竹島

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相変わらずだね半けつさん。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/04/21 13:41 投稿番号: [1585 / 18519]
せっせと、韓国の実行的支配の証拠がないことを証明して頂けてるようでなによりです。

みんな読みましたが

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/04/20 19:27 投稿番号: [1584 / 18519]
「こんな事実はありません」で合ってるんじゃないですか?

「朝鮮領と認識していた」とは読めないのですが?

オーム真理教レベル・半月城!

投稿者: haraharades 投稿日時: 2003/04/20 15:33 投稿番号: [1583 / 18519]
これ以上在日朝鮮人を苦しめないで下さいね。

日本としては、当時人の住めない場所の
記入はしない。
独島も竹島だったか解りません!

貴方の行為は、討論には遠く及ばず、そう・・・オーム真理教の広報レベルです!


馬鹿なことをしたと貴方が大人になったら解るかもしれません。
その時まで・・・・?

明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/20 13:55 投稿番号: [1582 / 18519]
(注1)『朝鮮水路誌』1894年版
  リアンコールト列岩
此列岩ハ洋紀一八四九年 佛國船「リアンコールト」號初テ之ヲ發見シ船名ヲ取テ リアンコールト列岩と名ツク 其後一八五四年 露國「フガレット」形鑑「パラス」號ハ此列岩ヲ メナヲイ及ヲリヴツア列岩ト稱シ 一八五五年 英鑑「ホル子ット」號は此列岩ヲ探検シテ ホル子ット列島ト名ツケリ 該艦長フォルシイス ノ言に據レバ此列岩ハ北緯三七度一四分東經一三一度五五分ノ處ニ位スル 二坐ノ不毛岩嶼ニシテ鳥糞常ニ嶼上ニ堆積シ嶼色爲メニ白シ 而シテ北西彳西至南東彳東ノ長サ凡一里 二嶼ノ間距離一/四里ニシテ見タル所一礁脈アリテ之ヲ連結ス
○西嶼ハ海面上高サ凡四一〇呎ニシテ形チ糖塔ノ如シ東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ
○此の列岩付近水頗ル深キカ如シト雖モ其位置ハ實ニ函館ニ向テ日本海ヲ航行スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス
(注2)清水常太郎『大日本管轄分地圖』一八九四(影印版は注3)
(注3)日本地圖選集刊行委員会『大日本管轄分地圖』人文社,1990
(注4)島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」
  御省地理寮官員地籍編纂莅檢ノ為メ 本縣巡回ノ切 日本海内ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号ノ通リ照會有之候處 本島ハ永禄中發見ノ由ニテ 故鳥取藩ノ時 元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間 同藩領内伯耆國米子町ノ商 大谷九右衛門 村川市兵衛ナル者舊幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海 島中ノ動植物ヲ持歸リ内地ニ賣却シ候ハ已ニ確証有之 今ニ古書舊状等持傳ヘ候ニ付 別紙原由ノ大畧圖面トモ相副 不取敢致上申候 今回全島實檢ノ上 委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處 固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之 且 北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明 尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキ非ラサレハ 右大谷某 村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候 而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫付スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ編纂スル等ノ儀ハ如何取計可然哉 何分ノ御指令相伺候也
   明治九年十月十六日   島根縣参事 境二郎
   内務卿 大久保利通殿
(注5)島根県伺い附属文書、乙第二十八号
  御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞 固ヨリ舊鳥取藩商船往復ノ線路モ有之 趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之 加フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ 尚為念及御協議候 條右五條ニ照準 而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也
   明治九年十月五日   地理寮第十二番出仕   田尻賢信
            地理大属        耵山栄蔵
  島根縣地籍編纂係御中

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/20 13:54 投稿番号: [1581 / 18519]
   地図作成の過程において、竹島=独島をどう扱うのかは当然問題になりました。その一端が地理寮の伺い書です。1877年、内務省の地理寮は地図を作成するにあたり竹島(鬱陵島)をどう考えるのか島根県に照会しました。
   地理寮の伺い書は、国立公文書館に保管されている『公文録』内務省之部(注4)の中に、島根県からの伺い書の添付文書として記録されました(注5)。その口語訳を下記に記します。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
内務省の地理寮から島根県宛の伺い書
            (島根県伺い書の添付文書・乙第28号)
   ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があると聞いております。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺い書のおもむきは、口頭で調査依頼およびご協議を致しました。
   加えるに、地籍編制に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、なお念のためご協議をお願いします。以上の件、五条の適用となります。
   このような次第で、古い記録や古地図などを調べていただき、内務省本省へお伺いを立てていただきたく、ここにご照会致します。

   明治九年十月五日   地理寮第十二番出仕   田尻賢信
            地理大属        耵山栄蔵
  島根縣地籍編纂係御中
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   このとき、地理寮では竹島=独島を問題にしていませんでした。竹島=独島を竹島(鬱陵島)の付属島とみていたのか、さもなければその存在を知らなかったようです。その伺い書にたいして、島根県は松島(竹島=独島)を含めた形で内務省に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出しました。
   内務省は、前に書いたように「版圖ノ取捨ハ重大之事件」としてさらに太政官に伺い書を提出しました。最終的に太政官は内務省案のとおり、竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)を「本邦関係無」として放棄しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm084.html#No.580
   結局、日本政府の地図作成機関が竹島=独島を日本領として認識することは、1905年の編入までありませんでした。その一環で海軍省水路部は竹島=独島を朝鮮領として扱ったのです。
(つづく)

明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/20 13:53 投稿番号: [1580 / 18519]
   半月城です。

   battleaxe152000さん、RE:1578
>そもそも
>>『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』でリアンクール島を朝鮮領と認識していた
>↑こんな事実はありません。

   一体、何を根拠にこうも明白な誤りを書くのでしょうか?
   1894年に発刊された『朝鮮水路誌』には、鬱陵島とならんでリアンコールト(竹島=独島)が記載されました(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
リアンコールト列岩
  この列岩は、1849年 フランス船「リアンコールト」号はじめてこれを発見し、船名をとってリアンコールト列岩と名づく。
  その後、1854年 ロシア「フガレット」形鑑「パラス」号はこの列岩をメナヲイ及びヲリヴツア列岩と称し、1855年 イギリス鑑「ホルネット」号は、この列岩を探検してホルネット列島と名づけり。
   該艦長フォルシイスの言によれば、この列岩は北緯37度14分、東経131度55分の所に位する2坐の不毛岩嶼にして鳥糞つねに嶼上に堆積し、嶼色はために白し。しかして北西彳西至南東彳東の長さおよそ1カイリ、2嶼の間距離1/4カイリにして、見たるところ1礁脈ありてこれを連結す。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   同じ時期の『日本水路誌』第4巻(1897)に竹島=独島に該当する島の記述はありませんし、関係海図にも竹島=独島は記載されませんでした。それが一転して、日本の「竹島編入」(1905)以後に作成された関係海図(1907)には竹島=独島が記載されました。
   つまり 1894年当時、日本海軍は竹島=独島の存在を知っており、それを日本領ではなく朝鮮領と認識していたことは明らかです。
   なお、日本海軍の認識はそのまま日本国家の認識になります。というのも当時、明治政府が国家事業として行った日本地図作成において、島嶼など水路の測量は海軍が行いました。したがって、海軍が認識しなかった島は版図としての地図には記載されず、当然日本領とは認識されませんでした(注2)。
   ちなみに、明治時代の地図作成は国家事業として下記のようになされました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   民部省地理司は同省が四年(1871)7月に廃止されてからは、太政官地誌課となり、幕府の地誌課纂調方の業を継ぎ、諸国の資料を徴したが六年(1873)十一月内務省の設置にともないその地理寮となった。
   のちに地理局と改め十一年(1877)八月、岩崎教章の手になる図式記号を定めた測絵図譜を各府県に頒布し、民間の地図製作者もこれに倣うことを勧奨し、数多くの地誌・地図の編纂刊行を行なったが十六年(1883)六月に陸軍測量局に統合した。
   民部省と同時に設けられた兵部省は、五年(1872)二月に陸軍省と海軍省に分置され、海軍は水路の測量を、陸軍は陸地測量を行ない、ともに国防上の観点から国用地図の作成に任じ、参楳本部測量局は全国を覆う基本図として、十三年(1880)から関東地方二万分の一迅速測図の作製に着手し、内務省地理局の統合を得て二万分の一正式地形図の作製が始められた。
   二十一年(1888)五月陸軍測量部条例が公布され、測量局は参謀本部から分離し、陸地測量部として発足したが、二万分の一基本図の完成に要する時間と経費は、国際状勢の変化しつつあることからも許されぬとし、二十五年(1892)その縮尺を五万分の一に改めた。国土地理院が継承する、わたしたちに馴染探い五万分の一地図の誕生である。(注3)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

参考までに

投稿者: battleaxe152000 投稿日時: 2003/04/14 00:27 投稿番号: [1579 / 18519]
鬱陵島への渡航禁止令は、江戸時代に2回、明治時代に1回出されております。
竹島への渡航禁止令は、ただの一度も出されたことはありません。
日本人の鬱陵島への渡航について、朝鮮政府は江戸時代にも明治時代にも正式に抗議を行っております。
竹島での日本人のアシカ猟について、朝鮮政府は江戸・明治を通して一度も抗議をしたことはありません。もちろん、領土編入についても抗議しておりません。
以上、参考にして頂ければ幸いです。

まるで壊れたレコードじゃのう。

投稿者: battleaxe152000 投稿日時: 2003/04/14 00:06 投稿番号: [1578 / 18519]
久しぶりに来てみたら、相変わらず半月城君の嘘だらけのプロパガンダ。まるで壊れたレコードです。そもそも
>『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』でリアンクール島を朝鮮領と認識していた
↑こんな事実はありません。
>『朝鮮国交際始末内探書』で朝鮮領と考えていたリアンクール島
↑こんな事実もありません。

当時、朝鮮の地図に竹島は載っていなかったし、朝鮮人が竹島を支配していたという証拠もありません。
領土編入手続きについて半月城君は何やら不満があるようですが、先占による領土編入は、国際的に決まった形式があるわけではありません。他国と協議する必要も一切ありません。尤も重要な点は、政府が領有の意志をもって平穏かつ公然と実効支配を開始することなのです。当時の朝鮮政府は、竹島編入についてはもちろん、望楼建設についても一切抗議しておりません。当時、他の事案について、外交ルートを通じて抗議した事例があるにもかかわらずです。抗議できる立場にあったにもかかわらず抗議していないというのはなんででしょうね。

日本の竹島=独島領土編入2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/13 13:13 投稿番号: [1577 / 18519]
  一方、内務省の反対をよそに、当面の戦争を何としても勝利させたい海軍は、かつて『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』でリアンクール島を朝鮮領と認識していたにもかかわらず、望楼建設という作戦上の観点から同島は無所属であると判断を変更するようになった。
  さらに外務省にいたっては、戦時中という「時局ナレバコソ領土編入ヲ急要トスル」と帝国主義の本性をあらわにして、かつて『朝鮮国交際始末内探書』で朝鮮領と考えていたリアンクール島の領土編入を急いだのである。
  結局、内務省は最後には外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入を閣議にはかった。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領土編入を左記のように決定し、竹島と命名した。

  別紙内務大臣請議 無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ 右ハ北緯三十七度九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ隔ル西北八十五浬ニ在ル無人島ハ 他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク 一昨三十六年 本邦人 中井養三郎ナル者ニ於テ 漁舎ヲ構ヘ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘテ海驢猟ニ着手シ 今回領土編入並に貸下ヲ請願セシ所 此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ該島ヲ竹島ト名ケ 自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントスト謂フニ在リ 依テ審査スルニ 明治三十六年以来中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ 関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ 国際法上占領ノ事実アルモノト認メ 之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為シ 差支無之儀ト思考ス 依テ請議ノ通 閣議決定相成可然ト認ム(31)

  ここで日本政府が竹島=独島を領土編入した論理であるが、それは「無主地」であるリアンクール島に一九〇三年来、中井が「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものであった。
  しかし、この論理には無理がある。まず、竹島=独島は民間人が居住できるような島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もなかった。中井が同島を利用した実態は、四月から八月にかけてアシカ猟のたびに菰葺小屋で「毎回約十日間仮居」したにすぎないのであり「移住」や「占領」とはほど遠いものであった(32)。
  それにも増して重要なのは、日本政府が朝鮮領であるリアンクール島を無主地と判断したことにある。かつて明治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていたが、その路線を根本的に覆すものであった。そしてその主な動機は、これまで見たように日露戦争遂行のため同島に軍事施設を設けることであった。
  閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府レベルでの公示すら一切しなかった。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照的である。小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと十分な協議を重ねて相手国の同意を得て領土編入を行ったが、それに反し竹島=独島の場合は政府内で秘密裏に処理された。官報による告示もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が告示で公表したにとどまった。同県は県告示四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示した。

(29)島根県広報文書課編『竹島関係誌料』第一巻、一九五三年。
(30)『軍艦新高行動日誌』防衛庁戦史部所蔵
(31)『公文類聚』第二十九編巻一政綱門行政区、国立公文書館所蔵(二A十一―類九八一/マイクロリール一七三、一三七五コマ)
(32)内藤正中、前掲書、一七五頁

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

日本の竹島=独島領土編入1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/13 13:12 投稿番号: [1576 / 18519]
五   竹島=独島の領土編入

  日露戦争の時局柄、日本はリアンクール島(竹島=独島)を軍事的に必要としていたが、同島を領土編入するきっかけになったのは、日露戦争中に提出された一漁師の同島「貸下願」であった。まずはこの「貸下願」が出されるに至った経緯をみることにする。
  明治維新以後、対外膨張の気運に乗り多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航するようになった。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていたが、日本人の移住は空島政策を転換させる契機になった。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡航禁止を日本政府に申し入れるとともに、翌年十二月「鬱陵島開拓令」を発布し開拓に乗り出した。
  こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させたが、その後も日本人の無断渡航は絶えなかった。朝鮮政府の日本人退去要求は、八八年、九五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになった。
  九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日本政府が一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して海外進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになったからである。その結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでになった。
  それにともない、鬱陵島への途中航路に当たるリアンクール島が注目されるようになった。とくに同島のアシカは日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注目され、アシカ猟が盛んになった。そのなかで漁師の中井養三郎は同島におけるアシカ猟の独占をはかるため、一九〇四年九月二十五日「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を内務・外務・農商務の三省に提出した。「りゃんこ島」とはリアンクール島のことである。中井は「貸下願」を出した経緯を隠岐島庁へ提出した履歴書の付属書でこう記した(29)。

  「本島ノ鬱陵島ヲ(ママ)付属シテ韓国ノ所領ナリト思ハルルヲ以テ、将ニ統監府ニ就テ為ス所アラントシ上京シテ種々画策中、時ノ水産局長牧朴眞ノ注意ニ由リテ必ラズシモ韓国領ニ属セザルノ疑ヲ生ジ、其調査ノ為種々奔走ノ末、時ノ水路部長肝付将軍断定ニ頼リテ本島ノ全ク無所属ナルコトヲ確カメタリ。
  依テ経営上必要ナル理由ヲ具陳シテ、本島ヲ本邦領土ニ編入シ且ツ貸付セラレンコトヲ内務外務農商務ノ三大臣ニ願出テ、願書ヲ内務省ニ提出シタルニ、内務当局者ハ此時局ニ際シ韓国領地ノ疑アル莫荒タル一箇不毛ノ岩礁ヲ収メテ、環視ノ諸外国ニ我国ガ韓国併呑ノ野心アルコトノ疑ヲ大ナラシムルハ、利益ノ極メテ小ナルニ反シテ事体決シテ容易ナラズトテ、如何ニ陳弁スルモ願出ハ将ニ却下セラレントシタリ。
  斯クテ挫折スベキニアラザルヲ以テ、直ニ外務省ニ走リ、時ノ政務局長山座円二郎氏ニ就キ大ニ論陳スル所アリタリ。氏ハ時局ナレバコソ其領土編入ヲ急要トスルナリ、望楼ヲ建築シ無線若クハ海底電信ヲ設置セバ敵艦監視上極メテ届竟ナラズヤ、特ニ外交上内務ノ如キ顧慮ヲ要スルコトナシ、須ラク速カニ願書ヲ本省ニ回附セシムベシト意気軒昂タリ。此ノ如クニシテ、本島ハ竟ニ本邦領土ニ編入セラレタリ」

  リアンクール島(竹島=独島)をよく知る中井が同島は鬱陵島附属であり、かつ韓国領であると判断していたことは注目される。これは鬱陵島の韓国人がリアンクール島を「独島」と呼称していたことと関連するのであろう。軍艦新高の一九〇四年九月二十五日付の日誌は「松島ニ於テ『リアンコルド』岩 実見者ヨリ聴取リタル情報」と明記して「『リアンコルド』岩 韓人之ヲ独島ト書シ本邦漁夫等畧シテ『リヤンコ』島と呼称セリ」と記したのである(30)。
  リアンクール島を朝鮮領と認識していたのは内務省も同様であった。同省は、一八七七年「竹島外一島」すなわち鬱陵島とリアンクール島を朝鮮領と考え放棄していた経緯もあり、当初「韓国領地ノ疑アル」リアンクール島の領土編入に猛反対であった。
(つづく)

竹島=独島の軍事的価値

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/12 16:26 投稿番号: [1574 / 18519]
   半月城です。竹島=独島に関する小論のつづきを掲載します。

四   竹島=独島の軍事的価値

  竹島=独島に対する明治政府の認識は日露戦争を機に転換点を迎えることになった。その背景を知るために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみる。日本は韓国を勢力圏におさめるべくロシアと「満韓交換」交渉をしたが不調に終わり、一九〇四年二月八日、ロシアに対し戦闘行動を開始した。
  連合艦隊が旅順で停泊中のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけるとともに、韓国では仁川に臨時派遣隊が上陸、漢城に入り首都を制圧した。その軍事的威圧のもとで韓国に軍事協力を強要し、二月二十七日「軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スル」と規定した日韓議定書の調印を強制した。日本はこの条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設けるようになった。
  しかし、その日韓議定書もほどなく日本により踏みにじられるようになった。議定書では「大日本帝国ハ大韓帝国ノ独立及領土ノ保全ヲ確実ニ保障」とうたっていたが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどころか、早くも五月には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定した。その方針のもと、九月には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々と実行にうつしていった(27)。

  他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まった。ロシアのウラジオ艦隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていったのである。これに対処するため、海軍は監視や通信施設の増強をはかった。
  九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結していった。朝鮮内の望楼は約二十か所にもおよんだが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領であった。そしてそれらの戦略の一環として、七月五日、鬱陵島に望楼を建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺湾との間を軍用海底電信線で結ぶことが決定された。
  堀によれば、鬱陵島の望楼は東南部(松島東望楼、配員六人)と西北部(松島西望楼、配員六人)の二か所で、八月三日に建設着工、九月二日から活動を始めた。海底電信線の方は、九月八日からウラジオ艦隊に脅かされながらも敷設が進められ、同月二十五日に完成した。
  これによって鬱陵島の望楼は朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになった。さらに、リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画された。十一月二十日、軍艦対馬の予備調査で望楼の建設が可能であることが確認された。翌一九〇五年一月、後記するように明治政府はリアンクール島の領土編入を閣議で決定し「竹島」と命名した。
  さらに六月十三日、軍艦橋立を同島に派遣し、望楼建設の詳細な調査をおこなった。そのうえで海軍は六月二十四日、鬱陵島、リアンクール島を含めた日本海同水域の総合施設計画を立てた。その計画にしたがい、リアンクール島の望楼は七月二十五日に着工、八月十九日から活動に入った。
  海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リアンクール島と隠岐との間ではなく松江との間に敷設されることになった。この工事は十月末に開始され、鬱陵島からリアンクール島を経て、十一月九日松江との結合が完了した。つまり、朝鮮本土(竹辺)から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の軍用通信線の体系がつくりあげられたのである。
  このように、日本政府にとって日本海中のリアンクール島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占領と密接不可分なものであった(28)。

(27)海野福寿『韓国併合』岩波新書、一九九五、一三二頁
(28)堀和生、前掲稿、一一四頁

>鬱陵島

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/04/05 23:14 投稿番号: [1573 / 18519]
つまり、明治期には鬱陵島にも朝鮮の実効支配が及んでいなかったと言うことですか?

明治期の鬱陵島侵略2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/05 11:27 投稿番号: [1572 / 18519]
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   現地の状況を調べるために、1900年6月には朝鮮内部視察官 禹用鼎と釜山領事館補 赤塚正助による合同出張調査まで行われた。それでも決着がつかなかったので、朝鮮政府は紛争の有無にかかわらず、条約に基づいて同島から日本人が退去するよう再度要求した。
   日本政府は、日本人の同島在留が条約規定外であることは認めつつも、また日本政府が直接に退去させねばならない責務もないと反駁した。そしてさらに、十数年来 日本人の同島在留を黙認してきたのは朝鮮政府の責任だとして、逆にその既成事実を認めて居住を公許するよう要求したのである。
   その後も、鬱陵島の紛争をめぐって、両国政府の応酬がくり返されていた。そこで1901年12月 林公使は紛争の頻発を逆手にとって、在留邦人取締りのためと称して、同島に日本人警察官を駐在させることを提案した。
   勿論、条約上では日本人警察官が常駐する権利などないが、朝鮮政府に同島の日本人を退去させる実力がないのだから、むしろ日本人警察官を派遣することによって現地の紛争を処理させようというものである。まさに盗人の論理であるが、紛争の頻発に窮していた朝鮮政府が積極的に反対できないうちに、日本側は強引にそれを実行にうつした。
   1902年3月、釜山領事館の日本人警部・巡査計4人が同島に派遣され、以後常駐するようになった。彼ら日本人警察官は、日本の諸法令に準拠して本邦人の保護取締をすると称していたが、武装した彼らが侵略の現場で如何なる役割を果たすかは明らかである。その警部の断片的な証言によっても、彼らが日本人の材木輸出を阻止しようとする郡守 沈興澤と対立し、それを押し切っているさまがうかがえる。
   そして、1904年には鬱陵島に日本の郵便受取所が設けられ、さらに同島と日本の境・浜田との航路さえ開かれていたのである。

   以上、日露戦争直前の段階において、日本政府の支援をうけた日本人勢力は、鬱陵島において既に強固な地位を獲得していた。日本人警察官に守られて、多数の日本人が公然と不法に居住し、材木を密輸出し、また密漁していたのである。
   要するに、鬱陵島は朝鮮の辺境であったが故に、本土より早期に、日本帝国主義によって主権を侵害され、支配されるにいたったのである(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この時期、帝国主義の侵略は「盗人の論理」に等しいのが常でした。日本は不法な日本人を退去させるどころか、乱暴狼藉の頻発を逆手にとって日本人警察官を強引に常駐させるまでになりました。
   こうして日本政府の積極的な後押しで鬱陵島への漁業が盛んになるや、その途中航路にあるリヤンコ島(竹島=独島)が注目されるようになりました。日露戦争直前になると、市場における油や皮革の高値相場から同島のアシカが注目されるようになり、ついには領土編入(1905)へとつながりました。

   他方、禹用鼎は調査後に詳細な報告書「鬱島記」(逸失)や『日本人事實』『本島等状』『監務報告』『日本人結幕人口成冊』『日本人犯斫槻木成冊』『本島人犯斫成冊』などを提出しました。これをもとに朝鮮政府は鬱陵島問題を本格的に検討し、官制を改革する官報(1900)を公告するのですが、これが今日の竹島=独島問題に重要な一石を投じました。これらの詳細はいずれ書くことにことにします。

(注1)『日本外交文書』第32巻、P287、明治31年9月16日鳥取県知事報告(1)「韓国鬱陵島々監 蠔季周提訴ノ件」
(注2)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

明治期の鬱陵島侵略1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/05 11:26 投稿番号: [1571 / 18519]
   半月城です。
   前回「島名の混乱」において、1876年ころから「松島(鬱陵島)開拓願」が外務省に出されたと書きましたが、これを朝鮮側からみると、そのころから日本人の鬱陵島への侵入が目にあまるようになったことを意味します。
   それからさまざまな紆余曲折を経て、やがて 1905年、日本は竹島=独島を「無主地」という口実でこっそり領土編入するのですが、これはとりもなおさず日本の鬱陵島への侵略から派生したものでした。領土編入は、決して日本がある日突然に無主地を発見して自国領に組み入れたというようなものではなく、それなりの背景がありました。今回は領土編入の前史である日本の鬱陵島侵略を具体的にみることにします。

   1881年、朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見するや、日本政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求しました。日本外務省は、前回書いたように、すでに松島開拓問題で鬱陵島を朝鮮領と認めていたので、その非を素直に認めて朝鮮に謝罪しました。
   しかしこの時、外務省は謝罪のみで何ら対策を講じなかったので、日本人の鬱陵島侵入はその後もつづきました。朝鮮の抗議がくり返されるや、やっと日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻しました。

   しかし、木材や漁業資源が豊富な未開の鬱陵島はよほど魅力的だったとみえ、そこへ渡航する日本人はその後も跡を絶ちませんでした。当初は木材を伐採するのが主な目的でしたが、やがて乱伐のために運びやすい沿岸の木材が枯渇するや、次第に漁業が中心になっていきました。
   日本政府も朝鮮への出漁を後押しするため 1889年、治外法権や種々の不平等規定をもつ「日朝両国通漁規則」を朝鮮に押しつけました。そのため必然的に日本人の鬱陵島侵入が激化し、それにともない朝鮮政府の日本人退去要求は 1888年、95年、98年、99年、1900年としばしば出されました。95年以降、間隔が短くなったのは、日清戦争(1994)に勝利した日本で対外進出の気運が一層高まったためです。
   鬱陵島に侵入した日本人の中には悪質な人もいたようで、業を煮やした鬱陵島の島監・蠔季周は取締を要請するため、はるばる鳥取県や島根県の警察署にまでやって来たくらいでした。その時の記録が外務省にこう残されました。

   1898年、鳥取県 吉尾万太郎、島根県 田中多造、大分県 神田健吉の三名が「年々同島に赴き、刀剣銃砲を携え島内を横行し、人民を脅迫し婦女子を追廻り、物品を盗奪する等不法の行為を為し、為めに島民非常に迷惑を感ずるを以て、之が制止を求むると云ふにあり(注1)」(カナをかなに変換、以下同様)

   さらに蠔季周は、何人かの日本人を材木の盗伐と窃取のとがで松江地方裁判所に提訴しました。その事件を調べた日本の検事は「本邦人多数在住し その勢力は更に島民を圧し横暴を極め 殆んど無政府の有様」で、「時に在て乱暴を以て彼れを威圧する徒も有之由(ありしよし)将来 此勢増長するに於ては如何なる珍事惹起するや量り難き」と記すほど日本人の乱暴狼藉はひどいものでした(注2)。まるで、やくざが街を闊歩して威圧しているようなさまです。

   一方、このころ日本政府は遠洋漁業政策をさかんに推し進めていました。日清戦争勝利の勢いに乗った日本は 1898年「遠洋漁業奨励法」を実施し、奨励金まで出して海外進出を奨励しました。さらに1902年には「外国領海 水産組合法」を制定し、従来の単なる通漁から外国における移住漁村の建設へと移行するようになりました。
   こうした流れから日本は、鬱陵島在住の日本人退去を要求する朝鮮政府に謝罪するどころか、逆に定住を後押しするようになっていきました。そのような潮流が鬱陵島における乱暴狼藉を生む一因になったのですが、そうした事態に日本と韓国はともかくも鬱陵島の実態を共同で調査することになりました。それを堀氏はこう記しました。
(つづく)

無学?

投稿者: giant_pandaman 投稿日時: 2003/03/30 23:38 投稿番号: [1570 / 18519]
無知蒙昧ここに極まれりか?
もっと学習したらいかがでしょうか。
もちろん朝鮮学校じゃなく日本の教育カリキュラムに沿った内容で、
お勉強し直される事をお勧め致します。

日本外務省内の混乱と結論3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/30 22:32 投稿番号: [1569 / 18519]
   田邊も渡邊と同様に、古来の松島は竹島=独島であると正しく認識していたのですが、しかし開拓願いに書かれた「松島」がどこであるかについてはやはり確信を持てなかったようでした。
   その一方で田邊は、元禄の「竹島一件」の結果、古来の松島は朝鮮領の鬱陵島に付属する于山島であると正しく認識していたようでした。その帰結として、かれは朝鮮領である松島に調査や巡視の船を派遣すべきではないとして、渡邊の意見に反対し、こう書きました(注2)。

  「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数えるといういうものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と韓国との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除かれていないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌み嫌うところである」

   こうして「松島」を実地調査する案は保留になり、同時に「松島開拓願」も保留になりました。その間に内務省伺いを認める形で「竹島外一島」すなわち竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)を放棄する太政官指令が1877年に発令されました。
   1881年、内務省はこの指令書を添付して鬱陵島の現状を外務省に照会しましたが、それに対して外務省は何ら異論を唱えませんでした(注4)。これは外務省も太政官指令書を了承したと考えられます。すなわち、外務省も松島(竹島=独島)を日本領でないと認めたと解されます。もちろん、渡邊流の竹島、松島は「暗に日本所属と見なしたるべし」という認識もその後の公的資料には見られなくなりました。

   そうした背景には、鬱陵島の現地調査結果が明らかになっていたことも影響したのかもしれません。開拓願いに書かれた「松島」の実地調査は、1880(明治13)年に軍艦・天城を廻航して行われました。その結果、「松島」は朝鮮の鬱陵島であることが判明し、外務省はこう結論づけました(注3)。

  「明治13年、天城艦を松島に廻航して、その地に至って測量し、はじめて松島は鬱陵島で、その他竹島なるものは1個の岩石にすぎないことを知り、ことは初めて明らかになった。さすれば、今日の松島はすなわち元禄12年にいうところの竹島であり、古来、日本の版図外の地であることを知るべきである」

   この調査報告書で、鬱陵島の日本名は竹島から松島に置きかわってしまいました。そして竹島は、鬱陵島北方の岩石にされてしまいました。同時に「松島」開拓願いはことごとく却下されました。
   これを機に、1905年にいたるまで鬱陵島の日本名は次第に松島に、竹島=独島はリエンコールト(リャンコ)とよばれるようになりました。そして公的な資料でそれらの島が日本領として認識されることはほとんどありませんでした。

(注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注2)下記(注3)より引用
  「聞ク 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ 鬱陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書往復ノ末 永ク証テ 我有トセサルヲ約シ 載テ両国ノ史ニ在リ 今 故ナク人ヲ遣テ コレヲ巡視セシム 此ヲ 他人ノ宝ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ 如此一挙ヨリシテ再ビ一隙ヲ開カンコト 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ・・・」
(注3)北沢正誠『竹島考證』明治14年、エムテイ出版(復刻版)1996
(注4)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

日本外務省内の混乱と結論2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/30 22:32 投稿番号: [1568 / 18519]
   さらに同じ発想で、古来の松島(竹島=独島)に関して「ホルトネットロックスノ我国に属スルハ各国ノ地図皆然リ」と書きましたが、その根拠たるや笑止ものです。それでも中には、わらをもつかむ思いか、この記述を特筆する人もいるようなので、引導を渡すつもりで特に渡邊の他愛もない根拠を一応は紹介しておきます。
   渡邊は外国の地図における色分けから松島、竹島および対馬の所属をまず一旦は下記のように理解しました。

1.英国の諸図
  対馬(朝鮮色)、松島・竹島(朝鮮色)
2.仏(フランス)
  対馬(朝鮮色)、松島・竹島(朝鮮色)
3.日耳曼ゴタ、スチーレルスノ図
  対馬(日本色)、松島・竹島(日本色)
4.ウアイマル地理局図
  対馬(日本色)、松島・竹島(朝鮮色)

   この時期、対馬を朝鮮領にみていた地図がイギリスやフランスで出回っていたとは意外でした。そのような不正確な地図を渡邊は逆手にとり、こう記しました(注3)。

  「英仏の対州(対馬)を合せて朝鮮色にせしは、対馬既に日本版図に相違なければ、したがいて松島 竹島も其の色を変ぜん。すなわちスチーレルノ図(ママ)はこの結果なるべし。いわんや、松島 竹島を以て伝う其の語は日本語なり。よって考うれば、この島は暗に日本所属と見なしたるべし」(現代かなづかいに変換)

   要するに渡邊の説は、英仏の地図は対馬や竹島 松島を朝鮮領と同色で塗っているが、対馬が日本領なので、対馬と同じ色の竹島 松島も日本領であるべきで、日本色に塗り直すべきだ、また、松島 竹島という日本語の島名が使われているので「暗に日本所属」というもので、思わず噴きだしてしまうような珍説です。川上は、渡邊の意見は「透徹・明晰であって、まさに正鵠を得ている」と激賞していますが、私はこれが本当に外務省の局長の「卓見」かと疑いたくなります。
   しかし、渡邊はさすがに自説が根拠薄弱と自認したのか「この島は暗に日本所属と見なしたるべし」と控えめな結論を書くにとどめました。そのうえで、事実を究明するために島根県等に問い合わせることと、艦船を派遣して現地調査することを提案しました。渡邊は「古今東西の記録、地理書、その他の資料に基づいて考証」しても、身近な島根県への問い合わせすら行わないで文章を書いたようです。

   他方、古来の松島(竹島=独島)の所属を朝鮮領と考える伝統は外務省をはじめとする明治政府内でもちろん生きつづけていました。それは、外務省係官の出張報告(1870)「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」や内務省ならびに太政官指令「竹島外一島」の放棄などにみることができます。こうした伝統にたってか、外務省公信局長・田邊太一はつぎのような意見書を提出しました(注2)。

  「聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮鬱陵島に属する于山である。于山が朝鮮に属するのは、旧政府(江戸幕府)のとき、葛藤を生じ、文書を往復した末に、永く公文書で我々は有しないと約束、記載した両国の史書にある」
(つづく)

日本外務省内の混乱と結論1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/30 22:30 投稿番号: [1567 / 18519]
   半月城です。
   RE:1564
>   そのとおり古来の松島(獨島)は、日本には全く関係の無い島であったわけです。
>   しかし、朝鮮国へ照会するという重要な手順を欠いた天城艦による「実地調査」で、「然ルトキ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ 古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」と云う突拍子もない「結論」を得ます。

   たしかに古来の松島(獨島)は、日本に関係のないことを明治政府の太政官も1877年に公式に確認しているくらいなので、前段の指摘には異論ありません。
   後段ですが、「松島開拓」問題の対象であった「今日の松島」が元禄時代の竹島(鬱陵島)であるという結論は、当時の外務省内の議論からみてそれほど唐突だったとは思われません。今回はそのあたりの事情をくわしく見ることにします

   1876年ころから外務省に申請された「松島開拓願」ですが、そこに記された「松島」の所在をめぐって外務省内では議論を呼び、数年間諸説ふんぷんでした。これは無理からぬことです。元禄時代の「竹島一件」以来、日本では90年近く松島、竹島の領有意識が失われ、渡航もほとんど途絶えてしまったので、島名の混乱はしかたなかったといえます。
   さて、かんかんがくがくの外務省の議論で「竹島日本領派」がつとにこだわっているのが記録局長・渡邊洪基の意見です。外務省の記録によると、ただひとり渡邊は竹島、松島を「暗に日本所属と見なしたるべし」と述べましたので、かれらが飛びつくのも無理からぬことです。同派の川上は渡邊の意見を下記のようにまとめました(注1)。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(1)古来わが国で「竹島」と称したのは、朝鮮の鬱陵島のことである。
(2)デラセ島(ダジュレー島)を松島としているが、それは本来の竹島であり、鬱陵島である。
(3)わが国で古来松島としているのは、ホルネットロックス(ホーネット・ロックス)のことである。
(4)ヨーロッパ人は、古来の竹島を松島となし、さらに烏有の島(アルゴナウト島)に対し竹島を想起したもののごとくである。
(5)ホルトネットロックス(古来の松島)がわが国に属していることは、各国のいずれの地図も一致している。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   渡邊は、古来の竹島はダジュレー島(鬱陵島)、古来の松島はホーネット・ロックス(竹島=独島)と正しく考えていたようでした。また、アルゴノートを烏有、すなわち架空の島であるとこれも正しくみていました。余談ですが、烏有の読みくだしは「いずくんぞ有らんや」で、存在しないという意味です。
   しかし、その渡邊も隠岐島の沖合にある島の数は、2島なのか3島なのか確信がもてずに「若(もし)竹島以外ニアル松島ナレバ我ニ属セザルヲ得ザルモ 之ヲ決論スル者無シ」と意見書に記すくらいでした(注3)。
   つまり、竹島(鬱陵島)以外に開拓願いにいう「松島」が別に存在するのなら、それは日本領であるべきだが、判断できる人が誰もいないとの意見でした。もちろん、実際はそのような島は存在しません。
   渡邊は、存在するのかどうかわからないけれど、もしあるならそれは日本領であると主張するあたりは帝国主義の官僚らしい発想といえます。
(つづく)

対馬もウリナラ固有の領土ニダ

投稿者: hennaojisan12345678 投稿日時: 2003/03/29 23:09 投稿番号: [1566 / 18519]
  |     ウリナラはいつの時代でも常に戦勝国ニダ!!マンセー!!!   |
  \                                          /
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           ∧ ∧∩      Λ_Λ       ∧__∧
           <`∀´>ノ     <丶`∀´>     <ヽ● ` ー ´ >
           (|    |       (      )     (       姦   )
          〜|    |       | |   |       \   /    /
           ∪ ∪       〈_フ__フ       〈_フ__フ
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=soci&cont=soci0&aid=20010 815215034400

>朝鮮の于山島であると回答された場合

投稿者: mikenekonomanma 投稿日時: 2003/03/27 00:48 投稿番号: [1565 / 18519]
はじめましてAm I AHOさま

お馬鹿なモノで横から失礼するのをお許し下さい.

朝鮮国へ照会した場合,返ってくる回答は「リアンコヲルトは即ち朝鮮の
獨島である」
ではないのですか?

朝鮮蔚陵島と半島の間にあった于山島を朝鮮国が現在の位置に再発見して
から獨島に名前が変わるまでどういった経緯があったのでしょうか?

私って馬鹿かなぁ

>島名の混乱と竹島=独島認識2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/03/26 21:43 投稿番号: [1564 / 18519]
  Am I AHOです

  貴台は相変わらず慎重ですね。
  要するに、日本政府は獨島の位置を知らなかったフリをしていただけです。
  それを明確にするためには、実地調査以前に一方の当事者である朝鮮国へ照会することが大事だと思いますが、その様な形跡は全く見られません。
  古来の松島の存在感が薄かったとは思えません。むしろ古来の松島(現獨島)を朝鮮から掠め取るために、敢えてリアンコヲルトは松島ではないとする事後解釈を捏造したわけです。
  日本政府が恐れたのは、朝鮮国へ照会し、リアンコヲルトは即ち古来の松島であり朝鮮の于山島であると回答された場合、リアンコヲルトを新発見の領土とする野望が断たれることです。
  実際、外務省公信局長の田邊太一が記したように、「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と云う認識を有していたわけです。
  そのとおり古来の松島(獨島)は、日本には全く関係の無い島であったわけです。
  しかし、朝鮮国へ照会するという重要な手順を欠いた天城艦による「実地調査」で、「然ルトキ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ 古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」と云う突拍子もない「結論」を得ます。
  このことが後日、リアンコヲルト(獨島)を新発見の領土と勘違いし(た振りをして)朝鮮からこっそり盗むという結果に繋がるわけです。

俺がやらなくて誰がやる!

投稿者: kunitaka_ 投稿日時: 2003/03/25 02:51 投稿番号: [1563 / 18519]
下記が、私がネットワーク関連書籍を書こうと思ったサイトを
管理している人からのメールです。

===========================

田中さん

はじめまして、「XXXネットワークXXXX」の管理者のXXXX ことXXと申します。

> 私も本を書きたいのですが、どのようにすればよいのでしょうか?
> 書いたものをただ出版社に持っていけば良いのでしょうか?
> 教えていただければ幸いに御座います。

私は出版社の方から直接、「本を書きませんか?」との提案をいただき
ました。書いたものをただ出版社に持っていくのは、最近では厳しいそ
うです。
インターネット上である程度のものを公開してから、まずこういうもの
が書けますということをアピールされた方がいいと思います。

参考になりましたでしょうか?

出版がうまくいくといいですね。

===========================
(注釈:個人保護の為名前は、XXXと伏字にしました)


扶桑社がダメだったら、次は自由国民社に出版依頼をします。
価格は消費税込みで950円だ!

ネットワークエンジニアとして、最低でもCCNP取得します。
(野心的に自分の所得を5年以内に2倍にします!)
一度きりしかない人生、自分も書籍を出版します。
(世に領土問題を知らしめ、返還を促進させる)
本日、地元消防団の分団長に入団届を出しました。
(↑マジ今日行ってきた。地域社会に貢献します。)

皆さんも、ネットで討論するだけでなく、実際に行動して下さい。
個人が「国家」とか考えると、大きすぎて力が及びませんが、
「地域社会」なら目に見える形で貢献できます。
消防団か青年団に入ることを強く勧めます。

「俺がやらなくて誰がやる!」By田中邦貴

ある活動家の末路

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/03/24 23:47 投稿番号: [1561 / 18519]
結論としては、

・竹島は李承晩の時代に韓国が不法占拠した日本の領土であり、

・過去に朝鮮が支配していたという確たる証拠は皆無

なので

・一部の活動家が政治的意図で史料の解釈をねじ曲げて、事実と異なる結論を出そうとしているだけ

なわけです。

その、活動家はネットなどを利用してプロパガンダ活動を継続しているわけですが、

・該当者の主張の内容については定評があり、現在では相応の評価を下されており、残念ながら該当者の意図する政治的な目的の達成は不可能である

と考えます。

ただ、日韓問題の真実について知識の不足している多くの日本人の為に、正しい知識を提供する必要はあると思います。

それにしてもスゴイこじつけ。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/24 18:44 投稿番号: [1560 / 18519]
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  李は、住民の話等から、于山島の名前を鬱陵島「近傍」の小島or鬱陵島本島として確認しました。
  晴れた日に登って、「鬱陵島近傍に島がないこと」を確認しました。つまり、輿地勝覧の言うところの于山島が、鬱陵島本島or近傍の小島の別名以外にあり得ないことを李は確認したのです。
  史実は「近傍の小島以外に輿地勝覧のいう于山島に該当する島はなかった」です。
  そしてこの結論(笑)↓

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。

理解不能

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/24 15:37 投稿番号: [1559 / 18519]
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ここで住民の話を整理してみよう。于山が島を指していることも明らかです。どう見ても、転んでも↓ですね。

<「中立」の視点>
鬱陵島近傍の小島の呼び名=竹(島)、松(島)、于山(島)

  しかし、半ケツさんにはこの住民の話が「鬱陵島、松竹島以外に于山島がある」と聞こえるらしい。(笑)
  この小島が、観音島を指すのか、松竹島と推定した小島(chukdoでしょう)を指すのかは不明です。しかし、松竹島及びこの小島が、鬱陵島の「近傍」であることには変わりがありません。

  そして李は律儀にも、王の三島説に起因する「近傍の小島以外の島」を確認するため、高台に登った。その結果が「ひとかけらの石も一握りの土もなかった。」です。そんな島は存在しなかった。済州の例えも入れて、「近傍の島以外の島」の存在をはっきりと否定しているのですね。

  何の具体的な記述をあげることなく、于山島の存在を認識していたと盲目的にとらえる人がいますが、それは半ケツ式の飛躍というものです。
  その論法を推し進めると、登ってまで確認し、「鬱陵島近傍の小島以外の島」の存在を否定し、出発前に認識していた松竹島を「一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」とした李の報告をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。

  もう一度書きます。史料には、李及び住民が鬱陵島「近傍」の小島又は鬱陵島本体以外に「芋山島」を推定した記述は一切ありません。
  この報告を受けた王が再度疑問や再調査を呈した史料がない限り、于山国(島)には「鬱陵島近傍以外に島はない」との李の報告に王も同意したと考えて差し支えないでしょう。

もっと変だな.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/24 07:56 投稿番号: [1558 / 18519]
考えてみれば,更に変だ.

>出発前に認識していた松竹島の存在

って,下記のことだけど,

>李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

という認識が,

>高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかった

ことと,そもそも矛盾するのか?距離は30数里(1.2km)の小島なら,
ちゃんと有るだろう.

>下条うんぬんといった

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/24 07:44 投稿番号: [1557 / 18519]
そこ,読み飛ばしていました.これですね↓

>なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。

まず,誰が「李奎遠は于山島の存在を認識していなかった」と
短絡的に捉えているのでしょうか.少なくとも僕はこの記述は
正しいと表明していますが.

更に,論理的におかしいのは下記ですね.

>その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。

上記の反論は背理法に依っていると思われますが,背理法が成り
立つためには,導き出される結論が明らかに「偽」である必要が
ある,と高校で習いました.

「李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまった」
という命題は,明らかな「偽」なんでしょうかね.

背理法の結論に議論の対象を持ってきてどうする.

校正やり直し.

> 『高宗実録』と鬱陵島検察の校正

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/24 01:34 投稿番号: [1556 / 18519]
何も変えてないじゃん。下条うんぬんといった理論にならない言い訳と国・島の話を追加しただけかな。まさに半ケツ式。

「自称」中立かつ、史料解釈能力があるけれども、見落としが玉に瑕のnochonggakkちゃんの意見が、重ね重ね聞きたいな〜。

これも反論しとこ.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/23 22:46 投稿番号: [1555 / 18519]
誰かJAVAで自動応答ソフト作ってくれないかなあ.

>その一方で明治政府はこれらの島、鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島)を日本領として認識することは一九〇五年までほとんどなかった。

嘘吐き.松嶋之議読んでるくせに.どうして鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島)を
同列に語るかな.

>然ルヲ洋客竹嶋ヲ認テ松嶋ト為シ更ニ竹嶋ナル者ヲ想起セシ者ノ如シ而テ此ホルネットロックスノ我国ニ属スルハ各国ノ地図皆然リ

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=911

師匠と一緒に自爆してみる?

>『高宗実録』と鬱陵島検察2(校正)

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/23 21:06 投稿番号: [1554 / 18519]
別に校正しなくてもいいんですけど.どうせ無駄だし.
どっちを半月城通信に掲載してもいいんですけど.
どうせ半月城通信だし.

でも反論はしておきます.あなたの投稿は放っておくと有害なので.

>すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

というからには,鬱陵−于山のケースと済州−耽羅のケースとでアナロジーが
成り立つ必要があります.判りやすく言うと,鬱陵−于山について述べた真の
命題の,鬱陵に済州を,于山に耽羅を代入しても真である,ということです.

代入してみましょう.

于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

代入 → 耽羅国=済州島+??島+耽羅島

????

耽羅国って,済州島と耽羅島(ともう一島)から構成されていたんですか?

正しいアナロジーは以下です.

耽羅国=済州島+近傍の小島
于山国=鬱陵島+近傍の小島


どちらの説の方が説得力が有るのかは,ROMの皆様に判断して頂きましょう.

島名の混乱と竹島=独島認識3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:22 投稿番号: [1553 / 18519]
  その一方で明治政府はこれらの島、鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島)を日本領として認識することは一九〇五年までほとんどなかった。それを物語るかのように、明治政府が国家事業として制作した地図は一八九四年に民間から『大日本管轄分地図』として発刊されたが、そこに両島は記載されなかった(25)。これは、島嶼など水路の測量を担当した海軍がリアンクール島などを日本領でなく朝鮮領として認識していたためであろう。
  海軍が同島の領有をどのように考えていたのかは、九二年以降発刊されるようになった海軍の『日本水路誌』『朝鮮水路誌』により知ることができる。堀によれば『日本水路誌』の扱う範囲は、日本の領土・領海に限定されていた。そこには九五年の下関条約による日本の新領土である台湾や澎湖島、さらには千島列島北端の占守島まで載せられているが、反面、台湾の対岸やカムチャッカ半島は全然含まれていない。また、リアンクール島にも全く触れていない。
  他方、海軍の『朝鮮水路誌』九四年版と九九年版には、鬱陵島と並んでリアンコールト列岩が載せられている。つまり、十九世紀末に日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領と認識していたことは、疑いのないところである(26)。

(20)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第二四号、一九八七年、一〇四頁
(21)川上健三、前掲書、一二頁
(22)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムティ出版、一九九六年、一九〇頁
(23)同右書、二五三頁
(24)同右書、二七三頁
(25)清水常太郎『大日本管轄分地圖』一八九四(影印版、日本地圖選集刊行委員會『大日本管轄分地圖』、人文社、一九九〇)
(26)堀和生、前掲稿、一〇六頁

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

島名の混乱と竹島=独島認識2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:21 投稿番号: [1552 / 18519]
  こうした島名の混乱が始まるなかで、鬱陵島開拓の目的で「松島開拓の議」「松島開拓願」などが外務省に、「竹島渡海之願」が東京府に七六年から七八年にかけて相次いで提出された。
  このなかで「松島」開拓願いを受けた外務省は、「松島」なる島の所在をめぐって混乱した。記録局長の渡邊洪基は「其松島『デラセ』嶋ナル者ハ本来ノ竹嶋即チ蔚陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名『ホル子ットロックス』ナルカ如シ」と述べ、開拓願いの松島は古来の竹島(鬱陵島)であり、古来の松島はホルネットロックス(竹島=独島)であろうと推測していた(22)。
  一方、公信局長の田邊太一は開拓願いの松島を「朝鮮ノ鬱陵島」と断定し、開拓願いに却下の意見を付した。ただし「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べ、古来の松島は鬱陵島付属の于山島であると理解していた。
  このように、外務省では古来の松島と開拓願いの松島をおおむね見分けていたようだが、誰も確信を持てない状況であった。それを明確にするために実地調査しようとする意見が根強くあった。しかし、これは朝鮮領を巡視することになり、外交上好ましくないとする田邊太一局長の次のような意見により一時保留となった。

  「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ 今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム 此ヲ他人ノ寳ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カン事 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ(23)」

  保留になった「松島」の実地調査は、やっと八〇年(明治十三)年になって軍艦天城を廻航して行われた。その結果「松島」は元禄時代の竹島、すなわち朝鮮の鬱陵島で日本の版図外であることが判明し、外務省はこう結論づけた。

  「明治十三年 天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ 其地ニ至リ 測量シ始テ松島ハ鬱陵島ニシテ 其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然タリ 然ルトキ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ 古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ(24)」

  報告書で竹島は鬱陵島近辺の「岩石」にされてしまったが、これを契機に日本では鬱陵島が公文書でも次第に松島と称されるようになった。それだけ古来の松島(竹島=独島)は存在感が薄かったのである。その結果、古来の松島は本来の島名を失ってしまい、かわりに欧米名そのままにリアンコールトあるいはリアンクール、リヤンコ、ホーネットなどと称されるようになった。
(つづく)

島名の混乱と竹島=独島認識1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:20 投稿番号: [1551 / 18519]
   半月城です。
   前回予告したように、今回は島名の混乱について書くことにします。これは、以前書いた竹島=独島問題レビューのつづきにあたります。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三   島名の混乱と「松島」開拓願い

  元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などをのぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混乱する事態に発展した。
  混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混乱をもたらした。
  正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。
  やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのである。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易ではなかった。

  アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシーボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルトの比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた(21)。
  一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フランスの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホーネットとかリアンコールト、リアンクール、リヤンコなどと呼ばれるようになった。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されることはなかった。

  こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネット 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまったが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空のアルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。
  そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空のアルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の『日本輿地路程全図』の系統によるものである。ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空のアルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指したり、鬱陵島を指したりした。
(つづく)

韓国が日本を侵略している

投稿者: lu5mf8vd7xw 投稿日時: 2003/03/22 18:05 投稿番号: [1550 / 18519]
竹島は日本の領土です。どんな経緯があるにしろ、これは国際法上正しいことです。

この日本の領土に対しての韓国の行為は侵略以外の何者でもありません。

けれども、日本人の多くはこの事実を知らないのです。政府やマスコミはもっと国民に知らせる義務があります。

国民の多くがこの事実を知り、世論が形成されるのを望みます。

『高宗実録』と鬱陵島検察3(校正)

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 21:00 投稿番号: [1549 / 18519]
   実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。

   他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました。その過程で李は島においてマジョリティである全羅道出身者と多数会ったり、日本人に遭遇したりしました。
   日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていました。
   鬱陵島が日本で松島と呼ばれるようになったいきさつは次回書くことにしますが、こうした日本のあからさまな侵入は朝鮮政府に数百年来の空島政策を転換させることになりました。それを堀氏はこう記しました(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   その(李奎遠の)報告に基づいて同年12月「鬱陵島開拓令」が出された。そして、同年まず島長が置かれ、移民入植政策が始められた。つまりここから、鬱陵島は単なる地図上の版図たるのみならず、朝鮮社会に実質的に組み込まれていくことになった。
   83年、金玉均が「東南諸島開拓使兼捕鯨事」に任命され、意欲的な同島開発策がたてられたが、これは彼の失脚によって実を結ばなかった。
   その後、同島の行政機構は何度か改編され95年に島長は島監と変わったが、その間の政府の賦税免除と移住奨励によって朝鮮人の人口は着々と増加した。そして1900年10月ついに鬱陵島は郡に昇格し、中央派遣の郡守が任命されたのである。
   このように、鬱陵島は80年代以降全く未開の状態から、次第にまとまった朝鮮人社会を形成しつつあった。しかし、行政機構が本土より格段に未整備であったため、日本の侵略をより早期にこうむることになったのである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   その後、鬱陵島が日本によっていかに侵略されていったかについてはおいおいと記すことにしますが、この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。これが朝鮮の後の行政に受けつがれましたが、その詳細はあらためて記すことにします。

(注1)『啓本書』
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據 又無觶導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱鬱陵 即如耽羅指稱濟州
(注2)堀和生「1905年日本の竹島編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1987,P97

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『高宗実録』と鬱陵島検察2(校正)

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 20:59 投稿番号: [1548 / 18519]
   王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを整理すると下記のようになります。
  王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
  李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島

   単に鬱陵島というと、鬱陵島本島をさす場合と于山島など付属の島を含めていう場合のふたとおりあったことがわかります。つまり、于山島と松竹島は鬱陵島の付属扱いにされる場合がありました。一方、松竹島の名が登場したのはこのときが官撰史料では初めてではないかと思われ注目されます。
   1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに于山はこう記されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを住民の伝聞という形で確認しました。王の3島認識は島に住む住民の証言で裏づけられたことになります。
   なお、文中に「耽羅」が登場しますが、済州島の別名である耽羅は高麗に吸収された耽羅国をさします。ここで注意すべきは、耽羅は国名であり島名ではありません。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ており、于山は鬱陵島の別名になりました。それらを整理すると、この時代の認識は下記のようになります。

  耽羅国=済州島+近傍の小島
  于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

   結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの踏査は行われず、その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のすぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の竹嶼島と混同しているのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
   なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。
   その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。
(つづく)

『高宗実録』と鬱陵島検察1(校正)

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 20:57 投稿番号: [1547 / 18519]
   半月城です。
  「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
   ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりました。今回はこれを取りあげることにします。
   1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しました。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記されました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策にかかわることであり、厳重に防がなければならない。将来、この事実を書契にしたため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにする。
   考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておくのはさみしいかぎりである。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきである。副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議するのはいかがであろうか。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この提案は承認され、検察使の李奎遠は王に召されましたことが『高宗実録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への提言を取り扱う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
   さて、李奎遠は鬱陵島へ出発する前に王と面談しましたが、そのときのようすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」

  李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

  王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」

  李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

『高宗実録』と鬱陵島検察の校正

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 20:53 投稿番号: [1546 / 18519]
   半月城です。私の書き込みに対していただいたコメントを参考に<『高宗実録』と鬱陵島検察>を校正しましたので以下にアップします。後日、こちらを半月城通信に転載します。

浦島太郎の感想

投稿者: nochonggakk 投稿日時: 2003/03/19 10:13 投稿番号: [1545 / 18519]
しばらく日本を離れているあいだに随分と話が展開していたので、なかなかフォローするのが大変ですね。
『日本海と竹島』は未入手ですが、例示された部分を読むだけでも、史料を読む訓練がされていないように感じます。2800円出して買うかどうか考えどころです。
前近代の鬱陵島については、李奎遠の「鬱陵島外図」を参照するのが良策だと考えます。私は鬱陵島には2回だけ渡航しました。といっても島に滞在したのは通算しても四泊だけですが。聖人峰の山頂にも行きましたが、別に登山用具を持参したわけでもなく、ジーンズにスニーカー履きでした。島の周囲を1時間ほどで巡る観光遊覧船が日に二回就航していて、これも二度乗船しました。海上から鬱陵島の周囲を眺めた感想は、李奎遠「鬱陵島外図」の様相がそのままに遺されているということです。ただ、とにかく島内の道路事情が悪いので島の周囲の海岸を徹底的に埋め立てて周回道路を建設中でしたから、遠からずそうした観察が出来なくなるものと思います。なお、鬱陵島にある独島博物館にも数回足を運び、学芸員の方とお話しをしましたが、展示の一部は歴史的事実とははなはだ相違が目立ち、残念でした。博物館とはいっても、サムスンかどこかの寄付で建設された民間施設でもあり、プロパガンダの役割をさほどでていないのではないかという懸念も感じました。ただ、近代史料の複製品(主として外務省外交史料館の史料・国会図書館の新聞史料)は大量に集められていて、執念だなあ、とも感じました。

>>成宗実録の解釈について

投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/03/18 11:20 投稿番号: [1544 / 18519]
レスありがとうございます

>正直、これ以上調べるには、現地に行くしかないという感想です(笑)

全く同感です。実は私も最近特に鬱陵島と竹島に行って自分の目でいろいろ確かめたくなってきました。また単純に鬱陵島って魅力ある島だなあ、なんて思ってます。

>私は西は泊まっただけで、望み見るにはかかってないと考えます。東に移動し、観音島付近から北から南へ一望したとの認識です。そうすると、順番が、中島の西の島だけ異なってきます。これは、他の島が目前に見えたが、西の島だけ奥まって見えたせいだと考えます。

なるほど、それも可能ですね、この辺の解釈は他の方の意見も参考にしたいですね

>   韓国のサイトをあれから調べたのですが、観音島を東からみた写真は確認できませんでした。観音窟という洞窟があるのは確認できましたが・・・。浸食を受けやすい地質なのでしょう

南に岩が無かったとしても、文章の記述順序がそこまで正確だったかという疑問もありますね

解釈の一説としては孔岩なんてのは?これはちょっと苦しいですか(笑

http://member.nifty.ne.jp/VEA02651/ullungdo_2.htm
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