竹島

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明治期の鬱陵島侵略2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/05 11:27 投稿番号: [1572 / 18519]
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   現地の状況を調べるために、1900年6月には朝鮮内部視察官 禹用鼎と釜山領事館補 赤塚正助による合同出張調査まで行われた。それでも決着がつかなかったので、朝鮮政府は紛争の有無にかかわらず、条約に基づいて同島から日本人が退去するよう再度要求した。
   日本政府は、日本人の同島在留が条約規定外であることは認めつつも、また日本政府が直接に退去させねばならない責務もないと反駁した。そしてさらに、十数年来 日本人の同島在留を黙認してきたのは朝鮮政府の責任だとして、逆にその既成事実を認めて居住を公許するよう要求したのである。
   その後も、鬱陵島の紛争をめぐって、両国政府の応酬がくり返されていた。そこで1901年12月 林公使は紛争の頻発を逆手にとって、在留邦人取締りのためと称して、同島に日本人警察官を駐在させることを提案した。
   勿論、条約上では日本人警察官が常駐する権利などないが、朝鮮政府に同島の日本人を退去させる実力がないのだから、むしろ日本人警察官を派遣することによって現地の紛争を処理させようというものである。まさに盗人の論理であるが、紛争の頻発に窮していた朝鮮政府が積極的に反対できないうちに、日本側は強引にそれを実行にうつした。
   1902年3月、釜山領事館の日本人警部・巡査計4人が同島に派遣され、以後常駐するようになった。彼ら日本人警察官は、日本の諸法令に準拠して本邦人の保護取締をすると称していたが、武装した彼らが侵略の現場で如何なる役割を果たすかは明らかである。その警部の断片的な証言によっても、彼らが日本人の材木輸出を阻止しようとする郡守 沈興澤と対立し、それを押し切っているさまがうかがえる。
   そして、1904年には鬱陵島に日本の郵便受取所が設けられ、さらに同島と日本の境・浜田との航路さえ開かれていたのである。

   以上、日露戦争直前の段階において、日本政府の支援をうけた日本人勢力は、鬱陵島において既に強固な地位を獲得していた。日本人警察官に守られて、多数の日本人が公然と不法に居住し、材木を密輸出し、また密漁していたのである。
   要するに、鬱陵島は朝鮮の辺境であったが故に、本土より早期に、日本帝国主義によって主権を侵害され、支配されるにいたったのである(注2)。
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   この時期、帝国主義の侵略は「盗人の論理」に等しいのが常でした。日本は不法な日本人を退去させるどころか、乱暴狼藉の頻発を逆手にとって日本人警察官を強引に常駐させるまでになりました。
   こうして日本政府の積極的な後押しで鬱陵島への漁業が盛んになるや、その途中航路にあるリヤンコ島(竹島=独島)が注目されるようになりました。日露戦争直前になると、市場における油や皮革の高値相場から同島のアシカが注目されるようになり、ついには領土編入(1905)へとつながりました。

   他方、禹用鼎は調査後に詳細な報告書「鬱島記」(逸失)や『日本人事實』『本島等状』『監務報告』『日本人結幕人口成冊』『日本人犯斫槻木成冊』『本島人犯斫成冊』などを提出しました。これをもとに朝鮮政府は鬱陵島問題を本格的に検討し、官制を改革する官報(1900)を公告するのですが、これが今日の竹島=独島問題に重要な一石を投じました。これらの詳細はいずれ書くことにことにします。

(注1)『日本外交文書』第32巻、P287、明治31年9月16日鳥取県知事報告(1)「韓国鬱陵島々監 蠔季周提訴ノ件」
(注2)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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