入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:47 投稿番号: [1234 / 2250]
前述したように、すくなくとも   日本帝国陸軍の   将兵には
中国人捕虜に対しては、他国民のような処置は   不要である、
という差別意識が   深く根付いていた。
さらに、念頭に置くべきは、日中戦争が全面化し始めたとき
陸軍は、これを   「戦争」ではなく   「事変」であるから、
戦時国際法は適用しない、と決定したことだ。

支那駐屯軍が   華北で総攻撃を開始した直後の   1937年
8月5日に発令された日本軍の指令書、「陸支密第198号」
支那駐屯軍参謀長宛陸軍次官通牒『交戦法規ノ適用ニ関スル件』
には、次のように   示されている。

   現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
   「陸戦ノ法規ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」
   ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ――

さらに、
「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動、
例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用」などは、つとめて避けよ
と   指示している。

つまり、国際法規は適用しない、俘虜という言葉は使うな、
と指示していた。   要するに、中国兵は国際法上の捕虜として
処遇しなくともよい、と言っているのだ。
こうした   軍中央部の方針は、ただちに   現地軍に伝えられた。
とくに   上海戦での苦戦から   敵愾心にあふれた第一戦部隊に、
捕虜を躊躇なく殺す例が   数多く見られたのは   こうした理由だ。

もともと「之レヲ殺害」しても   「問題トナルコト無シ」などと
侮蔑していた中国兵なのだから、わざわざ収監したり護送するなど
面倒な処置は必要なく、ましてや、国際法規を気にする必要はない
と指示されたのだ。   陸戦法規に基くいた   人道的扱いなどが、
日本軍の念頭から   完全に消え去ったのは   ごく   当然だった。

日本軍の包囲網が完成したことにより、南京城内及び周辺地域には
少なくとも   約10万の中国兵が逃げ遅れ、投降したと推定される。
これに対して   日本軍側には、捕虜収容の用意は   なかった。
これを   裏付けるものとして、大量の捕虜の   処置に窮して、
上級司令部が現地部隊に捕虜殺害を命じたという記録がある。
 
   「捕虜も相当出来たけれども、捕虜に食はせる物もない。」
   「さういふ状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから始末することが
   出来ない。   それでちよん斬つてしまうといふことになった。」
   一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論追撃中
   だから戦闘中と見てもよろしい、(略)始末が付かぬものだから
   シヤーシヤーと射つてしまつたのだ。
   その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。

これは   方面軍司令の証言だが、つまり   捕虜の給養に困り果て、
大量処刑を   「戦闘行為の一部」   として、済まそうとしたのだ。
どうやら、日本軍の司令官は   中国軍捕虜を   処分することを、
国際法上の犯罪だとは   考えていなかったらしい。

◆tyankonabejpは己の愚かさに早く気づけ

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 21:46 投稿番号: [1233 / 2250]
自由に何でも言える匿名のネットは、人間の本音が表れやすいメディアだ。
そしてネットは世界に向かって配信されている。
今は外国語でも簡単に翻訳できる。
外国人が日本の掲示板を読めば、それが日本人の本心だと思うだろう。

バカは過去の日本を否定する。
日本の始めた戦争を「アジアへの侵略戦争」などといったりする。

極東の偉大なる大和民族が白人の残酷な世界支配に敢然と立ち向かったのは事実だ。
その結果白人の支配を崩した。
それは「世界史」的な快挙だろう。日本人が誇ってもよい事だ。

事実   世界の有識者たちも認めていることだ。
例えばイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは次のように語っている。

「第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」(1956年10月28日/英紙「オブザーバー」)


よくバカが

「日本はアジア解放を目的に戦争を始めたのではない。「自存自衛」のためにアジアを支配し、自国の領土として、資源を奪いに行っただけだ。
日本の戦争目的に「アジアの解放」はない。」

などとという無知極まることを言ったりするが、大東亜共栄圏の建設という目的は確かに理想として日本人の心の中にあったのである。

もちろんその過程では悲惨な事も多かった。
しかしそのようなことは   当たり前のことである。
大きな目標   偉業をなそうとする時に避けては通れぬ路である。

それをバカは無知ゆえに「侵略」だなどと口走る。
あまつさえ、戦後日本の馬鹿サヨ政治家どもが行ってきた謝罪や賠償を、褒め称え、挙句の果てには靖国神社などなくしてしまえなどと暴言を吐く。

世界の人々がこれを聞いたらなんと思うか?

『日本人には誇りも自尊心も無いのか』

と思うに違いない。


バカサヨなどいまさら相手にする気はないが、

日本の韓国・台湾統治と白人のアジア支配は同じだ。
慰安婦は日本軍によって「強制連行」された。
日本は南京で大虐殺をやった。

このような馬鹿げた言説がネットで流れれば日本人の立場を貶める事にしかならない。
ネットは世界に開かれている。内輪の話ではない。そこらへんの居酒屋でうだをあげているのとは違う。

何度も言っているが、wadatumi_voice21やtyankonabejpをはじめとする脳腐れのバカどもが日本の足を引っ張り、日本を貶めている。
日ごろのストレスをネットで発散させているのなら情けないの一言だ。
そこまで日本人は腐ったのかと言わざるを得ない。

バカにも理性があるのなら、自分たちの言説がどれほど日本を貶めているのか早く気付くべきだろう。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:45 投稿番号: [1232 / 2250]
戦争の実相を知る世代が   少数派となったことに反比例して、
過去の戦争を美化し   正当化しようとする策動が露骨になり、
世界には通用しない「南京事件はなかった」   という妄言が
日本国内だけに限って   さかんに   吹聴されるようになった。
国民が   真剣に考えるべきことは、未来の日本のあり方だが、
そのためには   歴史に学び、教訓とすることが重要だと思う。

そうした観点からみた時   南京虐殺否定派の   軽挙妄言には
心底から   疑問を感じざるを得ない。
世界的に   歴史的事実だと認識されている事件を   否定しても
不信の目を向けられ、国家の恥になるだけだと自覚すべきだ。
南京で虐殺が   あったことは   事実であり、議論の余地はない。
検証すべきは、なぜ   残虐事件が起きたのか   ということだ。
それを客観的に検証することにより、歴史の教訓とすべきだ。

南京への侵攻にさいしての   日本軍による   残虐行為の中で  
とくに問題になるのは、婦女暴行や   民間人の虐殺とともに
大量の捕虜に対する   組織的な殺戮が行なわれたことにある。
捕虜の殺害は、当時も   明白な国際法違反だった。
1899年制定の   「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」   には、
日本政府も加入し、1912年に   批准している。

この条約は、捕虜に対する人道的処遇について   定めたもの
であり、人権尊重の   観念が生まれた   近代社会になって、
戦争の遂行について   はじめて国際的な規範を示したものだ。
日本は、みずからを近代国家として   世界に認知させようと
しているあいだは、戦時国際法を   遵守する努力をしていた。

たとえば、日露戦争におけるロシア人捕虜や   第一次大戦の
ドイツ人捕虜を   収容施設で   厚遇するなど、当時の日本は
国際法の“模範生”だった。   しかし、欧米人に対する場合と
アジア人に対する場合には、あきらかに異なった基準があった。
それは   軍国主義が強まった   昭和に入ると   より露骨になる。

満州事変を経たのちの   1933年1月に、陸軍歩兵学校では
「対支那軍戦闘法ノ研究」   という参考書が   配布された。
これは、同校教官であった大佐の研究を、校長の序を付して
刊行したもので、その中に「捕虜ノ処置」という項目があり、
以下のように   書かれていた。

   捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
   戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外現地又ハ他ノ地方ニ
   移シ釈放シテ可ナリ支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ
   特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ
   以テ仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題ト
   ナルコト無シ

中国人捕虜は、他国人のような国際法に基づく処置は不要。
殺害しても世間的に問題とならない、と述べたこの文書には、
あきらかに   中国の人々に対する   蔑視があらわれている。
当時、日本人には   他のアジア諸国民を見下す   思想が
植付けられていたが、それに加えて、日本軍の、少なくとも
陸軍将校は、このような参考書で、対中国戦術を学んでいた。

◆中国共産党の血に塗られた歴史

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 19:29 投稿番号: [1231 / 2250]
1949年、建国と同時に 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年、大躍進、文化大革命3000万人・大虐殺開始 、南モンゴル(内モンゴル)民族浄化開始継続中
1950年、朝鮮戦争参戦
1951年、チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年、インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1964年〜1966年、東トルキスタン(ウイグル)のロプノル核実験場にて、46回にわたるメガトン級を含めた地上核実験、住人被爆、周辺核汚染




1969年、珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年、中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年、ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年、カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年、ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年、スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年、天安門事件、市民虐殺

1992年、南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年、フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年、台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年、フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年、日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年、スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年、日本EEZ内のガス資源を盗掘
2008年、北京五輪聖火リレー時、チベット人蜂起に対する虐殺弾圧、アジア各国在住中国人大動員乱暴狼藉(長野、ソウル他)
2009年、東トルキスタンでウイグル人蜂起を虐殺弾圧、継続中
2010年、9月7日、尖閣諸島・魚釣島、支那工作船領海侵犯事件
2010年、10月21日、尖閣諸島・魚釣島、支那工作船領海侵犯事件の主犯格、福建省泉州市から「道徳模範」として表彰される
現在、非漢族に対する大虐殺、婦女子を強制連行・中絶・不妊手術等々、民族浄化を継続中。

大正15年中国糾察隊の横暴

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/03 14:05 投稿番号: [1230 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説


97〜99p

《 大正十五年十一月、漢口においては日本人使用のボーイ、阿媽   (女中)   などの

罷業と暴動事件が起こった。

九月、国民革命軍が武漢の地を占領する前後から、国民革命軍側では

盛んに労働者を煽動し、埠頭人足   (碼頭苦力)   人力車夫、工場職工、

賃仕事職人らは固   (もと)   より、商店員、小僧から便所掃除夫に至るまで

団体をこしらえてやり、これを何々工会と称し、

爾来一二ケ月の間に会数二百数十、人員二十万を唱うるに至った。



しかしてこれらの団体を統ぶるに総工会があり、

共産党内で相当顔ぶれの者がその牛耳を握り、

場合によりては国民政府と相拮抗しかねまじき気勢を形成した。

・・・・

これだけの勢いを成すについては、見逃すべからざる一つの力がある。

それは総工会がこしらえた糾察隊である。



兵士と職工の合いの子のような服装で六尺棒を持たしてある。

表面の任務は労働者の取締りと罷工運動の逸規行動を制御するということに

なっているが、その実は内部的には労働者の工会参加を強要し、

散逸を防遏   (ぼうあつ)   し、外部的には罷業運動を指導し、

場合によりては工場側に対する脅迫暴行の先鋒を為すものである。

・・・


日本租界においては、在留邦人が大して気にもとめない間に

使用人、すなわちボーイ、阿媽などの工会ができた。

これは外国人関係であるというので洋務工会と称せられ、

租界に隣接した支那街三元里に事務所ができ、常任委員が詰めきって事務を執る。

それに我々をして目をそばだてしめたのは、洋務工会で毎日早朝にボーイらを集め

兵式調練をやることであった。



これは全部に強要するのではなかったが、それに参加しておけば

出世ができるとでも聞かされたのか大分隊員ができたようであった。

こうしてボーイらの結束と反抗機運を煽りつつあったが、

果然、十一月半頃に至り洋務工会の名を以って日本領事館を介し、

使用支那人の給金値上げを要求してきた。

日本側でこれを容れなければ全部の罷業を断行する旨が付け加えられてあったのは

言うまでもない。



しかもその回答期間は三日以内という横着きわまるものであった。

彼らの要求条件なるものに至ってはまったく人を食ったものである。

曰く、毎人七元を増給せよ   (従来はボーイ一人の月給は六七元内外だ)

一年三週間の休暇の外、毎月二回の休日と紀念デーは休業せしめよ、

端午節と中秋節には一ケ月分の給料を賞与せよ、薬代を払え、

住宅水道電燈を支給せよ、曰く何、曰く何。



北京、天津、満洲などに居住せる日本人には想像もつかないほどの横着さである。

在留邦人側では居留民大会を開いたり交渉委員を挙げたりしている内に、

工会側では罷業を決行した。先に述べた糾察隊活躍横行の日が来た。》


注 :   罷業とはストライキの事


つづく

大正末 中国での暴虐事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/03 13:51 投稿番号: [1229 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説

注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。



106〜108p

《・・・・彼ら   (中国人)   は日本は何を言われても付いて来ると信じている。

少々怒らしても刀を抜かないと定 (き) めている。

彼らの今日の心持ちは浅野内匠頭長矩を苛めつけた吉良良英の心持ちと思えば大差ない。

たとえ松の廊下の刃傷沙汰が突発しても、英米という国が控えている以上、

たちまちに主従は切腹、お家は断絶だと多寡をくくっている。



支那人が多寡をくくっているばかりではない。

事実これまでの幾年月かは日本も刀が抜けなかった。

あらゆる侮蔑、あらゆる横着をきめられても、歯噛みさえ為さなかった時代もあった。

さてこそ事件は頻々として起こった。

我々の記憶せる漢口地方の事件だけでも左の如き多数に上る。



邦人の横死と惨害

  租界ボーイ領事館襲撃(大正十三年一月)


日本人商店東学洋行使用支那大田種香なる者、ある事故により領事館警察に引致取調べ中、

留置場にて縊死したのを日本人巡査が殴打して死に至らしめたのだと強い、

租界内のボーイを糾合し領事館に押しかけ、石を飛ばし天秤棒を揮い狼籍を極め、

警察署長は群衆裡に引きずり込まれ殴打さるるに至り、

遂に義勇隊、消防隊のほか、軍艦より陸戦隊上陸しようやく事なきを得た。

これは支那群衆が日本領事館に殺到した初めての出来事である。



  水谷氏の横死(同   十四年六月)


六月一日の英租界暴動に際し英租界湖北路一帯の日本商店が全部掠奪破壊せられた際に

通関業者水谷氏が暴民の包囲するところとなり、

脱出する間もなく天秤棒、石塊などにて打ち殺され路傍に遺棄されていたのを救出し、

病院にかつぎ込んだがその時は既に駄目だった。



  松永氏の横死   (同   十四年十一月)


正金銀行漢口支店員松永氏は日曜日武昌郊外に銃猟に出かけたまま行方不明となり、

邦人総出で捜索したがただ同氏の愛犬が悄々(しょうしょう) として

江畔に惶(まど) えるのを救出しただけであった。

確聞するところでは、武昌近郊にて不逞学生と衝突し格闘の未遂に所持の猟銃を奪われ、

それで射殺された上、死骸は各所に転埋せられ遂にその所在さえも不明になったという。》


つづく

12月30日 和平案独逸の説得と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/03 13:41 投稿番号: [1228 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   260〜261p


《 駐支大使トラウトマンは、しかし、日本側の勝利を確信しているので、

軍事顧問A・ファルケンハウゼン中将を通じて、中国側説得をこころみることにした。

十二月三十日、大使は中将に中国軍の抗戦能力を質問した。


「適切な軍事措置、国民の戦意高揚、十分な弾薬補給という三要件が確保されれば、

あと六カ月間は戦えるでしょう」

「そりゃ、楽観的すぎると思うね。将軍」

大使によれば、大使は、顧問ファルケンハウゼン中将の言葉から、

中国側も同様の   「自己過信」   をしているとみなし、

「極秘情報」   を提供して、中国側の反省をうながすよう依頼した、という。


だが、顧問ファルケンハウゼン中将による説得工作は、逆効果をうんだだけであった。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   466p


《 十二月三十日から翌年一月一日まで、中国側は最高国防会議

(主席蒋介石、副主席汪兆銘)   を開いた。この会議でトラウトマン大使が

もたらした回答を討議したもようであるがその結論は明らかでない。


(汪兆銘の回想録によれは、この和平交渉条件受諾を決定したというが、

ドイツ側資料からみて、これは信じ難い)


ただ本会議において、蒋介石が行政院長の職を辞し、

孔祥煕が院長、張群が副院長になることが決定し、元旦の日に正式就任した。

wadatumi_voice21 って、ほとんど妄想で

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 19:42 投稿番号: [1227 / 2250]
南京大虐殺を組み立てているな。

というか、彼の説は何十年も前に使い古された話の寄せ集めなんだけど。

それを、「お前たちはこんなことも知らないのか」   とやられても、しらけるんだよね。


まともに相手するのも、バカバカしいけど、

一応やっておかないと、これに騙される若者が出るだろうからね。

困ったものだ。

Re: 南京への道程――武力侵攻の実態(3)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 19:25 投稿番号: [1226 / 2250]
>唐生智が脱出した   下関から   揚子江の対岸に逃れる   経路には
わずかな渡河材料が   あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で   脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。



バカだねー。

中国兵が逃げ出したのは、「13日の午後」   ではなく、

12日の夜だよ。

ユウ江門には宋希濂の部隊が出させまいとして撃ち殺していた。

だから死体の山になっていた。



宋希濂の回顧録   『鷹犬将軍』   より


《 下関はさらに混乱、船は少なくなった。

それでも人びとは船を奪い合い、勝手に発砲した。

船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、

河に漕ぎ出した船を撃って、民船を沈没させる者もいた。

まさに、地獄絵そのものだった。》



脱出をあきらめたものは便衣に着替え、安全区に隠れた。


翌13日の朝、佐々木隊が来る。

この時には、中国兵はもういない。

佐々木隊は大量の死体を発見するが、自分たちが一番乗りで、

他に誰も知らない事を好いことに、戦果にしてしまう。


ついでに、揚子江を流れる漂流者や死体に発砲して、手柄にしてしまう。


このあと、第6師団がやってくる。

彼らも、死体を戦果にしてしまう。


12時ごろ海軍は閉塞線を突破し、南京に向けて進撃する。

そこに、大量の漂流者や死体が流れて来、これに発砲して戦果にする。



これらは三重に重複しているが、日本軍の戦果ではない。

中国軍の同士討ちによって出来た死体。


同じ同士討ちの死体が太平門でもあった。

これも、日本軍は戦果にいれている。


市内にも、12日夜の混乱で大量の死体や焼け焦げた死体ができている。

日本軍は、勝手に戦果に加えている。


そして、もっと後から来た者は、その死体を日本軍が作ったと勝手に想像した。

それらが、合成されて、戦後、「私は見た、大虐殺はあった」   という者がでてくる。


ただ、それだけの事。

中国の暴虐・鄭家屯事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 18:59 投稿番号: [1225 / 2250]
〔大正5年8月16日   大阪毎日〕   日本軍死傷者十五人、民間人死者二人


  陸軍省公報   十四日朝より十五日朝までに   陸軍省に達したる電報を綜合

すれば、大略左のごとし。


  十三日午後九時頃、鄭家屯にある日本人一名、支那兵のために殴打せられたるため、

我が駐在巡査はこれが交渉のため支那軍隊に赴きしに、彼は銃を擬して威嚇したり。

よって同巡査は護衛兵を要求したるを以って、松尾中尉以下二十名を派遣せしに、

支那兵は囲壁に拠りて射撃を加えたるより、ここに端なくも戦闘開始されたるが、

我が派遣隊は敵の包囲を受け、今なお戦闘中なるがごとし。



右につき我は十四日朝、四平街にありたる中隊の中より将校の指揮する一部隊を

八面城に出し、八面城に在りたる派遣隊を鄭家屯に復帰せしめたり。

また十四日夕、増援のために取り敢えず公主嶺に在りたる騎兵連隊を

鄭家屯に急派せしめたるはずなり。


なお鉄嶺より歩兵一個大隊を引き続き急派すべく、守備隊長より陸軍省に向け

指揮を乞い来たりしを以って、十四日夜、陸軍省より指令の電報を発したるか、

公主嶺より急派せし騎兵連隊は十五日早朝、鄭家屯に着したるはずなり。

しかして十五日朝までに陸軍省に達したる電報によれば、支那兵暴行のため

我が軍隊の蒙りたる損害、左のごとし。



  死者   九名、負傷者   松尾中尉以下六名、

  外に巡査一名及び人民一名即死。

  因みに鄭家屯守備隊長は歩兵大尉井上大鬼智氏なり。〔東京電話〕

中国の暴虐・鄭家屯事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 18:49 投稿番号: [1224 / 2250]
満州における事件
〔大正5年8月15日   大阪毎日〕

《・・・・
  支那兵まず発砲す〔長春特電十四日発〕

十三日午後七時頃、鄭家屯において邦人一名、支那巡警のため殴打、引致されしため、

我が川瀬領事館巡査はこれを取り戻さんと巡警局に赴きし処、支那兵は銃剣を以って威嚇し、

ついに目的を達せず、引っ還して守備隊に護衛を求めしより、

松尾中尉は二十名の兵を率い巡査を護衛して赴きたるに、

支那兵等は物蔭に隠れ、我が兵士に向かい不意に射撃を加えしかば、



我が兵もやむなくこれに応戦せしも、突然の襲撃なると、

かつ彼は非常の多数なりしため、ついに我が軍は松尾中尉以下多数の重傷を蒙り、

やむなく兵営に引き上げたり。

しかるに支那兵は勝ちに乗じて追撃し来たり、十三日夜来我が兵営は重囲の裡に陥りたり。

この急報に接する我が守備隊司令部は、関原及び四平街より応援隊を急行せしめたり。

守備兵既にかくのごとくなれば、我が居住民は危険に瀕しおれりと。



  松尾中尉以下死傷〔奉天特電十四日発〕

目下鄭家屯・四平街間の電線は不通にて、日本軍隊の伝騎によりて双方の連絡を取りつつあり。

鄭家屯に於ける日支兵衝突に関し、奉天に達したる情報によれば、

十三日午後八時頃の出来事にして、初め日本の商人が支那兵に暴行を加えられしより、

交渉のため我が川瀬巡査が支那兵営に赴きしに、彼は銃を擬して近寄らしめず。

すなわち日本守備隊より松尾中尉、二十名の兵を率いて巡査を護衛し、



再び兵営に赴きしに、支那兵は一斉射撃をなせしため、川瀬巡査は即死し、

松尾中尉以下兵士十七名死傷し、行方不明の者もあり。

かくて日本兵営及び警官派出所、満鉄出張所等は、支那兵の重囲に陥り

危険はなはだしく、在住日本人は皆武装して掠奪に備え居れり。

また南門外は弾流のため支那人に負傷者多く、混乱の状態にあり。

四平街より一箇小隊の応援隊、糧食を携え出発せり。



  交戦十有二時間〔長春特電十四日〕   鄭家屯に於ける我が守備兵と支那兵との衝突は、

十三日午後七時より十四日午前七時半まで継続し、

我は松尾中尉を始め下士二名、兵卒十三名及び川瀬巡査等、いずれも重傷を負い生命危篤なり。

また居留邦人は満鉄社員五名、陸軍用達一名及び女子一名を我が守備隊に

収容せしのみにて、その他は各自任意避難せしめたりと。



また十四日午前三時、四平街より我が将校一名及び兵五十名を応援のため

大速力にて急行せしめしが、その後の模様により更に後続部隊派遣さるべし。

また支那兵は我が兵と衝突の当初三百名なりしに、十四日午前三時頃に至り、

いずこよりか二百名ばかり増援し来たり、総員約五百名を以って

我が守備隊兵営を包囲し、多数を恃(たの) みて盛んに威嚇を加え居れりと。



  日本官民重囲に陥る   〔鉄嶺特電十四日発〕

  鄭家屯在留売薬商広松某、店員(支那人?)のために殺害せられ、

商品全部を掠奪されたり。その他在留邦人の生命及び財産の被害甚大にして、

鉄嶺の赤十字社支那は救護班を派遣せしが、何分同地在留官民は重囲の裡に陥り、

外部との連絡を断たれたるため、十四日朝以来なんらの情報達せず。

・・・》

12月28日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/02 18:41 投稿番号: [1223 / 2250]
《 宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙


ジョージヘ!

鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ五十体ある。

元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。

もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。

私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、

日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ?

もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?

よろしく!



フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。

この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。

これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。

いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。



スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。

岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。

今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。

そうすればこちらとしても保護しやすい。

もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱり言った。


中略


岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。

それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、

政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」

それについては、ただ次のように答えるしかなかった。


「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、

ドイツ人の家も持ち物も無事でした。

略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍がやってきてからです。

誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。

舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、

みんな太平路にありました。太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」



七時半ころ、下士官が一人、私の衛兵といっしょにやってきた。

二人ともがっしりした体格で銃剣をたずさえ、泥だらけの軍靴を履いていた。

おかげで、カーペットがすっかり汚れてしまった。

この二人は私の護衛を命じられているのだそうだ。

すぐにまた外へ出ていって、この雨や雪のなかを歩きまわらなければならない。

外はひどい天気なので、さすがにちょっと気の毒になった。



夜の九時ころ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。

私が出かけようとしたときには、やつらはすでに食料貯蔵室にもぐりこんでいた。

私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。

ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ! クレーガーが

私に知らせにきたときには、こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げだしていた。



*   またもや日本兵の侵入?   もはや第16師団しかいないのだから、

   状況証拠からするとラーベのところに侵入していたのは第16師団の兵士か、

   と言うことになるのだが。さて?

◆卑劣極まる捏造 「証拠写真」の正体

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 18:32 投稿番号: [1222 / 2250]
●南京事件で「大虐殺」のあかしとして使われてきた写真を検証したら、証拠として通用するものは一枚もなかった。


◆【産経抄】(2005年2月2日)
  マスコミを巻き込んだニセモノ騒動は世に多い。昭和九年の「春峯庵(しゅんぽうあん)事件」では写楽らの肉筆の浮世絵が見つかった、なんとか博士も大絶賛と、ある新聞が報じた。ところがすべてニセモノ。

  ▼最近では、高麗青磁の復元に成功したという研究家の寄稿を某紙が載せたが、やはり大ウソ。後日、事実を検証して軌道修正した。笑っていられないのは、南京事件で「大虐殺」のあかしとして使われてきた写真を検証したら、証拠として通用するものは一枚もなかったということだ。

  ▼検証の方法について異論も出よう。だが、この作業を行った東中野修道氏の言に賛成である。「虐殺の有無ではなく、写真が証拠として通用するか検証した」。反日宣伝のために使われた写真を、あまりに無批判にたれ流してきた人たちがいる。

  ▼数年前には笠原十九司著「南京事件」(岩波新書)で、ニセ写真が使われ、著者と出版社が謝罪して写真を差し替えた。昨年の本宮ひろ志氏の漫画「国が燃える」をめぐる騒動は記憶に新しい。真偽不明の写真を下敷きにして描き、休載になった。

  ▼先入観なく事実を検証する目を持ちたい。それなくしては追悼もお題目にしかなるまい。「大虐殺」写真として流布している多くは、二冊の本が源流と東中野氏はいう。南京攻略のあと間もなく出た「日寇(にっこう)暴行実録」と「外人目撃中の日軍暴行」で、いずれも反日宣伝の本だそうだ。

  ▼笠原という人は、このうちの「実録」にもとづいて農作業から帰る女性を「日本兵に拉致される…」とやってしまった。今回の検証では「大虐殺」のマスコミ側権威?本多勝一氏も同じ過ちをしている。お金を払って買った鶏が、氏によれば略奪品だそうだ。ふつうなら軌道修正のはずだが。

◆「南京大虐殺」流布写真143枚、証拠として通用せず   東中野・亜大教授検証 明らかな合成/日本兵と違う軍服 (2005年2月1日)

  「南京大虐殺」の証拠として流布する写真の検証作業を続けていた東中野修道・亜細亜大学教授は三十一日、都内で会見し、証拠写真として入手しうる百四十三枚のうち、証拠として通用するものは一枚もなかったとする検証結果を発表した。

  東中野教授は「大虐殺」に触れた著作物を可能な限り収集、そこに掲載されていた約三万五千点の写真の中から「大虐殺」の証拠とされるものを抽出して検証した。「虐殺の有無を検証しようとしたのではなく、虐殺の証拠に使われている写真が、証拠として通用するものかどうかを検証した。そこを理解してほしい」と東中野教授。

  検証の結果、今日流布する証拠写真の多くは、昭和十二年十二月の南京攻略戦から七カ月後に出版された「日寇暴行実録」(国民政府軍事委員会政治部編)と「外人目撃中の日軍暴行」(ティンパーリー編)の二冊を源流としていたことが明らかになった。

  この二冊に掲載された七十枚は、いつ、どこで、だれが撮ったものか不明なものが大半であり、細部を詰めてゆくと、明らかに合成と分かるもの▽軍服が日本兵のものでないもの▽初夏に撮られたとみられるもの−が多数あった。さらには、日本の写真雑誌に掲載された写真のキャプションを改竄して掲載した例も。

  東中野教授によれば、こうした写真が「大虐殺」の証拠として検証されることなく次々に使用されていったという。典型的な例は、昭和十二年十二月五日発行の「朝日版支那事変画報」の裏表紙に掲載された、代価を払って鶏を買った兵士の写真。「日本軍の行くところ略奪されて鶏も犬もいなくなった」とキャプションを改竄されて「日寇暴行実録」に掲載され、さらに朝日新聞記者だった本多勝一氏の著作に「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」という説明をつけて掲載された。

  「源流の二冊は、反日プロパガンダとして作成されたもの。そこに掲載された写真を検証なしで流布したマスコミの責任は極めて重い」と東中野教授は話している。

◆馬鹿が用いる南京大虐殺嘘写真の解説

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 18:25 投稿番号: [1221 / 2250]
実際には南京大虐殺の証拠写真は1枚もありません。

  http://www.history.gr.jp/~nanking/

  どこから、持ってきたのか解りませんが、厳寒の南京において半袖の夏の戦闘服を着た日本兵が死体の側に立っている変な写真ですとか、ソ連兵を日本兵だと説明していたり、文化大革命犠牲者の大量の骨の写真や昭和19年に製作されたアメリカの抗日、反日映画(『Battle of China』などの)の1シーンに全く異なる解説をしているものばかりです。
  写真雑誌等見て育った世代には、単純なヤラセ写真などは容易に見抜けるものです。
  南京大虐殺を宣伝している年齢は大体50代後半〜60代後半の団塊世代と呼ばれる人たちが中心であり、従軍経験は当然無く、軍事知識は皆無なのです。
  ですから簡単なヤラセ写真にひっかかり、信じ込んだり、意図的にウソを主張しているだけなんですけどね。
  真実は100年立っても200年経っても変える事は不可能です。
  いずれ必ず事実が広く知られる事を理解しましょう。
  私達にとっての祖父達をどうにかして“悪者”にしたてたいという気持ちは全く理解不能ですが、そういう親を見て育った子供達は決してそのような親の世代をを尊敬しません。
  むしろ侮蔑の目を向けられることでしょう。団塊世代が、いずれどのように評価されるのか見ておくことです。

馬賊(匪賊)という犯罪集団の処刑後の写真

  馬賊(匪賊)とは中国で清の末ごろまでの満州に広くはびこり、馬に乗り近隣の町を荒らし回った集団的な盗賊で、大正から昭和初期にかけて、中国の北部は群雄割拠する馬賊の時代でもありました。
  関東軍に爆殺された張作霖のように大小馬賊群ににらみを利かし、自ら大元帥と名乗った権力者もいたのです。さらに驚く事に当時は女馬賊もいた。
  当時の支那(中国)では農民は作物が不作の時には、農民が突如として馬賊に変身し近隣の村々を襲ったりもしていた事もあったそうです。
  それら馬賊は近隣の街を夜な夜な襲って金品を強奪し、殺人などを行っていた。(当時の中国の町は安全のため城壁で囲んでいたのはここに理由がある。)   満州鉄道も度々襲われていました。
  だが、彼らは捕まるとほとんど現地の警察などによって処刑され斬首されたりしたり(写真1-4)見せしめのため首を切りさらし首にしていた(写真1-1、写真1-2、写真1-3)。ここが日本人とは文化が違う事を表すポイントである。(注:日本では斬首、さらし首は江戸時代に廃止している。)
  ましてや昭和初期にこの様な野蛮な行為は一切行ってはいない)「南京」の市民なんて根拠のないウソである。少なくとも「虐殺派」は中国の文化について全く知識がないようだ。以下は全てその当時、みやげ物店などで販売されていた写真である。

南京戦における戦死者の死体(当然、戦争なのだ)

  よくぞまぁ、と言いたくなるくらいに「虐殺が有った!」と主張したい連中は戦闘で死んだ中国兵の死体をこれが「南京大虐殺だ!」などと臆面もなく発表しているのである。

Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(1

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/12/02 10:28 投稿番号: [1220 / 2250]
>田中正明著   『南京事件の総括』   でも、
>中島中将の『捕虜ハセヌ方針』というのを
>銃を取りあげ   釈放するという
>意味だ、などと   主張している。
>しかし、東中野などの   否定派は、「中島日記」   を引用する時、
>意図的か否かは分からないが、次の部分を   完全に無視している。
>「此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
>見当らず   一案としては百二百に分割したる後適当の処に
>誘きて   処理する予定」

>捕虜を追放するのに、なぜ   「大なる壕」   が必要なのか。  

  虐殺否定論者は、意図的に都合のよい部分だけを引用して、勝手な解釈で文脈をねじまげますが、肝心なところはムシしてることが分かりますね。   捕虜にした兵士を解放するのに、大きな壕を掘る必要があるか、ということには答えられないようです。

  それにしても、具体的な資料にもとづいて客観的に事実を証明してみせるあなたの書き込みにたいして、出所のあやしい右翼サイトのコピペしかできず、しまいには自分の思いこみでしか語れない否定論者の書き込みとでは、だいぶレベルがちがいすぎています。もう論争の対象にすらならない感じです。南京大虐殺の議論は、もうとっくに勝負がついたなとおもひます。

◆ありがとう日本人 この誇り高き民族

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:22 投稿番号: [1219 / 2250]
ガザリー・シャフェー(元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)

「とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。『その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。』 と。」


  トモ(インドネシア元情報相)

日本軍が、米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は、白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり我々がやらねばならなかった。そして実は、我々の力でやりたかった。


  アジス(マレーシア・マラヤ大学副学長)

私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。
日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。


  モハマド(マレーシア外務省情報センター所長)

これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。
民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。
これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした。


  ネール(インド首相)

アジアの一国である日本の(日露戦争の)勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。
ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり『アジア人のアジア』の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。


  アブドル・ハリス・ナシオン(インドネシア元国防軍参謀総長)

独立できたの要素の第一は、日本軍が植民地政治体制を粉砕したことです。第二は、日本軍の猛烈な軍事訓練です。日本軍は大変立派なことをしてくれました。
日本は、歴史に残ることをしてくれました。誰も変えることのできない真実です。

◆アジア諸国 日本への感謝と尊敬の声

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:19 投稿番号: [1218 / 2250]
■マレーシア

ガザリー・シャフェー(元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
「とくに私(ガザリー・シャフェ外相)が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。」と昭和63年9月、先の大戦で詫びる日本の政治家を批判した。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


■インド

ラダ・クリシュナン大統領
「インドが今日独立できたのは日本のおかげであり、それは一人インドだけでなく、ベトナムであれ、カンボジアであれ、ビルマであれ、インドネシアであれ、当時植民地であった諸国は、日本人が払った大きな犠牲によって独立できたのです」(1958年に来日時において)

グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)
「このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。」(1946年・デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


■インドネシア共和国

アラムシャ陸軍中将(インドネシア大統領特使)
「平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」「どういうことですか?」「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」とアラムシャ陸軍中将は語りました。」(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

サンパス将軍(東欧大使歴任)
「平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」となげいていた。」(『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

◆台湾における日本人の評価「公」と「私」

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:18 投稿番号: [1217 / 2250]
司馬遼太郎は言う。

  身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であった
ことがない。その股肱(てあし)の官僚もまた私で、たとえば
地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだ
った。このため近代が起こりにくかった。

  台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、
勝者になった毛沢東の権力も、多分に私だった。毛沢東の権力
が私でなければ、プロレタリア文化大革命などという私的ヒス
テリーを展開できるわけはないのである。・・・

  歴朝の私が人民にとって餓えた虎であり続けた以上、ひとび
とはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。


  李登輝総統の願いは「夜、安心して眠れる国にしたい」というこ
とであった。その願いの背後には、「夜にろくろく寝たことがなか
った」という蒋介石時代と、「夜寝るときも鍵をかける必要がなか
った」という日本統治時代の二つの体験が潜んでいる。[5,p376]

  民衆が夜安心して眠れるよう、「公」のためにつくす政治家や官
僚、警官、軍人がいて、初めて近代国家は成り立つのである。


日本の台湾統治がいかに台湾に近代化をもたらしたかこれでよく理解できたと思います。


●どこかのうす汚れが、無知なのか本当に馬鹿なのか知らないがひたすら日本を貶めよだけの嘘と捏造まみれの投稿を繰り返しているが賢明なる日本人はくれぐれも騙されないで欲しい

◆台湾における日本人の評価 7

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:15 投稿番号: [1216 / 2250]
■強烈な順法精神

  法治を徹底するためには、行政当局自らも法規を守らねばならな
い。花蓮のある日本人警察官は、妻が農民から紅露酒2本15銭相
当を贈られたために免職になり、当時大きな話題となった。警察の
月給が60円だったころである。

  台湾大学医学院長をつとめた魏火曜によれば、地位利用を意味す
る「揩油(カイヨウ、うまい汁を吸う)」などという言葉は、日本
統治時代には耳にしなかったという。

  総督府の強烈な順法精神に加え、街の要所要所には警察局や派出
所が作られ、そこから毎日警官がパトロールした。日本の警察は、
台湾人の習慣を強制的に変え始め、左側通行の規則を作り、痰を吐
いたり、手ばなをかむことを禁止した。当時を知る台湾人は「俺の
ためにこそ泥を捕まえてくれるが、俺が何かやらかせば遠慮会釈し
なかった」などと語っている。

  しかし厳しい警官だけではなかった。台南州で勤務していた森川
清十郎巡査は、村民の税金軽減のために当局と争い、抗議の自決を
した。村民は巡査を徳として「義愛公」と呼び富安宮に祀った。今
でも「日本人の神様」としてお参りする人が絶えないという。

このような厳しい法治のもとで、台湾は武闘の頻発する無法地域
から、治安良好な法治社会への変わっていった。夜眠る時や外出の
さいも、家に鍵をかけなくとも泥棒を心配する必要はなかった、と
現在でもよく言われる。

◆台湾における日本人の評価 6

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 04:14 投稿番号: [1215 / 2250]
■東洋一の大水利事業を完成した八田與一

  嘉南平野は台湾南部に広がる最大の平原で、香川県ほどの面積
をもち、台湾の全耕作地面積の6分の1を占める。しかし雨期に
は集中豪雨のたびに河水が氾濫し、乾期には旱魃に襲われる。農
作物がほとんど育たない不毛の地であった。

  総督府土木課に奉職する八田與一は大正9年から十年の歳月を
かけて、上流の烏山頭で大規模なダムを造り、平野部に1万6千
kmもの給排水路を張り巡らすという、東洋最大の水利事業を完
成させた。アメリカの土木学会から「八田ダム」と命名され、世
界的にも注目されたこの事業によって、不毛の大地であった嘉南
平野は緑の沃野に変わった。

  台湾の民衆がこれをいかに受けとめたかは、昨年4月、嘉義県
の呉明○(韋に榲のつくり)氏が自費出版した「嘉南大○(土へ
んに川)建設工事簡介」の次の文章からうかがわれる。

  当時東洋一の大水利事業を完成して、不毛の平原を台湾一の
穀物の宝庫に変えた功績は、永久不滅である。現在もなお嘉南
(嘉義、海南、雲南)の農民に父のように慕われている八田技
師の名は永遠に残るであろう。

  戦後、日本人の銅像はことごとくを引きずり倒されたが、た
だ独り八田技師の銅像が、今なお守り続けられている。さらに、
同夫妻の墓も作られて、5月8日の命日には毎年欠かさずに、
華南の人々によって供養が続けられている。愛や教育や宗教に
は国境がないことを如実に物語っている。

■台湾   加油(がんばれ)

  日本が台湾を植民地にした事には、いろいろ議論がある。しか
し、明治日本はそのかけがえのない人材を惜しみなく台湾統治に
注ぎ込み、これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注い
で台湾の民生向上と発展のために尽くした。この事は、台湾の民
衆にもよく伝わり、それが「多桑」世代の親日感を生み出した。

  これらの日本人たちの努力に呼応して、台湾からも多くの偉大
な人材が輩出したのだが、これはまた稿を改めて紹介したい。

  大陸中国の圧迫に耐えながらも、台湾は、今日、世界でも有数
の経済力を誇る民主主義国として発展した。本稿で紹介した人々
は、それを草葉の陰で何よりも喜んでいるに違いない。

◆台湾における日本人の評価 5

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:59 投稿番号: [1214 / 2250]
■蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉

  日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出する
ようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の
食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治
43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との
志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉
という農学徒と出会い、二人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。

  二人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、つ
いに大正10年「台中65号」の開発に成功した。それは台湾の
気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的
な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65
号を「蓬莱(台湾の美称)米」と命名し、増産に大きな期待をか
けた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、
島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。

  磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の
農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章
を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の
代わりに贈られた。[3,p130]


■台湾の土となった明石元二郎総督

  大正7(1918)年に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争
でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であっ
た。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把
握に努めた。

  台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十四、五歳に多いと
いう説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と
言った。

  二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生ま
れた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところが
あるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への
決意を新たにした。

  明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日
月潭水力発電事業、台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少
なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに現在の
李登輝総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整
備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。

  台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣
という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後一年間余にして病死
した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付
によって200坪もある壮大な墓が作られた。

◆台湾における日本人の評価 4

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:59 投稿番号: [1213 / 2250]
■台湾の神様になった森川巡査

  森川清治郎は明治30年に、台湾に渡り、南西部の台南州(今
の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務した。森川巡査は、村内
の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で、
子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えた。
また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民
とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、
薬や医者の手配まで世話をした。

  ある年、総督府は漁業税を制定した。しかし貧しい村のこと、
なんとか税の軽減をお願いできないかと村民は一致して、森川巡
査に嘆願した。巡査は「納税は日本においても義務であり、何と
も仕方がない。しかし生活が極めて苦しい実情を見ると忍びない。
税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束した。

  そして税の減免を支庁長に嘆願したが、逆に森川巡査が村民を
扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまう。村民のため
に尽力してきた森田巡査にとって、この懲戒は無念やる方なかっ
ただろう。自ら村田銃の引き金を引いて自決した。銃声を聞いて
駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲し
み、村の共同墓地に懇ろに弔った。

  それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行
した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生も
のに注意せよ」と告げた。村民にその注意を守らせると、伝染病
はおさまった。

  村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった
森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査
の制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀った。この「日
本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々
の信仰を集めているという。

◆台湾における日本人の評価 3

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:58 投稿番号: [1212 / 2250]
■西郷菊次郎の治水工事

  西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あい
かな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本
に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わ
った。

  そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宜蘭(ぎらん)の庁長
として務めた。宜蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そ
こを流れる宜蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。

  西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人
の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は
根絶され、宜蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。
この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で
西郷菊次郎の徳政を高く称えている。


■教育に殉じた六氏先生

  公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育で
ある。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得
だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先
すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台
北の北方に芝山巌学堂を開いた。

  当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続け
ており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。

  それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして
住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国
難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具
体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。

  事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱
勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残って
いた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。

  しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示し
て6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山
を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人
は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに
思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。
6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨
殺されてしまった。

  「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精
神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝
山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じ
た人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人
教育者は24人を数えた。

  芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士
林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏
先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席し
て、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。

  芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古
跡・芝山巌」を次のように結んでいる。

  「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台
湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し
上げます。合掌。

◆台湾における日本人の評価 2

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:57 投稿番号: [1211 / 2250]
児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造である。新渡戸は、半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。そして品種改良、耕作方法、加工法の改善に取り組んだ。

  この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。[4]

  児玉は、後藤、新渡戸を全面的にバックアップするかたわら、各地を精力的に巡視して、80歳以上の老人男女を食事に招待する(饗老会)など、民心把握に努めた。日露戦争中は、満州軍総参謀長となりながらも、台湾総督の職位を離れなかった。

児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議が起こったが、予算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このことが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。台湾人民がいかに児玉を敬愛していたかが窺われる。

◆台湾における日本人の評価 1

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:57 投稿番号: [1210 / 2250]
日本統治時代をテーマにして描かれた映画「多桑」は、台湾におけるアカデミー賞とも言われる「金馬奨」において観客投票最優秀作品賞を受賞した。

「多桑」は、台湾語読みで「トーサン」と読み、日本統治時代の「父さん」の名残だそうだ。日本教育を受けた世代で、日本びいきの主人公セガは子供達にも自分のことを「トーサン」と呼ばせる。子供達はそんあ「トーサン」を最初は「奸漢(売国奴)」と非難していたが、成人して父親の心情を理解する。この長男が監督として、実体験に基づいて作った映画が「多桑」であり、戦後日本の統治時代の人々は、この作品を見て涙を流し、若い世代にも共感を呼んだらしい。

しかし、「多桑」世代の人々は、なぜそんなに親日的なのだろうか。それは、大きなスケールで、台湾のために尽くした多くの日本人がいたからである。今回は、それらの人々の一部を列伝風に紹介してみたい。


■児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造

明治31(1898)年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れていた。ここで第4代総督として任命されたのが、後に日露戦争でも活躍した児玉源太郎である。児玉は、後藤新平(後の東京市長)を民政長官に起用した。

  後藤はもともと医師であり、社会衛生を重視した。アヘンに高率の税をかけ、吸引者を徐々に減らすと共に、その税収を衛生改善に当てた。当初16万9千人もいたアヘン吸引者は、50年後の日本敗戦時には皆無となっていた。

また、台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が実に4,642名という有様だった。[3,p306]後藤は悪疫予防のために、上下水道を完備し、主要道路は舗装して、深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。これは当時の日本本土でも行われていなかった。

伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、ここから多くの台湾人医師が育った。またほとんど都市の形をなしていなかった台北で、大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作りあげた。

南京への道程――武力侵攻の実態(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/02 00:25 投稿番号: [1209 / 2250]
軍中央部が捕虜についての基本方針を示さず、方面軍も捕虜の
取り扱いについての方針を   さだめなかったことから、幕僚が
かってな指示をしたり、軍や師団が不統一な指示をしたことが
結果として   捕虜の大量殺害につながったのだ。

軍や師団の幕僚が   捕虜の殺害を指示していたという記録には、
次のような例がある。
上海派遣軍の右翼、佐々木支隊の後方を進んだ独立攻城重砲兵
第二大隊第一中隊の   沢田正久中尉は、12月14日仙鶴門鎮
付近で   大部隊を捕虜にしたさいに状況を   証言している。

   捕虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えており
   ませんが、約八千以上おったと記憶します)   でしたが、
   早速、軍司令部に報告しましたところ、「直ちに射殺せよ」
   と言ったので拒否しましたら「では中山門まで連れて来い」
   と命令されました。   (『南京戦史資料集』540頁)
  
第十六師団歩兵第三十旅団第三十八聯隊副官児玉義雄少佐は、
師団副官から捕虜殺害の指示があったことを   証言している。

連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団
命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
と電話で伝えられた。(略)この命令だけは何としても
納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも   幾度か意見具申しましたが、採用
するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが各大隊からは、その後何ひとつ
報告はありませんでした
(「歩兵作命甲第111号」、『南京戦史資料集』622頁)

南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の   歩兵第三十三聯隊と   歩兵第三十八聯隊、
第九師団の歩兵第七聯隊、第三師団の歩兵第六十八聯隊の
第一、第三大隊、第十軍では第百十四師団の歩兵第六十六聯隊
第一大隊と歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の
第三大隊、同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所   図書館に
保存されている。

このうち、第十六師団だけに限った資料でも、12月13日の
1日だけで、少なくとも2万人以上の捕虜を   殺害した事実が
分かっている。   たとえば、同師団の   中島師団長の日記にも
13日だけで2万4、5千の捕虜を「片付けた」   としており、
佐々木旅団長も   「我支隊のみで2万以上の敵は解決した」と
記録している。  

これは、第十六師団の、しかも   たった一日だけの数字であり、
日本軍全体で、数日間にわたって   展開された殲滅作戦により
どれほどの捕虜や   敗残兵と見なされた中国人が殺害されたか
想像を絶する   膨大な数字であったことは   容易に理解できる。

南京攻略戦に投入された日本軍の総兵力は、約20万に達する。
20万の兵士が   一人当たり平均で何人の中国兵を殺したのか、
今となっては不明だが、各人が銃弾や銃剣を装備しているほか、
各隊に機関銃が備わっていた状況からすれば、戦闘能力を失い
武器を捨てた捕虜たちを大量殺害するのは   簡単なことだった。

南京への道程――武力侵攻の実態(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/02 00:24 投稿番号: [1208 / 2250]
ハーグ条約には   日本も加入し、1912年に   批准していた。
しかし、日本軍の欧米諸国の兵と中国人兵士に対する認識には
あきらかに異なる位置づけが   存在していた。   1933年に
陸軍歩兵学校が配布した   参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」   の項目には、次のように   書かれていた。

「捕虜ハ   他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
戦局ヲ待ツヲ要セズ」   「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
レアルモノ少キヲ以テ   仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ」
中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは   当然だった。

さらに、日中戦争が全面化しはじめた時点で出された陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」   は、以下のように示した。
「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
(1937年8月5日付   陸軍次官通牒陸支密第198号)

これにつづいて、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト
見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用)」
などはつとめて避けよ   と指示していた。
国際法規は   適用しなくてよい、捕虜という位置づけも不要
というこの指示が、とくに   敵愾心にあふれた第一線部隊の
兵士たちが捕虜を   躊躇なく殺すうえで   免罪符となった。

日本軍の包囲網が完成し、また   防衛軍側が   ギリギリまで
「南京固守」   を唱え、退却の判断が   遅れたこともあって、
10万人近い中国兵が   逃げ遅れて   投降することになった。
これに対して   日本軍側には、捕虜収容の用意は   なかった。
予想を超える大量の捕虜が発生し、その処置に窮したことが、
大量殺害の直接原因だった。   方面軍司令官松井石根大将は、
南京での捕虜殺害について   次のように   述べている。

   さういふやうな勢で   捕虜も相当出来たけれども、捕虜に
   食はせる物もない。   さういふ状態で   戦闘しつつ捕虜が
   出来るから捕虜を始末することができない。
   それで   ちよん斬つてしまふことになつた。   (中略)
   始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたの
   だ。   その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。
   (吉田裕「南京事件と国際法」より)

松井大将の捉えていた「南京事件」   とは、外国権益の侵害と
一般市民に対する   掠奪、暴行、強姦の   軍紀風紀問題であり、
捕虜処分の問題は視野の外だったようだ。   中国兵に限っては、
捕虜として   扱わなくとも、国際法上の犯罪行為にあたるとは
考えなかったことが   うかがえる。

南京への道程――武力侵攻の実態(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/02 00:23 投稿番号: [1207 / 2250]
一方、南京防衛軍では、司令官唐生智が   南京死守を唱えていた。
このため、退却の時期を逸し、日本軍の完全包囲を   許すことに
なってしまった。   唐生智は、12日の   午後5時になってから
はじめて   撤退命令を発し、午後6時には   まっさきに渡河して
退却した。   しかし、十数万の防衛軍は   すでに   撤退の方法が
なくなっており、一挙に   崩壊してしまった。

指揮組織が消滅し、各部隊ごとに、あるいは   各個人バラバラに、
日本軍の間隙をぬって   逃れようとした。   このため   城外では
いたるところで   混戦が起こり、部隊や   小グループ、個々人で
投降する者が   続出した。   城内は、ほとんどの城門が日本軍に
押さえられたので、ただ一つ残った   下関に通じる   ユウ江門
(「ユウ」は手偏に邑)   に殺到して   大混乱に陥った。

唐生智が脱出した   下関から   揚子江の対岸に逃れる   経路には
わずかな渡河材料が   あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で   脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。   一部は東北方に脱出しようとして
14日に   山田支隊に捕らえられた。   逃げ遅れた多くの兵士は、
軍服を脱いで   安全区に逃げ込んだ。

こうして、南京防衛軍の組織は   日本軍の入城直前には   完全に
崩壊していた。   日本軍が入城した時点で、中国兵は戦闘能力を
すでに消失していた   というのが実態であり、捕虜の大量殺害を
戦闘中の行為と称して   正当化するのは   間違っている。

中支那方面軍は、17日に   松井方面軍司令官や   朝香宮派遣軍
司令官を先頭にして、各部隊の代表が参加する入城式を挙行した。
これに先立って、城内   とくに   難民20万余が   逃げ込んだ
国際安全区(難民区)   の掃討が、徹底的に   行なわれた。
敗残兵の「剔出」   と称して、兵士の疑いのある男子を引き出し、
次々と   処刑した。   その後、第十軍は   杭州攻略に向かい、
各師団は新配置に移行し、南京の治安粛正は第十六軍が担当した。

南京侵攻戦は上海戦ほどではないにせよ、防衛軍の激しい抵抗で、
日本軍にも   多くの損害が出た。   戦闘詳報などで   明らかに
なっている数字は、戦死1558人、戦傷4619人であるが、
一部不明の記録もあるため、全体としてはこれより   やや多い
数である   と推定される。

これに対する   南京防衛軍の損害は、より莫大なものだった。
防衛軍の総兵力は   約15万人だったが、そのうち包囲網から
逃れて、脱出できたものが   約6万人、残りの   9万人のうち
戦死者が   約1万人であるから、残りの8万人が武器を捨てた
敗残兵、投降兵、捕虜となったことになる。   問題になるのは、
この大量の投降者・捕虜に対する   日本軍の「処置」の方法だ。

捕虜の殺害は、明白な   国際法違反だ。
1899年に   制定された   「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は   この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。

南京への道程――武力侵攻の実態(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/02 00:23 投稿番号: [1206 / 2250]
中支那方面軍に   はじめて南京攻略が   下令されたとき、すでに
その隷下の   上海派遣軍も   第十軍も、独断で   南京に向かって
進撃していた。   上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に   広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」   と称して、前進を命令していた。

12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に   向かうのではなく、
上海派遣軍は   磨盤山山系西方の線に、第十軍は   蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。   南京防衛陣地の前面で一旦態勢を
整え、南京の包囲網を   完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの   功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。   このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって   殺到することになった。

こうして、無統制のまま   南京攻撃戦は   はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を   並列して   南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を   鎮江に向かわせた。   12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の   第一線陣地である
淳化鎮を   占領した。   第十軍の   第六師団と   第百十四師団は
並行して   南京に向かった。

中支那方面軍は、12月4日の時点で   両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には   「南京戦攻略要領」   を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを   示したものだった。

12月8日、各方面とも   南京防衛陣地への   攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が   12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が   進展しなかった。

また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して   左岸に渡り、
津浦線の遮断に   向かった。   同師団の一部は山田支隊となって
12日   鎮江を出発、第十六師団の   右翼に進出して   烏龍山、
幕府山の   砲台占領に向かった。   当初、第二線兵団として
第九師団の後方を   前進していた   第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として   南京攻撃に   参加させた。

第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に   並列させて、
8日から   雨花台の堅固な陣地を攻撃した。   第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は   左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は   11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で   揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。

こうして   日本軍は   南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで   激しい攻撃が行われた。   各部隊は、城内への
一番乗りの栄誉を競っていたが、国内では、“南京占領近し”
などといった報道が流れ、そのことも   現地軍の   焦りを誘う
ことになった。

南京への道程――武力侵攻の実態(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/02 00:22 投稿番号: [1205 / 2250]
1937年12月1日、中支那方面軍に対し、大本営は戦闘序列を
発令し、そのうえで   「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ   敵国首都
南京ヲ   攻略スベシ」   という大陸命を   くだした。
念のため解説すると、戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のこと、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。

すでに、半年も前に起きた   蘆溝橋での武力衝突を   発端として
両国の軍隊が   全面戦争に   突入していた   にもかかわらず、
この大陸命で   大本営は、はじめて   中国を   「敵国」   と呼び、
首都南京への武力侵略を   正式に   命令したのだ。
日本は、国際社会からの   大儀なき武力侵略に対する   批判を恐れ、
あくまでも「事変」   の鎮圧として、片付けようとしていたからだ。

もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍は屈服させる   という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま   中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。

南京の攻略は、参謀本部が   初めから   予定していたわけではない。
第十軍を   杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は   参謀本部第三部長   塚田攻少将、参謀副長は   参謀本部
第三課長   武藤章大佐、以下の参謀数名も   参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま   「出張」の形式で   派遣された。

その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに   方面軍には、直属の兵站部隊が   まったく   無かった。
こうした   異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような   問題点が生じた。

第一に、後方補給の準備が   まったく   欠けていたため、
南京へ殺到した   各部隊の給養は   ことごとく   徴発に依存し、
これが   略奪暴行多発の   原因になった。
第二に、方面軍司令部には   外交や渉外の   機能がなく、
国際法の顧問も   従来の戦争のように   置いていなかった。  

各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは   きわめて
不十分な編成で、しかも   南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との   連携も   悪かった。   それどころか、
軍は   外交官を   邪魔もの扱いにし、暴行を   制止しようとした
外交官が、身の危険を   感じるほどだった   と報告している。

第三に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて   不十分だった。
方面軍には   もともと   直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で   大軍の犯罪非行を取り締まるのは   ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された   憲兵隊長の   上砂勝七も   「何分   数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」   (『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。  

このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に   つながる
要因が   含まれていたと   言うことができる。

◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す⑤

投稿者: l3l3l3l7l7l7l7 投稿日時: 2011/12/01 23:53 投稿番号: [1204 / 2250]
      誇り高き日本兵の礼節と仁愛

見よ!実は、日本兵は中国で礼儀正しく、皆から愛されていた。


      http://photo.jijisama.org/china.html

◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す④

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 23:30 投稿番号: [1203 / 2250]
   出てくるたびに馬鹿を晒すwadatumi_voice21なる捏造者が今回持ち出した「 村瀬守保」についてもちょいちょいと片付けておこう。

「虐殺が有った!」と主張したい腐れ脳どもは戦闘で死んだ中国兵の死体をこれが「南京大虐殺だ!」などと臆面もなく発表しているのである。


    さて


  ペテン師wadatumi_voice21が意気揚々と持ち出してきた村瀬守保の「証拠写真」であるが、とっくの昔に「全て中国軍兵士らの単なる戦死体」ということが判明しているのである。

 
   以下引用


  これらの写真は昭和58(1983)年8月17日、「毎日新聞」が『南京大虐殺   これが証拠写真』と、南京事件の犠牲者のごとく報道したが、実際は只の南京戦での戦死体を撮影しただけであったことが、第45連隊、高橋義彦元中尉その他多くの人達の証言と資料で判明しています。
  ちなみに、これら死体には全て戦闘服を着ているので一見して兵士と分かる。
  大体、「虐殺があった」等と発言した元兵士達は行動を同じくした隊の者に訴えられたりウソを見破られたりしているのです。
  写真2-1、2-2、2-4は新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)。
  ちなみに写真2-3は単に南京城外・内での戦死者の死体を集めた場所を撮影してるだけ。
  はっきり言って、「南京大虐殺」とは何ら関係ない。(もっと、詳しく知りたい人は田中正明著『「南京事件」の総括』(小学館文庫)を読んで下さい。)  
    
   必見!→    http://www.history.gr.jp/~nanking/lie.html

◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す③

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 23:11 投稿番号: [1202 / 2250]
腐れ脳の南京大虐殺捏造派がよく持ち出す「石射猪太郎」についてもちょいちょいと片付けておこう。

石射は次のように書いている。

「昭和十三年一月六日の日記にいう。上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。 掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」


  その抗譲書は『外国人の見た日本軍の暴行』に付録として収められている「南京暴行報告」「国際委員会の書簡文」等々であろう。

  
  ところで、この「南京暴行報告」は「日本兵が米人バーワー女教師のキャンデーを手づかみにした」(評伝社版、165頁)などと実に細かいことも書いているが、抗議した中国人被虐殺者の数は「三十三名」にすぎない。東京裁判で証言したマギー自身か見た「虐殺」はたったの一件。これも誰何されて逃亡した中国人か撃たれたというもであった。
 
  さらに、この「三十三名」虐殺抗譲の報告も、南京の中国人が国際委員会の事務所に駆け込んでアレコレ訴えたことを、何ら検証することなく、全てを事実として認定したという代物である。


当時南京で外交官だつた福田篤泰氏は次のように述べている。

  「当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務局へ出かけて いたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んで釆る。

「いま、上海路何号でー〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは 「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された。」等々、その訴えを、フイッチ神父が、私の目の前で、 どんどんタイプしているのだ。 『ちよっと待ってくれ。 君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私 は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。 とにかく、こんな 訴えが連日、山のように来た。

  ティンバレーの原資料は、フイッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられ る」
(『一億人の昭和史   日本の戦史3   日中戦争1』毎日新聞社、 p261   引用者注;名称の正確を期し、補った)
福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味された。石射や上村氏は本省のデスクで、送られてきた書類を見て目を蔽っただけである。

では何故、石射らはこうしたデタラメな抗議を信じたのか。

それは、石射ら外務省の陸軍に対する憎しみに基因する。 昭和十二年十二月十四日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」について、石射は次のように憤激している。
「私はもう我慢ならなくなった。説明以外に発言権のない立境を忘れて立ち上 り『かくの如く条件が加重されるのでは中国側は到底和平に応じないであろう。」 と争った。この発言は冷く無視された。 [・・・・・]
こうなれば案文などどうでもよし。日本は行くところまで行って、行詰らねば 駄目と見切をつける(「日記」より) [・・・・・]
私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味をさえ感じた」(300〜303頁) このように「反逆的快味」すら感じていた石射にとって、陸軍の失点は反軍のチヤンスになり得る。 「南京大虐殺」は石射らにとって陸軍を攻撃する格好の材料となったであろう。

石射の陸軍に対する憎しみは、反日的情念とさえ結びついた感がある。 なにしろ、石射の464頁もの大著は、日本と中国の関係を(「日中」ではなく)「中日」と呼称するに至るのである。 曰く。
「中日事変」(25頁、「中日直接会議」(87頁)「中日関係」(141頁)「中日会談」 (230頁)「中日の間」(231頁)「中日国交」「中日洋画人」(239頁)「中日軍衝突」(271 頁)「中日の共存共栄」(287頁)「中日両国」(294頁)「中、日話合い」(295頁)「中 日の将来」(297頁)、等々。
また石射は、日本からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(495頁)が、 中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(460頁)
などと臆面もなく書いている。 このような人物が「南京事件」当時の東亜局長だったのである。石射の当時の日記に曰く。
「(上海事変について)無名の師だ。 それがもとだ。 日本はまず悔い改めね ばならぬ。然らば中国も悔い改めるにきまっている。 中日親善は日本次第と いう中国の言い分の方が正しい」(287頁)
「これが順序よくはこべば、中日の融和東洋の平和は具現するのだ」(287頁)

戦前の日記に「中日」などと記述する神経の持ち主が、上海経由で送られたウソ八百の反日デマ宣伝を全面的に信用して目を蔽い、陸軍攻撃の材料にするのは理の当然はあろう。 しかし、そのことが「南京大殺」について、何ほどの証拠となるであろう。

(もっとも、石射は当時、公職から追放れており、東京裁判史観におもねらねぱ自伝を書けないという事情があったのかもれない。この自伝は追放解除の翌日に出されている)

◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す②

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 22:52 投稿番号: [1201 / 2250]
   上海派遣軍第十三師団司令部の通達

捕虜取扱にかんする訓令には「戦闘二問スル教示」という訓令がある。

これは昭和十二年十月九日、南京攻略ニケ月前に、上海派遣軍第十三師団司令部が発令していた。

そのなかの「11、俘虜ノ取扱二就テ」という規定は次のように命じていた
(適宜、読点と振り仮名を付している)。


  《多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スルラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。》


  この「戦闘ニ関スル教示」は、多数の捕虜がある場合「射殺スルコトナク」師団司令部にまで報告せよ、少数の捕虜の場合は「適宜処置」せよと訓令していた。

  つまり、一方では射殺しないで報告せよとあったから、他方では射殺せよと訓令されていたかのように、両者対立的に映る。

  たとえば秦郁彦『南京事件』は、右の規程を、「どうやら小人数のしかも下級兵士は、その場で処刑してもかまわない方針だった」と推定する。つまり「適宜処置」は「適宜処刑」であると両者対立的に解釈された。

  しかし、そうすることは、陸軍次官が「降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」を禁じた戦時国際法の規定を「努メテ尊重」せよと通達したことに反する。

  昭和十二年八月の陸軍次官通牒(陸支密第一九八号)に反する指令を、上海派遣箪第十三師団司令部が昭和十二年十月に発令した!、とは考えられない。

  誤った推定が陸支密第一九八号に違反することになったのである。

  適宜処置とは、適宜処刑の意味ではなかったことになる。

  適宜処置が適宜処刑の意味ではなかったとすれば、ではどうすればよいのか?

  少数の捕虜を監視し続けるのか。しかし、それでは現状維持であって、処置したことにはならない。第一、戦闘中に、それでは自軍に危険が及ばないとも限らない。

  そうなると、採るべき道は(処刑でもなく監視でもないから)捕虜を適宜追放することしかない。

  第十三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示」という通達は

  ●投降兵は射殺しないで武装解除後に適宜追放せよ、と訓令していたことになる。

  しかもそうすることは、戦時国際法の規程を「尊重」せよという陸軍次官の通牒とも合致する。また、陸軍歩兵教範が指示する「捕虜ハ・・・・・・釈放シテ可ナリ」という原則とも矛盾しない。従って、この「俘虜ノ取扱ニ就テ」は、<捕虜は原則として現地にて釈放>という、従来の通達の線に立っていたのである。

  では、なぜ「適宜釈放」とは書かれず、「適宜処置」と書かれたのか?

  その理由も簡明であろう。適宜釈放と書けば、いかに悪質な投降兵でも、釈放が必至となる。それは絶対にできないことであった。命令に服さない捕虜は、処刑もありえるという含みを残した表現、それが適宜処置であったのである。

◆南京大虐殺捏造者のマヌケな曲解を糾す①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 22:51 投稿番号: [1200 / 2250]
  「捕虜ハセヌ方針」の真の意味

今から十数年前に、第十六師団長中島今朝吾中将の陣中日記が公表された。『南京戦史資料集Ⅰ』によればその陣中日記(十二月十三日)には次のように記されていた。

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタルモ千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦掻〔騒〕擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ

  十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中〃実行ハ敏速ニハ出来ズ   斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大〔太〕平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル(傍点筆者)


「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之をヲ片付クル」――これが師団長の日記の一節であった。そのため、これが読むものに衝撃を与えたのである。          
(中略)


  ●文章の捩れ

  六つの疑問点を列挙したが、実はもう一つある。

  もし、即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万、の群集ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。

  これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。

大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五干一万の群集ともなると多過ぎて銃殺することすら出来ず

  つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と書かれて当然であった。

  ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解除することすら出来ず」と書かれてあった。

  捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捩れが生じてくるのである。この捩れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。

  捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。

  そうすると、右の不可解な疑問は、全て、氷解してゆくのである。

 
    ●「捕虜ハセヌ方針」の真の意味

  この日記には、「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」とか、「当初ヨリ予定ダニセザリシ処ナレバ」というように、ダニとかスラといった強意の副助詞が用いられている。

『国語大辞典』を持ち出すまでもなく、だにもすらも、「程度の甚だしい一事(軽量いずれの方向にも)を挙げて他を類推させる」働きをする。

  つまり、陣中日記の作者は「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」と書き記すことにより、「捕虜ハセヌ方針」の貫徹など、到底不可能、と匂わした。

  換言すれば、「捕虜ハセヌ方針」という最終目的を達成する手段が、支那兵の「武装ヲ解除スルコト」であった。

  では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。

  まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。

  ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。

  では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。

  その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放すること)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。

◆なぜ南京大虐殺は捏造されたのか

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/01 21:04 投稿番号: [1198 / 2250]
「南京大虐殺」も「従軍慰安婦強制連行」も反日が国是である中共や朝鮮、そして、これらの国に媚び諂うイカレタ反日サヨクの捏造であり、嘘・出鱈目と言うことは衆知の事実であるが、

いまだに、日本と日本人を何としてでも悪者にしたいwadatumi_voice21のような脳腐れの反日工作員共が必死に嘘と捏造の投稿を繰り返しているので


  おさらい   の意味も含めて

  「なぜ南京大虐殺は捏造されたのか」を振り返ってみましょう。



   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


  汚い反日の屑どもの妄言・狂言にはくれぐれも騙されないでほしい。

Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 20:30 投稿番号: [1197 / 2250]
下関の死体

そりゃあるわな、

そこは、12日に中国軍が脱走しようとして、

その時の同士討ちで死体の山ができているから。



船を得ようとしても、船はすでに無くなっている。

小舟に大勢が集中し、殺し合い、顛覆で死体が大量に流れた。

兵隊の中には、女子供もい、かつ便衣で逃げているから、

あとから来た日本人が女子供を殺したのかと勘違いしても仕方ないわな。



  一般の民間人は安全区にいて、城門の外に出してもらえなかった。

  ラーベですら、簡単にはでられなかった。

連中が殺し合い、火をつけ、黒焦げの死体ができても、何の不思議もない。



翌日朝、佐々木隊がそこに来た。

しかし、既に死体の山があったと報告していないから、

手柄話を創作し、戦果に計上した可能性がある。

また、川に流れる漂流者や死体に銃撃して戦果にした。



そのあと、第6師団が揚子江を北上して下関にくる。

同じ死体を見て戦果にする。

海軍も、同じ漂流者や死体に銃撃して戦果にする。

つまり、彼らの戦果は三重に重複している。

本当は、中国軍の同士討ちによってできたものだが。



同じ死体を後から来たものは、日本軍がやったと、勝手にきめつけてしまう。

そして、大虐殺があったのだと、想像をしてしまう。

松井大将の副官   角良晴もその一人。



太平門でも、脱出の時の騒乱で大量の死者がでている。

それも日本軍の戦果に入れているだろう。

最初に発見したものの役得で。



ずっと後に来た者は、全部日本軍がやったと錯覚する。

そして、戦後、大虐殺があったと証言する。

そんなものだよ。

Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 20:01 投稿番号: [1196 / 2250]
>(石川達三著「生きている兵隊」より)
   こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。



ばかだねー

石川達三は戦争を見てないよ。

彼が南京に向けて出発したのは   12月25日、

上海戦も南京戦も終わっている。



彼は、行く前から、残虐記事を書くつもりでいた。

巻末の解説を見てみろ。

彼は、それにふさわしい話を集めてきただけだ。


彼のは、実際の戦争ではなく、彼の頭の中にある残虐な戦争イメージを文字にしただけ。

Re: 日本軍兵士が目撃・体験した南京事件5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/01 19:50 投稿番号: [1195 / 2250]
>前述したように、参謀総長が   異例の通達を出すほど、
日本軍の軍紀風紀は   頽廃していた。
開戦後2年間のみに限っての軍紀風紀に関する犯罪非違の
調査によると、日中戦争の   戦地における   犯罪非違は、
日清・日露に比べて   はるかに高率となっている。

  日清戦役(全戦役)   3387   内地1906   戦地1481
  日露戦争(全戦役)   5234   内地3780   戦地1454
  日支事変(2年間)   5221   内地2047   戦地3147



要するに、犯罪ってことだろう。

国がやれって、命令してやらせたことではないんだよな。


いつの時代でも、犯罪者はいる。

今の時代でも、殺人、窃盗、強姦、たくさんあるだろう。

それとも、君は、南京に行った兵隊は、全員、聖人君子だとでも思っていたのか?

ありえるわけないだろう。



>日清・日露に比べて   はるかに高率

だってー?


君、日清、日露の戦争期間知ってるの?

日清戦争は陸海あわせても7か月程度。

日露戦争は陸海あわせて1年2か月程度。

で、支那事変が2年てのか。

支那事変2年は、日露戦争の陸戦の2倍はあるぞ。

比較する基準が間違っているだろう。


いつまで、バカをつづける気だ。

南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/01 19:47 投稿番号: [1194 / 2250]
前述の   最後の部分で触れた   村瀬守保氏の記録についても
触れておきたい。   村瀬氏は、給部隊として   南京戦の後を
辿りながら、貴重な戦場の   記録写真を多数   撮影した。
その中には、揚子江岸における   大虐殺を証明するうえで
貴重な現場を   撮影した写真も   含まれている。
以下、『村瀬守保写真集   私の従軍中国戦線』から引用する。

  (16) 南京制圧  
   第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が
   目立ち始めました。   (略)土間にひく   アンペラを探して
   穴蔵のようになっている奥の部屋に踏み込むと、下半身裸の
   婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。
   少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。
   プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。 (略)
   このような虐殺死体は、随所に見られました。 婦人に暴行を
   加えて虐殺し、女性の性器に棒を差し込んでおくような、
   残虐な事例も何回か目にしました。

   南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、
   厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
   小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは
   師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、
   酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、何でも
   やれるぞ」   と上官からハッパをかけられているのです。
   (略)
  (17)大虐殺のうわさが…
   ようやく足止めが解除されて、ある日荷物受領に揚子江岸の
   下関埠頭へ行きました。   すると、広い河岸が一杯に死体で
   うまっているのです。   岸辺の泥に埋まって、幅十メートル
   位はあろうか、と思われる   死体の山でした。
   揚子江岸で大虐殺が行われたという   その現場でしょうか、
   軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、
   婦人や子供も交じっているようでした。
   死体に油をかけて、焼こうとしたため黒焦げになった死体も、
   数多くありました。   死臭で息もつけない中を、工兵部隊が
   死体を沖に運んで   流す作業を   やっていましたが、
   こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。
  (写真キャプション)   虐殺されたのち   薪を積んで、
   油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人
   でした。
  (写真キャプション)   揚子江岸には、おびただしい
   死体が埋められていました。   虐殺した後、河岸へ
   運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから
   虐殺したのでしょうか。

おそらく   南京虐殺否定派は、村瀬氏を   ウソつき、または
妄想家の類と、例によって   根拠もなく   決めつけるだろう。
あるいは、村瀬氏が見たのは   兵士の死体であり、民間人と
いうのは間違いだと   主張するものも   出てくるに違いない。
参考として、第十六師団歩兵三十三連隊第二大隊に所属した
兵士の証言を   以下に   付記しておこう。

   うちの中隊で警備に出るとき、揚子江の水際で死体を
   ぎょうさん見ました。   兵隊やのうて住民みたいでした。
   河べり一面に   死体が   寝ころんでるように   ぎっしり
   つまっていました。   かわいそうとは思うたが、戦争や
   から   やむを得ないわな。   上の人の命令やから・・・
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