竹島

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明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/20 13:53 投稿番号: [1580 / 18519]
   半月城です。

   battleaxe152000さん、RE:1578
>そもそも
>>『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』でリアンクール島を朝鮮領と認識していた
>↑こんな事実はありません。

   一体、何を根拠にこうも明白な誤りを書くのでしょうか?
   1894年に発刊された『朝鮮水路誌』には、鬱陵島とならんでリアンコールト(竹島=独島)が記載されました(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
リアンコールト列岩
  この列岩は、1849年 フランス船「リアンコールト」号はじめてこれを発見し、船名をとってリアンコールト列岩と名づく。
  その後、1854年 ロシア「フガレット」形鑑「パラス」号はこの列岩をメナヲイ及びヲリヴツア列岩と称し、1855年 イギリス鑑「ホルネット」号は、この列岩を探検してホルネット列島と名づけり。
   該艦長フォルシイスの言によれば、この列岩は北緯37度14分、東経131度55分の所に位する2坐の不毛岩嶼にして鳥糞つねに嶼上に堆積し、嶼色はために白し。しかして北西彳西至南東彳東の長さおよそ1カイリ、2嶼の間距離1/4カイリにして、見たるところ1礁脈ありてこれを連結す。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   同じ時期の『日本水路誌』第4巻(1897)に竹島=独島に該当する島の記述はありませんし、関係海図にも竹島=独島は記載されませんでした。それが一転して、日本の「竹島編入」(1905)以後に作成された関係海図(1907)には竹島=独島が記載されました。
   つまり 1894年当時、日本海軍は竹島=独島の存在を知っており、それを日本領ではなく朝鮮領と認識していたことは明らかです。
   なお、日本海軍の認識はそのまま日本国家の認識になります。というのも当時、明治政府が国家事業として行った日本地図作成において、島嶼など水路の測量は海軍が行いました。したがって、海軍が認識しなかった島は版図としての地図には記載されず、当然日本領とは認識されませんでした(注2)。
   ちなみに、明治時代の地図作成は国家事業として下記のようになされました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   民部省地理司は同省が四年(1871)7月に廃止されてからは、太政官地誌課となり、幕府の地誌課纂調方の業を継ぎ、諸国の資料を徴したが六年(1873)十一月内務省の設置にともないその地理寮となった。
   のちに地理局と改め十一年(1877)八月、岩崎教章の手になる図式記号を定めた測絵図譜を各府県に頒布し、民間の地図製作者もこれに倣うことを勧奨し、数多くの地誌・地図の編纂刊行を行なったが十六年(1883)六月に陸軍測量局に統合した。
   民部省と同時に設けられた兵部省は、五年(1872)二月に陸軍省と海軍省に分置され、海軍は水路の測量を、陸軍は陸地測量を行ない、ともに国防上の観点から国用地図の作成に任じ、参楳本部測量局は全国を覆う基本図として、十三年(1880)から関東地方二万分の一迅速測図の作製に着手し、内務省地理局の統合を得て二万分の一正式地形図の作製が始められた。
   二十一年(1888)五月陸軍測量部条例が公布され、測量局は参謀本部から分離し、陸地測量部として発足したが、二万分の一基本図の完成に要する時間と経費は、国際状勢の変化しつつあることからも許されぬとし、二十五年(1892)その縮尺を五万分の一に改めた。国土地理院が継承する、わたしたちに馴染探い五万分の一地図の誕生である。(注3)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
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