◆台湾における日本人の評価 5
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/02 03:59 投稿番号: [1214 / 2250]
■蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉
日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出する
ようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の
食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治
43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との
志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉
という農学徒と出会い、二人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。
二人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、つ
いに大正10年「台中65号」の開発に成功した。それは台湾の
気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的
な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65
号を「蓬莱(台湾の美称)米」と命名し、増産に大きな期待をか
けた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、
島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。
磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の
農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章
を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の
代わりに贈られた。[3,p130]
■台湾の土となった明石元二郎総督
大正7(1918)年に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争
でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であっ
た。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把
握に努めた。
台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十四、五歳に多いと
いう説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と
言った。
二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生ま
れた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところが
あるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への
決意を新たにした。
明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日
月潭水力発電事業、台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少
なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに現在の
李登輝総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整
備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。
台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣
という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後一年間余にして病死
した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付
によって200坪もある壮大な墓が作られた。
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