◆台湾における日本人の評価 3
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:58 投稿番号: [1212 / 2250]
■西郷菊次郎の治水工事
西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あい
かな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本
に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わ
った。
そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宜蘭(ぎらん)の庁長
として務めた。宜蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そ
こを流れる宜蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。
西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人
の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は
根絶され、宜蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。
この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で
西郷菊次郎の徳政を高く称えている。
■教育に殉じた六氏先生
公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育で
ある。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得
だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先
すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台
北の北方に芝山巌学堂を開いた。
当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続け
ており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。
それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして
住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国
難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具
体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。
事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱
勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残って
いた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。
しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示し
て6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山
を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人
は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに
思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。
6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨
殺されてしまった。
「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精
神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝
山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じ
た人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人
教育者は24人を数えた。
芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士
林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏
先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席し
て、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。
芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古
跡・芝山巌」を次のように結んでいる。
「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台
湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し
上げます。合掌。
西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あい
かな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本
に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わ
った。
そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宜蘭(ぎらん)の庁長
として務めた。宜蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そ
こを流れる宜蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。
西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人
の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は
根絶され、宜蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。
この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で
西郷菊次郎の徳政を高く称えている。
■教育に殉じた六氏先生
公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育で
ある。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得
だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先
すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台
北の北方に芝山巌学堂を開いた。
当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続け
ており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。
それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして
住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国
難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具
体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。
事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱
勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残って
いた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。
しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示し
て6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山
を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人
は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに
思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。
6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨
殺されてしまった。
「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精
神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝
山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じ
た人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人
教育者は24人を数えた。
芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士
林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏
先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席し
て、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。
芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古
跡・芝山巌」を次のように結んでいる。
「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台
湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し
上げます。合掌。