昌、北京、上海その他全国的に反日市民大会がひらかれた。

寧波   (ニンポー)   の大会では   「対日宣戦、永久反日」   が決議され、

漢口、武漢を中心とする湖北救国会は、次の   「排日十大方針」   を宣言した。



  一、日貨を買わず日貨を用いず。

  二、日貨を積まず。

  三、日本船に乗らず。

  四、日本人と往来せず。

  五、日本人に雇われず。



  六、日本人を雇わず。

  七、日本の銀行に預金せず。

  八、日本人に食料を供給せず。

  九、日本に留学せず。

  十、日本で商売せず。



この 「十大方針」 は各地に同調の環をひろげ、

同時に日本人居留民に暴行を加える傾向も高まり、

満州、中国本土からの邦人引き揚げがつづいた。

・・・

国民党中央常務委員会は、高等中学校以上の学校に   「青年義勇軍」、

初等中学校以下に   「童子義勇軍」   を組織させ、

各学校の教職員、学生に   「不買日貨」   を宣誓させていたのである。

これら   「義勇軍」   は、そのほか各自の胸に   「団結奮闘雪恥救国」   と

墨書した白布をぬいつけ、毎日の朝礼のさい、

次のスローガンを高唱することを義務づけられた。



「永為忠勇国民」 「誓雪中国国恥」 「恢復中国領土」 「振興中国民族」

「三民主義万歳」 「中華民国万歳」……。》



つづく

1月21日 参謀本部 持久戦研究

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/25 18:38 投稿番号: [1411 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   481p


《 第二課戦争指導班   (第一班)   長高嶋辰彦中佐は、

一月二十一日、研究課題

  「持久態勢ニ応スル為   陸軍省   乃至   内閣ニ対シ   大本営陸軍幕僚部ノ要望事項」

として



(一)   十六日声明ヲ段階トスル   日支間   客観的情勢ニ   関スル見解ノ統一、

(二)   蒋政権ノ潰滅ト   傘下統合ニ関スル   解ノ統一、

(三)   各地新興政権ノ   連繋   (れんけい)   統一ニ関スル問題、

(四)   新段階ニ応スル   戦争目的ノ確立

    (新政権ヲ助ケルノカ主カ、直接蒋政権潰滅カ主カ)、

(五)   北支政権ト   日満両国政府トノ権限関係ノ設定、非武装地帯   及   駐兵ノ件、



(六)   新段階ニ於ケル   武力戦指導ノ根本方針、

(七)   対支持久戦争   解決ノ為ノ   政略約手段   就中   (なかんずく)

    現地政権ヲ   如何   (いか)   ニ利用スルカノ方策、

(八)   今後ニ於ケル総力戦指導ニ関シ   長期ニ亙ル計画腹案、

(九)   対   『ソ』   情勢判断ニ関スル当局見解ノ統一、

(十)   昭和軍制改革



などを部内に提案しているが、当時の問題点を示すものといえよう。

  この日   (二十一日)   第二課では部員全員が参集し

  「今後ノ持久戦争指導方策」

につき研究した。 広東作戦の要否が第一の論点となった。》

柳条溝事件は関東軍の仕業か?3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/24 18:46 投稿番号: [1410 / 2250]
東京裁判で岡本弁護人は次のように弁論しています。


田中正明著   『東京裁判とは何か』   大手町ブックス   日本工業新聞社発行

154p


《 岡本弁護人はさらに②の奉天事件の真相にふれ、

一九三一年九月十八日に起きたいわゆる柳条溝爆破事件は、

検察側証人のいうがごとく、関東軍が仕掛けた事件ではなく、

支那軍の挑戦であり、現地軍が居留民および守備隊の危険に鑑み、

自衛のため起ちあがったものである、と述べた。



この夜   (九月十八日)   関東軍首脳は、新任の本庄軍司令官の第一回の

巡視を遼陽で終えて、旅順に帰っていた。

奉天には、東京から特派された建川中将を迎えるため、

高級参謀板垣大佐が一人派遣されていただけである。

石原作戦参謀ほか幹部全員が、旅順の宿舎で、しかも就寝時、(午後十一時)

奉天事件の第一報をきいたのである。つまり関東軍首脳の不在中に起きた事件である。



夜半軍司令官を囲み、協議した結果、

本庄軍司令官は   「本官の責任において、やりましょう」   の断をくだし、

一同軍装をととのえて、急いで奉天に帰ったのである。

奉天に到着したのは、その翌日、すなわち十九日未明であった。

この事実に照らしても、巷間噂されるように、

関東軍の陰謀ならざることは、明々白々である。》



*   事実はどうであれ、一旦事件が起きたら、事は自動的に進んでいきます。

   そして、9月26日   煕洽が吉林省独立の宣言をしました。

   柳条湖事件から、まだ一週間しか経っていないのにです。

   関東軍の工作と見るには速すぎます。

   9月下旬には、遼寧   (奉天)   省、黒龍江省、コロンバイルも独立宣言をしました。

   10月、満州各地の代表が、揃って天津に溥儀氏を訪ね、出馬を懇請、

   11月10日   清朝廃帝・溥儀   天津を脱出

   11月21日   馬占山、黒竜江省政府を樹立



   この、バタバタと進んでいく様子をどう見るかです。

   実は、これには、戦後、歴史から抹殺された満蒙独立運動が関係しているのです。

   これを外すと、よく判らないから、日本の侵略と見てしまうわけです。

   満蒙独立運動については、前に書きましたので、ここでは省略します。

   必要な方は   「411満蒙独立運動1」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=411
から

「443満州国の建国」までを参照して下さい。

途中、余計な書き込みがありますが   飛ばしてください。



取りあえず、今回は中国側の非道だけに集中します。

  これはアホな書き込みへの反論ですから。

1月20日 長期戦に備えた大綱作成

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/24 18:37 投稿番号: [1409 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   482p


《 戦争指導班の掘場一雄少佐は、一月二十日

「昭和十三年以降ノタメノ   戦争指導計画大綱案」   第一案を起案し

各方面関係者との調整に入った。

・・・・

この計画の方針は



「先ツ当面ノ対支   持久戦争ヲ指導シツツ

  速   (すみやか)   ニ   昭和軍制ノ建設   及   国家総力ノ増強整頓ヲ   強行シテ

  対   『ソ』   支ニ国戦争準備ヲ完成ス

  此ノ間   『ソ』   邦ノ動向ニ対処シツツ   政戦両略ノ運用ニ依リ

  速ニ対支戦争ヲ終局ニ導ク」



「本計画ノ期間ハ   昭和十三年ヨリ   同十六年ニ亙ル   概   (おおむ)   ネ

  四年間ト予定ス

  爾後近キ将来ニ予想スヘキ   国際情勢ノ一大転機ニ   備フル為ノ戦争準備ハ

  右ニ引続キ   之カ完成ヲ期ス」



というものであるが、その具体策となると実行の可能性に問題が多く、

各案とも成案とならなかったが、

長期持久戦について、各部局の注意を喚起するものがあった。

・・・・

次いで一月二十日、陸軍大臣名により

「形而上下ノ万般ニ亙リ   長期持久戦ノ準備ト   対策トヲ要スルノ秋

  全軍将兵一致結束   特ニ   堅忍持久ノ精神ヲ以テ

  職分ニ最善ノ努力ヲ   傾注スヘシ」


という訓示が全軍に出され、長期戦に臨む将兵の心構えを説いた。》



*   中国大使はこの日、横浜を出帆し帰国した。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   479p


《 日支両国の国交は事実上断絶した。   日本政府は、一月十八日、

川越大使に帰朝命令を発し、(二十八日上海発、三十一日東京着)、

許世英駐日大使は、一月二十日、横浜を出帆して上海に向かい、日本を退去した。



注   駐日大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は昭和十三年六月十一日まで在留した。

   日本側も伊藤述史公使が昭和十二年十月から翌年三月まで、

   谷正之公使が三月から同年十二月まで、

   森島守人参事官は同年三月から翌十四年七月まで上海に出張駐在し、

   対中国及び第三国との接触に当たった。》

柳条溝事件は関東軍の仕業か?2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/23 18:48 投稿番号: [1408 / 2250]
田中正明著   『東京裁判とは何か』   大手町ブックス   日本工業新聞社発行

1のつづき
164p


《 中央の指令はあくまで慎重で、準備兵力の増強要請も容れられず、

ために現地軍は訓練を重ねて、もっぱら質の向上をはかっていた、


と述べたあと、


「その頃の学良軍の行動は非常に積極的で、

われわれは必ず、向うから働きかけて来るにちがいないと考えていた。

武力衝突必至と見ていたのであって、

それは決してこちらから働きかけて行くという意味ではない。

結局は向うからわれわれの弱点に向って

ぶっつけて来るであろうという恐れをもっていたのだ。



検事は、この武力衝突必至ということを、

日本から仕掛けて行くことだと理解しているようだが、決してそうではない。

われわれ関東軍としては、その前に河本大佐事件

(昭和三年の張作霧爆死事件)   があり、

河本大佐が処罰され、軍司令官が罷免されたという前歴がある。



そのため、歴代の軍司令官が軽挙妄動を厳重に戒めていたので、

こちらからは決して手出しをしてはならぬと決定していた。

しかしその代わり、向うの方から出て来たら、

絶対にやっつけるという態度を堅持し、訓練を積んでいた」》



*   石原莞爾は、張学良軍が必ず仕掛けてくるだろうから、

   それに備えた対策を想定していたんですね。

   「けっして、こちらから手出ししてはならぬ決定していた」   と言っています。



   もちろん、この石原証言に対して、

  「どうせ命惜しさの言い逃れだろう」   という非難もあるでしょう。

   しかしながら、彼は、 「何で、俺を戦犯に呼ばない!」   と

   豪語しているわけですから、命惜しさの言い逃れは当たらないでしょう。



   ここより、満洲事変のきっかけとなった柳条溝爆破は

   関東軍以外の何者かの仕業という可能性も出てきます。


つづく

1月20日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/23 18:41 投稿番号: [1407 / 2250]
一月二十日

(前の数行   日本軍の悪と関係ないので省略)



《 この間、近所の作りかけの家からレンガを二、三千ばかり失敬してきて、

テントや小屋のあいだに細長い通路を作った。こうしておけばすこしは泥よけになる。

そのほか、仮設便所のまわりにレンガで壁を作ったので、いくらか見栄えがよくなった。

もっともこんなことをしたところで、焼け石に水だが。

依然としてあたり一面泥の海にかわりはない。そこらじゅうでせき込んだり、

吐いたりしているが、さもあらんと思う。一番心配なのは伝染病だ。



われわれの国際赤十字代表のマギー牧師が、

外交部のなかにある赤十字病院の中国人看護婦から聞いた話を伝えてくれた。

ここは我々外国人は立ち入り禁止だが、看護人は買い物のためにときどきは外出できる。

あるとき、看護婦が本部に立ち寄ってこんな報告をしていったという。



一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言ったらしい。

給食は小さなお椀で一日おかゆ三杯だそうだ。するとその兵士は監視の日本兵に殴られた。

さんざん殴られたあとで、腹が減っているのがいけないのかと言ったところ、

中庭にひきずり出されて、銃剣で突き殺されてしまったというのだ。

この処刑の様子を看護婦たちは窓から見ていた。



難民の誰ひとり、安全区から出ていこうとしない。

もとの家に戻ろうとした人たちが大ぜい、日本兵から石を投げつけられて

追い払われたり、あるいはもっとひどい目にあったりしたからだ。

それなのに、街には日本軍のこんなポスターが貼られている。

「家へ帰りなさい!   食べものを支給します。日本軍を信用しなさい。

我々はみなさんを保護します」》



*   「近所の作りかけの家からレンガを二、三千ばかり失敬して」


   結局、ラーベも略奪している。どうして日本軍の徴発を非難できるのか。


*   「一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言・・・殺されてしまった」


   ラーベ達の話では、見つかった中国兵は片っ端から処刑されていた筈。

   兵どころか市民までも殺されたと。

   ところが、この中国兵は病院で治療されていた。それまでの話と違うのでは。

   もっとも、これは、日本側の   「中国兵を治療する写真」   とは合っているが。


*   「もとの家に戻ろうとした人たちが大ぜい、

   日本兵から石を投げつけられて追い払われたり」


   そもそも、日本軍が   「もとの家に戻れ」   と言っているのに、

   それを日本兵が妨害して、何の意味がある?


   日本兵に化けた中国兵が、中国人が日本軍に従うのに腹を立て、

   妨害するのなら意味があるのだが。

柳条溝事件は関東軍の仕業か?1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/22 15:37 投稿番号: [1406 / 2250]
満洲事変後の中国の残虐行為を挙げるのには、

その前の段階として満洲事変に触れないわけにはいきません。

これを外して言うと、日本が満洲を侵略したのだから、

やられて当然ではないか、と言われますので。



柳条溝事件は関東軍が仕掛けたとされていますが、石原莞爾の言い分は違っています。

酒田ホテルの仮法廷において彼は次のように証言しています。



田中正明著   『東京裁判とは何か』   大手町ブックス   日本工業新聞社発行

《 162〜163p


問   証人は、張学良の軍備について研究されたことがありますか。


答   学良の全軍隊は二〇万ないし二五万であります。

   奉天以外の兵力の装備は、あまりよくありませんが、奉天の約十万の兵備は、

   当時としてはすこぶる優良なもので、日本軍にくらべ、遥かに優れていました。

   注目すべきことは、当時、日本軍は一機の飛行機も持っていなかったが、

   奉天軍は相当数保有しており、戦車隊もありました。



問   そのような近代装備をもつ学良軍に対する、関東軍の作戦計画を説明してください。


答   昭和六年八月、本庄司令官が着任後、従来の計画を変更して、撫順の中隊をもって

   奉天飛行場を奇襲する計画で、中隊長川上大尉にこれを命じました。

   あとからの報告でわかったのですが、これを受けた川上大尉は、

   撫順の防備を全く放棄することについて非常に心配して、

   その善後処置を講ずるために、警察及び在郷軍人の一協力を必要と考えました。



   しかし計画は秘密を要するので、事実を秘して、

   自分は九月十八日に部隊を引きつれて転出することになった。

   そのあとの守備態勢をどうするか?

   これらの民間警備の代表とともに想定演習をした。

   その協議の終ったあとで、十八日の出動は中止になったと取消した。



   ところが図らずも、九月十八日の夜、学良軍の柳条溝爆破が起きましたので、

   川上大尉は非常に狼狽して、そういう場合に当然やらなければならなかった

   新任務の飛行場の攻撃をやることもせず、

   非常に遅れて、不完全武装のまま奉天に駈けつけたのであります。

   奉天の総領事からこのこと (十八日の想定演習) が外務省に報告された

   ため、軍としては、非常に迷惑を受けたしだいであります。 》


つづく


*   石原莞爾の作戦計画は飛行場攻撃だったのです。

   鉄道爆破ではありませんでした。

   ところが、その想定演習の日に柳条溝爆破事件が起き、

   かつ、奉天総領事が十八日の想定演習を外務省に報告したため、

   「やったな!」   と思われた    というわけです。

1月19日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/22 15:24 投稿番号: [1405 / 2250]
一月十九日

《 ラジオによると、あるベルリンの新聞がこれ以上中国に侵攻するなと

日本に警告したそうだ。さらに、名誉ある平和を中国に申し出るよう勧めたとか。

いやはや、いい気なもんだ。日本がいわれたとおりにするとでも思ってるのか。



隴海鉄道沿線での大規模な戦闘が間近に迫っている。

国民政府軍はおよそ四万人の兵力を擁し、編成し直されたとの話だ。


少なくともラジオではそう言っている。無能な将校は一掃されたとも聞く。

だが、残念ながら、中国が勝つという希望はこれっぽっちももっていない。

山東省の司令官韓復腧と二人の将官が、即決裁判によって、蒋介石の命により

射殺されたそうだ。抵抗が十分ではなかったということらしい。

こちらでは、韓復腧が現金をそっくり日本の銀行に投資したと、もっぱらの噂だ。

そうに決まっている。おそらく日本からもらった金だろう。



青島も日本に占領された。済南も。

芝罘では、日本側の報告によると、中国警察が反乱をおこし、略奪したそうだ。



今日、また新たなニュースが入る。張作霖の息子で西安事件の首謀者、

張学良が射殺されたのだ(注・これは誤り)。

彼は一年前に西安で蒋介石を捕虜にした。

漢口から出発した防毒部隊はいっこうに到着しない。

まだ役に立つかどうか、あやしくなってきた。



今日、解雇通知を書いた。中国本社の指示で、事務所を閉鎖しなければならないからだ。

上海の決定 “Wind up business!” そうとしか解釈できない。

一月分の給料を全額支払おう。だが正月の心づけはなし。

思えばこれはひじょうにむごいことだ。

中国の正月は二月一日からなので、もう目の前に迫っている。



正月だからというので、食料品の価格は   (まだ手に入ればの話だが)、

とてつもなくあがってしまった。もっとも、ここの何十万人もの人たちだって、

かれらよりましなくらしをしているわけではないのだが。

従業員はみな、事務所に住んでいるが、それも私がここにいられる間の話だ。

食料を買う金が足りなくなったら、国際委員会の給食所に厄介にならざるをえない。

どっちみち、すでに六百五十人のほとんどがそこから食糧をもらっている。

一日、米二袋だ。



家主の代理人も家主も逃げてしまったが、やはり解約通知を書いておこう。

契約により、解任の際にはこの家を手放していいことになっている。》


*   以下

「ジーメンス中国本社にあてたジョン・ラーべの手紙」
「韓にあてた解雇通知」

は省略。


*   「これ以上中国に侵攻するなと日本に警告したそうだ。

   さらに、名誉ある平和を中国に申し出るよう勧めたとか。

   いやはや、いい気なもんだ。日本がいわれたとおりにするとでも思ってるのか。」



   日本は何度も和平を出してるのに、中国が受け付けないだけなんだけどね。

   いやはや、いい気なもんだ。

   中国が、いわれたとおりにするとでも思ってるのか。

満洲に於ける日本人迫害5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/21 14:33 投稿番号: [1404 / 2250]
中村震太郎大尉殺害事件


臼井勝美著   『満洲事変   戦争と外交と』   中公新書
31p


《 万宝山事件にひきつづき、

幣原外相は中村大尉殺害事件を処理しなければならなかった。

中村震太郎大尉は参謀本部の部員で、対ソ作戦の兵要地誌作成のため、

ひそかに興安嶺方面の偵察任務につき、トウ南、索倫の中間地で、

中国軍 (第三屯墾軍) により、六月二十七日殺害された。



東三省側は、中村大尉殺害を否認していたが、石原参謀と奉天特務機関の

花谷 (正) 少佐は、八月二日林総領事を訪れ、

中村大尉の殺害はほぼ確実であり、このうえ交渉が遷延するときは、

いたずらに中国側に証拠湮滅の機会を与えるにすぎないと、

関東軍の交渉方針を伝え、林総領事の同意を求めた。・・・


32p

関東軍参謀部は実力捜査を決意し、四平街に装甲列車や歩兵砲兵連合部隊を準備した。
・・・
関東軍は中村事件対処方針を陸軍省に上申した。


33〜34p

林総領事は、十七日臧 (ぞう)(式毅) 遼寧省政府主席を訪問、

軍側が相当昂奪しているので、すみやかに事件を解決する必要がある旨を申し入れた。

臧主席は、いかなる事情があったとしても、地方軍隊が勝手に外国人を

殺害するのはすこぶる不都合なので、参謀長栄臻 (えいしん) と計って、

適当な人物を至急現地調査のため派遣すると答えた。



しかし、中国側の調査がはかばかしく進行しないのを見た林総領事は、

九月四日、省長公署で臧主席、栄臻謀長と会見、もし中国が本件の処理を

回避するような場合、国交上重大な影響を生ずるおそれがある旨を告げ、

屯墾軍の関団長を奉天に召還するよう示唆した。



このころ中国側新聞は、さかんに中村大尉殺害事件は無根であるとの報道を載せ、

王 (正延) 外交部長も中村事件はまったく事実無根で、

満州には好んで事を構える不良ごろつき日本人が多いので、

おそらくこの連中が捏造した宣伝であると言明したため

(南京、千原特派員発 『朝日』 九月六日)、南陸相等をはじめ

軍関係者はいよいよ態度を硬化させた。



満州を視察して帰った政友会の森 (恪) 代議士らも、

八月三十一日党関係の会合で、満蒙では日中官民が無気味に対立し、

「ある意味においては事実上交戦直前の状態であるとも云へる」 と報告した。

菱刈 (隆) 大将に代わって新たに関東軍司令官となった本庄 (繁) 中将は、

八月二十日、旅順に到着したが、九月三日の多門 (二郎) 駐剳師団長、

森 (連) 独立守備隊司令官との会談で、今後さらに不祥事の発生が予想され、

「此の如くして最後の解決の時期近づきつゝあるを思はしむるものあり」 と述べた。



事態の重大化を認識した栄臻参謀長は、

九月十八日ようやく中村大尉殺害の事実を全面的に承認するにいたった。

栄臻参謀長の調査では、中村、井杉 (延太郎、同行した日本人) と露国人 (中国籍)、

蒙古人の一行四名は、六月二十五日昼、騎馬で西北方より蘇鄂 (そがく) 公府に到着し、

第三団の取調べを受けていたが、中村は軍事探偵であることが発覚し、

生命に危険の及ぶのを恐れたためか、二十七日、夜陰に乗じ一行とともに逃亡し、

追跡を受け抵抗したので射殺されたというのであった。



東三省側がようやく中村大尉の殺害を認めたため、

交渉は次の段階に移ろうとしたが、

この日夜十時過ぎ、柳条湖事件の勃発をみるのである。》



*   かくして事態は満洲事変へと発展して行くのであります。

   満洲事変は関東軍が起こした事になっていますが、

   この事態の流れから見ると何か不自然な気がします。


   中国側が殺害を認めた。そんな日の夜に仕掛けるでしょうか?

   口実が消えたのに。
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